風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第六十六話 先見の明

 

 

 

「早苗さん、早くッ!」

「は、はい! 今行きますっ!」

 

 雨上がりの冷たい空気が満ちる早朝だ。

 早苗に叩き起こされた後、阿求は出来うる限りの侍従を里内での捜索に駆り出し、大急ぎで支度を済ませて門を出た。普段ならゆったりと木々を眺めながら歩む小道も、今ばかりは何も視界に入らなかった。

 どくどくと激しく波打つ胸。今にもほつれてしまいそうな脚。それら全てをなおも無理矢理引きずって、小道を息を切らせながら走り抜けると、目的地に着く頃には二人ともすっかりと肩で息をしていた。

 だがそんなことは気にしない。気にならない。気にする余裕が二人にはなかった。

 

 日が完全に顔を出し、里の大通りにも活気が出てきた頃である。阿求と早苗は風成邸へと訪れていた。

 理由は語るべくもない。二人はいなくなってしまった吹羽の行方を追って、この場所へとやって来たのだ。

 

 正直なところ、二人には吹羽の居場所には全く見当がついていなかった。

 そもそもこのタイミングでなぜ吹羽が姿を消したのかさえ理解が及んでいない。だからこの二人の行動は、もしかしたら一人で家に帰ったのかもしれないという一縷の可能性に賭けたに過ぎなかった。

 ――否。それしか掴むべき糸がなかったのだ。吹羽の性格を考えれば、今にも切れてしまいそうなその細い糸を。

 

 辿り着いた風成邸は、変わらない様子でひっそりと佇んでいた。

 大通りから外れたこの辺鄙な場所は活気とは程遠く、葉擦れの音がなくなると途端に静かになる。それがむしろ心をざわつかせるようで、青白く晴れたこの空にさえ苛つきが募るようだった。こんな時に快晴だとか、なんて皮肉な空なんだ、と。

 その見当違いな苛つきを押さえつけることもできないまま、合鍵で戸を開いて玄関を(くぐ)る。工房はもちろんのこと、住居の中もしんと静まり返り、普段は絶えず体を包み込んでくれる優しい風の流れもぴたりと途絶えていた。

 

「吹羽、ちゃん……」

「っ……行きましょう」

 

 覚悟を決めたような阿求の声に小さく頷き、二人は風成邸に足を踏み入れた。

 家の軋む音さえ聞き逃さないように廊下を歩き、どこかに吹羽の痕跡がないかと目を凝らし――しかし何一つと見つからずに、居間に辿り着く。何も置かれていない机と、金属の嵌められていない壁の穴が見えた。

 風が途絶えていることから予想はしていたが、あの穴が空いたままということは、つまり――

 

「……やはり、帰っていませんか」

「吹羽ちゃん、いったいどこに……」

 

 居間の中央付近へ寄って、阿求はぐるりと中を見回した。工房を除けば最も長い時間吹羽が過ごしている部屋である、何か手がかりがあれば幸いなのだが。

 

「……ん?」

 

 すると、阿求はある一点に違和感を感じた。

 居間も他と同様、ほとんど普段と変わりはない。そもそもここは置いてあるもの自体が少なく、女の子の住む部屋としてはあまりにも殺風景なくらいである。

 丸い机、隅に置かれた箪笥、二枚の座布団、彫り巡らされた大量の風紋と――風神を祀った神棚。

 目を凝らして以前の光景と思い比べると、明らかにそこだけが違っていた。

 

「(服と刀が……失くなっている?)」

 

 鶖飛の一件以来、この神棚には鶖飛が羽織っていたという黒い衣と“鬼一”が置かれていた。曰く、鶖飛がせめて安らかに眠れるようにという話だったはずだ。見るたび常に手入れが行き届いていて、吹羽がそれをどれだけ大切にしているかがありありと見て取れた。

 ――だが、それが今は置かれていない。加えて、奉納していた太刀風の“真打”すらも失くなっている。これは明らかな相違点である。

 

 広い見方ができた。

 鍵が閉まっていたとはいえ別の場所から入った空き巣に盗まれた可能性や、何か思い立って吹羽が別の場所にそれらを移した可能性など。明らかな相違点と言っても、ものが二つ三つ失くなっている程度ではあまりにも可能性の幅が大き過ぎる。流石の阿求にも絞り切ることは不可能だ。

 ただそれは――一つの可能性を浮かび上がらせる要因でもあって。

 

「……一度帰ってきて、これらを持って行った――と、したら」

 

 言って、振るわせた喉の奥が急激に乾いていくような心地がした。体の奥底からは凄まじい悪寒が湧き上がり、瞬く間に体の芯が凍りつく。何か取り返しのつかないことが目の前で発覚しているような、耐え難い焦燥感が押し寄せてきた。

 

 いったい何が、どうなっている?

 この圧倒的な不快感の正体は、きっと今起こっていることのほぼ全てが未知であるが故だろう。未知が未知のまま色々な出来事が続け様に起こって、挙げ句の果てに大切な存在が自分の目の前から姿を消した。唯一手掛かりになるかも知れないと思っていた吹羽の日記も、見渡す限りでは消失している。吹羽の行方など見当もつかない。

 ――手詰まり。何かを知ろうとする前に、阿求は行き止まったのだ。

 

「〜〜ッ、なんで……ッ!?」

 

 理解不能だ。

 理解不能なのだ。

 何が起こっているのか分からないのに、ここに来て阿求は、自分の親友のことさえ分からなくなってしまったのだ。それが如何に致命的で、如何に情けないことなのかを、残念ながら阿求は理解していた。

 

 いったい何が起きている? 何が起ころうとしている? 吹羽を追い詰めているモノはなんだ? 吹羽はなぜ自分たちの前からいなくなった? いったい吹羽は何を考えている? なぜ大切にしていたものを持ち出した? 

 それではまるで、もう二度とここには――

 

「阿求さん!」

「っ!」

 

 思考の海へと沈みそうになっていた意識を、早苗の声が強引に引き上げた。どうやら早苗も阿求と同じような結論に至ったらしく、どこか物寂しげな瞳の色をしていたが、阿求とは違ってその声には毅然とした意思が宿っているように感じられた。

 

「探しましょう、吹羽ちゃんを。色んなことを訊くのはその時です」

「……そう、ですね」

 

 ――早苗の純粋さには、こういう時に助けられる。その真っ直ぐさにはやはり無鉄砲なところがあるけれど、人を惹きつけ引っ張り上げる力強さがあると阿求は思った。

 冷静さは時に人を停滞させる。そういう時には、感情的な人間の前進する意志が必要になる。今の阿求はまさにそれだ。

 今は考えるよりも、動かなければならない時なのだ。

 

「里の中は家の者が探してくれています。私たちは里の外を探してみるべきでしょう」

「外……吹羽ちゃんが一人で出歩くとは考えにくくありませんか?」

「いえ、今の吹羽さんに並の妖怪は敵わないでしょう。外に出るのに障害はありません」

 

 もともと里の外に出てはいけない人間というのは、戦う力を持たない人間だけである。それでさえ護衛がいれば少しくらい出ても構わないと言われているのだ、本来の戦う力を得た吹羽が外に出ようと思ったところで何も難しい問題はない。

 

「それに吹羽さんは、ただでさえ弾幕勝負においてはそこそこの実力を持っているんです、本気で姿を消そうと思うなら里の外も考えるでしょう」

「じゃあ……どうしますか?」

 

 少し考え込んでから、阿求はふと窓から外を見やった。

 当然のことながら、里の外は人里の何倍もの面積がある。二人だけで虱潰しに探していては日どころか年が明けてしまう。やはり、どうしても人手がいる。

 

「……手を、借りたいところですね」

「! 分かりました。じゃあ私はそちらに」

「お願いします。私は……博麗神社に向かいます」

 

 阿求の言わんとしていることを了解して、続いた言葉に早苗はぎょっとした。

 当然である。先程阿求自身が述べたように、戦う力を持たない人間は原則として里の外に出てはいけない。そして阿求は、その戦う力を持たない側の人間である。

 だがそうした早苗の反応はやはり予想の内だったのか、阿求は心配いらないというように首を横に振った。

 

「心配は要りませんよ。私も人を頼ります」

「えっと……誰を?」

「決まってるじゃないですか」

 

 そう言って、しかし“ああそう言えば”と思い返す。

 早苗が妖怪の山から里に降りてくる頻度はかなり高いが、里の人間たちと友好があるかどうかと言えば微妙なところだ。だから阿求が誰を頼ろうとしているのかを「そんなの決まってる」と言って見せたところで、分からない可能性の方が高い。

 阿求は早苗にも分かり良いように数瞬の間言葉を選んで、それからにこりと笑った。

 

歴史を食べちゃう(・・・・・・・・)、頑固な守護者さんですよ」

 

 ……余計分かりにくくなった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 “過去”と“歴史”は似て非なるものである。

 

 “過去”というのは過ぎ去った現実の総称で、決して元には戻れず、戻らず、その時にあった物事と全く同じものを感じることは絶対に出来ない。

 “過去”は、事実なのだ。

 大昔、村を消し飛ばすような大災害があった。昔、恐ろしい妖怪が英雄に退治された。この間、大きな異変が起こった。

 誰の目にも明らかに全容の見える事実が過去足り得る。これは不変の事実と言い換えてもいい。決して覆すことはできないし、もう一度それを体験することも不可能な過ぎ去った(・・・・・)事象なのだ。

 

 ただ、“過去”という言葉にも例外がある。それは個人が別々に持つ記憶だ。

 個々人が持つ記憶は間違いなくその人物だけの“過去”である。そういった過去というのは絶対的に一様でなく、その場合はどうしてもその人物の主観が軸になる。要は、例え同じ事象を観測している二人がいても、感じ取り方によってはお互いに全く違う解釈が行われるということだ。

 

 “歴史”とは、その個々人の持つ過去を伝え、残し、後世に書き記したものである。

 例え過ぎ去った現実を正確に残そうとしても、それを残そうとする個々人の印象や考え方、解釈の仕方によって残り方が変わり、伝わり方が変わり、そうして書き記されていったものが“歴史”となる。それが事実かどうかなどはあまり肝要ではないのだ。

 

 ――では、“歴史を食べる”とはどういうことか。

 阿求が彼女(・・)を頼る理由は偏にこれだ。

 

「確かに私ほど適任はいないと自負しているが……大丈夫なのか?」

 

 と、何処か心配するような言葉を零したのは、阿求が頼った人物――上白沢 慧音である。

 そう、彼女こそがまさしく“歴史を食べる”ことができる人間――否、半妖である。

 幻想郷縁起に記されているためある程度知られたことではあるが、慧音は半分が白沢(ハクタク)と呼ばれる妖怪なのだ。“歴史”に関する能力を持ち、人間状態では食べ(・・)、妖怪状態では創る(・・)ことができる。阿求が護衛として頼りにしたのは、妖怪としての戦闘能力よりもこの食べる能力だ。

 

「私の能力は現実を見えなくするだけで抹消するわけじゃないんだ、強い妖怪には通用しない。阿礼乙女が博麗神社に赴くのには適さない気がするんだが」

「あそこを訪れるのは温和な妖怪ばかりですよ。下手に刺激しない限りはですが」

「そうは言ってもな……」

 

 慧音の“食べる”能力は、人が歴史を認識するために必要な“現実”を見えなくする能力だ。

 阿求という阿礼乙女の存在を多くの人妖は認識している。それは彼女が存在するという事実を誰かが伝え、見聞きしたからだ。それはまさに歴史と言って相違ない。

 端的に言えば、現在阿求の姿は慧音以外の人物には見えていない。阿求が存在するという歴史を認識するための明確かつ強力な現実(・・)である、阿求の姿を慧音が消しているのだ。

 小難しい理屈だが、里の外を出歩くのにこれほど有利な能力はない。当然強い妖怪には効かないし、人物の歴史を食べるのには多少の嫌悪があるのか若干渋られたが、噛み砕いて事情を伝えると慧音は比較的容易に引き受けてくれた。もちろん寺子屋の授業はあったのだが、それでもいなくなった里の子供を放っておけないのはさすが慧音というところである。或いは阿求の切迫した雰囲気を鋭く察してくれたのか。

 阿求も慧音も、吹羽の安否を確かめたいという思いは共通していた。

 

「……まぁ、泣き言ばかりは言っていられないな。こうしている間にも吹羽はひとり、何処かで泣いているかも知れない」

「そうですね。急ぎましょう」

 

 一刻も早く博麗神社へ赴き、霊夢へと事の次第を伝えて助力を請わねばならない。

 泣いているだけで済むなら良いのだけど、とは心の内でのみ呟いて、阿求と慧音は歩みを早めた。

 

 博麗神社へは半刻と少しで辿り着いた。

 通常、里の門から神社までは歩いて一刻ほどかかるが小走りで向かうとそれくらいで済む。体力のない阿求には苦行に違いなかったが、使命感めいた感情が彼女の足を動かし続けた。

 息を荒げて、二人は最後に長い石階段を登る。冬間近のこの季節、博麗神社周辺の木々はすっかりと葉を落として素肌を晒していた。如何にも寒々しくて、見ていると体は火照っているのに心だけが冷えているような心地になる。意識して眺めるのはなんとなく精神衛生上あまり良くないように感じられて、阿求は殊更に眉を顰めて登り続けた。その後ろを、慧音は静かに付いてきた。

 

 神社は相変わらず閑散としていて、慧音の心配が杞憂だったことはすぐに明らかになった。石階段同様、周囲はぐるりと枯れ木のようになった桜に囲まれて、落ちてくる葉の一枚もない。掃き掃除が終わっているようなので、霊夢は在宅中だろうと思われた。

 取り敢えず居住区へ。

 そう思って、鳥居と境内を繋ぐ参道を外れようとした二人は、しかし意外な光景を目にして足を止めた。

 

「あれ……霊夢さんですか?」

「珍しいな。境内にいるとは」

 

 正面に構える古い建物。博麗神社本堂の、その境内。

 薄暗くて見え辛くはあったが、そこには確かに霊夢の凛とした背中が見えた。正座での座り姿は相も変わらず美しく、古めかしい建物の中では一見浮いたように見えるのに、不思議と雰囲気には馴染んでいる。或いはしゃんと巫女らしく(・・・)振舞う彼女のその姿が、神社という神秘的で静謐な空気を秘めた場所と調和した結果なのかも知れない。

 

 近付いて、そのどこか荘厳な雰囲気を侵して良いものかと一瞬躊躇う。だがこれは霊夢自身にも関係することで、何より急を要する事態である。

 ごくりと固い唾を飲み込んで阿求が口を開くと――予想外にも、それは前方からの声が断ち切った。

 

「珍しいわね。何か用事かしら、慧音――と、阿求(・・)?」

「ッ!?」

 

 霊夢の言葉にぎょっとしたのは、阿求ではなく慧音の方だ。

 繰り返しになるが、現在慧音の能力によって阿求の姿は見えていない。強い妖怪には効かないと言っても、彼女の能力は有事の際に人里の守りを任せられるくらいには強力なものだ。

 それがこうもあっさりと、しかも生粋の人間に破られるなど慧音は夢にも見ていない。

 

 驚愕を全面に現した慧音の横で、しかし阿求の思考は乱れなかった。今までに見てきた霊夢の埒外さを思えば、まぁこれくらいはやるかと思えてしまう。今更だ。

 

 慧音に能力を解いてもらい、阿求は改めて霊夢の方を見遣った。彼女は初めに見た姿から微動だにせず、ただ言葉を待っている。或いは、何か別のことに集中しているようにも見えた。

 だから、伝えるべきことを、ごく簡潔に。

 

「……吹羽さんが、いなくなりました。昨日の夜のことです」

 

 短くそう告げると、霊夢が少しだけ体を揺らした。

 

「霊夢さんの霊力と感知能力を使えば広範囲を的確に捜索できるはずです。戦闘指南もしていたくらいですし、吹羽さんの霊力には覚えがあるはず。……手を、貸してください」

「…………」

 

 すぐに返ってくると思った答えは、予想に反して沈黙だった。

 阿求も霊夢も全く動かず、ただ慧音の、話の行く末を見守る視線だけが静かに二人の間を行き来している。

 耳の痛くなるような冷たい風が吹いていた。ざぁと駆け抜けた風は木々の幹を撫で、しかし揺らせる葉もなく素通りする。触覚がなければ吹いたことも分からないだろう。音はない。風が吹いても音がなければ、そこにあるのは結局ただ閑静な神社でしかなかった。

 だが――静寂は唐突に破られる。

 

 

 

断るわ(・・・)

 

 

 

 その、予想だにもしない答えによって。

 

 ぇ、と息の抜けるような声が漏れて驚愕をあらわにする。霊夢の凛とした背が、話は終わりだという拒絶の証にも見えた。その意味も理由も語る気はなく、阿求たちに納得すらも求めていないと示す態度。

 真っ白になりかけた頭を再度回し、阿求は問う。

 

「な、何を、言ってるんですか……?」

「言葉通りよ。手は貸さない。干渉もしない。そっちで勝手にやりなさい」

「吹羽さんが……私たちの親友がっ! 何も言わずにいなくなったんですよッ!?」

「そうね」

「そうね、って……もっと、もっと他にあるでしょう!? 自分が何を言ってるのか分かっているんですかッ!?」

 

 霊夢のものとは思えないその言葉に思わず阿求は声を荒げた。心の内から湧き上がる焼き切れそうなほどの怒りが、今にも体から噴き出してしまいそうな剣幕である。

 だって、当然だ。

 霊夢のそれにはまるで熱がない。人にあって然るべき――否、なくてはならない感情の温度(・・・・・)というものが全くと言っていいほど宿っていないのだ。

 手を貸せないことに声を荒げているのではない。吹羽の失踪に霊夢が何も感じていないことが何よりも度し難いのだ。

 友人が姿を消したと聞いて「そうね」だと? そんなの意味が分からないし理解もできない。もしもそれが霊夢の本性だというなら、阿求は今後一生彼女を軽蔑し続けるだろう。

 冷たいのと薄情なのは違う。

 冷静と冷酷は別物だ。

 そんなこと、今更言うまでもないことのはずなのに。

 

「せめて理由を! それを聞かずに引き下がるなんてできませんッ!」

「…………」

「霊夢さんッ!」

 

 その時、前屈みに怒鳴る阿求の眼前を華奢な腕が遮った。

 

「熱くなり過ぎだよ阿求。少し落ち着くんだ」

「でも、慧音先生……っ、」

 

 阿求を見つめる慧音の瞳には有無を言わせぬ圧がある。咄嗟に押し黙って引くと、その代わりに慧音が一歩前に出た。

 

「霊夢、君の判断を否定するつもりはない。博麗の巫女が幻想郷に尽くしてくれているのを私は知っているからな。手を貸せない理由があるならそれでも良い。それが私たちに語れないものであるなら、まぁそれもいい」

 

 半妖である慧音は人よりも寿命が長く、博麗の巫女という存在がこの世界にとってどれだけ重要な存在であるかをよく知っている。口を閉ざしたままの彼女へと語りかけるその言葉にも、そうした理解がよく滲み出ていた。

 しかし、慧音の言葉は「だが」と続いた。

 

「君は吹羽の親友だろう? あの子も君を最も頼りにしていた。……同じくあの子を思う阿求が、吹羽のためにと助けを求めているんだ、どうにか手を貸してやれないか?」

「――……」

 

 乞うような、或いは諭すような声音。内容は阿求のものとほぼ変わらないはずが、霊夢の反応には大きな差があるように感じられた。

 僅かに霊夢の頭が動いて、横顔が覗く。しかしそこには、絶対的な拒絶の色しか浮かんではいなかった。

 

「あんたには関係ないわ」

 

 部外者は首を突っ込むな――そう言外に怒鳴り散らすような言葉。

 その言葉の真意を読み取るべく慧音はジッと霊夢を見つめた。交わされる視線は冷たくて、触れた先から凍ってしまいそうなほどに何の感情も宿っていない。今にも逸らしてしまいそうになる目をそれでも向けて、二人は数秒の間無言の対話を続けていた。

 だが、やがて。

 

「…………分かった。意思は硬いようだな」

 

 慧音が、諦めたように目を伏せた。

 

「慧音先生!?」

「無駄だよ阿求。こういう目をする人間はもう動かせない。諦めよう」

「そ、そんな……!」

 

 ぽんと阿求の肩に手を置いて、慧音は元の参道を戻っていく。阿求の悲壮な声に振り向くことはなかった。

 

「――……ッ、」

 

 阿求は歯を食いしばった。ぎりぎりと聞いたこともない音が頭の中に響いて、握り締めた拳は小刻みに震えている。ふざけるなという文句だけが身体の中を満たしていた。

 

 分かってはいるのだ。

 霊夢の豹変自体はやはり不自然ではあり、彼女が望んでそうしているとは思えない――以上に、思いたくない(・・・・・・)。慧音の言う通り何か理由があるのかもしれない。

 だが、そんな理不尽ですら叩きのめして自分を貫徹できるのが博麗 霊夢だと阿求は思っている。いつだって彼女はそうして異変を解決してきたし、どんな環境の中にいてもそれを続けてきたということを阿求は知っている。それに相応しい力を持っているのだ。

 

 その力を持っていて――なお霊夢は、断ると言ったのだ。

 

 なるほど。

 霊夢に協力は仰げない。

 自分と早苗で行動を始めるしかない。

 それをようやく自分の中に落とし込み、阿求は。

 

「霊夢さん」

「……なに」

 

 感情の読み取れない黒色の瞳が阿求を射抜く。それを真っ向から睨め返して、

 

「失望しました」

 

 ただそれだけを、阿求は言い残した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 蒼い糸が、繋がっている。

 

 自分の内側――魂からゆるりと出てきて、今は目の前の箱に繋がっていた。これを切らさないようにするには極限の集中と、己の魂を理解する必要がある。

 見つめ直し、理解して、溢れ出すそれが糸を伝って流れていく。

 

 今はこれが、必要なこと。

 今はこれが、一番大切なこと。

 目先に囚われていては未来は掴めないと、自分は知っているから。

 

「――失望、か」

 

 気にするな。

 言い聞かせるようにそう思って、予想以上に胸が痛む事実から目を背ける。

 

 気にするな。

 今まで通り自分は自分を貫けば良い。間違ったことをしないために、間違った未来を選ばないように、今できることをやっておく。それの何が悪いというのか。

 

 気にするな。

 いくらでも失望すれば良いさ。幾らでも軽蔑すれば良いさ。本当に守りたいものを守れるならそれで構わない。それが例え自己満足染みていたとしても――あの子はかけがえのない、親友なのだから。

 

「待ってて――吹羽」

 

 必ず、あたしが。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 慧音先生、久しぶりのご登場でした。登場キャラを無駄なく使うって、難しいですね……。

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