脚が重い。そして摘まれたように痛い。
肩が痛い。二の腕も摘まれたように痛い。
一歩足を踏み出すたびに全身に鈍い電流が走る。正直動きたくない。けれど、何日も秘書の仕事を放棄するわけにもいかない。改二になってから秘書の仕事はサボりっぱなしになっている。
「叢雲さん、おはようございます!」
後ろから摩耶の元気な声が聞こえる。私は体の痛みを堪え、ゆっくり振り返る。眠たそうな摩耶の顔が一変、急に青ざめた。
「おはよう」
「おはようございます……あの、あたし何かしましたか?」
恐る恐る、そんな様子で摩耶は私に尋ねた。どういうことだろうか。
「特に何もないけど……何かしたのかしら?」
私は普通に尋ねたつもりだった。けれど、摩耶は首と手を必死に横に振って否定した。
「……何かあったんですか?」
「何もないわよ?」
「ならどうしてそんな不機嫌そうなんですか?」
「……あぁ」
私はここでようやく摩耶の様子がおかしいことに納得した。
「……なんでもないわ。ただ納得できないことがある。それだけよ」
「……そうですか……てか、叢雲さん、艤装が最適化するまではお休みなんじゃないんですか?」
「お休みのはずよ。最適化試験で那珂ちゃんの訓練に付き合わされたりしてるけれど」
「ならなんで書類なんて持ってるんですか? あたしが持っていきましょうか?」
「いえ、大丈夫。那珂ちゃんにお礼も言いたいしね」
私の代理を那珂ちゃんが務めている。私の前はずっと那珂ちゃんが秘書艦をしていた。まぁ、那珂ちゃんじゃなくて那珂さんだったけど。私はそんな那珂ちゃんに言いたことが山ほどある。摩耶はそんな私のことを心配そうに見ていた。
ーーーー
執務室の扉をノックし中に入る。
普段は見れないであろう、那珂ちゃんの眼鏡姿がそこにはあった。
「失礼するわ。今日の書類を持ってきたわよ……那珂ちゃん。眼鏡なんかしてたかしら?」
もしかして……
「老眼鏡ではないよ」
那珂ちゃんがジトッと私を睨む。どうやら思っていたことがバレてしまったようだ。
「ルーペメガネっていうの? 字が大きく見えるやつ」
那珂ちゃんはそう言うと、眼鏡を置いて大きく伸びをした。
私は置かれた眼鏡の横に持ってきた書類を置く。正直、この少し屈む動作が一番くる。
那珂ちゃんはそんな私をニヤニヤと見ていた。
「……何よ」
「遅れて来た?」
「……なんの事かしら? 何もきてないわよ?」
とりあえず強がってみた。どうせ那珂ちゃんにはバレている。
「そうなの?………あぁッ?!」
那珂ちゃんは書類を取ろうとして、置いた眼鏡を私の方に落とした。いえ、訂正しましょう。書類を取るふりをして、眼鏡を私の方にわざと落とした。困ったような顔をしていても目が笑っていない。
「ごめん……叢雲ちゃん。拾ってもらえる?」
それはパワハラでしょう。この眼鏡、私も偶然を装って踏んづけてやろうかしら。
あぁ、ダメ。脚が言うことを聞かない。足を上げたら本当に偶然にも踏んでしまうかもしれない。
私はすり足で近づき、ゆっくりと屈んだ。そして眼鏡を拾い上げる。
「……はい」
やりきった。私は自信満々に机の上に眼鏡をおいた。
那珂ちゃんはそんな私を苦笑いをしながら見ていた。
「ごめんね……那珂ちゃんにもわかるよ……」
「私はまだ二十代よ」
「四捨五入したら一緒」
「「…………」」
情けない。那珂ちゃんには文句を言おうと思っていたけど、そんな気も失せた。
「それで、何か変わったことはあったかしら?」
「特にないかなぁ……神通ちゃんから鬼のような訓練申請が来てるだけかな」
「いつも通りね」
「そーだねー。あとは目の前にいる現秘書艦がすっごく機嫌悪そうな顔をしているくらい?」
「摩耶にもさっき言われたわ」
「逆に摩耶ちゃんでよかったね。他の子が見たら、多分声かけられないだろうし、自分がなんかやったんじゃないか疑心暗鬼に陥りそう」
「それも言われたわ。そういえば、司令官は?」
「多分まだ寝てると思う。今日締めの書類を朝方まで処理していたし」
「那珂ちゃんは寝なくていいの? 眠たかったら私がやっておくけど」
「徹夜はお肌の天敵だよ? 那珂ちゃん、昨日も九時には寝たもん」
「そうですか……」
思わず呆れてしまった。上官が頑張っているのに、あなたが寝ていてどうするの。
「叢雲ちゃんも。あんま夜更かしばっかりしてるとお肌のハリが無くなっちゃうよ!」
「もう徹夜なんて出来ないわよ」
「……お互い、歳は取りたくありませんなぁ」
那珂ちゃんがため息を漏らす。どうやらお肌が云々ではなく、那珂ちゃんも徹夜が出来なくなっていたようだ。
私は那珂ちゃんに一礼し、執務室を後にした。
ーーーー
することがない。というのはなかなかの苦痛だ。
自室で読みかけの本を読んでいたらいつの間にか寝てしまうほど苦痛だ。
「お腹空いたわね」
何もしなくてもお腹は空く。けれど、ここでいつもと同じ食生活をしていたら確実に太る。食べたら軽く運動でもしよう。私はそう思い、重たい腰を上げた。突如、部屋の扉を乱暴にノックされる。
「叢雲! いるの?!」
曙だ。その慌てた声で何かあったのがすぐにわかる。
痛む身体に鞭を打って、慌てて部屋の扉を開ける。
「何? どうしたの?」
「鈴谷と摩耶が工廠で大喧嘩してるのよ。叢雲を怒らせたのはお前だって怒鳴りあいながら」
「何をやっているのよ、まったく……」
私は靴を履くためにしゃがんだ。失敗したと後で気がついた。
「……曙。立たせてくれる?」
「はぁ?!」
「立てないのよ。ほらっ!」
私は曙に手を差し出す。曙はよくわからないと言った表情で私の腕を引っ張る。
「痛い! ちょっと! もう少し優しく引き上げなさいよ!」
「筋肉痛なの?! おばさん! 早く立ちなさいよ!」
「誰がおばさんよ!!」
曙に立たせてもらい、急いで工廠へ向かう。
「ちょっと! なにタラタラしてるの!?」
「これが今の私が出せる最大戦速よ……」
「あぁ……もうッ!……ほら! 乗りなさい」
曙がしゃがみこむ。背中に乗れということだろうか。
「……介護は必要ないわよ?」
「それだけ急を要しているということ!」
「なら仕方ないわね……」
私は曙の安くない善意に甘えて、背中に負ぶさった。曙はヒョイっと立ち上がると、そのまま走り出した。
「駆逐艦、曙! 鈴谷と摩耶を蹴散らしなさい!」
「うっさい! クソ兎!」
ーーーー
工廠に着くと、鈴谷と摩耶が取っ組みあいの喧嘩をしていた。夕張と長門が倒れている。なるほど、曙が焦っていた理由もわかった。
「お前がなんか失礼なことしたからだろうがッ!!」
「鈴谷はなんもしてないし! 演習から会ってないし!」
「その演習でなんかしたんだろ?!」
「失礼なことされたのは鈴谷の方だし!!!」
訳のわからない論争を繰り広げながら取っ組みあう二人。私にはある種のコントにしか見えない。それかタチの悪いドッキリだ。
「ほら! なんとかしなさいよ!」
「面倒ね……」
私はとりあえず、近くにいた夕張を起こした。工廠で喧嘩が始まったのなら、ずっとここにいる夕張に話を聞くのが手取り早いと思ったからだ。
「ほら、起きなさい」
何度か頰を叩くと、夕張はゆっくりと目をあけた。意識がはっきりしたのか、頭を抑えるとゆっくりと立ち上がる。
「叢雲さん?」
「そうよ。私は叢雲。それで、なにがあったの?」
「それが、摩耶さんが鈴谷さんに突っかかったと思ったら、喧嘩になりまして……長門さんと止めに入ろうとしたら殴られました」
「そう……わかったわ。夕張、あのバケツに水を汲んでもらえる?」
「水を? わかりました」
夕張は私の言われるがままに空のバケツに水を汲んだ。夕張からそれを受け取ると、倒れている長門の顔にそれをかけた。長門はビクッと反応すると、慌てて立ち上がった。
「起きた?」
「叢雲さん……もう少し優しい起こし方は無かったのですか?」
「こっちの方が手取り早いでしょ? それにビッグセブンともあろう長門が重巡二人に遅れを取っていていいの?」
「面目無い」
長門は深々と頭を下げた。私は空になったバケツを夕張に渡し、また水を汲んでもらった。その間も、二人の喧嘩は続いている。私がここにいることに気がつかないほど熱中している。
私はため息をついた。二人が喧嘩になった理由は察しがついている。那珂ちゃんは摩耶でよかったと言っていたけど、どうやらそうでもないらしい。
夕張から水の入ったバケツを受け取ると、私はそのまま取っ組み合う二人に水をぶち撒けた。突如水をかけられ、ずぶ濡れになった二人は睨むように私を見た。
「どう? 落ち着いた?」
私の顔を見るなり、二人は驚いたような顔をした。金魚みたく、口をパクパクとさせている。
「ほら。歯を食いしばりなさい……長門」
私がそう言うと、長門は二人の頭にゲンコツをした。あれは痛いだろう。私怨のこもった一撃なのだから。
ーーーー
頭にコブを作った二人は、長門と夕張の目の前で正座をさせられている。
話を聞くと、艤装を整備していた鈴谷に摩耶が突っかかったらしい。夕張はやるなら外でやれ。と叱りつけていたが、そういう問題ではない。長門の長い説教を私と曙は端にあるベンチに腰掛けて聞いていた。
「しかし運が良かったわね。もし那珂ちゃんや神通に知られたら、今頃二人とも大目玉よ」
「だから知られる前にあなたを呼びに行ったんじゃない」
「それであんなに急かしたのね」
曙が焦っていた理由がわかった。そして助かった。
もし神通に知られ、これの発端が私の筋肉痛だと知ったらどんな訓練に付き合わされるか。
「しかし、あんた。昨日は普通に歩いてたじゃない?」
「……改二になると、遅れて来るのよ。あなたもそのうちわかるわ」
曙はしばらくポカンとすると、急に笑い出した。怒っている長門も、怒られている二人もこちらを見る。
「それは……摩耶が……悪いわ……」
息も途切れ途切れに、笑いを堪えられない曙が言う。それを聞いた摩耶の顔は青ざめていく。
「だから鈴谷はなんもしてないって言ったじゃん!!」
鈴谷が勝ち誇ったように言う。
「でも何でもないって……!」
「でもなんかしたんでしょ! 摩耶、口悪いし!」
私はため息をつくと、膝に手をあてゆっくり立ち上がった。
「よっこいしょ」
無意識にそう言っていた。曙がそれを聞いて更に笑う。足でバンバン床を叩いている。
「ちょっと! うるさいわよ!」
「ごめんごめん……でも……止まらない……」
笑い転げる曙を無視し、私は鈴谷の後ろに立つと、そのまま頭を叩いた。
「イタッ! 何すんのさ?!」
「あんたも充分口が悪い。摩耶は私とあなたを心配してたんでしょう?」
「……まぁ、叢雲さんに失礼なことするの鈴谷と那珂ちゃんぐらいしか思い浮かばなくて……」
「でも何もしてないし!」
「そうね。誰が悪いとかないわ。強いていうなら……そうね、那珂ちゃんね」
二人が驚いたように私を見る。長門も驚いた様子だった。その時、工廠の扉からガンッと音が聞こえた。
「摩耶。あなたは少し神通に毒され過ぎよ。何かあったのなら、問い詰めるのじゃなくて、会話して話を聞いてあげなさい」
「……わかりました。すいませんでした」
「鈴谷にも謝ってよ!」
「鈴谷! あんたも煽らないの! あなたも少しは会話することを覚えなさい!」
「鈴谷は悪くないもん!」
プイッと鈴谷がそっぽを向く。本当に手のかかるめんどくさい子ね。
「仲間に手をあげた時点であなたも悪いわよ。ほら、とりあえず二人ともお互いに謝りなさい」
「鈴谷……済まなかった」
摩耶は素直に頭を下げた。一方の鈴谷は未だにそっぽを向いている。
「仕方ないわね……」
私はため息をつくと、鈴谷の背中に覆いかぶさった。突然のことで対処しきれなかった鈴谷は、そのまま頭を下げる姿勢になる。
「摩耶、今はこれでいいかしら?」
「ちょっと! 何すんのさッ!」
「はい、あたしは大丈夫です」
「そう。ならいいわ。鈴谷もちゃんと後で謝るのよ」
「退いてよ!」
鈴谷が私を跳ね除けようと暴れる。だが私は腕をしっかり鈴谷の首に回す。
「ほら、暴れないの。とりあえず食堂まで運んで頂戴。お腹空いたわ」
「自分で行けばいいじゃんかッ!」
「全身が筋肉痛で辛いのよ。ほら鈴谷に任せるから」
「「「筋肉痛?」」」
鈴谷と摩耶の声の他に、神通の声が聞こえた。声の方を見ると、那珂ちゃんを締め上げている神通が入り口に立っていた。神通は妙に嬉しそうな顔をすると、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
そのプレッシャーに鈴谷はスッと立ち上がった。しっかりと両手で私のお尻を支えている。私も思わず鈴谷の首に回す手に力が入った。
「……ちょっち苦しい」
「ごめんなさい……これより工廠撤退作戦を始めるわよ。摩耶、長門。敵軽巡に突撃して時間を稼いで。鈴谷はその間を縫って離脱。いいわね?」
「「「了解」」」
「私の前を遮る愚か者め……全艦突撃!!」
私の号令で三人は一斉に走り出した。
「身体が火照って来てしまいました……」
摩耶と長門の突撃を一人で受け止めた神通の脇をすり抜けた時、そんな声が聞こえた気がする。
結局、鈴谷の部屋に身を隠したがすぐに発見され、無茶な訓練予定を組まれてしまい、私の休みは全て無くなった。