風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第六話 壊れた理由

 

 

 

 休日や祝日、記念日と言った言葉を耳にした時、何処か浮ついた様な、ある種の開放感とでも呼べるような気持ちを味わった事があるだろう。

 いや、過去完了形で語る必要はない。きっと今現在に生きるどの国のどの人だって、“明日は休みだぁ!”なんて同僚の声を聞けば少なからず気分が高揚する筈である。

 勿論、中には休日を返上してでも働きたいと願う“仕事に生きる人々”も存在はするだろうが、今その者達の事はさて置くとしよう。

 今の話には無縁だ。むしろ邪魔でしかない。

 

 さて、そういう事情は幻想郷でだって同じ事である。

 忘れられた世界と言っても、そこに人間が住まう限りは誰かが仕事をこなさなければならない。助けあわねば生きられないのが人間という生き物である。

 但し、住む世界が違えど同じ人間であることに変わりはない。故に、大半の人間は仕事など進んでやりたくはないだろう。

 仕事をする事で生まれるメリットなど殆どない。給料は貰えるだろうが、より楽して稼ぐ方法を探すのが人の性というもの。

 己の仕事をこなす事で誰かが笑顔になる? 働いて流す汗は至高? はっ、バカバカしいにもほどがある。笑顔が何だ、汗が何だ。そんな物、自分には何も与えてはくれないだろう――?

 

 しかし哀しきかな、そんな愚痴を蹴散らしてでもしなければならないのが、仕事というものだ。

 こなさなければお金は貰えない。

 こなさなければ人に認められない。

 こなさなければ家族の怒号が体と心を穿っていく。

 “働かざる者食うべからず”――いや、もっと悲惨な事態かも知れない。まるで追い詰められたかのように必死をこいて働く。様々な影の鞭に追い立てられながら、必死に働く。

 うむ、“馬車馬の如く”とはかくも的確な言葉だろうか。ここに言葉の真意を得たり――。

 

 とまぁこのように、世の大人達の深層心理の奥底にあるであろう想いを暴いてみた訳であるが、ここで出てくる謎の存在と言うのが、先程掃いて捨てそうになった邪魔者達――“仕事に生きる人々”である。

 果たして彼らは、何を以って休日返上などと言う奇行を平気な面で行おうとしているのか。

 ――答えは案外、簡単な所にある。

 要は、仕事をこなすメリットがあればいいのだ。

 

 これは一般論である。

 何か辛い事を始める前に成し遂げた後にする事を先に決めておくのだ。

 苦行を耐え抜くためには至極当たり前の事であり、誰もがやっている工夫の一つ。但し、その効力は抜群である。

 人はメリットがなければ動いたりしない。良心で何かを為そうとする者だって、その心を優越感に浸す為に動くのだ。――と考えるのは、偏見が過ぎるとしても。

 仕事に精魂を込める性を持つ者達はきっと、こうして辛苦に耐えているのだろう。

 事実、人里に住まうある一人の女性はまさにその典型的な例だった。

 色々な意味で荒々しい仕事の日々を何とか切り抜けて、彼女――上白沢 慧音はズンズンと歩を刻む。

 この日この時、この道を歩む事を望んで彼女は、凄絶な日々を過ごしてきたのだった。

 

「(はぁ……何とかやって来れたな、この日まで……)」

 

 思い返せば、始まりは約一週間前だった。

 買い物に出掛けて、ある少女に目を惹かれて。

 見慣れない彼女の事を知っていくうち、強烈な興味を心に植え付けるに至った。その具合と言えば、その少女に再び会う事を目的に週を乗り切った慧音の気概からも窺える。

 しかし、問題はその後だった。

 

 少女と出逢った日の帰り道、途中だった買い物を済ませようと八百屋へ向かうと、あろう事かそこは既に閉まっていた。普段はまだ空いているのに、と慌てて訳を聞いてみれば、どうやら今年一番とも言える野菜達が店頭に並んだ事であっという間に品切れを起こしてしまったそうな。

 なんと不運か。これでは一週間分の食材をまとめ買いすることができない。

 これから先一週間の生活に気が遠のきそうになるも、今日の分を節約すればいい、と慧音は素早く結論を出した。

 結局その日の夕飯は僅かに残っていた野菜と米で済ませ、八百屋には次の日寺子屋の終わった帰りに寄って行くことに。

 

 そしてまた、仕事が始まる。

 慧音は特に仕事が嫌いな類の人種ではなかった。心底子供好きな彼女が、沢山の子らと必然的に触れ合う事になる“教師”という仕事を嫌う道理はない。普段通りに明るく挨拶を放って教室に入り、教卓に名簿を置く。そして、我が愛しの教え子達を見渡す。

 子供達は慧音へと明るい表情を向け、早く早くと寺子屋の始まりを急かしているようだった。その元気な姿勢にふと、また彼女を思い出す。

 

 思い返せば、あの少女もこの子達と同じ様にとても元気で明るかった。違う事と言えば、少女の様子を見ているとまるで風に洗われたように爽やかな気分になれた事、だろうか。

 彼女の気質がそんな現象を起こしているのだろう、と推察するのは簡単だったが、それが返って余計に慧音の気を少女に向けてしまっていた。

 

 “あー、せんせいなんかにやけてるー!”

“ついにおあいてでもみつかったのかなー?”

“おれがせんせいとつきあってあげてもいいぜー!”

 

 そんな子らの声で、慧音はハッと我に返った。そして慌てて弁明すれば、それすら真実を隠しているのだと誤解され、寺子屋の中はみるみると熱を持っていく。

 無為極まりない――どころか火に油と化してしまっている弁明を続ける内、慧音は気が付いた。

 漸く、気が付いた。

 

 ――あれ、今私の心の中、すっごくヤバい事になってる……!?

 

 ヤバかった。慧音が思っていた以上に、彼女の心は少女の事に染められかけていた。

 そこに興味以上の意味(・・・・・・・)があったかどうかは彼女自身にも分からない。ただ、そうなっていて欲しくはないな、と切に願うのみである。

 確かに彼女は非常に愛らしい美少女そのものだったが、あくまで自分が抱いているのは興味であって、そのほかの何物でもない訳で。

 胸に手を当て、自分に言い聞かせるように必死で弁明してみる。

 ああ、これではまるで恋患い。いやいや自分は正常だ、ノーマルだ。

 そう心の声で呟きながら。

 

 ――その後の日々は、慧音にとって最早拷問に近かった。

 

 朝起き、早くから仕事場に入り、定時になると教室へと入るのだが、そこで開幕のからかい文句が確定で飛んでくる。それに何度弁明しようと、子供達はどんどん可笑しな方向へと話を進めていってしまう。

 無垢故に何よりも残酷、とよく形容されるが、慧音はこの時、その言葉をよく噛み締めていた。

 子供の何気ない一言が、慧音には鋭利な刀の一振りのように感じる。それで斬りつけられる度、彼女は“子供の言葉だ”と湧き上がってくる赤い感情を心のうちに留めるのだ。

 怒ろうにも中々怒れないでいれば、その騒ぎ様に業を煮やした他の教師に叱られる始末。渋々小言混じりの説教を受け、教室に戻ればまた先程の繰り返し。

 無駄な程に強い好奇心を持ってしまった自分を呪うばかりだ。

 

 それを、一週間。

 

 少女にもう一度会い、彼女の話をもっと聞きたい。

 日を重ねる毎に――正確には少女の事を思い出す度に積み重なるそんな思いをどうにか嚙み殺しながら、慧音は辛い斬り拷問と責め苦に耐えてみせたのだ。

 そして、今。

 

「(辛かった……まさか子供達の相手にこれ程疲弊を感じる日が来ようとは……)」

 

 幾ら元は自分の所為と言えど、今週の精神的疲労はかつてない程に溜まっていた。

 まるでヘドロと化学物質に塗れた都市の河川のように、ドロドロとした疲労感と憂鬱が慧音の身体を蝕んでいるのだ。週末を迎え、本当ならば開放感に心を躍らせるべきこの時ですら、慧音には素直に喜ぶほどの元気すらも残っていないのだった。

 

 ――しかし、ふと考えてみる。

 別に、悪い方向へと向かっている訳ではないのでは……?

 

 よく考えてもみろ。

 週は終わった。身を締め付けるような辛い拷問の日々は一先ず終焉を迎えた。ただ、身体には喜ぶ元気が残っていないだけ。

 心は水を得た魚のように飛び跳ねて喜んでいる。ならば後にする事など、一つだけだろう。

 疲労に耐え忍んでここまで来て、それと同時に積もり積もったこの欲求は、今こそ解き放つべきではないのか?

 

 慧音は考えた。

 事の発端を。そして何故あんな日々を乗り切れたのかを。

 欲求云々を抜きにしても、このまま家で家事に勤しむよりは、この休日の内にしっかりと心のケアをしておくべきだ。

 慧音は思った。

 ならば、今の内に行っておこう。そしてあの少女と満足するだけの話をして、すっきりと来週を迎えよう。それが自分の為であり、ひいては自分の所為で迷惑を被るであろう子供達と他の教師陣の為である。

 

 そうして正当化した大義名分を胸に、慧音の足はあらかじめ霊夢に訊いておいた静かな小道へと向かっていた。

 精神的疲労から来る目下の隈を蓄えて、しかし唇だけは僅かに笑っているその様と言えば屍人のそれに近しいが、幸いにもここは人通りが少ない。

 それに、少女とまた会えばきっとそんなものは何処かへ吹っ飛ぶに違いない。

 

 小道の出口が見えて来た。その様が慧音には光が溢れているようにすら見えた。

 疲労に引きつった顔を少しでも正そうと両頬を叩き、慧音は踏み出す。

 抜けた先にあったのはまさに、待ち望んだ風景だった。

 

「風成、利器店……ここか、あの子の家は」

 

 看板を見上げ、呟く。僅かに漂う煤と鉄の匂いはなるほど、確かに鍛冶屋に相応しい香りと言える。

 

 徐々に活力の戻ってきた慧音は、鼻歌でも歌い出しそうなのをグッと堪えて店へと近寄った。

 倉庫のような開けた入り口。きっと少女も普段からここで仕事をしているのだろう。そして、今も。

 慧音は妙に弾んだ気持ちを携えて中を覗き込み、そして――絶句した。

 

「…………あ、あれ……?」

 

 いない。いない。彼女が、少女がいない。

 どこを見てもいない。

 声も聞こえない。

 気配もない。

 影もない。

 ――吹羽が、いない……ッ!?

 

 工房の前に、慧音は呆然と立ち尽くした。まさに心ここに在らずな様子で、彼女は石像のように動かなくなってしまった。

 無理もない。彼女にとってはそれだけショッキングな出来事なのだ。

 この一週間、慧音がどれだけ心労を抱えていたかは最早語るべくもない。それこそ身命を賭したように、その精魂の果つる直前まで耐え抜いたのだ。

 そしてそれを乗り越え、先の事も確かに見据えながらやっとの思いで会いにきた。

 その結果――コレ。

 これが本当の徒労か……なんて、ジョークで心を取り繕う余裕すらなかった。

 

「おや、先生。こんな所で何をしているんです?」

 

 呆然としていた慧音の耳に、野太い男性の声が入ってきた。

 相変わらずの――いや、僅かにより黒くなった隈をそのままに振り向けば、“うわ、何だその隈”とでも言いたげな中年の男性の姿が、そこにはあった。

 

「……ああ、ここに吹羽と言う名の少女が住んでいると聞いたんですが……」

「あぁはい、そうですよ。吹羽ちゃんに用が?」

「まぁ……はい。彼女は、何処に?」

「うーん、詳しくは分かりませんが……あ、そう言えば何処かへ出掛けるところをちらと見たような……」

 

 ああ、やはり出掛けているのか。

 驚きはしなかった。家の場所が間違ってはいないと分かった時点で予測の範囲内である。

 

「確か、稗田の当主様らしき姿と金髪の黒帽子の子がいましたな。里の外れに歩いて行きましたが……」

「……里の外れ?」

「はい。妖怪がよく出ますが……まぁでも心配は要りませんよ。あの子はすごい子ですからね」

 

 何処か誇らしげにそう言い残し、男性は最早用は無しとでも言うように背を向けて去って行った。

 なぜ彼が誇らしげにするのか少し不思議に思ったが、すぐに切り捨てる。慧音にとって、重要な事ではないのだ。

 

 吹羽は、いない。故に、話すことは出来ない。拷問を乗り越えた彼女に、結局休息は訪れなかった。

 それが全ての真実であり、彼女に叩き付けられた現実。

 笑うしか、なかった。

 

「は……はは――ハァ……」

 

 取り敢えず、五本くらい酒買っとくか。

 静かにそう心に決める慧音。溜まりに溜まった鬱憤が自棄酒で開放できたのは、まぁある種の皮肉とも言えよう。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 木漏れ日の降り注ぐ森の中を、少女達が歩いていた。

 いずれも大人には程遠い子供達であったが、里の外れであってもその歩みに迷いはない。

 先導する少女――吹羽にとっては何度も通った道だったし、その背後には『異変解決者』たる黒帽子の少女――魔理沙が控えていた。

 “弾幕ごっこ”と呼ばれる決闘方式が広く採用されているこの幻想郷に於いて、異変解決者という肩書きは強者の証。それを様々な人妖に認知されている彼女は、まごう事無き実力者なのだ。

 ――まぁ、単なる殺し合いであれば、人間である魔理沙よりも強い存在などごまんといる訳だが。

 そんな彼女の隣には、ゆったりと歩を進める阿求の姿がある。現在の魔理沙の仕事は、吹羽に付いていくと聞かない阿求の護衛だった。

 

「……なぁ、阿求」

「はい、なんですか魔理沙さん」

「……わたし、なんか変な事言ったか?」

「まぁそうですねぇ、少し変でしたかねぇ」

「あれで変だってんなら、どう言えば良かったんだ……?」

 

 困り果てたような表情の魔理沙の先には、吹羽がいた。

 先導している癖に少し間を開けている――のは気の所為だと割り切るにしても、彼女が何処かそわそわとしているのは背後からでも感じ取れた。

 

 落ち着いていないのは確かだ。時々ちらりとこちらを見遣る彼女の頰は僅かに朱が差しているし、何か話しかけようとする声が中々出せないと言ったように、おずおずとこちらを向いては慌てて向きを戻したり。視線なんかは一度も交わっていない。重なりそうになった瞬間に、吹羽があわあわと目を逸らすから。

 まるで小動物である。いや、確かに吹羽は小動物のような体躯をしているが、そういう意味ではなく。

 先程からずっとこんな調子なのだ。何故彼女がこんな反応をするのか魔理沙には分からないし、彼女が耳まで赤くしている理由も分からない。

 ただ、それでもなんとなく咎められないでいる理由としては一つだけ認識していた。

 

「(おい、なんだこの可愛い生き物は……っ)」

 

 顔を耳まで赤くして、だがそれを見られまいと恥じらう様子はかなりの破壊力があった。

 まるで憧れの先輩を前にして中々声を掛けられないでいる乙女のような雰囲気。里の男共の前でやったらきっと鼻血でも出して卒倒するんじゃなかろうか。

 吹羽という小さくて可愛らしい文句なしの美少女がやっているから余計に暴力的である。だって同性の魔理沙ですらそれをやめさせることを躊躇うのだから。阿求は言わずもがなである。

 

 そう思いつつ、しかしその反応が自分にとって困りモノなのもまた事実。

 彼女の用事について来たのは言わば次いでであって、魔理沙には魔理沙の目的がある。目も合わせられないようではまともに達成出来る訳がないのだ。

 魔理沙は、頭を悩ませていた。

 

「う〜む、どうしたもんか……」

「ふふふ、微笑ましいですねぇ。きっと嬉しいんですよ、吹羽さんは」

「“お前の事を知りたい”って言っただけだぜ? それの何処が嬉しいんだよ」

「まぁ、吹羽さんですからねぇ」

「何だそれ」

 

 吹羽のそんな姿を見ながらホクホクとした何処かだらしない表情を零す阿求に、魔理沙は複雑な表情を返す事しか出来なかった。

 

「吹羽さんはあまり親しい人が多くありませんから、魔理沙さんのようなストレートな言葉が響いたんだと思います。それに魔理沙さんって結構凛々しいですからねぇ〜。幼心にときめいたんじゃないですか?」

「えぇ……そうなのか? ときめく云々は置いておくとして、あいつ人当たりは結構良さそうに見えるけどな」

「確かに、そうですよ。ですが……まぁ事情があるんですよ。彼女が、対人関係に関して受動的過ぎる理由が」

「……?」

 

 そうして暫く歩み、やがて森が開けてきた。

 未だ日は高く明るい為、影の中を歩いてきた魔理沙達の眼には一杯の光が飛び込んでくる。

 一瞬眩しさに目を瞑り、段々と明順応してきた目をゆっくり開けば――そこには、赤み掛かった大地と大きなすり鉢状の窪みが広がっていた。

 

「ほぇ〜、ここが採掘場所かぁ」

「ま、魔理沙さん。採掘とか……近くで見たかったりします、か?」

「え? あー……いや、邪魔になりそうだから遠慮するぜ。ここで待ってるよ」

「そ、そうですか。じゃあお二人とも、ちょっと待っててくださいねっ」

「はーい、お気を付けてー」

 

 阿求の言葉を背中で受け取り、いそいそと採掘ポイントへと降りていく吹羽。

 魔理沙は取り敢えず周囲を見回して妖怪がいないことを確認すると、阿求の隣で一つ息を吐いた。

 

「これ、“露天掘り”って言うんですよ。鉄鉱石採掘の常套手段ですね。規模としてはかなり小さいですが……まぁこれだけ地面が赤ければ問題ないでしょうね。鉱石も沢山眠っているでしょうし」

「赤いと沢山あるのか?」

「地表にある鉄が酸化されている証拠ですからね。これだけ赤い地面は外の世界でも中々無いと思いますよ?」

「へぇ……」

 

 相槌は打てたものの、魔理沙の頭脳は別の事に支配されていた。案外、生返事にならなかったのは奇跡かも知れない。

 元来、気になったら中々納まらない性分である。そうでなければ根気の要る魔法の研究など出来ないだろ、と言う話だが。

 

 ――自分で考えたって仕方ねーか。

 魔理沙は、何処か独り言のようにして阿求に尋ねた。

 

「……益々分からねーな。あんな明るくて人懐っこそうな奴が“自分からは人と関わらない”ってのは、一体どういう事だ?」

 

 魔理沙からして、吹羽の印象は決して悪いものではない。

 勿論、事細かな人柄や性格などは追々追求するとして、彼女の第一印象は“明るくて可愛らしい奴”だった。

 話せば自ずと知れる明るい気性。大人っぽく振る舞おうと努力するも、否応無しに溢れてしまう子供らしい部分。その他の雰囲気諸々。それらは決して人を不快にさせるようなものではなかった。

 

 だからこそ、魔理沙には阿求の言葉が不思議に思えたし、あの含んだような言い方が非常に気になった。

 何か大きくて深いものに余計に踏み込んでいる事は分かっている。阿求が言葉を濁す程だ、何か理由があるのだろう。

 でも、でも――だ。

 それは同時に、吹羽と関わる上で知っておかなければならない気がした。

 彼女との付き合いは、恐らくこれきりではない。霊夢とも繋がっている彼女だ、今までが異常だっただけで、自分とも顔を合わせる可能性は大いにある。その過程で、きっと親しくもなっていくだろう。

 そんな時に、“吹羽に関する大前提”が分かっていないのでは話にならない。

 人との付き合いとは、ある程度の理解の上に生まれるものなのだと魔理沙は知っていた。

 

「……はぁ。まぁ、魔理沙さんなら問題ありませんかね。直ぐ近くに霊夢さんもいる事ですし」

 

 溜め息と共に返ってきたのは、そんな肯定的な言葉。

 ちらと横目で見てみれば、彼女は仕方なさそうに眉を傾けていた。

 そして、幾瞬かの間をおいて、

 

 

 

「吹羽さんには……数年前までの記憶が無いんですよ」

 

 

 

 眩しさに半分閉じていた眼が、ゆっくりと見開かれた。

 

「記憶が無い……だと? あいつ、あの年で記憶喪失だってのか!?」

「ああすいませんっ、少し紛らわしい言い方をしました! 記憶喪失とは少し違うんですっ」

 

 阿求は困った表情でそう弁明すると、少しだけ吹羽の方を見遣った。

 釣られて見てみると、吹羽は未だ採掘を続けているが、先程の魔理沙の声に驚いたのか、不思議そうな表情でこちらを見ている。

 取り敢えず笑顔で手を振ってやると、びっくりしたように手を振り返してきて、直ぐに採掘を再開していた。

 

「――魔理沙さん、脳震盪(のうしんとう)を起こした事、ありますか?」

「脳震盪……ってなんだっけ?」

「顎下や後頭部を強く打ち付ける事で脳が揺れる事です。私も起こした事はありませんが、相当痛いそうですよ」

「へぇ。で、それが?」

「吹羽さんの記憶の状態は、その脳震盪を起こした時の症状と似ているんです。形容するなら――そう、記憶が壊れてい(・・・・・・・)()

「記憶が……壊れてる?」

 

 聞き慣れない単語の組み合わせに、魔理沙は思わず聞き返した。

 それに一つ頷き、吹羽に向けた瞳を心配そうに歪めながら、阿求は小さく言葉を紡ぐ。

 

「大部分である事に違いはありませんが、全ての記憶を失くしたのではなく散逸的に失くしているんです」

「さんいつてき……?」

「鏡が割れたように、と言えば分かりますか?」

「あー、何となくは。破片が飛び散って見つからない、ってとこか?」

「その通りです」

 

 吹羽の記憶は、静まり返った一軒家の布団の中から始まった。

 自らの呼吸の音しか聞こえない程の静寂は耳に痛く、意識は風穴を開けられたように透き通っているのに、思考だけは全くと言っていい程に纏まらず、乱れ切っていて。

 茫然自失として、ともすれば廃人にすらなっていたかも知れない彼女に初めに寄り添ったのが、霊夢と阿求だったのだという。

 

「じゃああいつは……家族の事も覚えてない、って事なのか?」

「……断片的にしか。魔理沙さんは、吹羽さんの家族の事は霊夢さんに?」

「いや、聞いちゃいない。ただ、何か事情がありそうだとは思ってたぜ。吹羽みたいな幼いやつが、家族もいるのに一人暮らしなんてする訳がねぇ」

「……案外、鋭いんですね。その通りです。訳あって、吹羽さんの家族は今いません。いなくなったのは……記憶を失くす前の事です」

 

 そこまで聞いて、魔理沙はやっと理解出来た気がした。

 立場を置き換えてみれば分かりやすい。

 記憶を失くした自分が、一人家で目を覚ます事を夢想してみる。勿論確実な事は言えない。しかし自分の事だ、どんな心境に陥って、どんな恐怖を味わうのかは何処となく理解が出来た。

 即ち――圧倒的な孤独の恐怖。

 

 記憶を失くすという事は、それまでの関係を全て失うという事と同義である。そして幾つの、誰との関係を失くしたのかが本人には分からない。

 ――しかし吹羽の場合は、記憶が僅かに残ってしまったからこそ、悪質だったのだ。

 

 僅かに残った記憶の中で家族の存在を感じてはいるのに、貰った愛情を思い出せない。温もりを思い出せない。居なくなってしまった理由さえ、思い出せないのだ。

 ただ、周囲の“お前の家族は居なくなったのだ”という言葉を無理矢理呑み込むしかなかった。

 

 全て忘れてしまっていたらどんなに良かったか。

 “初めから家族などいなかった”と思い込めたらどれだけ良かったか。

 最愛の家族の事を、思い出を、自分は愚かにも忘れてしまったのだ――と。

 吹羽にとってそれは、“知らない方が良かった事実”だったはずだ。幼心に、彼女はとても苦しんだのだろう。

 

「(恐いって事か。親しくなりすぎるのが)」

 

 吹羽の心はまだ幼い。幾ら自立しているようには見えても、一人で“生活出来る”だけであって、決して一人で“生きられる”訳ではない。本来ならばもっと人に甘えても良い年頃なのだ。だがそこで、“一度記憶を失った”という過去が邪魔をする。

 二度あることは三度ある、とよく言われるように、物事は連鎖して起きる事が少なくない。一度記憶を失くしたならば、また失う可能性は捨て切れないのだ。――もしくは、そんな結論に至ってしまうほど精神が不安定である、とも言い換えられる。

 

 もしたくさんの関係を作ってしまって、もしもう一度記憶を失くしてしまったら、自分は一体どんな思いをするのか――そう思い至って、恐怖に震えて、吹羽はきっと関係を築く事に一歩踏み出し淀んでいるのだ。

 自分からは関係を持とうとしない。しかし、相手が親密になりたいと言うのならば拒まない。

 

 なんともまぁ、流れやすいと言うか。空気が揺れ動くと言う意味で、まさに“風”と言うに相応しい気質である。

 ――魔理沙は、静かに目を伏せた。

 

「……記憶が壊れた理由、訊いてもいいか?」

「……すみません、それは知らないんです。私が駆け付けたのは、“吹羽さんが倒れたらしい”と侍従の方に聞いたからです」

 

 悲しげに細められる阿求の瞳には、僅かに哀愁と後悔の色が滲んでいた。

 

「あの頃の吹羽さんは……見ていてとても痛々しかったです。何をするにも悪戦苦闘して、それでも身体の覚えと僅かな記憶を頼りに生活して……。

 私達が手伝おうと声を掛けると、びっくりして後ずさんでしまうんです。……結構心にきましたね、アレは」

「……よくもまぁ、あんな明るい奴になったもんだな」

「主に霊夢さんの献身のお陰です。彼女の力が無かったら、吹羽さんがあそこまで“戻る”事はなかったでしょう。私は偶に顔を出す程度でしたし……。“引き取る”って言う大人達の要求も悉く蹴っていたそうですよ」

「ふーん。そう言えばあいつ、一時期頻繁に神社を空けてた頃があったようななかったような……。そうか、あの霊夢が……ねぇ」

 

 魔理沙の中にも、霊夢という少女の人柄はある形(・・・)で焼き付いている。それは周囲の認識とやや似通ったものでもあり、しかしそれを肯定的に捉えた形だ。即ち――性格に裏表は無いが、他人には等しく興味がない。

 しかしそれは、言い換えれば“身内同等の間柄であれば、彼女はその身に宿す大きな優しさの片鱗を見せてくれる”という事だ。

 これはただの知人では分かり得ない。異変の首謀者達や、その他諸々の妖怪達はそういう立場だから、彼女の表面的な部分――つまり、他人への興味に乏しい所しか見えていない。

 

 その点で、魔理沙は違うのだ。

 自他共に認めた親友という間柄。幼い頃からよく一緒に遊び、よく喧嘩し、共に育った仲。それは既に“身内同等”と呼ぶに相応しい立場である。そんな彼女だから、霊夢に対して非常に肯定的であった。

 

 ――だからこそ、だろうか。魔理沙は吹羽という少女に強い関心を得た。

 彼女がいつ霊夢と知り合ったのかは分からない。しかし、魔理沙よりは付き合いが短いのは確実だ。そんな彼女が、霊夢に“元に戻るまで献身する”などという他人には絶対にしないであろう行動を取らせた。

 ――霊夢の親友として、気になるじゃあないか。

 

 幼い頃からの積み重ねで親友という立場を得た魔理沙。言い換えれば、彼女はその立場を得るのに――それが狙ってやった事ではないとしても――それ程までに時間が掛かったという事。霊夢の“身内同然”となるのはそれだけ難しいという事だ。

 

 魔理沙よりも短時間に、恐らくはたった数年間でそれを成し遂げた吹羽に、親友たる魔理沙の興味が引かれない訳がない。

 

「風成……吹羽、か……」

 

 面白い奴だ。あの年にして記憶の崩壊を経験をし、その恐怖を乗り越えて見せ、尚且つ霊夢の慈愛の中にいるという稀有な存在。

 採掘を終えて坂を登ってくる吹羽を見る彼女は、愉快そうに口元を歪めていた。

 

「お、お待たせしましたぁ……。ちょっと取り過ぎちゃったかもです」

「いえいえ、私達は好きで待っているので。ね、魔理沙さん?」

「………………」

「……魔理沙さん?」

 

 不思議そうに覗き込んでくる阿求を意識の外に追いやりながら、魔理沙は無言で吹羽を見つめていた。

 その金色の瞳に映るのは果たして、笑顔を絶やさぬ明るい少女か、それとも悲惨な過去を背負う哀しき少女か――。

 

「あの、魔理沙さん……? ボク、もしかして……何か怒らせちゃいましたか?」

 

 魔理沙の強い視線に耐えかねたのか、心配そうな声音でか細く問う吹羽。それに対した魔理沙は、ジッと彼女の翡翠色の瞳を見つめながら、やっと閉ざしていた口を開いた。

 

「なぁ、吹羽」

「は、はい」

「わたしは最初に、お前の事を知りたいって言ったよな」

 

 不安の色を窺わせる吹羽の視線に、魔理沙はゆっくり言葉を紡ぐ。

 吹羽は、小さく頷いた。

 

「考えてたんだ。お前の事を知るなら、どうすれば手っ取り早いかって。 

 話をして、聞くだけじゃ、きっと分かり合えないところもあると思うんだよ。誰しも自分の悪い所を人に見せようとは思わないしな」

「……はい。そう、ですね……?」

「でも結局、思い付かなかった。手っ取り早くお前の底を覗き込む方法が、わたしには分からなかったんだ。だから、少しずつ知っていこうと思う。

 初めは取り敢えず――出来るだけ、お互いの腹を曝け出すことから始めたいな」

 

 吹羽の怪訝そうな視線を背にし、魔理沙は少しだけ吹羽と間を開ける。

 そしてその懐から一つの道具を引き抜いた。

 八角形のフォルムを持つ、手のひら大の物体。魔理沙と言えばコレ、と言われる程、彼女の代名詞として知られる魔道具(マジックアイテム)

 振り向いた魔理沙は、不敵な笑顔でそれ――ミニ八卦炉(はっけろ)を突き出していた。

 

「わたしと、弾幕ごっこしてみないか――?」

 

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

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