神奈川ジュニアテニスサーキット1日目。
18歳以下男子の部では、128人のテニス選手がしのぎを削る。初日は2回戦まで行うことになり、勝てば明日も試合ができる。
春人と紅葉が会場入りしたのは10時30分を回った頃だった。
「ボス~、紅葉コーチ~、おはようございますっ!」
声のした方を見れば、 STCの面々が集まっていた。手を大きく上げた諭吉が特に目立つ。
「あいつ、ボスって呼ばれてるぞ」「なぜ、ボス……」「ボスって、なんだかちょっと笑える響きだね」「っていうか、あれって金山春人じゃないの?」
周囲の見知らぬ人たちがざわめきに揺れる。春人は諭吉に詰め寄って、小声で威嚇した。
「その呼び方は辞めろっての」
「えー、いいじゃないですか。それとも王子のほうがいいですか?」
「そっちで呼んだらテニスボールを口に突っ込むからなっ」
「じゃあ、やっぱりボスってことでっ」
「もう、それでいいわ」
悪気のない笑顔を振りまく諭吉を前に、春人は肩を落とすしかなかった。
王子なんて呼ばれた日には、寒気がしてインフルエンザにでもかかりそうだ。その呼び名は、ナツを抱えて救護室に運んだ後に諭吉が考えたものである。王子とボスなら、どっちがマシかは明らかだ。
STCの集団には、もちろんタクマや栄一郎もいた。タクマは隅でバックを枕がわりに寝ている。栄一郎は STCの面々と試合前の過ごし方について話していた。みんながあれこれ言うものだから、栄一郎が逆にわたわたしている。
「ハルちゃん!」
肩をぽんっと叩かれて、春人は振り返る。
「ん? ああ、ナツか。おはよーさん」
「おはようっ」
澄んだ瞳で見上げてくるナツがいて、少しだけ戸惑ってしまう。
「な、なんだよ。俺の顔になんかついてるのか?」
「いい顔をしてるなあって思ってねっ」ナツの声が陽気に弾む。「試合、楽しめるといいねっ」
「そうだな。とりあえず相手が誰だろうと、勝てるように全力を尽くしてくるわ」
もちろんタクマや荒谷などの強豪がいる大会で、容易に優勝できないことはわかっている。だけれど、自分は爽児に少しでも早く追いつかなきゃいけない。
負けて当然と思っている奴が、勝てるわけがないのだ。
そうなれば気持ち的には、全員倒して優勝をかっさらうぐらいじゃなきゃダメだろう。
「ん~? でも、ちょっと硬いかな? リラックス、リラックスっ!」
「なひふふんだほっ」
ナツに両頬を軽くつまれる。何するんだよという文句が上手く言葉にならない。
「勝っても負けても死ぬわけじゃないんだから、だいじょーぶだよっ」
「つーか、俺のことよりも、ナツは大丈夫なのか? お前、昔から1回戦が苦手だろ」
ナツは県大会レベルでは第1シードを余裕でとれるほど強い。それでも不安になることがあると春人はわかっていた。一見、お気楽で無敵っぽいナツだが、1回戦の前だけはプレッシャーがかかるのだ。
中学の試合ではどんな大会でも「1回戦だけは見に来てっ。お願いっ!」とよく頼まれたものだ。だから今日も応援に行くつもりだったのだが……。
春人はナツを観察して、おかしいなと首を捻った。目の前にいるナツは緊張の欠片もなくて、はつらつとしている。
「今日はとっても気持ちが落ち着いてるんだっ」
「じゃあ、1回戦の応援はなくてもいいってことだな。どっかで昼寝でもしてるか~」
「それとこれとは話が別だよっ! ちゃんと応援に来てよっ?」
「気が向いたら行ってやろう」
少し慌てるナツがいて、もっとからかいたくなる。だが、やりすぎると後がこわいのでやめておこう。
『63番丸尾くん、64番大林くん。6番コートに入ってください』
「うひゃああああああっ!」
長く尾を引く悲鳴が上がった。ふと見れば栄一郎が、両手で頭を抱えて右往左往している。
「どどどどど、どうしようっ!」
「アニキっ、とりあえずもうコートに行くしかありませんよ」
「じゃあ、行ってくるっ!」
「あ、ちょっと! カバンを忘れてますよっ」
階段を駆け下りようとする栄一郎がUターンして、諭吉からテニスバックを受け取る。
やれやれ、こりゃ少し声でもかけた方がいいな。そう思っていたら、春人よりも先に近づくタクマがいた。ポケットに手を突っ込んで、気だるそうに歩いている。
何を思ったか足を大きく振り上げて、栄一郎の脳天に踵を落とした。
「んぎっ!?」
痛そうな音と共に、栄一郎が崩れ落ちる。倒れてぴくぴくと痙攣しているが、生きてるよな?
「なにするんですかっ!」
飛び起きた栄一郎が振り返って抗議する。そこで始めてタクマに蹴られたとわかったらしい。驚いた表情で動きを止めた。
「慌てなきゃなんねえほど、できることなんてねえだろうが。さっさと行けよ」
「は、はいっ。行ってきますっ!」
冷静さを取り戻した栄一郎が、表情に決意を宿した。
タクマって意外と後輩思いなんだなあと思い、ニマニマしてしまう春人であった。
☆ ☆ ☆
栄一郎の相手は大林良という金髪の男だ。第5シードでサーブ&ボレーを得意とする選手のようである。
「1セットマッチ。大林サービス。プレイっ!」
フェンス越しでかなり離れているが、栄一郎の心臓の音がここまで聞こえてきそうだと春人は思った。
「エーちゃん、勝てるかな?」
「可能性は低いだろ。相手は第5シードだしなあ」
我が子の発表会を見守る母親みたいなナツが、心配そうに尋ねてくる。
「ハッ!」
大林が気合を乗せて思い切りラケットを振り抜いた。サーブ&ボレーヤーらしい、強烈なフラットサーブ。栄一郎の足が、ふっと動く。
「でも、勝負に絶対はないから……、可能性はゼロじゃない」
栄一郎の流れるようなスイングで返った打球が、大林の左を抜けて相手コートに突き刺さる。
「0-15」
審判のコールに、観客の動揺が広がっていく。
「リターンエースだぞ」「うそだろ?」「サーブもすげえのに」「いや、リターンが上回ってんだよ」「マグレじゃねえの」「ラッキーだけで返せる球じゃないよね……」
ざわついてる人達の中でも、一番に不可解な顔をしてるのは栄一郎なのだから面白い。
大林の鋭い打球を、栄一郎はバックハンドで迎え撃つ。クロス方向へ弾き返し、逆をつかれた大林が無理に手を伸ばすが、ボールは無常にもラケットの横をすり抜けていく。
またもやリターンエースである。
「0-30」
この連続ポイントは、決してマグレなんかじゃない。
タクマとのサーブ勝負以降も、リターンの反復練習を欠かさずに栄一郎は続けていた。もはや意識せずとも反応するレベルで、理想のリターンをエーちゃんの身体が覚えているのだろう。
しかも、フラットサーブに関しては高校屈指のタクマの打球が基準となっている。大林の球も速いが、タクマと比べれば確実に劣る。
では、フラットサーブ以外ではどうか?
大林がトスを今までよりも少し後ろ目にあげた。おそらく狙いはスピンサーブ。
外野にいる春人でもパッと見でわかる違和感を、目が良い栄一郎が逃すはずもない。
スピンサーブ。地面に当たってから、高く跳ねる軌道を描くサーブだ。普段通りのスイングでは打ち損じることもある。
栄一郎のテイクバックは高めだ。スピン回転のボールがセンターライン近くを弾む。そのタイミングで栄一郎は冷静に叩き返す。
「0-40」
よっしゃと春人は拳を握り締める。
フラットサーブ以外のリターンも、栄一郎は十分なほどに訓練してきている。お互いの休みがあえば、春人が打つサーブを栄一郎が返す練習をしていたのだ。休憩もそこそこに、何時間もぶっ続けで。
「ゲーム丸尾 1-0」
栄一郎の目の良さと実戦経験をつんだリターンは、もはや武器となりつつある。
「すげえっ、あいつ大林を相手にブレイクしやがったっ!」
「あいつは誰だよ!」
「STCの丸尾栄一郎だってよ」
周囲の驚愕など聞こえないほどに、栄一郎はそわそわと落ち着きがない。
「すごいねっ! 私が思ってたより、全然成長が早いよっ。これならやっぱりシード選手敗れるかも。そしたら一気に有名人だねっ」
「取らぬ狸のなんとやら。そりゃ気が早すぎるぞ」
はしゃぐナツの隣で、春人はどこまでも冷静に分析する。
「このサーブゲーム次第ではありえるでしょ?」
「あー、むりむり。このゲームは十中八九ブレイクされるな。だって、ほら――」
ぽむん、っと随分可愛らしい音がした。栄一郎の元を離れていくボールは、ひょろひょろと緩く飛んでいき、準備万端な大林に迎えられる。
今までの鬱憤を解き放ったような、豪快なスイング。ベースライン上を必死に駆ける栄一郎だが、まったくボールに手が届かない。
信じられないものを見たと言わんばかりに、ナツは口をぽかんと開けていた。
「リターンは相手の球威を利用できるけど、サーブはそうもいかないんだよなあ。しかも相手は第5シードだぞ。これじゃあサーブゲームはとれないだろ」
面白いように大林にポイントが入っていき、
「ゲーム大林 1-1」
ここからはまた栄一郎のリターンである。問題はここから、大林がどういう戦略をとってくるか。速い球ならリターンゲームはどうにかなるだろう。だが、球の勢いを殺してくるならば――。
大林はサーブで半円を描く緩い球を打ってきた。
「よしっ、チャンスだよっ! いけえっ!」
ナツの声援を受けながら、栄一郎が遅い球を全力で打ち返す。会心の当たりのように見えて、しかし返球は相変わらず遅かった。チャンスボールを逃すわけもなく、大林にまたポイントが入る。
大林は栄一郎の弱点をしっかり見抜いたようだった。
つまりは栄一郎はまだ自分の力をスイングで、効率的にボールへ伝えられないことがバレたのだろう。
「ゲーム大林リード 2-1。チェンジコートっ」
「ちょっとハルちゃんっ、どうしようっ」
「急に打ち方が上手くなるわけでもないし、技術で挑むのは分が悪いよなあ。つーか、ナツさん酔うからやめてもらっていいですか」
ナツが春人の襟首を掴んで前後に揺らしてくる。
技術じゃ大林に勝ち目はない。だけど、それ以外で栄一郎が優っているものがある。それに気づければ、もう少し戦える可能性が生まれる。
3ゲーム目終了時のチェンジコートは90秒の休憩がある。栄一郎はベンチに腰を掛けて、ノートと睨めっこしていた。ゲーム中の展開をまとめたり、過去に学んだ基礎の復習をしているところか。
だが、おそらく大林と戦えるヒントは、まだノートの中に集まっていないだろう。
栄一郎がノートから目を離した。その時に、たまたまか春人と視線が交錯する。春人は口を大きく開いて、口パクでエールを送った。
あ・い・て・を・よ・く・み・ろ。
最後に大林を指でビシッと示すと、栄一郎の視線も釣られてそちらへ向いた。しばらく動かないところをみると、伝えた意味を考えているようだった。
栄一郎にサーブ権がある4ゲーム目が始まった。
サーブゲームでは相変わらず分が悪い。だが、徐々に栄一郎の動きに変化が見られてくる。
さっきまでの栄一郎は、「グッと構えて、サッと引いて、スパーンで打つ」とか考えていそうな、自分の内にあるものと向き合うテニスをしている雰囲気があった。だが、この状況で1つ1つの動作を考えながら動くようでは、相手の真剣な打球に振り回されるばかりだ。
こうなったら視点を変えるしかない。すなわち大林良と向き合うということ。フォーム、グリップの握り、スイング。情報を1つでも多く集める。
大林の動きを予測できるように。
栄一郎の眼の力なら、それが可能なはず。
もちろん容易ではないが、その眼の使い方はタクマとのサーブ対決をした時、すでにやっていたこと。
最初こそ大林の動きに反応できなくても、塵も積もれば山となる。敗北までの4ゲーム内に栄一郎の予測という武器が間に合うだろうか。
☆ ☆ ☆
夏の日差しが、肌をじりじりと焦がしていく。
大林リード4-1で迎えた6ゲーム目。栄一郎のサービスだ。緩いサーブがセンターライン寄りにボールを運ぶ。
対して大林のリターンは回転をかけて打ち返してきた。コートを跳ねて、ボールが外へと逃げていく。多くの人間が取れないと思っただろう球に、栄一郎が下唇を噛み締めながら追いつく。
体勢を崩しながらも栄一郎はラケットを振るう。ぽむっ、と拍子抜けの音がした。
それでも相手のコートへ、ふらふらとたどり着こうとするボール。栄一郎は体勢を立て直す。
大林が駆け込んで、ラケットをテイクバックした。
瞬間、大林のスイングが終わる前に栄一郎は地面を蹴って左へと動いた。
ボールは磁力で引き寄せられるように栄一郎の元へ。
栄一郎はその球を返した。叩くというよりも、ラケットの面に当たっただけの弱々しい打球が、大林の右側へと逃げていく。
「15-0」
それは栄一郎のサービスで、始めてとったポイントだった。
ギャラリーは沸き立ち、興奮したナツもフェンスを強く握り締めていた。
「い、いま、ボールが返ってくるよりも早くエーちゃんが動いてなかった?」
「俺にもそう見えたよ」
ナツの驚きの声に、うなずいて春人は同意する。
栄一郎のサービスは続く。15-15、15-30、30-30とポイントが動いていき、
「40-30」
「これは偶然じゃないな……」
大林を見続けることで予測が可能となりつつある栄一郎は、その反応の良さを頼り動き出しを早くして、どうにか相手の球を拾い続けているのだ。身体に乳酸が溜まって、息も絶え絶えだというのに、大林の3倍は走り回っている。
栄一郎が決めなくても、大林が根負けしてボールがラインを割る場面も増えてきた。
「ゲーム大林リード4-2」
その時、ゲームの流れは大きく変わろうとしていた。
『49番子安くん、50番金山くん。1番コートに入ってください』
スピーカーから流れてくる音声に、春人はため息をついた。
残念なことに呼び出されてしまった。栄一郎の試合を見届けられないのが心残りだった。
「ハルちゃんの出番だね。さあ、行こうよ」
「なんだよ? エーちゃんのこと最後までみてやらなくていいのか?」
「うん。エーちゃんも気になるけど……。ハルちゃんの大切な日を見逃すわけにはいかないもん」
「……さんきゅーな」
春人は栄一郎を一瞥してから、内心で頑張れよとエールを送った。
読んでくれた皆様、今日もありがとうございます。
ついにちゃんとした試合らしい内容になってきました。
テニス用語を調べながら書いてるので、変なところがあったら申し訳ないです。
何か気づいたことがあればなおさせていただきますので、教えていただければと思います。
エーちゃんの勝敗と共に、次回は春人の試合風景の予定です。
そんなわけで今日はこのあたりで失礼します。
またお会いできると嬉しいです!
ではではー(^^)/