「クリス・グランセリウスです。……よろしくお願いします」
結局、クリスは誰にも話しかけられないまま、始業式までを終えた。
始業式後のホームルームでクラス委員の選出などが行われた後、先生が自己紹介の時間をくれた。
しかし気の利いた自己紹介が思いつかず、そんな簡素なものになってしまう。
短い挨拶を済ませ席に戻るクリスを、生徒の視線が追いかける。
特に気にしていなかったクリスだが、ふとその中の1人と目があった。
長い黒髪の少女。朝、トイレですれ違った女の子だった。
気付かなかったが、どうやら同じクラスだったようだ。
少し嬉しくなって、にこり、とクリスが微笑むと、少女は何故か少し顔を赤らめた。
その反応に首をかしげつつも、席に座れば、先生がホームルームの終了を知らせる。
「起立、礼」
ありがとうございました、と、生徒たちが声を揃えて礼をし、先生は教室から出ていく。
残された生徒たちは、友人同士でお喋りをしながら、下校の準備をする。
クリスも帰ろうと、鞄を手に取った。
「あのさ。ちょっといいかな」
だが、その時傍から聞こえてきた声に、どきり、とする。
鞄を机の上に置いて振り返れば、先ほど目があった少女がいた。
「貴女は……」
「朝も会ったよね。あたしは七々原薫子。クラスメイト同士、よろしくね」
薫子と名乗った少女は、手を差し出して握手を求めた。
クリスは立ち上がり、差し出された手を握ろうとして、ふと感触で男だと知られないだろうか、と自分の手に目を落とす。
シミひとつ無く、綺麗な手。ほっそりとした、とまでは言わないものの、男性らしさを感じさせない指。爪も丁寧に手入れしてある。
何の心配もいらないことに、複雑な気持ちになった。
「……あの、どうかしたの?」
いぶかしげな声に視線を上げれば、薫子と名乗った少女が困ったような顔をしていた。
クリスは慌てて手を握り、軽く振る。
「いえ、なんでもありません。よろしくお願いします。……薫子と呼んでも?」
「へ? あ、うん。構わないよ」
「……どうかしたのですか?」
どこか戸惑ったような薫子に、クリスはそう尋ねた。
「いや、ここだとあまり呼び捨てにされることはあまり無かったから。少し驚いたかな」
「差し支えあるようでしたら、薫子さん、とお呼びしますが」
「あたしは構わないよ。でも他の人にはそうした方が良いかもしれないね」
「そうですか? それではそうします。……ところで薫子」
「なに?」
「普段通り話してもらえませんか?」
それを聞いた薫子は少し驚いて、どこか恥ずかしそうにする。
「なんで分かったの?」
「なんとなく、ですかね。私が持った薫子のイメージと合わなかったので」
「そっかあ……やっぱりあたしはお嬢様ってイメージじゃないよね」
「そうですね。薫子はもっと自由で、強いイメージです」
「そ、そう……?」
クリスの言葉を聞いて、薫子は落ち込む。
別段、悪い意味で言ったつもりは無かったのだけれども、薫子はそうは受け取らなかったようだ。
「もしかして気にしていますか?」
「ん……まあでも、あたしってガサツだしね。自分でも似合わないとは思ってるよ」
薫子は明るくそう言うが、やはり気にしているようだ。
そんな姿を見て、クリスは言葉を重ねる。
「……確かに私は、薫子にお嬢様というイメージはあまり合わないと思います」
「うっ……クリスさん、ちょっとひどい……」
「失礼。ですが薫子。そんな貴女だから、臆せず私に声をかけてくれた」
「え?」
「それは貴女の魅力です。そんな貴女を、私は好ましいと思います」
そう言ってクリスは、薫子に微笑む。
「そう、かな?」
「そうです」
「うん、そっか。ありがとね! クリスさん」
多少は気持ちが軽くなったのか、薫子は満面の笑みを浮かべる。
少し口を開いて笑う様は、お嬢様らしくは無かったが、とても魅力的だった。
「そういう風に笑った薫子は、とても可愛らしいですね」
「え? も、もう! からかわないでよクリスさん」
「からかってなどいません。それと、クリスで構いませんよ」
「そ、そう。じゃあ、クリス。来たばかりだし、教室とか分からないようだったら案内しようか?」
「それは有り難いです。……ああ、でももう迎えが来ますね」
車がそろそろ来る時間だ、ということに気付いて、クリスは少し悩む。
連絡すれば帰りを延ばすことはできるが、それは少し申し訳ない。
それに、明日にはケイリも入学してくる。案内してもらうなら、ケイリと一緒の方が良いかもしれない。
「実は明日、妹が入学してくるのですが、その時に一緒にお願いできませんか?」
「へぇ、クリスって妹がいるんだ。じゃあきっと美人なんだろうね」
「そう言われると肯定しづらいものがありますが……そうですね、可愛い妹です」
かなり変わったところはあるけれど。
きっとケイリと会ったら薫子は驚くだろう、と、そんなことを思って、クリスはくすり、と笑った。
「じゃあ、また明日ね」
「ええ、また明日」
「変わった人だったね」
教室から出ていくクリスを見送った薫子に、茉清が声をかけてくる。
「うん。でも良い人だよ、たぶん」
「そうだろうね。なにせ、話しかけるなりいきなり落ち込んだ薫子さんを、慰めてくれたんだから」
「う……」
先ほど、お嬢様らしくないと言われて凹んだ事を思い出し、恥ずかしくなる。
随分と率直な言葉だったが、不思議と不快では無く、むしろ小気味良ささえ感じた。
とはいえ、乙女心に少々傷つく言葉ではあった。きっと、悪気は無いのだろうが。
そんなことを考えて、クリスが言った慰めの言葉を思い出す。
いや、あれも慰めというわけではなく、本心なのだろう。
随分と恥ずかしい台詞だったと薫子は思ったが、嬉しかったのも確かだ。
やりとりを思い出すうちに、ふと、可愛らしいと言われたことまで思い出して、薫子は顔を赤らめた。
「それはともかく。どうだった? 話してみて」
「うん……なんか、凛々しい感じの人だったね。愛想の良い茉清さんみたいな感じかな」
「悪かったね、愛想が無くて」
茉清のその言葉に、薫子は自分の言葉の拙さに気付く。
「うわっ、ごめん! 別にそんなつもりじゃなくて!」
「いいわ、分かっているから。……それにしても私、ね。私はむしろ、薫子さんに似ているんじゃないかと思ったけれど」
「あ、あたしに? そんなこと無いと思うけどなあ。あたしなんかよりよっぽど美人だし」
「……それは主観によるんじゃないかな。私にはクリスさんも、騎士みたいに見えたから」
そんな茉清の言葉に、薫子は思わず納得する。
堂々とした態度に、お嬢様らしくは無いが品を感じさせる丁寧な言葉使い。
切れ長の瞳は鋭い印象を、ポニーテイルにされた髪は躍動的な印象を与える。
なるほど、騎士というのは、かなり似合っているかもしれない。
「まあ、それはさておき。薫子さんは寮で昼食を取るんだろう。時間は大丈夫なの?」
「え? うわ、そろそろ時間だ!」
「そう。私は食堂で食べていくから」
「あ、うん。じゃあまたね、茉清さん」
「ご機嫌よう、薫子さん」
今日は生徒会長である由佳里と、役員の初音は、明日の入学式や対面式の準備でいないので、昼食を寮で取るのは薫子と、そして奏だけだ。
お姉さまを待たせまい、と思った薫子は、足早に教室を出て行くのだった。
学校から帰ってきたクリスは、自室で一息ついていた。
女性ばかりの中で女性を演じるというのは、普段以上に精神を削るものだったらしい。
アロマウォーマーから漂う、ローズウッドの優しい香りがクリスの疲れた心を癒してくれる。
ロッキングチェアに揺られながらまどろんでいたクリスだったが、扉をノックする音がクリスを引き戻す。
「兄さん。いいですか?」
「ケイリ……? どうぞ」
まだ眠気が取れない声で返事をすれば、扉を開いてケイリが入ってきた。
「またシエスタ? 兄さんは本当に好きだね」
「それはまた、今更なことを。それで、ケイリ。何か用でも?」
「ええ、まあ……少し、ね」
ケイリにしては珍しく、はっきりとしない返事だった。
顔をほんのりと赤らめて、落ちつかなそうに、手で髪をかきあげる。
「学校はどうだったかな? と思って」
それを聞いて、ああ、とクリスは納得した。
どうやらケイリは、クリスの予想以上に学校を楽しみにしているらしい。
「授業が始まったわけではないから、何とも言い難いけれど……とても可愛らしい人と出会えた」
「おや。兄さんがそういうことを言うとは……珍しいね」
ケイリのその言葉に、そうかもしれない、とクリスは思った。
可愛らしい、などと素面で言えるような性格ではなかったはずなのだが、薫子には自然と言っていた。
あれは薫子があまりに可愛らしかったせいだろうか、と思ったが、あまり考えてはいけない気がして、誤魔化す。
「なにせ、今日の収穫はそれくらいだったから。外国人だからか、皆遠巻きに見つめるばかりで、話しかけてきたのは薫子だけ」
「薫子。その人が兄さんの言う可愛らしい人?」
「そう。お嬢様らしくないことを気にしている、とても女の子らしい人。見た目は凛々しいけどね」
背が高さや切れ長の目が凛々しい印象を与えるのだろうが、クリスとしては少し困った顔や落ち込んだ顔が可愛らしく、薫子の本質が表れていたように思う。
「随分とご執心だね、兄さん」
薫子のことを思い出して、くすりと笑うクリスを見て、ケイリはそう言う。
「会えば分かるよ。明日、その薫子が校舎を案内してくれるそうだから」
「それは、とても楽しみだね」
そう言って、ケイリは愉快そうに笑い、それに釣られてクリスも笑顔になる。
これから色々な出会いがあるだろう。
願わくば、どうか幸せで楽しい毎日を。
「本当に、楽しみだね」