――声が、聞こえてくる。
聞き覚えのない、美しい声。
とても微かで儚いけれど、そこには優しさのような、あるいは包み込むような安心感が感じられた。
思わず手を伸ばして胸の内に抱えたくなるような、抗い難い綿飴のような声音。甘やかで、鼻腔をくすぐるようで、それでいてこちらを誘惑するような――これほど形容し難い声音は聞いたことがない。
困惑はあった。だがそれよりも、抗うことをさえ馬鹿馬鹿しく思わせるほどのその安心感が、その不安を打ち消していた。
まるで“そんな心配をしなくても大丈夫”
と、母親の腕の中で囁かれるような心地に似ている。
――安堵。そして、今すぐにでもその腕の中に飛び込みたくなるような欲求と、声が聞こえることへの歓喜。
それらが混ざり合いながら湧き上がる感覚はどこか不自然で、本当に受け入れていいものかと不安にもなったが、ふとした瞬間には霧散していた。
安堵と歓喜。人の心を鎮めてくれるそれらの感情を、いったい誰がどんな理由で拒絶しようというのか。
それを思えば馴染むのは一瞬。受け入れられた後にあったのは、なんの不安も疑問もない天国のような心地。
「おかあ、さん……?」
言葉を発せられたのかどうかは分からない。だが少なくとも頭の中では思い浮かべられたその言葉に、応える声だけは、はっきり聞こえて。
『ほら、早くおいで――吹羽』
聞き覚えのある、美しい声だった。
◇
稗田邸に入るのはこれで三度目だ。
一度目は幻想郷縁起に記すために阿求からの要請で、二度目は吹羽に無理矢理ついていく形で。
訪れた回数も、阿求と顔を合わせた回数も片手で足りるくらいなのに、これだけ安心してここに駆け込めたのはきっと、吹羽がどれだけ彼女を信頼しているのか朧げながらも知っていたからなのだろう。
日が沈んだ稗田邸は、水面を打つ鯉の音さえ聞こえそうなほど閑静だった。
普段は賑わっているはずの大通りの方からさえ、この時間は喧騒とは程遠い僅かな音しか響いてこない。妖怪の相手も担うお店だけが今の時間も営業しているのだ。
見上げれば、曇り始めた紺と灰色の空。降り出しそうな雨が、その境界線を超えないギリギリのところで焦らしているような、どこか薄気味悪い雰囲気を醸している。
――否。そう思えてしまうのは自分だけなのかもな、と早苗は緩やかに首を振った。
ここは稗田邸の縁側。庭に面した廊下の一部。寒々しく肌を撫ぜる風の感触は、どうやら本人の思考以上に早苗の心情を表しているらしかった。
「……ありがとうございました、阿求さん。こんな時間に」
「お礼なんて。当然のことをしたまでです。吹羽さんにお部屋を貸すのも初めてではありませんし」
縁側を進み、光の漏れる障子を開けて中へと戻ると、穏やかな表情で阿求が早苗を出迎えた。
綴っていた書をたたむと、手で目の前の座布団を進めてくる。その正面に視線を落とせば、侍従が持ってきたらしい湯呑みとお茶請けが用意してあった。
言葉に甘えて座り、湯気を上げる湯飲みを両手で手に取ると、ツルツルとした陶器は柔らかな熱を肌に伝えてくる。透き通った若葉色の向こう側には、急須から漏れ出た茶葉たちが少しだけ溜まっていた。その色濃さの印象に違わない苦味が詰まっていそうな深緑色だ。
「…………」
ふと阿求を見遣れば、ひとまわり小さな湯呑みを傾けて楚々とお茶を啜っている。視線を戻して揺すると、少しだけ茶葉がお茶に溶けていくような気がした。
「――落ち着かないですか?」
「! ……はい」
内心を見透かしたような阿求の言葉に、ほんの小さく首肯する。
「落ち着くわけがないですよ……あんな妖怪が出てきて、吹羽ちゃんは気を失って……」
「風神様を置いて逃げた、と?」
「…………はい」
もともと早苗は、神格に対して良くも悪くも躊躇いがない。それは彼女自身が半分神格であるというのも理由だし、普段から神奈子や諏訪子といった純粋な神格と過ごしているからということも要因である。要は畏敬や崇拝と同じくらいに、親近感や仲間意識すら持っているのだ。
仲間を置いて自分は逃げた。
それが心の中で刺として刺さっている。吹羽のことを優先すると決めたのを後悔はしていないけれども、それでも心のどこかに罪悪感があるのだ。
ことの顛末を既に早苗から聞き及んでいる阿求には、それがきっと筒抜けなのだろう。彼女の声には決して責めるような色は含まれていなくて、早苗は傷付いた患部を優しく撫でられているような心地になった。
「風神様は確かにお強いです。逃げろって言われて、従ったのも私です。でも……危険を分かっていてその場に置いていくなんて、本当ならしちゃいけなかったんじゃないかって……」
「……早苗さんの気持ちは理解できますよ。私も同じ立場なら、仲間を置いていくのは賛同しかねますから」
ただ、と続けて。
「早苗さんのそれは少し杞憂に過ぎるというか……分不相応、というと怒りますか?」
「いえ、怒ったりなんて……」
「残ったのが神奈子さんか諏訪子さんだったなら、きっとあなたは罪悪感など抱かなかったと思いますよ」
「うぅん……?」
どういうことだろう、と問おうとして、ふと阿求の言わんとしていることになんとなく理解が及ぶ。
もし残ったのが神奈子か諏訪子だったなら、と想像すれば案外簡単な話だ。
あの場を神奈子か諏訪子に任せた場合、どうやら確かに、自分は罪悪感など抱きそうもないのだ。
それどころか不安なども全くなくて――ひょっとすれば気にも留めないほど自然に、早苗は吹羽の世話を優先するだろうと思えた。
どうでもいい、ということではない。
これは偏に、気にする必要も心配する必要も無いと断じられるくらいに早苗が二柱のことを絶対的な存在として信じているからだ。
崇拝する相手が自分を頼れと言う。その場合早苗ならなんの躊躇いもなく任せるし、心配などしない。必要ない。
もっと言うならば、
阿求が用いた分不相応という言葉は的を射ている。
本来であれば敬い崇め奉るべき相手を仲間だなんて生意気だろう。傲慢にも罪悪感など抱いて、力になれる気でいる。それはか弱い早苗には分不相応であり、風神に対して失礼極まりない――阿求が言いたいのは、きっとそう言うことだ。
「私たちにできることと言えば、せいぜい吹羽さんを安静に寝かせて祈ることくらいです。風神様を信じましょう。信じれば信じるほど、きっと風神様の力になりますよ」
「そう……ですね」
神を信じることの大切さは早苗が一番よく知っている。阿求のいうことはまさにその通りで、神格は信じる心こそを力とするのだ。
あの場から離れて数刻。人間だったなら互いに疲れ果てて否が応でも決着の付いている頃だが、それが強大な神と妖怪ではどうか分からない。
今の早苗たちにできることは、まさしく吹羽の世話をすることしか残されていないようだった。
「吹羽さんの様子はどうでしたか?」
「ぐっすり寝ています。心配になるくらいに」
「能力を使った後は毎度あんな様子です。終階を使ったともなれば、こうなるのも頷けましょう」
「そうですけど……」
「……やはり、気になりますよね。魔理沙さんの言った吹羽さんの変化が」
「…………はい」
吹羽の変化については、魔理沙が殺されかけたという事実をぼかしながら伝えてある。これからに困って阿求を頼るくらいだ、早苗には彼女に判断を委ねる以外に最善が見つけられなかった。
普通、精神的な変化というのは非常に分かりにくいし、それを形容して指摘するのも難しい。外因を特定するのも困難極まる。
だが吹羽の場合は話が別だ。その程度に収まる変化では断じてない。
少なくとも、兄を手にかけたことに傷を負った少女が友を手にかけようとするなど、異常でなければ一体何だというのか。
「これから何か……何か良くないことが、起こるんでしょうか」
ただ漠然と、そんな予感がする。自分の知らないところで何かが蠢き這い回っているような、薄気味悪い感覚がずっと脹脛の辺りを掠めている気がした。
ひゅるりと吹いた風が外から障子を叩く。それに混じってぱたたたという軽い音が聞こえてきた。風に運ばれやってきた雨雲が雨を降らせ始めたらしい。
晩秋の日の落ちた時刻に降るそれは、触らずとも分かるほどに冷たい氷雨だ。
こんな時に通り雨なんて、どうしてこうも間が悪いのか――そんなことを思って、無為だなと思考を打ち切る。
「――とても無力だな、と最近はよく考えます」
唐突な阿求の告白に、早苗は徐に視線を向ける。
「早苗さんもご存知の通り、私には見聞きしたものを忘れない程度のことしかできません。あとは準備さえすれば転生できることでしょうか」
湯気の薫る湯呑みを揺らして、阿求はぼんやりと水面の小さな渦を眺めていた。早苗もまたその様子を見つめて次の言葉を黙して待っている。
続く言葉は数泊おいた後、どこか悔やむような響きがあった。
「……結局、私の力なんてその
「そんな、こと……」
ない、と言い切ることは、きっと酷く無責任なのだろう。
他人の放つ慰めの言葉が人を傷つける程に薄っぺらいということ以上に、早苗自身が阿求の無力感を理解できてしまっていたからだ。
見聞きしたものを忘れない
奇跡を起こせる
見聞きしたものを忘れなくても、奇跡を起こせても、結局はその程度。それ以外には何の役にも立たないのだ。
奇跡を起こせたところでどうして友人を救えるだろうか。さっきだって奇跡的に吹羽と魔理沙の危機に間に合ったものの、結局守りきれずに逃げてきた。そうして吹羽を安全なところに寝かせて、こうして悩むことしかできていないのだ。
奇跡を起こせても必然は覆らない。吹羽がこうして苦しむのがもしも運命という決定事項なら、まさしく早苗は無力で役立たずでしかない。
なんてひどい現実だろう。
握りしめる拳は、もはや何も感じないほどに白くなっていた。
お互いに言葉の見つからない、重く冷ややかな沈黙が揺蕩う。ぱたぱたと響く雨音は強くなかったが、どうにも止む気配は感じられなかった。障子の隙間から冷たい風が差し込む。頬を撫ぜ、お茶から立ち上る湯気を攫っていくと、暫くして湯気は上がらなくなった。
――でも。それでも、と思った。
「何もできなくても、そばにいるのが友達なんじゃないかなって、今は思います」
早苗の言葉に、俯き気味だった阿求の顔が上がった。
「椛さんに言われました。あなたは友のために何がしたいのかって」
「……なんと答えたんですか?」
「答えられませんでしたよ、なんにも」
あはは、と感情の抜けた笑いが溢れる。今思い出しても情けないと思うが、あの時はなんだか椛に圧倒的な差をつけられている気がして滅入ったものだ。
勿論それを顔には出さないようにしていたつもりだが、きっとそれも椛には筒抜けだっただろう。
「ここ最近はずっとそのことを考えてました。他のことに身が入らないくらいに悩んで悩んで、それでやっと……やっと、自分が
自分には何にもできない――それも一つの答えなのだと早苗は思う。
人間が人にしてあげられることなど――人に何かしてあげられる人間などほんの一握りだ。そういう人は自分が充実していて、誰かにそれを分けてあげられる余裕のある人である。外の世界ならいざ知らず、この幻想郷に生きる人々も、どこの誰だってきっと自分のことで精一杯。自分のためにできることでさえあやふやなのに、人のためにできることなんて分かるはずがないのだ。
「奇跡なんか起こしても、それで友達にしてあげられることなんてたかが知れてる……結局、私は能力っていう
「――……」
とても否定的な言葉だ。なのにどこかすっきりしたような表情で語る早苗に、阿求は不思議そうな表情を向けていた。
それがなんとなくおかしくて、早苗はくすりと小さく笑う。驚いたように阿求がきょとんとした。
「諦めたって訳じゃないですよ? ただ、自分を見つめ直せたっていうだけの話です。見つめ直した上で現実が見えてきて――じゃあ、
理想を語るのは簡単だ。幼い子供が将来ヒーローになると声高に語るのと同じように、夢を見るのに制限や困難など存在しない。だが大抵の場合は徐々に現実が見えてきて、それから自分にできるのかできないのかが問題として浮かび上がってくるのだ。
運命なんて言葉は、免罪符である。
降りかかってきた現実に挑戦するのか受け入れるのか、その結果を、良し悪しに関わらず肯定するための。
早苗はただ、現実を理解していた。
さぁ、だからどうしよう? と。
「私は自分から何かしてあげることはできません。だから吹羽ちゃんの後ろに立って、倒れそうな時に支えてあげられたらいいなって思うんです。だって――」
自然と、満面の笑みが溢れる。
「それ、すごくお姉ちゃんっぽいって思いませんか?」
数舜の間を置いて、一層不思議そうにきょとんとした表情が咳を切ったように吹き出した。
至って真剣に今の考え方を語ったつもりだった分、早苗はぷくりと頬を膨らますが、ころころと笑う阿求を咎める気にはなれず、笑われるままに笑われる。
おかしなことに、悪い気分ではなかった。
「もう、台無しじゃないですか」
「台無しって……私は真剣に言ってるんですよ?」
「わかってますよ。だから笑っちゃうんじゃないですか」
それはもっとタチが悪くないだろうか。
口の中で不満を転がす早苗など気にもせず、阿求はもう一つおまけでぷくくと笑うと胸を張るように大きく深呼吸をした。少しだけ紅潮した頬が、彼女が元気を取り戻した証のように思えた。
「早苗さんらしいです。その能天気さが」
「褒めて……ないですよね?」
「もちろんです」
阿求のきっぱりとした言葉で微妙な表情になる早苗。だが阿求は、そんな彼女にしかし笑顔を向ける。
褒めているわけではない。この気持ちを表すなら、相応しい言葉はきっと、こうだ。
「これは、
◇
さぁさぁと、雨粒が玉砂利を叩く音。
耳朶を掠める優しい雨音は微睡んでいた意識を柔らかく刺激して、目を覚せと囁いてくるようだった。
うっすら目を開く。暗く高い木の天井が見えた。暫くぼんやりとそれを眺めて、ふと身体を包み込む僅かな重みと温かさ、そして波打つように肌を刺す湿った寒風に気が付く。
導かれるように顔を横に倒すと、障子の隙間には雨が降っていた。本当に僅かな月灯りのみが雲を抜けて注ぐ中、鈍く光る雨粒たちは普段以上に冷たそうな色をしていた。
真夜中だ。大通りから聞こえるはずの喧騒はなに一つとして聞こえない。周囲に広がる闇の深さは、まさに吹羽の見知る深い夜のそれである。
見覚えのある天井。古い木と僅かばかり生けてある花の匂い。墨の香り。
ここは、稗田邸だ。
「――……」
どのくらい寝ていたのだろう。魔理沙との戦闘の後、乱入してきた猪哭を前にして逃げたところまでは覚えている。その直前まで能力を無茶して使っていたことを鑑みると、記憶が飛ぶようなことにはなっていないらしい。恐らく気を失ってそのまま、今に至るのだろう。
ゆっくりと身体を起こすと、厚めの掛け布団がずるりと落ちる。汗の感触は全くなく、柔らかな寝巻きとひんやりとした空気が身体を包んでいる。まるで日常での寝起きと同じような感覚で――ふと、気がつく。
――割に、あまり体に負担がない。
本来あるべき体の違和。その消失に、吹羽は小さく首を傾げる。
「(能力を使ってこんなに辛くないことなんか、今まで一度も……)」
両手を開いて見下ろすと、そこには今までとなにも変わらない小さな手があった。握ってみても問題なく力が入るし、倦怠感も全くない。いつもなら腕を上げることすら億劫になるはずなのに。
と、未だぼんやりしたままの頭で考えていると、すぐ隣から静かな息遣いが聞こえてきた。
見遣るとそこには、布団をぴったりとくっつけて早苗が眠っていた。以前のように吹羽の布団に潜り込むようなことこそなかったけれど、彼女は心配そうに眉尻を下げたまま寝息を立てている。
その枕元には彼女の服が折り畳まれて置いてあった。同様に吹羽の枕元にも服とペンダント、刀などの所持品がまとめてある。すぐ横には羽型の髪留め。阿求か、その侍従さんが置いておいてくれたのだろう。身体を拭いて着替えさせてくれたのも彼女らだろうか。
なんとなく状況が掴めてくると、吹羽は徐に雨模様の空を見た。
暗くて重くて、先の見えない不明瞭な空である。
「……これから、どうなるんだろう」
雨音にかき消されそうなほど弱々しい声で、吹羽は誰にでもなく問いかける。それに応える者はなく、ただ自分の中で反響していくだけだった。
“魔理沙と弾幕ごっこをしている最中に乱入者がいて、それから逃げてきた”。
言葉にしてしまえばたったそれだけの、単なるハプニング。猪哭は尋常ではなく危険だったが、今こうして吹羽が寝ていられた――吹羽を狙って里に侵入してきていない――以上、決して人の日常を覆すような出来事とは言えない。例えるなら、人里の女の子が外で妖怪に襲われて命からがら逃げてきた、というありがちな出来事でしかないのだ。本来であればこのまま阿求に目覚めを告げて、家に帰り、何事もなかったかのように生活していくのだろう。
だがどうしてか、何かしなければならないことがあるような――焦燥感にも似た何かを感じる。それが、このまま元の日常には戻れないような気にさせているのだ。
「…………風、浴びたいな……」
吹羽にとって安らぎの象徴、それが風だ。不安や重圧、悲しみに押し潰されそうな時はいつも全身でそれを浴びて気持ちを落ち着ける。日光浴みたいなものである。
今になって考えると、この性質もひょっとすると先祖返りゆえなのかもしれない。辰真と凪紗もこうして風に安らぎを覚えていたのだろうか。
風神を崇め、そして見初められた自分たちには、ある意味当然の感覚なのかも知れない。
布団から立ち上がり、障子の隙間を広げて吹羽は外に出た。
縁側はしっとりとして冷たく、暖まり過ぎた足裏には気持ちがいい。降り注ぐ雨は吹き込むほど強くはなかったが、小雨というほど弱くもない。ちょうど人が嫌だなと思う程度の秋雨だった。
そう――嫌だなと感じる雨。
鶖飛を殺めたあの日も、こんな調子の雨だった。
――かしゃり。
「ッ!? だれ!?」
心ここに在らずといった様子で冷たい空気を受け止めていると、不意に玉砂利を踏み締める音が聞こえた。
辺りは暗く、極めて視界が悪い。反射的に身構えた吹羽にも、視線を向けた先にはあまりはっきりと景色が見えていなかった。だがこの時間帯なら魔の差した妖怪が人間の匂いを嗅ぎつけて襲ってくることも考えられないことではない。
だから警戒を全面に出して暗闇を見つめる。何が飛び出してきてもいいように。すぐに刀を取りに戻れるように。
だが、その姿が月灯りに晒された瞬間――吹羽の思考は、体もろとも凍り付いた。
「うじがみ……さま……?」
雨粒の光る月明かりの下。
白い子犬が――血塗れの身体を雨の中に横たえていた。
言葉などなかった。
出す余裕すらもなかった。
吹羽は雨に濡れるのも構わずに庭に飛び出し、子犬の側に駆け寄った。手はわなわなと震えるばかりで、触れていいのかさえ判断が付けられなかった。
白い毛並みは大量の血に濡れて赤くなり、固まって鋭くなっている部分すらある。切り傷だろうか。それとも裂傷? 真っ赤に染まったその小さな体では、もはや傷口がどこなのかも分からなくなっている。少しでも動かせば途端に息絶えてしまいそうなほどその呼吸は小さくか細い。それすらなければまだ生きているだなんてとても考えられないほどに目の前の神は――
そこに吹羽の縋る神格の姿はどこにもなく――寄り掛かるべき柱が、今まさに目の前で折れかけていた。
『はは、ぬかったよ。肉体の制限っていうのはこんなにも厳しいんだね』
吹羽の心境を他所に、普段通りの口調で氏神はそう言った。
体の損傷具合に比べて声だけはいつもと変わりない――概念的な存在である氏神であれば、体の具合などほぼ関係ないのでそれは当然のことだったが、それが返って、吹羽に不安を煽る。
吹羽が正常な判断をできていないのは事実だ。だがその氏神の様子は、まるで体と精神が繋がっていないように思わせる。今すぐにでも氏神が消え失せてしまうような予感にさせるのだ。
「う、氏神様……どうすれば……ボク、なにを……!」
捲し立て、はっと思い付いたのはとにかく人を呼んでくることだった。すぐさま立ち上がって部屋の方へと駆け出そうとした吹羽だったが、引き止めたのは他でもない、氏神だった。
『必要ないよ。なにより
「もう、遅い……って……」
それが意味することを、察せないほど吹羽は白痴ではない。瞳に涙を浮かべ始めた吹羽に、氏神の言葉はいっそ冷徹だと感じるほどにいつも通りだった。
『この体はもう息絶える。無駄だよ、血を流し過ぎたんだ』
「……息絶えたら……氏神様は、どこへ……?」
『本体に戻る。簡単に器は見つからないから、暫く顕界できないだろうね』
「いやですッ!!」
叫んで、吹羽は子犬の体を覆い被さるように抱えた。生暖かな紅が染みていくのを気にもせず、まるでどこにも行かせはしないと縋り付くように。
「いやですっ……いやですぅっ! いなくならないでくださいっ! もう、たよれるのはうじがみさまだけなんです……っ!」
『はは、嬉しいことを言ってくれるね。そう思ってくれている限り、我らはいくらでも君に力を貸してあげるよ』
「! そういう、いみじゃ――」
『君には、信頼できる友人が何人もいるじゃないか』
吹羽の言葉を断ち切って、子犬はか細い息のまま吹羽の涙を舐めとった。ざらりとした感触はとてもゆっくりと、しかし壊れ物を扱うような優しさで頬を拭う。だが雨に濡れたからか、その舌はひんやりと冷たかった。
『心配はいらないさ。我らはいつでも君を見守っている。君が心から信仰してくれる限り、我らに終わりはないんだから』
「うじ、がみ、さまぁ……っ」
小さく名を呼ぶその声には、こぼれ落ちそうなほどの諦めが滲んでいた。
いなくなって欲しくない。でも氏神自身が、もうこの世に留まる気を持っていない。そして吹羽には、それを覆すことができない。
子犬の命を――諦めるしか、ないのだ。
『気を付けて、依り代。あの
「! いや……やだぁ……なんで、うじがみさままでぇ……っ!」
『最後まで護れなくて、ごめんね。でも君の心は、いつでも感じているよ』
「ぐすっ……や、ぁ……ぅううぅ……やだよぉ――っ!」
――嗚呼、なんて非情なんだろう、この世界は。
どれだけ奪えば気が済むんだろう、この現実は。
吹羽がどれだけ気丈に立ち上がっても、この世界は吹羽からどんどん大切なものを奪っていくばかりで、ちっとも与えてはくれない。心の縋る先さえ攫っていってしまう。寄り掛かる柱を悉く折っていってしまう。
大切な思い出を失った。
待ち続ける理由を失った。
たった一人の家族を失った。
そして親友にすら頼れないと知り、本当に頼りたかった神様さえ、失おうとしている。
「…………」
冷たい雨が沁みるようだった。まるでひび割れに水が入り込むように、体も心も、凄まじい勢いで熱を奪われていく感覚がした。このまま奪われ続けたら自分の中には何もなくなって、空っぽなニンゲンになってしまうような気さえした。
冷たい。
冷たい。
雨の中に一人。
風もない。
月は陰って、全てが真っ黒。
手の中の温もりは、もう、息絶えていた。
「――……そっか」
ざー、ざー。
雨の音だけが響いている。まるでノイズのようだ。肌の感触も遂になくなって、心と魂が剥き出しで雨に打たれているような心地になった。
心の、魂の熱が奪われていく。
自分が何を望んでいるのかさえ分からない。
大嫌いな雨だった。
ただ――ノイズの隙間から聞こえる声だけが、確かな熱を持っていた。
「――ボクが、いなくなればいいんだ」
暗い氷雨の中に、空っぽな言葉が落ちていった。
◇
「んにゅ……うぅ、さむ……!」
翌日、早苗は頬を刺す冷風に目を覚ました。
外の世界のように暖房器具のないこの世界での目覚めは未だに慣れない。ぼんやりとその方向を見やると、どうやら障子が空いたままになっていた。
そりゃ寒いわけだ、と思って体を起こすと、薄青い外の光が見えた。まだかなり早い時間のようで、屋敷の中にも人の動いている気配がない。恐らく阿求ですらまだ寝ている時間なのだろう。
眠い。
寒いけどまだ眠い。
こんなに早い時間に起きる意味も理由もないのだから、もう一度寝てしまおう。
そうやってもう一度寝転ぼうとして、視線が下がって――早苗は、気が付いた。そしてその瞬間身体を包み込んだとんでもない寒気に、早苗はさぁと全身が熱を失ったように感じた。
「……ぁ、あきゅうさん……阿求さんッ!! 吹羽ちゃんが――」
途端に駆け出して、阿求の部屋へと飛び出していく。早苗が去ったあとの部屋には、
冷たくなった布団だけが、寂しく広げられていた。
ある日の日記
もう
げんかい
だよ