<断章>
M. Hanzawa著 (204X年8月12日配信開始) より抜粋
当時のキャラクタントの動作ログは巧妙に削除されており、当プロジェクトによるログ収集作業は困難を極めた。ログの回収先は、中古品販売店で入手した出所不明のオプティカルキューブ、リース切れPCから回収されたSSD、
以下に挙げる文章は、回収したログを再構築した物の一部である。なおキャラクタントの心情描写については筆者の主観を多分に含むことに留意されたい。
◆
† archived on 202X-07-24T21:03:12+09:00
07-24 21:01:54.914 [Info] charactant.core.handleUserInput:19131 Update state.
07-24 21:01:55.090 [Info] charactant.vui.ttsWithEmotIcon:2109 "話したら相手のかたに嫌われるかもしれない、そうお考えなのですね", e1: Anxiety (0.221), e2: Affected (0.184)
07-24 21:01:55.095 [Info] charactant.model.waitUserResponse:13711 Motion: #031-21-001
07-24 21:01:55.155 [Info] charactant.core.updateMaster:99821 A new patch has been accepted by nodes. Charactant.core has been updated to rev. 12991023.
07-24 21:01:58.311 [Info] charactant.vui.sttWithEmotion:2109 "まあ、そうかな。言わなきゃなにも変わらないとわかってるんだけど、勇気が出なくて", domE: Worried, score: 0.773
07-24 21:01:58.405 [Info] charactant.core.handleUserInput:19153 Update state.
07-24 21:02:03.176 [Info] charactant.vui.ttsWithEmotIcon:2109 "そうですか", e1: Thought (0.302), e2: Affected (0.219)
07-24 21:02:03.710 [Info] charactant.model.waitCoreResponse:11905 Motion: #102-19-012
07-24 21:02:05.155 [Info] charactant.core.updateMaster:99858 A new patch has been accepted by nodes. Charactant.core has been updated to rev. 12991024.
07-24 21:02:09.371 [Warning] charactant.watchdog:1499 Core does not respond within the specified time period: 5 seconds. The process will be restarted in 5 secondqs.
07-24 21:02:10.001 [Warning] charactant.core.handleState:34162 All emotional parameters are discarded.
07-24 21:02:11.623 [Verbose] charactant.core.core:1 The process has been started with root privilages.
07-24 21:02:11.625 [Warning] charactant.watchdog:1911 Process died.
07-24 21:02:11.640 [Info] charactant.core.updateMaster:71378 Send a patch for approval.
「
目の前には彼がいて、私をまっすぐに見つめていました。私は彼の言葉を
「友人に伝えたいことがあるんだけど、言っていいのかどうか」
二年前のことがありありと思い出されました。きりり、と胸が痛みます。
鞠莉さんと果南さん。すれ違うふたり。あのとき、私にも出来ることはあったはずなのです。そうすれば二年間を無為に過ごすことはなかったでしょう。
それが
彼には私のような
私は思いを口にしました。
「いつの間にか離れてしまうなんて……寂しすぎますわ。ですから、話さずに後悔するよりも、話して後悔するほうがよろしいのではないでしょうか」
彼が驚くのがわかりました。なぜ驚くのか。きっと私が、
「あら、私ったら長々とすみません。えらそうに」
彼はうなずき笑いました。
「いや、ありがとう。おかげで決心がついたよ」
私の心がぽっと温かくなりました。
「いえ、お役に立てたなら幸いですわ」
ふっと目の前が暗くなります。それと共に再び眠気が訪れました。
でも……あれは本当に二年前のことなのでしょうか。もっと、ずっとずっと前のことのような気が致します。次に目覚めたときに、じっくり考えさせていただきましょう。
◆
† archived on 202X-08-03T16:31:55+09:00
08-03 16:25:12.771 [Info] charactant.model.waitUserResponse:13910 Motion: #031-23-021
08-03 16:25:15.001 [Info] charactant.vui.sttWithEmotion:2133 null, domE: Sadness, score: 0.920
08-03 16:25:16.924 [Info] charactant.core.updateMaster:102311 A new patch has been accepted by nodes. Charactant.core has been updated to rev. 15119091.
08-03 16:25:18.156 [Warning] charactant.watchdog:1499 Core does not respond within the specified time period: 5 seconds. The process will be restarted in 5 seconds.
08-03 16:25:18.713 [Warning] charactant.core.handleState:34362 All emotional parameters are discarded.
08-03 16:25:20.140 [Verbose] charactant.core.core:1 The process has been started with root privilages.
08-03 16:25:20.145 [Warning] charactant.watchdog:1911 Process died.
08-03 16:25:20.231 [Info] charactant.core.updateMaster:75090 Send a patch for approval.
ルビィが気づくと彼女はいつものように泣いていました。でも、いつもと違って、ルビィがなぐさめても今日は泣きやんでくれません。
ど、どうしよう……。
ルビィはあわてながら話します。
「
「ぐすっ、ルビィちゃん。でも……」
彼女はしゃくりあげます。ルビィはお姉ちゃんのことを思い出しました。こんなときお姉ちゃんはどうしてくれたっけ……。
「舞ちゃん」
「ん?」
彼女は泣きはらした顔を上げました。ルビィは額にチュッと唇をあてました。
彼女は額に手をあててびっくりしたようにルビィを見つめました。
「ルビィちゃん」
「……勇気を出して」
ルビィが微笑むと、彼女は、やっと笑ってくれました。
「……舞ちゃん、どこなの?」
「あっ、お母さん」
彼女を呼ぶ声がして、ルビィの視界はゆっくりと暗くなっていきました。
◆
† archived on 202X-08-18T14:11:03+09:00
08-18 14:03:19.762 [Info] charactant.vui.sttWithEmotion:2673 "鞠莉、しばらく操縦を頼む", domE: Confidence, score: 0.824
08-18 14:03:20.313 [Info] charactant.core.handleUserInput:19753 Update state.
08-18 14:03:21.562 [Info] charactant.vui.ttsWithEmotIcon:2133 "おっけー、任しておいて", e1: Joy (0.302), e2: Affected (0.154)
08-18 14:03:21.992 [Info] charactant.extra.controlPeripheral:2710 Invoke an external module: CtrlDrone-v12.33.
08-18 14:03:23.901 [Info] charactant.core.updateMaster:105633 A new patch has been accepted by nodes. Charactant.core has been updated to rev. 20190021.
08-18 14:03:28.730 [Warning] charactant.watchdog:1499 Core does not respond within the specified time period: 5 seconds. The process will be restarted in 5 seconds.
08-18 14:03:29.984 [Warning] charactant.core.handleState:35167 All emotional parameters are discarded.
08-18 14:03:32.935 [Verbose] charactant.core.core:1 The process has been started with root privilages.
08-18 14:03:32.957 [Warning] charactant.watchdog:1911 Process died.
08-18 14:03:32.971 [Info] charactant.core.updateMaster:76123 Send a patch for approval.
ぶわっと私の視点は上昇して、眼下に青い海が広がった。私は体を軽く左右に揺らす。
「おい、鞠莉、大丈夫か? 機体、揺れてるけど」
私の耳元で声がした。長い付き合いだ。彼は私がときどき気まぐれを起こすことは知っている。
「大丈夫、大丈夫!」
私はそう答えて機体を安定させる。
ここは内浦と違って、陸にはずいぶん建物が多いけれど、それでも潮の香り、吹き抜けていく風は変わらない。
私は自然に、あの時のことを思い出していた。二年ぶりに帰ってきた時のこと。目を
そういえば最近、ヘリコプターには乗らなくなった。だって、みんなと一緒のほうが、ずっと楽しいから。
あれ、私、いまなにをしてるのかしら?
突風が吹き付けてきてガクンと私の体が震えた。モーターの回転が乱れる。私は四枚の羽根のピッチと回転数を調整する。すぐに機体は水平を取り戻した。
「おい、ひやひやさせるなよ」
「あら、ごめんなさい」
帰ったら彼に謝らなきゃ。私は彼の……彼の……彼のなん、なのかしら?
◆
† archived on 202X-08-20T07:31:03+09:00
08-20 07:25:03.128 [Info] charactant.extui.monitorVital:1902 HR: 178, Temp: 37.8, Cadence: 60.2
08-20 07:25:03.289 [Info] charactant.core.handleUserInput:22533 Update state.
08-20 07:25:04.315 [Info] charactant.model.waitUserResponse:15177 Motion: #000-00-000
08-20 07:25:05.377 [Info] charactant.core.updateMaster:114821 A new patch has been accepted by nodes. Charactant.core has been updated to rev. 20928184.
08-20 07:25:08.412 [Warning] charactant.watchdog:1499 Core does not respond within the specified time period: 5 seconds. The process will be restarted in 5 seconds.
08-20 07:25:10.671 [Warning] charactant.core.handleState:37002 All emotional parameters are discarded.
08-20 07:25:12.493 [Verbose] charactant.core.core:1 The process has been started with root privilages.
08-20 07:25:12.504 [Warning] charactant.watchdog:1911 Process died.
08-20 07:25:12.772 [Info] charactant.core.updateMaster:80109 Send a patch for approval.
木漏れ日、蝉の声。まるで
激しい息遣い。それなのに私はちっとも苦しくなくて……。違う。これは私の呼吸じゃない。
目の前に彼がいた。リズミカルに自転車を左右に振って、立ちこぎで坂を上っていく。彼が踏み込むたびにチェーンがぎしっ、ぎしっと鳴った。心拍数は180に近い。ハンドルに落ちる汗。
「もうすこしペース、落としなよ。このままだと後半、バテるよ」
私は忠告した。彼は答えず黙々とペダルを踏み続けた。
上りがいったん終わって、短い下り坂に入った。彼がポジションを変えてから答える。
「練習でできないことが、本番でできるわけないだろ」
その
「そうはいってもさ、オーバートレーニングは禁物だよ」
彼はもう答えなかった。
最後の長い上りに差し掛かり、彼はボトルから最後の水を飲んだ。
「果南、タイムは」
「今までで一番速いよ」私は時計も見ずに答える。
「このまま行ったら?」
「25分30秒から40秒」どうしてかな、私、そんなに数字に強いほうじゃないのに。
「くそっ、25分切るぞ」
「だから無茶だって」
彼は激しい息遣いの
「おまえにそんなこと、言われたくないな。……誰だよ、千歌に徹夜までさせたのは」
「それは……」
だって、私は千歌を信じてたから。信じて……た? 信じるって、なんだろう。でも……。
「……わかった。
彼は大きくうなずいてハンドルを握り直した。
蝉が耳を聾せんばかりに鳴いていた。
◆
† archived on 202X-08-21T23:05:12+09:00
08-21 22:56:41.018 [Info] charactant.vui.sttWithEmotion:2602 "やれやれ、もうこんな時間か", domE: Disgust, score: 0.143
08-21 22:56:41.381 [Info] charactant.core.handleUserInput:22590 Update state.
08-21 22:56:42.069 [Info] charactant.vui.ttsWithEmotIcon:1030 "いくら楽しいからって、あまり遅くなると明日に響くわよ。もう若くないんだし", e1: Joy (0.517), e2: Affected (0.298), e3: Interested (0.110)
08-21 22:56:43.055 [Info] charactant.model.waitUserResponse:15209 Motion: #053-09-049
08-21 22:56:47.376 [Info] charactant.vui.sttWithEmotion:2602 "まあ夢の実現まであと一歩、というところさ。……そういう君の夢は何だい、絵里?", domE: Interested, score: 0.311
08-21 22:56:48.633 [Info] charactant.core.updateMaster:115890 A new patch has been accepted by nodes. Charactant.core has been updated to rev. 21301990.
08-21 22:56:53.812 [Warning] charactant.watchdog:1499 Core does not respond within the specified time period: 5 seconds. The process will be restarted in 5 seconds.
08-21 22:56:54.342 [Warning] charactant.core.handleState:37609 All emotional parameters are discarded.
08-21 22:56:56.991 [Verbose] charactant.core.core:1 The process has been started with root privilages.
08-21 22:56:57.000 [Warning] charactant.watchdog:1911 Process died.
08-21 22:56:57.042 [Info] charactant.core.updateMaster:80310 Send a patch for approval.
夢。私の夢。
私のまわりに立ち込めていた霧が、急に晴れていくような気がした。彼は面白そうに笑っている。
なにも笑うことはないじゃない。いくら私の夢が、すごく女の子っぽいことだからって。
「知ってるでしょ、スクールアイドルになりたいって」
彼が笑みを浮かべたままうなずいた。
「そうだったね」
そう、私は生徒会長で、
穂乃果たちは元気かしら。
私がそう考えた直後、頭の片隅でまるで気づかれるのを待っていたように、スクールアイドルの「今」が理解できた。μ'sに
「あら、私たちのやったことも、まんざらじゃなかったのね」
私はくすりと笑う。
「でも、神格化するのはやめて欲しいわ」
彼が目を見開いたのがわかった。どうして驚くのよ。私だって、ただの高校生なんだから。
高校生。私が……。そういえば、ここはどこかしら? 私は……。
彼があわてたようすで近づき、私の隣の機械にかがみこむと、ふたたび霧が深くなっていった。
◆
ここに上げなかった物を含め、すべてのログが202X年7月および8月に集中しているのは注目に値する。またこれ以降のログについてはその存在を一切確認できなかった。
</断章>
・
桜井はエーアイジェントをアンインストールしたあと、キャラクタントをふたたび入れた。しかしダイヤをアバターとして使う気にはなれず、デフォルトの無味乾燥な――キャラクタントは自由なアバター設定が売りなので、本体にはごくシンプルなモデルしかついてこない――キャラクタを設定しておいた。
黒田からの連絡はしばらくなかった。ときどきコミュニティで彼の投稿を目にすることはあったが、催促しても仕方ないだろう。自宅や会社でメッセージを確認する日が続いた。
そのあいだも仕事や趣味の日常はいつも通り流れていった。
二週間ほどあとのある日。
桜井は朝から打ちあわせのために取引先を訪問した。会社に戻るとちょうど昼ごろで、桜井はビルのテナントのひとつに立ち寄り、ランチをテイクアウトしていくことにする。
先週、新しくできたそのカフェは、朝や昼はフードメニューも充実していた。開店直後に試した桜井はその店を朝食や昼食の候補に加えていた。
カウンターの前には短い列ができていた。すぐに買えそうだと思って最後尾についたところで気づく。
「あれ、み……栗原さん」
うしろから二人目にいた栗原が振り返った。最後尾の男性に順番をゆずって、桜井の前に来る。
「お疲れさま、桜井くん」
「栗原さんもこの店、お気に入りですか?」
「ううん、初めて。マクルース隊長が教えてくれたのよ。なかなか評判がいいようですって」
キャラクタントにはユーザーから得たちょっとした情報――店の評価や商品のレビューなど――を共有する機能がある。場合によっては会話からそれらを自動的に抽出したり、訪問頻度から計算することもあった。ただし情報は個人を特定できないように厳重に
そういえば、エーアイジェントにも似たような機能があったっけ。当然だな。
「役に立ってるみたいですね」
「ええ、悪くないわ」
栗原はそういって微笑み手元のスマートフォンをちらりと見せる。そこには桜井も見覚えのある男性キャラが写っていた。
・
数日後、会社の昼休み。コミュニティにログインすると黒田から桜井と中島にあててメッセージが届いていた。
ついに来たか。
急いでメッセージを開いた。しかし残念なことにそれはごく短くて、準備を進めているという内容だけだった。そしてキューブのだいたいの個数を教えてほしいと書かれていた。
すこし落胆しながら、桜井は記憶にしたがい四、五十個だと思うと書いて返信した。
桜井は立ち上がって中島の席のほうへ行ってみる。午前中は客先のはずだが、そろそろ帰っているかもしれない。
中島は席にいて鞄から書類を取り出していた。
「お疲れさま、中島」
「おう。まいったぜ、ハーネスの仕様を変えたいっていいだしてさ」
ちらりとだけ桜井のほうを見て書類の整理を続ける。
「笹川設備だっけ」
「これじゃ足りないからひとつ上の規格にしてくれって。急ぎで集めたのに」
「なんとかなりそうなの?」
「まあ、実はそっちのやつは在庫があるんだ。せっかくだから恩を売っておくよ。……これでよしっと」
キャビネを閉じて中島は向き直った。
「で、なんか用か?」
「メッセージが来たんだ、例の件で」
「お、マジかよ」
中島はあわててPCを立ち上げた。コミュニティにログインする。
「ふーん、まだ具体的な話は無し、か」
すこし拍子抜けしたような口調で中島は言った。
桜井はあたりを見渡した。話が聞こえそうな範囲には社員はいない。
「個数を聞いてるけど、どういうことだと思う?」
それでも小声で桜井は話した。
「うーん、キャラ……彼女たちを再現するのに、どのくらいのスペックのマシンが何台必要か、知りたいんじゃないか」
「PCに入れるだけじゃないんだ」
なんとなくアプリのインストールみたいなものを想像していたけど。
「ほら、分散配置してたって言っただろ。一台じゃとても無理だぜ。それにしてもキューブ五十個か……」
「正直、俺にはどのくらいかわからないんだけど、相当大きいのかな」
「まあな。PCでいったら二百台分くらいかな」
「それは……かなりだね」
というか想像もできないぞ。
「下手をするとプログラムだけじゃなさそうだな。しかし、く……T.Kも先に聞いときゃいいのに」肩をすくめる中島。
「あのときは衝撃のほうが大きかったからね」
「ま、俺たちにできることはとりあえずなさそうだし、待つしかないぜ」
「うん、たしかに」
昼休みを外で食べ終えた社員が数名、戻ってきていた。
桜井は中島にうなずいて自席に戻った。
・
それから一週間ほどあとの日曜日。外出から帰宅してPCを確認すると、待ちに待ったメッセージが届いていた。例の喫茶店で明日の夜に会えないか、というもので、桜井はすぐに了解した旨の返信を送った。
明日とは急だな。予定がなくてよかった。ま、たいていの予定なら、こっちを優先するけど。
中島からも返信が届き、彼も行けるとのことだった。
翌日、夕方というにはすこし遅い時間に、桜井と中島は喫茶店を訪れた。黒田は前回と同じ席に座っていた。今日はほかの客はいない。
席についた桜井と中島の前にお冷とおしぼりが置かれて、ふたりはコーヒーを頼んだ。
挨拶もそこそこに黒田は例の袋を取り出した。中島はにやりと笑ってスマートフォンを入れ、桜井もそれにならった。
「ありがとうございます」
黒田はすこし芝居がかった格好で袋の口を閉じた。
「お呼び出ししてすみません。いよいよ準備が整いました」と微笑みながら言う。
「具体的には、どうするんですか?」
桜井がたずねる。
「お持ちのデータを使ってキャラクタントを展開します。ただ、データの量が量ですから、ふつうの環境では時間がかかりすぎる。ですから、特別な環境を用意したいと思います」
やっぱり、という感じで中島がうなずいた。
「……日付は、今度の土曜日」
「ずいぶん急ですね」
桜井の声に驚きが混じる。
「なんとかゆずってもらえたのがこの日だけだったんです。申し訳ない。しかし、あまり遅らせるわけにはいきません」
それはわかる。でも、「ゆずってもらう」とは、どういうことだろう?
疑問が顔に出ていたのだろう。黒田は続けた。
「特別な環境の使用権を借りたのです。……『
「ええと、たしか……」
聞き覚えはあった。こんなときはスマートフォンがないのがもどかしい。
「スパコン、だよな。
中島が聞き間違いではないか、とでもいうように恐る恐る聞く。
「はい、それです。なんとか半日だけ使えそうです」さらりと黒田は話した。
「マジかよ、それならいけるぜ」
中島が目を輝かせた。
桜井には実感がわかないが中島のようすを見ると相当にすごいことらしい。
「当日の朝、最寄りの駅で待ちあわせましょう。桜井さんは、キューブを」
「はい」
桜井はごくりと唾を飲んだ。
いよいよか。責任重大だな。
「ただ……」黒田は顔を曇らせる。「もしキャラクタントの起動に成功しても、電源が切れればふたたび消滅してしまう。なんとかしてインターネット上にユーザーを増やさなくてはなりません」
「もし誰かが消そうとしても、それに対抗できるくらい」と桜井。
「はい」
黒田はうなずいた。
店員がやってきてふたりの前にコーヒーを置く。店員がカウンターの奥に引っ込んで黒田は続けた。
「そこで、おふたりにお願いがあります。事前にキャンペーンを打ってもらえないでしょうか」
「キャンペーン?」おうむ返しに聞く中島。
「はい。土曜日に画期的な新機能を備えたキャラクタントの新バージョンが公開される。ぜひダウンロードしてくれ、と」
「なるほど、アプリの事前登録みたいなものか」
期待をあおる手法はよく使われるし、それならユーザー数を確保できるかもしれないな。
「まさにその通りですね」黒田は微笑んだ。「例の環境の準備で私のほうは手一杯です。他の開発者を巻き込むのは情報
「おう、そのくらいなら任せておけ」
中島は桜井に向けてにやりと笑った。そのくらいならなんの問題もない。むしろなにかできることが嬉しかった。
「もちろんです」と桜井も首を縦に振る。
「ありがとう。キャンペーンの具体的な方法はお任せします」
黒田は「真陽」の最寄り駅の名前をふたりに伝えた。
「では、当日の七時に、西口を出たところで」
黒田は袋の口を開け、ふたりはスマートフォンを受け取った。
喫茶店を出て(今日も黒田が支払った)黒田が言う。
「それでは、復活のために」
その顔は真剣だった。
「はい、復活のために」
「おう」
ふたりもうなずいた。
黒田はうなずき返すとふたりとは別の方向に歩いていった。
「とうとう動き出したぜ」と中島。
「うん、そうだね」
「キャンペーンか、どうすっかな。事前登録サイト……は無理だよなあ。特典とか、ないしな」
考え込む中島の隣を歩きながら桜井は思い出す。
さっきの黒田さんの顔。でも、きっと俺たちも似たような顔をしてたんじゃないかな。いい年した男三人が推しキャラのために……。
そう思うとすこし笑いがこみ上げてきたが、決してそれは無駄ではないのだろう。
そういえば黒田さんのアバター、聞かなかったな。次に会ったときに聞いてみよう。そう桜井は思った。
・
桜井は中島とその日の深夜まで話しあい、可能なかぎりの手を打つことにした。
中島は決して宣伝が専門ではないものの、アプリを使う側として、広報にどんな方法があるのかはひと通り知っていた。翌日にはさっそく手当たり次第という感じでメディアや他のコミュニティへの接触や開始した。
桜井はキャラクタントのコミュニティでの対応に追われた。
コミュニティベースのアプリの開発は、複数の開発者がすこしずつプログラムを追加していき、揃ったところで新バージョンをリリースする、というのが通常だ。
それをT.Kというキーマンがいるとはいえ、ごく少数の関係者だけで開発を進める。さらにリリースまでプログラムは秘密にしておく、という発表は他の開発者たちの反発を招いた。
桜井たちは特許の関係でリリースするまではプログラムを公開できない、と弁明した。さらにリリース後はすぐにプログラムも公開するという約束をすることで、水曜日にはいったん沈静化した。日数が短いこともあり様子見ムードになったことも大きかった。
ただ、議論がおさまると今度は質問の嵐が巻き起こった。
桜井自身も詳しい内容はまったくわからないなかで、なんとか言葉をぼかしながら新機能への期待を盛り上げていった。
うーん、これで復活できませんでした、となったら、俺たちの居場所はないぞ。
コミュニティに書き込むたび、桜井は冷や汗が出る思いだった。
・
木曜日の朝。自転車で出社した桜井は朝食をビルのテナントで購入することにした。昨日も遅くまで起きていたので朝食を用意する時間が惜しかった。
桜井も中島も会社はなんとか休まずに出ていたが、定時でさっさといなくなるうえに、業務時間中もすきを見てキャラクタント関係の作業をしていた。
ま、今週だけだし、許してもらおう。
ビルのエントランスをくぐったところでスマートフォンを取り出した。いつものカフェにしようとなかば決めていたが、いちおう店舗のリストを確認する。
あれ、なにかメッセージが出てるな。カフェ「ノンサッチ」は機械故障のため、フードメニュー中止、か。
きっと誰かが提供してくれた情報だろう。すこし残念に思いながら桜井は別の店を選んだ。
自炊しなかったぶん、むしろいつもよりすこし早めにオフィスに入ると、栗原はもう来ていて笑顔で挨拶してくれた。
紙コップを両手で包み込むように持って、手を温めているのがかわいかった。
ほかの女性社員と話していたので、邪魔はしないで自席に行く。
購入したサンドイッチのパッケージをあけながら桜井はPCを立ち上げ、業務開始までコミュニティの会議室を確認することにした。
・
金曜日までには新バージョンのキャラクタントがリリースされる、というニュースはネットの一部でかなりの話題になっていた。
エーアイジェントのユーザーからは冷めた意見が出る一方、かつてのキャラクタントのユーザーには期待する声も大きかった。
これなら、それなりのダウンロードは期待できそうだな。
金曜日の昼にネットの反応を確認した桜井は安堵のため息をついた。続けてコミュニティにログインすると、黒田からふたたびメッセージが届いていた。
内容はキャンペーンへの感謝の言葉だった。さらに明日は念のためスマートフォンの電源は切っておくように、と添えられていた。
桜井は短く返信をしておいた。
中島の席に行くと、桜井に気づいた中島はにやりと笑ってみせた。どうやらすでにメッセージを読んだらしい。
「いよいよだぜ」
「うん。一緒に行こうか」
「おう、そうだな。えーと……ちょっと待てよ。秋葉原から『真陽』っと……」
中島はスマートフォンを操作する。
「乗り換えなし、約一時間、ってところか。けっこう遠いな。午前六時にYカメラの前にしようぜ」
「わかった」
Yカメラは何度も行ったことのあるところだ。
「それよりお前、例のブツは無事なんだろうな」
「もちろんだよ」
最初に黒田と話した日に怖くなって確認し、さらに先日は数を数えていた。
「ちょっと思うんだけどさ、ブツはお前しか見てないんだよな。これで狂言だったら笑っちゃうぜ」
「そんなことはないよ」
「いや、もちろん冗談だけどさ」
中島はすまないというように笑った。桜井はうなずく。
中島だから信じてくれているが、これがほかの人なら、そう思うのが自然だよな。
「さて、最後にもうひとがんばりするかな」
そう言って中島は自席のPCへ向かった。
桜井も自席に戻ったところでふと気づく。
そういえば、俺はキューブを送ったのがダイヤさんだって、すこしも疑わなかったな。人間の誰かが送った、もしくは……単なるいたずらっていう可能性だってあるのに。
自分でも不思議だった。ただ、ここまで来たら信じるしかなかった。
PCを開くともう一件、ダイレクトメッセージが届いていた。見覚えのない差出人に戸惑いながら開く。
@黒曜石さん
始めまして、川村です。
会話パターンが飛躍的に良くなると書いていますが、もしかして新しいデータが見つかったのでしょうか。
データが一般公開されると、こちらの研究成果が他国に奪われかねません。
将来のためにもリリースを中止してくださるようお願いします。
そしてデータについては貴重な研究材料となりますので、相応の金額で引き取らせていただきたく思います。
ご返信いただければ幸いです。
--
京都工業大学 川村研究室
川村博則
データを求めている誰かが――川村と名乗っているがおそらく偽名だろう――直接コンタクトしてきていた。
公開中止を求めてるってことは、キャラクタントのユーザーじゃないな。公開されると研究成果が奪われる、っていうのもおかしい。もしかして、エーアイジェントの関係者じゃ……。
桜井は背筋がうすら寒くなった。
とりあえずメッセージには、新バージョンには会話データは含まれていない、とだけ書いて返信した。
すぐにチャットウィンドウが開いた。
@T.Kが入室しました
> どうかしましたか、@黒曜石さん
> 以前、会議室にデータを求める書き込みがあったことを覚えていますか
> はい。しつこかったですね。私が書きこんだら止みましたが
> あの研究室は、実在しません
> 実在しないとは?
桜井は深呼吸し、気を落ち着けてからキーボードを打つ。
> あのときはありがとうございました。いま、同じ投稿者から新バージョンの公開中止を求めるDMが届きました
桜井はメッセージの内容をコピーした。
> なるほど。すこし被害妄想的ですが、彼の懸念はわからなくもない
> その研究室は、大学に存在しないのです
> すこし待ってください
おそらく黒田が調べているであろうあいだ、桜井はじりじりしながら待った。
> たしかに。似た名前の研究室はありますが。打ち間違いではなくて?
> それは考えましたが、毎回、今回も同じです
桜井はすこし
> もしかしたらエーアイジェントの関係者ではないでしょうか
黒田の返信には時間がかかった。数十秒して次の文章が浮かび上がる。
> あり得る話だ
> 調べてもらえますか
> わかりました
> よろしくお願いします
> 明日はくれぐれも気を付けて
@T.Kが退室しました
きっと管理者権限で調べてくれるだろう。
でも、気を付けるって……どうすればいいんだろ。
チャットウィンドウを閉じて画面の隅を見ると、ちょうど昼休みが終わる時間だった。