レミリア提督   作:さいふぁ

20 / 55
レミリア提督19 Trust Me!

 川内たちが母艦の「硫黄島」に帰還したのは日没直前であった。

 敵主力の随伴を掃除し、小破させ、若干ながら駆逐水鬼の戦力を削ぐという一応の作戦目的は達成出来たわけだが、一方でその時の川内の予定にない降伏勧告により、隊内の空気は最悪だった。当事者である川内に突き刺さる視線は冷たく、まるで針の筵に居るような居心地の悪さであった。

 それに加えて、川内の方もレミリアに対しての不満が相当に膨らんでおり、結局帰りは誰も口を開かず、誰もが機嫌悪く沈黙したままだったのだ。

 それは「硫黄島」のウェルドックに収容されてからも変わらず、作業員たちが戻って来た艦娘から艤装を取り外している際も、最低限の事務的な会話以外、言葉が交わされることはなかった。普通なら、この時間は作業員にほぼ任せきりになるので、艦娘たちは作戦終わりの一時をリラックスしながら雑談に興じたりするものだが、今日に限っては誰もそんな気分にはならなかったのだろう。

 作業が終わり、艤装が取り外されると川内以外の妙高を始めとした昼戦のメンバーは肩を怒らせたままさっさとウェルドックから出て行ってしまう。恐らくは、艦橋にいるであろうレミリアに直接事の真意を問い質しに行ったのだろう。あのレミリアが妙高たちの詰問にまともに受け答えをするとは思えず、徒労に終わることは想像に難くないが。

 

 

 一方、一人残された川内も作戦終わりの疲労感がどっと押し寄せて来ていて、未だ騒がしいウェルドックにそれ以上残る用事もないので、とぼとぼと自分に与えられた艦室に戻ることにした。

 どのみちもう日没であるし、夜に出られない自分は用済みだ。後は夜戦のメンバーが上手くやって駆逐水鬼を撃沈するなり鹵獲するなり、あるいは失敗して撤退するなりして戦いは今夜中に終わるだろう。そこまで考える余裕もなく、ただ今はベッドに横になることだけを求めた。

 ウェルドックから艦室までへのやたら長く感じられる経路を歩き抜き、扉を開けた時、川内は室内で待ち構えていた人物を見て動きを止めた。止めざるを得なかった。

 

「あら? お帰りなさい」

 

 艦橋に居るはずのレミリアだった。いや、居なければならないはずだ。彼女はこの作戦の指揮官なのだから。

 ところが目の前の少女提督といえば、川内のベッドに腰を掛けてこちらを見上げているばかり。何かの作業の途中というわけでもなさそうで、単にしばらく前からここで川内を待っていたのだろう。

 

 川内は扉を閉めて中に入った。

 

 

「……何やってんのさ、こんなとこで」

「待っていたのよ。貴女を」

「作戦はいいの?」

「コロネハイカラ島に近付くまでは消化試合よ。オペレーターに任せておいても問題ないわ」

 

 作戦全体の指揮は指揮官が執るが、航路のガイドや探知した情報の伝達などは指揮官の補佐役である作戦オペレーターが担う。作戦において重大な意思決定を行うのはあくまで責任者である指揮官の職責だが、中には簡単な戦闘の指揮などをオペレーターに任せてしまう者もいる。レミリアはそうした指揮官の、典型的な一人だった。

 

「私は、提督と話したいことはないんだけど」

 

 だから、彼女がこうして川内の艦室まで足を延ばしたのは、何かしら言いたいことがあってなのだろうが、それを分かった上で川内はつっけんどんに返す。昼戦で、駆逐水鬼の説得工作を妨害された怒りはまだ心の底で燻っていたからだ。

 

「そう? 私にはいっぱいあるのよ」

 

 レミリアはベットから腰を上げて川内の目の前に立つ。

 

「さっきはね、貴女の身が危なかったから下がらせたの」

 

 その目は真っ直ぐ川内を見上げていた。

 川内はレミリアのややオーバーサイズな軍服の胸元に目を落す。

 

「もうちょっとで嵐の方が口説き落とせそうだったのに?」

「ええ。でもその前に萩風が逆上していたでしょう。そうなってたら、貴女は最悪轟沈していたかもしれない」

「……」

 

 レミリアの言っていることは正しい。

 確かにあの時、嵐は降伏勧告に揺らいでいたようだが萩風の方は完全に敵意を増幅させていた。仮に嵐を口説き落とせていたとしても、その後萩風がどういう行動に出ていたかは想像がつかない。ならば、あの場でのレミリアの判断は正しいと言えよう。

 それでも川内が悔しいのは、あと一歩のところで二人を取り逃がしてしまったからに他ならない。もう少しで、と思わずには居られないのだ。

 

 

 

「ねえ、川内」

 

 囁き掛けるように名を呼ぶレミリア。

 川内は尚も彼女の胸元を睨んだまま。

 

「もう一度、出撃出来る?」

「……は?」

 

 パッと視線を上げると、レミリアのルビーのような瞳が視界の中心に据えられる。

 いつも真っ直ぐなその目が、やはり今も真剣な色を帯びて川内に向けられていた。

 

「何言ってるのさ? 私は夜の海に出れないんだよ? 出たら嘔吐する。戦闘どころか航行すらまともに出来なくなる。前にも言ったでしょ?」

「ええ。知っているわ。それを踏まえて言ってるの」

「何で……」

 

 川内は首を振る。

 レミリアは強引だが、常に冷静で、艦娘のことをよく見ていて、正しい指示を下す優秀な提督だと思っていた。だから川内も彼女のことを信頼していたし、突拍子のないことを始めても素直に従っていた。

 決して無茶は言わないと思っていた。でも、こればかりは失望を禁じ得ない。

 

「無理なことをやれって言われても……」

「そうかしら? 私には今の貴女が夜戦をすることが無理だなんて思えないけど」

「無理だよ!」

 

 苛立ちが頂点に達し、川内は思わず声を荒げた。

 

「提督は知らないでしょ! あれがどんなに辛いか! 思い出したくもない光景がずっと頭の中に流れていて止まらないんだ。気持ち悪い物が全身を這っているようで、いくらぶちまけても足らない。内臓を吐き出すんじゃないかってくらい嘔吐して、でも何も治まらなくて、自分の頭を撃ち抜きたくなる! それが、トラウマってやつなのよ!!」

 

 一気にまくし立て、川内は肩を上下させて荒い息を吐く。

 自分でも、ここまで怒鳴ったのは久しぶりだと思った。言いたいことは山ほどあるが、理性がギリギリで感情を抑え込んでいる。頭の中ではいろんな光景がぐるぐると回っていた。

 

 

 トラウマは川内から何もかも奪い去ってしまったのだ。大好きで、自分の生き場所と定めていた夜戦も、気の置けない精鋭の部下も、戦士としてのプライドも。

 残ったのは、かつての仲間に失望の表情を向けられるだけの惨めな燃えカスのような自分だった。それがどれほど川内の自尊心を傷つけたか、彼女にはきっと分からないだろう。

 対するレミリアは川内の言葉に対して感情を昂ぶらせるようなことはなく、静かに顔を反らしてゆっくりとベッドの方に踏み出した。そして彼女は川内が部屋に入って来た時と同じようにベッドに腰を掛け、片方の手でベッドを軽く叩いて隣に来るように促す。

 そこで意固地になるのも子供っぽい気がして、川内は逆らわずにレミリアの隣に腰を下ろした。そうして二人で並んで座って、特にやり場のない視線を目の前の、木曾のベッドを覆っているカーテンの上に彷徨わせる。

 

 

 

 

 

「私には妹が一人居てね」とつとつとレミリアは語り出す。「さらに、その妹の友人に姉がいる子が居て、二人とも仲がいいからその子の姉と私も交流を持つようになったの」

 

 いきなりの身の上話。彼女がこうして身内のことを話すのは珍しいが、この場においてするような話ではないと思う。しかし、遮るのも気が悪いので川内は黙ってそのまま彼女の言葉に耳を傾けることにした。

 

「私とそいつは妹同士みたいに友人と呼べる間柄じゃなくて、顔を合わせたらちょっと世間話をするくらいの知り合いなんだけどね。でも、そいつは普段から家に引き籠っている出不精な奴で、話があったらこっちから会いに行かなくちゃならないからまず滅多に顔を合わさないのよ」

「……」

「普通はそんなことしないんだけど、この間はちょっと聞きたいことがあって、私が仕事で動けなかったから代わりに使いを遣らせて聞いて来たの」

「……何を?」

「PTSDについて」

 

 放り投げられた言葉に、木曾のベッドの側面を彷徨っていた川内の焦点が固定される。何の変哲もないカーテンの一点で、そこに興味を引くようなものがあるわけではない。ただ、目線を動かしている余裕がなくなるほど全身の神経が耳に集中してしまっただけだ。

 

「そいつは人間の心理に関して右に出る者が居ないくらい詳しくってね。だから貴女のトラウマの話を聞いて使いにPTSDの勉強をさせに行かせたわ。どういう原因で発症して、どういう症状が現れて、そしてどうしたら治るのか。

……で、聞いたところによれば、心理療法やら薬物療法やらいろいろと治療法はあるけど、本人の苦しみを考慮しなければ放っておいても数カ月から、長くても数年で患者の半数以上から症状が軽減したり消えてしまったりするんですって。中には一生酷いトラウマに苛まれちゃう人もいるらしいけど、それはごく少数。多くは何年かで状況が改善する。それは全く治療しなくても、そうなるそうよ」

 

 慣れってすごいわねえ。と呑気にレミリアは付け足した。

 

 けれど、川内は完全に体が硬直してしまい、指の一本すら動かせなくなっていた。

 今も脇腹、それと心に残る傷は五年も前に付けられたものだ。

 

「それを聞いてから私は赤城に、貴女が今の鎮守府に転属してからの出撃記録を全部調べさせたわ。というか、本人が覚えていたから聞いたんだけど……。

貴女は五年前の戦闘での負傷の後、夜間の出撃を行ったのは前の部隊での最後の任務の時だけ。出撃した途端嘔吐して直ぐに引き返すことになった――つまりPTSDを発症した時よね。その後診断を受けて貴女は一度も出撃の機会を得ることなく今の鎮守府にやって来た。

赤城は貴女の病気のことを聞かされていたから、当時の鎮守府長官と相談して貴女を夜間に掛かる任務に出さないようにしていたわ。

つまり、貴女は五年前から一度も夜間出撃を行っていない。もしこの間にPTSDの回復や、症状の軽減が進んでいれば、現在なら夜間出撃してもさして問題ないはずよ。

加えて、これも赤城から聞いたんだけど。貴女、今の鎮守府に来た時はずいぶんと悪夢にうなされていたみたいだけど、それもいつしか消えてなくなったそうね。以前私に五年前のことを話してくれたけど、その時も貴女は過去の出来事として語っていた。PTSDが酷いなら、思い出した時点で何かしらの大きな反応を見せるはずだけど、そういったことはなかったわねえ。

もちろん、これらはあくまで人間での例だけど、人間と同じようにPTSDを発症する艦娘が、人間とは違う経過でその自然治癒が起こるとは考え辛いわ。精神構造が全く同じではないにしても、人間と艦娘ではかなり共通している部分があると思う。精神病に関して言えば、人間に言えることは同様に艦娘に言えるのではないかしら」

「……」

「結論を言えば、貴女のPTSDは自然治癒ないし症状の軽減が起こっていて、恐らくはもう夜の海に出ても問題ないはず。むしろ、貴女自身が夜の海に出られないと思い込んで、不必要に自分を縛ってしまっているんじゃないの?

――そして、私は司令官よ。貴女のようなずば抜けた夜戦能力を持つ艦娘を、このまま腐らせておくつもりはないわ」

 

 

 当たり前の話だが、彼女は心理学者でもなければ精神科医でもない。その話が本当かどうかの裏付けなんてあるわけがないし、人間心理に詳しい知り合いとやらのことも眉唾っぽい。

 けれど、そのような屁理屈を押しのけて川内の心を惹きつけてしまうくらいレミリアの話には吸引力があった。彼女の言うことが真実なら、自分はまたあの心地良い闇の中に戻れるのだ。

 ならば、川内にどうしてこの話を否定出来ようか。夢物語を語られているんだと自覚しても、どうしようもなく魅了されているのだ。

 

「川内。貴女がこの遠征について来た本当の理由。私はまだちゃんと聞いていないわ」

 

 レミリアはうっすらと笑い、少し首を傾けて川内を見上げていた。その様子を視界の端で捉えながら、川内は木曾のベッドから無機質な金属の床に視線を落していく。

 

 ゆっくりと、手前に近付くように。

 

「……聞いて、失望しない?」

 

 少しばかりの恐れがあった。後ろめたい理由だし、それを語ることに恐れを抱いていること自体も後ろめたかった。

 けれど、そんな川内の不安を見透かしたように、レミリアは優しい声音で囁く。

 

「しないわよ」

「ほんと?」

「本当よ。私を信じて」

 

 トラスト・ミー。トラスト・ミー。

 

 いつだったか金剛が言っていた。「Trust me」には強い意味があるのだと。私の総てを信じてくれという重い意味を持つのだと。

 レミリアは、果たしてそこまで信じられる人物か。

 

 川内は意を決して口を開いた。

 

 

 

 

 

 

「自己満足なのよ。私は誰かを救える艦娘だってことを証明したいだけなんだ。結局、自尊心を満たすための自慰行為でしかなくて、本心から四駆の子たちを助けてあげたいわけじゃない。

幻滅するかもしれないけどね、これが本当の私なんだ。

提督は、私が昔率いていた部隊が、深海棲艦だけじゃなくて脱走した艦娘を沈める督戦隊だったってのは知ってるよね。実際、何度も督戦任務にあたったし、何回も仲間であるはずの艦娘を沈めてきたよ。どんなに命乞いされても、どんなに逃げ回られても、最後には必ず私たちは躊躇なく仲間を撃った。撃たれた子と仲の良かった艦娘に殺されかけたこともあったしね。

異形の敵じゃなくて、自分たちと同じ姿をした、人と同じ姿をした艦娘を、泣いていようが怒っていようが笑っていようが、そんなこと全く関係なく、的を撃つように撃ったよ。撃たれた艦娘が弾け飛んで、手足がばらばらになったり、内臓が飛び出したりして酷い死体になってもそれを見続けてきた。

今でも全員の顔を覚えている。どんな風に死んだかも、ね。

それが夢に出て来るんだ。今まで見てきた艦娘の死体が出て来て、いろんな声で、憎悪に歪んだいろんな顔で、私に『早く死ね』『早く死ね』って叫ぶ夢だよ。朝起きたら最悪な気分さ。その夢を見る度に本当に死にたくなるしね。

それだけの罪を背負った艦娘なの、私は。死んだら絶対地獄行きだよ。きっと先に死んだ、私に殺された艦娘たちに、永遠に逆襲され続けるんだ。

苦しいだろうね。そんな死後は想像したくないけど、そうなっても仕方のないことをしてきたんだ。今更言い訳しないし、許しも請わない。ただそういう任務を与えられていたってだけで、平然と仲間殺しをやっていたんだから、許されるわけないよね。

いいんだ、そんなことは。もう割り切ってるから。

ただ、私はそうやって艦娘を殺してきただけの悪い奴で終わりたくないのよ。私にも艦娘を救えるってことを、ただそれだけを示したいんだ。

……五年前の夜戦で、第四駆逐隊の救援命令が入った時、私は今こそその証明をするべき時が来たんだと思ったよ。四駆を救出して、誰かの仇じゃなく、恩人になろうとした。

深海棲艦になった直後の嵐が私を攻撃した時、私の仲間たちが嵐を攻撃しなかったのはどうしてか分かる? あの子たちの錬度なら、一瞬で嵐を蜂の巣にすることぐらいなんでもなかった。元々艦娘を殺して来たんだから、深海棲艦になった艦娘を撃つのに躊躇することもない。

あの時に仲間の砲が火を吹かなかったのは、私が『救出に向かう先の駆逐艦がどんな状態でも、何があっても、決して撃つな』って命令していたからなんだ。だって、撃っちゃったらそれは敵と同じ、裏切り者と同じ扱いってことだからね。萩風も嵐も、敵でもなければ裏切り者でもない。ただ、“私が救えるかもしれない哀れで無力な艦娘”でしかなかったんだから。

でも、知っての通りそれは上手くいかなかった。私は傷を負わされ、惨めな奴に落ちぶれちゃった。因果応報だとも思ったけど、さすがに堪えたなあ。救えなかっただけなら、次頑張ればいいやで済んだだろうけどさ。身体と心に残る傷を受けて、あの後夜戦も出来なくなったとあっちゃあ、そりゃあこだわりたくもなる。萩風と嵐の出現を待っていたのは何もあの子たちだけじゃなかったのよ。

だけど、今の私に何が出来る? 萩風と嵐を撃沈して『彼女たちの魂は救われた。めでたし、めでたし』なんて詭弁で誤魔化したくなかった。私が欲しかったのは目に見える形での結果。艦娘に復帰して元気にしてる二人の姿なんだよ。その姿があってこそ初めて、私は彼女たちを救えたと言えるんだ。

もちろん、それが荒唐無稽な話だってことは自覚してる。可能性で言えば、ゼロじゃないってだけで、ほとんどあってないようなものだからね。しかも前代未聞の試みだから、確立された方法は当然のこと、現実性のある手段すら思い浮かばなかった。

撃つのは論外。ぶん殴って熱い言葉でも浴びせて何かが変わるかといえば、そんな安っぽい学園ドラマみたいなことになるとは思えないし。結局、私が思い付いたのはただ言葉を掛けて説得するっていう、芸のない方法だけだった。他になかったけど仕方ないよ。

しかも、肝心の夜戦には参加出来ないしね。無理なら無理で、諦めようと思ったよ。

簡単に諦められることじゃないけど、世の中どうしようもないことなんていくらでもある。不完全燃焼のまま、この傷を抱えて死ぬまで生きていくっていうのも、私に用意されたおあつらえ向きの末路よ。

それでも、私はこだわりたかった。最後まで諦めたくなかった。聞こえのいい言葉で言えば、『自分の可能性を信じていたかった』。だから、提督に説得を妨害された時、あれだけ怒ったんだ。何だか、私の努力が水の泡にされた気がしてね。

でも、努力っていうほどのことをしてないし、そもそもの動機が不純極まりないから、本当なら私に怒る筋合いなんてないのにね。

結局、私はこんな薄汚い奴なのさ。夜戦の結果がどうなるかは分からないけど、二人が救われたなら、私は説得工作が効いたんだって、勝手に自分で自分を慰めるだろうし、失敗したなら自分のことを『クソやろう』って罵りながら生きていくことになるだろうね。

……ただ、今の提督の話を聞いて思っちゃったんだ。

もし、もう一度チャンスがあるなら、私は二人を救いに行きたいよ。それが罪滅ぼしであっても、善人の真似事であっても、私は私のために、今後の私をほんの少し慰めるために、出撃したい。

チャンスがあるなら。ううん、チャンスを下さい」

 

 提督、お願い……。

 

 

 

 

 

 それはまさしく懇願だった。

 身勝手で卑屈な少女の、これ以上ないくらい我儘な懇願だった。それを「お前の勝手だ」と一蹴するのは実に容易いことであろう。

 

 しかし、懇願を聞いているのは威厳ある為政者でもなければ、高潔な聖人でもない。

 彼女は悪魔であり、善とは対極にある存在であり、つまり人間ではなかった。

 加えてこの悪魔は、生活のために悪魔に魂を売った人間を自らの館で飼い慣らしたり、模範的な艦娘として振る舞うためにすべてを仮面の下に封じ込めてしまう弱さを持つ艦娘を気に入ってしまうくらい、人間と艦娘が好きな悪魔であった。

 だから、自己満足のために他者を救うという傲慢な艦娘を、彼女が気に入らないわけがなかったのだ。

 

 悪魔は腰掛けていたベッドの端から嬉々として立ち上がり、少女を座らせたままその眼前に立って両肩に手を置く。顔を上げた少女の両の瞳を、禍々しいほどに紅く輝く眼で覗き込み、悪魔を悪魔たらしめる鋭い牙を笑顔で飾り立て、朗々とした声で宣告した。

 

 

「いいでしょう! 川内!!」

 

 唐突に態度を豹変させた悪魔に、少女は目を剥く。

 だが、驚く少女に構わず、悪魔は興奮して捲し立てた。

 

「もし貴女があっさり諦めるようなら、私も諦めようと思っていたわ。夜戦のトラウマに縛られているようなら、無理強いは出来なかったから。

でも、貴女はきっともう夜の海に出ても大丈夫。そして、貴女の本音を聞いて、やっぱり貴女にしかこの役目は任せられないと確認したわ。そう、萩風と嵐を取り戻す立役者は、ね。

だから、貴女はこれから出撃する。急ぎコロネハイカラ島へ向かい、そこで戦っている夜戦部隊と駆逐水鬼の間に割って入り、舞風と野分を連れて二人の“救出”をするのよ。

ええ、そう。もちろんあの二人が居なければ始まらないわ。三人で、深海棲艦を艦娘に戻すの。いえ、私も協力するから四人ね。

だけど、一つだけ条件があるわ。この条件が満たされなければ、私たちの目的は達成出来ない」

「……条件?」

「そう。簡単なことよ。

――『Trust Me!』。

私を信じなさい。死ぬまでね」

 

 レミリアは強い口調で言った。

 先程のような、優しい声音ではない。はっきりとした命令口調だった。

 

「さすれば、私は貴女の望むものを貴女に与えてあげられる。これは契約よ。違反することは許されない」

 

 さあ、どうする?

 

 

 

 

 川内は迷った。

 今度のトラスト・ミーはニュアンスが違う。明確に、契約の条件として出されたものだ。しかも、一生。

 

 本当に、彼女を信じていけるのか。

 本当に、彼女はやってくれるのか。

 

 この限りなく勝算の低い賭けに、川内は一生の信頼を投じて本当に成功するのか。

 

 そうだ、これはまごうことなき悪魔の所業だ。ある利益のために、魂やそれに匹敵するくらい大きな対価を要求する。これこそが真実悪魔の契約であり、川内は今まさにそれを迫られているのである。

 レミリアの、ぞっとする冷気のようなオーラが部屋の温度を急速に下げていく。身体が震えるほど完璧に整ったその容貌は、今や破滅的な色香を放ち、血色の虹彩が妖艶に輝いている。年端もいかぬ背格好に似合わぬ、魔性の香りが充満する。

 甘ったるい微かな匂いが川内の鼻腔を刺激した。悪魔は悪魔的な笑みを浮かべて、彼女がいざなう先は果たして破滅か。栄光か。

 今ここで彼女の甘言に乗り、一歩を踏み出せばきっと良くも悪くも二度と戻って来られなくなる気がした。それはそれは大変恐ろしく、いわんや大変危険な賭けだ。軍服を着て人間のふりをしていても、この悪魔はやはり悪魔で、川内の魂を絡め取って吸い尽くそうとしているのではないか。理性がそんな警告をけたたましく鳴らす。

 だが。それ以上に、圧倒的に、レミリアの誘いは魅力的だった。彼女を一生信じるだけで、川内は「他者を救済出来る自分」を手に入れられ、一度は打ち砕かれた自尊心を取り戻すことが出来るのだ。

 ならば、どうしてこの誘いを蹴れようか。川内にはこれを否定するだけの強力な材料はなく、だから躊躇は少しの間で、意を決して頷いたのだった。

 

 

「いいよ。提督を一生信じるよ」

 

 

 けれど、何よりも川内の背中を押したのは、レミリアが川内の“提督”だという事実だ。

 何しろ艦娘にとって提督というのは、自身の生殺与奪の全てを掌握している存在であり、その立場の関係がある以上、川内にレミリアを信じないという選択肢はなかった。命を預けている相手なのだから、信じずに戦争を生き抜くなどあり得ないことなのだ。

 もちろん、川内は提督としてのレミリアだけを信じるわけではない。契約は、レミリア個人を信じることを要求しており、川内もそれを踏まえて頷いたのである。例え将来彼女が川内の提督ではなくなったとしても、彼女を信じ続けなければいけない。

 そして、自分にそれが可能だと思えたのだ。

 それほどまでに、川内にとってレミリアは魅力的で、心を許せる相手だった。

 

「契約成立よ」

 

 悪魔は笑う。それだけだ。

 契約書、とはいかなくとも、何か証拠になるようなものを残すものだと思っていた川内にとっては拍子抜けだった。そのままレミリアは川内の肩から手を離し、すたすたと部屋の入口に向かっていく。

 

「さあ、そうと決まれば善は急げよ! 時間がないわ。作戦は後で説明するから、今すぐドックに向かいなさい。こんなこともあろうかと、艤装は貴女が戻り次第、再出撃に備えて最優先で整備するように言ってあるから、多分もう準備出来ていると思うわ」

「ええ!? 何それ。提督、初めから私を出撃させるつもりじゃん」

 

 大層なことを言っていた割に、ちゃっかり段取りを組んでいたレミリアに、川内は驚き半分、非難半分の声を上げた。何だか謀られたような気がする。

が、彼女は首を振った。

 

「私にとっても貴女が乗ってくれるかは賭けだったのよ。ただ、賭けが上手くいった時の用意はしておかないと駄目だったから」

 

 理屈はそうだが、巧い言い逃れだと思う。どうにも、レミリアは最初から川内が動くことを分かっていた気がしてならないのだ。

 だが、今さっき「一生信じる」と誓ったばかりである。疑うのは良くないと邪念を切り捨て、川内は艦室から飛び出した。

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。