暖かな陽射しが、薄桃色の花びらを散らして若々しい緑へと装いを変えた桜並木を照らしている。
溜息のようにやわらかな風が涼しく、眠気を誘うほどに心地よい。
校舎までの短い桜並木に、少女たちの黄色い笑い声と軽い靴音が弾むように響いている。
その光景はとても清純で美しく、清々しい。
ここは聖應女学院――。
明治19年に創設された由緒ある女学院。日本の近代化にあわせ、女性にもふさわしい教養を学ぶ場が必要だ、と言う理念に基づいて創立される。
英国のパブリックスクールを原型として、基督教的なシステムを取り入れた教育様式は現在まで連綿と受け継がれている、いわゆる『お嬢さま学校』である。
戦後再建時に幼稚園から女子大学院までの一貫教育施設となるが、その基本的なスタイルは現在も変わらない。
モットーは慈悲と寛容。年間行事には奉仕活動や基督教礼拝など、宗教色も色濃い。それに加えて日本的な礼節・情緒教育も行われているため、普通の義務教育機関とはいささか趣が異なる点が多い。
生徒の自主性を尊重するため服装規定等校則もゆるいが、徹底した情操教育によるものか、生徒内自治がある程度効果を上げており、大幅な校則違反はほぼ見受けられることは無い。
それだけに、若干世間から隔絶した感もある。
「お早うございます」
「おはようございます」
交わされる挨拶はあくまでも優しく、優雅に。
この学校が持つ穏やかな雰囲気は、そんな些細なことを積み重ねて作り上げられているのだろう。
こういった雰囲気は、嫌いではない。
嫌いではない、のだが。
「はぁ……」
「おや、どうしたのかな? “姉さん”」
思わずついた溜息を、ケイリが見とがめる。
言葉だけ聞けばクリスを心配しているようだったが、その表情は楽しげにゆるめられていた。
「……楽しそうですね。ケイリ」
「そうだね、とても楽しいよ。学校に通う、というのはもちろんだけれど、“姉さん”と一緒に通えるということがね」
「……はぁ……」
あえて“姉さん”を強調するケイリに、再び溜息をつく。
「姉さん」。耳慣れた呼び方のはずなのに、今はそう呼ばれるたびになぜだか心が沈んでいく。
それはきっと、周りを女の子で囲まれたこの状況が、自分がそう呼ばれることは正しくないのだと思い知らせるからなのだろう。
そんなクリスを見たケイリは、体を寄せてきて、耳元でささやいた。
「……そろそろ慣れないかな」
「そうは言われても、ね」
女装して女学院に通っている、などということがばれてしまえば間違いなく社会的に終わる。
ただでさえ初めての学校だというのに、周りが女の子だけというのは、正直きつい。
「どうしてこんなことに……」
話は、ひと月ほど前に遡る。
「ケイリ、学校へ行く気はないか?」
家族3人で夕食を取っていたとき、父が突然そう言いだした。
「学校?」
「そうだ。今までは家庭教師を付けていたが、やはり友人を作る意味でも、学校に行った方が良いのではないかと思ってな」
「それは……私も思います。ですが、それが出来ないからこそ家庭教師を付けていたのでは?」
クリスも食事の手を止めて父にそう言った。
何の理由もなく、学校に行かないわけではない。
クリスたちは、命を狙われている。
母方の祖父が、今は無い国の王だったという、たったそれだけの理由。
始まりは祖父の国で起きたクーデターだった。
祖父はクーデターを起こした軍部によって追い出され、親しかったグランセリウス家に身を寄せた。
そしてグランセリウス家の娘だった祖母と恋に落ち、一子を授かる。
そこで終われば、なんということのない話だ。
幼子に聞かせる童話のような、新たな幸せを見つけてのハッピーエンド。
だが悪魔の手は、祖父が国を離れたときからずっと伸ばされていて――届いてしまったのだ。
そう、丁度今のような――。
浮かび上がりかけた記憶を、クリスは沈める。
今思い出しても、食事が取れなくなるだけだ。忘れなければそれで良い。
ともかく、母はこの世から居なくなった。それが現実だ。
クリスたちは、別に王家に返り咲こうとしていたわけではない。だが、祖父を国から追い出した軍部にとっては、王家の血が続いているということが問題らしい。
だからクリスたちは目立たないように暮らし、不特定多数の人間と接触しうる学校には通わないでいた。
「もちろんだ。だが、子が親友と呼べる者を作れないでいるのは、親として悲しい。そこで、鏑木グループに勤める友人が聖應女学院、という学校を紹介してくれてね」
「聖應女学院、ですか?」
「生徒のほぼ全員が、いわゆるお嬢様というやつでな。身元ははっきりしているし、セキュリティレベルも高い。学校自体もなかなか良い所だった。ケイリさえ良ければ、そこへ行ってみないか?」
穏やかな笑顔を浮かべて、父はケイリにそう問いかける。
クリスも、ケイリに友人がいないことは気になっていた。安全であるというなら、ケイリが学校に通うことに反対する理由は無い。
「はい。行ってみたいです、父さん」
ちらり、と視線をケイリに向ければ、珍しく無邪気な笑みを浮かべている。
ケイリ自身も乗り気ならば、最早決まったも同然だ。
「そうか! なら、早速ケイリとクリスが入れるよう手配しておこう!」
けれども、父がおかしなことを言い始めた。
「……父さん、何故私がさらりと含まれているのですか?」
思わず、気が触れたのか、と言わんばかりの冷めた目線を父に向ける。
だが、仕方のないことだろう。それだけおかしなことを父は言ったのだから。
「何故って、お前も通うからに決まっているだろう」
「いえ、そこは女子校でしょう。私は入学出来ません」
「ははは、何を言っている。どうしてお前が入学できない?」
さもクリスがおかしいかのように父は笑うが、おかしいのは父で笑いたいのはクリスだった。
「私が、男だからですよ!」
クリス・グランセリウスの性別は、紛うことなく男である。
例えどんなに女性にしか見えない顔をしていても、一人称が「私」であっても、“現在進行形で女装をしていようとも”だ。
服装は、ベージュのハイネックシャツに、くるぶしに届くグレーのサーキュラースカート。ブルネットの髪はポニーテールにしている。
薄く化粧をしていることもあって、間違っても男には見えないだろうと、クリス自身断言できた。
だが、クリスは男で、“付いている”のだ。女子校に通うなんて不可能である。
語気を荒げたクリスに、父は手で落ちつくように示す。
「まあ、落ちつけクリス。私も冗談で言っているわけではない」
真面目な顔つきで、父はそう語る。
「お前が男だというのを知られるわけにはいかない。つまり女として過ごす。これは大原則だ」
「はい、分かっています」
クリスが女装している理由――これもまた、王家の血筋のせいだった。
多くの国でそうであるように、祖父の国でも王位は代々男性に受け継がれる。
つまりクリスは王位継承権を持つ。
王家の血が続いているというだけで狙われているのだから、男子が誕生したということが知られれば、軍部がどういった行動に出るのか、想像に難くない。
それを危惧した父と母は、クリスを女として育てたのだ。
それは幼かったクリスが、自分は女だと信じるくらいには、徹底されたものであった。
「性別を偽る以上、どこの学校でも問題だ。ゆえに女子校へ行こうとも変わりはない」
「いえ大分変わると思うのですが」
「それに、同じ学校であればケイリがお前のフォローを出来るし、お前もいざというときのケイリの護衛になる」
「学年が違いますし、いざというときがあっては困ります」
「そもそも私が安心してお前たちを通わせることのできる学校が、聖應ぐらいしかないのだ」
「そもそも私が学校へ行かないという選択は無いのですか」
「分かったな、クリス」
「父さんが聞く耳を持っていないということだけは」
そんな嫌味を言っても、父は涼しげな顔だ。
「だいたい、男が女子校に入るなんて莫迦なことが――」
「……莫迦なことが罷り通るわけないと、思っていたんですが、ね……」
そしてクリスは聖應女学院の学園長室前に、制服を着て立っていた。
世の中は、思っているよりもずっと無茶苦茶らしい。
今日は聖應女学院の始業式。
聖應では始業式の次の日に入学式を行うので、ケイリは一緒にはいない。
正直、心細くはあった。
学院長への挨拶のため早めに学校へやってきたので、他の生徒は少なかったものの、何人かいた生徒とすれ違うときなど、生きた心地がしなかったのも仕方がないだろう。
すー、はー、と。クリスは深呼吸して息を整え、学院長室の扉をノックする。
「どうぞ。入ってください」
どこか温かい、祖母を思い起こさせる声が入室を促す。
「失礼します」
部屋に入ると、机を挟んで椅子に座っている年配の女性が目に入った。
入学案内にも載っていた、学院長だ。こちらを見て立ち上がった学院長に、挨拶をする。
「初めまして、学院長。クリス・グランセリウスです」
「ええ、初めまして。私は美倉サヱ、と言います。お話はお父様からお伺いしていますよ。……ふふ、大変ですね、クリスさん」
「いえ……慣れてますので、大変ということは、さほど」
むしろ、クリスは生まれてこの方、男の恰好をしたことが無い。
「ですが学院長、本当に良いのですか? 男の私が女子校に通うというのは」
はっきり言って、そのまま警察に話を持っていかれても仕方ないぐらいだ。
そんな質問に、学院長は優しげに眼を細めて答えてくれる。
「きっと、良くはないでしょうね……けれど、貴方たちの事情を聞いて、私はここに通わせてあげたいと思ったの」
「学院長……」
「ここは女の子ばかりで、貴方にとっては少しばかり窮屈かもしれないけれど……優しい場所です、きっと気に入ると思うわ」
その言葉を聞いて、何故だか少し目頭が熱くなった。
クリスは編入が認められたと聞いて、学院長は一体どんな無茶な人物なのだろうかと想像をめぐらせていたが、予想よりも遥かに良い人だった。
「……ありがとう、ございます」
「さて、あなたが男であることを知っているのは、私と教頭だけです。何か困ったことがあれば、どちらかに相談してくださいね」
「はい、学院長」
「それと、あなたのクラスはD組です。年度の始めだから、直接教室に行けばいいわ」
「分かりました。お忙しい中、失礼しました」
お辞儀をして、学院長室を出る。
……さて、これから本番だ。
クリスは自分のクラスに向かう前にトイレに入り、簡単に化粧や身だしなみをチェックする。
入ったのはもちろん女子トイレ。しかしクリスに何も思うところは無い。
そもそもクリスは、生まれてこの方、ずっと女子トイレを使っているのだから。
ジェンダーアイデンティティなど、母の胎内に置き去っていた。
「よし、問題ないですね」
チェックを終えて、クリスはトイレから出ようと扉に手を伸ばしたが、それよりも先に扉が開いた。
「っと」
とっさに扉を避けようとして、背中をトイレの壁にぶつけてしまう。
「うわっ、ごめん! 大丈夫?」
別段たいした痛みも無いのだが、扉を開けた少女は慌てた様子で心配してくれる。
長い黒髪の少し気の強そうな少女で、背が高い。173センチという、女性とすれば長身のクリスと変わりないぐらいの身長だ。
綺麗な顔立ちをしており、クリスは思わず見蕩れてしまう。
きっとこの人の怒った顔は迫力があるだろうな、と考えて、ふと我に返った。
「大丈夫です。心配は要りません」
クリスがそう微笑むと、なぜだか少女はクリスに視線を向けたまま動かなくなる。
女装がバレた、という感じではなさそうだが。
「……どうかしたのですか?」
「……へっ!? あぁ、なんでもない!」
「そうですか? では失礼します」
「あ、うん。ごめんね」
少女とすれ違って、トイレから出る。
大分人が増え、廊下は少し賑やかになっていた。
クリスは教室に向かって歩き出したが、褐色がかった肌は人目を引くようで、どうにも視線を感じる。
若干居心地の悪さを感じながらも、教室にたどり着いたクリスは扉を開く。
すると、教室にいた生徒の視線がクリスへと向き、静まり返った。
向けられたのは、好奇の視線。外国人ということで、クリスにとっては慣れ親しんだものだった。
ひとまずは問題なさそうだとほっとして、自分の席を探す。
机の隅に名前の印刷された紙が貼られているのだが、別段順番があるわけではないようだ。
しかしクリスの名前はアルファベットで書かれていたので、すぐに見つけることが出来た。
窓際の後ろから2番目。窓の傍なので景色が良く、なかなか良い席だ。
席に腰を下ろして辺りを見回すと、何人かと目が合ったが、話しかけては来ない。
やはり外国人ということで話しかけにくいのだろう。となるとこちらから声をかけなければいけないのだが、クリス自身も、どう話しかければいいのか分からなかった。
「はぁ……」
自然と溜息がこぼれてしまう。
……こんな調子で、大丈夫なのだろうか。
窓から外を見上げれば、無駄に澄み渡った青空が広がっていた。