ではどうぞ。
いつになく、空気がひりつく感覚がした。
その瞳の狂気とも呼べそうな無理性さは底知れない恐怖心を煽り、いつ暴発するかもわからない火炉のような危うさがあった。
荒い呼吸で急速に血が巡っているのに、全身の熱が体の内側に篭ってしまったかのような不可思議な感覚。得体の知れない恐怖と対面すると、人の体はこうにも異常をきたすらしい。
体が硬直してうまく動かない。疲労だけが原因でないことなど火を見るより明らかで、少しでも気を抜けば途端に震えだしてしまいそうだった。
「どういう、ことだ……あいつ、てっきり死んだと……!」
「……そういえば、そうだ――」
まるで屍人を見たような声音で魔理沙が言うが、吹羽には若干の理解が追い付きつつあった。
思い出してみれば、鶖飛の能力の真髄とは“力を浸透させること”だった。この力で彼は猪哭たち三人に魔力を流し込み、能力を与えていたのだ。
そう、もともと鶖飛の力。
与えていたものを抜き取ったところで元に戻るだけである。
あの時はおおかた力を抜き取った反動で気絶か、または仮死状態にでもなっていたというところだろう。そう考えなければ、この状況はあまりにも不自然である。
しかし、それとあの豹変ぶりとは話が別だ。少なくとも、あの時にはこれほどの脅威を彼に感じることなどなかったのだから。
他にも気になることはあるが――。
と、そこで猪哭が動き出したのを見て吹羽は思考を打ち切る。
彼は何か堪えるようぶるりと震えた後、感情を爆発させるように雄叫びを上げた。堪らず耳を塞ぐが、それでも頭をがんがんと揺さぶられているような痛みが走る。音圧だけで小妖怪なら泡を吹きそうな威力だ。
「オ゛――ッ!」
間も無く地を踏み砕き、以前からは想像も付かない速度で接近してきた猪哭の棍棒が、目の前で唸りを上げた。
折れた先端は剣山のような鋭さ。きっと掠っただけでも吹羽の腕などぽとりと落ちてしまうだろう。是が非でも避けなければならないそれを前にして――しかし、吹羽の体は動かない。
先ほどの一件がショックで力が入らないというのもある。だがそれ以上に、吹羽は魔理沙との戦闘で能力を酷使し過ぎていた。
鈴結眼の副次的な恩恵――“ありとあらゆるものを観測する程度の能力”の行使でさえ負担を強いるのに、真の能力である風神降ろしをした状態であれほどめちゃくちゃに力を使えば、体にガタが来るのは当然のことだった。
「(マズい――ッ!)」
だが、そう思ったその刹那、突如として猪哭の巨体が地に叩き付けられた。
陥没した地面で五体投地する彼の背には、犬牙を剥き出しに猪哭を踏み付ける白狼の姿があった。
『我らを差し置き依り代を狙うとは、小生意気な童よな』
『我ら風神の化身。妖怪如きになめて貰っちゃ困るってものさ!』
ずん、と空気が一気に重くなる。まるで重力が増したかのように、氏神の放った膨大な神力が周囲の全てを押し潰さんとのし掛かっているのだ。
その中心地は、地面に大の字で這いつくばった猪哭。きっと今吹羽が感じている重みの何百倍何千倍という神力が、あの体一つに集中しているのだ。
一体どれだけの存在がこの圧力に耐えられることだろう。これで化身だというのだから文字通り計り知れない。
終階に目覚めた影響で神力を濃密に感じられるようになった吹羽には、級長戸辺命という己が氏神の桁外れな力をひしひしと感じられた。
『依り代たちと何かあったようだけど、どうやら正気じゃないみたいだから』
『このまま圧し潰してくれようぞ、猪哭とやら』
圧力がより一層重くなる。既に巻き込まれた木々などはひしゃげて潰れ、猪哭のすぐ周囲では石すらもパラパラと微塵に砕かれ始めていた。
ぎしりぎしりと軋む音が聞こえる。猪哭のあらゆる骨と筋肉が絶叫を上げている証拠だ。あの大海原のような神力にのしかかられてそれでも形を保っている強靭さは驚愕の一言だが、このまま続けば遠からず意識を奪うことはできるだろう。或いは本当にぺしゃんと潰してしまう気なのかもしれないが、理性もなく命を脅かされた手前、甘いことは流石に言えない。況して氏神は、吹羽の代わりに猪哭を押さえ付けてくれているのだから。
風の音も鳥の声も消え去り、吹羽たちもひたすら重みに耐えること暫し――この状況に訪れた変化は、しかし白狼の足元から。
押し潰された猪哭の、地の底から響くような呻き声だった。
「ヴ、ゥゥゥヴヴォオオ゛オ゛オ゛ッ!!」
『!』
刹那、爆発的な妖力の膨張によって一瞬だけ神力が持ち上がる。猪哭はその一瞬で体を回し、棍棒で背後を薙ぎ払った。
低い空気の鳴く音がして、振り抜いた棍棒はついた地面を豪快に砕き割るが、それは標的に当たっていないが為だ。
軽々と避けた白狼が着地すると同時、弾かれたように子犬が飛び出す。その小さな身に濃密な神力を纏って放った体当たりは猪哭を弾丸のように軽々と吹き飛ばした。
「す、すごい……」
思わず漏れた吹羽の呟きにちらと視線を寄越す白狼だが、すぐに前へ戻すと、震えるように毛を逆立てた。
白く煌めく毛がふわりと揺らめく。日の光に透けるようなきめ細かさも相まって、まるで真白な陽炎のようだ。
次の瞬間、白狼の姿が掻き消える。一拍遅れで超音速波が巻き起こり、それによって、白狼が凄まじい速度で前方へ突撃したのだと分かった。
入道雲のような砂埃の向こう側で、激しく打ち合う音がする。時折こちらに届く衝撃波はずしんと重く、その戦闘の苛烈さを物語っていた。
「お、おい……なんだよっ、くそ……!」
と、呆然とその様を見つめる吹羽の耳に魔理沙の声が聞こえてきた。振り返ると、動けない彼女を子犬が木陰まで引っ張っている。
大して重い様子もなく運び切った子犬は、吹羽の元まで駆けてきて、同様に引きずり始めた。
「だ、大丈夫、です……ボクは、動けますから」
『無理しない。君の負担は我らが一番分かってる。本当は話すのも苦しいはずだよ』
「ッ、」
『心配しないで、依り代。奴はここで潰すから。あんな危険なものを放ってはおかないよ』
魔理沙の隣まで運んでくると、子犬はぽすんと吹羽の胸の上に乗って僅かに毛を逆立てた。
ふわふわの毛が突然伸びたように宙に揺らめく。それが濃密な神力であるということに、吹羽は目の前で見てようやく気がついた。
緩やかで暖かい風が体を包み込む。思わずうっとりと寝入ってしまいそうなその心地良さは、消えると共に、身体中の痛みを少しばかり攫っていった。
『――これで少しは楽になるはず。動けるようになったら、すぐに逃げるんだよ』
「でも、氏神様……」
『我らは大丈夫さ。それに――』
不自然に言葉を切った子犬。疑問に思って吹羽が言葉を紡ごうとしたその瞬間――背後に現れた猪哭の棍棒が、神力の障壁と激しく衝突した。
神力の光が飛び散る中で、その無理性な瞳は子犬ではなく、吹羽の方を睨んでいる気がした。
「う、氏神様!」
『ここにいた方が危ない。どうやら奴は君を狙ってるみたいだ。我らは、守りながら戦うのは得意じゃないんだ』
びきりと障壁にひびが走る。それを好機と見たのか猪哭はがんがんと力任せに棍棒を叩きつけてきた。子供のチャンバラのように幼稚な動きだが、それがあの巨体と膂力で繰り出されれば単純に脅威である。
そうしてあと一撃で壊れるかと思ったところで、横あいから飛び出してきた白狼が猪哭を突き飛ばす。地面を引きずり抉る音と共に、猪哭は土埃の向こうに姿を消した。
すた、と着地すると、白狼は猪哭の吹き飛んだ方に目を止めたまま口を開く。
『神力が少ないとはいえ、ここまで抵抗できる相手だ。確実に潰さなければなるまい』
『分かったら、そこでじっとしててね依り代』
「……ごめんなさい」
『詫びなど要らぬ。大人しくしていろ』
それだけ言い捨てて、白狼と子犬は同時に走り去っていった。
あんな姿でも高位の風神の化身だ。幾ら神力に限りがあると言っても、あの様子なら心配など無用――というか、失礼なだけだろう。
本来は吹羽が戦わなければいけない。だのに氏神は、その慈悲深さで吹羽を守ろうと戦いに身を置いている。
迷惑ばかりかけて――申し訳ない気持ちと、それを上回る無力感が胸にのしかかるようだ。そしてそれを吹羽が気にすること自体を氏神が望まないということも分かっていて。詫びなど要らない、とはつまり、そういうことで。
――今はともかく安静にして、ただ終階を切らさないことだけを考えなくては。
一度でも切らせば、また以前のように反動で動けなくなる。そうなれば逃げることなど到底出来ない。
戦闘の行方を見守りながら、吹羽はひたすら自分の内側に意識を集中させる。小さな穴の開いた器から少しずつ落ちる滴を、少しも逃さないように小匙で受けて、また器に戻すような繊細な作業だ。
とても集中力がいる難しい作業。でもそれを、吹羽は躊躇うことなく始めた。
――すぐ隣で聞こえる息遣いを、意識しないようにしながら。
◇
化身、とは文字通り、神格が現世に顕界するために
神力を極端に抑えて人の身にもよく認識できる姿となり、啓示を与えたり、或いは天罰を下したりする。この世に伝わるあらゆる神々が書物ではよく動物の姿で描かれるのはこのためである。そのままで顕界などすれば、自分の力が意図せず世界を崩壊させ得ると理解しているのだ。
人を大きく超越した存在を、まさか人がそのままの視界で認識できるはずがない。言うなればそれは、時間や空間や、星、暗闇、夜、昼――風や空といった
現世の空を統べる神格――級長戸辺命の化身は白狼と白い子犬だ。それぞれが雄々しさと親しみやすさを備え、しかし同一の思考を共有している。そして備える神力は、本体の半分を遥かに下回る。
だがそれでも、この世界で化身した神格に対抗できるものなどいないも同然だ。概念の力を一部でも備えた存在が、そうでない者に遅れを取るなどあり得ないのだから。
あり得ない――そう、そのはずだった。
「ヴウゥゥォオオオオ゛オ゛ッ!!」
四散する礫の散弾の隙間に、悠々と体を滑り込ませて捌いていく。そのどれもが力任せに棍棒を叩きつけた副産物でしかないのに、着弾点には荒々しい破砕跡が残って、ひたすらに周囲の環境を抉り続けていた。
細かい礫が毛を掠める。僅かに真白い毛が散って、それがちりりと消えたその瞬間に子犬が神力を纏って突撃した。
丸い体の子犬が亜音速で飛び出すと、その様は白い弾丸のようだ。並大抵では目に捉えることも難しいそれに対して、猪哭は見事に反応して棍棒を横薙ぎに振るった。
直前で棍棒を蹴って、上空へ逃げる。
がら空きになったその胸元に、今度は白狼が飛びかかった。
神力で形作った巨大な
――閃光、爆音。
人が巻き込まれたなら一瞬で四散してしまいそうなほどの爆発が起こり、二匹はくるくると宙で回って後方に着地する。
土煙が晴れると、身体中をぼろぼろにした猪哭が、それでも立って二匹を睨め付けていた。
喉をぐるると唸らせる。それは狼にとっては敵対者に対する威嚇の意味がある行為だが、今の二匹のそれにはまた別の意味も込められていた。
――傷の治りが早過ぎる。
時間を遡るようにして消えていく猪哭の傷に、子犬はぱすんと地面を打った。
攻撃も速度も、決して二匹を悩ませる要因ではない。問題はもっと別のところにあって、その一つがあり得ない速度の再生力。
白狼は短く息を吐き出した。
先程も使った風を操る仕草で、今度は無数の風の斬撃を猪哭に浴びせる。身体中から血がしぶき、血霧が猪哭の周囲を覆った。だがそれを受けても少しの動揺すら見せない。切り傷自体も先程同様に急速に回復して塞がる。
……明らかに異常だ。少なくともただの妖怪でないことは確かである。
ガウッ、と一吠え。吹羽にはきっと『なんと厄介な』という悪態が聞こえただろう。
神力をありったけ使えば跡形もなく消し飛ばすことはできるが、そうなると吹羽に宿している神力を使わねばならなくなる。その場合神降しは強制的に解除され、吹羽は反動で意識を失い何日も目を覚まさなくなるだろう。それを風神は望まなかった。
そして何より問題なのは――。
「ゥ、ヴァァアア゛ッ!」
鼓膜をぶっ叩くような雄叫びを上げ、猪哭は猛スピードで二匹に肉薄した。
そして、振り回す。妖力を宿した棍棒の威力は凄まじく、振るうたびに鳴く風の音はまるで悲鳴のようにも聞こえた。
するすると避ける。打ち合う。防御する――砕かれる。
一匹で張った障壁では棍棒の攻撃を幾度もは防げず、遂に棍棒は二匹を障壁越しに捉えた。
二匹で張った障壁は砕かれない。しかし、踏ん張りきれずに吹き飛ばされる。そこに猪哭は地面を踏みしめ追撃――には
反転して、その視線が吹羽に照準を定める。
――厄介なのは、ここだった。
「キャンッ!」
『全くもう!』と鳴いて、白狼が子犬を尻尾で打ち出す。弾丸のようになった子犬は猪哭を追い抜いて側方に着地すると、鋭角に地を蹴り抜いて突撃。
爆走する猪哭の横腹に強烈な頭突きを浴びせ、その進行を強引に妨げた。
そう――猪哭が二匹の相手をしているのは、恐らく
自らの命を脅かし得る存在を排除しなければならない、という生存本能だ。
今の猪哭はまさしく理性を失くした獣そのもの。自らの目的である吹羽の前に級長戸辺命という排除しなければならない壁が立ち塞がったため、破壊しようとしているだけなのだ。
逃げるだけの理性がない。
策を講じるという頭がない。
結果、少しでも二匹を
隙あらば吹羽を害そうとする猪哭を相手に、風神はどうしても微妙に攻めあぐねるのである。
――そうして、この攻防をどれだけ繰り返したろうか。
辺りは既に地面の捲れ上がった更地と化していた。猪哭の強烈な棍棒が地を砕き割り、風神の風がありとあらゆるものを刻んで攫う。それらが衝突すれば当然矮小な生き物などはひとたまりもなく、この一帯は命の息吹を感じられない荒野になり掛けていた。
互いの攻撃は決定打には至らず、或いは制限があるゆえに攻め切れず、その半端な攻撃ではどちらの耐久力をも超えることができない。お互いの命を奪うこともできず、その癖周囲の生命ばかりを枯らしてしまっている。或いは、猪哭の撒き散らす淀んだ妖力が悪影響を及ぼしているのかも知れなかったが、そこまで気にしている風神ではなかった。
風神はただ、自らの依り代たる吹羽を守れればそれでよいのだ。その他がどうなろうと気にはしないし、恩寵を与えるつもりもない。
周囲のことなど歯牙にもかけず、ただ吹羽を害そうとする敵に対して牙を向く。
だが白狼と子犬にも疲労が見え始めていた。
化身として格を落とし受肉した結果、肉体という概念を得てしまった弊害である。
鉛のような疲労感が体の動きを阻害していた。傷口からはわずかな血と神力が漏れ出て、呼気は普段以上に荒く熱い。煌々と輝いていた毛は少しだけ光を失い、僅かに粗が目立っていた。
――全く情けない。一妖怪を相手にここまで手子摺るとは。
言葉の代わりに唾をびっと吐き出す。
例え様々な制約のかかった状態だとしても、ここまで妖怪に抵抗されるのは予想外だし、不愉快ですらある。どれだけ格が落ちようとも白狼と子犬は遥かな空を統べる神格の、その欠片。偉大なる風の具現なのだ。
僅かな怒りを込めて殺気を放つ。すると再び風神を脅威と認めたのだろう、棍棒をぎしりと握って地面を蹴り、猪哭は瞬く間に風神の目の前へ躍り出た。
二匹は例によって障壁で棍棒を防いだ。奴には疲労の概念がないのかほとんど威力が衰えていなかった。防御だけを続けていれば、この障壁とていつかは砕かれるだろう。
だが、それを許す怠惰を風神は持ち合わせていない。
短く呼気を吐き出して発現したのは風の鉄槌。天から激流の如く降り注ぐ“
重力の超過にも似たそれに、しかし猪哭は徐々に体を持ち上げ始める。予測通りだ。今度は子犬が猪哭の背に飛び乗り、“引佐”を吹き下ろして全身を切りつけ始めると、再生力がそちらに割かれて再び五体投地した。
――このままっ
――消えるがいいッ!
白狼と子犬の咆哮が重なり合い、共鳴するにつれて加速度的に神力が膨張していく。一番初めと似た状況だが、込められた力はそれを遥かに超えていた。
次々と重ねられていく風の力。強過ぎる神力の波に周囲の大気が
これを超えられると、後がない。
だがこうでもしなければ決着も付かない。
力強い二匹の咆哮は、剛風の音の中でも一際森に轟いていた。
「ォ゛、ウ゛……オオ……!」
呻きなのかすら判断の付かないくぐもった声が、猪哭の口の端から漏れ出ていた。もはや言葉の形を為していないそれは、しかし抵抗できないが故の苦しみの吐露にも聞こえた。
ぎしりみしりと鳴る猪哭の体は、未だ形を保っている。だが初めの時と違い、筋肉の僅かな隆起すら出来ず地に押しつけられるのみだ。むしろ地面の方がその形に陥没し始めているくらいである。
ただの妖怪ではないな――改めてその事実を認識して、白狼と子犬はぐうと小さく喉を鳴らす。
吹羽と魔理沙の様子を見る限り、以前二人が対峙した時とは様子が違うらしい。倒された後に何があったのかは突き止めなければならない事項だろうが……やはり抑えきれない以上、猪哭を生かしておく選択肢はないだろう。
とどめの一息――未だ五体満足な猪哭の体を完全に粉砕しようと、二匹は同時に息を吸い込む。そしてそれがか細く吐き出されると、発現したのは渦巻く風の巨大な杭だった。
巨杭は“
頭上に現れた“死”の具現。
渦巻く風は鋭くも美しい螺旋を描き、無様に五体を晒す猪哭へ風神の裁きを宣告する。
「オ゛――オォゥウ゛オ゛――ッ!」
果たしてその叫び声は怒りだったのか、恐怖だったのか。
理性を失くした獣の言葉は理解し得なかったが、僅かな憐憫を目に宿して、子犬は猪哭の背から飛び退く。
入れ違って巨杭の先端が飛来する。飛び上がった子犬をふわりと浮かして、その切っ先が、遂に猪哭の大きな背中を捉え――
――瞬間、全てが、消し飛んだ。
「ガッ!?」
「キャウっ!?」
大地も、雲も――
猪哭の周囲にあったおよそ何もかもが、突如発生した衝撃波に耐えられず、四散した。
大地は抉れて巨大な跡を残し、穿たれた雲は上空で巨大な円を形作っている。白狼と子犬でさえ急な事態に反応できず、抉れた地面の淵にどうにか着地して、低く喉を唸らせた。
――何が起きたっていうんだ。
一瞬で何もかもを吹き飛ばしたそれが、辛うじて“霊撃”に近しいものだったことは確認できた。だがしかしその威力は全く以って想定外。化身とはいえ風神の最大火力をあろうことか一撃で消し飛ばす攻撃など、今の猪哭には放つことなどできないはずなのに。
かくしてその答えは――猪哭のその体に突き立っていた。
むくりと立ち上がった猪哭の
隆起した筋肉は更に黒みを帯び、あふれ出した妖力が陽炎のように身体中から漏れ出ている。その幽鬼のような佇まいは、まるで彼から完全に意識を消し去ってしまったかのような、尋常ならざる空気を生み出していた。
ゆらりと瞳が揺らぐ。
猪哭を睥睨する風神にはそれすらよく見えた。
そしてその視線が二匹から僅かに外れた瞬間――風神は、彼の姿が見えた瞬間に攻勢に移らなかった失策を悟った。
――奴は今、我らを
「ォ――ッ!!」
声を上げる判断さえ取れなくなった猪哭は、しかしこれまでとは段違いの力強さで地を蹴ると、真っ直ぐに吹羽の方へと飛び出した。
破裂した大気の衝撃が二匹を襲う。それにも負けず眼をかっ開いて猪哭を追おうとするが、既に限界を迎えた肉体は全く言うことを聞かなくなっていた。
猪哭の背を睨め付ける。――動かない。
弱々しい神力は弾かれた。――動かない。
荒々しい棍棒が振り上げられる。――動かない!
猪哭に僅かでも意識があったならどれだけ救われたか。
怒りに充血した瞳は射殺すような殺気を秘めて猪哭を突き刺すが、それを気にすることもできない猪哭には僅かな躊躇いもなかった。
呆然とした吹羽の顔。
その隣で悔しげに歪められる魔法使いの顔。
風を切る堅木の鳴き声。
――僅かな、
それを認識した瞬間、二匹はぶわりと濁った白色の毛を逆立てた。
上空から迫る清廉な霊力。まるで春風のように暖かく、しかしどこか強かなそれが陣を構築しながら急降下してくる。
その矢先は――。
「なにしてるんですかっ、不埒者ぉおッ!!」
光が、弾けた。
緻密な霊力操作で組まれた陣が、強力な障壁となって猪哭の棍棒を受け止めた。
眼を焼くような光が棍棒の進行を阻み、ただでさえ破滅的な衝撃をそれでも周囲へと流し、しかし吹羽たちだけは守り切っている。
激しい風に、若葉色の線がはためいていた。感じる霊力には包み込むような柔らかさがあって、燐光のようにきらきらと髪を彩っている。
現れたその背中に、吹羽は呟くような驚きの声を上げた。
「さ、早苗さん……!?」
風のように現れた風祝――東風谷 早苗が、
「負、け……ません、よぉぉおッ!!」
「――ッ!!!」
声にならない雄叫びが大気を揺らす。押し込まれる殺意の塊に応じて、早苗の張った障壁は火花のように激しい光を散らした。ガラスを削るように徐々にヒビが広がっていき、遂にはばきんと端が砕けた。
「くっ……おも、い……ッ!」
「! だ、ダメです早苗さん! 逃げてください! ボクのことなんていいですからッ!」
「それはっ、聞けないお願いですねぇっ!」
言葉の端に被せるように大幣を押し込む。巻き起こる光の嵐が一層強まるが、すぐにぱきんと音がして、障壁の一部が崩れ落ちた。
圧倒的に耐久力の足りていないそれは、もう既にぼろぼろと崩壊を始めている。例え一瞬奇跡的に止められても、さすがに止め
当然である。本来なら起こらない事象を、早苗は能力で無理矢理に起こしているのだから。
「守らなきゃいけない時に逃げたりなんかしたら……私はもう、吹羽ちゃんの友達じゃなくなっちゃいますッ!」
“奇跡”とは、零コンマ幾億分の一に及ぶ可能性の別名であり、早苗の“奇跡を起こす程度の能力”はそれを無理矢理に掴み取る能力である。
故に、
白狼と子犬の最大級の攻撃を消し飛ばすほどの力を持つ化け物を相手に、早苗が対抗できる可能性など那由多の果てにも存在しないということの証左に違いなかった。
だがそれでも、未熟な早苗が吹羽の生命の危機に間に合ったという事実は、まごうことなき奇跡と言えよう。
偶然早苗が吹羽の神力に気が付き、偶然今のままはいけないと思い立ち、偶然向かったその先で――
しかし、奇跡は終わった。
早苗の表情には苦悶が溢れてくる。ずりずりと後退していく両足は震えていて、今にも
再び訪れる危機に、だがしかし、それを二つの咆哮が消し飛ばす。
――よくぞ参じた、軍神の巫女よッ!
喉を潰すほどの咆哮を上げ、白狼と子犬は猪哭に飛びかかりながら自らの神力に呼びかけた。
周囲に散った僅かな残滓。身の内に残った小さな灯火。そして……貸し与えた莫大な力。
早苗という援軍が来た以上、躊躇う必要もなくなった。
周囲に散った全ての力をもう一度かき集め、還元し――戻ってきた力は、今までのそれを遥かに凌駕していた。
――野分之風。
大気を引き裂く轟音を纏って、
硬い岩盤をも穿つような破滅的威力の砲撃は、今度こそ猪哭の巨体を紙切れのように巻き込んで吹き飛ばした。
「ッ!? ――ッ!!?!?」
抉れた地面の凄惨な跡がその威力を物語る。埋まっていた巨石などはその部分だけが綺麗に食い破られて内側を大気に晒し、通り抜けた木々は跡形もなく消し飛んでぱらぱらと残骸を舞い散らせていた。
少しは時間が稼げただろう。
二匹はがくりと膝を突いて荒い息を吐く早苗のもとに降り立つと、ちらりと横目で三人の方を見遣った。
破片が掠ったらしく多少の切り傷が目立っていたが、大きな外傷はなく――しかし吹羽だけは、力なさげに両手を地に突いている。その姿は終階を発動する前のものに戻っていた。
「うじ、がみ……さま……」
『案ずるな、神力を戻しただけに過ぎぬ。それはただの反動だ』
『軍神の巫女が来てくれたからね、その子の手を借りて、今すぐ逃げるんだよ』
「……っ、」
そう言って、風神は
一声鳴く。すると早苗は
「行きますよ! 全力離脱です!」
「お、お前……あの二匹の声が、分かるのか……?」
「断片的には! なんとなく言わんとしていることは伝わってくるんです!」
魔理沙の疑問の声と、早苗の覇気のある応答。吹羽はもう気を保つ力すら残っていないのだろう、後方から聞こえる声に彼女のものは存在しない。
離れていく声音にようやく安堵を覚えながら、しかし二匹は警戒を解かず、土煙の向こうに消えた“化け物”を睨め付けた。
――気が付かぬとでも思ったか、と嘲りながら。
『……此度は“加護”を、受けているな。聞こえているだろう――』
“神の
刹那――きん、と空間に線が奔る。
否、それはただの斬撃だった。
ただそれがあまりにも速く、そして視界を真っ二つにするほどの異常な
だがその亜音速の閃きは、絶えず揺らめく土煙をさえ切り払い、舞い落ちる木屑を吹き飛ばし、煙たい空間を真二つに切り開いた。
「はぁい聞こえますよー。うるさいくらいにね……風神さま」
響く鈴のような声。しかしそこに煮詰めたようなおぞましさを滲ませるそれは、開かれた
ヒトガタ――夢子。
窓を隔てたような土煙の対面で、かの魔人が、艶然と微笑んでいた。
今話のことわざ
なし