訓練の合間、貴重な休暇、荒廃した横浜の街を武は目的もなくぶらついていた。元の世界の賑やかな街並みからは想像もできないほど人気のない、だがどこか記憶の面影を残す破壊された街並みの中をさまよい歩く武。そんな寂寥の思いに囚われていたせいだろう。ふと気付くと昼食の時間を逃してしまった事に気付く。
「ああ!しまった!昼飯……食いそびれた……」
時計を確認し力なく肩を落とす武。だがすぐに食いそびれてしまった物は仕方ないと気を取り直し、周りを見渡す。ほとんど無意識で歩いてきたために現在位置を意識していなかったためだ。周りを見渡した武は一件の建物の扉に目が吸い寄せられた。
「洋食の、ねこや……?」
それは周りの建物の状態からすると奇跡的と言っていい程、きれいな扉だった。普通に歩いているだけであったら気付くことはなかっただろう。きれいな扉と言っても所詮ただのごく普通のレストランの扉だ。この荒廃したこの街にも壊されていない扉など幾らでもある。だが、目に止まったならその異常さが分かる。
「……やってる訳、ない、よな?」
そう言いながらも武の足は不可思議な扉へと引き寄せられていた。ドアノブを掴み扉を押し開く。澄んだドアベルの音が鳴り響く。
「いらっしゃいませ!」
満面の笑みを浮かべたウェイトレスが元気よく声を上げる。営業している、その事に驚き目を丸くしながらウェイトレスに目が行く。日本人じゃない。顔立ちが違う。そして何より頭に付けている変わった髪飾りはなんだ?いやそんな事よりも、そう思い店内を見渡す。清掃の行き届いた店内、奥の厨房からは良い匂いが漂ってきている。明らかに廃墟の中ではない。立派な食堂だ。
「ここは……?」
「異世界食堂へようこそ!」
現実感を失った状態の武はウェイトレスに案内されるがままに席に座る。先程、ウェイトレスは何と言った?異世界食堂?異世界?そう確かにそうだ。ここは異世界としか言いようがない。呆然としていると厨房からコックとしか言いようのない壮年の男が現れる。
「いらっしゃい。洋食のねこやにようこそ……ん?お客さん、もしかして日本の人かい」
「はい、そうです。……あの異世界って一体……?」
「そりゃあ、珍しい。この扉はね、土曜日だけ日本と異世界を繋ぐ魔法の扉なんですよ。だから土曜に日本の方が訪れるのは初めてですよ。まぁ、良い機会です。是非食べていって下さい」
魔法の扉!いや、待て。待つんだ武。そんな物があるはずがない。店主が騙して……いや、大げさに言っているだけに違いない。きっと異世界のような極楽みたいな感じの意味なんだろう。そう思い直した時の事だった。再びドアベルが澄んだ音を奏で、誰かが入って来る。
「!?っっ……リザードマン!?」
そこに居たのは身長2mを優に越える大きなガタイをしたリザードマンとしか言いようのない人物だった。
「いらっしゃい」
「ム。キタ」
店主が出迎えるとリザードマンは片言の日本語をしゃべると手慣れた様子でどっかりと椅子に腰を降ろし、待ちきれないと言わんばかりに注文を口にする。それに応え調理すべく店主が厨房へと引っ込む。
「お待たせしました。お水とメニューをお持ちしました」
「あ、ありがとう……」
一体どうなっているのか、混乱の極みにいる武は用意された水を飲み干す。その味に驚く。冷たい。そして、レモンが絞ってある。懐かしい。こちらの世界に来てからレモンが絞ってあるような気の利いた物は飲んだ事がない。一緒に用意された水差しを見る。レモンが浮かんでいる。
「レ、レモンだ……」
マジマジと『天然モノ』のレモンを見る。今の御時世どれほど貴重な物か分からない。それがごく当たり前のサービスとして提供されている。その時、武は理解する。ここは正しく異世界なのだ、と。どれほど呆然としていたのだろうか。
「お客さん、レモンを見つめてどうかしましたか?」
店主は困惑しているようだが変わった所は見受けられない。『天然モノ』のレモンの何に驚いているのか分からない様子だ。確信を深める。ここは元の世界、あるいはそれに近い『異世界』なのだ。
「あの、BETAって知っていますか?」
「ベータ?……ビデオですか?それが?」
「いえ……ここは本当に異世界、なんですね」
それから武は堰を切ったように話しだす。今いる世界が置かれている状況を、自分が体験した異世界の話を。そして知る。異世界食堂と呼ばれる七日に一度だけ通じる奇跡の店を。
「ふむ、宇宙人に侵略されて合成食糧しかない世界、ですか……」
「はい、レモンなんて貴重品も貴重品でしたね」
「苦労されたんですね、今日は目一杯食べていって下さい」
そうだ。ここは洋食屋なのだ。何の奇跡なのか分からないがここで食事をしないなどという選択肢はない。そう思いメニューを開く。……が、そこで問題が発生する。
「あの、すみません……メニューが読めませ、……」
そこにあったのは一体どこの言語なのか全く見たことのない文字と料理の特長をよく捉えた絵だった。絵だけでも何となくメニューは分かるがやはりメニューは読みたい。そう思い交換してもらおうと声を上げた時の事だった。一つの絵が目に入る。
「ああ、すみませんね。すぐに日本語のメニューをお持ちします」
「……お好み焼き?……あのお好み焼きがあるんですか?」
「はい、用意できます」
懐かしい。元の世界の記憶が溢れ出てくる。武の好物の一つ。もう何年も食べていない。最後に食べたのは……そう、料理対決の時だっただろうか。そう言えばあの時は冥夜が満漢全席を用意したり、純夏が俺の好物をまとめた謎の料理を作ったりしてくれたっけ。それで……あれ?俺は結局誰の料理を……?
「お客さん、ご注文はお好み焼きで良いんですか?」
「あ……はい、お好み焼きでお願いします」
「豚玉とシーフードどっちにします?」
「えっと……両方で!」
「分かりました。少々お待ちを」
懐かしさに少し涙目になっていた目頭を拭い、店主に注文を伝える。この店は懐かしすぎる。まだ、料理を食べてもいないのにこんな状態では先が思いやられる。そう思い自分に気合を入れる。
10分程待っただろうか。お好み焼きが焼ける香ばしい良い匂いが厨房から漂ってくる。その匂いは間違いなく記憶にあるお好み焼きの匂いだった。
「うぉー!たまらねぇ。そうだよ!この匂いだよ!」
匂いに釣られて腹がギュルギュルと空腹を訴える。それを堪えてさらに数分。ついにお好み焼きがやってくる。
「はいよ。お待たせしました。お好み焼きです」
「おおっ!これだよ、これ!」
熱い鉄の皿に盛られた2枚のお好み焼きから立ち上る香ばしい匂いを思いっきり吸い込む。鍛えられた肺活量で肺いっぱいに匂いを楽しんだ後、改めてお好み焼きを見やる。小麦とキャベツそれに山芋などの様々な食材を混ぜ合わせ作られた種を焼き上げたお好み焼き。ソースとマヨネーズが美しい格子模様を描いている。その上ではかつお節が熱に煽られて踊っており、如何にも楽しげだ。そして最後に忘れてはいけないのは彩りを加えている青のりだ。そこにあったのは完璧なお好み焼きだった。
「頂きます!」
手を合わせると武は猛然と箸をお好み焼きに突き入れる。箸で切り取るとふわりと柔らかな感触が箸に伝わる。切った隙間から上に塗られたソースが熱せられた皿の上に落ちて、かすかに焦げる匂いがする。その匂いも楽しみながら武はお好み焼きを持ち上げ、頬張る。
不用意に口の中に放り込んだお好み焼きの熱が口の中を焼く。はふはふと熱を口の外に逃がしながらその熱さをも楽しむ。そうだ。お好み焼きとはこういう物だった。
カリッと香ばしく焼かれた表面と、ふわりと柔らかい中身。それを噛み締めると、口の中に渾然と様々な香りと味が広がる。青のりの磯の香り。かつお節の魚の旨味。豚肉の柔らかな甘味。小麦粉の香ばしい味、卵の豊かな味わい。そしてそれら全てを支えるソースとマヨネーズの味。
幸福だった。懐かしい天然モノの味。涙が自然に溢れてくる。
「あれ?涙が……クソっ、美味いなぁ」
泣きながらお好み焼きを食べ続ける。最後の一口をじっくりと味わうように咀嚼し、飲み込む。感無量。しばし呆然とする。
「マスター、ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
「次は……次は仲間を連れてきていいか?」
「もちろんです。7日後の来店をお待ちしております」
そして、武は店を後にする。どうしたら土曜日に夕呼先生から外出許可を得られるかを考えながら。