レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督48 The only neat way to slay a "vampire"

「考えたんだが、お前が黒檜大尉と行動を共にするっていうのはどうだ?」

 

 胸を刺されてシンガポール基地の入渠施設に放り込まれ、大量の修復材を浴びせかけられた数時間後。医務室でベッドに横たわっている鈴谷に向かって、見舞いに来ていた村井がそう告げたのは、翌日の、朝と呼ぶには少し遅い時間だった。

 マリーナ湾での戦いの結果は、鈴谷がメイドに撃破されて逃走を許すという戦術的敗北になったものの、当初の予定通り最重要人物のウォースパイトを無事に捕縛出来たので、情保隊としては戦略的勝利と言っても差し支えないだろう。夜が明けた頃には鈴谷もすっかり回復しきっていたが、基地の医官はベッドから出ることを許さず、暇を持て余して話し相手を求めていたところに村井がやって来たのである

 もっとも、彼が鈴谷を訪ねた本題は昨晩の出来事について事実を確認するためだった。好き放題暴れ回った後では言い訳も出来ないわけで、鈴谷は言葉を選びながら村井に事の次第を説明した。ウォースパイトと話していた内容、レミリア・スカーレットの正体、彼女を助けに現れたスカーレットの手先、メイドの能力、戦いの経過と結果。荒唐無稽な話にもかかわらず、村井はいくつか質問を挟むだけで最後まで真剣に耳を傾けていた。そして、鈴谷が話し終わると「信じられんが」と前置きしつつ、「信じるしかないんだろうな」と呟いた。

 もちろん、鈴谷とてすべてを打ち明けたわけではない。特に、情報提供者である博麗と東風谷の存在については黙っていたし、メイドの能力も本人が暴露したから知ったという体にしてある。

 それに、メイドが鈴谷の秘密、BMIについて何らかの情報を得ている可能性があるのも黙っていた。彼女が何をどこまで知ったか分からないが、情報源は間違いなく六ケ所の研究所を襲った時にそこに保管されていた鈴谷に関する実験のデータであろう。電子媒体でも紙媒体でも存在していたはずだ。彼女はそれを見て、海軍の技術者たちが何を求め、何を行い、その結果どうなったのかを知ったのかもしれない。そして、それらの情報の中には決して世には出せない類のものも含まれていたはずである。スカーレット一味がこの情報をどう扱うかは分からないが、自分を追跡してくる情保隊を黙らせるのに、鈴谷の情報を公開すると脅しを掛けて来ることは十分予見出来る。すると、どうだろう。村井は「弱みを握られた」ことでスカーレットを追うことに躊躇するかもしれない。あるいは彼より上の立場の人間が手の平を返すかもしれない。そうなってはまだまだスカーレットを追いたい鈴谷には都合が悪い。だから、黙っておいた。沈黙は金なり、だ。

 村井も馬鹿ではないから鈴谷がまだ隠し事をしていることに気づいたであろうが、あえてそれを追求するようなことはしなかった。こういうところが、鈴谷なりに彼を信頼している理由である。

 とは言え、追い掛けている相手が人知を超越した存在であることに、村井はいささか憂鬱を抱え込んでしまったようだ。それはそうだろう。まさか、伝承の中にしか存在しなかったはずの吸血鬼が目の前で動き回っているのだから。

 

「吸血鬼と言えば日光に弱いが、そう言えば六ヶ所が襲われた時も、クリスティーナ・リー――レミリア・スカーレットだっけか――は日傘を差していたな。やはり、日光が弱点なのか」

「銀も効くらしいですよ。あいつを倒すのなら、銀製の武器を用意した方が手っ取り早いでしょ」

「銀の弾丸を、か?」

「そうです」

「まあ、何とかなりそうな気もするが」

 

 一度は頭を抱え込んだ村井だったが、一方で彼は切り替えの早い人間だった。レミリア・スカーレットへの対処法を考えることは後回しにして、目下鈴谷や情保隊が対応しなければならない事柄について伝えることにしたようだ。本題は何も鈴谷からの事情聴取だけではなかった。

 そのもう一つの本題というのが、情保隊付の艦娘がシンガポールに未来永劫入国出来ないことを告げることだった。中心街に至近で、それ自体が観光資源でもあるマリーナ湾において、深海棲艦が相手でもないのに艦娘が艤装を使って戦闘行為を行ったという事実は、シンガポールの首相を激怒させるのに十分な理由となったらしい。猛烈に怒り狂う彼を前にして、さすがの海軍も鈴谷を庇うことを諦めたようだ。

 医官は彼の職責において鈴谷に安静を与えることを決めたが、シンガポール政府は不届きな艦娘が一刻も早く自国から出て行くことを強く望んだ。彼らの意志は揺るぎないものだったため、鈴谷は急遽軍が手配したチャーター機で帰国しなければならなくなったのである。

 ここまでは予想通りと言えば予想通りである。マリーナ湾で戦えばどうなるかは分かっていたし、それは村井だって同じだ。鈴谷は別にシンガポールに興味があったわけではないからもう一度来ようとは思っていなかったし、スカーレット一味がこの国を立ち去っている以上滞在する意味もなくなってしまっている。鈴谷を含め、シンガポールに展開していた情保隊の要員はすべて一両日中にシンガポールから撤収することが決められ、村井はその決定を告げに来たのだった。だが、驚いたことに早々日本へ帰国することになったのは何も情保隊のメンバーだけではなかった。

 

 そこで、先程の村井のひと言である。

 渦中の人物、元第一航空戦隊「赤城」にして、現シンガポール基地艦娘担当の黒檜大尉もまた、日本に帰ることが決まった。元々、彼女の担当する駆逐艦の改装が呉鎮守府で予定されており、そのために近々日本に向かうことになっていたそうだが、事情が事情だけに黒檜だけ予定を繰り上げてひと足早く日本の土を踏めることになったようだ。仕事の引継ぎなどの残務処理があるため、鈴谷たちと同時にシンガポールを発つことは出来ないようだが、それでも二日遅く帰国するだけである。

 問題はそんな決定を誰が下したのかということだが、答えは目の前の村井が持っていた。彼は明けらかんとして、それは自分だと言ってのけた。

 

「しばらく、泳がせてみようと思うんだ」

 

 村井は自分の考えを述べた。

 

「現状、クリスティーナ・リー、もといレミリア・スカーレットの居場所を突き止める術はない。こちらから奴らに働き掛けるための取引材料もない。さりとて、奴らの邪魔をすれば不意打ちを食らう可能性がある。スカーレットが、黒檜に『加賀を回復させるために記憶を取り戻せ』と言ったのが本当なら、その方法も分からない以上、ひと先ずその通りにさせてみようと考えたんだ。どうせ、加賀の身体は奴らが持っているしな。何かしらの方法で黒檜が記憶の回収を終えた段階で、向こうからコンタクトを図るだろう。その時がチャンスだ」

 

 情報保全隊として最も悩ましかったのは、黒檜の扱いだった。柳本中将は村井に対して、黒檜とスカーレットの話した内容を概ね打ち明けたらしい。だが、当然彼は黒檜が深海棲艦になっていたことは伏せた。だから情保隊の中では、黒檜はあくまでスカーレットに目を付けられた被害者的立場という見方をされている。彼女を守るのか、それともスカーレットをおびき寄せる釣り餌として活かすのか。村井が選んだのは後者であった。

 

「柳本中将は、案の定、呉鎮の榛名に協力を打診したそうだ。榛名の性格なら拒否はしないだろう。うち(情保隊)の司令に話を通して、黒檜が動けるように手を回すに違いない。それならそれで、先手を打っておこうと思ってな」

 

 その先手というのが、鈴谷を黒檜の監視役として同行させるというものだった。村井がそうしろと言うなら、鈴谷に拒否権はない。

 今の情報保全隊の司令は情報畑叩き上げの人物として、軍や政府の中では有名である。一時、榛名は彼の下で働いていたことがあり、上司と部下として以上に、諜報における師弟関係と言ってしまえるくらいに親密な仲であったようだ。この司令以外にも榛名は情保隊の中に幾人もの“仲良し”が居るようで、彼女の情保隊に対する影響力というのは無視出来ないくらいに大きい。

 かの呉鎮の女王は情保隊のみならず軍の内外に幅広い人脈を持っており、彼女が艦娘の身にして鎮守府の部隊を預かる地位にまで上り詰めたのは、この人脈とそれによって生み出される強い政治力によるものだった。柳本中将のような往年の軍人でさえこうして頼っているのだから、榛名の持つ影響力が如何ほどであるかが伺い知れるというものである。

 

 さて、こうした経緯で鈴谷は帰国することになったが、その方法というのも捕まえたウォースパイトを護送することもあって特殊なものになった。プライベートジェットがチャーターされ、そこに武装した鈴谷と兵士、さらにスカーレットがウォースパイトの奪還を図った場合に備えるため、那覇の空軍基地から護衛の戦闘機まで飛来するという大袈裟っぷりである。だが、これほどの大仕事になったにもかかわらず、ウォースパイトの正式な出国手続きは“省略”された。というのも、シンガポール政府がその手続きを拒否したからだ。

   王立海軍の旗艦は空港の出国ゲートを潜れなくなってしまったのだが、“日本へ帰国する音楽隊”に扮した兵士が彼女を「楽器」として音響機材用の大きなケースに隠して保安検査を突破するという強硬手段が取られ、無事に出国することが出来た。もちろん、「搭乗」後はちゃんとした座席が用意され、鈴谷たちと日本への旅路を共にしている。これは一般的には「拉致」と呼ばれる不法行為であったが、端からシンガポールの法律など守る気のない村井は躊躇なく実行した。彼はこの後に起こるであろうシンガポールと日本との深刻な外交問題などまったく気にしていなかったのだろう。彼が警戒していたのはスカーレットや英国政府、あるいはその両方からによる妨害だけであった。

 護送されている間、ウォースパイトは取り立てて騒ぐようなことはせず、終始大人しく従順な様子を見せていた。ただ、彼女は誰の目にも明らかなように心理的な障壁を自身の周囲に張り巡らせており、機上のたった数時間ではそれを打ち破ることは不可能だったし、それが分かっていて村井も無理に尋問するようなことはなかった。

 

 備えに備えただけあったのか、帰国の途は特段問題が起きることもなく、チャーター機は無事に厚木基地に降り立った。最早、捕虜同然となったウォースパイトはそのまま都内のホテルに送られ、そこで軟禁されて尋問を受けることになる(入国に際してはケースに押し込まれることがなかったのは彼女にとってせめてもの幸いだったのかもしれない)。一応、彼女は六ケ所村の海軍施設襲撃事件の重要参考人という扱いになるので、尋問の主は青森県警になるらしいが、村井たちが実際にはイニシアチブを確保するのは目に見えていた。

 彼曰く、ウォースパイトの旧友でもある呉の女王には「青森県警に人脈がないのは確認済みだ」とのことである。続けて、警察官僚出身の与党政治家の名前を出し、「そちら(警察庁)も分かっている」と得意気に言っていたが、興味のない鈴谷はあまり真剣に聞いていなかった。その所為で、彼が横須賀鎮守府の手術室に予約を入れていることまでうっかり聞き逃しそうになってしまった。

 

 ここで言う「手術」とは、すなわち外科手術のことである。どうして鈴谷がこのような医療を受けなければならないかと言うと、どうやらメイドに刺された時にナイフの刃先が体内で折れたらしく、腰元に破片が残っているからだった。その破片はうずくような痛みを引き起こして自らの存在を主張しており、身体の持ち主からすれば鬱陶しいことこの上なかった。メイドの意図せぬ置き土産はひどく鈴谷を苛立たせたが、残念ながらシンガポールではこれを取り出す術はなく、帰国早々に横鎮の医官の世話にならなければならなかったのである。実は、シンガポール基地の医官が鈴谷に安静を命じたのもこれが理由なのだが、休んでいたところで破片は取れないので、さっさと日本に戻って来られたのは良いことだった。

 

 驚異的な回復力を体質として獲得している鈴谷はまともに手術を受けることが出来ない。メスを入れた傍から傷が塞がっていってしまうからだ。このようなことが起きるのは恐らく世界でも鈴谷くらいしか該当者は存在しないだろうが、横鎮は元々鈴谷が所属していた鎮守府であり、情保隊付となった今も拠点を構えている場所である。横鎮の医官の中には過去に鈴谷に対して手術を行ったことがある者も居るため、傷が塞がらないようにして手術を行うノウハウがあった。回復力が高いのは実に有益なことなのだが、その数少ないデメリットの一つが、戦闘中に敵の砲弾の破片などが身体に入ると、それを取り出す前に傷が完全に塞がってしまい、取り残されて不愉快な症状の原因になるというものだ。今回はナイフの刃先だったが、似たような経験は過去にも幾度かしているのである。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 ひと晩も寝れば手術痕など跡形もなく消えてしまうわけで、手術の翌日には鈴谷は新横浜駅から新幹線に乗り、広島に向かっていた。目的地は岩国基地。そこは海軍が使用している滑走路があり、午後一番に海軍が手配したチャーター機が到着する予定となっている。鈴谷が新幹線に乗車した頃にはもうとっくにシンガポールを離陸しただろう。日本へは約六時間の旅程だ。乗っているのは、シンガポール基地の黒檜大尉である。

 スカーレットの動向が完全には読み切れない以上、またぞろ黒檜が誘拐されるリスクも考慮しなければならない海軍は、対策として自軍のパイロットが操縦するチャーター機(軍用の輸送機ではなく、機材は民間の物である)を用意し、それによって岩国基地まで黒檜を運んで来るという方法を選んだ。地上に降りてからは鈴谷が常に監視に張り付く。彼女に対してスカーレット側から何らかのアクションがあった際に対応しようという理由だ。これは、黒檜本人も了承済みである。

 紆余曲折があったとは言え、「赤城」としての記憶を取り戻すことが海軍より許可されたことに黒檜は相当驚いている様子だった。嫌味のない謙虚な彼女には少なからず好感を抱いたが、同時にこれがかつて勇名を馳せた第一航空戦隊の旗艦なのかと思わずにもいられない。なるほど、黒檜は確かに人格者のようではあるが、何か飛び抜けているところがあるようには感じられなかった。

 

 

 チャック付きのナイロン袋に入れられたナイフの破片を眺めながら、西へひた走る列車の中で、鈴谷は思索の海を泳ぐ。メイドが残したこの小さな置き土産が何で出来ているかの解析は、日本に帰って来てからの日程がタイトすぎたのもあって手を着けられていない。そもそもこれは昨日、ようやく鈴谷の身体から摘出された物だ。この後の予定を考えれば横須賀に戻れるのは少し先になりそうなので、滞在先で郵便を使うのがいいだろう。横鎮には海軍の研究施設もあり、そこにこの破片を送れば少なくとも構成する物質の種類は特定出来る。メイドはこれが銀で出来ていると言っていたが、その裏付けは取らねばならない。

 何よりも、彼女が言ったことの真偽を知りたいのだ。

 十六夜咲夜は、吸血鬼「レミリア・スカーレット」の腹心は、艦娘の身体の中にその血が流れていると言った。振る舞いはともかくとして、それまで抑制された表情を維持していた彼女が、血走った眼を見開き、端正な顔を歪めてまでただ荒れ狂う感情のままに怒鳴り散らした言葉。思い出すだけでも胸の奥底からどす黒いヘドロのような怒りが込み上げてくる。

 妄言などと切って捨ててしまうことは容易いのかもしれないけれど、少なくとも鈴谷にはそう思えないだけの理由があった。

 艦娘には、吸血鬼の血が流れている。鈴谷の回復力の高さも、吸血鬼の力の一部であるという。メイドの言った通り、本当に回復力がスカーレットの力に由来するものなのだとしたら、その特性もまた由来してもおかしくはない。例えば、人の生き血を欲してしまう、とかだ。人血を啜るという行為こそ、吸血鬼が「吸血鬼」と呼ばれる所以である。

 

 翻って、熊野の引き起こした連続暴行傷害事件。紙面ではその犯行様態から「吸血鬼の仕業」などと、面白おかしく書き立てられた。当然、そんなことを真に受ける人間は居ないだろう。当時の鈴谷だってそうだった。

 けれど、そんな比喩表現を使った記者が、実は図らずも真実を言い当ててしまっていたとしたら? 本当に“吸血鬼の仕業”だったとしたら?

 熊野が人を襲ったのは、血を吸うためだった。何らかの精神疾患が原因ではなく、艦娘になったことそれ自体、つまりメイドが言ったように、吸血鬼の血をその身に入れたことが原因で“吸血鬼化”してしまったことだとしたらどうだろう。

 あり得ないことではないかもしれない。何しろ、艦娘が人間ではない異形に変化してしまうという事例は過去に存在しているのだ。シンガポールに居た二人の駆逐艦や、元一航戦の「赤城」と「加賀」がそうである。そう、「深海棲艦化」と呼ばれる現象だ。もちろん、艦娘になったことで血を吸うようになったなどという話は聞いたことがないが、メイドの発言と事実の間にいくつか符合する点が存在するのも確かなことだ。

 

 そう言えば、と考えている内に思い出したことがある。鈴谷は一度だけ、熊野に「噛まれた」ことがあった。人に言えないようなことをしている最中での出来事で、その時はついつい気持ちが昂ってしまっただけと軽く考えていたのだが、今思えばその直後の熊野の様子もおかしかった。ひょっとしたら、その頃にはすでに彼女は血を欲するようになってしまっていたのかもしれない。ただ、そうすると熊野は事を起こすよりずっと前からそうした“血への欲求”を抱えていたことになる。

 無論、矛盾する点もある。いわゆる吸血鬼の弱点と言えば日光や大蒜が挙げられるが、熊野は平然と直射日光の下で活動していたし、大蒜も臭いの好みは別として、特別嫌っていた様子はなかったように思う。もっとも、吸血鬼そのものになったと言われたわけではなく、あくまでその血が身体に込められたというだけのことだから、矛盾というほどのことではないのかもしれない。

 いずれにしろ、熊野が実際に人血に対する欲求を持ってしまったと考えるとひとつの辻褄の合ったストーリーが見えてくるのも確かだ。熊野というのは、とにかくプライドの高い女だった。それでいて嫌味なところが少なく、真面目で要領も良く、人と親交を深める方法も弁えていた。鈴谷は、彼女に対する評価には「高潔」という表現が相応しいと考えている。

 

 さて、そんな「高潔」な熊野が、人の血を吸わずにいられなくなったら?

 

 彼女は自分自身を許しはしないだろう。絶対に、許さない。

 だが、頭のいい熊野はまず解決方法を模索したはずだ。ところが、抜本的な方法は見付からない。当時、少なくとも鈴谷の目からは彼女が何ら問題を抱えているようには見えなかったから、かなり巧妙に隠せていたのだろう。何らかの対処療法が見付かったのか、単に小手先の隠蔽に終始していたのか。その後の経過を考えるに、後者であった可能性が高い。

 結局、何ら有効な手立てを打てないまま限界が来てしまった。追い詰められた熊野が選んだのは自らを海に沈めることだった。そうすることで、「吸血鬼」と化した己を永遠に封じ込めようと考えたのかもしれない。いかにも熊野らしい、非情なまでに合理的な選択である。それを、他でもない自分自身に適用するところが特にそうだ。

 すると、彼女が逃げた先の意味も分かる。演習からの帰路、わざと隊列から落伍した熊野は、一路東に向かった。そこは房総半島の沖合。海溝に向かって急激に水深が深くなる場所だ。想像を絶する巨大な水圧が全てを海底に押し込めてしまう。

 

 信じがたい決断。意志が強固な熊野だからこそ選び得た方法。そこに至るまでに彼女が味わった苦痛と絶望はきっと誰にも分からない。助けが欲しかっただろう。だが、彼女は誰にも助けを求めなかった。己の苦悩をおくびにも出さなかった。もっと「器用」にすることも出来ただろうに生来の高潔さがそれを許さず、さりとて下劣な欲求を抱いた自分自身を遂に容認することもなく、情け容赦なく自決を選んだ。それが、「吸血鬼」を封じるたったひとつの冴えたやり方だと信じたのかもしれない。

 

 

 本当に熊野らしい。憎らしいほどに熊野らしい選択。

 彼女は、不器用と言えるほど高潔で、他者の痛みを慮ることの出来る優しい心の持ち主だった。そうでなければ、鈴谷は彼女に惹かれることなどなかっただろう。肩を並べて戦う戦友として、公私分けず時間を共にする相手として、心の底から信頼することなどなかっただろう。

 

 ――ああ、でも。

 

 思わずにはいられない。熊野はどうしてそこまで苦しまなければならなかったのだろう? 一体、彼女が何をしたというのだ?

 

 

 

 ただ、自分の知らないところで艦娘になることが決められただけだ。最終的に了承したのは熊野自身だが、深海棲艦が跋扈している現実を前にして、元々適性者が極端に少ない艦娘になることを拒否するなど、出来ようはずもない。艦娘になる前から彼女は真っ当な人生を歩んでいたし、艦娘になった後も真っ当に生きようとしていた。

 それの、何が悪いのか。罪を犯してもいない。身勝手に振舞っていたわけでもない。むしろ、善良で優しい人だった。そんな熊野が、どうして苦しめられなければならなかったのだろう。

 本当に悪たるは、何の理由があったにせよ、自らの血で艦娘という存在を生み出したレミリア・スカーレットだ。その忌まわしい血が熊野を苦しめ、自ら死を選ぶに至らしめたのだ。

 だから、鈴谷はかの吸血鬼を決して許さない。幻想郷に追い返すだけでは満たされない。熊野を苦しめたツケは必ず払わさなければならない。その細胞の一片さえも残すことなくこの世から消し去ってやらなければ気が済まない。

 

 手に力が入り、ナイロン袋が握った拳の中で潰れる。列車がトンネルに入り、外の光を透過させることがなくなった窓ガラスは鏡のように車内からの光を反射する。そこに剣呑な眼付きの女の顔が写っていた。

 少なくとも見た目の年齢が変わらないという触れ込みなので、顔は十年前、鈴谷が艦娘になった17歳の時と変わっていないはずである。少女と大人の女の中間。肌は瑞々しく、豊かな弾力と張りがある。

 だが、眼だけは誤魔化しが利かないのだろう。十年という歳月、そしてその間に起きた出来事を反映した眼付きになるようだった。

 

 新幹線の自動アナウンスがもうすぐ広島駅に到着することを案内する。同じ車両内の他の乗客たちが何人かそのアナウンスを聞いてごそごそと下車の準備をし始めた。トンネルを抜けた列車は減速し始め、急に建物が密集するようになった景色の中を進む。再び外の光が車内に入り込んで、自分の顔が景色に紛れたのを機に、ナイロン袋を懐に仕舞って鈴谷は下車に備えた。

 

 必ず、殺してやる。

 

 吸血鬼に対する憎悪を鋭くまとめ上げながら、鈴谷はそう誓った。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 久しぶりとなる日本への帰国。厳重な警護の下、岩国基地に降り立った黒檜を出迎えたのは、情報保全隊付の最上型三番艦だった。また誘拐されてはいけないということで、護衛として派遣されたらしい。広島駅からレンタカーを借りて岩国までやって来たという彼女は、黒檜と再会すると挨拶もそこそこにすぐに呉鎮守府に向かうと告げて運転席に収まった。

 恐らくは艦娘になった17歳の時から見た目が変わっていないであろう鈴谷が、大柄なセダンを乗り回しているのは不釣り合いに思えた。だが、存外鈴谷の運転技術は高いらしく、ハンドルを回す手にぎこちなさはなく、非常にこなれた様子である。大きめのシートが黒檜の身体をしっかりと支えていたのと、鈴谷の落ち着いた運転のお陰で乗り心地は悪くなく、道中昼食を共にしつつ、二時間少々で呉に到着した。

 紆余曲折を経たとは言え、これからしばらく行動を共にすることになる相手である。少しでも打ち解けられたらと、車中で黒檜はいくらか話を振ってみたが、鈴谷は短い返事を繰り返すばかりで全く会話が弾まなかった。どうやら、親しくない相手とは積極的に話をするタイプではないようだ。お陰で、呉に着く頃にはすっかり気疲れしてしまった。

 

 さて、呉鎮守府の正門を訪れた黒檜と鈴谷だが、目的の人物はどうやらすぐに会える状態ではないようで、警衛所の衛兵に待ち合わせ場所を予め託けていたらしい。真面目そうな若い衛兵の述べた伝言に従い、二人は十分後、鎮守府近傍の住宅街の一画にある喫茶店にやって来た。

 閑静な住宅街の中であり、年配の夫婦が半ば趣味でやっているような店で、四角い四人がけのテーブルが黒檜たちの座っている物も含めて三セットと、後はカウンター席が四つあるだけの小ぢんまりとした店内だった。店員も夫婦二人だけのようで、キッチンとホールを出入りするオーナーらしき男性とカウンターの向こうで雑誌をめくって暇そうにしているその妻らしき女性。

 立地が幹線道路から離れていることもあって店内の雰囲気は静謐としており、うるさすぎないボリュームで流れている軽やかなジャズが耳に心地良い。全体的に木目調の内装もあって、とても落ち着いた空気に包まれている。道路に面した側はガラス張りとなっており、外の光を柔らかく取り込んでいるので、店内は思いの外明るい。ガラス窓の内側には大きな格子状の木製棚があり、小さな観葉植物や玩具のバス、赤い郵便ポストの形をした小銭入れ、そして木で出来た戦艦の模型が飾られている。一見統一性のないような物ばかりだが、店主夫婦の遊び心が垣間見れた。

 メニューも嗜好飲料と軽食だけの非常に簡素なもので、どうやらこの店はその中でも紅茶をメインにしているらしい。メニューに書かれていたのは紅茶の品目が一番多く、文字のフォントも一回り大きかった。待っている間、黒檜と鈴谷は同じストレートティーを注文した。

 窓際の席を陣取って待ち人が現れるまで時間を潰す。窓の外は時折車が通り過ぎるだけの生活道路で、特に見ていて面白いものでもないが、何とはなしに黒檜は外へ視線を投げていた。テーブルの対面では鈴谷が若者らしくスマートフォンを抱え込むようにしていじっている。聞けば官給品なのだという答えが帰って来たが、様子を見る限り完全に私物化されているようだ。いろいろと問題があるんじゃないかと思ったが、鈴谷は当然のようにスマートフォンをいじっているので、ひょっとしたら仕事をしているのかもしれないと思い直して、結局それ以上踏み込んだことは訊けなかった。

 そもそも、まだまだ折り畳み式の携帯電話が多数を占める中にあって、普及し始めたばかりのスマートフォンを支給されているのだから、肩書通り余程特殊な立場にあるらしい。「情報保全隊付特務艦娘」という、見たことも聞いたこともない肩書を持つ鈴谷は、その本来の職務は“艦娘及び深海棲艦に関する重要情報の秘密保全と漏洩の阻止”だという。そのような職務に対して一般の軍人が宛がわれず艦娘が任命されたのは、時に艦娘に対して実力行使を行うことが考えられたからである。艦娘の秘密を最も漏洩させ得るのは、他でもない艦娘たち自身だからだ。

 元より、かなり独特な経緯で選抜される艦娘と言うのは、どちらかというと徴兵されてなるものであり、全員が全員軍人として高い矜持を持っているわけではないし、国家への忠誠を誓っているわけでもない。取り分け、機密保持という点に関してはお世辞にも意識が高いとは言えない者もおり、そうした者たちが軽率に重大な機密事項を外部に漏らしてしまう危険性は、艦娘を運用するあらゆる国の軍隊について回っているものだった。この問題に対する対策は限られており、ソフト面のもので言えば入念な教育を行い、意識を高めていくことである。一方、ハード面での対策は難しい。人の口に戸は立てられないからだ。そこで、鈴谷のような人材が必要になる。彼女はいわば、情報という水を押し留めておくための最後のダムといったところだろう。

 このような役割は、本来艦娘に課せられるものではない。それが、わざわざ「情報保全隊付」などという肩書まで付けているのだから、余程特殊な事情があるのだろう。黒檜には与り知らぬことだし、知って良いこととも思わなかったので、踏み込んだことは訊いていないし、訊くつもりもない。

 

 

 ところで、特殊と言えば、これから会うことになる人物も、鈴谷並みかあるいはより以上に特殊な立ち位置の艦娘だ。彼女の名は「榛名」。海軍の四大拠点の一つ、呉鎮守府で実働部隊の指揮権を握る現役の司令官であり、呉鎮守府の女王とも呼ばれる。その仰々しい異名は伊達ではないようで、権力者らしく彼女は非常に多忙であるようだ。警衛所で聞いたところによると、呉鎮の女王は会議中でしばらく手が離れないらしく、だからこのカフェで待つようにという伝言を残していたらしい。彼女の段取りの良さは素晴らしく、二人が喫茶店を訪れた時、店員の女性はここで待ち合わせがあることを知っていた。わざわざ指定した上、話を予め通しておくくらいなのだから、店主夫婦と榛名はそれなりに親しい間柄のようだ。

 この喫茶店は地元密着の店らしく、どう見ても近くの住人と思しき有閑な婦人たちが何人か入っている他は訪れる客も少なく、静かでゆったりとした時間が流れている。喧騒を離れて落ち着ける場所があるのは素晴らしいことだと黒檜は再確認した。かつて、「赤城」だった頃の記憶がない黒檜には、艦娘としての現役時代に同僚だった榛名のことを“覚えていない”。彼女がどういう人となりをしているのかは分からない。ただ、このような上品で静かな喫茶店を見出せる眼の持ち主なのだとは思った。

 

 ただ、呉の女王は黒檜の想像以上に多忙な人物であるらしい。店に到着してから既に一時間以上が経過し、元々あまり早い時間に来たわけではなかったので、もうそろそろ夕方と呼べる時間帯に突入する。地上を干上がらせようと頑張っていた夏の太陽も疲れて西へ帰り始める頃合いだ。

 そもそも、二人が呉に来たのはシンガポールの柳本中将が榛名と話をした結果、彼女が一旦は黒檜のことを呉鎮守府で預かると言い出したからだった。そこで、中将は黒檜を呉に出張させるという体裁をとった。もちろん、護衛を担う情保隊にもそのことは通知済みで、だから鈴谷がわざわざ岩国まで迎えに来てくれたのだ。大よその到着時間も予め呉鎮守府には伝えられていたようだが、肝心の榛名の手が空かないのでこうして長い待ち時間が生じてしまったようである。

 しかし、それにしては待ち合わせ場所を鎮守府外部の喫茶店に指定するのは一体どういう訳だろうか。榛名の指示にはどうにも腑に落ちないものがある。

 もちろんそれは本人が来たら訊けばいいだけのこと。目下黒檜にとって問題となっているのは、完全に空き時間となった今現在の暇の潰し方である。呉に来るまでの道中で鈴谷がさほど社交的な人物ではないことと、お互いの性格がそれほど相性が良いわけでもないことが分かっていたので、喫茶店の中では世間話さえすることがなかった。店に着くなり鈴谷は自分のスマホを取り出してそれに没頭し始めてしまったので、黒檜は手持ち無沙汰になった。艦娘だった頃に携帯端末の所持は認められていなかったからか、今でも黒檜はその手の物を持ってはいない。恐らく艦娘「赤城」ではなく、ただの海軍大尉である今の黒檜ならそうした制限には引っ掛からないだろうが、そもそも携帯端末を意識するような考えは持っていないのである。

 だから、鈴谷が自分の世界に入り込んでしまうと本当にすることがない。こんなことなら小説の一つでも持ってくれば良かったと臍を噬むが、生憎日本まで持って来た物はキャリーバッグの中。そしてキャリーバッグは呉鎮の駐車場に留め置いてあるレンタカーの荷室の中だ。

 プライベートの時間は大概小説を読んで過ごす黒檜は、いくつか読み進めている本があった。読書は唯一と言っていい黒檜の趣味だ。他に何か日常的にするようなことがあった気がするのだが、気のせいだろう。

 かくして暇を持て余していた黒檜は店内を観察していたがすぐに飽きてしまい、何となく窓から外にぼんやりと視線を投げているだけになった。正面の航巡娘は彫刻にでもなったかのように微動だにしない。寝ているのかと思って覗き込んでみると、画面をフリックする指だけはせわしなく動いていた。

 一体、この何にもならない時間はいつ終わるのだろう。左の手首に巻いている腕時計を見ても時間が早く進むこともなければ待ち人の気配を感じることもない。この動作自体、喫茶店に入ってからすでに十回以上は繰り返していて、時計の針は前回見た時からほとんど動いていなかった。

 待てど暮らせど来ない榛名によって暇潰しも会話もない退屈な時間を強要されているというこの状況に、次第に黒檜の中で苛立ちが募っていく。心がカサつくと目に見える全てが苛立ちを助長するように思えてくるもので、変化のない窓の外も、固まったまま自分の世界に没入して黒檜を無視している鈴谷も、すっかり冷めきってしまった紅茶も、何もかもにも腹が立った。

 こんな感情に支配されてはいけないと、自制のために小さく溜息を吐く。すると、不意に鈴谷が顔を上げた。

 まるで息の音で我に返ったかのような反応。

 そして一言、

 

「来そうですか?」

 

 黒檜は首を振る。鈴谷はスマホを懐に仕舞い、両手を突き上げて椅子に座ったまま大きく伸びをする。白いワイシャツのボタンが豊かに実った胸部に下から圧迫されて弾け飛びそうだ。彼女は艦娘としての制服姿で、ワイシャツに焦げ茶色のプリーツスカートという出で立ち。別にそれが何か問題なわけではない。真夏の呉はシンガポールに負けず劣らず暑いし、クールビズの一環でアウターを脱ぐのは規制されていないしモラルにも反しない。ただ、ワイシャツから透けて見えた紫色のブラジャーというのはいささか扇情的すぎるのではないだろうか。

 

「うーん。来ないなぁ」

 

 伸びをしてから今度は頭を上げて窓の外を見つつ、鈴谷はぼやくように呟いた。下着が透けていることに気づいていないのか、はたまた眼の前に居るのが同性の黒檜だから気に留めていないのか。

 少し大雑把にすぎるかもしれない。鈴谷は中々に成熟した身体の持ち主だし、顔はアイドルよろしく非常に整っている。それなのに派手な下着が透けるのを厭わないのはちょっと無防備じゃないかと心配になってきた。

 それでなくとも艦娘というのは美形ばかりだし、制服も動きやすいように丈を短く切ってあったりして露出が多い。男の軍人との“そういう類”の噂が流れることも偶にあるし、変な目で見られることも少なくない。軍の風紀が乱れてはいけないと、艦娘に手を出すことを禁じる軍規があるくらいで、軍人たちはもちろんのこと、艦娘自身にも清潔で慎ましく、正しい貞操観念を持つように指導される。

 しかし、何かにつけてとにかく型破りな鈴谷は、清楚さなどどこ吹く風である。男の情欲をくすぐることにまったく頓着していないようだった。

 この店に男性はオーナーしかいないし、彼も厨房に入ったきり出て来る気配がなく、他の客も女性ばかりなので異性の目を気にする必要はないのかもしれないが、例えば新たに男性客が入って来たりする可能性もあるわけだし、そもそも国家の艦娘が下着を透けさせているというのはいかがなものかと思う。

 

「鈴谷さん。寒くない?」

 

 直接口にするのも憚られるので、それとなく黒檜は注意を促した。運転中は薄手のアウターを羽織っていて、鎮守府に到着した時に暑いからと脱いでいた。店内はちょうど良く冷房が効いていて熱くもなく寒すぎもせず、快適な温度に保たれていたからわざわざ一枚羽織るほどのものではないが、目的は鈴谷に自覚させることである。

 ところが、当の鈴谷は黒檜の言った意味を理解しなかったのか、愛想笑いを浮かべて「ダイジョーブですよ」と答える。

 大丈夫じゃないから言ってるの! と突っ込みたかったが我慢した。多分、彼女は言っても聞かない性分だろう。

 それでも、言うべきことは言わなければならない。海軍軍人として。スマートさを維持するために。

 

「そうじゃなくて……」

 

 ――カランコロン。

 

 

 軽やかにベルが鳴り、不意に涼しい店内にじっとりとした熱気が侵入する。ドアが勢い良く開かれたせいでベルが盛大に揺れてあまり美しくない音色を奏でる。

 半ば飛び込むように店に入って来たのは、待ちわびていた榛名だった。夏服である。眩しいくらいの白い衣装に身を包み、灰色がかった黒髪を振り乱しながら彼女は現れた。この暑い中走って来たのか、息は切れ切れ、額には汗が浮いている。

 

「すみません、お待たせしました」

 

 榛名は迷わず黒檜たちの待つテーブルまでやって来た。その途中、オーナーの妻に軽く会釈する。ぎこちなさのないその仕草に、やはり二人が以前からの知り合いなのは間違いない。

 一応礼儀として立ち上がった格下二人に、榛名は恐縮した様子で「座っていて構いません」と言って自分もさっさと椅子に座る。鈴谷の隣だ。

 

「ごめんなさい。昼一からの会議がすごく延びちゃって。随分お待たせしてしまいました」

 

 ぺこりと頭を下げる榛名。

 鎮守府司令官であり、金剛、比叡に次ぐ最古参の艦娘の一人である榛名は、黒檜にとっても鈴谷にとっても大先輩であり上官でもあるのだが、目下の二人に対して彼女はまったく偉そうに振る舞う素振りがない。その丁寧な仕草には却って黒檜の方が恐縮する。

 

「もう夕方になっちゃいましたね。何かおやつでも注文しますか?」

 

 懐から取り出したハンカチで顔の汗を拭きながら言う。黒檜は鈴谷と顔を見合わせた。紅茶を頼む時に見たメニュー表にはあまり大した軽食がなかったように思う。

 

「飲み物も新しいものを頼みましょうか」

「いえ、お気になさらずに」

 

 二人を代表して黒檜が辞退すると、榛名はハンカチを仕舞いながら、

 

「何だか疲れてしまって……。甘いものが食べたいんです」

 

 と、はにかんだ。黒檜は鈴谷と顔を見合わせた。腹が減ってないと言えば嘘になる。運動したわけでもないのに、不思議と空腹感があった。

 鈴谷も同じ気持ちなのだろう。小さく頷く。そして、榛名は二人の静かなやり取りを見て鋭く悟ったようだ。

 

「すみませーん」

 

 と声を上げて店員を呼ぶ。オーナーの妻が伝票を片手に現れた。

 

「いつものを三つお願いします」

「かしこまりました」

 

 人の良さそうな彼女はニッコリ笑うと、伝票に書き込んだ。

 大雑把な注文の仕方とそれで正しく店に伝わったと思われる様子が、榛名がそれなりの回数、ここに通い詰めていることを強く示唆していた。すっかり常連客の風体になっている呉の女王は椅子に体重を預けて肩から力を抜いた。

 

「ここのおススメはホットケーキなんです。味は保証しますよ。なんたってここのご主人、艦娘母艦『沖縄』の元給養員長だった方ですから」

「マジ?」

「あら!」

 

 黒檜と鈴谷は声を揃えて驚いた。

 何しろ「沖縄」と言えば、“飯が美味い”ことでは海軍随一と名高い軍艦である。その給養員長、すなわち艦で作られる料理の味において最終的な責任を負っていた人物とあれば、その腕前が如何ほどのものであるかと想像した時、無意識に唾液が分泌されるも致し方のないことだ。ぶっちゃけて言えば、制服組のトップである海軍幕僚長なんかより余程偉大な人物である(と思える)。

 がぜん、二人は沸き立った。もちろん静かな店の雰囲気をぶち壊すような騒ぎを起こしたりはしないが、精神は非常に高揚した。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 食事中は仕事の話は止めましょう。

 

 という榛名の提案の下、三人は間食に舌鼓を打った。榛名イチ押しの裏メニューは、きつね色に焼かれたホットケーキだ。焼き立てなのか、乗せられた白いバターがどんどん溶け出している。メープルシロップを掛けるようにという榛名の助言に従ってバターの上に琥珀色の液体を落とすと、ゆっくりと広がって甘い匂いが鼻をくすぐった。小さく切り分けようとナイフを入れてみると、初め弾力で刃が押し返されるが、力を少し加えるとずっぷりと生地の中に沈み込み、奇麗に切り分けられた。

 二枚重ねられた内の上の一枚を一口サイズに分け、さっそくひとつを口に入れてみる。よく焼けているのか表面はさっくりしているが、絶妙な膨らませ方のおかげで中はふわふわだった。さらに、バターの塩気とシロップの甘さが絡み合い、黒檜は思わず「美味しい」と零してしまった。奇をてらわずシンプルに焼き上げている分、このホットケーキを作った人物の腕の良さが伺い知れる。元給養員長という主人の経歴は伊達ではない。

 食が進めば自然と会話も弾み、海軍の昔話から、榛名がやたらと推す間宮製菓のお菓子、海兵が飛ばした小粋なジョークなど、色々と話題が飛んだ。気が付けば時間が過ぎるのも忘れ、美味しい昼食に待たされた恨みも霞と消え、ふと窓の外を見るとすっかり日が暮れてしまっている。いつのまにか他の客も居なくなり、店内はオーナー夫婦と黒檜たちだけになってしまっていた。

 

「あら、もうこんな時間。長居し過ぎてしまいましたね」

 

 黒檜は退出の頃合いだと思って声に出したのだが、意外なことに榛名は動こうとしなかった。それどころか、「追加のレモンティーを頼みます」と言い出す始末。仕事はいいのかと気になって尋ねると、

 

「これからその話をするんじゃありませんか。基地では出来ないお話もあるでしょう?」

 

 と事も無げな回答。

 

「基地で、出来ないお話?」

「榛名のことを快く思わない方々も多いですから」

 

 榛名はそう言って、注文を取りに来ていたオーナーの妻に向かって微笑んだ。彼女は注文を取り終わると何故かテレビを着け、不自然に大きな音量を出す。黒檜は抗議を上げなかったが不可解極まりなかった。

 

「あの、これは何をなさっているのでしょう?」

「テレビですか? 話が聞こえづらくなるように着けてもらいました。盗聴の防止です」

「あ、そういうことですか」

「そういうことです。榛名は鎮守府司令官になりましたけど、残念ながらそれを妬んでいる方が呉鎮の内外にいます。出る杭は打たれる、……ではありませんが、榛名の足を引っ張って引きずり降ろそうという企みもちらほら。そういうのには日々気を付けていないといけないんです」

「それは、大変ですね」

「大変なんです。もう、ドロドロしたものばかりで嫌になっちゃいますよ」

 

 そう言って榛名は困ったように笑う。その様子からあしらい方は心得ているようで、まったく危なげなさそうである。

 手元ではテーブルから食器が下げられ、妻が湯気の立つティーカップを一つ持って来た。榛名はさっそくカップを持ち上げ、少しだけ口に含んでから顔を顰める。どうやら、熱かったようだ。店内は空調が適切に効いていて心地良い温度だが、真夏の今はホットティーを飲むにはいささか熱すぎる季節ではないだろうか。その上、榛名は猫舌らしい。どうして、ホットティーなど頼んだのだろう。

 

「ところで」再度、紅茶を啜ってから、再び榛名は口を開いた。

 

「シンガポールでは大変だったようですね」

 

 明確な榛名からの合図に、黒檜は鈴谷と視線を交わした。先程から航巡は借りてきた猫のように大人しい。そこが榛名の真横だという位置関係を差し引いても、明らかに鈴谷には静かにこの場をやり過ごそうという意図が見えた。元々彼女と榛名は部下と上官という関係だったからだろうか。

 どの道、この場で榛名と話をするのは黒檜の役目だ。そもそも呉に来たのも、榛名が「赤城」の仲間たちの居場所を知っていて且つコネクションがあるからである。榛名と会えるように手配してくれた柳本中将の厚意を無碍にすることは出来ない。

 鈴谷はあくまで護衛として派遣されたわけだが、それが建前であるのは黒檜だって承知していたし、実際のところ、黒檜に対する監視という役目も負っているのだろう。海軍に入隊してからの記憶がほとんどない黒檜には組織の中の力関係や派閥というものが分からないから、かつて情保隊にも関わっていたと聞く榛名と今の情保隊がどういう関係になっているのかを知る由はない。が、察するに微妙な関係なようなので、迂闊なことを口にすれば墓穴を掘ることになり、中将にも榛名にも迷惑が掛かってしまう。となれば、黒檜としては鈴谷の前で出来る話しかしてはならないことになる。慎重に言葉を選びながら、黒檜は話し始めた。

 

「榛名さんは、私がかつて空母『赤城』だったことをご存知ですよね」

 

 すると、榛名は意味深な笑みを浮かべた。

 

「知っているも何も、あんなに頻繁にやり取りしていた仲じゃないですか。よく、間宮の話題で盛り上がりましたよね? 何回も飲みに行きましたし」

「……え、あ、そうなんですか!?」

 

 まさかの情報に黒檜は素で驚く。よもや、それほど「赤城」と親しい間柄だったとは。

 だがそれもさもありなんかもしれない。元々同じ部隊に配属された僚艦同士で、所属が分かれた後もそれぞれ別の拠点で秘書艦を務めていたという。秘書艦同士には横の繋がりがあることが多い。それは各鎮守府・泊地・基地での非公式な情報交換のためであると言われているが、一番の要因は秘書艦が特権的にパソコンやその他の情報端末をある程度自分の裁量で使えるということにあった。つまるところ、仕事と称して私的なやり取りに用いているのである。

 秘書艦的立場であっても艦娘ではない(と思っていた)黒檜は、他の秘書艦たちとそうしたやり取りを交わすことはなかったが、これはよく聞いた話であるし、秘書艦たちとの会話の中で、よく別の拠点の秘書艦の名前が出て来ることがあったので、そういう繋がりが強いんだろうというのは想像出来たことだった。

 

「そうなんですよ。って、今は黒檜大尉でしたよね。ごめんなさい」

「いえ。構いません。私の目的は、その『赤城』としての記憶を戻すことなんです」

 

 すると、テーブルで手を組んでいた榛名はその両の手を解いて黒檜の前まで伸ばした。顔を喜色に染め上げている。

 そうしなければいけないような気がして、黒檜が榛名のほっそりした手を取ると彼女は嬉しそうに握った。何だかよく分からないが、多分歓迎の意味が込められた握手なのだろう。

 

「素晴らしいご決断をされたのですね! 榛名は大感激です」

 

 と、わざわざ言葉にしなくても分かることを口走り、随分と機嫌良さそうにニコニコ笑う。榛名の反応の理由が分からなくて黒檜は目を白黒させた。榛名が協力的であることは柳本から知らされていたが、さすがにここまで喜ばれるのは予想外である。

 

「貴女が記憶を戻したいと願うなら、榛名、尽力するのを厭いません!」

「えっと、どういうことですか?」

「どうもこうも、言葉の通りですよ」

「それは助かりますけど、正直ちょっと意外だと言うか。榛名さんがそんなにお喜びされている理由に見当つかないと言うか」

「理由ですか? うーん。話せば長くなるんだけど」

 

 そう言って榛名は悩むような振りをして見せるが、その仕草と喜色ばんだ表情からは明らかに話す気満々である。

 

「そうですね。榛名が赤城さんと仲良くさせてもらってたのはさっき言いましたよね。でも、赤城さんは加賀さんを失い、ご自身も酷い怪我をされてしまいました。

あの鎮守府が壊滅し、瓦礫の山から赤城さんは意識不明の状態で救出されたんです。最初それを聞いた時、榛名は赤城さんのことを諦めてしまいました。『ああ、また一人喪ったんだ』って。今だから言えますけどね」

 

 照れたように笑い、榛名は握っていた黒檜の手を放してティーカップの持ち手を摘まむ。だが、中身を飲む素振りは見せずに、ただ少しばかりソーサーから浮かせて軽く中の液体を揺すっただけで、彼女は話を続けた。

 

「正直、その時榛名は結構感情的に動いてしまったんですね。六ケ所の海軍病院に収容された赤城さんのことがやっぱり心配になって、仕事をほっぽり出して青森まで飛びました。何をやっても手に付きそうになかったし、呉は人も多いので榛名が少し抜けても大丈夫でしたから。

それで、ちょうど六ヶ所に着いた日です。救出されてからは三日経っていました。榛名が病室に入った眼の前で、まるで待ちかねていたかのように赤城さんは目を覚ましたんです。

びっくりしましたよ。本当にただの偶然なんでしょうけど。そして次にはその場で小躍りしたくなって仕方がありませんでした。お医者さんも看護師さんもいらっしゃった場だから辛うじて自制しましたけど、赤城さんと二人だけだったら本当に踊っていたでしょうね。

あの時のことはよく覚えています。主治医の先生も看護師さんも大わらわになってね。最初、寝起きだったのか赤城さんはぼーっとしていて、何も喋りませんでした。榛名も声を掛けてみましたけどあんまりはっきりした反応が返って来ません。

その日はそれだけでしたが、次の日にはちゃんと喋れるようになっていましたよ。榛名は次の日も赤城さんを訪ねて行って、ちょうどお昼時にお邪魔しました。午前中は会議が入っていましたから。

で、赤城さんに挨拶したんです。赤城さんも返してくれました。前の日よりずっと意識がはっきりしていて、本当に怪我人なのかって思ったくらいしっかりした反応でした。

その次に榛名は『お久しぶりですね』って言いました。すると赤城さんは『どこかでお会いしましたでしょうか?』と答えたんです。

……ええ、そうです。目が覚めた時、貴女は何も覚えていませんでした。

もちろん人としての記憶はありましたけど、『赤城』としての記憶が、まるで誰かに抜き取られてしまったかのようにごっそりとなくなっていたんです」

 

 その言い回しに、少し黒檜は引っ掛かりを覚える。抜き取られてしまったというのは、「赤城」としての記憶に対しては言い得て妙ではないかという気がする。確かに、黒檜は自分が「赤城」だったころの記憶がまったくない。それこそ、そこだけ切って抜き取られてしまったかのように。

 

「多分、その時のことも黒檜大尉は覚えていないでしょう。酷く混乱されていたようでしたし」

 

 確かに彼女の言う通り、黒檜はその時のことを覚えていない。病院に居た記憶はあるのだが、とても曖昧ではっきり思い出せないのだ。それが戦傷の後遺症よるものなのかどうかは分からないが、とにかくその後はっきりとした記憶があるのは病院を退院する場面である。医者と看護師に見送られ、強面の海軍軍人のエスコートで車に乗せられ、大湊の警備府まで行った記憶がある。

 

「その後、榛名は呉に戻らなければならなくなったので、直接顔を合わせることは今日までありませんでした。

ただ、貴女には時間が必要だと思ったので、余計なお世話だったかもしれませんけど、榛名から貴女を受け入れてくれるところを探させてもらったんです。それでオーケーをもらえたのが、柳本中将の所、シンガポール基地でした」

「え? ということは、私がシンガポールに行ったのは榛名さんのお陰だったんですか?」

「中将から聞かれませんでした? ええ、そうです。榛名が手配したんです。後方で、それほど忙しくないシンガポールなら、療養には悪くないと思いましたので」

 

 榛名はまた一口だけ紅茶を啜った。もうすっかり冷めてしまっているだろうに、口に含んだ量はわずかだけのように見えた。

 それにしても、そんなところで榛名が関わっていたとは驚きだ。やはり「赤城」と榛名は相当親密な仲であったらしい。なるほど、柳本中将が真っ先に頼る先として榛名を選んだのは当然だ。彼でなくとも、二人の関係を知っている者なら、黒檜のことを榛名に預けようと考えるだろう。

 

「だから、榛名としては黒檜大尉のお力になりたいと思います。万能ではありませんから何でも出来るわけではないですけど、最大限のお力添えはしたい。あの時は無力だったからこそ、今日こうして訪ねて来られたのは榛名にとって望外の喜びでありました」

「そう仰っていただけるなんて恐縮です」

「とんでもない。恐縮だなんて思わなくていいですよ。榛名は自分がやりたくてやっているだけです」

 

 それこそ、望外な榛名の好意に、彼女からどこまで協力を得られるだろうかと心配していた黒檜は、取り敢えずのところ安堵することが出来た。終始ニコニコとしていて、上機嫌な様子を隠し切れていない呉の女王を見るに、手厚く助けてもらえるのは間違いなさそうだ。

 そうした榛名の好意というのは、黒檜から申し出る前に本題を尋ねてきたところからも容易に読み取れた。

 

「それで、榛名にしてほしいことは何ですか?」

「かつての、仲間の居場所を教えてほしいんです。彼女たちに会う必要がありますから」

 

 黒檜が即答したところで、喜色一面だった榛名がふと真顔になった。目元から笑い皺を消して真剣な眼差しで、黒檜の手元を見詰める。彼女は一、二秒ほどそうしていたが、やがて視線を上げてかつての戦友と目を合わせた。

 

「彼女たちの居場所をお伝えすることはやぶさかではありません。ただ、その前にどうしてそうする必要があるのか、教えていただけますか?」

 

 その言葉で、黒檜は自分の言葉選びが少々誤っていたことに気付いた。それは鈴谷も同感だったようで、彫像のように固まっていた彼女も少しだけ顔を隣の戦艦の方に向けた。

 柳本が何をどれだけ榛名に伝えていたかは知らない。だが、今の榛名の様子を見るに、「記憶を取り戻す」ことについては言っていなかったのだろう。「記憶を思い出すのにかつての仲間と会いたい」くらいの言い方に留めておけば良かったのかもしれないが、「必要」とまで言い切ってしまっては、榛名がそこに食い付いてくるのも当然だった。

 取り繕ってこの場をやり過ごせるほどの腹芸など黒檜には出来るはずもなく、観念して白状するしかない。鈴谷も知っていることである。

 

「おっしゃる通り、今の私には、『赤城』だったころの記憶がありません。ごっそりなくなっているんです。ただ、その記憶を取り戻すにはかつての仲間に会いに行かなければならないと言われたんです。レミリア・スカーレットさんに」

「それではまるで、会えば記憶が戻ることが保証されているようではありませんか。しかし、記憶喪失になってしまった人の記憶というものがそう簡単に戻って来るものなのでしょうか?」

 

 この問いに、黒檜は答えられなかった。

 レミリア・スカーレットは確かにかつての仲間に会えば、記憶を取り戻せると言っていた。けれど、それが具体的にどういうことなのかを彼女は説明しなかったし、今も不明なままだ。彼女との再接触が図れない以上、その言に従って仲間に会うしかない。そうすれば、何が起こるのかが分かるだろう。

 答えに窮する黒檜に対し、榛名はあえてそれ以上待つことはしなかった。代わりに彼女が再び口を開き、

 

「シンガポールで起こったことの粗筋は把握しています。分かっていることより、分からないことの方がずっと多いってことも、承知しています。レミリア・スカーレットという人物が何者で、何をしていたのかも、もちろん知っています。

信じて欲しいのは、榛名はただ貴女の力になりたいと純粋に思っているということです。そのためなら出来ることは何でもするつもりですし、労を惜しみはしません」

 

 どうして、柳本や江風が榛名の名前を出したのか、その理由を理解出来た気がした。

 彼らは榛名の人柄をよく知っていたのだろう。こういう言葉を素直に出せる人物だからこそ、頼るように言ったのだと思う。

 

「ありがとうございます」

 

 丁重に頭を下げる。榛名は再び笑顔になった。

 

「皆さんと再会されるというのは口で言うほど簡単ではありません。大変ですよ。なにせ全員バラバラなところにいらっしゃいますし、中には行方知らずになった子も」

「ええ。知っています。川内さんのことですよね?」

「ご存知で。なら話は早い。他の方々の所属ですが、まず第七駆逐隊の曙さん、漣さん、潮さんは佐世保鎮守府です。木曾さんは古巣の大湊警備府所属ですが、実際には室蘭駐在になっています。こちらはもっと遠いですね。それから金剛お姉様ですが、舞鶴鎮守府にいらっしゃいます。ただ、一番厄介なのは舞風さんと野分さんかもしれません。二人はドバイの駐屯地、海外に居ます」

「ドバイですか!」

 

 あっけに取られてしまう。海軍がいくつか海外に持っている駐屯地の一つがドバイだ。シンガポール基地も同じく海外駐屯地の一つで所属している艦娘の数は少ないが、ドバイ駐屯地はさらにこじんまりとした拠点だったはずだ。

 海軍がそんなところに拠点を構えているのは、ドバイがペルシャ湾岸で最も重要な港湾を持っていること、沿岸の産油国(特に日本にとって重要なサウジアラビアとアラブ首長国連邦)が艦娘の駐在を求めたからだった。シンガポールにはまだ海賊退治という仕事があったが、ペルシャ湾には海賊は居ないし、深海棲艦も今まで一度も現れたことがない。だから、「ドバイ勤務」は艦娘の間では閑職の代名詞のような認識を持たれているようだった。

 寄りにも寄って、そんな遠い場所に二人の駆逐艦は飛ばされてしまっていたのである。そこに何か作為的なものがあると考えるのは邪推だろうか。それでも、居場所の分からない他の川内よりは余程ましなのだろう。

 

「ええ。さすがに遠すぎるので、この二人は呉に呼び寄せておきます」

「そんなことが出来るのですか?」

「出来ますよ。呉の管轄になりましたから」

「え? 佐世保じゃないんですか?」

 

 驚いて頓狂な声を出すと、呉の女王は小首を傾げた。

 日本海軍は海外に複数の駐屯地などの拠点を設けているが、それら海外拠点をすべて統括しているのは佐世保鎮守府だったはずだ。外海に向いた佐世保は地理的にも南方方面と近いのでこのような役割を得ることになった……はずだった。

 

「昨年の五月まではそうでしたよ。でも、六月になって一部の海外拠点の管轄が呉に移管になったんです。南方方面、南西方面は相変わらず佐世保のままなのでシンガポールには影響はなかったでしょうが、ドバイや欧州の拠点は今や呉の管轄です」

「そ、そうだったんですか……。知らなかった」

「無理もありません。ちょうどその時、大尉は入院されていましたからね」

 

 言われて初めて頭の中でカレンダーを過去の方向にめくってみる。確かに、黒檜、もとい「赤城」が負傷して入院していたのはそのころのはずだ。ならば、知らなくても不思議ではないということか。

 

「ですので、舞風さんも野分さんも間接的には榛名の部下ということになりますから、呉に呼び出すのは難しいことではありません」

「すごい、偶然ですね。でも、助かります」

「いえ。これしきの事、何でもありません。後は、他の方へも話を通しておきましょう。まずは木曾さんにお会いされてはいかがですか」

「遠いところから、ですね」

「ええ、そうです。……と言いたいところですけど、黒檜大尉は運がいいようで」

「と、言うと?」

「実は、新型甲標的の試験のため、現在のところ木曾さんは横須賀鎮守府に滞在しています。ですから、先に横須賀に行ってお会いされた方が良いかと」

「あら! それはまた、偶然……」

 

 驚いた黒檜に榛名は小さく微笑んでティーカップを口元に運ぶ。相変わらず飲むというより啜ると言うにふさわしい行為で、降ろされたカップの中身をちらりと伺うと案の定半分も減っていなかった。

 ホットケーキ合わせて注文したストレートティーを飲み終えて以来黒檜は何も飲んではいなかったが、話をしている内に喉が渇いてしまったので、店員を呼んで再度紅茶を頼んだ。同じく、鈴谷の手元にも今は何の飲み物もないので顔を向けて注文の意志を確認すると、彼女は小さく首を振った。

 仕事とはいえ、これから鈴谷をあちこちに連れ回すことになるのに黒檜は少なからず後ろめたさを抱いていたし、同情心もある。あまり、良い過去を持っているわけではなさそうだ。でなければ、「情保隊付」になるようなことはなかっただろう。

 食事中の雑談の間、一人で喋り続けていた榛名は時折鈴谷にも話を振っていた。その度に鈴谷は短く答えるか、つまらなそうに相槌を打つかしていた。少なくとも、鈴谷が榛名に対して友好的な感情を抱いているとは言えない様子だった。それでも、榛名は黒檜が注文した紅茶が来るまでの間、性懲りもなく鈴谷に話し掛けては素っ気ない反応を返され、しかしそれで気を悪くした様子を見せないでいる。榛名の方はどうやら鈴谷に対してはかなり好意的であるらしい。

 二人の関係性がどういうものであるかを、この短時間で見出すのは難しかった。ただ、ひとつ言えるのは、黒檜に味方する榛名が、情保隊の鈴谷を牽制しているわけではない、ということだ。榛名はどうやら、単純に鈴谷と会えたことに喜んでいるだけらしい。

 

 シンガポールから日本へ出発する直前、江風がひとつの警告をしてくれた。「鈴谷には気を付けろ」と。それが彼女なりに黒檜を想っての行動であることは理解しているが、今のところ江風が警戒するほど鈴谷は注意するべき人物ではないように思えている。まだどういう相手なのか、黒檜の中で鈴谷に対する評価はまったく固まっていなかったが、少なくとも拒絶する必要はないだろう。いずれにせよ、今後の黒檜の身の振り方に彼女は深くかかわるのだ。だったら、仲良くしていても損ではない。


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