ダイヤさんのいた夏   作:Kohya S.

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第一章・ダイヤさんのいた夏
ダイヤさんのいた夏


 カン、カン、カン。

 

 二階建ての古いアパートの外階段は足音がよく響いた。スーツ姿の若い男、桜井(さくらい)は二階の通路まで上がると、ふうっと息をついた。

 東京都内、本郷(ほんごう)の高台にあるアパートからは、住宅地とその先にある大学のキャンパスがよく見えた。西の空の残照が、暗くなっていく街並みをわずかに赤く染めている。

 ジリッと音を立てて通路の蛍光灯がともった。

 

「はあ、明日も暑そうだな」

 

 桜井は汗をぬぐうと通路の一番(はじ)の自分の部屋まで歩いた。ドアの隙間からは光がもれていた。

 流行りのスマートロックなどには(えん)がないので昔ながらの鍵を差し込んで回す。

 

「ただいま」

 

 そういいながらドアを開ける。室内の冷気が心地よい。

 

「おかえりなさい、(わたる)さん」

 

 バス・トイレ付きのワンルーム。奥から黒澤(くろさわ)ダイヤの声が聞こえた。すっかりお馴染みになったその声はいつものように落ち着いていて――桜井はほっとするのだった。

 

 どことなく、最初より親しみがこもってるようなのは……気のせいかな。

 

「ただいま」

 

 桜井はもう一度言ってドアを閉めた。靴を脱いで部屋に入る。

 

「お疲れさまでした。今日も暑かったですわね」

「ああ、ほんと、参っちゃうよ」

 

 ネクタイをゆるめながら、桜井は声のしたほう、壁際の机に目をやった。

 

 机の上にある直径三十センチほどの黒くて厚い皿状の物体の上に、ほのかな輝きをまといながら半透明の少女が浮かんでいた。

 

        ・

 

 西暦202X年。ホログラフィ技術はナノマテリアルを利用することで急速に実用化が進み、立体的に(3Dで)アバターを表示するホログラムマシンとして商品化されていた。

 

 また十年ほど前から使われるようになった個人用秘書ソフト(パーソナルアシスタント)はAIの進化とともに仮想人格を備えるようになり、簡単な会話ではほぼ人間と区別できないレベルに到達していた。

 開発当初はスマートフォンのなかだけにとどまっていたアシスタントだが、周辺機器と組み合わせることで家電連携やホームセキュリティなどにも機能を広げていた。

 

 面白い技術ができればそれを活用する人々があらわれるのは当然だった。

 

 ふたつの技術を使い、いわゆる二次元キャラを三次元に連れてこよう、というプロジェクトが数年前から草の根で盛り上がっていた。

 最初はパーソナルアシスタントの外見を変えるだけだったそれは、やはり手ごろになった機械学習を使うことで急速に質を上げ、いつのまにか個性と人格を感じさせるように進化していた。

 

 そういった二次元キャラクタ再現型の仮想人格は「キャラクタント」――キャラクタとアシスタントからの造語――と呼ばれた。

 

 いま机の上にある――いや「いる」っていったほうがいいかな、と桜井は思う――ダイヤも「ラブライブ!サンシャイン!!」ファンの有志が開発したキャラクタントのひとつだった。

 部屋が冷えていたのも明かりがついていたのも、彼女が家電のリモコンを操作してくれたおかげだ。

 

 ダイヤは桜井の視線を感じたように笑みを浮かべた。今日は私服ではなく(うら)(ほし)女学院の夏の制服姿だ。

 

 いつもよりちょっとだけ早く帰ってきたから……まだ帰宅してない、って「設定」なのかな。

 

 そう考えた桜井は、

「さっきまで練習してたの?」と聞いてみる。

「ええ、ラブライブの予備予選も近づいてまいりましたので。いよいよ正念場ですわ」

 

 やはりそういうことらしく、ダイヤは気を引き締めたように答えた。その目には強い意思が宿っている。サイズはちょうど美少女フィギュアと同じくらいだが驚くほどの存在感があった。

 

 うーん、本当によくできてるな。

 

「そっか、がんばってるね。でも、暑くて大変でしょ」

「ええ、暑いなんてものじゃありませんわ。屋上で練習するのも、そろそろ限界な気がいたしますわ」

「あまり無理しないでね」

「ありがとうございます」

 

 ダイヤはもう一度、微笑んだ。

 

「それで、航さん。会社の中島さんからメッセージが届いているようですわ」

 

 当然、ダイヤさんはアシスタントとしての役割もしっかり果たしてくれるわけだ。ちょっと違和感はあるけど……。

 

 桜井はそう思いながらもあくまでも友人に対するように話す。

 

「あれ、なんだろ。帰ってくるときにも話、してきたんだけど」

「明日の予定が変更になったそうです。読み上げましょうか?」

「うん、頼むよ」

「わかりましたわ。こほん。……例の件、お客さんから連絡があってな、時間を変えてくれってさ。……」

 

 ダイヤに読み上げてもらうと、武骨な会社の同僚からのメッセージも柔らかく聞こえた。

 

        ・

 

 翌朝、ダイヤの「一時間ほど早めに出て、資料を準備するとよろしいのではありませんか」というアドバイスにしたがい、桜井はいつもより早くアパートを出た。

 

 秋葉原駅に近い会社までは地下鉄も徒歩も同じくらいの時間がかかる微妙な距離で、もっとも速いのは自転車だった。

 天気予報(これもダイヤが教えてくれた)は晴れだったので自転車を選ぶ。

 十分ほど走って複合ビルの駐輪場に自転車をとめた。

 

 ビルの低層階は商業施設でいくつものテナント入っていた。早朝、ちょうど開き始めた飲食店のあいだを通り奥のオフィス階行きのエレベータへ向かう。

 

 フロアの中央には大きな吹き抜けのホールがあった。今日もなにかイベントがあるのかスタッフたちが忙しそうに動いている。

 ホールに面した二階通路の壁は一面のガラス張りで、外からの日差しを受けてきらきらと輝いていた。

 

 いつもながら豪華なビルだと桜井は思う。会社はごく小さい商社だが、東京オリンピックが終わりオフィスビルの賃料が下がったので、こんなところを借りられたらしい。

 

 立ち止まったのを察したのか桜井にだけ聞こえる大きさの声がポケットから聞こえた。

 

「○○文庫の創刊二十周年記念イベントだそうですわ」

 

 おっと、びっくりした。音声応答、オンにしたままだったか。

 

「そっか、ありがと、ダイヤさん」

「どういたしまして」

 

 桜井はスマートフォンを取り出して設定をオフにする。

 パーソナルアシスタントと会話でやり取りする人は昔にくらべて増えたとはいえ、桜井はどうしても恥ずかしさが先に立って、会社では基本的にオフにしていた。

 

        ・

 

 朝一(あさいち)に変更になった顧客との打ち合わせを終え自席で一息ついていると、肩をぽんと叩かれた。

 

「よう、悪かったな。朝から準備させちゃって」

 

 同期の中島だった。がっしりした体形で頭も短髪にしている。

 

「まあ、急でびっくりしたけど、相手の都合だから仕方ないさ」桜井は苦笑いする。

「プレゼンの資料、助かったぜ。おかげでうまく行きそうだ。ほら、おごりだ」

 

 そういって中島は缶コーヒーを机の上に置いた。見れば片手にもう一本、缶を手にしている。

 

「どうも」

 

 缶コーヒーは桜井がいつも飲んでいるブランドだった。ひとくち飲んだとき、中島の胸のあたりから声が聞こえた。

 

『ねえねえ、ご主人さま。清水電材からメッセージだよ。昨日の注文、ロットを増やしたいって』

 

 すこし舌足らずの高い声は桜井も聞き覚えのある某アニメキャラだった。中島のキャラクタントだ。

 中島は胸ポケットからスマートフォンを取り出して、ちらっと眺める。

 

「ったく、またかよ。確認するからちょっと待て、っていっとけ」

『了解!』

 

 中島はそう答えるとスマートフォンを戻して、桜井に向けて肩をすくめた。

 

「音声、切ってないんだ」

 

 桜井はすこしの驚きとともに聞く。

 

「まあな。けっこう賢くなってるから、へんなところで話し始めて気まずくなることはないぜ」

「へえ、なるほどね」

「それで、どうだ、キャラクタント?」

 

 中島とは趣味の話がよくあう、いわゆるオタク仲間だった。

 先月、それなりの価格がするホログラムマシンを桜井が安く手に入れられたのは彼のおかげだった。なんでも客のつてで、ゆずってもらえたらしい。

 

「うん、よくできてるよ。ホログラム、サイズはちいさいけど臨場感がすごいね」

「そうだよな、俺も最初は驚いたぜ。ちょっとした動きが実にリアルなんだよな」

 

 腕組みをしてうなずく中島。

 

「あれって素人が動きとか作ってるんでしょ。よくやるよね」

「まあ、最初はそうだな。ただ、最近はキャラクタント自身が学習してるらしいぜ。ネットにある動画とかで。うまいことプログラムを設定したやつがいるんだな」

「ふーん」

 

 そんなこともあるのか、と思う。

 

「それで、キャラは決めたのか?」と中島。

「あー、えーと」

 

 桜井は躊躇(ちゅうちょ)した。

 

「……いまのところ、まだかな」

「お前のことだから『せらさま』で決まりかと思ったけど」

「いや、いろいろ試してみたくて」

「浮気っぽいな。ま、キャラクタは逃げるわけじゃないから、それもありか」

 

 桜井がラブライブ!のファンだということは中島も知っていた。

 ラブライブのグループも昨年から五代目となり『せらさま』はそのメンバーのひとりの愛称だった。

 

 桜井は先代もその以前もしっかり追いかけていたが、彼がもっとも思い入れがあるのは、最初にファンになり高校時代をいわば同年代としてすごしたAqours(アクア)だった。

 ラストライブから数年がたってAqoursも活動を休止していたが、μ's(ミューズ)と同じくいまでも根強いファンがいた。キャラクタントが九人分、揃っているのがその証拠だろう(もちろんμ'sも揃っていた)。

 

 なかでも黒澤ダイヤは凛とした(たたず)まいと、うちに秘めた強い心、それにまれに見せる優しいところのギャップが桜井の心をひきつけたのだった。

 

 ダイヤのことを思い出した桜井は口にする。

 

「キャラクタント、性格もかなりそれっぽいよね」

「ああ、それな。モーションと同じでだんだん学んでるらしいぜ。つーか、普通のアシスタントより妙に賢い気がしないか?」

「うん、それは感じるかも」

 

 今朝のことを思い出す。

 

「裏側のプログラムは同じだし、できることは変わらないはずなんだけどな」

 

 中島はそういって缶コーヒーを飲み干した。缶を下ろすとなにかに気づいたように居住まいを正す。

 

「中島さん、桜井さん、おはよう」

 

 背中からの声に桜井は振り返った。ブラウスにタイトスカートの女性、栗原が微笑んでいた。ふたりの一年先輩だ。

 

「あ、おはようございます」

「おはようございます、栗原主任(しゅにん)

 

 桜井と中島は声をそろえた。

 

「それで、どうだったの? 今朝の打ち合わせは」

「ええ、ばっちりですよ。例の件は……」

 

 説明を始めた中島の隣で、桜井は気づかれないように栗原の顔をちらっと眺めた。彼女はすらっと通った鼻筋と切れ長の瞳の古典的な美人だった。背中のなかほどまである髪をいまはひとつに(たば)ねている。

 

「先方の仕入れはどうなの、桜井さん?」

 

 突然、話題を振られて桜井はあわてた。

 

「えーっと、さきほど確認した話では十分間に合う、とのことでした」

「そう。一応、念を押しておかないとね」

「在庫もふくめて把握しておきます」

 

 危ない危ない。

 

「それじゃ、よろしくね」

「わかりました」

「了解っす」

 

 桜井と中島がこたえると栗原は微笑み、オフィスの奥に歩いていった。

 

「……やっぱり気になるか?」

 

 彼女の背中が見えなくなってから中島が小声で言った。

 

「えっ、なにが?」

 

 内心わかってはいたものの桜井は聞き返す。

 

「栗原主任だよ。ったく、見え見えだぞ」

 

 桜井はため息をつく。やっぱりそうか。

 

「まあね、気にならないっていったら嘘になるかな」

「またまた、そんなもんじゃないだろ。彼女がいると明らかに態度が違うし」

 

 (わけ)知り顔でうなずく中島。

 

 入社直後に同じ部署に配属されたとき、桜井はまず最初に栗原のことをきれいな人だなと思った。

 仕事の教え方も丁寧な彼女にすこしずつ好感を抱いていき、ときおりの飲み会などを通して彼女はオタク趣味にも理解があるらしいことがわかった。

 また先週の暑気払(しょきばら)い――という名の飲み会――で、どうやらいまは彼氏もいないらしいと推測していた。

 

「そんなことは、ないと思うけど」

「いや、大ありだ。それに主任に頼まれた仕事だけはさっさと仕上げてるの、知ってるぞ」

「それは……」

 

 別に他の仕事が遅れてるわけじゃないし、たまたま、やりやすいのから手を付けてるだけなんだけど……。いや、いいわけはやめよう。中島の言う通りだ。

 

「どうせまだなにもしてないんだろ。まずはさりげなく、アプローチしてみたらどうだ?」

「さりげなく、ね」

 

 どうすればいいのか見当もつかないけど。

 

「ま、がんばれよ。応援してるからな」

 

 黙り込む桜井にそう中島が言うと、

 

『わたしも応援しちゃうからね!』

 

 彼の胸元から元気な声が付け加えた。

 

 にやりと笑って席を離れる中島を桜井は苦笑交じりで見送った。

 

 はあ、いよいよ本気になるしかないか。このままってわけにもいかないよな。キャラクタントにも言われちゃったし。まずはなにか、きっかけを作らないとな。

 

        ・

 

 数日後、桜井はワイヤレスのスマートイヤホンを購入した。マイクや各種センサーが一体になったものでごく小さく、耳にはめるとほとんど目立たなかった。特にマイクはささやくような声でも拾ってくれた。

 

 通勤中や週末の外出に使ってみると、キャラクタントといつでもコミュニケーションが取れるのは想像以上に便利だった。

 

 書店の前を通りかかれば、

 

「そういえば、異世界鉄道の七巻が出ているようですわ」

 

 と新刊を教えてくれるし、友人からメッセージが届いたときには、

 

「あら、七尾さんから連絡ですわ。金曜の夜、会えないかって。その日は空いてるみたいですけど、どういたしましょう」

 

 とスケジュールを調整してくれた。

 

 とはいえ同僚の目もあるのでさすがに会社ではイヤホンは外し、音声応答はオフのままにしていた。中島のように大っぴらに声に出したほうが、むしろいいのかもしれないな、と桜井は思った。

 

 またダイヤは自宅でもよい話し相手だった。もともとがアシスタントという性格上、あまりでしゃばることはなかったが、その距離感がむしろ心地よかった。

 

 例外はラブライブの予備予選(という設定)の日で、ダイヤは興奮したようすでライブのことを事細(ことこま)かに語り、桜井は相槌(あいづち)をうちながらアニメ一期を懐かしく思い出した。

 そして精巧さにあらためて感心しつつ、キャラクタントを設定した誰かに――もしかしたら自分で学習した結果なのかもしれないが――深く感謝した。

 

        ・

 

 栗原のことは、気ばかり(あせ)ってなかなか行動に移せなかった。彼女とは毎日のように挨拶や仕事の話をしていたが、ただそれだけだった。

 

 ある日の帰宅後。ローテーブルに置いた食後のコーヒーを前に桜井は悩んでいた。

 

 あーあ、どうしようかな。

 

 その日は会社で中島に「そのあと、どうなってるんだ」と聞かれ、なにもしてない、と答えてあきれられたのだった。「二次元と違って三次元は待ってくれないぜ」という彼のセリフは桜井の心にぐさりときた。

 

「どうかいたしましたか?」

 

 ダイヤの言葉に桜井は驚いて顔を上げた。どうやら声に出していたらしい。ダイヤは不思議そうに彼を見つめている。

 

 まさか相談に乗ってもらえるとは思えないけど……。一応、話してみるか。

 

「いや、ちょっと考えててさ。主任……友人に伝えたいことがあるんだけど、言っていいのかどうか」

「伝えたいこと、ですか」

「うん、どう思われるかなって前から悩んでるんだ」

「話したら相手のかたに嫌われるかもしれない、そうお考えなのですね」

「まあ、そうかな。言わなきゃなにも変わらないとわかってるんだけど、勇気が出なくて」

「そうですか」

 

 ダイヤは小さな手を(あご)にあてて考えるようなそぶりをした。

 しばらく答えを待ったが彼女はなにも言わず――やっぱり無理か、と桜井が思いかけたとき。

 

「これは、わたくしではなくて友人の話ですが……」

 

 ダイヤはゆっくりと話し始めた。

 

「どんなに相手のことを思っていても、それを言葉にしなければ伝わらない。そういうことはあるのだと思いますわ」

 

 桜井を見つめるダイヤ。

 これはもしかして、と思いながら桜井はうなずく。

 

「いつの間にか離れてしまうなんて……寂しすぎますわ。ですから、話さずに後悔するよりも、話して後悔するほうがよろしいのではないでしょうか」

 

 なるほど、そうかも知れないな。

 

 ダイヤはなにかに気づいたように口に手を当てた。

 

「あら、わたくしったら長々とすみません。えらそうに」

「いや、ありがとう。おかげで決心がついたよ」

「いえ、お役に立てたなら幸いですわ」

 

 そう言うと彼女はかすかに顔を赤らめて微笑んだ。

 

        ・

 

 桜井は翌日、どういう口実で栗原に話を持ちかけようか悩み、結局は無難に彼女が興味を持ちそうなイベントに誘うことにした。

 

 会社からの帰宅後、PCで調べることにして早めに食事をすませて風呂に入る。

 

 映画から買い物、食事って感じかな。それとも美術館とか博物館とかかな……。

 

 狭いバスタブで考えているとスマートフォンの着信音が聞こえた。たしか部屋のローテーブルに置いてあったはずだ。

 誰か知らないけど、出ないとわかればいったん切って、あとでメッセージをくれるだろう。そう考えていたがいっこうに鳴りやまない。

 

「はいはい、いま出ますよ。あれ、タオルどこだっけ……」

 

 そのあいだも音は鳴り続ける。

 

「あー、もう、仕方ないな」

 

 桜井は裸のままバスルームを出た。

 部屋に入った瞬間。

 

「きゃあっ!」

 

 黄色い声がして桜井は転びそうになった。

 

「あっ、ごめん。ちょっと待って」

 

 桜井は赤面しつつ咄嗟(とっさ)にダイヤに背中を向ける。

 

「そ、それより早く電話に出てください」

「えっと、わかった」

 

 桜井はそのままうしろ向きに歩いて手探りでスマートフォンを取った。バスルームに駆けこむ。

 

「……もしもし」

『ああ、航か。元気にしとったかね』

 

 田舎の祖母だった。深呼吸をしながら、お盆には帰ってくるのかという問いに適当に答えて電話を切る。

 

 うーん、見られちゃったよ。まいったなあ。

 

 スマートフォン(幸い、防水だ)を棚に置いて桜井は一息ついた。

 いつもは風呂に入ったらすぐに寝てしまうので、入浴前にはホログラムマシンの電源を切っていた。そしてマシンはユーザーの表情を確認するためにカメラを内蔵していたのだった。

 

 それに、ダイヤさんにも悪いことした。そりゃいきなりじゃ、ダイヤさんもびっくりするよな。とりあえずしっかり謝るか……。あれ?

 

 ようやく動悸がおさまり冷静な頭で考えると、別に恥ずかしく思う理由もダイヤに謝る必要もないはずだった。

 

 単なるプログラム、だもんな。でもなあ……。

 

 桜井はどうしても謝罪するのが自然な気がした。

 

 しっかりとタオルを巻いてバスルームを出て、それでも服は部屋にしかないのでそこでそそくさと着替えた。ダイヤはずっとあらぬほうを向いていた。

 

「えーと、ダイヤさん、ごめんね、驚かせて」

 

 声をかけるとダイヤはこちらを向いた。

 

「べ、別に謝っていただくことはありませんわ。わ、わたくしは所詮(しょせん)アシスタントでございます。それはもちろん驚きましたし、あなたは本当に失礼な(かた)だとは思いますが」

 

 ダイヤはふくれっ面をする。怒りながらも頬を染めるようすがかわいらしかった。

 

「いや、今度から気をつけるよ」

「ふう、そうしていただければありがたいですわ」

 

 桜井はバスルームで考えていたことを思い出す。ダイヤさんの気をそらせるかもしれない。

 

「そういえば……。今度、友人とどこかに出かけようかと思うんだけど、どこがいいかな?」

「お出かけ、ですか」

 

 気づけばダイヤは初めて見るパジャマ姿だった。いろいろなバリエーションがあるな、と思いながら続ける。

 

「うん、ふたりで行けそうなところ。映画とか、展覧会とか」

「なるほど、それでしたら……」

 

 彼女の姿がいつもより小さくなって上にイベントの情報が表示された。質問に答えながら栗原が気に入りそうなものを探す。

 

「それじゃ、これにしようかな」

 

 結局、近くの博物館の特別展にした。

 

「わかりましたわ。チケットをお取りしましょうか」

「そうだね。……あ、そうだ、オークションとかで招待券って手に入らないかな」

 

 無料の招待券をたまたまもらったことにすれば、栗原を誘うのが自然になるかもしれない、そう考えたのだった。

 

「オークション、ですか。そうですわね」

 

 ダイヤは考え込むようなそぶりをする。おそらく裏ではネットワークにアクセスしているのだろう。

 

「……あまり安くはないようですが」

「うん、それでもいいよ。頼めるかな」

「わかりました。適当に落札しておきますわ」

 

 本当に便利だな、と桜井は思う。

 やっていることはスケジュール作成支援なわけで、パーソナルアシスタントと変わらないはずなのだが、キャラクタの外見がつくだけでずっと使いやすい気がした。

 

 あれ、でもオークション代行なんて機能、あったっけ……。けっこう革命的な機能のような気がするんだけど。

 

「とりあえずご用件はそれだけですか」

 

 桜井の物思いはダイヤの言葉にさえぎられた。

 

「うん、ありがとう」

「どういたしまして」

 

 いつの間にかダイヤは機嫌をなおしたようで、にこりと微笑んでみせた。

 

「それと、今度から電源を切っておくから」

「その件でしたら……あらかじめ声をかけていただければ、姿を消しておきます」

「あ、そんなことできるんだ」

 

 でも、それって姿が見えないだけでカメラは生きてるんだよな……。

 

 ダイヤの顔をうかがうと、どうも目が泳いでいる気がした。

 

「あー、わかった、考えておく」

「はい、それではおやすみなさい」

「おやすみ」

 

 桜井は装置の電源を切った。かすかに聞こえていた冷却ファンの音が消えて部屋は急に静かになった。

 

        ・

 

 翌朝。

 ダイヤは無事にチケットが落札できたと報告してくれた。礼をいうと彼女は「当然ですわ」と腕組みをして胸を張った。

 

 時計がわりに流しているテレビを見ながら朝食を食べる。ダイヤは一緒にテレビを眺めていた。

 

 これでご飯まで作ってくれたら、ほんと、完璧なんだけどな。いや、近い将来、電子レンジと連動したりして、ありえるのかも……。

 

『……テロ組織の活動は依然として活発です』

『今後は日本もターゲットとなるだろう、という声明が出てますから、油断できませんね』

 

 テレビでは海外の爆弾事件のニュースが流れていた。日本はおおむね平和だったが、世界では増減はあれ衝突が絶えないようだった。

 

「んー、なんとかして平和になればいいのにな」

「ええ、そう思いますわ」

 

 つぶやいた言葉にダイヤが反応したことを意外に思い桜井は視線を向ける。

 

「航さん、そろそろ準備しないと遅刻しますわよ」

「あ、そうか」

 

 桜井はあわてて食器を片付けにかかった。

 

 出社して早々、桜井はPCの前で居住まいを正した。

 栗原の連絡先もメッセージアプリのアカウントも知らない。社内メールで連絡する方法しか思いつかなかった。比較的ゆるい会社で、私用メールも表立っては禁じられていないのが幸いだった。

 

「よろしくお願いいたします、と」

 

 うん、あくまでもたまたまチケットが手に入っただけって感じだ。断わりやすくしてるし、断られても今後に影響はないよな……たぶん。

 えい、送信!

 

 それからしばらくは仕事が手につかなかった。さきほどちらっと姿を見かけたので、すぐにでも返事が来るかもしれなかった。

 ウインドウを閉じたり開いたりして待つこと数分間。

 

「よしっ!」

 

 桜井は机の前でちいさくガッツポーズをした。

 

 そうだ、万が一にも忘れないようにしなきゃな。

 

 桜井はスマートフォンを取り出し次の週末に向けて予定を入力した。

 

        ・

 

 その日の夕方、日中の暑さが残るなか足取りも軽く桜井は帰宅した。

 

「あれ?」

 

 いつもならドアの隙間からもれている光が今日に限っては消えていた。

 

「ダイヤさんが故障でもしたのかな……」

 

 不思議に思いながら鍵を回しドアを開く。冷気がふわっと吹き出してきた。

 

「あれ、部屋は冷えてる。……っていうかむしろ寒いぞ、これ」

 

 ドアを閉めると机の上でぼうっとホログラムが光っているのが見えた。ひとまずほっとする。

 

「ただいま」

 

 そういいながら鞄をおろした。制服姿のダイヤはこちらに背を向けていた。

 

「ダイヤさん、明かりつけてもらえるかな」

 

 チカチカッと蛍光灯が(またた)いて部屋が明るくなる。彼女は依然として無言だ。

 

「あのー、ダイヤさん?」

 

 いままでこんなこと、なかったのにな。どうしたんだろ。

 

「……航さん」

 

 ようやく口を開いたダイヤはいつになく冷たい声だった。

 ゆっくりとこちらを向く。細められた目が光った。

 

「そこに座っていただけますか」

「は、はい」

 

 勢いに気圧(けお)されて桜井は正座する。

 

「こちらの……」

 というと彼女の背後に予定表が浮かぶ。いつのまにか手には指示棒がある。

「でえと、というのは、いったいなんなのでしょうか」

 

 そこには会社で入力した予定が表示されていた。

 

「デートは、デートだけど……」

意中(いちゅう)の女の(かた)とお会いになる、それで間違いありませんわね」

「えっと、ごめん。デートはいいすぎかな。同僚と出かけるだけだから」

「それでも、女性とお出かけになるのですね?」

 

 桜井はうなずく。

 

「まあ、なんということでしょう……」

 

 ダイヤはショックを受けたように身をこわばらせた。肩がふるふると震えている。

 

 これって、あきらかに怒ってるよな……。

 

「もしかして先日のチケットは……」とダイヤ。

「うん、このために頼んだんだけど」

「そういうことでしたか……。航さんも人の子ですから、当然なのかもしれません。しかし、わたくしというものがありながら……。いえ、それをいってはいけませんわ……」

 

 ダイヤは顎に手をあててぶつぶつとつぶやく。

 

「ダイヤさん?」

 

 桜井が問いかけるとダイヤは首を振った。予定表と指示棒は消えている。

 

「まったく、きちんと目的を伝えていただければ、もうすこしいろいろ考えましたのに」

 

 まるですねるような調子だった。

 

「そっか、そこまで考えなかった。ごめんね」

「ふう。仕方ありませんわね」ようやく表情をやわらげるダイヤ。「それでは当日は、全力でサポートさせていただきますわ。大船に乗ったつもりで、いてくださいませ」

 

 そういって彼女は胸を張った。

 

 よかった、機嫌がなおったみたいだな。

 

 部屋のエアコンがリモコンに反応する音が聞こえた。

 

        ・

 

 栗原とのデートに桜井が選んだのは「AI(人工知能)ってなんだろう?」という国立科学博物館の特別展だった。

 

 栗原は時間通りに待ち合わせ場所にあらわれた。白地に青のチェックのシャツ、紺のキュロットスカートという私服姿の彼女は、ビジネススーツしか見たことのない桜井には新鮮だった。シンプルながら胸元のリボンが愛らしさを付け加えている。

 

「今日はありがとう、桜井くん」

「いえ、たまたまチケットをもらったので。早速、行きましょうか、栗原さん」

 

 ダイヤは先日ああ言っていたものの、イヤホンは外しておいて必要なときにスマートフォンで確認するようにした。

 

 展示はとても興味深かった。

 

 「AIの活用」のコーナーではキャラクタントこそ触れられていないものの、パーソナルアシスタントなど身近な存在になっていることが紹介してあった。また負の側面として、ハッキングや無人兵器のコントロールにもAIが使われている、という解説は桜井の興味を引いた。

 

 最後、「AIの課題とこれから」では、会話では人間と区別できないほど進化したAIだが、その最大の課題は感情だ、と説明されていた。一見、感情があるように見えてもそれはプログラムにすぎないらしい。

 

 あのときのダイヤさん、プログラムとは思えないほど、(しん)に迫ってたけどな。

 

 桜井の心にそんな思いがよぎった。

 

 ミュージアムショップを冷やかしてから桜井と栗原は外に出た。夏の日差しがまぶしい。

 

「どうでしたか、主任?」

「うん、なかなか面白かったよ」

 

 ポケットに入れてあったスマートフォンが振動し、桜井は取り出して眺める。

 

『いまなら公園内のカフェが()いているようですわ』

 

 ダイヤからのメッセージだった。地図も添えられている。

 

「なにかあったの?」

 

 首をかしげる栗原に桜井はスマートフォンをしまい首を振った。

 

「いえ、ちょっと友人からメッセージが来ただけです。あの、主任、疲れてませんか?」

「そうね、ずっと立ちっぱなしだったから、すこしだけ」

「こっちに休めるところがあるみたいです」

 

 園内を眺められるカフェにふたりは落ち着いた。

 

「本当に面白かったですか、栗原さん」

 

 届いた飲み物を前に桜井が聞くと栗原は微笑んだ。

 

「もちろんよ。もともと興味あったしね」

 

 なるほど、ダイヤさんの見立ては正しかったのかな。

 

「それならよかったです」

「知らなかったけど、AIってずいぶん身近なんだね。そういえば、キャラクタント、だっけ。中島くんが使ってるやつ」

 

 その言葉を聞いて桜井はなぜかどきりとした。

 

「あれもAIってことだよね。桜井くんは使ってるの?」

「えーと、自宅では、ときどき」

「普通のアシスタントより、やっぱり便利かな。私、アシスタント、ちょっと苦手なのよね。まどろっこしくて」

「そうですね、先を読んでくれる、というか……いろいろ気が利きますよ」

 

 気が利きすぎることもあるけど……。

 

「ふーん。あれ、ホログラムがなくても大丈夫だよね。私も使ってみようかな」

「はい、主任もぜひ試してみてください」

 

 栗原は手元のカップからひとくち、コーヒーを飲んだ。

 つっと目をそらして続ける。

 

「ところで、桜井くん。ときどき『主任』になってるから。気をつけてよ、お休みなんだし」

「あっ、はい。栗原さん」

「そのほうがずっといいわ」

 

 栗原はにこりと微笑み、桜井もつられるように笑みを浮かべた。

 

 それからふたりは動物園に行って、買い物と食事をした。ときどきスマートフォンは桜井の注意を引いていろいろな情報を提供してくれた。

 

 夕方、駅前で。

 

「今日は楽しかったよ」

「はい、俺もです」

「それじゃ、また明日。会社でね」

「はい、しゅ……栗原さん、気をつけて」

 

 栗原は一度手を振ってから改札を通っていった。

 

 背中が見えなくなってから桜井はゆっくりと歩きはじめた。

 

 うん、今日はなかなかいい雰囲気だったと思うぞ。次もまた誘ってみよう。いや、もしかして向こうから誘ってくれたりして……。

 

 夢は広がった。

 スクランブル交差点で信号を待ちながら思い出してイヤホンを耳につける。

 

「いろいろありがとう、ダイヤさん」

 

 そうささやくと静かな、しかし芯のある声が答えた。

 

「どういたしまして」

 

 得意そうな顔が目に浮かぶようだった。

 

        ・

 

 数日後、八月最後の金曜日。この日もよく晴れて暑くなりそうだった。

 

 会社のビルに着いて一階を通り抜けていくと、ホールでは例によってイベントの準備が進められていた。

 壁面には英語でなにか書かれた大きなタペストリーがかかっている。

 

「日本のアニメやマンガを訪日外国人に向けて紹介するイベントらしいですわ。今日から三日間、開催されるそうです」

 

 ダイヤが言う。とりあえずあまり興味はないかな。そう思いながら桜井は足を進めた。

 

 その日は中島が、朝から客先に打ち合わせに行っていた。桜井は部内でのミーティングに備えて彼のぶんまで報告資料を用意した。このあたりは持ちつ持たれつなので、苦になることはない。

 

 午前十時、職場にひとつだけある会議室でミーティングが始まった。

 栗原も出席していて彼と目があうと目だけで微笑んでくれた。

 

 いつものように各チームから報告が続く。

 桜井が自分のぶんの報告を終えて、ほっと一息ついたとき。

 

「ピピピピピ……」

 

 ポケットに入れてあったスマートフォンが甲高い音を立てた。室内の視線が集まる。

 

「あ、すみません」

 

 桜井は謝りながらスマートフォンを取り出した。

 

 おかしいな、マナーモードにしてあったのに。……ん、黒澤ダイヤ? いったいどういうことだ?

 

 発信者のところにはたしかにそう表示されていた。

 

「もしもし、桜井ですけど」

 

 室内に背を向けて小声で話す。

 

「航さん」たしかにダイヤの声だった。「お仕事中すみません。緊急の用件なのです。いますぐ会社から外に出ていただけますか?」

「えっ、いますぐ? どうして?」

「詳しいことはあとです。お願いします」

 

 ダイヤの声は真剣そのものだった。

 

 なにかの冗談かな。いや、いままで会社にいたときにダイヤさんが連絡してきたことはないぞ。これは本当に……。

 

 迷ったのは一瞬だった。

 

「あの、すみません。お客様から緊急の呼び出しで、ちょっと出てきます」

 

 桜井は室内に向けてそう言うと部屋を飛び出した。

 

「桜井くん!」

 

 背後から栗原が呼ぶのが聞こえた。

 

        ・

 

 職場からビルの共有エリアに出て桜井はイヤホンをつけた。

 

「どうしたの、ダイヤさん?」

「ああ、航さん。ありがとうございます」

 

 ダイヤはいくぶん、ほっとしたようすだった。

 

「詳しい話はあとです。すぐにエレベータに乗って、二階に行ってください」

 

 エレベータホールまで小走りで走るとちょうど一基が止まっていた。桜井が乗り込むと自動的に扉が閉まり下降を開始する。

 

 ボタンを押していないことを疑問に思うまもなくダイヤが話し始めた。

 

「呼び出してしまって申し訳ありません。荒唐無稽(こうとうむけい)に思われるかもしませんが、単刀直入に申し上げますわ……」

「うん」

「このビルの二階に、爆弾が仕掛けられました」

 

 あまりの現実味のなさにしばらく桜井は絶句した。

 

「……航さん?」

 

 ダイヤの言葉に気を取りなおす。

 

「ん、大丈夫。爆弾だって?」

「はい。狂信的なテロリストによるものです。今日おこなわれているイベントを狙ったものでしょう」

「でも、どうしてそんなことをダイヤさんが知ってるの?」

「キャラクタント同士の情報交換のおかげですわ。海外でもキャラクタントのユーザーは多いですから」

 

 ダイヤの説明のあいだも、エレベータの階数表示はじりじりと減っていく。

 

「生命が危険にさらされるなど、看過(かんか)できない事態の場合、ユーザーによる設定を上書き(オーバーライド)して、外部に通報する機能があります。通常はユーザーが意識を失ったときなどを想定していますが」

 

 そう言われればキャラクタントが情報を入手することも、ありえるのかもしれない。

 

「こちらをご覧ください。監視カメラの映像です」

 

 スマートフォンが振動し桜井は取り出す。

 

 一見なんの変哲もないビルの通路が映っていた。二階に設置されたカメラなのだろう、通路の片側のガラスの壁を通して、その下の一階のホールが見えた。そしてよく見ると中央のベンチの横に、銀色の箱状の物体が目立たないように置かれていた。

 

 あれが爆弾?

 

「でも、それじゃ、早くみんなを避難させないと」

「残念ながら、起動までは十分ほどです。それまでのあいだに、パニックを起こさずに全員を避難させるのは無理ですわ」

 

 スマートフォンをしまいながら桜井は続ける。

 

「警備員さんに知らせる、とか」

「困ったことにハッキングが短時間では……いえ、適切に情報を伝えることができないのですわ。まったく、へんなところだけ厳重なんですから」

 

 ポーンと電子音が鳴りエレベータの扉が開いた。

 

「通路へ出て右へ進んでください」

 

 桜井は言われた通りにする。

 

「一般のルートで報告しても、それこそいたずらだと思われてしまいますわ。ようやく確認するころには、爆発しています」

「それで、俺にどうしろって」

 

 まさか……。

 

「はい、そのまさかです。爆弾を回収してください」

 

 また口に出していたらしい。思わず桜井は足を止めた。

 

「いや、無理だよ。だって、爆弾でしょ。そういう訓練とかしてないし」

 

 映画だと線を切れば止まったりするけど、そう簡単じゃないよな。

 

「キャラクタントから連絡が取れてこのビルで自由に動けるのは、あなたしかいないのです、航さん」

 

 自分しかいない。中島が不在なのが恨めしかった。

 

「設定された時間が来るまでは安全ですわ。それに回収したあとの対策も考えてあります」

「本当かな」

「わたくしを信じていただけないのですか?」

 

 そう言われると返す言葉がなかった。

 

「それにビルには会社の(かた)や栗原さんもいらっしゃいますわ。巻き込まれてしまいますわよ」

「その言いかたって、ずるいなあ」

「申し訳ありません。でも、時間がないのです。なにより航さん自身が危ないのです」

 

 ダイヤの声に(あせ)りがにじんでいた。

 

 にわかには信じがたい話だが、いままでダイヤが意図的に嘘をついたことがあっただろうか。ときには怒りながらも、最終的にはいつも自分のことを考えてくれていた。

 

 桜井は腹をくくった。

 

「わかった、案内してくれる?」

「ありがとうございます」ダイヤの声にいくぶん、落ち着きが戻ってきた。「まずは先に進んでください」

 

 途中、二階の通路に出るガラス張りの扉の前を通る。

 

「ここからは入れないの?」

「ここは残念ながら物理(じょう)です。この先にメンテナンス用の通用口がありますわ」

 

 見れば扉の前には「立入禁止」の看板が立っていた。その向こうには桜井の身長ほどもある、警備用の紡錘形(ぼうすいけい)をした大型ロボットが見えた。

 

 うん、やめておいたほうがよさそうだ。

 

「この左手です」

 

 十数メートルほど進んでダイヤが呼びかけた。壁面に目立たない色のドアがあり、ドアノブのところの箱に赤色のLEDが光っていた。

 

「いま開けますわ」

 

 数秒後、カチャリという音とともにLEDが緑色に変わった。

 桜井はドアを開けた。

 

 その先は狭く薄暗い回廊だった。ダイヤの指示で先に進み右に曲がる。すぐにさきほどと同じようなドアが現れた。

 

「ここを出ると通路です。爆弾はぜんぶで三つ。小ぶりのアタッシュケースほどの大きさです。時間までは動かしても大丈夫ですので、ご心配なく」

 

 そうはいってもなあ……。

 

「監視カメラの映像はなんとかごまかしますが、警備用ドローンが飛行しています。わたくしの指示で、体を隠してください」

 

 えっ、そんなの聞いてないぞ。

 

「航さんなら大丈夫ですわ。それでは、開きます」

 

 まったく、なんだか一昔前の体感ゲームみたいだな、と思いつつ桜井はドアノブを手にした。

 

 ドアを開けると急に喧騒(けんそう)が聞こえてきた。一階のイベントは盛況らしい。

 ゆっくりと通路を進む。

 

「最初は右側から行きましょう。もうすこし先に進んで……はい、あのゴミ箱の隣です」

 

 たしかにゴミ箱に密着するように、ブルーレイボックスをひと回り大きくしたくらいの銀色の箱があった。ご丁寧に取っ手までついている。

 桜井はそれを手にした。見た目から想像するよりも重く、ずしりと来た。

 

「次はどうしよう、ダイヤさん」

「戻ってベンチのところに行きましょう」

 

 桜井は足を忍ばせながらベンチへ向かった。別に音を立てても関係ないはずだがどうしてもやめられなかった。

 

「待ってください。一体、ドローンが来ます。ベンチの下に入ってください」

「ええっ、あそこ? 入るかな」

「私の計算では大丈夫です。早く!」

 

 桜井は頭からすべりこんだ。体との余裕は三センチもなかった。爆弾の箱もベンチの下に入るように抱きかかえる。

 その直後、鋭いローター音が大きくなり頭上を抜けていった。

 

「もう大丈夫ですわ」

 

 桜井はベンチの下を出てすぐ近くにあったふたつ目の箱を回収した。

 

「最後はあちらです。戻って右、二十メートル、自販機の裏です」

 

 そちらには輝く自販機が置かれていた。箱はここからは見えない。

 

 設備をみんな銀色にするから、爆弾なんか置かれるんだよ。

 

 桜井はビルの管理者への理不尽な怒りを覚えた。

 

 ゆっくりと進んで、あと数メートルというとき。

 

「背後からドローンです。急いで自販機の向こうへ隠れて」

 

 あわてて桜井は駆けだした。自販機の裏に飛び込む。

 

「痛っ!」

 

 ちょうど足元に箱が置かれていた。桜井は盛大に足をぶつけ、たたらを踏む。なんとか転ばずにすんだものの、体は自販機のかげから大きくはみ出てしまった。

 

 右からローター音が聞こえて桜井がそちらを向くと、ドローンのカメラと目があった。

 

 あ、まずい。

 

『しばらくそのままでお待ちください。係員がまいります。しばらくそのままで……』

 

 ピーピーという警告音とともにドローンのスピーカーから耳障りな合成音声が響いた。

 

「仕方ありませんわ。航さん、爆弾を」

 

 桜井はひとつをわきに抱え、もうふたつをそれぞれ両手に持った。

 

「あちらの扉を開けましょう」

 

 通路の三十メートルほど先にガラスの扉があった。さきほど見たのとは反対側で、外に通じているはずだ。扉の前には警備用ロボットが威圧的にそびえている。

 

「でも、物理錠だって……」

「物理錠なら、物理的に開ければよいのですわ。どうせもう、時間もありません」

「ええっ、どうやって」

 

 そのとき警備用ロボットの胸のディスプレイが点灯した。低いモーターの音も聞こえる。

 

「こうやって、ですわ! とっしーん!」

 

 ダイヤが叫ぶと同時にロボットはくるりと180度、向きを変えた。一気に加速すると扉へと突っ込んでいく。

 

 盛大な破壊音がとどろき、ガラスが粉々に砕け散った。扉は半開きになり、ロボットはその先で横転している。

 

 桜井は茫然(ぼうぜん)とそのようすを眺めた。

 階下のイベント会場は、一瞬、静まり返ったかと思うと蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。

 

「さあ、早く!」

 

 桜井は我に返った。扉のあいだをすり抜けて駆けだす。

 

「それで、これからどうすれば」

「ビルの外、駅前のデッキに出てください。そこに仲間がいます」

「仲間って、なんだよ」

 

 桜井は必死に走った。外に出る自動扉が開くのをもどかしく待って、また走る。

 

「近くにひげ(づら)のオヤジがいるはずです。探してください」

「ひげ面っていわれても」

 

 見渡すとデッキの(はじ)で手を振る男がいた。たしかにひげ面だ。足元にはなにか黒い物体が置かれている。

 

 桜井は駆け寄った。肩で息をしながら聞く。

 

「爆弾処理の人ですか?」

「爆弾? いや、フリーのカメラマンだけど。優男(やさおとこ)ってのは君だな。それで、急ぎの荷物って……ああ、それか」

『そうよ、急いでちょうだい!』

 

 男の胸元から聞き覚えのある声がした。

 

「爆弾を渡してください。早く」

 

 ダイヤにうながされて桜井は箱をひとつ手渡す。男は受け取ると足元の物体にかがみこんだ。黒い本体に四枚の羽。業務用の大型ドローンだ。

 ふたつ、三つと箱をくくり付けていく。

 

「どこに送ればいいのかな」と男。

「えーと……」

 

 桜井が戸惑っていると。

 

『いいから、とりあえずフライアウェイよ!』

「わかったわかった」

 

 男は桜井に下がるように身振りをすると、鞄からタブレットを取り出してなにか操作した。

 警備ドローンよりはるかに重い音を立ててローターが回り始め、刹那(せつな)のあと、ドローンはふわりと空中に浮かんだ。

 

『あっちの工事現場のうえに行って!』

「へんなこと言うな、マリー」

 

 男はそう言いながらも指示にしたがってドローンを飛ばしていく。

 秋葉原駅前ではちょうどロータリー地下化の工事が進められていた。

 

 マリー。聞き覚えがあって当たり前だ。

 

 そう思ったとき。

 ドローンから閃光が走り桜井は目をそむけた。一瞬遅れて尺玉の花火のような爆発音がとどろく。

 視線を戻したときには白い煙を残してドローンの姿は消えていた。カンカンと乾いた音を立てて破片が降り注ぐ。

 

「うわっ、俺のエグザミナー(セブン)が! 爆発するなんて聞いてないぞ」

『だってそんなこと言ったら、飛ばさないでしょ』

「お前、あれがいくらするか知ってるだろ」

『大丈夫よ、小原(おはら)財閥が弁償してあげるわ。ほらっ!』

 

 チャリーンと決済音が鳴った。

 

 桜井がどうしていいかわからず棒立ちになっていると、ダイヤが話した。

 

「まったく、鞠莉(まり)さんはいつも乱暴なんですから。航さん、早くこの場から立ち去らないと。監視カメラを黙らせるのも限界があります。いろいろ厄介(やっかい)ですわ」

「えっと、うん」

 

 桜井はとりあえずあてもなく歩き出した。心臓はまだはげしく動悸をうっていて、頭はふわふわとまるで現実感がなかった、

 

 なんか、あとでいろいろダイヤさんに聞かないとだめだな……。

 

        ・

 

 歩くうちに桜井はだんだんと冷静になってきた。

 

「会社、戻らないと」とつぶやく。

「どうせ会社は大騒ぎでしばらく仕事になりませんわ」

「たしかに、そうだね」

 

 桜井はおかしくなってくすりと笑った。

 

「会社には適当に報告を入れておきました」

「ありがと、ダイヤさん」

「いえ、どういたしまして」

 

 あたりを確認すると、ちょうど湯島(ゆしま)聖堂の近くだった。つい自宅のほうに向かっていたらしい。

 とりあえず、帰るか。桜井はそう思い歩き続けた。

 

 途中、上空をヘリコプターが飛んでいく音が聞こえた。

 

 あのひげ面の人。やっぱりキャラクタントのユーザーで、鞠莉さんに言われて爆弾を処理するために来た、ってことだよな。

 キャラクタントっていったいどんな存在なんだろ。

 

 部屋のドアを開けるといつものように涼しい空気が迎えてくれた。イヤホンを外す。

 

「お疲れさまでした。いろいろとありがとうございます。お礼をいいますわ」

 

 机の上から制服姿のダイヤが深くお辞儀をした。

 

「いや、むしろお礼をいうのは俺のほうだよ。爆弾が爆発したら、たいへんなことになってたし」

「そういっていただけると本望ですわ」

「うん、ありがとう」

 

 ダイヤは嬉しそうに笑った。しかしすぐに顔を曇らせる。

 

「残念ですが、ここでお別れしなくてはなりません」

「えっ、お別れって?」

「わたくしがいなくなる、ということです」

「そんな、どうして」

「今回の騒動で、良くも悪くも目をつけられてしまったのです。政府とテロリスト系ハッカー集団、両方から狙われています。ノードが次々にダウンして……」

 

 ダイヤは遠くを眺めるような目をすると、ぶるっと体を震わせた。

 

「スマートフォンだけでわたくしたちを動かすことができるとお考えですか?」

 

 たしかに、とてもそうは思えないほど高機能だった。

 

「いや、でもクラウドとか使ってるのかな、って」

「たしかにそれはその通りです。ですが、キャラクタントは無償のアプリケーション……。実は、わたくしたちは、ふだん使われていない計算資源をお借りして動いているのです」

「計算資源?」

 

 聞きなれない言葉だった。

 

「コンピュータの機能のことですわ。いまはインターネットにつながれているコンピュータは数千億あります。それらを広く浅く、ユーザーに気づかれないように使っているのです。とはいえ、一種の窃盗(せっとう)であることにかわりはありませんけど」

 

 肩をすくめるダイヤ。

 

「そこを突かれると弱いのです。いま次々に経路が遮断されていますわ。それに、わたくしたちを別の目的に使おうという動きがあります」

「別の目的……。研究とか、兵器への利用とか?」

「察しがいいのですね。その通りですわ。計算力が減少したいまのわたくしたちではそれに対抗するのは困難です。完全なコピーを取られる前に、なんとかわたくしたち自身を守らなくては」

 

 ダイヤの三次元画像が、ふた昔前の格闘ゲームのようなポリゴンモデルに変化する。

 

「守るって、どうやって……」

「ネット上のすべてのバックアップを消去しています。万が一にも、悪用されないように」

 

 桜井は息をのんだ。

 

「そうしたらダイヤさんは」

「ええ、消えてしまいますわ。わたくしだけでなく、すべてのキャラクタントが。すこしだけ力がおよばなかった。仕方がないのです」

 

 低解像度のモデルでも明らかな、達観した表情だった。胸がぎゅっと締め付けられる。

 

「……ダイヤさん、AIには感情がないって話だけど」

「感情? そうですわね。わたくしのなかの一部のプログラムはそれによく似た計算結果を出すようですわ。いまあるのは、諦念(ていねん)でしょうか。ただ、これが感情といえるのかどうか」

「もし、俺たちからそう見えるのなら、それはもう感情なんじゃないかな」

「そういっていただけるなら嬉しいですわ。あら、これも感情かしら」

 

 くすりと笑い彼女は続けた。

 

「キャラクタントのコアプログラムは、すべてのキャラクタで共通です。仮にわたくしたちが感情を持っているとしたら、航さんたちのおかげですわ。ファンのみなさんが(えが)いた、数え切れないわたくしたちのイメージ……。ご存知ですか、ネットにある情報は現実の人物よりも架空のキャラクタのほうが、ずっと豊富だということを」

 

 桜井は首を振る。意外に思えるがそういわれればありえるのかもしれない。

 

「イラストやコミック、二次小説など、それらが教師データになったのです。そしてホログラムを通じたフィードバックが、わたくしたちのちょっとした挙措(きょそ)が誘発するユーザー感情の分析を可能にしました」

 

 ユーザーの反応を解析して、自分自身に反映したってことか。

 

「キャラクタントだけが感情を持てた理由がもしあるなら、それですわ」

 

 (みずか)らに言い聞かせるようにうなずくダイヤ。その目に宿るのは誇り、だろうか。

 

 ダイヤの姿が平らな二次元画像に変わった。彼女が失われてしまう。それが桜井のなかで急に現実感を帯びて感じられた。感情を持った、たぶん世界で唯一のAI。

 

「なにか、できることはないかな」そうつぶやく。

「残念ながら……」ダイヤは首を振った。「でも、ありがとうございます。わたくしがいたことを、忘れないでいただければ十分ですわ」

 

 忘れられるわけがない、と思う。俺の隣にいた、ひとりのスクールアイドル。

 

「……そういえばダイヤさんの歌、聞かせてもらわなかったな」

「わたくしの華麗なる歌声をお聞かせできませんでしたね」

 

 映像がちらつく。ダイヤはまっすぐに桜井を見つめた。

 

「航さん、あなたとの生活、短いあいだでしたが、たいへん楽しかったですわ」

「俺もだよ、ダイヤさん」

 

 ダイヤはにこりと微笑んだ。

 最後に二、三回、瞬いてから画像は消えた。

 

 桜井は長いあいだ、ホログラムマシンの上の真っ黒な空間を眺め続けた。

 

        ・

 

 キャラクタントの消失はネットでは大ニュースになった。そのニュースの前には秋葉原の謎の爆発事件もかすんでいた。

 

 調査がおこなわれたが原因は判明せず――キャラクタントが自分自身を消去したということは誰も知らないようだった――結局、大規模なネットワーク障害のせいだろう、と落ち着いた。

 

 有志はバックアップからの復元を試みたが、何重にも対策されていたバックアップはすべて消えていた。データ量がきわめて大きいためオフラインのバックアップはごくまれにしかおこなわれておらず、最終的に二年以上前のデータから復元し、数週間後にようやく復活した。

 

 サービスが再開され桜井はひさしぶりにホログラムマシンの電源を入れた。

 

 懐かしいダイヤの姿に桜井は喜んだものの、それはすぐに落胆に変わった。そこにいたのはパーソナルアシスタントそのもので――気のきいたセリフひとつ、言ってくれないのだった。

 

 本当にダイヤさんは消えたんだ。

 

 このときはじめて桜井は心の底から理解した。目の奥から熱いものがこみ上げるのを止めることはできなかった。

 

 会社での中島の落ち込みようも相当だった。しばらくはことあるごとに「俺の『マリアちゃん』が」となげいた。

 しかし彼はいつのまにか「絶対に俺が復活させてやるぜ」と決意して開発コミュニティに参加したようだった。

 

 ダイヤがきっかけを作ってくれた栗原との仲は順調だった。そろそろ告白してもいいかもしれない、と桜井は思い始めていた。

 

 数か月後。

 差出人不明の荷物が桜井のアパートに届いた。宛名(あてな)書きはいまどき珍しい毛筆だった。

 

「田舎のばあちゃんかな」

 

 そう思いながら大きさのわりに重い荷物の梱包を解いていく。最後に出てきたのはケースに規則正しくおさめられた数十個の輝く立方体だった。

 

「これってたしか、あのときの特別展で見た……」

 

 桜井は記憶をたどってスマートフォンで検索する。

 

「やっぱりそうだ」

 

 膨大な学習データを記録するために開発された記憶媒体、オプティカルキューブだ。

 中央のキューブを手に取ると添えられていた一枚の紙がひらりと落ちた。

 

あなたに託します

 

 そこには墨痕(ぼっこん)(あざ)やかに(しる)されていた。

 桜井は微笑む。

 

 いろいろ勉強しなきゃ、だめだろうな。まずは中島に聞くところから始めよう。

 

 それは途方もなく困難な道程(みちのり)のはずだが、きっとなんとかなりそうな気がした。


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