レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督15 Inheritance

 午前中は赤城と共に軍幹部とのテレビ会議に出席し、現在の各戦線の戦況と今後の戦略について話し合った。

 午後からは午前の会議の内容を元に鎮守府幹部、レミリア自身と幕僚長の加藤、秘書艦の赤城や工廠長、資材補給部長、「硫黄島」艦長、港務部長らでテーブルを囲んでさらなる会議であった。

 主な議題というのは最近「駆逐棲姫」という深海棲艦の出現でにわかに騒がしくなっている南方戦線や、比較的落ち着いている西方戦線、そして大激戦地の中部戦線の戦力再分配についてだった。他の鎮守府や泊地ではそれなりに異動があったようだが、この鎮守府に限ってはそれはあまり影響がないようで、上層部は取り敢えずレミリアのところからは戦力を減らしもしないし増やしもしないという決定をしたようである。

 

 午前の会議で決まったのは、結局上層部の戦略として、中部太平洋深部のどこかにいるという空母水鬼・戦艦水鬼の撃破を最終目標とし、当面の間は北太平洋への進出に力を入れていくということだった。

 その内容を、午後からの会議で赤城が発表した。レミリアといえば黙って椅子に座り、時々それっぽい発言を一言二言するだけである。

 鎮守府内では戦力の主体が一航戦の空母ということもあって、空母水鬼の撃破を目標にすることになった。赤城達も以前一度刃を交えたことのある敵で、その時は引き分けに終わったらしい相当な強敵だそうだ。大量の艦載機、威力の高い攻撃、堅牢な艤装、そして豊富な随伴艦。どれをとっても今までの敵空母とは一線を画しており、海軍最強の航空戦力である一航戦を持ってしても引き分けに持ち込むのが精一杯だったとのことだ。

 

「空母水鬼は恐ろしい難敵ですが、必ずこれを撃破し、中部太平洋に平穏を取り戻しましょう!」

 

 と言って赤城は締めくくる。

 賛同の拍手がまばらに聞こえた後は、鎮守府内での意見交換は要望の発表の時間に充てられた。

 こうして各部署の代表者が集まると、いろいろんな意見が出てくるものだと思いながらレミリアは聞いていた。特に港務部と資材補給部と工廠の三すくみの論戦など、傍から聞いている分には面白かった。最終的に意見調整役を急に求められて、それぞれの要望を「全部やればいいんじゃないかな」と言って、赤城に呆れ顔をされたりもしたのだが。

 

 

 それはさておき、午後の会議はこうした白熱の論戦の影響もあり、終わったのは夕方になってからである。司令室の窓からは赤い夕日が差し込んで来る時間帯で、レミリアは眩しいからカーテンを閉めるように赤城に指示した。

 基本的に真面目で優秀な赤城は、言われたことをすぐにやる。嫌な顔一つ見せずにてきぱきと遮光していく秘書艦の後姿を眺めながら、レミリアはふと思いついたことを口にしてみた。

 

「ねえ、この後弓道場に行ってみない?」

 

 振り返った赤城は不思議そうな顔をした。

 

「弓道場ですか」

「ええ。弓を射るのを見たいの。予定、大丈夫かしら?」

「大丈夫ですが……」

 

 急にどうしたのかと言いたげに言葉尻が濁る赤城だが、レミリアが気まぐれを見せるのはいつものことであり、それに振り回されつつもすっかり慣れてしまった秘書艦は頷いた。

 

「では行きましょう」

 

 レミリアは早速部屋を出る。戸惑いつつも赤城もすぐに付いて来た。

 

 

 弓道場というのは、その名の通り弓の鍛錬を行う場所で、鎮守府庁舎から離れた艦娘寮に隣接して位置する平屋の一戸建てだ。利用するのは専ら一航戦の二人のみであり、事実上彼女たち専用の建物となっていた。

 レミリアも、着任したばかりの頃に一度赤城に案内してもらって以来、用事もないのでとんと行く機会を持っていなかった場所であった。記憶を頼りに艦娘寮までやって来て、その入り口横から裏手へ続く廊下を渡ると弓道場にたどり着く。

 中は、当然のように静かだ。この弓道場のもう一人の利用者と言えば、今頃はまだ海の上で訓練に勤しんでいるからである。

 最初の案内の時、赤城は「この弓道場は正式なものではありません」という趣旨の説明をしていた。その言葉の通りなのか、正式な弓道場というものを知らないレミリアには分からないが、中はかなり簡素な造りをしている。

 弓を射る場である為、建物の奥行きは長く、木目張りの射場の正面に五つの的が並んでいるのが見えた。意外に的との距離は遠く、射場から眺めるそれは小さい。赤城は「用意してきます」と言って、射場に隣接する更衣室へ入っていった。

 手持無沙汰になったレミリアはしばらく何もせず弓道場の中を見回してみる。

 特段目立った飾り付けのない射場は、見方を変えればひどく殺風景に見えるかもしれない。木張りの壁が囲い、的場とは反対、射手からみて背中側になる壁の上方に大きな海軍旗が掲げられているだけ。使用者が少ないためか床もあまり擦り切れておらず、ピカピカに磨かれている。赤城と加賀が小まめに掃除しているのだろう。

 静謐とした空間だ。聞こえてくる物音と言えば、更衣室で赤城が準備するわずかなそれと、遠く微かな軍港の喧騒。それを除けば弓道場の中には静かで穏やかな時間が流れていた。

 がらり、と音を立って更衣室の引き戸が開く。姿を現したのは、褐色の第三種軍装から着替えた赤城の姿。一礼し、するりと射場に入って来る。

 彼女の艦娘としての正式軍装は紅白の弓道着で、袴の丈が動きやすいように短く切られているものだが、今の姿はごく一般的な(レミリアのイメージ通りの)黒袴の弓道着である。それが、手に身長以上もある長弓と長い矢を携えて現れた。

 

 ほう、とレミリアは一息を吐く。彼女の姿に感嘆したのだ。

 淑やかな美貌と軍人らしい凛とした佇まいの赤城がこうして弓道着を身にまとえば、それはまさに熟達の弓道者の体現であろう。それまでただ穏やかな時間の流れていた弓道場の空気が引き締まり、彼女が今手に持つ弓に張られた弦のような緊張が空間を覆う。

 

「お待たせしました」

 

 はにかむ様に言うが、赤城は落ち着き払っている。

 

「格好いいじゃない」

「ありがとうございます」

 

 レミリアの褒め言葉に赤城はわずかに照れ臭そうに頬を染める。それだけを見れば彼女らしい愛嬌に思えるかもしれないが、隙のないその出で立ちに提督は心中唸らされてしまう。例え愛嬌を見せている最中であっても、何をしても静かに対応し受け流されてしまいそうな、しなやかな強かさを感じさせるのは流石であろう。このような気配というのは、長く戦場に身を置いてきた歴戦の強者にしか持ち得ないものであることを、レミリアは知っていた。

 弓と矢をそれぞれ左手と右手に持ち、両手を腰に当てたまま赤城は足音を立てることなくそっと射場の真ん中、レミリアの目の前まで歩いて来る。彼女はもう一度レミリアに会釈し、それから身体を的へ向けて腰を折る。

 一礼。彼女はそのまま的場の方へ数歩歩み寄り、身体を的に対して平行に、左半身を向けた。足を開いて体勢を整える。右手に持っていた矢を、左手に移して弓と一緒に持つと、上体を腰に乗せたようにどっしりと構えた。これが恐らく射の土台となる姿勢なのだろう。赤城の比較的華奢な身体が、この時ばかりは岩のように重厚な安定感を見せる。

 続いて矢を弦に掛け、両手で弓矢を構えて赤城は的を見据える。もう既にその精神は研ぎ澄まされて的を向いており、いつもの穏やかさとは別の一面が現れていた。秘書艦として、提督の片腕として、優秀なオフィスレディから一転、弓の達人としての顔を覗かせる赤城に、レミリアの心中も興奮で昂り始めていた。

 赤城は弓矢を持ったまま、それを大きく掲げ上げる。弓道など寸分も分からないレミリアにとって、恐らくそれぞれが細かく決められている一連の動作に、どういう意味があるのかは知り得ないところである。説明されたところで、知識として蓄えられても真に理解するに及ばないだろう。しかし、洗練されて流れるように“型”を続ける赤城を見ていると、そこに感じるものがある。

 赤城にとっては慣れ親しんだ動作。あるいは、「射法」と呼ぶのかもしれない。いよいよ彼女は弓を開き、矢を水平に保ったまま掲げ上げたそれを顔の辺りまで引き絞りながら降ろしていく。

 力が込められ、微かに震える弓。しかし上体は安定し、彼女の視線はぴたりと的に固定されていた。

 

 真っ直ぐ。真っ直ぐだ。

 

 身体を的に対して真っ直ぐ。弓を垂直に真っ直ぐ。矢を床に対して真っ直ぐ。直線と直線が交差するように意識された姿勢。ただし、それは定規によって機械的に引かれた直線ではなく、天に向かって立ち上がる竹のような直線だ。力を込めれば折れるような脆さは感じさせず、むしろしなりながらも決して芯が折れない、歪まない強さを含んでいる。

 赤城が弓を引き絞るにつれ、射場から余計な雑音が排され、静謐とした緊張感が高まっていく。見つめるレミリアは自らの呼吸の音すら煩く感じて息を止め、瞬きもせずに赤城を凝視する。

 びしっと弦が跳ねる音がした。

 

 渾身の矢が放たれ、過たず的の中心を射抜く。

それまで力の籠っていた赤城の体は、放った時の姿勢を保ったまま腕を開き、しばし動かない。射る前の緊張をそのままに、赤城は鋭い目で矢の突き刺さった的を見据えていた。

 やがて赤城は姿勢を崩し、緊張を解いてその場から下がり、最後に一礼する。

 

 

 たった一射。それが、射場から小指の爪ほどの大きさに見える的の中心を射抜くのはまったく偶然ではない。

 赤城はレミリアの方を振り向くと、少し嬉しそうな、誇らしげな表情を見せた。言葉にして表わさないが、彼女にとっても今のは会心の一撃だったのだろう。レミリアの口からは素直に称賛が飛び出した。

 

「Brilliant!! 素晴らしいわ!」

 

 声を張り、拍手する。赤城は茹で上がった蛸のような顔色になった。

 

「未だかつて私にこれ程卓越した演武を見せた者はいない。貴女は最高の弓道者よ!」

 

 レミリアの、ストレートな賛辞に奥ゆかしい赤城は大層恥ずかしがっているようだった。褒めちぎられて身を縮込ませながらも、しかし存外まんざらでもなさそうである。

 一方のレミリアも興奮が冷めやらない。極められた技術の粋に完全に心を奪われてしまっている。

 

 パーフェクト! 

 

 心底相手を褒めたことなど、人生の中でそうそうあったことではない。赤城の弓には、どれほどの称賛を与えようとも足りない気がしていた。

 

「もう、そんなに……」

 

 赤くなりながらも、赤城の頬は緩んでいる。先程までの凛とした振る舞いはどこへやら、一転して少女のように照れる赤城。普段の頼もしい姿を見ていると、意外なほど違った一面である。

 

「私もこれほど人を褒めた経験はそれほどある訳じゃないわ。逆を言えば、赤城の技量がそれだけ素晴らしいということなのだけどね」

「あ、ありがとうございます」

 

 赤城は称賛を素直に受け取り、丁寧にお辞儀をした。

 ここが彼女の良いところである。謙虚であり、とても礼儀正しい。

 元よりレミリアは赤城のことを気に入っていた。仕事が出来て、気遣いも上手。応対も丁寧で驕ったところがない。普段は頼もしいかと思えば、今のように時々少女っぽさを見せたりもする。容姿も端麗で、極められた技術も持つとあれば、レミリアの琴線に触れるには十分であった。

 彼女が部下で良かったと、少女提督はつくづく思うのであった。

 

 

****

 

 

 赤城はそれから何度か練習をして弓を片付けた。その間、赤城に代わって艦隊のまとめ役を担っている加賀は忙しいのか一度も弓道場に来なかった。それにわずかに罪悪感を感じつつも、久方ぶりに気合の入った鍛錬が出来て気分は晴れやかになった。

 一射一射、心を込めて丁寧に射る。矢は、ただ一度も的を外れることはなかった。

 結局レミリアは最初から最後まで赤城の鍛錬を見学していて、矢が的に当たる度に拍手をしたり、感慨深げな溜息を吐いたりしていた。その目は幼子のようにきらきらと輝き、赤城の技術に彼女はただひたすらに感服しているようであった。

 そんな反応をされて、赤城と言えば嬉しさ半分、気恥ずかしさ半分で、どういう表情を見せていいのか分からなかったけれど、しかし精神の方は非常に集中出来ていた。過去の経験から言っても今日の調子というのはすこぶる良く、数は少ないとはいえ矢がすべて的に当たったのもまた珍しい。

 練習を終えて赤城は上機嫌で着替え終わると、更衣室の掃除用具箱からモップを一つ取り出して射場に戻った。

 

「提督。掃除をしますので、先にお戻り下さい」

 

 練習の後の弓道場の掃除は欠かさない。時間があまりないので本格的な雑巾掛けをする訳ではなく、簡単にモップで床の埃を払うだけである。

 

「あら。私も手伝うわよ」

 

 赤城は一瞬言葉を失う。

 まさか、雑事を嫌うレミリアからそんな言葉を聞けるとは思わなかったのだ。もちろん、目上の相手に掃除の手伝いを期待していた訳ではないが、彼女の性格からして手伝いを申し出るなど夢にも思っていない。そのはずだったのだが、機嫌が良いのは何も赤城だけではなかったようだ。

 

「提督? ええっと、悪いですよ」

「いいのよ。普段から仕事を押し付けているしね。たまには手伝わないと」

 

 と、レミリアはにこやかだ。

 赤城は頭を下げて、更衣室からもう一つモップを取り出してきた。

 

 普段から仕事を押し付けている、というのは確かにその通りだ。機械に疎く、煩わしい書類仕事を厭うレミリアは、それらすべてを赤城に丸投げしている。初めは、彼女の着任前と仕事量が何ら変わりなくなったことに大きく不満を抱いたが、時間が経つにつれ赤城はレミリアの評価を改めるようになっていた。

 正直、今でも提督の仕事を肩代わりするのは面倒だとは思うが、一方で仕事量はレミリアが着任して以来、徐々に減ってきている。何故なら、彼女がそれまで鎮守府に存在していた無用なしきたりを廃し、無駄な書類仕事を削り、紙の量そのものの削減を実行したからだ。

 意味のない会議を廃止し、ちょっとしたトラブルでもいちいち作成される長ったらしい報告書を無くして口頭での報告に変えた。現場の裁量権を増やして臨機応変に行動出来るように自由化を行い、対立意見の奨励を告知した。

 レミリアは司令室に籠って仕事をするより、頻繁に鎮守府内を歩き回り、そこで働く人々との交流に重きを置いているようだった。そのためか着任してから日が浅いにもかかわらず、レミリアが親しく会話する相手はたくさん出来たようで、艦娘にしろ軍人にしろ、赤城も度々レミリアが誰かと話をしている姿を見ていた。

 下をよく見ている提督だと思う。だからか、赤城もレミリアとなら仕事がやりやすかった。自分の考えに固執せず、柔軟な発想の持ち主である彼女は、必要性をきちんと説明すれば、ある程度のことに寛容であるし、時にはあまり綺麗でない事柄についても目を瞑ったりしてくれる。

 それ故にか、ここで掃除の手伝いを申し出るというのは、最初赤城に驚きを持って迎えられたが、よくよく思い直せばさほど意外なことでもなかった。

 厚意を素直に受け取り、感謝の辞を述べる。その後二人で床を軽くモップ掛けをして弓道場を後にした。

 

 

 

 

「矢を射るための基本となる作法を『射法八節』と呼びます。『足踏み』・『胴造り』・『弓構え』・『打ち起こし』・『引き分け』・『会』・『離れ』・『残心』。これらの動作を間違えず、丁寧に、そして滞りなく行わなければ矢は狙ったところに飛んでいきません」

「さっき繰り返していたのはそれね」

「弓道の基本動作ですからね。弓を始める人はまずこれを徹底的に叩き込まれます。それこそ、目を瞑っていても出来るくらいに」

 

 赤城はレミリアと話しながら司令室に戻る。秋も深まった今日この頃、日没は思いの外早く、既に空は夜の帳に覆われて暗くなっている。

 夕食まではまだしばらくあり、時間的には中途半端になってしまった。ちょうどいい手頃な仕事を片付けようと頭を巡らせたが、思い浮かぶのは時間の掛かりそうなものばかりで、夕食前にやるのは少しばかり都合が悪い。結局手持無沙汰になってしまった隙間時間で、赤城はそれならいっそレミリアと話をしてみるのもいいかもしれないと思い付いた。

 普段は物静かで、そもそもあまり司令室にいない提督とは、なかなか雑談するという機会に恵まれなかったからだ。それに、存外気分が良かった。

 

「もちろん、型が実戦でそのまま使える訳ではありませんが、『射法八節』の真髄というのはただ型を守ることではないんです。一矢、一射にしっかりと心を込める。気持ちを込める。それこそが重要であり、実戦においても変わらない部分なのですよ」

 

 気分良く赤城は自説を展開し、レミリアに語る。仕事と出撃の合間で、赤城が大切にしている数少ない自分の時間が、弓であった。

 激務の中に暇を見つけては足繁く弓道場に通い、一射に精神を注入して射る。時間が少ないからこそ、たった一本の矢も疎かにすることなく、一つ一つの質を高め、己の技術を磨いていく。空母娘として戦闘に弓を使う故にその鍛錬が求められるが、それとは別に赤城は趣味として弓道に打ち込んできた。

 そして、この経験こそが赤城を海軍有数の艦娘に仕立て上げたのである。

 

 一矢入魂。

 

 赤城の座右の銘であり、弓道場での鍛錬中であろうと、海上での戦闘中であろうと(それは例え得意の早打ちであっても)、矢の一本一本に心を込めるのを決して忘れない。自らの弓が放つ矢にただ一本の無駄なものはなく、それらすべてに意味がある。

 

 あるいは、意味のある矢を放つ。

 赤城が自分に課したルールというのは、ただそれだけのとても単純なもの。それを極めていった結果が、一航戦の名声であり、大きな賛辞をもらい受ける弓技なのだ。

 赤城はそれを飾ることなくレミリアに伝えた。あれほど自分の技を褒め称えてくれた彼女なら、この真髄を理解してくれると思ったから。

 心が軽かったし、だからレミリアに語る口もいたく饒舌になった。そしてレミリアも、赤城の言葉に相槌を打ち、感嘆したように声を漏らすのである。

 

「どんな単純なルールでも、自分自身に徹底させるのはとても難しい。誰しもどこかに甘えを残してしまうものだけれど、それを排除しきって技術を最高レベルに持っていくのは、心から讃えられる功績よ」

「私ひとりの力ではありません。一人だけだったら絶対に甘えが出ていたと思います」

「それは、加賀がいたから? 切磋琢磨できる仲間がいたから?」

「はい。それもありますね。加賀さんと私は支え合える仲間であり、競い合う好敵手の関係です。今も昔も変わりありませんし、これからも変わらないでしょう」

「いい関係ね。でも、その言い方だと他に貴女を支えた人がいるみたい」

「そうです。私に弓を教えてくれた人がいます。『射法八節』もその人に叩き込まれました」

 

 司令室に戻る廊下で二人、並び歩きながら言葉を交わす。そう言えば、彼女に姉の話をするのは初めてであった。それどころか、この話自体、加賀などのわずかな人数しか知らないことだ。

 

「へえ。赤城の師匠ね」

 

 レミリアは興味を持ったようだ。

 廊下の窓からは半月の、意外と明るい月光が差し込み、床に窓枠の影を投げている。二人はその影をまたぐようにゆっくりと歩いていた。

 夜になっても工廠やら接岸中の船舶やらからいろいろな喧騒が聞こえてくるが、鎮守府庁舎の内部自体は静寂に包まれている。廊下の中に響く音は会話する声と微かに聞こえる、足が床に敷かれた絨毯を踏み締める音のみ。よくよく耳を澄ませば、レミリアの呼吸の音がして、そこから彼女の感情が手に取るように感じ取れそうであった。

 

「私には姉がいました。私より一足先に空母娘として就役していた彼女に教えてもらったんです」

「姉? あら、貴女。妹なの?」

「実はそうなんですよ」

「そう言えば貴女、『天城型二番艦』と言ったわね」

 

 驚いたように目を丸くしていたレミリアも、赤城の艦型を思い出して得心したように頷いた。そう、赤城はネームシップ(長女)ではない。

 

「姉は『天城』と言いました。あの、伊豆の天城山から取られた名前です」

 

 天城型空母はたった二艦しかいなかった。それも、元々空母ではなく戦艦として就役するはずだったのだが、度重なる計画の変更があり、結局空母として姉「天城」は進水することになったのだ。

 故に妹である赤城も空母として就役したのだが、予定されていた三番艦・四番艦の建造は予算不足でキャンセルになってしまった。だから赤城は生まれてこの方、ずっと妹であり姉にはなったことがない。ついでに言えば、「姉妹艦」というくくりで全くの赤の他人と疑似姉妹を作ることがほとんどな艦娘の中にあって、天城と赤城だけは正真正銘血の繋がった本物の姉妹同士であった。天城は、彼女が「天城」という名を与えられるより以前から、「赤城」と名乗ることになった妹の姉だったのだ。

 

「言いました? 過去形なのね」

 

 話を聞いていたレミリアは細かいところに気付いた。

 彼女はふと立ち止まって、赤城の顔を見上げる。赤城もつられて足を止め、しかしレミリアを見返さずに床に視線を落した。

 

「ええ。姉はもう、だいぶ前に『亡くなり』ましたから」

「……それは、戦死ということ?」

「いえ。殉職です」

 

 軍属の者が、戦闘において死ぬことを正しく「戦死」と言い、事故やその他の原因で職務中に死亡することを「殉職」と言う。天城の場合、それはまさしく殉職であった。

 

「もう十数年前になりますが、神戸で大きな地震がありました。その時私たちはそこにいたんです。神戸港の民間工場で、当時加賀さんの艤装が建造されていました。艤装建造の初の民間委託として、私たちは妖精たちの制御と、運用面からメーカーの技術者に助言をするため派遣されていたんです。

と言っても、朝から晩まで工場の中で作業員たちにつきっきりで、寝泊まりもそこでしていたんですけどね。それが、良くなかったんです」

 

 未明に都市を襲った巨大地震。まだ多くの人が(もちろん天城と赤城も)寝ている時間、突然街は大きく揺れ、建物は崩れ、高速道路が横倒しになった。

 日本史上屈指の大災害。激震に見舞われた港の工場も半壊する大損害を被った。

 

「私は、運良く助かりました。加賀さん自身はその時呉に居て無事でした。でも、姉はそうじゃなかったんです」

 

 揺れと轟音で叩き起こされた赤城は、何が起こったか分からない内に崩れて来た宿舎の天井と床の間に落ちて、何とか事なきを得た。救出されたのは数時間後であったが、幸いにして骨も折ることなく、軽い脱臼で済んだ。

 しかし、崩れた建物から出て来て目にしたのは、既に物言わぬ姉の姿だった。

 

「姉は、落ちて来た梁の直撃を受けて腰が潰されていたんです。即死だったと思います。痛みを感じることもなく逝けたのでしょう。顔は、寝ている時そのままでした」

 

 艤装を外した状態では、艦娘と言えど人間とほぼ同じ強度になる。逆を言えば、艦娘の生命を支えているのは艤装であり、それがあるからこそ砲弾や魚雷の直撃にも耐えられるのだ。なければ、脆さはそこらの人間と何ら変わりはない。

 初め、毛布を掛けられて寝かされている姉を見て、意識を失っているだけだと思った。その頬に触ってみて、彼女の体が硬く、冷たくなっているのに気付いて、慌てて毛布を捲った。

 

 今でもその時の光景は覚えている。思い出したくもないのに、鮮明に原形を失った姉の身体を記憶している。

 

 

 

「顔が、綺麗なままだったのがせめてもの救いだったんじゃないかと思います」

 

 美人な姉は美人なまま死ぬことが出来た。

 葬儀にはたくさんの人が来て、中には着任したばかりの加賀の姿もあった。加賀とは彼女が艦娘になる前から面識があったものの、言葉を交わしたのはその葬儀の場が初めてであり、それも沈痛な社交辞令だけだったように覚えている。

 

「その姉が私に残してくれた数少ない形見が、弓でした。形があるわけではないけれど、私には決して忘れられないものです」

 

 今まで、ただ一射の矢にも気を抜いたことなどない。精神を集中させ、魂を込めて弦を引いてきた。

 それが加賀の目には「姉への未練を引き摺っている」と映り、しんどそうだと言われたりもしたが、手を抜いた矢を放つなどしては自分で自分を許せそうになかった。唯一にして最愛の姉が残してくれたこの弓を、一体どうしてないがしろに出来ると言うのか。

 

 

 

「いいじゃない」

 

 レミリアは赤城の語りを聞くとそう返した。彼女はゆっくりと歩み出し、少し先に見えた司令室へと向かっていく。

 赤城も彼女に続いた。

 

「少し重い気もするけど、それが貴女の生き方なら私は応援するわ」

「提督……」

「実は私にも妹が居てね。これがまた生意気な性格なんだけど」

 

 後姿を追う形になった赤城からはレミリアの表情は伺えないけれど、楽しげな口調から彼女が明るい顔をしているのを想像出来た。

 

「妹さんがいらっしゃったんですね」

「ふふ。驚いた?」

「いえ。ただちょっと、腑に落ちたところがあって」

「そうかしら」

 

 レミリアは一歩一歩、絨毯の感触を踏み締めるように歩いた。牛歩のような、と言えばそうかもしれないが、今はこの速度が心地良かった。

 

「もし私が死んで、あの子が一人残されることになったとして。私はきっとあの世であの子の幸せを願うでしょう。同時に心配で身を焦がすでしょう。立派な艦娘になったら、鼻を高く伸ばしているでしょう」

 

 レミリアは司令室の前にたどり着くと、そのまま扉を開けて中に入る。

 赤城も続いたけれど、レミリアは入室しても明かりを付けることなく、部屋の真ん中、ソファーの元へと寄って行く。だから、赤城も電灯のスイッチに手を伸ばさなかった。

 当然部屋は暗かったけれど、どこからか入ってきた月の明かりでぼんやりと中の様子は分かった。

 

「でも、本当はただ毎日を元気に暮らしていてくれたらそれで満足すると思う。大層なことは望まないし、自分でもささやか過ぎると思うけれど、それが正直なところなのよね」

「……そう、ですね。姉も、きっとそうだと思います」

 

 赤城は薄暗闇の中で首肯する。レミリアはソファに腰掛けず、黙って手招きをしただけ。かすかな明かりが辛うじて彼女の小さな仕草を照らしていたから赤城に見えたのだ。

 

「まあ、案外冷めているから私が居なくてもそんなに気にしないかもしれないけどね。どちらかと言うと、一人遊びの好きなインドア派だから」

 

 そう言ってレミリアは自嘲気味に笑う。小さな人影が微かに震えた。

 彼女はソファの前に立ったままだ。腰を下すかと思いきや、何故だか赤城を隣に立たせて話を続ける。

 

「そんなことないですよ。姉がいないと、妹は寂しい思いをするんですから」

「そうかもね。そうであってほしいものね」

 

 肯定と、そして願望。

 ぽろりと口から零れるように出たレミリアのその言葉は、わずかに余韻を残して司令室の闇に溶けていった。

 小さな提督はしばらく口をつぐみ、部屋のどこかへと視線を彷徨わせたようだ。赤城は手持無沙汰になってレミリアの頭を見下ろしていた。彼女の丸い頭部は微動だにせず、まるで固まってしまったようにそのままでいる。

 思わずその頭を撫でてしまいたくなったのは、果たして母性本能のせいなのだろうか。何となくレミリアがそんなことを求めているような気がして、しかし衝動は衝動であり理性の歯止めが掛かって赤城は浮き掛けた手を下した。

 

 

 

「でもね」

 

 再び闇の中に声が響く。滑らかな水面に波紋を立てたように。

 同時に彼女はくるりと赤城の方に身体を向けて、たった今その頭にやろうとした空母の手を引っ張った。

 座れ、という合図。逆らわず、赤城は柔らかなソファに腰を沈める。

 

「今一番寂しそうなのは、貴女よ」

 

 座った赤城の目の前に立つレミリア。目の高さがちょうど彼女の胸くらいで、赤城はレミリアを見上げる格好になった。ひょっとしたら、こうして彼女から見下ろされながら相対するのは初めてのことかもしれない。

 

「……提督」

「貴女のお姉さんのようには出来ないかもしれないけど。ほら、おいで」

 

 レミリアは両手を広げ、そっと胸元へ赤城の頭を迎え入れる。

 赤城も抵抗せず、任されるままに彼女に抱きすくめられた。

 

 まだ、着馴れていない制服の少し硬い感触が顔全体を覆う。頬にひんやりとしたボタンの金属が当たっている。

 彼女の着ている制服は少し温度が低かった。けれど、それ以上に服の下にある彼女の体は熱量を持っていて、肺が呼吸によって膨らむ度に彼女の体温が伝わってくる気がした。大人より少しペースの速い、低く響くような鼓動は不思議と安らかで心地の良い音で、赤城は目を閉じて身体全体をレミリアに預ける。

 柔らかく甘い匂いが鼻腔を満たし、赤城はレミリアの背中まで手を回して彼女の胸に鼻を押し付けた。

 こうして抱きしめられるのはいつ以来だろう。思い出せる限り、赤城を抱いたのは姉だけで、だから赤城は十数年もこうして誰かから温もりを分けてもらったことがなかったことになる。

 

 そう、随分と久しい感覚だ。

 心の中で何かが剥がれ落ちていき、幼い自分が露出する。柔らかく、傷つきやすく、だからこそ熱が伝わりやすい部分。

 レミリアは姉ではない。彼女は彼女の妹の姉であって、赤城の本当の姉はあの神戸の街で亡くなってしまっていた。

 けれど、こうして抱きしめ、抱きしめられていると自分のすべてを曝け出して、寄りかかって、どこまでも甘えてしまいたくなる。

 頼りになる秘書艦という仮面も、熟達の弓道者という勲章も、今は外してただ一人の妹として、姉への無限の甘えを見せたくなる。

 

 

 はあ、と無意識に熱い吐息が口から洩れる。

 

 レミリアは優しく赤城の後頭部を撫でていた。その感触が気持ち良くて、赤城はさらに彼女の胸に顔をこすりつける。

 

 

 

 

――提督。

 

――なあに?

 

――ずっと、このままでいいですか?

 

――もう、甘えん坊さんね。

 

――甘えていたいです。

 

――ええ。いいわよ。気が済むまで。

 

――はい……。

 

――私の可愛い可愛い赤城。

 

 

 

 

 

 

 


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