風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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 お待たせしました。
 でもちょっと雑な出来かも……

 とりま、どうぞ。


第六十四話 この心のままに

 

 

 

 薄っすらと広がる視界に、流れる木々が映っていた。

 水面に浮かぶ葉のような儚い意識を取り戻すと、吹羽はやけに早く過ぎていく景色をぼんやりと認めて、次いで体に触れる暖かさに気が付いた。

 耳を撫でるのは風を切る音と、少女たちの言い合う声である。

 

「それで……どこに、向かってるんだよ!?」

「分かりません!!」

「はぁ!?」

「分からないですけど、とにかく遠くへ! 風神さまにそう言われた気がします!」

「気がする、って……お前……!」

 

 自分で治癒する余裕ができたのか、魔理沙の声には若干の元気が戻っていた。それでも早苗の風に乗せて運ばれる様子を見るに、吹羽が彼女につけた傷の深さが窺える。

 ぼんやりと向けていた視線を切ると、汗まみれで全力疾走する早苗の横顔が見えた。

 

「(早苗さん……助けに、来て……?)」

 

 そう考えて、いや、と思い直す。

 悪い意味ではないが、吹羽は早苗のことをそこまで頭の回る人間だとは思っていない。良くも悪くも純粋無垢で、素直で、本能的な少女。それが東風谷 早苗という人間である。

 

 きっと偶然だったに違いない。何のようで近くを飛んでいたのかは知れないが、そんな彼女があのタイミングで現れたのはまさに偶然――いや、あれは確かに、早苗が起こした奇跡だったのだろう。

 それに二人は、救われたのだ。

 

「早苗、さん……」

「っ! 吹羽ちゃん! 気が付いたんですね!」

 

 か細い息で喉を震わせると、早苗はぱぁっと太陽のような笑顔を見せた。吹羽が小さく頷くと、早苗は真剣な表情に戻って視線を前方へと向けた。

 

「今、全速力であの場所から離れているところです。すぐ休める場所に下ろしますから、それまでもう少し我慢してくださいね」

「あの、あの後、なにが……」

「分かりません。風神さまが、急いで逃げろと」

「――……」

 

 あの時の(・・・・)氏神様が、逃げろ――と?

 この言葉に、吹羽は少しだけ疑問を覚えた。

 確かに風神はあの時、猪哭の性質に若干の苦戦を敷いているようではあった。だが早苗が来たことで吹羽たちを気にする必要もなくなり、故に吹羽に貸していた神力を戻したのだろう。

 

 守りに徹せられる早苗の存在と、化身として本来の力を取り戻した風神。いくら猪哭が得体の知れない存在でも、その圧倒的戦力差でわざわざ“逃げろ”?

 

「(なにかが……あったんだ……)」

 

 過ぎ去っていく景色を追いかけて、氏神のいる方を遠く見透かす。

 冷い空気は湿り始め、空は曇って重苦しい灰色の顔を晒していた。氏神の暖かな神力を遠くに感じはするけれど、何故かどうしても、心にかかった霧のような不安を拭うことができない。

 あの向こうに――どうしようもなく相容れない何かが、いる気がする。

 

「夢子……さん……?」

 

 二人に聞こえることもなく、吹羽の小さな小さな呟きは、風の音に掻き消えていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 風神と夢子の間には、岩すら押し潰されそうなほどの濃密な殺気が漂っていた。

 逆立つ毛は神力の燐光を散らしながら絶えず揺らめき、喉は無意識の内に低い唸り声を上げていた。鋭い犬牙は剥き出しで、今すぐにでも夢子の細首を食い千切ろうとしているかのようだった。

 

 だが、対する夢子はどこ吹く風。殺気など軽く受け流して、変わらない人形のような微笑みを顔に貼り付けていた。

 それが余裕なのか、諦観なのか――恐らくは前者であろうと、風神は一層に鋭い歯を噛みしめる。

 

『防いだか』

「目の前の光景が答えだね♪」

 

 “加護”が効き過ぎて辛いわぁ。

 そんな戯言を呟くその背後で、夢子に守られた猪哭は膝を突いて放心するように空を見上げていた。しかし感知してみれば、彼の体には無数の魔力糸が絡み付き、肉体を削ぎ落とすような力で縛り上げている。

 

 ふと疑問が浮かび上がり――納得して、消えた。

 

『御し切れていないようだね、ソレ(・・)を』

『わざわざ縛り上げているのが良い証拠』

「うん、そうだね」

『……此度は何を、企てている』

「言うと思う?」

 

 端正な顔を愉快そうに歪めて、しかし夢子は絶対の拒絶を示した。

 

「私がなにを言ったところでロクに信じないし、信じたところでどうにもならない。私、面倒臭がりだから無駄なことしたくないんだぁ」

『人形のくせして随分と人のようなことを言うね』

「これでも魔()ですから♪ 人はよくどうでもいいことを口にするでしょう?」

『――……』

 

 ――言っていることがめちゃくちゃだ。

 この問答だけで、夢子がまともに会話する気がないということが透けて見えるようだった。

 なにを企てているのかは見当もつかない。しかし、このような形で姿を現したことである程度の推察も効く。問答する気がないのは、こちらを煙に巻くためだろう。

 

 恐らく彼女は、風神を削りにきた(・・・・・)のだ。

 御し切れない猪哭という“力”を暴走させてそれでも放って置いたのは、風神と衝突することが予想できたからに違いない。ただ初めこそ拮抗していた両者だが、早苗の登場によって形勢が逆転し、猪哭を失いそうになったために夢子が出てきた、と。

 

 今猪哭を失えない理由がある。

 風神の力を削って何かを画策している。

 そして全ての事柄の背後には夢子がいて、その奥に神綺がいる。

 どこまで依り代の邪魔をするのだ――煮え滾るような怒りが、目の前の明確な敵へと向けられていた。

 

「ま、今この子を殺されるとちょっと困るんだよね。だから風神さま、見逃してくれない?」

『戯言を』

『ここで君を見逃すよりも、ここで君を噛み殺した方が依り代のためになる』

「お〜、怖い怖い。化身が狼だと考え方まで凶暴になるのかしらね。今度神綺さまに訊いてみようかなぁ」

 

 ――挑発には、乗らない。

 初めて相対した時、風神の咆哮に表情を消した夢子が今こうして余裕でいられるのには、それなりの理由があるからだ。

 

 曰く、“加護”。神が己の眷属と認めたモノに授ける恩寵である。

 吹羽の終階や一般的な神降ろしも加護の一種であり、神託や天罰もある意味では加護である。夢子が神綺から授かったというものもまた加護であり、その効力で神格に少し近づいたために今の彼女は風神の言葉を聞き取れるのだ。

 神の力の一端を授かっている以上、迂闊に手を出すことは憚られた。なにせ今の風神は所詮化身。勝る者は数少なかれど、決して存在しないわけではないのだから。

 

 

 

 ――だが、わざわざ目の前に現れた獲物を逃す手もあるまい。

 

 

 

『神の人形(ヒトガタ)よ。神綺の駒よ。我らの前に姿を現したのが運の尽きと思え』

『依り代を誑かすなら、君にはここで消えてもらう。……逃げられるなんて思わないでね』

 

 濃密な神力が、真白い炎のように二匹を取り巻く。或いは風のように周囲を包み込んだそれは、日の光の中にあってなお白く空間を染め上げて、しかしその美しさとは裏腹に極めて重大な殺意として夢子に向けられていた。

 迂闊に手を出せないならば、慎重に手を出せばいい。それをする力量が、今ならばある。

 

 そんな風神に対して夢子は――しかし。

 

「あっはは! 犬っころ二匹で私を捕まえるって? 神さまって冗談も上手いのね♪」

 

 くすくすと唇に指を添える彼女は、しかしその身からは全く別種の、憤りや苛立ちにも似た気配を漂わせている。

 そのちぐはぐな様はまさに彼女の異常性を示すようで。

 

 殺意に笑顔。

 嫌悪に執着。

 蹂躙に快楽。

 そして生に、無関心。

 彼女はあらゆるものがどこまでも噛み合わない。風神の殺意に返したその小さな微笑みは、彼女とそれ以外では生きている時間が違うのではと思えるほど、周囲との関係性や常識というものに破綻をきたした受け答えだった。

 

「神綺さまの加護を受けた私が、風神の化身如きに負けるわけないじゃない♪」

『試してみるか?』

「試すまでもない……って言いたいところだけど、どうせ逃す気ないでしょ」

『くどい』

 

 ぴしゃりとした肯定が殺気となって、ひりついた空気をなおも鋭く凍らせた。

 

『君の目的は知らないけれど、壊してしまえば事もなし』

『お主はここで噛み殺す。心せよ、神の傀儡よ』

 

 立ち上る神力が遂に大気に干渉を始める。陽炎のように景色を歪ませてなお神々しさを失わない真性の神威は、並の妖怪であれば目にするだけで蒸発しかねない密度を誇る。それが大気のあらゆる物質に干渉し、ただ一人に向けられる圧倒的な異常現象として顕現した。

 強力に圧縮されて作られた風の弾丸に、分子運動を停止させたことで生じた氷の礫、逆に活発化させたことで炎のような熱を持った熱波の塊――今の風神がその気になれば、ありとあらゆる自然現象に指向性と殺傷性を持たせて夢子一人に殺到させることもできる。それらが無数に連なり、上空を隙間なく覆い、しかしその全ての矛先がただ一人に向けられていた。

 加護を受けたとはいえただの殺人人形でしかない夢子にとっては、死刑宣告をされたも同然であろうその光景を前にして。

 

 ――それでも夢子は、笑顔を崩さなかった。

 

「くふっ、くすくす……お盛んだねぇ。なにをそんなに怒るのやら」

『……知らぬとは言わせぬ。我らは忘れておらぬ。貴様らが古き器の弟にしたことを(・・・・・・・・・・・)

「!」

 

 鋭い眼光を、刃のように細めて。

 

『今度こそはさせぬ。何の企てであろうと、再びその手を触れさせるというなら、我らはそれを全ての力で叩き潰すぞ』

「……なるほど、根に持ってるんだ。意外と神さまってみみっちぃのね」

『戯言を!』

 

 咆哮一響、氷柱と熱波を巻き込んだ嵐が夢子に目掛けて放たれた。

 自然現象を無視した無茶苦茶な暴威は空気すら焼き凍らせて(・・・・・・)、一瞬にして空間を塗りつぶす――が、

 

「うーん、涼しいようなあったかいような? 気持ち悪い風ね」

 

 猪哭を引っ掴んでひらりと舞った夢子は、追撃の弾丸を事もなげに切り払いながら着地する。あり得ない異常現象により、一瞬にして命の芽吹かぬ荒れ果てた大地と化したその一帯に降り立って、しかし傷一つ乱れ一つもない夢子の姿はあまりにも浮世離れしているように思われた。

 だが、それが今、彼女がその身に受けている“加護”の力。魔界の唯一神たる神綺が授けた、神にも迫る力の一部である。

 

 今の夢子は恐らく――白狼と子犬に比肩する力を有している。

 

「それに……ふふ、可笑しい」

 

 夢子は指を口元に当ててくすりと可憐に笑う。

 

『……何がだい』

「だって、今更すぎるんだもの。気にしてることがさ」

 

 警戒を解かぬまま、だが夢子の言葉に疑問を覚えると、それを見透かしたように彼女の唇は三日月のような弧を描いた。

 

 

 

「今度こそ、なんて……もう手遅れ(・・・・・)だっていうのにね♪」

 

 

 

 ――なんだと?

 そう風神が不理解を示すよりも早く、夢子は思考を阻害するように顕現させた剣をぎゃりんと打ち合わせた。

 口元には変わらぬ笑みを、しかしその瞳には確かな戦意を窺わせる光を宿して、全身から淀んだ魔力を迸らせる。

 

「神さまなんでしょ? なら、ちょっと考えれば分かるんじゃない?」

『……どういう――』

「分からないなら、そうだなぁ」

 

 頬に人差し指を当てて、やがて思考を切った夢子はにやりと不敵に目を細める。

 

「一回死んだら、分かるようになるかもね♪」

『――ッ!』

 

 刹那、無数の剣閃が宙を駆け抜けた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 力と力のぶつかり合う音が山彦のように遠くなった頃、早苗たちは未だ森の中を疾駆していた。

 先程目を覚ました吹羽はいつのまにか再度気を失い、魔理沙は己の治療をしながら大人しく風に運ばれている。飛翔して逃げられれば良かったのだが、彼女にその分の力を使ってしまっているために難しい。立つのさえ厳しそうなこの状態ではとても自身で逃げられるとは思えないので、まぁ背に腹は変えられないと言うところか。

 

 日は既に傾き、山々の向こうに姿を消そうとしていた。幻想郷は日の光が届かなくなる時刻が早いが、今はまさにその時刻。早苗たちの立つその場所が、なんだか昼と夜を分ける境界線になっているような気さえする。

 宵の刻を迎える前に森を抜けなければ更に面倒な事態になるため、早苗は汗だくになりながらも懸命に足を動かしていた。こんな時だけは、日々の活動で培った体力に感謝である。

 

「取り敢えず、森を出たら一直線に人里へ向かいますっ! 流石に里にまであの妖怪は入ってこないでしょう!?」

「……確かにそうだけど……どうだかな。あんだけ理性を失った状態で、それでも吹羽を狙い続けるようなバケモンだ。最悪里の中でヤる可能性もあるが――」

 

 いや、と続けて、しかし早苗も魔理沙と同じ考えに辿り着く。

 魔理沙の言う通り、何も考えず吹羽を狙うような輩なら幻想郷の掟など無視して里に入ってくるかもしれないが、そうなると今度は賢者が――八雲 紫が現れるはず。そして誰の目にも触れないよう一瞬で彼を八ツ裂きにして何処へとも知れない空間に廃棄するのだろう。

 彼の脅威を消し去るという意味では彼女の手を借りるのが最も確実かつ早いが、里の人間を危険に晒す可能性があるためそれを狙う(・・)ことはできない。

 かと言って他に逃げおおせる場所がない以上、最も近い里へ入る他に方法がない。結局のところ、賭けにはなるが風神様がどうにか撃退してくれるのを信じるしかないだろう。

 

「(くぅ……っ! こんな時、力不足な自分が恨めしいッ!)」

 

 背を包む吹羽の温もりをしっかりと感じながら、しかし早苗は己の無力に奥歯を噛み締める。自分にもっと力があれば、あの時吹羽を守り切ることも、魔理沙を浮かせながら飛んで逃げることも、今足止めしてくれている風神の加勢に入ることさえできたかも知れない。

 今更悔いたところで栓のないことだとは分かっていても、どうすれば吹羽の力になれるのかを悩む彼女としては到底享受できない事実だ。

 

 自分には、足りていない。

 人を守る力が。

 人の支えになる力が。

 霊夢と阿求が――心底羨ましい。

 

「……っ、」

 

 ともあれ、そうやって自分を省みるのも後にやるべきことである。今できることは今の自分にしかできないのだから、今は全力を以て二人と共に逃げるのだ。何事にも前向きに、元気ハツラツ! なことだけが取り柄なのだから、それを無くしてウジウジしていてはいよいよ早苗には何も残らない。

 

「さぁ、急ぎますよ魔理沙さん! ――魔理沙さん?」

「っ! あ、あぁいや……そうだな」

 

 己を鼓舞するように上げた掛け声に、しかし返されたのはまるで気の篭っていない生返事だった。不思議に思って横目で見遣ると、いつのまにか魔理沙に見つめられていたらしく早苗は翻って心配そうに彼女の名を呼んだ。

 どうにも違和感が思考の端を掠める。面識自体は少ないが、彼女はこんなにもしおらしい少女だっただろうか?

 

 いや――そういえば、心当たりがあった。

 

「……もしかして、吹羽ちゃんのことを気にしてるんですか?」

「!」

 

 僅かに狼狽した魔理沙の瞳。それから眼をそらし、倒木を飛び越えて、一拍。

 

「やっぱり……さっき何かあったんですね」

「お前、まさか何か知って――」

「い、いえ! ただここへ飛んでいる時、一時的に吹羽ちゃんの神力が大きく(たわ)んだのを感じまして……それで急いで飛んで来てみたら、あのタイミングだったんです」

 

 一縷の希望を見出したようだった魔理沙の瞳が惜しげに細められる。

 もっと早くに来ていれば魔理沙にもこんな顔をさせずに済んだのか、なんて考えそうになって、早苗は流石に余計なお世話だなとかぶりを振った。

 あらゆる力に乏しい自分が剰え異変解決者を気遣うなんて、むしろ彼女のプライドを傷つけかねない。

 

「何があったか、尋ねても?」

「……何があったか、か。……一体何があったんだろうな。わたしにはさっぱり分からんよ」

「え?」

 

 思わず疑問が声に出る。次いで見遣れば、魔理沙は複雑な――しかし確実に悲壮な表情で早苗から顔を逸らしていた。

 その横顔を目の当たりに、雲のような不安が心にかかる。

 

「あのとき吹羽に……吹羽の中で何が起こっていたのかなんて、想像もつかん」

「…………なに、を」

 

 魔理沙の印象からは想像も付かない、あまりにも迂遠な言葉。それが、本来の告げるべき言葉を躊躇ってのことだと早苗が想像するのにはなんの難しさもなかった。

 だから、魔理沙が重そうに口を開くその刹那の間に早苗は少し心構えをして、そして。

 

「吹羽に……首を撥ねられかけた」

「――……ぇ」

 

 ――思いもよらない告白に、思わず呼吸が止まった。

 

 そんな。どうして。嘘だ。あり得ない。だって自分の知る吹羽という少女はあんなにも優しくて儚くて、純真無垢が意思を持って動いているような娘なのに。

 瞬きさえ忘れたその一瞬に、様々な吹羽の表情が津波のように脳裏を過った。そのどれもが優しさや暖かさに、或いは悲しみや儚さに包まれたモノばかりで、“嘘だ”という否定の言葉が早苗の頭の中を真っ黒に染めていた。

 

「信じられない……って顔だ」

 

 絶句する早苗に目線も遣らず、魔理沙は静かに事の顛末を語った。

 魔理沙が風成利器店を訪れたこと。吹羽を弾幕勝負に誘ったこと。そして――風神に止められなければ、確実に自分は死んでいたということを。

 だがそんなことをつらつらと説明されたところで納得などできるはずもない。だって早苗の中にあるのは優しく儚い一人の小さな女の子で――友人を手にかけるような残虐な人間なんかじゃ、決して、なくて。

 早苗の中ではある意味絶対的ですらある“か弱く幼い女の子”という印象が、魔理沙の語った顛末を頑なに否定していた。

 

「そ、そんな訳ありませんッ! 吹羽ちゃんがそんな……あり得ないでしょうッ!?」

 

 吹羽が人を殺そうとするなんて、絶対にあり得ない――早苗の中に理屈など存在しなかった。

 吹羽だから、そんなはずがない。早苗が彼女に対して抱く印象には、その純粋さゆえに、かけらの疑いも介在する余地がなかった。

 例え幻想郷を守るために兄を手にかけたとしても、その心には清廉さが満ち溢れているのだ、と。

 

「…………」

 

 だが口をついて出たその否定の言葉も、魔理沙の無言の前には何の意味も持たなかった。

 否定できるならしたいさ――そんな諦めが感じられる空虚な無言。それはどんな言葉にも勝る、何よりの肯定に他ならなくて。

 か細い息と共に、滴のような言葉が溢れる。

 

「ほんとう……なんですか……?」

「……ああ」

 

 次第に歩みが遅くなって、やがて力が抜けるように立ち止まる。魔理沙を包んでいた風も勢いをなくして散っていき、しかし彼女は音もなくしっかりと着地した。

 遠くで響いた衝突音と、それに伴う風が二人の間を駆け抜けた。その強風に周囲の木々から鳥たちが飛び立ち、はためいた金髪は魔理沙の横顔を影に隠す。その大き過ぎる、しかし拒絶すべき事実を前に、無力な早苗は立ち尽くす他になかった。

 

「なんで……なんで、どうしてっ……そんなことに」

「……言わなくても、なんとなく分かってるんだろ」

「――ぁ」

 

 “一時的に吹羽ちゃんの神力が大きく(たわ)んだのを感じまして……それで急いで飛んで来てみたら、あのタイミングだったんです”

 

 自分で発した言葉が、違和感を伴って脳裏を掠める。

 そうだ、そもそもなぜ神力が撓むなんて異常な事態が起こった? いくら風神から借りたものと言っても、神降しを発動している最中は術者と神格は繋がっている。つまり術者の生命エネルギーそのものでもあるのだ。意識が薄れて小さくなったりはしても、本来であれば変化するようなものではない。

 

 それが、撓んでいた?

 

「なにが起こってるのかはわたしにも分からん。情けない話だが、わたしにも余裕がなかった……死にかけたことなんざ一度や二度じゃないはずなんだけどな」

 

 ぼろぼろと傷の目立つとんがり帽子を目深く被りなおす。

 その隙間から見えた口元は小さく笑っていたが、早苗にはどうにも、その笑いが自らへの嘲笑のように思えてならなかった。

 

「自分が憎からず思ってる奴に殺されかける、って……こんなにキツいんだな」

「魔理沙さん……」

 

 何か原因がある――それは魔理沙にも分かっているのだろう。ただ、それが分かっていたところで心に襲い掛かった衝撃が和らいだりしない故の言葉。

 戦闘経験が豊富な彼女もきっと仲間同士で命のやり取りをしたことはなかったのだ。況して、己が庇護するべき対象と気晴らし程度の“お遊び”をして、まさか命を取られかけるなんて想像もしていなかったはずである。想定すらしていなかった事象が突然降ってくれば、幾ら前提があってもその衝撃を緩和するのは容易ではないのだ。

 その不意打ちにも似た驚愕とショックは、早苗が推し量るにはあまりある。

 解決者でもなければ戦闘経験もなく、喧嘩すらしたことがない早苗では、魔理沙の痛嘆は想像し得ないものだった。

 

「…………お前は、どんな時にもこいつの味方でいてやってくれよ」

「……え?」

 

 かける言葉の見つからない早苗に、魔理沙は唐突にそう言った。

 それはまるで、遠回しに“自分はそうできないかもしれない”とでも告げるような言葉。

 いつまでも吹羽の味方ではいられないかもしれないと――そう仄めかす言葉。

 帽子の影に隠れて表情は見えなかったが、それがあまり良い意味で受け取れるものでないのは雰囲気が物語っていた。

 

 ならばどういう意味か。

 それを深く考えようとするよりも早く、魔理沙は魔力で擬似的な箒を作り出し、飛び乗った。

 あらかたの傷はすでに治癒したようで、もう早苗が風で運ぶ必要は何処にもないほど体調が良くなっている。

 

「もしもの話さ。だが……わたしの役目はわたしが果たさなきゃならないだろ? だからお前の役目はお前が果たしてくれ。きっと吹羽も、それを望んでるよ」

「ど、どういう――」

「ここまでありがとな」

 

 そう言って、魔理沙はふわりと上空に上がっていった。方向を変えたその先は、風神の闘う場所とは反対の方向だ。

 そして「もう大丈夫だから」と一言残し、彼女は風のような速度で夕暮れの空へと姿を消してしまった。

 

「――……」

 

 記憶に焼き付いたような魔理沙の背中を脳裏に描き、背に感じる温もりと後方から響く神力を感じながら、早苗は暗くなりかけた森の中を再び歩き始める。

 走り出さねばならない。飛翔してこの場を離れなければならない。それは今最も優先すべきことで、それを早苗の頭は分かっているはずだった。

 だがそのとぼとぼとしたその足取りには普通の歩み以上の速度はなかった。先を急ごうとする意思がなんとなく感じられる歩みではあったものの、その足取りにはなんの活力も宿っていない。

 ――結局のところ、今の早苗にはまだ駆け出す(・・・・)元気が備わっていなかったのだ。

 

「私の、役目……」

 

 息が抜けるようなか細い一言が森のざわめきにかき消される。頭の中では「そして友達のためにしてあげたいこと……」と言葉が続いた。

 両親を亡くし、兄を殺め、それでも未だ得体の知れない何かに侵されそうになっている吹羽のために。

 

 早苗が、してあげられること――。

 

「…………」

 

 今更、早苗が吹羽を想う気持ちの中に“可愛かったから”などという安直な理由は存在しない。否、存在しないわけではないが、それよりももっと大きく堅固なモノが出来上がっていた。

 吹羽と過ごす中で。

 吹羽と友人たちを見る中で。

 そして吹羽の過去を知る中で。

 早苗がその素直な心で、純粋無垢に、友人として彼女のために何かをしてあげたいと思える程度には早苗の中で大きくなっていたし、強く心に根付いている。

 きっとその心に従うことこそが、早苗の求める答えなのだろう。

 

 従い、そして為したことが、きっと吹羽のためになる――そう信じるべきだ。

 

「分かりました、魔理沙さん。椛さん」

 

 琥珀に輝く太陽に向け、ひらりと舞って宙を蹴る。

 背負う腕に力を込めると、背に感じる優しい温もりを、強く胸の奥に刻み付けられる気がした。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

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