彼女は何故踊るのだろうかと考えた。
古今東西、「踊り」と称される複数の特定の動作の体系化された組み合わせはさまざまな国や地域において、各々の土地と文化に見合った方法で形作られ、そして口伝であるいは文字として連綿と受け継がれてきた。世界が海底のケーブルと宇宙の衛星によってネットワーク社会として横の繋がりを持つようになると、世界各地の「踊り」も電子情報に乗って、時に踊る人間そのものが空を飛び、水平に展開されていく。すると、世界各地「踊り子」たちの間で、世界各地の「踊り」が共有され、それらの「踊り」は彼らの卓越した創造的で芸術的な才能により、組み合わされ、融合され、相乗効果を持ち上げて、さらなる新しい「踊り」へと昇華していった。
それを一言、「文化交流」とつまらない言葉で片付けることも出来るだろう。あるいは「文化融合」などと新しい言葉を作り表現することも可能である。オーケストラと共にサックスとピアノが聴衆の耳を愉しませ、浮世絵の手法を取り入れて描かれた西洋画が美術館に飾られるのと同様、大洋と赤道を越えて寄り合わされた新しい「踊り」が生み出されるのも、それはまた「文化交流」であり、「文化融合」であり、あるいはその他の表現によって言い表わされる。
だが、言葉は何でもいい。重要ではない。着目すべき点は、そこに疑問が二つ生まれ得るということだ。
一つ目、何故そういった現象が起こるのかということ。
音楽は聴覚情報による表現であるし、絵画は二次元的な静的視覚情報による表現である。そして「踊り」は三次元的な動的視覚情報による表現である。そこにあるのは、手段の違い。技法の違い。ただし、やり方が違えば表現したいもの、表現出来るものにも差異が出て来る。無論、音楽や絵画の目的が「表現」だけとは限らない。例えば軍楽隊が演奏する勇ましい行進曲には交響曲のような徹底的な音と音の調和は求められず、その目的は兵と軍の士気向上である。
二つ目の問い。音楽にしろ絵画にしろ踊りにしろ、彼らは何を「目的」にそうした文化を継承するのかということ。表現としての「踊り」によって表したいもの、主張したいこと。あるいは表現以外の「踊り」によって、獲得したい事柄。「踊り子」たちの歴史の間で交わされてきた彼ら同士、または彼らとそれ以外の者たちの有機的な交流による生成物が、果たして「踊り子」たちが望んだものであるのかどうかというのは、彼らに興味の目を向ける上においてはいたく気になるものである。
そこで、先程の疑問だ。『彼女は何故踊るのだろうか』には以上の二つの問いが根本的に含まれている。すなわち、彼女が見せる「踊り」の根源と、「踊り」を通して追究するものを探るのであり、そこには同時に彼女と言う存在への本質的な鋭い問い掛けが仕込み刀のように組み込まれているのだ。
そもそも、どうしてそのような疑問が生まれて来るかと言えば、それは彼女が艦娘と言うある種の兵士であるからである。
波が岸壁を洗う音に混じって、桟橋に置かれたラジカセからアップテンポの曲が流れる。
早口のラップ。刻まれるビート。耳に心地よい韻を踏んだ英語。
周囲に建物のない開放的な桟橋では、曲は反響せず、波の音に溶け込み、小さく掻き消えて行く。それでも彼女が音楽に合わせて激しい踊りを見せれば、まるでニューヨークの汚い路地裏に彷徨いこんでしまったかのような気分になった。
彼女が踊っているのはブレイクダンス。世界で最もダンサーの人口が多い「踊り」で、先進国の路地裏なら人種を問わず踊っている人間をちらほら見る。元はアメリカのギャング同士が、流血沙汰の代替手段として発展させたもので、それらはいつしか彼の国の黒人を中心とした若者らの間で広まり、ブラジルの格闘技カポエイラやアフリカの民族舞踊の動きを取り含んで発展した。
バレエや社交ダンス、他の民族舞踊とは違い、その「踊り」は必ずしも地に足を付けたものではない。音楽に合わせて軽快にステップを踏んでいたかと思うと、次の瞬間には手を地面について逆さまになりながら回転する。背中を軸にくるりと円を描いた直後に飛び上がり、そのまま後方宙返り。翻ったスカートの下は黒いスパッツだからか、彼女は気にも留めていない。むしろ、衣服の翻りすらパフォーマンスの一部として計算されているようだった。
再び前後左右にステップ。リズミカルに、しかしアクセントとしてわざとテンポを崩した一歩を踏んで繰り返す。彼女の一房の金髪は汗に濡れ、パフォーマンスの間に短く吐き出される息遣いが聞こえる。
そして、音楽はいよいよクライマックスに向かい、一旦スローダウンする。山場の前に一瞬つけられた谷間。ドラムが静まりアカペラになる。
同時に、激しく踊ってた彼女の体も動きを止める。だが、完全には静止しない。両腕を腰元からゆっくりと肩の位置にまで持ち上げ、鳥が羽を広げるように左右に開いた。 その動きはこの国の伝統的な舞踊を想起させる。実際、それを真似たものだろう。
次いで、曲が一気に盛り上がる。クライマックスへの突入とタイミングを合わせ、小振りな尻を小刻みに振ってからダイナミックな動きへ。両腕を大きく回し、細くしなやかな脚は残像を引く。今までよりもより激しく、よりアクロバティックに。
二連続の宙返り。彼女の口から英語が紡がれ、額に張り付いていた前髪は遠心力で舞い上がり毛先から滴を飛ばす。
曲が、サビの最期の繰り返しに入る。彼女は片手を地面につけて逆立ちすると、そのままその腕を軸に回転蹴りを放つ。
爪先が空を切り裂く音共に音楽が終わり、彼女の靴が軽快にコンクリートの桟橋を叩いた。
ぱちぱちと拍手の音が桟橋に響く。喝采の混じった盛大なものではないが、真摯に称賛の意を込めて叩かれる手に、踊り手は嬉しそうに、照れ臭そうに破顔する。
「かっこいいじゃない」
見物人は二人。その内の一人が拍手を終えると舞風を褒め称えた。
「ありがと、提督」
彼女はそう言いながら、新しい曲を流し出したラジカセのスイッチを切り、その上に乗せてあったタオルを手に取って顔の汗をぬぐった。肩で息をしながら、クールダウンするようにその場を歩き回った。その間も、彼女は実に嬉しそうな表情を浮かべている。
「いつもは」まだ呼吸の整わない内に彼女は喋り出した。「見てるの、のわっちだけだから、ちょっと緊張しちゃった」
「でも、いつもより動きが良かったわ」
その野分が舞風を褒めると、言われた方はまた照れ臭そうに笑う。「ホント?」
「ええ。あまりああいうダンスは知らないけど、舞風が非常に上手だというのは分かったわ。動きも面白かったし、楽しませてもらったわ」
「うへへ」
レミリアの言葉に、舞風はフニャフニャとした顔になる。
「でも、意外ですね。司令がブレイクダンスをご覧になるなんて」
レミリアの隣に腰を下ろしている野分が話し掛けてくる。レミリアは「そうね」と頷き、
「ダンスと言えばワルツばっかりしか知らないけど、新しい物事を知るのは嫌いじゃないから」
「ワルツか~」
息の整った舞風は両手をふわりと上げ、地面に足を這わすようなステップを踏み始める。
「テンテレレ、テンテレレ、テンテレレテンテレレン」
口で音楽を刻みながらくるくると回りながら踊る舞風。相方こそいないものの、両腕の位置といい、ステップといい、テンポといい、見事なワルツである。どうやら踊りと名の付く動きなら何でも出来るらしい。
実に類稀なる才能である。そして、そうした才能とそれを実際に動きとして出力出来るしなやかな体。運動神経に恵まれた彼女のそうした特性というのは、実戦においても色濃く反映されている。
リズム感抜群で、ぶれない体幹を持ち、激しい動きを連続させられる十分な体力。それらは戦場において敵艦を翻弄し、速やかに仕留めることを可能にしていた。そのためか、陸上での白兵戦訓練でも彼女は鎮守府で一番の成績を修めている。本気の陸戦隊員と勝負して投げ飛ばしてしまうくらいなのだから。
「のわっちも踊ってみればいいのにね。楽しいよ」
ひとしきりワルツを終えた舞風は笑う。
「私はあまり運動神経良くないから。あと、のわっちって呼ばないで」
「射撃の腕はピカイチなんだけどねー」
「まあ……」
今度は野分が照れる番であった。
事実、野分の射撃精度はずば抜けている。いつだったかの演習において、背を向けて棒立ちであったとはいえ、加賀に正確無比な雷撃を直撃させたその腕前からも十分に分かる。射撃訓練においても、成績は先輩の巡洋艦や駆逐艦を差し置いて文句なしのトップに君臨している。そのことを、どうやら舞風に比べてかなり控えめな彼女は誇示したりはしないのだが、直球で褒められて否定はしない辺り、プライドを持っているのだろう。
「なるほどね。貴女たちはバランスのいいコンビなのね」
「だから、ここに来れたんだ」
舞風は得意げに胸を張った。
そう、確か第四駆逐隊の二人は志願してこの鎮守府に異動して来たと聞く。最前線として、また一航戦の母港として有名なこの鎮守府は、かつてより錬度の高い者だけが集う少数精鋭の基地である。それ故、この鎮守府に所属するということはそれだけで大きなステータスになり、目指す艦娘は多いのだという。無論門戸は狭く、厳しい選抜を勝ち抜いてきた者たちだけがその栄誉に与かれる。
舞風と野分はまさにそうしてこの鎮守府にやって来た。
接近戦の得意な舞風、抜群の射撃の腕を持つ野分。何より、この二人はその息がぴったりと合っている。総合力でこそ七駆に一歩劣るが(あちらは平均的に何でも高いレベルでこなせる)、遣いどころを誤らなければたった二人の駆逐艦とはいえ大きな戦力になることは間違いなく、だからこそ赤城は先の演習で勝つことが出来たのだ。
「頼りになるわ」
レミリアは立ち上がり、大きく伸びをする。
本日は曇天。暑くもなく、寒くもなく、実によい天気である。
もう少し彼女らと話をしてみようと思い、「ところで」レミリアはラジカセを持ち上げたところの舞風に問い掛けた。「貴女たちはどうしてここに来たの?」
すると、舞風は動きを止め、ぱちりぱちりと瞬きを二三度繰り返すと、レミリアの質問の意図を計りかねたのか野分と視線を交わす。それまで朗らかだった彼女の顔に翳りが差し、レミリアはやはり本来なら触れるべきではないことだったのだと確認する。だが、こうしたことはレミリアがこの鎮守府の最高責任者であり、舞風と野分が部下であり、そして彼女たちの”動機”が彼女たち自身の働きぶりに関わってくるようなら、課題点を抽出し、解決を図る義務があろう。故に、レミリアは二人の最も繊細な部分へ踏み込んだ。
鎮守府に所属している艦娘たちの、各々の来歴、例えばここに志願して来た理由などは大抵すでに勉強済みである。履歴書に書かれるような事柄なら人事の記録に山ほど載っていた。しかし、あくまでそれらは表面的な事実の羅列であり、心底では当事者たちが何を考え、何を感じているのか、こうしたことは本人たちの口から直接聞き出すにほかない。
あくまでもさりげなく、「ふと気になったから聞いてみた」程度の軽さを演出しながら慎重に踏み込んでいく。
果たしてその試みはうまくいったようで、間もなく話辛そうにしながらも、色々あってさ、と前置きしてから舞風はポツリポツリと語り出す。
「昔、第四駆逐隊は四人居たんだ。私と、のわっちと、あと二人。萩風と嵐って言うんだけど」
そこで、舞風は言葉を切り、気まずそうに視線を桟橋に這わす。時間が経ったとは言え傷が癒えたわけではなく、二人にとっては忘れがたい辛さがまだ残っているのだろう。心中を察すると、少しばかりの罪悪感が胸を刺す。
「戦闘で、轟沈したんです」
続けたのは野分の方だった。彼女は舞風より幾分かはっきりとした言葉を繋いだ。
ぼかした言い方はしなかったし、レミリアを見据える野分の視線は真っ直ぐだ。それで、二人が辛さを受け止めても、悲劇に目を逸らしているわけではないと分かった。
「まだ錬度が低く、経験も浅い頃でした。敵の奇襲に遭って、二人は野分たちを逃すために犠牲になったんです」
「あ、あの頃はさ、私もまだ全然動けなかったし、のわっちも今ほど射撃が上手じゃなかったの。ぺーぺーの新兵で、それでいきなり奇襲されたんだから何にも出来なかったんだよ。で、萩風と嵐はおとりになって……」
「だから、私たちはそれから徹底的に自分を鍛えたんです。たった二人になってしまったけど、出来ることは何でもやりました。綺麗なことも、綺麗でないことも……。そうやって、この鎮守府に来るための切符を手に入れたんです」
遠くで船笛が鳴る。港を出て行く貨物船がお別れの合図をしたのだろう。
野分はその音に反応し、海の方に目を向けて貨物船を望む。舞風は地面に何かを探しているように視線を落したままだ。
ぼぉ。船笛がもう一度鳴る。
野分は貨物船から目を離さず再び口を開き、レミリアに問い掛けた。
「ご存知ですか? 沈んだ艦娘は、深海棲艦となって帰って来るって」
レミリアが首を振ると、野分はさもありなんと頷く。
「まあ、単なる根も葉もない噂ですからね」
野分はちらりと舞風に目を流した。
そこには重苦しく黙ったままの駆逐艦がおり、先程まで明るく踊っていた者と同一人物とは思えない。ダンスによって熱されていた空気は、いつの間にか海風が運び去ってしまっていた。
「野分たちがここを志願したのは、ここが最前線だからです。ここに所属すれば、いろんな海域に出撃して、いろんな敵と戦えます。普通、駆逐艦というのは大多数が護衛任務や輸送任務、近海の哨戒任務に従事していて、最前線に出て敵とがんがん撃ち合えるのはほんの一部に留まります。野分たちは、その一部になりたかった。そうやって最前線に出続ければ、いずれ萩風と嵐に再会出来ると思ったから」
二人が例え、深海棲艦になっていたとしても。
付け加えられた最後の一言は、波音に掻き消されそうなほど小さな声で紡がれた。会ってどうするかは、彼女は語らないし、語りそうにもない。
「馬鹿げてるとは思うよ」
代わりに、舞風が続ける。
「のわっちの言う通り、沈んだ艦娘が深海棲艦になるなんて噂でしかないし、ホントにそんなことがあったなんて聞かないからさ。出所なんて分かったもんじゃない
――だけどね、提督」
「……」
「そんな噂に縋りたいほど、私たちははぎっちとあらっちにもう一度会いたいんだ。だって、私達の大事な姉妹だもん。血は繋がってないけど、それでも姉だし、妹だよ。会いたいのは当然だよ」
胸一杯に詰まっている感情を吐き出したかのような舞風の声は切なさに溢れていて、それは懇願のようにも聞こえた。
彼女たちは同じ「陽炎型」と分類される兵装を背負う艦娘であり、その分類というのは単純に兵装に立脚している。すなわち、「陽炎型駆逐艦」というのは、「陽炎型の兵装を背負う艦娘の集団」という意味であり、それ以上はない。
これは陽炎型に限らず、他のすべての艦娘に言えることだが、一方で個々の艦娘たちは同型艦を姉妹と呼び親しむ傾向を持つ。例えば、陽炎型で言えば「長女」の陽炎を筆頭に18人姉妹として彼女たちは振る舞う。
「海の上で一人だけだなんて、そんなの寂し過ぎるからだよ」
どうして艦娘は姉妹の関係性を重視するのかというレミリアの問いに対し、以前漣はそう答えた。
血を別たない姉妹がいるからこそ彼女たちは孤独と戦える。個人で完結した戦闘力を持つ故に、他者との関係の中に安堵を求める。
彼女たちもまた心を持つ生き物であり、競争と緊張の中で、それを分かち合え、安らぎを共有できる姉妹艦というのは必要不可欠な存在なのだ。それが例え離れ離れになっていたとしても、姉妹が居るということは轟沈の恐怖に常に晒される彼女たちにとって、大きな勇気の発生源となる。
では、その姉妹を戦闘で失った艦娘はどうなるのか。その実例が目の前の二人である。
舞風も野分も、言葉にしてその悲愴や苦痛を語らない。しかし、その瞳に宿る仄暗い光が、翳りの差した表情が、わずかながらも、しかし雄弁に彼女たちの内面を教えてくれる。
誰かを失った時、人はそれを悲しみ、もう一度会いたいと願う。神に縋り、魔術に縋り、祈りを捧げ、禁忌に足を踏み入れ、我が身を犠牲にしてでも叶わぬ再会を求めるのだ。喪った妻を取り戻すために冥府に下ったオルフェウスのように。
自分もそうなるだろうか。
レミリアはたった一人の妹の顔を思い浮かべる。あの子を失った時、自分はどうなるのだろうかと。憤怒か、慟哭か、悲嘆か。その時自分が見せ得る反応に、レミリアは予想を付けられなかった。
ただ、漠然と悲しむのだろうなとしか分からない。しかし、それだけでも二人の気持ちを察するには十分であった。
彼女たちは根も葉もない噂に縋った。大切な姉妹を敵として迎えることになるとしても再会したいと願い、血が滲むような努力の末、この場所にやって来たのだ。
「もし」その上で、レミリアは問う。「再会出来たらどうする? 敵として」
舞風は、顔を反らした。野分は沈黙を維持した。
それが、答えだった。
会いたいと願った先にあるもの。愛しい誰かと再会した時に生まれる感情。彼女達たちはそれを再会する前から心の中に抱いている。
そう言えば先程の舞風のダンス。今回こそレミリアというイレギュラーなギャラリーがいたが、普段はその踊りを見るのは野分だけだという。この姉妹はいつも二人で行動しているし、その間に別の誰かが入り込んでいるなど滅多になかった。
けれども、果たしてそれは本来の光景なのだろうか。実は舞風のダンスを見ているのは一人だけではなかったのではないだろうか。踊る舞風を野分が見るという構図は、本当は大切なものが欠損している構図で、そこには元々欠けてはならない何かが存在していたのではないだろうか。
「……そう。そうなのね」
レミリアは首を振る。彼女たちの目的は、ただ再会することではない。
場所はどこでもいい。三人が一人を取り囲み、あるいは四人一緒になって踊る。それこそが、二人が望む到達点なのだ。
――まったく、愚かしい。そう断じる。
こうした考えをレミリアはこの国に来た時から嫌っていた。死してなお得られるものなどありはしない。例え死後の世界が“ある”としても、冥土の地まで持ち越せるものなど己の意志しかない。物や人を望んだところで、得られる術はないのだ。
舞風も野分も、どこかの戦場で姉妹と出会えば、その瞬間に二人とも生還を放棄するだろう。この沈黙はそういう意味だった。運よく姉妹との“戦闘”に勝利しても、それで沈んだ姉妹が戻って来る保証はなく、彼女たちは誰にも望まれない心中を選択するのだ。
死ぬのが怖くないかという問いはするだけ無駄だろう。最早彼女たちの心に残っているのは勇気でも希望でもない。二人の望みは、望みのない世界に我身を没せしめることであり、それは正しく絶望なのだ。
この鎮守府で最も新しく、最も新鮮であるはずの舞風と野分の血は、きっと死にかけの老人のように濁り、淀み、苦味を増してどろりとした不愉快な液体と化しているのだろう。そのような血が自分の体に流れているとしたら、というあり得ない仮定にもかかわらず、想像すると全身が総毛立つような感覚に襲われる。
遠い海と大陸の向こうから来たレミリアにすれば、「美しい死」の話など存在しないと考えるし、それを大真面目に実行しようとしているのも実に馬鹿げているとしか思えない。まったくもってそういうことは無駄だと捉えるのが主義であった。
舞風の朗らかな人柄とエキサイティングなダンスの裏に、野分の実直で優秀な成績の裏に、こんな悲しい話が隠されていたというのは、正直レミリアも大いに同情するところである。だが、そこから先は認めない。認めるわけにはいかない。
故に、命令を下そう。
ここではレミリアが上官であり、舞風と野分は部下である。
「気に入らないわ」
レミリアは吐き捨てた。舞風と野分の、悲壮な決意を、まずは靴底で踏みにじる。
当然、それまで悲しみの籠っていた瞳に、剣呑な光が宿り始める。二人は悲しげな表情から、隠しきれない不快感を滲ませていた。
「まったく、気に入らない」
もう一度、粉々になるまで。
「提督には、悪いと思うよ!」
先に声を荒げたのは舞風だ。
無論、レミリアには予想の範囲であり、細かいことは言わないし気分を害したりもしない。
「だけど、私たちはそのために今までやってきたんだ。今更否定しないでよ!!」
「萩風と嵐と再会して、一緒に海に沈んでいくの? 実に素晴らしいわ」
いよいよ、舞風ははっきりとした怒気を放出し出した。温厚な彼女にしては珍しく(ある意味当然だが)、眼にも力が籠り、まるで深海棲艦を睨むような目つきになっている。隣では野分も明らかに棘のある視線を向けていた。
「でも、私にはもっといい考えがある」
レミリアは両手を大きく広げた。首を左に傾げ、口元を釣り上げて前歯を見せる。
「取り戻すんだ。貴女たちの沈んだ姉妹を、再びこの空の下に連れ戻す。素敵でしょう?」
はあ? と舞風が口を開け、野分は不愉快そうに眉をひそめた。
何を言っているんだこいつは、と二人ともあからさまである。
「出来ないと思う?」
「そりゃあ……」
やけに自信ありげなレミリアの姿に、舞風の顔に困惑の色が浮かび、同意を求めるように彼女は野分を見た。野分も野分で、「あり得ないと思います」とにべもなく否定する。
「あり得ない? 本当にそうかしら?」
「というと?」
「そもそもよ。一説には、艦娘と深海棲艦との間には深い関係があると言うじゃない」
それもまた、根も葉もない噂の範疇であるが、レミリアは以前からそういう話があることを聞いていた。もちろん、真実であるという証拠はなく、どちらかと言えば“オカルト”に近いのだが。
「例えば、駆逐棲姫のように艦娘に酷似した容姿の深海棲艦も現れている。そこに何かしらの関係があったとしても不思議じゃないわ。まるでコインの表と裏で、艦娘か深海棲艦かというのは、表か裏かの違いしかない。艦娘が深海棲艦になるのなら、また逆もしかりなのかもね」
仮説だけど。とレミリアは付け加えた。
しかし、レミリアとしてはほとんど真実に近い仮説のつもりで、というよりもうそれしかないという確信さえ抱いていた。
深海棲艦にも種類があり、例えば知能で言えば、昆虫のようにごく単純な行動原理しか持たない下級の深海棲艦から、言語を扱い人間と意思疎通さえ図れるような非常に高度な知能を持つ者もいる。人類はそれらすべてを「深海棲艦」というカテゴリーの中に押し込めてしまっているが、実はその「深海棲艦」にも色んな種類が存在する。中には、かつて艦娘だった「深海棲艦」もいる。そういう話だ。
すなわち、
「そうした深海棲艦と艦娘の違いはその方向性ただ一つ。人間の味方をするか、敵対するかの違いだけ。根っ子は同じ。見る角度を変えれば、同じものでも違って見えるように。精神の生き物なのよ。精神の有り様が違えば存在も変わってしまう」
「そ、そんなわけない!」
強い言葉でレミリアを否定したのは舞風だ。その瞳には雫すら浮かんでいて、きっと彼女はレミリアが語る恐ろしい仮説を心から拒絶したいのだろう。舞風は心に高い城壁を築き上げ、銃眼から無数の鉄砲と矢を放ち、それ以上提督の言葉の侵食を受け付けまいと必死で戦っているようだった。
「私たちは、あいつらとは違うんだ! あいつらから私たちが生まれるなんて、そんな、そんな馬鹿な話はないよ!!」
「そうですよ。司令の話はあまりにも突拍子がありません。現実的ではありませんし、そんな噂は所詮噂。ただの幻想にすぎませんよ」
野分も舞風に同調する。普段真面目で物腰の柔らかい彼女ですら、レミリアの言葉を強く全否定するのだ。余程この話は受け入れがたいのであろう。
「幻想か……」
偶然にして、野分は意識したわけではなくその単語を使ったのであろう。しかし、レミリアはそこに何やら運命めいたものを感じざるを得なかった。
その幻想は、今お前の前に立って言葉を交わしているというのに。
アイロニックな笑みが口元に浮かぶのを抑えきれなかった。
「幻想と言うなら、貴女たち自身がそうではないの。いやそもそも、艦娘と深海棲艦の本質が共通していないなら、どうして沈んだ艦娘が深海棲艦になるというの? そうでしょう? 貴女たちの中に、思い当たることはない?」
「それは……」
二人とも口を噤む。どうやら思い当たりがあるようだった。
はっきり言って、今の切り返しは出まかせでしかなかったのだが、巧く二人を誘導することが出来たようだ。後はこのまま力で押し切ってしまえばいい。取っ掛かりは見つかったのだから。
「貴女たちがどういう存在なのかを証明した科学者はいない。的確に表現出来た弁論家もいない。議員は艦娘の法的定義に頭を悩ませたし、官僚はいつも艦娘の取り扱いに曖昧さを含ませざるを得なかった。
万物森羅万象に定義を与え、合理性を求める人間たちは、今まで一度だって艦娘の本質に言及出来たことはないはず。常に曖昧なところを曖昧なままに、不明瞭な部分を不明瞭なままにして、ただ己が分かる範囲で艦娘を利用して来たの。
そういう存在を、何と言うか知っている?」
オカルトっていうのよ。
言葉の槍は、二人の心に合った強固な城壁を突き破った。否、それはしかるべくしてそうなった。
何故なら、彼女たちはもちろん、自分たちがどういう存在であるか、言葉にしないにしろ、皆気付いているのであるから。
「幻想なのよ。すべて、幻想なの」
「……うん」
「けれど、幻想だからって、それが真実じゃないとは限らないじゃない」
艦娘が幻想であるなら、「艦娘が深海棲艦になる」という噂も、「艦娘は深海棲艦より生まれ出る」という噂も、また幻想ではないか。
幻想だって姿を持つ。噂だって真になる。
もし萩風と嵐が深海棲艦になっているなら、信じ方を変えればいい。その二人を深海棲艦として捉えるのではなく、艦娘として捉え直すのだ。そこに一定のプロセスが必要だとしても、プロセス自体の難易度は高くないし、故にレミリアは確固たる自信を持つのである。
小さな提督は不敵に笑う。
取り戻したいというなら、取り戻して見せよう。