犠牲は決して少なくなかったが、第四駆逐隊は与えられた任務を完遂した。「硫黄島」がタグボートによって修理ドックに押し込まれるのを見続けてようやく野分は任務から解放されたことを実感する。暖かく出迎えてくれた横須賀鎮守府の艦娘たちは、野分と舞風の二人に早く休息を摂るように勧めたが、二人は「硫黄島」が安全なドックの中に入るまで任務は終わらないと考えて、二人で護衛し続けた。
戦死者は全部で八十名にものぼる。ガンシップのパイロットや、被弾の衝撃で吹き飛ばされた者、行方不明になって戦死したとみなされている者。「硫黄島」の搭乗員数に比すれば八十の命が失われたことはあまりにも大きい損害だった。その上、ヘリは二機が失われ、無人機に至っては全滅、「硫黄島」それ自体も長期のドック入りを強いられてしまった。
それでも、横鎮の艦娘たちや指揮官たちは二人に労いの言葉を掛け、努力と功績を手放しに称えた。ただ、誰も、二人の鎮守府がどうなったのかを教えてはくれなかった。
「寮の部屋を空けてあるの。相部屋になっちゃうけどいいかしら?」
横須賀での野分と舞風の世話役を買って出たのは、二人と面識のある矢矧だった。マーナガルム作戦で一緒に戦った時よりかは気さくな雰囲気を出す彼女の気遣いが、見知らぬ者だらけの鎮守府に放り込まれたばかりの二人にとって、気休め程度であっても安心材料になったのは確かだ。
しかし、そんな彼女でさえ野分たちの鎮守府のその後については語ってはくれない。情報が入って来ているかいないかだけでも知りたいのに、まったく口を閉ざし、聞こうとすれば露骨に話題を逸らすのだ。
「何かあれば気軽に呼んでね」と言って仕事に戻った矢矧。二人は艦娘寮の空き部屋に放り込まれた形になった。矢矧は結構多忙な身らしく、聞けば次期横須賀鎮守府秘書艦に内定しており、現在はその研修に追われているのだという。横須賀程の巨大な鎮守府ともなると、秘書艦も複数置かれ、矢矧はその内の一人になるそうだ。
気軽に呼んでね、とは言われたものの、敷地も広くどこに何があるかもまだよく分からない横鎮の中ですることなどほとんどなかった。任務の報告書などは「硫黄島」の艦長が作成してくれるようで、野分にも舞風にもこれといった仕事は与えられなかった。むしろ、周囲の軍人や艦娘からは「今は休むことが任務だ」とさえ言われる有様である。
「疲れたね」
あまり使われていないのか、感触の硬いベッドに身を横たえながら天井を見上げていた野分に、同じように寝転がった舞風が呟いた。二段ベッドかと思いきや、六畳そこそこの広さの部屋にはシングルが二台据え置かれていた。
「うん」
疲れたと言えば疲れている。全身に疲労が溜まって野分は動く気にもなれなかった。潮風を浴び続けたので風呂に入って体を洗いたいし、胃袋も空っぽで何か食べたかったが、何よりもまず全身を覆う疲労感を抜き取りたい。だから、二人してベッドに寝たままなのだ。
「みんな、どうなったのかな」
「分からない」
「生きてる、よね。死なないって、金剛さん言ってたもんね」
「うん。大丈夫だよ」
言葉が口を滑っている自覚はあった。敵の規模がどれ程だったのか、正確なところを野分も掴んではいないが、まともに相対すれば生還を諦める程度には巨大な軍勢だっただろう。横鎮や大湊からの救援部隊が向かったとのことだが、その後のことは何も聞かない。鎮守府を出港したのが午前中で、日没前には横須賀に到着出来たのだから、おそらく決着はもう着いているだろう。
情報が欲しい。
知りたい、という欲求はどうしても強かった。だから野分は億劫だけれど身を起こした。
「のわっち?」
「外に行こう。まず、お風呂よ。それから何か食べましょ」
「……うん」
その言葉を舞風は待っていたのだろう。野分と同じくしんどそうだったが、素直に彼女も起き上がった。
風呂と食堂の場所は寮ですれ違った艦娘に聞いた。一応、矢矧から彼女の持っているPHSの番号を聞いていたが、忙しそうな矢矧に些末なことを尋ねるのは憚られたし、意外と世話見の良さそうな彼女ならひょっとしたら仕事から離れて案内にやって来るかもしれないと思ったからだ。それはさすがに具合が悪いだろうということで、たまたま近くに別の艦娘が居たから聞くことにした。
横鎮は何もかも規模が大きいようで、艦娘寮にも何人もの艦娘が住んでいる。そのため大浴場に大食堂、おまけに夜勤の艦娘のために夜遅くまで営業している売店もあるようで、鎮守府の中を移動しないといけないのではないかと心配をしていた二人を安心させた。風呂に入って塩を洗い流すと、二人はそのまま食堂にやって来て遅い夕食を注文した。
本来なら夕食は決められた時間に一斉にとるものと決められているが、今日横鎮に来たばかりだと言うと、既に食器の片づけを始めていた厨房の職員たちは手を止めてわざわざうどんを作ってくれた。
仕事を中断させて悪いと恐縮しつつも、湯気立つきつねうどんを前にすると、腹どころか喉まで鳴って、野分は夢中でうどんを掻き込んだ。簡単な、冷凍麺を解凍して出汁粉末をお湯に溶かしただけのうどんなのに、涙が出るくらい美味しかった。舞風が若干涙ぐんでいたのは、彼女が猫舌にもかかわらず熱いうどんを野分と同じく慌てて掻き込んだため、だけではないだろう。
お揚げは味がよく染みていた。出汁まできっちり飲み干すと、身体が内側から温まって気持ちがいい。しっかり手を合わせて「ごちそうさまでした」と感謝を表す。
「ちゃんと手を合わせるのね。えらいわ」
ふと横合いから声を掛けられ、野分は慌てて振り返った。一つ離れたテーブルに一人の女が座っている。
さっきまで食堂に居たのは野分と舞風だけだったはず。厨房ではまだ何人かが片付けをしていたが、誰も食堂には出て来ていなかった。
その上、女の恰好もまた珍妙なものである。まず目を引いたのは長い金髪で、海外の女優のような艶と光沢のある美しい髪だった。頭には蝶結びの赤い紐で飾られた白いふんわりとした帽子を被っており、長い髪の毛先もいくらか束ねてリボンで結ばれていた。美しいと言えばその顔立ちも同じく、視線を向けられるだけで身が竦むような美貌である。
彼女は大きく胸元の開いた煽情的な紫のドレスに身を包んでおり、明らかにこの軍事施設には似合わぬ出で立ちであった。どこかのホテルのパーティ会場ならいざ知らず、基本的に軍装ないし作業服か背広姿しかいない基地の中でするような恰好ではない。彼女はどうみてもこの横須賀鎮守府の所属ではない、外部の人物だろう。奇妙なことに傍らには白い日傘が丁寧にテーブルに立て掛けられていた。もう夜なのに。
艦娘しか利用しない食堂に居るような人物には思えなかった。というより、まともな存在ではないと、頭の中で警告する声が響く。
だが、立ち上がろうにも尻は椅子に張り付いたまま、足は硬化して野分の意思に反してピクリとも動かない。女の見詰める視線に、身体は全く言うことを聞かなくなってしまっていた。まるで、身体の支配権を女に奪われてしまったかのようだ。
「あの吸血鬼に使い走りにされるのはとても不服なんだけど」
と女は前置きをした。「あの吸血鬼」という言葉に心当たりのある野分だったが、そこを指摘する発言は許されていないようだった。舌が喉に張り付いて動かない。女のアメジストの瞳が「黙って聞きなさい」と命じている。
「伝言よ。『片は付いた。今日から丁度一週間後に迎えをやるから準備して待っていなさい』と」
「迎えって?」
意外なことに、舞風は女に問い返すことが出来た。野分は硬直して動けなかったというのに。
「そこまでは知らないわ。自分の手下をやるんでしょう」
「あ、じゃなくて……。何で、提督は迎えをやるって言ったのかなって」
「手元に動かせる艦娘を置きたいのでしょう。次は、ヨーロッパに行くと言っていたわ」
「ヨーロッパ、ですか」
気付けば自分の舌も動かせるようになっていたので、野分はさらに生まれた疑問を投げ掛けた。
迎えをやるということは、二人に軍を離れろと言っているのと同じだ。軍を非正規な手段で出た艦娘がどうなるかというのは野分も聞き知るところであるし、それはつまり自分たちが追われる身になるということ。レミリアは分かっていないはずがないのに、そう言ったのだ。そしてまた、唐突に出て来た「ヨーロッパ」という単語に混乱はさらに深まるばかりだった。
他方、女は「そんなこと知らないわよ」と言いたげな投げやりな顔で肩をすくめる。
「他の、他の人たちも一緒なんですか? 金剛さんとか、川内さんとか」
「さあ? まあ、あの吸血鬼は貴女たちのお仲間も全員助けたそうだから声を掛けているかもしれないわね。彼女の目的は知っているけど、何をどうするつもりまでかは聞いていないから、詳しいことは教えられないわよ」
「あ、それじゃあみんな無事だったんですね」
舞風はほっとしたように呟いた。それで話を打ち切るタイミングと見たのか、女はすくっと立ち上がり、日傘を手に取った。
「私からは以上よ。聞きたいことがあるならもう本人に直接ぶつければいいわ」
機嫌が悪いのは本当らしく、用事が済んだと言わんばかりに女は踵を返して食堂から立ち去ろうとする。
聞きたいことは山積みだったが、女の態度からもう聞き出せることはなにもなさそうだったし、彼女の言う通りレミリアに直接尋ねるしかないようだった。そもそも、女が何者であるかさえ定かではなく、この謎めいた状況の中でただ一つ分かったのはどうやら鎮守府の艦娘たちは無事だということだけだった。
「ああ、それと」
不意に女は立ち止まり、わずかに後ろを振り返ってこう言った。
「あの吸血鬼の肩を持ってやる必要はないんだけどね。貴女たちを悪いようにしないと思うわ。あれは存外お人好しでね。貴女たちが姉妹艦と共に暮らせる未来というのを、ちゃんと描いているんじゃないかしら」
それじゃあね、と女は背を向けたまま手を軽く振って食堂から出て行った。
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シの半音下げ。ファ。ド。ファ。レの半音下げ。ミの黒鍵・ファ。もう一度ミの黒鍵。ソのナチュラル。
シの黒鍵・ファ。ド・レの黒鍵。ド・レの黒鍵・ド。シの黒鍵・ラ。
間違えた。最後の音はラの半音下げである。指が白鍵を叩いてしまった。
難しい。中々頭の中で鳴り響く目標の音楽のように弾けない。
部屋が暗いせいだろうか。窓もなく陽光溢れる世界からは隔絶された小さな部屋の中は、少女と少女のピアノと、それから大切な棺が一つ。端から端まで十歩も歩けば到達してしまうこの狭い空間が、少女の演奏会場だった。狭すぎて録に音が響かず、打鍵の奏では冷たい壁に吸い込まれていってしまう。
だけどそれでいい。ここは練習部屋。本番はいつともどこでとも知れない。明日訪れるのか、十年後か、はたまた百年後か。いずれ来るその日その時のため、少女は毎日練習し続ける。
とは言え、今日は練習をし過ぎて指が傷んだ。時計もないこの部屋だから、少女が時間の観念を忘れて久しい。ただ疲れ切ってかすかな痛みを発する指先だけが時の経過を教えてくれる。指を休めるために手を止め、自分が理想とする音楽を想起する。脳内に叩き込まれた思い出の音こそが少女の道標。
途端に暗い地下室の中は、広々として明るい大きなコンサートホールへと早変わりする。高い天井。ステージを中心にして階段状に整然と並ぶ観客席。二階席まである千人は容易に収容出来そうなホールだ。照明の集まるステージはニスの塗られた木目の床が光を反射し、その上にはピカピカに磨かれた黒いグランドピアノが据え置かれている。
演奏はそこに奏者が腰を下ろすことでようやく開幕する。奏者は鍵盤を前にして両手を構え、一息吐くと曲を奏で始めた。
テンポの速い曲だった。序盤から奏者の指が激しく狂ったように鍵盤の上を踊りまわる。そのくせ、音は一つもずれることなく、楽譜通りに黒鍵と白鍵を正確に叩いていく。弦が叩かれて発する音はピアノから飛び出すと辺り一帯の空間に広まり、壁や天井に反射して聴き手を包み込むように響いた。奏者によって息を吹き込まれたピアノは高らかに歌い上げ、音符が奏者の周りをゆっくり回転しながら踊った。
休めていたはずの指が自然と動き出してしまう。空中に鍵盤を見出した指は奏者を真似て曲を奏でる。小さく開いた口からはテンポに合わせたハミングが漏れる。
今や少女は一つの楽器と化していた。頭の中で演奏する奏者に合わせて、指で中空のピアノを弾き、足でリズムを採って、旋律をか細い声が謡う。
奏者である彼女が弾いて見せた音楽。少女の弾きたい曲。
それまで少女の頭の中に漠然としか存在しなかったその曲を、彼女は楽譜に落とし込んだ。今もその楽譜は目の前のピアノに据えられている。鉛筆で手書きしただけの、お世辞にも綺麗とは言えない楽譜だけれど、彼女の残してくれた大切な指標だった。少女にピアノを教えられなくなった彼女が、今後の練習に役立つようにと、書いて作ってくれた楽譜。もう単なる音符を記載した紙ではなくなってしまっていた。
目指す音楽は頭の中にある。こうしてイメージを想起することだって出来る。後は、実際にピアノで奏でられるようになるだけ。
でもそれが難しい。頭の中の奏者の姿に自分が重なることがなかった。
少し休んだらまた練習だ。いつの日か彼女に聞かせるため、今日も少女は――フランドールは、ピアノを弾き続ける。
未だ目覚めない彼女のため。棺の中で眠り続ける友人に捧げるために。
少女祈祷中……