第1話
ほんの数年前まで、私は都会のビル群の中で生きていた。疲れ果てた顔をしたサラリーマン達に囲まれて、夜遅くまでパソコンとにらめっこしていたはずだ。
「入るわよ」
それが今は海が一望できる豪華な部屋で働いている。それも、目の前にいるのは優秀なエリートさん。毎日私の目を苦しめ続けたモニターはない。今は昔から愛用しているペンで書類を作るだけ。
「今日もよろしく頼む」
彼は読んでいた書類から目を離さず私に答える。何と無愛想なのだろうか。これでも昔は多くの男性から声をかけられたのだけど。
「今日は新しい子が来る。昼過ぎにはここに来るはずだ」
彼はそう言って一枚の書類を渡してきた。大本営からの通達書。そこには今日付けで着任する者の名前が書いてある。重巡洋艦、鈴谷。私は本名の横に書かれた年齢を見て、驚きが隠せなかった。私よりも九つも下だ。
「子供まで巻き込まなきゃならないほど状況が悪いのかしら?」
「適性があり、本人の意志があれば艦娘になれる。叢雲も志願してここに来たのだろう?」
「…………まぁ、そうね」
きっと現場にいるエリート達は知らないだろう。私達がどうして艦娘にならなくてはいけなかったのかを。そして、艦娘になるためにこの世のものとは思えない程の苦痛を味わなければいけないことを。
「きっと彼女も自分の意志で来るのよね」
何故自分が艦娘になったのか。本当の理由はきっと知らない。彼も、これから来る彼女も。でも私は知っている。
「ならさっさと午前の分は終わらせちゃいましょう」
私はそう言い、愛用のペンを走らせた。
ーーーー
「チーッス!鈴谷だよ!」
私は若い。まだ若い。そう自分に言い聞かせるしかなかった。正直まだ頭が混乱している。私自身も初対面で彼に大概な挨拶をしたのは覚えている。だけど、それは私の方が軍歴が上だったからだ。しかし彼女は違う。今回が始めての配属だということは先程の書類が教えてくれた。
「貴艦の配属、心より歓迎する」
我らが司令官は、顔色一つ変えずにそう言うと私の方を見た。
「叢雲、ここの案内を頼む。私は第二艦隊と哨戒任務の件で呼ばれている。何かあれば会議室を訪ねてくれ」
「わかったわ。じゃあ鈴谷さん、行きましょう」
「鈴谷でいいよ。よろしくお願いね!」
彼女はそう言うと私に手を差しのべた。握手しようということなのか。私はその手を握り返すと、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ行きましょうか」
私はそう言い、執務室を後にした。
ーーーー
工廠、ドック、食堂と案内し、彼女の私室まで案内すると、楽しそうにしていた鈴谷の顔が曇った。
「叢雲はすごいね。その歳でそんなにしっかりして、みんなからの信用もあって…………」
その歳で、という言葉は一体全体どういう意味なのだろうか。私が真っ先に思い浮かんだ感想はそれだったが、どうも彼女の様子がおかしい。
「それなりの努力はしてきたから」
私はそう答えた。どうして自分が艦娘になったのかを覚えていた私は、それなりに努力をしてきたつもりだ。一年目の艦娘の訓練を駆逐艦の艦娘でありながら巡洋艦を抑えて上位三人に入っている。亀の甲よりなんとやらというのは伊達じゃない。
「鈴谷も努力してきたつもりだけど、叢雲ぐらいの時は何も考えずに生きてたよ。ずっと遊んでた。やっぱり努力は昔からやらなきゃ駄目なんだね」
鈴谷はそう言うと困った笑いをしていた。困っているのは私だ。どうやら鈴谷は私のことを年下に見ている。そして今、結構複雑で面倒な相談をされている。
「どうして遊んでいたのに急に努力を?」
私がそう尋ねた。昔から努力をしてきたという自覚は正直に言うとない。私は海がない田舎で生まれて、都会という華やかで素敵な場所に憧れていた。だからそれなりに勉強して都会の大学に行った。そのままそっちで就職したわけだけど、今思えばそれが間違いだったと思える。鈴谷は壁に寄りかかると、迷った素振りを見せたが話始めた。
「昼も夜も構わずに遊び回っていんだけどさ…………あの空襲で親が死んで…………家も無くなって、全部が無くなって…………いなくなってから気がついたの。親がいたから私は幸せだったんだって。もう遅いけど、どうしても親孝行がしたくて、立派なお墓を立てたかったの。でも、馬鹿な私じゃそんなお金作れないし、もう体でも売るかーって思った時に適性があることを知ったの。それでここに来た」
あの空襲とは、未確認飛行物体が都会の空に現れ、爆発する何かを大量に投下した日の事だろう。私はその日、偶然にも営業で地方にいたため、被害は免れた。だけど、戻ってみると高層ビル群は見る影もなかった。
「そう、ご両親を亡くされて…………」
この時、私はあることに気がついた。
「あなた、もしかして記憶があるの?」
私がそう言うと、鈴谷は驚いた顔をしていた。
「うん!もしかして叢雲も?」
「じゃあ、あの拷問じみた手術も覚えているのね?」
「勿論覚えてるよ。本当に痛かったよね。けれど、体は動かないし、ただ痛みだけが伝わってきて…………でも一緒に訓練を受けた子は誰も覚えてなかったのに」
驚いた。私と同じ子を見るのはここに来て初めてだ。私の時もそうだった。私だけ記憶が残っていた。
「でも、よく耐えられたね。何年目なの?」
「訓練を含めて四年よ」
「四年…………?そんな小さい時からここにいるの?」
「ここに来たのは脱サラしてからよ」
私がそう言うと、鈴谷はしばらく考え、みるみるうちに顔が青ざめていった。
「すいませんでした!今までの失礼をお許しくださいませ!」
それはそれはもう土下座でもするんじゃないかという勢いで頭をさげた。
「別に構わないわ。年下だと思われていたのですもの。許してあげるわ」
「後で虐めたりしませんよね?軍隊の女性社会ってすごく怖いのですが」
「私をなんだと…………でもその気持ちはわからなくはないけど、ここは他所みたいにそういうのはないわ。みんな仲良くしてる」
「でも、裏では悪口言い合ってたりとか…………」
「ここにいる子の中には堂々と悪口をいう子もいるけど、陰口をいう子はいないわよ。心配しないで。それと別に敬語じゃなくていいわ。さっきまでタメ口だったのに急に敬語を使われると気持ち悪いわ」
「でも…………」
「でももない。上官命令よ。ただ、TPOはわきまえて頂戴」
「わかりまし…………わかった」
鈴谷はようやく頭をあげると、じっくりと私を見た。まるで不思議なものを見ているかの様だった。言いたいことは何となくわかっている。
「気をつけなさい。私より歳上はあと二人いるから」
「えっ、誰か教えて…………」
「じゃあ今日はゆっくり休みなさい!荷物は中に入っているはずよ!」
私は半ば強引に鈴谷を部屋に押し込むと扉を閉めた。明日から楽しくなりそうだ。