「やっぱりいるし……」
ニガムシを噛みつぶしたような顔で、エーテルはそう呟いた。
静まりかえった中心街を突っ切り、ベルフォス教会のある通りまでやってきたエーテルは、教会の入口に見張りがないことを確認してひとまず安堵した。そのまま夜盗のごとく門をよじ登り、教会の正面扉に鍵がかかっていないのを発見して、嫌な予感がした。
そうっと扉を開くと、嫌な予感は的中した。神にも祈る気持ちで月明かりの礼拝堂を一目に見渡せば、長椅子の最前列に人影が……。
「来ましたか」
エーテルの沈んだ声に、誰かの声が返される。
長椅子の背もたれから伸び上がった影が、そのまま通路に出ると、幽鬼のように揺らめいて少しずつ鮮明になっていく。こちらにやってくるのは一体誰か。そんなのは問うまでもない。
「アリシア……」
月明かりのもとに現れたのは、もはや見飽きた銀髪の女だった。服装は珍しく騎士のものではない、ゆったりとした婦人服だったが、色調はやはり銀。
まるで自分がここにいるのが当然とでも言いたげに、アリシアは笑って首をかしげる。実に白々しい態度だ。
「お戻りですか、姫? 思ったよりも早かったですね」
「戻るつもりなんてない……」
「ほう、こちらへは捕まりに来たのではないと?」
「お願い……。見逃して」
アリシアは少し驚いた様子だった。それから困ったように首をふる。
「姫。残念ですが、
「……やっぱり知ってたのね。あの日誌を、私が読んだこと」
「ええ、まあ。確信はありませんでしたが」
ゆっくりと歩いてくる。
「けど私は信じていませんよ。あなたが魔王の生まれ変わりだなんて」
エーテルは、アリシアの真意を測りかねた。
「私は一度、死んだのよ?」
「それは存じております。まだ幼かったあなたが疫病に犯されたとき、私は侍女としてユスティヘル家に仕えておりましたからね」
初耳だった。アリシアの経歴に興味などなかったが、あまりにも意外だった。
「なら……」
「いいえ、あなたは公爵様が恐れているような、魔王の宿主などではありません。あなたは、もっと……そう、もっと特別な存在です」
「アリシア? あなた変よ。根拠があって言ってるわけじゃないんでしょ」
「まあ、根拠はないですね」
月の光のなかでアリシアが笑っている。つくづく嬉しそうだ。その笑いに悪意がないということくらいエーテルにだって分かる。
溜息を一つ落として、疲れた声を絞りだす。
「いいから、見逃して」
「なぜです? この先には何もありませんよ?」
「だったらいいでしょう。行かせてよ」
「駄目です。城へ帰りましょう」
「嫌よっ!」
声が礼拝堂に反響した。張り上げた音は、湿った夜の空気を震わせて、どこへともなく呑まれて消えた。暗い礼拝堂が静謐さを取り戻す。
「待遇が不満ですか?」
「あっ――」
愚問すぎて、一瞬、何を聞かれたか信じられなかった。
「当たり前でしょうっ!?」
激情に身を任せると、わずかに涙が込み上げてくる感覚があった。
「みんな私を嫌うのよ!? まともに相手もしてくれない! 外にも出してくれない! やっと原因を突き止めたと思ったら……前世がどうだったなんて不確かなもので、どうしてここまでされなきゃいけないの!?」
涙を目に滲ませはしても、エーテルは決して泣かなかった。日に二度も泣くなんてあり得ないことだ。再び静かになった屋内に、エーテルの乱れた息遣いだけが響く。
二人とも少しだけ沈黙を守った。
「……ねえ……アリシア。私には知る権利があるでしょう」
「それとこれとは別の話です」
少女の叫びにまるで耳を貸さなかったような、言い方だった。
「どうしてッ、私の邪魔ばかりするの!」
「それが私の仕事だからです」
アリシアの声が冷気を帯びた。取りつく島もなかった。これ以上の話し合いに応じるつもりもないようだった。
「そう……ならもういい。力尽くでも通してもらうわ」
「おや、穏やかじゃないですね」
鼻で笑うアリシアを、エーテルは睨みつけた。
「その余裕はどこから来るの? 今日はあの
「嵩張るので置いてきました。まあ鎧などなくとも負けませんよ」
「……言ってろ、この年増」
「……またお仕置きされたいんですか?」
礼拝堂に殺気が舞う。
いつもなら気圧されている場面だが、この時ばかりはちがった。すべての武装を取り去ったアリシアとなら互角に戦える自信があった。単なる詠唱魔法の応酬であれば、問題なく対処できることは前回で確認済みだ。
利き手をすぐに動かせるよう軽く曲げて、エーテルは身構える。同格の魔法士が相手の場合、魔法詠唱は後出しが有利なので、下手には動けない。そのはずだが、アリシアの手が持ち上げられた。どういうわけか後手は譲ってくれたようだ。どんな魔法を使われても対処するべく、アリシアの挙動に全神経を集中させる。
戦端は開かれた。
――かに思われた。その時、低い音がして、礼拝堂の空気が変わった。音の鳴った方から夜気が流れ込んできて、足もとを冷たく吹き抜けていった。
「エーテル!」
名前を呼んだのは青年の声だった。予期せぬ展開に、エーテルは不覚にも胸が熱くなるのを感じていた。
「エミル君!?」
駆け寄ってくるエミルに、ためらいながらも数歩歩みよる。先ほどとはまったく別種の緊張に襲われる。見れば、彼の額には汗が浮いている……町中を走り回ったのだろうか。
「……ど、どうして来たの?」
「す、少しでも、君の助けになりたいから」
「……そんなの勝手よ」
エーテルは目をしばたたかせ、ぶっきらぼうに顔を背けた。辺りが暗かったことは幸運だった。そうでなければ、赤くなった顔を見られてしまっていたからだ。
「そうだね。君の誘いを断っておいて、僕は自分勝手だ……我が儘だって承知の上だ……けど、それでも君の力になりたいんだ」
エミルが後ろめたげに微笑んでいる。エーテルの心にわずかにあった怒りは、瞬く間に
「今朝の男の子ですね?」
蚊帳の外にいたアリシアが口を開いた。
エミルは頷いてから、エーテルの前へと進み出た。
「アリシアさん、お願いします。彼女を行かせてあげてください」
「駄目です――と言ったら?」
「ここで僕が、あなたを止めます!」
アリシアのまなざしが一瞬だけ鋭くなった。銀色の殺気の矛先が変わる。
「はあ……部外者は下がっていなさい。君ごとき秒殺できますよ。時間稼ぎになんてならない、目障りなだけです」
地を這う虫に向けるように冷たい目だ。アリシアのこんな表情は、付き合いの長いエーテルでさえ見たことがない。それでもエミルは譲らなかった。
「――エーテルッ!」
「は、はいっ」
力強い声で名前を呼ばれ、肩が跳ねる。
「今のうちに行くんだ!」
温厚な彼からは想像もつかない、有無を言わさない迫力があった。だが、一度だけこちらを振り返ると、空元気じみた笑顔を見せてくれた。心配させないよう気遣ってくれたのだろう。
エーテルはおそるおそる歩きだす。祭壇の隣にある扉に行きたいのだが、
当然、アリシアの手がエーテルに伸びる。だが――
「何もするな! あなたの相手は僕だ!」
後ろから雄叫びが上がった。
「フゥ……厄介ですねぇ」
アリシアが鋭く前方を睨みつける。視線の向く先は、信じがたいことにエーテルではなかった。エミルなど歯牙にもかけずに、こちらに襲いかかってくるとばかり思っていた。まさかの展開だ。
間近まで来ても、見向きもしない。このまま通り過ぎてしまえば……。
「手加減はしませんよ。無責任な男は嫌いですから」
隣から、棘のある声が発せられた。明らかに、それはエーテルに宛てた言葉だった。そして、これに返す言葉は、考える間もなく口から出ている。
「アリシアッ! 彼に怪我をさせたら許さないから!」
「は、はあ? いや……多少の怪我は」
「許さない! いいわねっ!?」
そう言い捨てて、エーテルは走りだした。
つづく( ˙ө˙)