メッサー・イーレフェルトが己の中に潜む"何か"に出会ったのはそう遠くない過去の話だ。
その何かは、自分の中を蛇のようにのたうち回り、目の前が真っ赤に染まるほどの殺戮への衝動とひたすら拡大していく戦闘への意志だけを生み出し続ける。
それは2年前、まだ彼が新統合軍のパイロットだった頃に遡る——
◆
目の前に広がる光景は地獄だった。
紅蓮の炎によって包まれる都市。
いくつもいくつもいくつもいくつもいくつも。
いくつもいくつもいくつもいくつもいくつも。
墓標のように転がるのは
地平線、その果てまで広がる死と破壊。
慣れ親しんだ光景が、生まれ育った街が、思い出と共に炎の中へ消えていく。
そんな地獄に、ただひとり立つメッサー。
その光景を見て、これがゼントラーディとの戦争であってくれたならば、どれほど救われただろう。救いを得られたのだろう。
死力を尽くして戦い抜いて、善戦し、守れなかったという悲しみだけを背負って、生きられたかもしれない。
が、違った。
極度に激しく、早鐘のように打つ鼓動。
真っ赤に染まった視界。
口の中に広がる鉄の味。
意識だけが拡大し、破壊と殺戮の衝動に駆られる感覚。
そして、目の前に築かれた屍の山。
周囲には、同じ小隊の仲間たちの——仲間だった物が無残に転がっている。
それが意味する所を悟り、メッサーは残酷なまでに青い空を見上げて慟哭した。
殺したのだ。
その事実が、メッサーの中にあった決して喪ってはいけないものを、喪わせた。
泣いて、啼いて、哭いて。
メッサーの熱に浮かされた瞳と、神経が、天から舞い降りる"敵機"を捉えた。
それが黙示録のラッパ吹きのように見えたのは、ヴァールによる弊害なのか。
我を忘れて、手近にあった銃を手に取り、舞い降りる"ソレ"に向かって構える。
それが当たらないと、今のメッサーに理解できるはずもない。
残り少なかった理性は、殺意によってとうに殺された。
(やめろ)
心が叫ぶ。
だが肉体はそれすら裏切る。
あたりに散らばる犠牲者の墓標に、あとひとりを加えようとする。
(やめろ!)
指にトリガーがかかる。
ほんの少し力を入れれば、この銃口から無数の弾丸が無意味に放たれる。
それがコンマ数秒の世界だったとはいえ、メッサーにとっては永遠にすら思えた。
——その時だった。
理性を失った獣の鼓膜が震えた。
透き通るような歌を聴いた。
ワンフレーズすら聴き取る時間などなかったはずなのに。
確かに聴いたのだ。
ワルキューレの歌を。
◆
「——ッ!!」
ガバリ、と勢いよく身体を起こした。
そこに炎の街はなく、人だった物もなく、屍の山もない。
見慣れたデルタ小隊男子寮、その私室だった。
「……夢、か」
息を吐く。
血の味はしなかった。
だが、血が滲みそうなほどきつく握りしめられた拳と、汗でぐっしょりと濡れたシャツが、より一層不快感を煽った。
額の汗を拭ったメッサーがベッドから降りようとした時、傍に置かれていた携帯端末が震える。
「…………」
ホログラム・スクリーンに表示された名前は〈カナメ・バッカニア〉。
メッサーは少しの逡巡の後、通話のボタンを押す。
「——おはよう、メッサーくん。怪我の具合はどう?」
「もう大丈夫です。明日から任務に戻ります」
ベッドに腰をかけて、包帯が巻かれた右腕を触ってみるが、多少痛むものの、動かす分には問題なさそうではあった。
本当ならば今すぐにでも〈マクロス・エリシオン〉に向かいたいくらいなのだが、アラドから直々に休養命令が下ったので仕方ない。
「……ありがとう。メッサーくんには助けられてばかりね」
「それが任務ですから」
違う。
そんなことが言いたいんじゃない。
感謝したいのはこちらだ。
助けられているのは、自分の方なのだ。
「それでも……本当にありがとう」
やめてくれ。
本当に感謝したいのは自分の方だ。
返しきれないほどの恩を受けたのだ。
でも、それを言ってしまえば終わってしまいそうで、壊れてしまいそうで、限界がくるような気がして——
「……いえ」
——だから、いつものように短く、端的に答える。
そんな自分が嫌いだった。
「それじゃあ、また明日ね」
「はい」
通話が終了する。
部屋にはまた静寂が戻り、窓の向こうから聞こえてくる波のさざめきだけが鼓膜を揺らした。
ふと、視線を動かした先、テーブルの上に置かれた銀色のバングルが目につく。
朝日を受けて煌めくソレは、オーディオプレイヤーだ。
別に好んで音楽を聴くというわけではない。
ただ、2年前、自分に第二の生を与えてくれた歌を、そしていつか訪れる自分の死を送ってくれる歌を手元に持っておきたかっただけのことだ。
この事実を知る者は、隊長であるアラド以外にはいない。
——だがいつかは、感謝の気持ちと共にこの秘密を打ち明ける時が来るのだろうか。
そんなことを、考えていた。
すると、再び携帯端末が震える。
ホログラム・スクリーンに表示された名前を見て、穏やかだったメッサーの表情に、一点の曇りが生まれた。
何となく、用件が何なのかわかった。
いつかはくるだろうと思って覚悟していたことだ。
「…………」
今一度、テーブルの上に置かれたバングルを一瞥してから、メッサーは通話ボタンを押した。
◆
ヴォルドールへの全力出撃から一夜明けた朝。
スバルは〈マクロス・エリシオン〉の研究ブロックにあるウロボロス研へ歩を進めていた。
朝方、惰眠をむさぼるスバルに一通の連絡が着信し、呼び出されたためだ。
理由は不明だが、とにかく来いということだけ伝えたいアイシャは返事を聞かずに通話を切り、スバルも行かなかったら面倒になるとわかっていたので、渋々向かうことを決意し、今に至る。
「……ったく。急に呼び出して何のつもりだアイシャのヤツ」
頭をボリボリ掻きながら、文句をぶつぶつ溢して、意味不明な研究機材や開発中らしき機械が散乱したゴミ溜めのような薄暗い廊下を進む。
その先の角を曲がればウロボロス研だというところで、スバルの聴覚が会話する声を聞いた。
「……もう一度言うわ」
どうやらそれは、目的地である角の先から聞こえてくるようで、スバルはまるでスパイのように音を立てずに壁に張り付くと、その向こうをそっと伺った。
「聞いているの、メッサー・イーレフェルト中尉」
角の先にいたのは、アイシャとメッサーだった。
メッサーはこちらに背を向けており、顔色を伺う事はできないが、ここから見えるアイシャの真面目な表情から、かなり重要な話をしていると言う事だろう。
それは、いつになく冷たく発せられたアイシャの声からも判断できる。
(珍しい組み合わせだな)
本当なら今すぐ立ち去るべきなのだろうが、それを考えずに他人の会話を盗み聞きしてしまったのは、その声色に違和感を感じたからだ。
「何です?」
アイシャの意図をわかっているのだろう。
メッサーも冷淡に、突き放すような声をしていた。
「あなたの身体は危険域にある。このままじゃ近いうちに……」
そこから先をアイシャはあえて言わなかった。
メッサーもそれを理解しているから沈黙で答えた。
側から聞いているスバルには何のことか理解できなかったが、少なくともメッサーが病か何かを患っているということは理解した。
「ランドール上空での遭遇戦——フレイアのファーストライブの時から、あなたの係数は増大の一途を辿っているわ」
「しかし、飛行禁止になるほどではないはずです」
「……そうね」
アイシャは大きなため息を吐いた。
「そして、貴方はデルタ小隊のオブザーバーであっても、責任者ではない。違いますか?」
「その通りよ。だからこの件はまだ誰にも言っていない。アラドにもカナメにもね」
「——ッ!」
メッサーの目の色が変わる。
冷たい氷のような眼差しから一転、灼熱の炎のように燃え上がった。
が、その程度でアイシャが奥する様子はない。
「ね……考え直しなさい。今ならまだ間に合うわ。スバルだっているし、ハヤテも育っている。一旦デルタを退いて、ゆっくり療養したって」
「考えられません。ハヤテはまだヒヨコですし、スバルだって詰めの甘いところがある。とてもじゃありませんがまだ任せられない」
「……はぁ。そんなに飛びたいわけ?」
「飛行機乗りは、皆そう言うものだと思いますが」
「そう」
どいつもこいつも、とアイシャは目を伏せた。
その瞼の裏に映るのはウロボロスで出会った青年だ。
メッサーと毛色は違うが、彼も飛行機バカだったことを思い出して、嬉しそうな悲しそうな笑みを一瞬浮かべるが、また真面目な表情に戻る。
「——ではイーレフェルト中尉。あたしは技術顧問の権限として、あなたを〈VF-31〉のパイロットとして不適合である、と進言せざるを得ません」
「……なるほど」
「フォールドクォーツを搭載した機密の塊である
「——!!」
様子を伺っていたスバルの双眸が大きく見開かれた。
(メッサーが……ヴァール……?)
その事実を、最初は信じられなかった。信じたくなかった。
でも確かに思い当たる節が、あった。
ランドール、ヴォルドール、それ以外にもワクチンライブでウィンダミアに従い戦うヴァールが現れるたびに、メッサーは平静を失っているように見えた。
だが、何より決定的だったのがヴォルドールでの戦闘だ。
フォールドクォーツのイヤリングをつけた時に、戦場に蔓延するヴァールの全てが、身体の中に流れ込んだ。
その、1秒に満たない時間の中で、メッサーの哀しみと絶望を感じた気がした。
気のせいだと思っていたソレは、今の話を聞いてしまったことで、気のせいで済ませられなくなったことは明白だった。
「近いうちに、正式な異動命令が来るわ。ヴァール発生率の低い辺境惑星での教導任務。新設される第10戦闘航空団〈プリンシパリティーズ〉の指揮官。……栄転と思ってほしいわね」
長い、長い沈黙が流れる。
「……そうですか」
メッサーは短く答えると、敬礼をして踵を返す。
そこで、スバルは自分が今何をしているのか思い出した。
このままここにいれば盗み聞きしていたことがバレるだろう。
スバルは慌てて来た道を引き返すと、素知らぬ顔で今しがたここに来たという体を装って歩き出す。
角を曲がろうとしたところで、計画通りメッサーとばったり遭遇することになった。
「…………」
「よ、よお。奇遇だな」
が、メッサーはいつもの仏頂面のまま、何かを言いたそうにスバルを数秒見つめると、そのまま去っていった。
「……なんだアイツ」
「ヘタな芝居ね」
「うおっ!」
いつのまにか角の向こうからアイシャが現れて、去っていくメッサーの背をじっと見つめていた。
「盗み聞きなんて趣味が悪いわよ」
「……聞こえてきたんだよ」
「どうだか」
アイシャはまた大きなため息を吐くと、壁に寄りかかって、タバコに火を点けて咥えるそぶりをした。
禁煙が長い、かつてのヘビースモーカーの癖が自然に出ていた。
「気づいてたんなら言えばよかったろ」
「迷ってたのよ、言おうかどうか。あなたも見てたならわかるでしょ?メッサーはアレで頑固なところがあるから、あたしじゃなくて同じ部隊の仲間から言われれば納得するんじゃないかって」
「なるほどな。だとしたら、アイシャにしては随分打算的な考えだ、と言わせてもらおう」
「打算的にもなるわよ。天才科学者のあたしでも人間の心の機微までわかる訳ないじゃない」
むしろ人の心がわかる人間の方が珍しいだろう。
得てしてそういう人物は、エスパーや超能力者などと呼ばれたりするが。
大抵は、その人物のさじ加減で変わるので、結局、人の心を理解するということには程遠いのだ。
「仮に心が計算できたとしたら、プログラムとか数式とか数字になる。それはもう人間じゃなくてただの機械よ、機械」
「機械、ね……」
「だから、あなたさえよければ、なんとかしてもらおうと思ったんだけど……」
そう言って、わざとらしく頭を抱えたフリをして、薄目を開けて様子を伺う。
口では除隊だ異動だと言ったが、立場上言わざるを得なかっただけで、アイシャも本当はメッサーのことが心配なのだろう。
「まあ、結果として聞いちまった以上、無視するわけにもいかないな」
「……ありがとう」
「ん、じゃあな」
そう言うと、スバルは後ろ手でヒラヒラさせながら、去っていく。
アイシャは、その背中が見えなくなるまで見送ったのだが、そこで——
「あ、スバルの機体、
——スバルを呼び出した理由を伝え忘れたことを思い出した。
しかし、スバルの姿はすでになく、今から追っても追いつけるか怪しいところだ。
「……ま、いっか」
アイシャは大きくノビをすると、大きな欠伸をこぼしながら、研究室へと消えていった。