レミリア提督   作:さいふぁ

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A secret makes a woman woman.


レミリア提督13 A secret of scarlet

 

 

 

 この者は煙草を吸うのかと思った。

 

 知り合いの意外な一面を発見するというのは、いつだって愉快なことである。レミリアは日傘を差しながら足音を立てないように彼女の傍に近寄っていった。

 

 

 鎮守府の桟橋から少し離れた防波堤の上。立ち並ぶ倉庫が海に面する人気のないここが彼女のお気に入りらしく、鎮守府庁舎の司令室の窓の端からわずかに覗けるこの場所に、何をするでもなく海を眺める小さな人影がしばしば現れるのをレミリアは以前から知っていた。ただ、彼女がここで煙草を吸っているのは初めて見る。

 

 防波堤に腰掛け、足元のテトラポットに波が砕かれる音を聞きながら、彼女は入り江の向こうの海をぼんやりと眺めていた。咥えた紙筒から立ち昇る紫煙が静かに風に流されている。

 

 防波堤の高さは地面から一メートル程あり、レミリアは日傘を落さないように防波堤に飛び乗った。タンッと軽い靴音がするが、煙草を吹かす彼女は彫刻のように固まったまま海に目を向けている。何も言われないので、レミリアも何も言わずそっと彼女の横に腰を下ろした。

 

 それからしばらく沈黙の時間が過ぎる。二人して話すこともなく、ただひたすら波の音を聞きながら景色を鑑賞していた。思考をするのでもなく、景色の中に何か面白いものを探すのでもなく、無言で無為な時間を過ごす。

 

 先程防波堤に上る前に見た懐中時計が指していたのは三時の十分前。午後も下って来たころ合い。ただ何もしないでいると、いくらもしない内に瞼が重くなって、その内にレミリアの頭がこくんと船をこいだ。

 

 それにはっと目を覚ます。あっという間に居眠りを始めてしまったらしい。

 

 確かに耳に響く波の音や首元を吹き抜ける風が心地よいが、仮にも自分とあろう者がすぐに居眠りをこくなど恥ずかしいことこの上ない。顔が熱くなったレミリアは、今の痴態が見られていないかと隣に座る者をそっと確認するが、彼女は先程と変わらぬ姿勢で無表情に水平線に視線を投げていた。

 

 気付いていないのか、あるいは気付いていてあえて無視しているのか。レミリアとしては前者を願うばかりだが、それはそうとこうも彼女に動きがないと本当に生きているのかとさえ思えてくる。実はこれは彼女の姿形をそっくりそのまま模倣した彫像ではないかと。

 

「提督さあ」

 

 不意に、彼女が――川内が動いた。咥えたままの煙草を離し、ふうっと煙を吐き出した。それでようやく彼女が生きている本物であると確認したレミリアは、緊張の糸を少し解くことが出来た。

 

「何かしら?」

 

「舞風と野分に、変なこと吹き込んだでしょ」

 

 川内は夕食のメニューを尋ねるような気軽さでレミリアに問い掛ける。

 

 鼻腔を紫煙の臭いが満たす。

 

「変なことではないわ。ただちょっと、激励してあげただけ」

 

「激励か」

 

 くすくすと彼女は喉の奥で笑う。「今の二人を見たら激励されたとは思わないんだけど」

 

「あら? 元気がないのかしら?」

 

「元気がないというより、ずっとむすっとしてる。笑わなくなったし、悩んでるみたいね。どうしたのか聞いたら『提督が』って言うからさ」

 

「悪いことを言ったつもりはないわ」

 

 レミリアは日傘を掲げ上げ、天を仰いだ。傘の向こうに見える空は澄んだ青空で、先日のように曇っていたら最高の天気だったのにと惜しむ。

 

「ああいう考え方は、ちょっと気に食わなかったからね。それを率直に伝えただけよ。私、上官だし」

 

「まあ、そうだろうね。あの二人は、あれで結構根暗なところあるから」

 

 川内の言葉に、今度はレミリアが笑う番だった。

 

 彼女はレミリアを責めているのではなく、ただ単に世間話をしているようである。そう言えば、川内はよく四駆の二人と一緒にいるところを見るなと思い出した。赤城の部隊運用でも、川内と四駆はいつもセットになっている。

 

「それで、提督は何を言ったのさ?」

 

「聞いてないの?」

 

「語ってくれなかったから。気になるんだよねえ。あれだけマイナスの方向に全速力で疾走していた二人を立ち止らせちゃうような言葉って」

 

「別に、大したことじゃないわ。ただ、素敵な提案をしただけよ」

 

 それから、レミリアは手短に先日四駆の二人に言った内容を川内に説明した。その間、彼女は短くなった煙草を防波堤のコンクリートに押しつけて火を消し、ご丁寧に懐から取り出した携帯灰皿に詰め込んでいた。

 

 そして、レミリアの話が終わってから、新しい一本を取り出しながら彼女は小さく口元を歪める。

 

「それは素敵ね。本当に……」

 

 小さく呟いた言葉は、海風に語尾が流されて聞き取れなかった。川内は煙草を咥え、ライターで火を付けようとする。けれど、風のせいで思うように火が付かないのか、何度もカチカチと鳴らしてようやくライターをしまった。

 

 ふうと煙が吐き出され、海風に乗って虚空へと霧散していく。レミリアは黙ってその行方を目で追っていた。川内もまた沈黙し、煙を吸っては吐き出し、吸っては吐き出しを繰り返した。

 

 

「五年前の話さ」

 

 しばらくそれをやってから、気が済んだのか川内は語り出した。

 

「その頃は第四駆逐隊も新入りのペーペーでね。後方でなんてことのない小さな輸送作戦の護衛ばかりやってたんだ。敵も少ない安定した海域だったし、たまに出現しても新人で処理出来るような雑魚ばっか。

 

……その日も例によって輸送船団の護衛をしててさ。四駆の四人は任務を終えて自分たちの拠点に帰る途中だったんだ。その航路はそれまでも何度も通ったことのある道で、迷うことなんてないし海の様子も把握済み。いつものように仕事して、いつものように帰っていただけなんだ。

 

ただちょっと時間が遅かった。護衛していた輸送船のトラブルで作戦に遅延が出てね。仕事終わりが二、三時間ばかり延びてしまったのさ。

 

だから、帰り道の途中で日が沈んで、四人は夜間航行をしなければならなくなった。もちろん訓練は受けていたから出来るっちゃ出来るんだけど、いかんせん慣れないものだから索敵が疎かになったんだろうね。もうすぐ拠点だってところで、小さい群島があったんだけど、その間の海峡とも呼べないような狭い水路を通ったんだ。

 

いつもの道よ? でも、それが最悪だった」

 

 トントンと、音を立てることなく川内は手に持ったままの煙草を指で軽く叩いて灰を落した。

 

「待ち伏せさ。待ち伏せの夜戦。

 

敵はエリート軽巡を旗艦とした水雷戦隊で、確か六隻編成だったと思う。エリ軽一隻と後はノーマルの駆逐艦。数では不利だけど、昼に出会えば楽に対処出来る相手だね。

 

でも夜だ。夜戦なんだよ。夜の軽巡や駆逐艦ってのは、深海棲艦でも艦娘でも、昼間とはまるで別物。どんな雑魚だって戦艦を食ってしまうくらい凶暴になる。まして、相手は数が多かったんだ。その優位を利用して、敵は部隊を二つに分けた。駆逐艦のみの囮と旗艦を含む主力。

 

まず囮が四駆を攻撃した。最初の砲撃は命中しなかったけど、完全な奇襲になって四駆は一瞬でパニックに陥ってしまった。それでもその状況で反撃したってんだから、新人にしちゃあ上出来さ。だけど、敵の方が一枚も二枚も上手だった。

 

囮は囮で、初撃が外れるとすぐに反転して逃げた。いや、逃げたようにみせた。

 

もちろん、四駆はその後を追ったよ。パニックになって、それから頭に血が昇ったんだろうね。熱くなって囮を追い掛けちゃったの。で、これが致命的だった。

 

待ち構えていたんだよ、罠にかかるのを。

 

囮を追った四駆を、その側面から敵の主力が砲撃した。これで二連続の奇襲になった。

 

まず、萩風が被弾して航行不能になって、野分も中破。この時点で四駆の戦闘力は半減。つまり、ほぼ壊滅状態さ。

 

その場にいたわけじゃないから想像するしかないんだけど、そりゃあもうすごいパニックになっただろうね。何が何だか分からなくなって、感情のままに叫ぶしかなかったみたいだった。だけど、少し救いがあったのは、嵐が比較的冷静だったことかな。

 

嵐は錯乱する舞風や野分を説き伏せて、先に逃げるように言ったんだ。自分が敵を引きつけて、隙を見て萩風と一緒に後を追うって、そう言ったらしい。ま、要は殿さ。生還の見込みなんてまずあり得ない。嵐は死を覚悟して、それでも残る三人を助けようとしたんだ。

 

で、結果は知っての通り。二人は帰らなかった」

 

 そこまで言い終えると、川内は煙草を咥えて煙を灰に流し込む。ふうっと吐き出して、紫煙が空へ昇って行くのを見送った。

 

 実は、レミリアは今の話を既に知っている。何せ、軍隊と言うのは機密事項も多いが、それ以上に日々の細々とした出来事にまできっちりと記録を残す組織らしく、ましてやそれが本業たる「戦闘」のこととなると、これはこれでしっかりとどこかの紙に記し残されているものだ。もちろん、それを閲覧するには一定の権限がなければならないが、レミリアにおいては権限が不足することはなかった。

 

 そう、五年前のここより遥か南方で起きた惨事である。川内の言う、その前線への補給基地に近い島嶼で行われた突然の夜戦。犠牲者も出たこの戦いは軍に相当の衝撃を与えた。

 

 無論、第四駆逐隊は奇襲を受けた後、緊急事態を基地に知らせている。そして、近くを航行中だった別の部隊が直ちに救援に向かったのだ。先の夜戦で襲って来た敵の水雷戦隊は、この味方の増援により壊滅させられたのだが、生憎萩風と嵐を救うことは出来なかった。

 

 ここまでは記録の通り。川内や四駆の二人の話とも矛盾しない。ただ一点、気になるのはその時駆けつけた救援の部隊というものの正体が分からなかっただけ。記録には単に「別任務を終えて帰還中だった水雷戦隊」としか書かれていない。

 

 これはおそらく高度な機密事項なのだろう。この記録は幹部クラスなら誰でも閲覧出来るものなので、明かせない情報は載せられていなかった。

 

 問題はそこではない。

 

 記録を読んだ時、レミリアは自身の記憶の中の、とある情報とその記録の間にある奇妙な符合点を見つけた。単なる偶然かもしれないが、ちょっと気になることがあったのである。

 

 故にレミリアは川内に話し掛けたのだ。

 

「五年前のその日は結局、近くにいた味方が舞風と野分を助け、敵を撃滅して終幕となったのね」

 

「何だ。ひょっとして提督、知ってたの?」

 

「ええ」

 

 そう。ある、確信を持って……。

 

「それならそうと言ってよ。無駄話しちゃったじゃない!」

 

「無駄があるのも一興よ。それより、気になるのはその時駆けつけた味方の存在。

 

調べても出て来なかったから、人に聞こうと思ってね」

 

「へえ。まあ、大っぴらに出来ない連中だったんでしょうね」

 

「赤城に聞いたら、言ってくれなくてね。何か知ってるみたいだったけど、あの子はそういうこと、絶対に口を割らないだろうし。多分、誰かに口止めされているんだろうと思うわ」

 

「赤城さんは真面目だから」

 

「最近は割と仲良くやってるんだけどねえ。ちょっと頭が固いというか、真面目すぎるのよ」

 

「まあ、あの人はね。『仕事が恋人です』を地で行く人だけど、それは単に真面目なだけで、基本的には普通の女性だよ。内心羽根を伸ばしたいと思ってるかもね」

 

「それは検討しておくわ。でも、本人がほとんど自分からばらしちゃったから世話ないわね」

 

 くすくすと、川内はまた喉の奥を鳴らして笑った。愉快で仕方がないといった風だ。

 

 短くなった二本目をさっきと同じようにコンクリートに押しつけて火を消す。けれど、すぐに灰皿に捨てず、そのままぐりぐりと潰れた煙草をコンクリートで削り始めた。

 

「ま、ここに来た時点で分かってはいたんだけどね。ばれるのは思ったより早かったかな」

 

「自分から誘っておいて何を言っているの? ここは赤城の部屋からも見えるのよ。あの煙草嫌いが見たら、目くじら立てて怒るだろうから注意しようと思ってね」

 

「わざわざ日傘を持って来て、私が吸ってる姿を遮ってくれたのね。優しいよ、提督は」

 

「日傘はそれだけじゃあないんだけど……。それで、そろそろ答え合わせと行こうじゃない」

 

「答え合わせも何も、丸しか付けられないじゃん」

 

「あら? 赤点かもしれないわよ」

 

「十分合格ライン超えてます」

 

 川内はほとんどすり潰されてなくなった煙草の残骸を携帯灰皿に突っ込んだ。そこまで削ったなら、もういっそ擦り切ればいいのにとレミリアは見ながら思った。

 

「ご明察の通り、四駆の救援に駆け付けたのは私の部隊だったんだ。任務の帰投中に連絡を受けて、一番近くにいたのが私たちだったから急行したよ。

 

んで、行ったらそこに居たのは弱い敵で、三分くらいで全部ぶっとばせた。錬度が高かったらなんてことのない雑魚よ。まあ、問題はその後だったんだけどさ。

 

――実は、その時には嵐はまだ“浮いて”いたんだよね。萩風はもういなくなってたけど、大破してボロボロの嵐はまだいた。でもそれは、ただ単に浮力が残っているから“浮いて”いるだけの状態で、見た瞬間『これはもう助からないな』って分かったよ。

 

最期の言葉を聞いてあげなきゃって思って、私は嵐を抱き上げた。そしたら、嵐は何て言ったと思う?」

 

 離れろ!! だって。

 

「もうそれはすごい音量で、とても沈みかけの艦娘の出す声じゃなかった。私も当時の僚艦もびっくりして固まったけど、その後もっとすごいことが起きた。

 

……嵐の身体が、青白くなっていって、手足から何だかよく分からないけどぬめぬめしたもんが生えて来たんだ。ああ、今でもその時の音とか感触を覚えてる。気持ちが悪いというか、あれはもう言葉じゃ表現できないよ。

 

あり得ないことが起こっているんだと思った。現実感がなかった。何かは分からないけど、何かが起こってた。

 

それで、私たちは何も出来なかったの。私の腕の中で、艦娘じゃない何かに変貌していく嵐を見ていることしか出来なかった。

 

でもそれがいけなかったんだろうね。

 

右の脇腹の前くらい、ちょうど肝臓のある辺り。すっごい強烈な衝撃を受けて、私は吹っ飛んだんだ」

 

 川内は「ほら、これがその時の」と言って、上着の裾を捲った。

 

 彼女の言葉通り、右脇腹の、肝臓のある辺りに赤い、大きな傷跡が残っている。川内の白く艶やかな腹に、ミミズが這ったような醜い傷があった。

 

「本当に宙を舞ったよ。辛うじて意識は失わなかったけど、受身さえ取れなくて頭から海に落ちた。お腹が熱かったのを覚えてる。しかも、傷口に海水が入り込んで来たんだから、その後はすごい激痛で。とにかくひたすら痛くて呻いたことしか覚えてない。

 

後で僚艦に聞いたら、私を吹っ飛ばした嵐はそのまま海に消えたんだって。だから戦闘は起こらなかった。僚艦たちは、彼女を攻撃しなかったのさ」

 

 川内は脇腹の傷を一撫ですると、裾を下ろした。

 

「それから三日三晩熱に浮かされて、苦しんでた。一か月の間ベッドから離れられなかったし、ようやく復帰出来たのは、リハビリ期間を含めて二ヶ月経ってからだったよ。

 

私の部隊は夜間戦闘専門の部隊だったからさ、復帰後初めての任務ももちろん夜戦だった。でも、艤装を付けて母艦から夜の海に飛び出した途端、立っていられなくなったんだ。

 

あの、嵐の変貌する音とか感触が蘇って来てね。気付いたらその場に蹲って吐いていた。その日食べた物全部と、それでも収まらずに胃液まで吐いてた。もうその場から動けなくって、僚艦に抱えられて母艦に引きずり戻されたよ。

 

後で医者に診てもらったらPTSDだってさ。いわゆるトラウマってやつ。

 

とにかく、夜が駄目になった。夜の海に出ると一発でフラッシュバックがあって動けなくなる。それでなくても夜中に暗い所で動くのが嫌になったし。

 

私は夜戦の専門家だったわけだけど、何の皮肉かそれがまったく夜戦出来なくなったのよ。ほんとにもう、呆れるね」

 

 川内は自嘲気味に笑い、それまで防波堤の端から下ろしていた足を立てて、背後に手をついた。

 

「昼間は別に普通に動けたから、幸い艦娘をクビにはならなかったけど、それまでいた部隊には居られなくなった。それで、この鎮守府に来たんだ。

 

提督も、その記録を見て気付いたんでしょ?」

 

 レミリアは頷いた。

 

 着任して早々、赤城から川内に夜戦をさせないように言われており、その理由が気になって調べたら彼女が夜戦専門の部隊からこの鎮守府に、五年前に異動しているという記録にあたったのだ。正し、その理由は分からなかったのだが、四駆の話を聞いて、もしやと思ったのがきっかけである。

 

「結局、嵐の身に起こったことは、噂の通りなのね」

 

「だろうね。嵐はあの時、深海棲艦になったんだ。だから、私が受けたのはれっきとした攻撃よ。

 

多分、萩風もそうだろうね。嵐は萩風が深海棲艦になるのを見てたから、そして自分もそうなるだろうと思ったから、『離れろ!!』って叫んだのよ。でも、私が呆けてたからついに理性を失ったの。言ってしまえば、攻撃を受けたのは私の自業自得なんだけども」

 

「それ以来、萩風と嵐は現れていないの?」

 

「深海棲艦として? うーん、聞かないなあ。私自身出会わないし」

 

「このこと、あの二人には言ってあるの?」

 

「言うわけないじゃん。言えないよ」

 

 川内は苦笑とも自嘲ともとれる表情を浮かべた。

 

「そんなこと言ったら、あの二人が遠いとこに行っちゃうよ」

 

「……それもそうね」

 

「うん。だから、提督には感謝しているのよ」

 

「感謝?」

 

「そそ。だって、私じゃ二人を止められなかったから。きっと二人が死地へ向かって行くのを見送ることしか出来なかったから。だから、ああして言葉一つで二人を止めてくれたことに感謝してるし、嫉妬もしちゃうね。まあ、私には出来ないことだったんだけどさ」

 

 川内はそれっきり口を閉ざす。先程と同じようにただひたすらに入り江の向こう、外洋を眺め始めた。

 

 そう言えば、この鎮守府のある入り江は南に面しており、すなわちレミリアと川内は今南方の方角に身体を向けているのだと気付いた。この海の先に、深海の怨嗟がとぐろをまく南方海域が存在する。

 

 

「気に食わなかっただけ」

 

 レミリアは同じ言葉を繰り返した。

 

「足元どころか、自分の背後にある影を見下ろしているだけのような暗い考えを私は好かないの。ただ、それだけのことなのよ」

 

 

 

 川内はおもむろに懐を探り出し、ごそごそとまた新しい煙草を取り出す。どうやら上着の左の内ポケットにしまっているらしく、それを右手を防波堤についたまま横着して左手で取り出そうとするものだから、やり辛そうに箱を取り出していた。

 

「結構吸うのね」

 

「一週間で三本までって決めてるんだ。あんまり吸ってると臭いで気付かれるし」

 

「あら、今週はもう終わりじゃない」

 

「ホントは今日のところは一本で済ませるつもりだったんだけどね」

 

「私のせいだとでも言いたいの?」

 

「うん」 

 

 軽口をたたき合いながら、川内はライターで火をつけようとする。が、例によって海風の所為で思うように火が付かないらしく、カチカチと何度も鳴らしていた。風は川内に禁煙を勧めるかのように強まっており、なかなか着火出来ないことにイライラしたのか、川内はついに軽く舌打ちしてライターをポケットに仕舞い込んだ。

 

「また今度だね」

 

 一度は咥えた煙草を離して、口惜しそうに呟く。

 

 

 

 パチンと、軽快な音が鳴った。

 

 静かに立ち昇る紫煙。指で挟んでいた煙草の先から白い煙が唐突に現れたことに目を丸くする川内。何事かと煙草を覗き込むが、ライターもなく火が付いたことを除けばそこに異常はなかった。

 

「提督、何かした?」

 

 レミリアは満足気に微笑む。来た時と同じように何も言わずに立ち上がると、くるりと海に背を向け、防波堤から飛び降りる。

 

 ふわりと、柔らかい青紫の髪が塩気を含んだ空気を含んで膨らむ。差した日傘はそのままに、宙に浮きそうな軽やかさで。

 

 小さく靴音をさせて地面に飛び降りると、レミリアは傘を少し傾け、飛び降りた背中を目で追っていた川内の方をわずかに振り返った。

 

「ミステリアスな貴女が素敵だと思うわ。秘密は女を輝かせるのよ」

 

 川内は笑う。今日、それまで見せたどの笑い方とも違う表情だった。

 

「提督も、素敵よ」

 

「ありがとう。今ぐらいは赤城が工廠に行ってるから、吸っててもばれないわ。でも、あんまりゆっくりしてると見つかるかもしれないから気をつけなさいね。元“督戦隊”さん」

 

「それも分かってたかあ。ご忠告どうも。この一本はしっかり味わせてもらいますよ」

 

 

 レミリアは暗殺部隊の元隊長へ優雅に手を振り、のんびりとした歩調で鎮守府庁舎へと帰って行くのであった。

 

 

 

 

 


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