第五十七話 悲劇を終えて
透き通るような青空に、もうそろそろ木枯らしが吹き始める季節だ。
開け放った襖からは、緩くも少しだけ冷たく鋭くなった風がそよいでくる。部屋から見える池は静かで、普段は元気に水面を揺らしている鯉たちも幾分か大人しいように思えた。
風にあたるのは嫌いではないが、肌寒くなってくると体にも悪い。特に、大して身体の強くない人間には注意が必要になってくる。
「もうすぐ冬、ですか……」
走らせていた筆を止め、厳しい冬の到来を予感して、阿求は空を見上げては僅かに眉を顰めた。
冬といえばあの異変――雪の白さにも似た白雲を見つめて、阿求はふと”長い冬の異変“を思い起こす。春が奪われ、冬が中々終わらなかったあの異変の時は本当に大変だった。
本来ならば作物の育っていなければならない時期にも厳しい寒さが続いていた所為で里の食料が底を突きかけ、里の人間全員で以って最低限以下の生活を強いられたのだ。幻想郷を代表する名家、その当主である阿求ですら常にお腹を空かせていたくらいには節制していたというのだから、あの異変がどれだけ人間に優しくなかったのかは推して知るべしというところ。
次いでに恨み節を込めるとするなら、あれが終わった後も作物が育つのに時間がかかったため節制が続き、更に苦しかったということも忘れずに述べておこう。
ともあれ、それがもう三年も前――そう、三年前だ。
「……吹羽さん」
三年前。それは阿求や霊夢にとっては忘れられない単語であり、吹羽にとっては全てが壊れた忌まわしき年。
あの時の、何もかもが真っさらになって怯える吹羽を思い出すと今でも胸が締め付けられるような心地になるが――。
――コンコン、と。
思考の海に沈みかけた阿求の意識を、木を軽く叩く音が引き上げた。驚いて目を向けると、そこには。
「なーぁにを黄昏てるのよ。まだお昼よ? あんたはそんな陰気な奴じゃないでしょ」
「霊夢さん……どうしたんですか?」
「どうしたも何も、声かけたのに反応がないから」
そう言って小さく肩を竦めるのは博麗の巫女、霊夢だ。その後ろにはいつもの侍従の姿がある。彼女は阿求に仕方なさそうな淡い笑みを向けると、仕事は終えたとばかりに楚々と頭を下げ、去っていった。
どうやら本当に黄昏てしまっていたらしい。陰気になっているつもりはなかったのだが、よく考えれば気が付かぬ間に思考が暗い方へと流れていっていた気がする。どうにも、今の吹羽のことを考えるとあまり良くない考えが浮かんでしまって本当に宜しくない。
霊夢は仕方なさそうに一つ息を吐くと、すぐ近くの柱に背を預けて腰を下ろした。
「すみません、少し考え事をしていました」
「悩みごと?」
「そういうわけではありませんが……」
「そ」
興味なさげな声をこぼし、霊夢はぼんやりと天井を見上げる。流れてきた風が彼女の前髪を揺らすと、阿求からは霊夢の美しい純黒の瞳が見えた。陰った目元からは、天井ではない何処か遠くを見ているような印象を感じる。
「霊夢さんは……」
「ん?」
そんな彼女の姿に、ふと先程の思考が思い起こされて。
「霊夢さんは、三年前のこと……覚えていますか?」
「……忘れるわけないでしょ」
視線を変えないまま、呟くように霊夢は答えた。
「考え事ってそれのこと?」
「……はい。あの頃を思い出していたんです。吹羽さんが記憶を失って、全てを怖がるようになって……あれから、もう三年が経ちました」
「“光陰矢の如し”とはよく言ったものよね。吹羽は幾らか元気になって、弾幕勝負もできるようになって、異変を一つ二つ解決した頃には笑えるようにもなった」
「そして……ようやく決着を付けることができた」
「――……」
何と言えばいいのだろう――阿求はもうずっと、胸の内に燻るこの気持ちを形容できずにいた。
吹羽の過去に決着がついたのは確かに喜ばしいことである。ずっと悩みの種だった失った記憶も取り戻し、真実を暴くことができたのだ、結果を字面のまま受け止めればハッピーエンドに違いない。
だがそれを吹羽の友人としての目で考えると、決して手放しでは喜べない。親友が兄を手にかけて、喜んで良いわけがない。
霊夢はそのことをどのように考えているのだろうか。同じ吹羽の親友として、しかし阿求と違って彼女と共に決戦に挑んだ霊夢は、当然吹羽が鶖飛を斬り捨てた場面すら目にしている。
きっと、阿求と霊夢の立場は同じであって同じでない。こうして自分は気持ちが片付かないままだが、霊夢は、落とし所を見つけられたのだろうか。
もし霊夢ですらそれが見つけられていないと言うなら、もしかすると、自分たちは――
「間違ったことをしたかも、なんて口が裂けても言うんじゃないわよ」
何処か陰った阿求の言葉を――否、心に浮かび上がった不安を、霊夢は凛とした口調で断ち切った。
ハッとして霊夢を見れば、彼女の僅かな怒気すら宿した視線が阿求を射抜いている。
言葉が、詰まってしまった。
「それをしたら、
「そう……ですね。そうですよね……」
誰に対して失礼か。それを敢えて言わないあたり霊夢もよく分かっている。
結局、阿求が今さらに悩むことになんて意味はない。全てが終わった後だし、取り返しのつくものでもないのだ。
事実は変わらない。それを自分の中でどう処理するかは文字通り自分の問題である。阿求も霊夢も、そして吹羽も、この事実を乗り越えられるかどうかは自分自身にかかっている。それでも仮に力になれるとするなら、それは同じ境遇に見舞われた同類だけだろう。
自分の悩みがどれだけ不毛かを思い知ると、思わず溜め息が漏れてしまう。ふと気が付けば、持っていた筆が乾き切ってしまっていた。続きをする気にもなれない阿求は、そのまま静かに筆を置いた。
「それはそうと、あたしこんな話をするために来たんじゃないんだけど」
「あぁ、そうでした。何の用向き――なんて、問うまでもないですよね」
「話が早くて大変結構。んで?」
「ええ――」
片目で見つめて促す霊夢に、阿求は視線を横へとずらして襖を見透かす。
霊夢は目的もなく動いたりしない。というより、目的がない時は大体神社で薄味の茶を啜っている。素の面倒臭がりも相まって、故に彼女は“ぐうたら“だの”自堕落”だの言われるのだ。
であれば、霊夢がここへ訪れた理由はある程度推し量れるというもの。霊夢が阿求を訪ねてくるのであれば、それは十中八九、
「吹羽さんは、書斎に」
――お互いの親友を想って。
それ以外には、阿求には考えられなかった。
◇
稗田家の書斎に入ると、紙と木と墨の匂いが鼻腔に飛び込んでくる。墨の独特過ぎる匂いは若干刺激臭染みたところがあるが、意外なことにも強くない。まぁ阿求のことだ、乾いてもいない書をこんなじめっとした場所に保管するわけもない、ということだろう。
紙が多少高価なものであるこの世界ではどうしても里の人間が嗅ぎ慣れる匂いではないし、良くも悪くも強烈なので苦手な人はとことん苦手だ。だが、霊夢はそこまで嫌いではなかった。
なにせ霊夢も、本当に暇な時は本を読む。妖怪神社と呼ばれるほど頻繁に“招かれざる客”が訪れるため機会が多くないのは事実だが、一人でいる時にただお茶を啜っているだけの寂しい人間性は流石に持っていない。この書斎でなくとも、本が借りられる場所は他にあるのだ。
「さて、と」
立ち並ぶ本棚の森を見渡すと、所々抜け落ちた部分が見て取れた。広い範囲で様々な本が抜き取られているが、少し進むと、穴だらけにされた本棚が目に入ってきた。
背表紙を指でなぞる。横に滑らせ目で追えば、次々と視界を過ぎていく“神”の文字。この本棚は、そういった類の書物を保管する区画らしい。
神、か――心でそう呟いた霊夢の耳に、かすかに紙擦れの音が聞こえてくる。それにつられるように本棚の森を進んでいくと、初めに見えたのは白い髪。次いで真剣味に細められた翡翠の瞳が視界に入った。
「――……」
十数冊に及ぶ本に囲まれて、吹羽は酷く静かに文面に指を走らせていた。
この目で彼女を見るのは少しばかり久々だったが、外見的には何も問題ないようで小さく安堵の息をつく。まぁあの戦いでの傷は吹羽自身の願いによって全員完治していたようなものだったのだが、やはり“知っている”のと“実際に見た”のでは実感が違うのだ。
だが、そうは言ってもあんなことがあったばかりである。むしろ“吹羽の様子を見る”という目的で来た以上は彼女の精神面をこそよく見ておくべきだろう。傷も怪我も治すことはできるが、そんなものよりも心にかかった負担の方がはるかに大きく、治し難い――そんなこと、霊夢はずっと昔から知っているから。
霊夢は本棚に体を預けて少しばかり吹羽を眺めると、
「吹羽」
「っひゃぁああ――ッ!?」
どたん、ばさばさばさ。
氷を背中に入れられた時のような、耳を劈く少女の悲鳴。
椅子もろとも転がり落ちた吹羽の上には積み重なった本が降り、追撃とばかりに二回三回と本の塔が崩れて落ちると、舞い上がった埃が落ち着く頃には立派な本の山ができてしまっていた。
まさかここまで驚かれるとは思っていなかった――当の霊夢も吹羽の悲鳴に肩を跳ねさせていた――霊夢は数秒の間呆然と本の山を見ていたが、ハッと我に帰ると慌てて駆け寄った。
最早何処から探せばいいかも分からない。下手に退けても山が崩れて余計危ないし、吹羽の小さな体に対して、この山は見た目の体積が大き過ぎたのだ。
「ちょっと吹羽! 大丈夫!?」
取り敢えず崩れる心配の少ない頭頂部から退かし始めるが、二冊三冊と退ける前に山頂が盛り上がるともこりと白い髪が見えてきた。
いたたた……との呟きが聞こえて、
「もう霊夢さん! 驚かさないでくださいよ! 心臓が飛び出るかと思いましたっ!」
「ああ、無事ね。良かった」
「良くないですっ! ほっぺ噛んじゃってちょっと痛いんですよ!?」
「噛み千切らなくてラッキーじゃない」
「どの口が言うんですか、どの口が……!」
目の端に涙を溜めて睨む吹羽は、これみよがしに頬を撫でながら声を荒げる。
彼女の視線は実に恨めしげなものだったが、正直なところ、霊夢にはそれが嬉しくもあった。
この頃――と言っても鶖飛を中心とした一連の事件の間だが、その間の吹羽はお世辞にも普段通りとは言えない状態だった。そうなって当然の状況ではあったものの、こうしていつもの、今まで通りの吹羽の反応を見るとやはり安心するのだ。
全て終わったことに対して、ではない。
無事元の吹羽に戻ってくれたことに、である。
「で、何を調べてたの?」
「………………はぁ。神様についてです」
諦観を感じさせる溜め息を残して、吹羽は落ちていた本の一冊を再び広げて机に乗せる。そして霊夢に見えるよう向きを変えると、椅子を起こしてすとんと座った。
差し込んだ天使の梯子が文面を照らす。神についてとは言いつつ、それは論文や分析というよりは神話の類に近いもののようだった。
「でも、どの本にも知りたいことは書いてありませんでした。どれもこれも神様たちのいいところとか、英雄譚とか……そういうのしか書いてないんです」
「神話なんてそんなものよ。その神様のいいところとか、そういうのじゃないと意味がないのよ、こういうのはね。神様を調べるのに神話を頼るのがそもそも間違ってるわ」
ぱたんと音を立てて本を閉じてやると、吹羽は唇を尖らせてふいっと顔を背けた。
そんなの分かってるやい、なんて言葉が顔に書いてあるようだ。霊夢はそんな彼女の様子がおかしくて、思わず吐息を漏らして目を細めた。
神話なんて所詮は自慢話だ。神が信仰を得るための道具であり、権能を誇示するための布教装置。そんなものから得られる情報など、せいぜいその神格の司る概念や権能、あるいは構成する願いや希望だ。もしかすると弱点や天敵なども判明するかもしれないが、そんなことを調べる酔狂な人間などごく僅かだろう。
――でも、賢い吹羽がそんなことすら分かっていないわけはなくて。
そして霊夢にも、彼女がそうしている理由はなんとなく分かっていて。
「……神綺」
「っ」
顔を背けた吹羽の肩が、ぴくりと揺れた。
「
「……霊夢さんは行ったことが――会ったことがあるんですよね、神綺さんに」
「そうね……随分と前だけど」
机に手をついて、見下ろす視界には机も本も映ってはいない。かつて訪れたあの人外魔境を思い起こして、霊夢は神妙に目を細めた。
「――前にね、魔界から魔物が溢れ出したことがあったのよ。どいつもこいつも知性がないから大した脅威ではなかったけれど、この世界の妖怪と比べたら天と地の差。表に出てこようものならとてつもない被害が出る……だからあたしは、秘密裏にそいつらを押し留めてた」
何年も前の話だ。博麗神社の裏にある魔界の門――普段は閉じられており、開く術も全く分からないそれが突如として開き、魔界に住まう魔物たちが出てきてしまったのだ。
初めこそ数は多くなかったが、その代わりに高頻度で、徐々に数を増やしていくそれらを見て霊夢は“元を断つ必要がある“と判断した。
そうして、霊夢は初めて魔界に足を踏み入れたのだ。
「魔界にはね、知性がない魔物の他に魔人ってのがいて、そいつらが主に”魔界の住人”と呼ばれてる」
「! 夢子さんと同じ……もしかして、戦ったんですか?」
「――……ええ。戦わざるを得なかった。魔物たちがあたし達にとって侵略者であったように、魔人たちにとってもあたしは侵略者のようなものだったから」
「話し合ったりは――」
「そんな余地ないわよ。異物は異物、自分たちの今まで通りを守るためには、要らない変化は拒絶しなきゃいけない」
世界同士が交錯すれば争いになるのは自明の理というものだ。
思想の違いは争いを起こす。紫の言葉を借りるならば、争いにおいてはいつだって自分が正しくて相手が間違っているのだ。
自分たちの生息域に、いてはいけないものがいる。ならば排除しようという思考が働くのは、その対象であった霊夢ですら納得のいく話だった。
「夢子はその中の頂点よ。最強の魔人。あいつとの戦いは……思い出すと、今でも背筋に寒気が走る」
夢子はいつだって艶美に笑っていた。全ての命を見下して、自分の玩具と思って嘲笑っているのだ。だから彼女はいつだって笑顔で剣を振るう。笑顔のまま命を奪おうとする。死体を切り刻んでは楽しそうに声をあげ、血を浴びる快楽に熱い吐息を漏らすのだ。
そんな彼女と凌ぎを削ったあの日の霊夢は、かつてない死の恐怖に強張り、表情すらろくに動かなかったというのに。
強い者が好きだと――そう言って首を撥ねようとしてくる彼女の姿を、霊夢はいつだって己の血飛沫と共に思い出す。
あそこまで狂った価値観を持つ存在を、霊夢は他に知らない。
「なんとか夢子を退けたその先にいたのよ。魔界の果て……世界の果てに、アレはいたの……」
「……? どうかしたんですか?」
「いえ……なんというか、ね」
正直に言って、神綺という神をどう言い表すべきかは難しいところだった。
夢子などは簡単だ。人格の破綻した殺人人形と言えばほぼ間違っていない。魔理沙や阿求や吹羽にだって、人にはその人格を表す一言はある程度浮かんでくるものなのだが――神綺は、違った。
神が須く自分本意であるのは分かっている。だからこそ誰も彼もが気分屋であり、マイペースであり、人のことなど“飼育している虫”程度にしか思っていない。神は人の願いや希望の体現であるために、人に対しての絶対優位を疑わないからだ。
だが、霊夢が出会った神綺という神は
「何を考えているのかも、どんな権能を持っているのかも、何もかも分からなかった。理解できなかったのよ。ただ一つわかるのは、アレがあたし達の想像を消し飛ばすほどに強い力を持っているってこと」
「――……っ、」
霊夢をして理解不能の強さ。その言葉に吹羽が顔を強張らせたのを霊夢は見逃さなかった。
無意識にか胸元で拳を握り締める吹羽に、霊夢は力無く笑いかける。こうも神綺について持ち上げたところで悪いが、実のところ心配するようなことは何もないのだ。
「大丈夫よ、吹羽。そんなに怖がらなくても、アレは魔界からは出てこない。幻想郷に住まうような八百万の神々と違ってアレは唯一神だから、魔界を離れることはできないのよ」
翻せば、唯一神だからこそあそこまでの強大な力を持っていると言ってもいいのだが、それは余計に吹羽を怖がらせるだけだろうから。
霊夢はそっと吹羽の頭に手を置いて、安心させるようにぽんぽんと撫でる。強張った彼女の身体が徐々に解れていくのが、文字通り手に取るように伝わってきた。
「……“触らぬ神に祟りなし”という諺があります――」
「そう、触らなければ何もないわ。きっと鶖飛も、あんたが神綺に関わることは望んじゃいないはずよ。アレは……それくらい恐ろしい一柱だから」
「――……」
今となっては、霊夢は鶖飛に対して以前ほどの憎悪は抱いていなかった。
否、胸の内に燻るこの黒き思いは決して消えてなくなりはしないものの、鶖飛の想いにもほんの僅かに理解が及んでいた、と言った方が正しいか。
彼はきっと、本当に吹羽と静かに暮らしたいだけだったのだ。風成家においては落ちこぼれという他なかった彼を、唯一認めて頼ってくれていたのが吹羽だ。そんな妹に対する愛情は、きっと霊夢が形容するのもおこがましい程に強いものだったに違いない。それが神綺のなんらかの策によって歪められてしまった故にあんな結末を迎えてしまっただけで。
だから、鶖飛のしたことを許すつもりなどないけれど、その想いに敬意は持てる。
彼が最後に遺した言葉は、霊夢の考え方にそれほどまでの多大な影響を与えていたのだ。
「……それはそうと、ね」
「ふぇ?」
手を離しながらいうと、吹羽は突然の話題転換に呆けた声を出した。
まさかここから新たな話題に移行するとは思っていなかったのだろう、先程の心配そうな表情はぽかんとした間抜けな表情に塗り変わっていた。
気が付けば、窓から差し込む天使の梯子にも僅かばかりの茜色が混じっている。日が短くなってくるこの時期だ、赤い太陽は早々に山の向こうへ隠れ、丸いお月様が顔を覗かせ始めることだろう。
ならば、と思って。
霊夢は未だ崩れた落ちたままだった本を取り、机の上にとんと置く。
「知識はあって困ることじゃないわ。阿求然り紫然り、知識は蓄えた分だけ力になるし思わぬところで助けになる。あたしが語れるのはここまでだけど、もしかしたらもう少し調べ物が進むかもしれない場所を知ってるわ」
「!」
調べ物をするならばやはり本である。そういう意味では稗田の書斎を訪ねるという吹羽の判断はあながち間違いではないのだが、ここで限界があったならば簡単な話。
本を調べて足りないなら、更に多くの本を当たればいい。別の分野も含められるようになるなら尚良いだろう。
幸いにも霊夢は、きっとそれに応えられるであろう場所を一つだけ知っていた。
「さ、早く片付けて行くわよ」
「ぁ、え? 行くって、どこにですか?」
「決まってるじゃない」
本を手に取り、棚に戻す。一冊を胸に抱いて疑問を露わにする吹羽に向けて、霊夢は得意げに笑った。
そう、人里において本と言えばもう一か所しかない。
「よく言うでしょ? “餅は餅屋”、ってね」
――向かう先は貸本屋、
◇
八雲 紫の住処は何処か――そう問えば誰しもが
まごうことなき嫌われ者である彼女も、立場的にはこの世界で二番目に偉いと言っていい。有名人というのは難儀なもので、例え好かれようが嫌われようが勝手に噂は立つし広がるし、果てには住所まで特定されるというのだから楽ではない。
まぁ先述の通り、スキマの中に住むと言われる紫にはそこまで関係ないのかもしれないが。
閑話休題。
住処はスキマの中かもしれないが、立ち寄る場所――というよりは出没場所と言った方が分かり良いかもしれないが――であれば幾つかが挙げられる。
博麗神社、冥界は
今日の紫は、友人である伊吹 萃香を招いて茶を嗜んでいた。
「で、何の用なのさ?」
「友人とお茶をするのに理由が要るのかしら」
「要るというか、
「それもそうね。あなたは茶の席でもお酒ばかりで風流のかけらもない茶会もどきばかり重ねてきたわね」
「ンだから
と叫んで、今の言葉を狙われた事実に若干頬を染める萃香。紫は瞑目してお茶を啜っていたが、口元がほんの僅かに歪んでいたのは湯飲み越しでも分かった。
だが怒る気にはなれず、相変わらず他人を転がすのが好きなやつだと決して良い意味でない溜め息を溢す。
悪い癖だ、と思った。だから紫は嫌われるのだ。
「で、今度はわたしに何をさせたいんだよ」
少し拗ねた口調でそういうと、紫はそっと湯飲みを置いた。
「理解が早くて助かるわね」
「わたしはお前の丁稚じゃねーぞ」
「当然よ。数少ない友人にそんな失礼なこと思いませんわ」
「はっ、こっぱで鼻をかむようだね」
「萃香? 何か言ったかしら?」
「いーやなんでもー」
まぁ、萃香も紫がそこまで酷いことを考えているとは思っていないが、彼女は使えるものは神でも使う性格だ。そう考えていないわけではないだろう。
だが今更そんなことを気にしていたら彼女とは付き合っていけない。それをよく知っている萃香は、ひとまずこのことは考えないようにすることにした。
鬼の頭能は強くない。気にしなければすぐ忘れられるだろうし、忘れてしまえばもう関係ないのだから。
「何をさせたい、というほどのことでもないわ。一応、念のため、再度頼んでおこうと思ったのよ」
「再度? ……ああ、霊夢の――いや、吹羽の子守か?」
「ええ」
一応、以前に頼まれた件に関して萃香は完遂したつもりでいる。吹羽も霊夢も無事なまま大事を片付けることができた時点で、萃香が紫に頼まれていた“霊夢を見守り、逐一様子を報告してほしい“という依頼は意味を失った。
それでも引き続き様子見を続けるように言うということは、
「……まだ何かあるってか?」
「一応、念のためと言ったわ萃香。一難去って一息吐くようでは、私は世界創造なんて成し遂げてはいないわ」
「そりゃそうだが……」
正直、これ以上面倒ごとが起きて欲しくないというのが萃香の本音である。
個人的には強者との戦いを楽しめるならなんでもいいのだが、そこに別の存在の想いやら何やらが絡んでくると素直に喧嘩を楽しめないのである。そういう意味では、今回の件は“一枚噛まずにはいられない極大の面倒ごと”だった。
次いでに言うなら、萃香もこれ以上吹羽に苦しんで欲しくないと思ってはいるから。
「全く、吹羽もかわいそうな奴だね。こんな胡散臭い創造主と喧嘩しか脳がない妖怪に四六時中目をつけられる羽目になるなんてな」
「必要なことよ。あの子は何をするか分からない」
「あ? ほっときゃずっと刀を打ってるだろ」
少なくとも萃香の中にある吹羽という少女は、鍛冶屋に生まれただけの風好きな少女でしかない。紫が危惧するような突拍子もない行動をするなんて思えないが。
紫はいつの間にか持っていた扇子を広げると、いつものように口元を覆った。
「さて、
「なに?」
「誰も彼も、きっと過大評価し過ぎなのよ、あの子を」
相変わらず訳の分からないことを言う紫に、萃香は今度こそ疲労の溜め息を吐いた。
会話に思考が必要ないとは思わないが、わざわざ遠回しに会話を繰り広げる者との会話は人が思う以上に考えさせられるし、体力を使う。紫はその際たるものである。
言うこと為すこと、全てが一見迂遠で関係ないのに、蓋を開けてみればそれが最短で最善だったりする。しかしその為には多少の犠牲は厭わないところもあり、“全のために個を捨てる”が形を成したのが八雲 紫という存在だ。
“個のために全てを捨てる”――とまではいかないものの、後のことより目先の大切なものに焦点のいく萃香とは凡そ正反対。これだけ思想の違いがあってよく同じ茶の席につくようになったと思う。
だがやはり、気に入らないことは気に入らない。
そして萃香は、自分の考えを素直に口にする性格で。
「なぁ紫」
「なにかしら」
「お前は一体、あいつをどうしたいんだよ」
「どう、とは?」
茶を啜りつつはぐらかそうとする紫に、萃香は不機嫌そうに眉を釣り上げて睨み付ける。
その胸元では、組んだ腕の指先がとんとんと二の腕を叩いていた。
「お前は風成家を守りたいと言いながら吹羽を危険に晒すような真似をするし、平気で利用するじゃないか。納得がいかねぇんだよ。どっちなんだよ。お前はあいつを死なせたいのか? 生かしたいのか? そこら辺はっきりしやがれ」
「どちらかと言えば生かしておきたいわね。殺したいのは山々だけれど」
「お前のそれは、体はって意味か?」
「なんですって?」
「息をしてるだけの人形を、お前は“生きてる“って言いたいのか?」
ふと目を開けた紫の視線と、萃香の険の篭った視線がぶつかる。ぴりりと、冷えた空気が肌を刺激した。
「お前が風成家を守りたいって思ってんのは分かった。確かにお前の庇護があれば吹羽は簡単には死なねーだろうよ。だがな、体さえあれば吹羽の心はどうでもいいとか思ってんだったら、わたしはお前にこの拳を振り上げるぞ」
風成家を守る為に吹羽を利用する――それが萃香には気に入らなかった。
今や風成家は吹羽ただ一人。紫が本当に風成家を守ろうとするなら、なるほど確かに吹羽を死なないように庇護するのが当然だ。
だが、紫の行動は果たしてどうだろうか。
今回の件にしても、紫は手が出せなかったとはいえ吹羽や霊夢に任せきりだった。鶖飛に対して実力が圧倒的に劣ると分かっていてだ。
幾ら風神の助けがあるだろうと予測していたいってもそれは結局予測
不安定すぎるのだ。世界創造を成し遂げた偉大なる賢者ならば、もっと、幾らでも手はあったはずなのに。
「人は心があってこその人、と。如何にもあなたが言いそうなこと」
「わたしは人間を信じてるんでな。その可能性を否定するようなやつには拳骨をくれてやらないと気が済まねェ」
「短気ねぇ」
「今更だろうが。……お前もわたしのことを分かってるんだったら、気を付けるこったな」
萃香は冷め切ったお茶をぐいっと煽ると、机に叩き付けるようにして置いた。
そして霧となって消えようとしたその直前、
「萃香」
「あん?」
「ともあれ、頼んだわよ」
「――……」
やはりこいつに釘を刺すのは難し過ぎる――紫の思想の強さに呆れの溜め息を零してから、萃香は返事もせずに景色へと姿を溶かした。
「心ね……まぁ確かに、心がなければ、この約束に意味はなかったかもしれないわね……」
そんな紫の呟きを、聞き遂げることもないままに。
今話のことわざ
「
かかわり合いさえしなければ、余計な災いを受けることもないということ。
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