夜の町を歩いて、二人は慎ましい住居に帰り着いた。
人通りが消え失せた夜半の町――男の子に背負われて――夜気のなかを行くのは、彼女にとっては冒険だ。だから、到着してしまったという、名残惜しい気持ちも少しはある。
建てつけの悪い扉を鳴らしながら中に入ると、エーテルはゆっくりベッドの上におろされる。勝手知ったるエミルがどこからか火打ち石を出してきて、
「お酒はよく飲むの?」
「初めてよ。お酒って楽しいね」
「そっか」
しばし心地の良い静寂がおとずれる。エーテルは体を起こすと、足を床におろしてベッドに腰かけた。エミルが向かいの木箱に座っていた。
「エミル君と飲んだからかな?」
「ど……どうかな」
(ふふ、照れてる照れてる)
また短い静寂がやってくる。エミルは
「今日はもう寝るよね?」
「ええ、そうね」
「それを聞けて安心したよ」
わざとらしく、ふうと息をつくエミル。
「教会のことでしょ? あれはもういいの。今朝はああ言ったけど、あそこにアリシアがいたということは、私の考えが見透かされてるってことだから。行ってもどうせ捕まるわ。きっとこの場所だって、あいつはすぐに調べ出すでしょう」
エミルの驚いた顔が、蝋燭に照らされていた。
「……アリシアって、僕たちを引きとめた?」
「そう。私のお目付役なの」
ベッドに腰かけたエーテルと、木箱の上に座ったエミルの間の、蝋燭の火が、物言いたげにゆらめいた。深刻そうなエミルの顔が、照らし出されていた。言葉に詰まっているようだ。
そんな彼に告げることがある――告げないと先に進めないことが。これも計算のうちだと、自分に言いきかせながら、エーテルは深呼吸をした。
「エミル君。私はあなたといると楽しいみたい。だからさ……」
一拍の間をおく。これも演出だ。
「私のものになってよ」
「…………え?」
時間が止まったような顔をするエミルから、エーテルは居たたまれなくなって目を反らした。
だが次の言葉はぽつりと、彼の口から零れでていた。
「僕でよければ」
――またまた静寂がやってくる。嬉しくてこそばゆい、そんな静寂が。
にやけだす顔を必死に抑えて、冷静を装った。こういう時、プライドというのは邪魔で仕方がない。顔の火照りは、酒のせいだけじゃなさそうだ。
はにかみ笑いを浮かべたエミルが口を開く。
「……ねえ、これからどうするの?」
「このままどこか遠くへ行って、二人で暮らすの」
「……え?」
エミルの表情に影がさしたような気がした。
「し、心配しないで。私、魔法が使えるの! 魔物が出てもやっつけられるし、お金だって生活に困らないくらいは稼げるわ」
言葉が返ってこない。不安で胸が押しつぶされそうになる。
「ここにいたら私はいつか連れ戻される……。そうなる前に逃げないと駄目なの。エミル君がついてきてくれたら! 私は……」
向かいの暗闇のなかに、悲しげな彼の顔が浮かんでいた。
「ねえ、何か言ってよ……」
「ごめん……」
彼の声が、ぽつんと水滴のように聞こえた。
じわりと心に染みを作るみたいに言葉の意味が広がっていく。
「僕は、まだ修行中の身で……」
エミルはうつむいて、絞り出すような小声で、そう言った。
蝋燭の火がゆらめいた。
「そう、だよね……」
エーテルもうつむいて、消えてしまいそうな声で囁いた。
「私より、夢のほうが大事?」
言ってから、自己嫌悪した。
思いがけない言葉が出てしまった。
できることならば、エーテルは発言を取り消したかった。そうすれば、彼の返答を聞かなくて済んだのだから。
「……そうなのかもしれない」
その時、確かにエーテルのなかで何かが
「――うっ……ぅ……」
包帯にくるまれた手をベッドに叩きつける。
「うわぁぁぁぁぁぁん! エミル君のばかぁぁ!」
毛布をつかんでエミルに投げつけた。
「私のものになるって言ったのにっ! どうしてついてきてくれないのよおっ!」
「ごめん……」
「謝ったって許さないわっ! ばかっ!」
手近ににある物を片っ端からエミルに投げつけていく。幸い、怪我をさせるような物は何も置いていなかった。エミルが隣に腰かけてエーテルをなだめ始めると、怒りはむしろ増した。至近距離にいる彼を、これでもかとグーで叩く。
それでも彼は、我慢強く謝りつづけていた。
× ×
蝋燭の火はいつのまにか消えていた。泣き疲れたエーテルは、ベッドで横になった。
「……後悔しても遅いんだから」
ふてくされてそう言った。
腕に巻いた包帯で目をこする。
「後悔……すると思う」
「なにそれ。エミル君のくせに……」
口を尖らせて壁側を向く。
そっと肩に毛布がかけられた。エーテルは投げやりになって目を閉じた。エミルがまた「ごめん…」と呟いたが、聞こえないふりをした。
ぱらぱらと降りはじめた夜雨が、薄っぺらい屋根を叩きだした。
どこかで犬の遠吠えが響いていた。
私と仕事どっちが?的な話でした。
つづく( ˙ө˙)