昼休みの食堂の片隅のテーブルの上に、クリスはトレイを置いた。
そして椅子に深く腰掛け、はあ、と溜息をつく。
正直、クリスは疲れていた。
何しろ初めての体育の授業を終えたばかり。
運動の疲れもさることながら、何より女性に囲まれた中で着替えるという、拷問にも等しい時間を2度も過ごしたため、精神的に疲れたのだった。
今日の体育で行ったのは、バレーボール。
集団で行うスポーツには全く縁が無かったクリスにとって、とても楽しい時間となった。
そういう意味では充実した時間であり、楽しみな授業の一つになったのだけれど――着替えに関してだけは、本当にどうにかならないものなのだろうかと、クリスは頭を悩ませる。
もちろん、今まで考えに考え抜いて出なかった答えが、薫子たちを待つこの僅かな時間に出るわけもなく。
「お待たせー。ごめんね、クリス」
遅れてやってきた薫子の手には、ハンバーグの載ったトレイ。その後ろには、ビーフシチュー・プレートを持った茉清が立っていた。
「久しぶりに食べてみようと思ったのだけど、思っていたより人が多くて。待たせたね、クリスさん」
「いえ。それほど待っていませんから、お気になさらず」
席に着いた薫子と茉清に、そう答える。
人気の高いメニューを選んだ薫子たちに比べれば少し早く品物は出てきたが、それほど長い時間でもない。
クリスが頼んだメニューはというと、薫子曰くあまり人気の無いらしいポトフだった。
しかしテーブルの上に置かれた湯気を上げるポトフは、確かに色が少なく地味な印象だが、スープの香りが何とも食欲をそそる。
クリスたちは手早くお祈りを済ませ、それぞれの食事に手を付ける。
「んー、美味しい! 運動した後だと、また格別って感じだよね」
子供のように、ぱっ、と笑顔の花を咲かせる薫子を見て、クリスは思わず口元を緩めた。
茉清も同じように思ったらしく、静かに笑う。
そんなクリスたちの様子に気が付いた薫子は、頬を赤らめて不満を漏らした。
「な、何よ……いいじゃない、美味しいんだから」
「別に咎めているわけじゃないよ。ただ、薫子さんらしいな、と思っただけ」
「ふーんだ。どうせあたしはお嬢様らしくないですよーっだ」
そんな風に拗ねたりする薫子が可愛らしくて、微笑んでいるのだけれど。果たして本人はそのことに気付いているのだろうか。
笑みを深くしたクリスだったが、薫子に拗ねられたままでいられるのも困るので、フォローを入れる。
「ですが、やはり運動した後はお腹も空きますし、食事が美味しく感じられますね」
「そうだね。今日は薫子さんに振り回されたからか、いつもより美味しく感じられるよ」
茉清も同意するのだが、その言葉には皮肉げな響きが込められていた。
しかし、その気持ちは理解できる。
というのも、今日のバレーの試合で茉清とクリスは一緒のチームだったのだ。そして対するのは、薫子のチーム。
事前に茉清から聞かされていたものの、その運動能力は感嘆に値するものだった。
何しろ攻守ともに大活躍し、得点のほとんどに薫子が関わっていたのだから。
結果をみれば、薫子のチームの圧勝。
これは薫子の活躍によるものだけではなく、クリスがバレーに慣れておらず、足を引っ張る場面が多かったこともあるのだが――それにしてもである。
「薫子は運動が得意なのですね。素晴らしい活躍でした」
「まあねー。これだけがあたしの取り得みたいなものだし」
薫子は悪戯っぽく笑い、ふとバレーの時を思い出したらしく、話を続ける。
「でも意外だったのはクリスがさ……ぷっ、くくっ。あ、あっちこっちにボール飛ばして慌てて」
「薫子さん、あまり趣味の良い話ではないわよ」
堪え切れない、といった様子で笑い始めた薫子を茉清がたしなめる。
しかし、たしなめる本人がかすかに唇をゆがめているあたり、本音が透けて見えた。
ゲーム中のことを思い出すと、どうにも気恥ずかしい。
ルール自体は簡単なもので、薫子たちの説明もあって理解はしていたのだが――実際に動くとなると、勝手は違った。
クリスは髪をかき上げ、恥ずかしさを誤魔化すように目線をそらす。
「……ボールを思ったように弾くのが、あれほど難しいとは思いませんでした」
サーブをすれば明後日の方向へ飛ばし、レシーブをすれば一昨日の方向へ飛ばす。
素人丸出しではあったが、そんなクリスを、茉清や他のチームメイトは上手くサポートしてくれた。
そのおかげもあってか、何とかボールを前に弾くことぐらいはできるようになった。
それに、そんなクリスの姿に親近感を覚えたのか、他のクラスメイトたちとも、より親しくなれたように思う。
得ることもあったので、結果としては良いのだけれど。
それでもやはり恥ずかしかった。
「まあ、基本的に慣れだろう。練習すればすぐに上達するよ」
「そうそう。ブロックは上手かったし、ちゃんとボールを飛ばせるようになれば、案外強くなれるんじゃないかな」
そう茉清と薫子に励まされ、「頑張ります」とクリスは答え、スープに沈んでいたジャガイモを口に運ぶのだった。
「それじゃあ、あたしたちは教室に戻るね」
「ええ、また後で」
食事を終え、トレイを返したクリスは、薫子と別れた。
茉清は読みさしの本があるらしく、薫子と一緒だ。
クリスも教室に戻っても良かったのだが、何となく、散歩でもしようか、という気分だった。
食堂を出て、薫子たちとは反対の方へと足を向けた。
目的地はない。ただ散歩をしようとしただけだったから。
しかし、どこへ行くとも決めないで歩き回るのも宜しくないだろうか。
そう考えて、何処へ行こうか、とクリスは思いを巡らせる。
ふと思いついたのは、寮。櫻館と云うのだそうだよ、と教えてくれたケイリが思い出される。
然程遠いわけでもないので、行くことは出来るだろう。
とはいえ、流石に寮へ行くわけにはいかない。用事が無く、授業も終わっていないのに近付くべき場所ではないだろう。
では何処へ――と考えて、道案内をしてくれた時の、初音の言葉を思い出す。
――こちらを進めば寮に出るんですけど、あちらへ進むと園芸部の花壇があるんですよ――
別れ際、分かれ道の先を指しながら初音はそう言っていた。
この学院の花壇は立派なものだそうで、ガラス張りの温室まであるのだとか。
園芸部も熱心に活動しているらしく、季節ごとに色とりどりの花を咲かせ、初音も密かに楽しみにしているのだと語っていた。
さてどんな所だろうか。そう考えながら、クリスは歩く。
そして、木々の合間から見えてきた花壇は、想像よりも素敵な場所だった。
「……」
色取り取りの花が咲いていた。
チューリップやパンジー、カーネーションといった有名な春の花はもちろん、プリムラやスミレ、あまり見覚えのない、豪華な花をつけてるものなど、本当に様々な色が目を楽しませる。
風に乗ってふわりと漂う花の香りも好ましく、クリスは早くもこの場所を気に入っていた。
初音の言っていた通り、花壇はとても立派なもので、結構な広さもある。ガラス張りの温室も確かにあり、とても学校の設備とは思えないほど充実している。
「……良いところですね」
「そう言って貰えると嬉しいね」
「え?」
ポツリと呟いた言葉に答えが返ってきたことに驚いて、クリスは声のほうに視線を向ける。
すると、花の陰から立ち上がる女生徒と目が合った。
「ごめんなさい、驚かせちゃったかな」
「その、少し。……手入れをされていたのですか?」
クリスは彼女の手にはめられた、土で汚れた軍手を見て言う。
「ええ。初めまして、2年の藤沢姿子よ。園芸部に所属しているわ」
「初めまして。同じく2年の、クリス・グランセリウスです。よろしくお願いします」
「よろしくね。……で、グランセリウスさんは何だってこんな辺鄙なところへ?」
姿子はおどけたように手を広げる。
「ここの花壇は、とても綺麗だと友人に聞いたもので。それと、クリスで構いません」
「そう? なら、私も姿子で良いわ。まあ、花以外何もないところだけど、楽しんで行ってよ」
「はい」
クリスは頷いて、姿子の足元に咲く花を見やる。
多くのつぼみに交じって、ちらほらと放射状に小さな青い花をつけたそれは、
「コーンフラワーですね。こちらでは、矢車菊……でしたか?」
「ん? ええ、うちの伝統でね。毎年植えてるの。去年はもう少し遅かったんだけど、今年はもう咲き始めたわね」
「とても綺麗な青ですね。まるでサファイアのよう――というのは可笑しいかもしれませんけれども」
屈んだクリスは矢車菊に顔を近づけ、撫でるように触れる。
咲いているのは八重咲のものではなく、野生種に近い一重咲の控えめな花だった。
けれどもその青は本当に深い色をしていて、意識が吸い込まれるような、そんな色だ。
「気に入ったなら、少し切ってあげようか?」
「え? その、確かに気に入ったのですが……良いのですか? 丹精込めて育てられた花でしょう」
「その花、少し早く咲き過ぎたから、他の花が咲く前に枯れちゃうだろうしね。少し早目の花がら摘みということにして、お近づきの印に」
そう言って、姿子は悪戯っぽく笑った。
「ちょっと待っててね」と温室の方へと向かった姿子は、持ち手が大きな鋏と小さな紙を数枚携えて戻ってきた。
矢車菊の前に屈みこんだ姿子は、茎の深く、付け根の方に鋏を入れて、てきぱきと切っていく。
元から数えるほどしか咲いてなかったのだけれども、咲いているものをほとんど切ってしまったのを見ると、本当に良かったのだろうかと不安になってくる。
そんなクリスの不安を余所に、姿子は広げた紙に摘み取った花を置いて、手慣れた様子で包んでいく。
最後に青いリボンを結びつけた姿子は、出来上がったそれを抱えて、クリスに差し出す。
「はい、どうぞ。お近づきの印に」
「ありがとうございます……随分と手慣れているのですね」
「まあね。学校の行事とかで使う花もうちの部が用意することが多いし、花を包んだりする機会は少なくないからね」
出来上がった小さな花束は、ちょっとしたブーケだ。
控えめな花で、また静かな青色をしていることから派手さはないが、落ち着いた美がある。
「でも、本当に良かったのですか? こんなに沢山切って頂いてしまって」
花束としてはボリュームは少ないけれども、咲いていた花の数を考えれば、結構な割合で貰ってしまっている。
心配になって再びそう問いかけるが、姿子はあっけらかんと笑った。
「大丈夫大丈夫。もし心配なら、また部活の勧誘が終わったころにも来るといいわ。そのころにはだいたい咲いてるでしょうし……何なら園芸部に入る? 歓迎するわよ」
「ふふ、そうですね。考えておきます」
唐突な勧誘に笑みをこぼして、クリスはそう答える。
園芸部に入るというのも、悪くないかもしれない。そう考えながらクリスは、もう少し花壇の手入れを続けるという姿子にもう一度礼を言って、校舎へと戻るのだった。
「おや? 良いものを持っているね、姉さん」
「ああ、ケイリ」
花束を抱えているせいか、すれ違う生徒から時折視線を向けられながら歩いていたところ、ケイリがふらりと現れた。
ケイリもクリスが抱えた花束に目が行くのか、会うなりそう声をかけてくる。
「コーンフラワーだね。綺麗な青色だ」
「花壇に少し寄ってきたのですけれど、そこで知り合った方に頂きました」
「なるほど……姉さんも色んな人と知り合っているようだね」
そう言いながら、ケイリは嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
ケイリにしては珍しいその笑顔の訳は、なんとなく理解できた。
私もケイリに知り合いが出来たという話を聞けば、同じような笑みを浮かべるだろうから。
「けれど、コーンフラワーですか。なかなか姉さんにぴったりの花かもしれないね」
「え?」
「少しもらっても良いですか?」
ふと良く解らない言葉をつぶやいたかと思うと、ケイリはクリスの返事も待たずに花束の中から矢車菊を数本抜き取って、クリスの背後に回る。
「ちょ、あの、ケイリ?」
「動かないで」
後ろに回ったケイリは、ポニーテイルにしたクリスの髪に触れて、何やらごそごそと弄繰り回す。
「良し、と。良く似合っていますよ、姉さん」
少しして、離れたケイリはクリスを見て満足気にそう言った。
手には、折られた緑の茎が握られている。
どうやら、花をそのまま髪飾りにしたらしい。そっと手をポニーテイルの根元にやれば、柔らかな花弁に触れた。
「……本当ですか?」
「本当ですよ。薫子に見せてあげれば、素直な感想が返ってくると思うのだけれど」
「それまでこのままで、ということですか……?」
「ええ。薫子がどんな反応をするか、楽しみじゃない?」
「全く……解りました」
少し自分も気になった、なんて、言いはしないけれども、クリスはケイリの言葉に頷いた。
「ところで、コーンフラワーが私にぴったりというのは何故です?」
「え? ああ。花言葉ですよ。コーンフラワーの花言葉は、『優雅』、『繊細』、『信頼』――」
――『独身生活』
連れ合いなど望むべくもないクリスには、確かにぴったりかもしれなかった。