chapter 4 - 1 犬っぽい
目が覚めたら、エーテルは暖かな毛布にくるまれていた。
普段寝ているベッドに比べたら固いが、懲罰房の寝台よりは柔らかい。でも、このくらいのほうが好きかもしれない。そう思う。部屋に漂う湿った木の香りが、どこか心を落ち着かせてくれた。
鳥のさえずりが聞こえる。木造の窓枠からは光がさしている。部屋は薄暗いが、外は朝なのだろうか。
(……どこだろう?)
天井の木目をぼうっと見上げながら、体の両側にはみ出した毛布を、きゅっと抱き寄せる。この温もりを手放すのは少しだけ惜しい。
けれど毛布を抱き寄せようとしたとき、違和感を覚えた。腕の感触が変だ。何か膜のようなものを隔てている感じだ。そうして昨夜の記憶が蘇る。窓から降りようとして失敗したこと。手に大怪我を負ったことも――でも、それにしたってこの感触は変だ。
疑問に思って、毛布を払いのけた。
エーテルの細い腕は、指の先から二の腕のあたりまで、包帯で覆いつくされていた。
「何よ……これ……」
彼女にこのような治療を施す者は城にはいない。ならばここは城ではないのか。考えてみればこんな部屋には見覚えがなかった。
改めて眺めると、狭い部屋だ。スペースのほとんどをベッドが占領していて、他に家具らしきものは見当たらない。扉も一つしかない。
エーテルが物思いにふけっていると、古めかしい造りの扉が、軋みを上げながら開かれた。
入ってきたのは、予想通りの青年だった。
大きなパン
エミルは山積みのパンで前が見えていないらしかった。やりづらそうに足で扉板を押して、パンを落とさないようにか、扉の開閉に合わせて体勢を変えながら入ってきた。
パンの山から覗いた青年の目と、ベッドでぺったんこ座りの少女の目が合うと、
「うおあっ!?」
「ひゃあ!?」
エミルは頓狂な声を上げて、パンを床にばらまいた。出しぬけに叫ばれ、エーテルもぎょっとして体を反らせる。
二人の間を、静寂が通りすぎる。
青年と少女は声も立てずに、ただ視線を交わらせる。
「……お、起きたんだね!」
「は……はい……」
こうも
『あのっ』
声が重なった。
「あ……すみまっ……申し訳アリマセン! い、イカガイタシマシタカ、姫?」
ぎこちない口調は、まるで魔女に命を吹き込まれた人形が喋っているみたいだ。そんな彼がおかしくて、いつの間にか緊張が
エーテルは微笑を浮かべた。
「怪我の治療までしていただいて……感謝の言葉もございません。本当になんとお礼をしたらよいのか……」
「そんな、お、お礼だなんて! ぼく……ワタシは当然のことをしたまでです!」
何やら取り乱して、エミルは籠に残っていたパンを一つ残らず床にこぼしていた。
糸人形を思わせる奇妙な動きでパンを拾い集める彼に、エーテルは笑い声をかみ殺しながら喋りかけた。
「お優しいんですね、エミル様は」
「ふえっ!? や……そんな、当然です!」
エミルは顔を真っ赤に染め上げ、逃げるように床に目を落とした。気恥ずかしさを紛らわすように床だけを見つめて、パンを集める……そんな悩ましい思春期の青年をエーテルはじっと見ていた。
「あの、姫様!」
「はい?」
「朝食にスープを買ってきたんです。けど、お口に合うかどうか……」
「まあっ、好きです」
「えっ」
「スープは好物ですよ。朝からいただけるなんて嬉しいわっ」
「……ああっ! そうですか。それなら良かった! す、すぐに支度しますね!」
エミルはそそくさと部屋を出ると、小さな両手鍋を持って戻ってくる。その鍋を、黒い石版――加熱調理用の
(犬?)
もし尻尾が生えていたらきっとぶんぶんと振っていたに違いない。そんなことを考えてから、はっと正気に戻る。
(犬はさすがに失礼でしょ……)
こんなに尽くしてくれる人は初めてだ。なんだか面映ゆい気持ちだ。そんな気持ちを打ち消したくて、彼に話しかける。
「それにしても、どうやってあの城から?」
「あぁ、塀を超えるのには縄梯子を使ったんです」
「まさか……私をしょってあの塀を超えられたのですか? 重くはありませんでしたか?」
「軽かったです!」
エミルはなぜか気を付けをして、鞭にでも叩かれたような声で即答した。
「……そ、そうですか?」
「はい!」
いきなりの変わり様に、エーテルはちょっと気圧された。だがまぁ、これも気を遣ってくれてのことだろうと、納得することにした。
「夜が更けても姫様がお見えにならなかったので、何かあったんじゃないかって、不安になって……。すみません勝手に……」
「エミル様?」
エーテルは、春先に咲く花のような微笑みを作って、頭をかたむける。謝ることなんて何もないのにと不思議を覚えたのは本心だった。わざわざ私を迎えに来てくれたのでしょう? と。
(やっぱり、ちょっと犬っぽい)
「謝られることなど何一つないじゃありませんか。エミル様が迎えに来てくださらなかったら、きっと私、今頃はお仕置き部屋の中にいましたもの」
エーテルが屈託なく笑って、エミルが恥ずかしそうに目を伏せる。ちょうど鍋の中身がコトコト音を立て始めた。エミルは逃げるようにそれに取りかかった。スープを鍋から器に移して、そこに木のスプーンと、冷水を満たしたコップを添える……。
野菜のクリームスープだ。
上から、干し肉のチップと黒胡椒を少々散らせば、出来上がりだ。
「どうぞ」
エーテルは目を輝かせた。城の料理にはすっかり飽きてしまったので、とっても楽しみだ。
「お口に合えばいいんですが……」
町の料理人の味はどれほどのものなのか、お姫様の興味は尽きない。
目の前に置かれたスープを興味津々に見つめるエーテルだったが、スプーンを取ろうとして、自らの腕の状態に思い至る。スプーンを上手く扱えるだろうか?
(あ、そうだわ!)
自分のスープには一切手をつけず、ただ不安げにエーテルを見つめているエミルを、じっと見つめ返して一言――。
「食べさせていただけませんか?」
エミルの目が丸々と見開かれる。
「手が使えなくて」
「ああっ、そうですよね……気が利かなかったです!」
そんなことありませんよと、かぶりを振る。
「で、では……」
クリームスープを掬ったスプーンが、かすかに震えながらエーテルの口もとに寄せられる。薄紅色の唇が品のいい形に開くと、スプーンを迎え入れる。喉がこくりと嚥下の音を鳴らした。
……白色をわずかに滲ませた唇が、また開いた。
二口目が彼女のもとに運ばれる。
じっくり味わってから飲みこむと、思わず相好がくずれた。
想像していたほどのとろみはなく、舌触りの良い、薄味仕立てのスープである。朝の胃袋に染みるようだ。塩気はほど良く、野菜の素朴な甘みを引き立てる。絶妙な加減で煮込まれた野菜が、充分な食感を残しつつも邪魔にならない。
(お城の料理よりもおいしいわ!)
「あー幸せ……」
「僕もです」
「え?」
「……あっ、ああっ、違いますよ!? 今のは言い間違えですよ!?」
「まあ、そうですか?」
エーテルはくすくす笑い、また唇を動かした。
少女の口もとにスープが運ばれる。今の失言のせいなのか、さっきより震えが増しているようだ。……スープは上手く運ばれずに半分以上もこぼれてしまった。
「ごっ、ごめんなさい!」
エーテルの顎の先から胸もとをクリームスープが伝う。体にもこぼれて、瑠璃色のドレスに白い斑点ができている。
「大丈夫ですかっ!?」
エミルは慌てて布巾を取りだすと、エーテルの下唇についたクリームスープを拭いとった。そのまま首へと布巾を滑らせるものの、胸もとにさしかかると元来た道を引き返していった。勇気が足りなかったのだろうか?
小麦色の額には大粒の汗がついている。その慌てぶりが面白くてしょうがない。まだまだ、もっと困らせてみたい。こんな気分になるのは生まれて初めてだ。どうしたものか。この欲求に従ってもいいのか、逆らうべきなのか。エーテルは四秒ほど逡巡した。
「すぐに拭きます!」
ドレスを拭こうとしたエミルの手をそっと
「それには及びませんよ。このドレスはもう破けてしまっていますし、脱いじゃいましょう」
「……あ、それなら。洋服をご用意していますよ!」
彼は思いがけず得意げな声を上げていた。ベッド下の収納箱から、羊皮紙の包みを取り出すと、包装を開く。気になる中身は、赤いワンピースのフリルドレスだった。
(あ……いいかも)
「私のためにこれを?」
「姫様を一目見た時から、きっと赤い色のドレスがよくお似合いになるだろうと」
そこまで言うと、エミルは苦笑いを浮かべて続けた。
「姫様なら、どんなドレスでもお似合いになるでしょうけどね」
「……お世辞でも嬉しいです。……早速、着てみますね」
「はい!」
ドレスの肩の部分をつまんで持ち上げる。深みのある赤だ。夜の舞踏場の黄金色の灯りによく映えそうだ。もっとも舞踏会に招かれたことなどないので、本から得た知識と、乙女ならではの空想でしかなかったが。
お姫様がにこにこと褐色の美青年を見つめる。
「着てみますね?」
「どうぞ!」
お姫様がにこにこと青年を見つめる。
青年もにこにことお姫様を見つめる。
「女の人の着替えを眺めるのが、お好きですか?」
「……ふわ!? いえっ、そのっ、違ッ! そっ! そんっ、そんにゃことは!」
「素晴らしいご趣味をお持ちなんですねぇ、エミル様は」
「でっ、出てますううう!」
「お待ちになって」
慌てて部屋から飛び出ようとするエミルを呼び止める。びくっと振り返った青年に、さながら悪戯っ子のように赤い舌先を見せてやった。
「ほんの冗談です。どうかお気になさらないでください」
そして呼び止めた理由を教えてやる。
「着替えを手伝ってください」
とたんに部屋が静かになった。
鳥たちの歌声が、朝のすがすがしさを乗せて聞こえてきた。
エミルは実に分かりやすく言葉を失っていた。
次話は、すこしだけアダルトな展開になります
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