「手伝ってくれてありがとう、薫子ちゃん」
「構わないよ。というか、こんなに早く終わったのは皆が手伝ってくれたおかげだしさ」
式の片づけを終えて1年A組を訪ねた薫子は、クリスの言伝を聞いて初音と共に教会へ向かっていた。
片づけは、思ったよりもずっと早く終わった。というのも、クリスとの会話を聞いていたクラスメイトたちが片づけを手伝ってくれたからだ。
クリスに直接は話しかけ辛くとも、やはり気にはなるらしい。素直に話しかければいいのに、と思わなくもないが、お嬢様らしく奥手な娘の多い聖應の生徒たちには少し厳しい話かもしれない。
外国人であることもそうだが、綺麗な顔立ちをしているし、身長だって、薫子とさほど変わらない。
背筋もピンと伸びていて、はきはきとした喋り方をするものだから、お嬢様育ちの娘たちはちょっと気後れしてしまうところがあるのだ。
話してみれば、すぐ打ち解けられるのだろうけれど。
そんなことを考えているうちに、薫子たちは礼拝堂の近くまでやってきていた。
「――あ、礼拝堂の入り口開きっぱなしだ」
「ああ。転校生ですから、規則を知らなかったんですね」
礼拝堂は基本的に開放禁止なのだが、転校生であるクリスと、新入生であるクリスの妹がそれを知らないのも無理はない。
そういった規則も教えてあげなければ、と思いながら礼拝堂の中を覗いた薫子は、息を呑んだ。
――美しい光景だった。
ステンドグラス越しに届く陽の光が、膝をついて祈りを捧げる2人の少女を照らす。
その顔は見えない。見えるのはただ、2人の後ろ姿と、それを見下ろすマリア像。
何を祈っているのだろうか。その祈りは真摯なものに見え――しかし陽の光がマリア像に落とした影は、それを神が見ていないようであった。
それは胸を締め付けられるような光景で、壊すことが恐ろしくて声をかけることが出来ない。
しかし、思わず触れた扉がぎい、と音を立てた。
「あ……」
と聞こえた声は、薫子の口から零れた物だけではなかった。
隣でも同じように、初音がその光景に見入っていたらしい。
それで気付いたのだろう。祈りをささげていた2人は振り返る。
「ああ、薫子。来ていたのですか」
「あ、えーっと……うん」
穏やかな笑みを浮かべて立ち上がるクリスに、薫子はそんなはっきりとしない言葉を返しながら、初音と一緒に礼拝堂の中へと足を進めた。
クリスは隣で膝をついている少女に手を差し出し、少女が重ねた手を引き、立ち上がらせる。
その動作は、なるほど姫をエスコートする騎士のようだった。
「薫子、紹介します。私の妹の、ケイリです」
「初めまして。私の名はケイリ・グランセリウス。夜に在り、数多星々を司る星の女王だ」
「へっ?」
クリスと似た、しかし凛々しさではなく貫禄を感じさせる、美しい微笑。
思わず圧倒されてしまうが、しかしケイリの台詞はそれ以上に薫子を戸惑わせた。
「え、と、あたしは七々原薫子。初めまして、よろしくね」
「わ、私は皆瀬初音と言います。よろしくね、ケイリちゃん」
「ええ、よろしく。薫子、初音」
ゆったりとして落ち着いた、優雅な声。
クリスも結構貫禄があるけれど、ケイリはそれ以上に不思議な貫禄がある、クリスと初音が挨拶を交わす横で薫子は思った。
とても年下とは思えない、一種威圧感のようなものを感じるのだ。
「私も呼び捨てにしてもらって良いですよ」
「ふふ、有り難うございます。では初音と呼ばせて頂きますね」
薫子の言ったように、初音さん、と呼んだクリスに、呼び捨てで良い、と言う初音。
その会話を聞きながら、ふと薫子は気が付いた。
「……というかさ、さらりとケイリがあたしたちを呼び捨てにしてなかった?」
不思議なことに、全く気にならなかった。今だって、呼び捨ての話にならなければ気付かなかったのではないだろうか。
「おや、何か拙いかな?」
とケイリは首をかしげる。
「別に拙いことはないんだけど……いやでも拙いのかな?」
一応、先輩のことは『お姉さま』と呼ぶ習わしになっているが、薫子自身も由佳里のことを、さん付けで呼んでいる。
他人のことを言えるわけではないのだが、しかしそういうのとはまた少し違うのだ。
「私たちは別に気にしないですけど……一応仕来たりでもありますから、他に人が居るときはきちんと『お姉さま』と呼んでくれると嬉しいかしら」
口下手な薫子が悩む横で、言葉にならなかった薫子の思いを、初音が代弁してくれた。
ケイリは初音の言葉に納得したらしく、首肯する。
「なるほど。気を付けることにするよ」
「そうですね。ケイリはもう少し、形式の大事さを知るべきです」
「解っていますよ。姉さんは心配症ですね」
けれどもクリスが小言を言うと、ケイリは苦笑いを浮かべた。
「大切な妹ですから。姉として心配するのは当然のことです」
きっぱりとそう言うクリスを見て、ああ本当にケイリのことが好きなんだな、と感じた薫子は思わず笑ってしまう。
それは初音も同じだったようで、「仲が良いんですね」と笑う。
「そう言われると面映ゆいものがあるのだけど、否定はできないね。家族は大切にするものだから」
だが、その一言が薫子の胸を突いた。
それは全くその通りで、仲の良い2人を見ていると羨ましくもあり、だからなのか、薫子はいたたまれない気持ちになった。
「どうかしましたか? 薫子」
それが無意識のうちに顔に出てしまったらしく、クリスが気遣う。
「え? あ、うん。なんでもない! それより学校の案内! ちょっと遅れちゃったし、そろそろ行かない?」
「あ、そうでしたね。余り遅いと回れなくなっちゃいますし、行きましょうか」
我ながら無理がある、と言わざるを得ない誤魔化し方だった。
それでも誤魔化せたのは、初音が気付いてなかったのと――クリスが気を遣ったからなのだろう。
甘えてしまったことに少しの罪悪感を感じながらも、薫子は初音たちを引き連れて教会を出た。
一通り案内してもらったクリスたちは、薫子らに導かれ食堂を訪れていた。
というのも、式の片づけで動き回った薫子のお腹が抗議の声を上げたからだ。
赤面して言い訳をする薫子はとても可愛らしく、思わず顔がほころんでしまう。ケイリもそんな薫子の様子を見て、クリスが可愛らしいと評した理由が解ったようだった。
そして窓際の席に座る4人はそれぞれ思い思いのものを持っていた。
お腹をすかせた薫子は、ミルクティーとパンケーキ。隣に座った初音は、薫子ほどではないにしてもやはり小腹をすかせたらしく、ストレートティーとパン・オ・ショコラを机に置く。
しかし、特別お腹を減らした様子の無いケイリも、何故かアップル・クランブルを持って初音の向かいに座った。
「確かに夕飯まで多少時間はありますが……大丈夫ですか?」
間食をして、夕食を残すことはあまり褒められたことではない。
ちなみに、そう言うクリスはミルクティーのみだ。
「ええ、昼食はあまり食べていなかったから。人並みに緊張していた、ということかな」
「なら良いですが。まあ私たちにとっては初めてのことばかりでしたから、無理もないかもしれないですね」
クリスはカップを持ちあげてミルクティーを口に含む。
食堂というある程度質に妥協を許さなければならない場所にしては、驚くほどに美味しい。
密かに満足を感じていたクリスに、そういえばさ、とパンケーキを切り分けるのを止めた薫子が問いかける。
「クリスたちってどこから来たの? 日本語すごく上手だけど」
「強いて言うなら、イギリスですかね。ただ、幼い頃から日本とイギリスを行き来していましたから、日本語については自然と覚えました」
「じゃあ、クリスさんとケイリちゃんはイギリスの学校に通っていたんですか?」
と、初音が尋ねる。
「いいえ。私も姉さんも、ずっと家庭教師に見て貰っていたから、学校に通うのは初めて」
「うわ、そうなんだ……」
「ええ。ですから、見るもの全てが新鮮で、とても楽しいです」
これはクリスの本心だった。
性別を偽って女子校に通うのは精神を削るような生活だが、それでも変わり映えのしない今までの生活と比べると、こちらの方が楽しいと感じる。
「特に、皆が同じ服を着て、一定の規則に従って集団生活するのは面白いものだね。とても興味深い」
「へ、変なところに興味があるんだね……」
ケイリの言葉に、薫子はそう言った。
けれども、集団の中で生活するというのはクリスたちにとって一番馴染みのなかったことだ。
それを特に面白い、と言うのはケイリの変わったところだが、それ自体はクリスも感じていることだった。
「それなら、うちの寮にでも遊びに来てみる? あたしのお姉さまも紹介したいし」
「薫子のお姉さま? 実の姉、ということではないよね」
薫子の言葉に、ケイリは首をかしげる。クリスも同じだった。
その様子を見て、初音が説明をしてくれた。
「ええと、寮では下級生が上級生の『妹』として、上級生のお世話をすることになってるんです。その代わり、上級生は『姉』として『妹』の相談に乗ってあげたりするんですよ」
「なるほど、理に適ったシステムだね……それにしても、寮があるなんて全然知らなかった」
「言われてみると、入学案内にも書かれていたような気がしますね。ただ、あまり大きく扱われていませんでしたが」
「あー、まあ、寮って言っても4人しかいないから」
なるほど。確かに、今時分では寮に入ろうという生徒は少ないかもしれない。
「では、家の都合次第ですが、是非遊びに行かせて頂きたいですね」
そう言ってクリスは笑う。
友達の家に遊びに行く、などということは本当に無かったことだ。
こうして話しているだけでも楽しいのに、まだまだ色々なことを経験できる――そう考えると胸が躍る。
「うん。あ、でも一応招待しても大丈夫かどうか聞いてみないと。その辺の規則はよく知らないんだよね」
「それは寮母さんにお伺いすれば解りますよ。お許しが出たら、改めて寮にご招待しますね」
「ええ、楽しみにさせていただきます」
お許しが出てから、ということを聞いて、少し気が急いていた自分に気が付いた。
そんな自分を少々恥ずかしく思いながら、そう返す。
ケイリも同じように「ありがとう。楽しみにしてる」と笑顔を浮かべた。
それからも、4人で色々な事を話した。
薫子と初音の『お姉さま』のこと。薫子が『騎士の君』と呼ばれていることと、その由来。学校の規則や仕来たり。
色々な事を話しているうちに、あっという間に時間は過ぎて――下校時間になるまで4人は話に花を咲かせていた。
下校時間を知らせる放送で4人は慌てて食堂を出て、クリスとケイリは、寮に戻る薫子たちと桜並木で別れた。
もう暫くすれば完全に陽が落ちるだろう、黄昏時。
葉桜の緑も暗く見え、不安を誘うようですらあったが、しかしクリスにすればそれすらも心地良い。
例えるなら、運動後のクールダウン。
楽しすぎた1日だった。ずっと昂っていた気が、ようやく落ち着いてきた。
「楽しかったね、姉さん」
ケイリも同じだったらしく、少し先で振り返りながらそう語りかけてくる。
「本当に。ここに来て良かったです」
屈託無く、クリスは笑った。
薫子と初音のことは勿論だけれど――何よりも、ケイリがこうして笑っていられることが嬉しい。
楽しかったね、と。そう言ってくれるのが嬉しい。
友人が出来たと夕食の席で話せば、きっと父さんは泣いて喜ぶだろう、と。
そんなことを考えていると、ケイリは少し声色を変えた。
「良かった」
「……何がですか?」
その言葉に含まれた意味を量りかねて、クリスは問い返す。
「姉さんが楽しんでいるようで、だよ。今朝はあまり、楽しそうではなかったから」
「ケイリ……」
それは少し、思い掛けない言葉だった。
ケイリを心配するばかりで、自分が心配されるなど思いもしなかったのだ。
じんわりと、心に沁みる。
「有り難うございます、ケイリ」
歩み寄るままに、クリスはケイリの体に腕を回した。
柔らかく、華奢な体。触れ合わせた頬は温かく、喉に触れるケイリの髪がくすぐったい。
それでもクリスは、ぎゅっとケイリを抱きしめる。ほんの少し浮かんだ、涙を見られないように。
「姉さん、泣かないで。そんなつもりで言ったのではないのだから」
けれど、ケイリには解ってしまうのだ。本当に聡い。
昔から芯が強かった。いつもケイリを支えようとしているけれど、本当に支えられているのはクリスなのかもしれない。
「ええ……でも、嬉しかったんです」
体を離し、クリスは指で零れかけた涙を拭う。
「嬉しくて涙を流すなら、私は毎日泣かないといけないね。きっと今夜も泣いて、明日には目を赤く腫らしてるに違いない」
「なら、濡らしたタオルを温めておかなければ。そんな顔で学校に行かせるわけにはいきませんから」
冗談めかして微笑むケイリに、クリスは涙を見せてしまった気恥ずかしさを誤魔化すように笑いかける。
「帰ろう。今日は、父さんに話すことがたくさんある」
「そうですね。ずいぶん遅くなってしまいました」
クリスとケイリは、並んで歩く。
明日も、きっと良い日になる。