風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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 お待たせしました。
 ようやっと最終話。次回から新章です。
 ご質問があれば遠慮なく。


第五十六話 風の始祖

 

 

 

 凪いだ水面に一滴の滴が落ちる。

 たった一つ――不思議なことにも、広い湖の中でその一つのみが葉からこぼれ落ち、時の止まった空間を乱すように波紋を広げ、やがて消えていく。

 風も音も、何一つ動かぬ凍結した空間。

 己という個を極限まで薄く広くし、空間そのものと同調する瞑想の極地。拡大した感覚は空間と重なり合い、その果てに自然そのものと調和する。単なる瞑想を遥か極みにまで昇華させたそれは、まさに空間そのものを主――八坂 神奈子の心を映す鏡へと転換させたものと言って過言ではない。

 そこに、雫一滴。

 その変化は、静謐であるべき心に乱れが生じたのと同等の意味を持っていた。

 

 神奈子には、考えていることがあった。

 

 いつかこうして瞑想している最中に賢者が残した、いくつかの言葉たち。

 遠回りで要領を得ないそれらはまさしく彼女の言葉としてふさわしいものだったが、あれから日を幾日か跨いで未だにそれらが神奈子の頭を悩ませていた。

 

 神として成り上がって(・・・・・・)幾星霜、神奈子が積み上げ蓄えてきた知識と記憶は膨大である。崇め奉られる神格の一柱として多くの人間たちを見守り、時にはその権能で障害を退けた。それを当時の人間たちは“神の御加護”だとかなんだかとやたらもてはやしたものだったが――

 

「(……いや、それを私はこうして覚えている)」

 

 一陣のそよ風が葉々を揺らし、無数の水滴が湖面に落ちる。その波紋は無造作に水鏡を崩し、水面に写る彼女の顔を悩ましげに歪めた。

 覚えているものは問題ではないのだ。神奈子の頭を悩ませているのはそうではなく、むしろ覚えていないもの(・・・・・・・・)の方である。

 

 何か――何かを忘れている。あの時賢者が向けてきたのは、何事かを忘れてしまった神奈子への失望と諦観だった。或いはそこから派生する別の物事への興味だったかも知れないが、それは今の思考には些末なことだ。

 

 記憶とは厄介なもので、積み上げれば積み上げるほど己を成長させ高めてくれるが、反面で色付いた過去を薄めていく。その時は大切と思ったことも、知らず知らずの内に糧となったことも、時の流れと積み上げた記憶は分け隔てなく押し流していくのだ。時に自分の都合のいいように改竄してしまっていたりもするのだから、これほど己に甘く当てにならないものはそうないだろう。

 

 神奈子は神である。

 大昔、世を治めた大和国仕えた軍神の一柱。元はと言えば、それより以前に能力を持って生まれ落ちた一人の人間(・・・・・)である。その”乾を操る程度の能力“があまりにも人を逸脱し、崇められ奉られ多大な信仰心を集めてしまったが故に、現人神を経て本物の神格へと昇華した。

 故にこそ彼女は成り上がりであり、存在してきた時間はもはや数えることなどできはしない。

 況して、人間だった頃の記憶なんて――

 

 と、その時、草花が揺れた。

 

 まるで己の存在を誰かに示すかのように、感覚の端に揺れて彩る小さな花弁。この感覚には覚えがあった。

 胡座を崩し、湖面に真っ直ぐ突き立った御柱の上に立ち上がる。そしてゆっくりと振り返り、この湖の入り口――守谷神社の方角を見遣る。

 四人の、少女の姿。

 

「さて、我が神域に何用かな稗田の当主。そして……」

 

 向こうからは見えていないであろうこちらに向けて、恭しく頭を下げる少女。そしてそのすぐ後ろに、白髪を揺らす憂き顔の少女が見えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 早苗の案内によって、椛、阿求、吹羽の三人は神奈子がいるという湖へと足を運んでいた。

 守谷神社の裏手にある湖は、早苗らが幻想入りした際に神社と共に転移したものだ。その大きさは向こう岸が視界に入らないほどのもので、岸辺に立つとそこが山の頂上であるということを忘れてしまいそうになる。

 早苗曰く、神奈子は定期的にこの湖の中心で瞑想を行うのだという。今回はちょうどその時間に当たったらしく、裏手へ出ると、早苗を除く三人はその不思議な光景に少しの驚愕をこぼしていた。

 その感嘆を言葉にしようとして――頭上から声。

 

「随分と表情が変わったものだね。以前とは見る影もないよ」

 

 見上げると、そこには美しい女神の姿があった。

 紫紺の髪には艶が乗り、成熟した豊満な肢体は凛とした様相により純粋な感動を見る者に与える。その背に背負う巨大な注連縄はその姿に威容と神々しさを加え、まるで大空を見上げているような気持ちにさせられる。

 八坂 神奈子――かの軍神が、四人を見下ろしていた。

 

「お取り込み中のところ申し訳ありません、神奈子様。お叱りは早苗さんではなく、どうかこの私に」

「この程度のことで怒りはしないさ。君も相変わらず態度が硬いね、稗田 阿求。まぁ、本来はそれが正しい姿勢……といえばそうなんだがね」

 

 神に対する阿求の態度は至極正しいものだ。強いて言うのであれば祝詞に乗せるのが神との対話におけるセオリーだが、実際に顔を合わせて相対しているために敢えて硬い敬語を使ったのだろう。

 成り上がりであることをよく自覚している神奈子が、対話における礼儀をそこまで重要視していないから、というのもあるだろうが。

 

「何の用か……なんて、問うまでもないことかな」

「こちらの事情をご存知なのですか?」

「知っている、というほどのことでもない。此間の強大な神力の出現、天変地異、そして君の後ろで俯いているその子は、きっと君が連れてきた(・・・・・)のだろう? 大まかな察しはつくというものさ。……何か、あったんだね」

 

 凛として、しかし柔らかい微笑みを讃えたままに言う神奈子に、阿求は話が早いとばかりに小さく頷く。

 吹羽のことであると分かっているのであれば、恐らくは鶖飛の件に関しても察しはついているだろう。彼自身のことに考えが及んでいるかは定かでないが、あの日現れた神力が吹羽を依り代としたものであり、降りたのが風の神であるということは当然分かっているはすだ。そして、そうなるに至る何事かがあったということも。

 

 それを追求するつもりはない。当事者でない者がどこまで事を理解しているかなど探ったところで益はないし、やたらに確認して知らなかったことまで聞かせる訳にはいかないからだ。況して、そうして嫌な思いをするのは阿求でなく、吹羽なのだから。

 

「ふむ……そのように落ち込んだその子をなぜ私の元に連れてきたのかが分からないね。面識こそあれ、お互いに知人程度の認識だったはずだが」

「分からないのは承知の上……いえ、そうかも知れない(・・・・・・・・)とは思っていました。しかし、どうか聞いて頂きたく存じます」

「?」

 

 阿求の行動に無理解を示す神奈子の言葉を、当の阿求は否定しなかった。そして、それを承知で来たという彼女に、椛や早苗、吹羽すらも困惑を宿して目を向けた。

 視線を背に感じながら、阿求は毅然とした瞳で神奈子を見上げる。拳を自らの胸に押し当て、吹羽の手を強く握り返して、

 

 

 

「吹羽さんをこちらに――守谷神社に、預かっていただきたいのです」

 

 

 

 誰も予想だにしなかった提案を、口にした。

 

 反応は十人十色。阿求は言葉を待つようにジッと神奈子を見つめ続け、その神奈子は表情を消して阿求を見つめ返す。一柱の神として、目の前の人間の品定めをしているような眼差しだ。椛は阿求の横顔に向けた目を大きく見開き、早苗は話の拗れを予想したのか眉を八の字に傾けている。その瞳の中に僅かばかりの喜色が見えるのは、やはり嘘を吐けない彼女の性というところか。

 そして吹羽は――困惑、不安、驚愕。様々な感情が渦巻く複雑な瞳を、阿求に向けていた。

 

「ち、ちょっと待ってください!」

 

 いち早く声をあげたのは椛だった。見開いていた目を険に細めると、鋭い犬歯を覗かせて食いかかる。

 

「吹羽さんを守谷神社に預けるって……何を言い出すんですか!? 理解不能です!」

 

 それでは、適当に問題の解決を待つと言っているようなものではないか――椛の口調には、そうした非難の念が感じられた。

 しかし、阿求はそれに取り合わない。横目でちらりと椛を見遣るだけで、真正面から受け止めようとはしなかった。――否、椛の言葉は、至極当然であると理解している故に(・・・・・・・・・・・・・・・・)、言葉を重ねず切り捨てる。

 

 だがそんな阿求の態度が椛にはふざけているように見えたらしい。胸ぐらを掴みかからん勢いで詰め寄り、神奈子へと向かう視線を遮るように立ち塞がる。

 

「百歩譲って、あなたが預かると言うなら分かります! 吹羽さんもその方が安心できるでしょう。ですが、今回の件に何の関わりもない相手に預けて経過を待つなんて……一体何のために吹羽さんをここに連れてきたんですか!?」

 

 今の不安定な吹羽は整理がつくまでそっとしておくべきであり、それがダメならば心休まる相手との触れ合いによって回復を待つ他ない――それが椛の考えである。後者はどちらかというと阿求の言葉を汲んだ故の考え方ではあるが、兎角吹羽に負担をかけさせないのが最善であるというのが彼女の言い分だ。

 阿求にもそれは分かっている。“吹羽の友であり剣“を自称する彼女らしい考え方だ。幾ら主が傷付いても、剣が主を癒すことはできないのだから。

 

 阿求は逃げずに彼女の視線と圧を真正面から受け止める。椛の意見は至極正しく、それが理解できるが故に阿求はその目線に真っ向から向かい合わなければならない。自分にも考えと信念がある限り、そうした意見から逃げてはいけないのだ。

 椛からの怒りを一身に受ける阿求に、今度は背後から。

 

「あ、あの、預かることに関しては構わないというか、個人的にはむしろ望むところなのですが……預かって、どうしろというんです?」

 

 椛と違い、早苗の言葉には大きく困惑と不安が滲み出ていた。手前勝手に大役を押しつけられたとあればそれも無理からぬことだろうが、そこで“ふざけるな!”と罵声が飛び出ない辺りが実に早苗らしい。

 そして素直に己の欲望が口の端から漏れ出ていることに、改めて早苗が信頼に足る人物であると阿求は認識できた。

 きっと早苗は、どうあっても吹羽を裏切ったりしないだろう。

 

「別に何をしろというわけではありませんが……」

「っ、あなたは……吹羽さんを放置するに飽き足らず、その責任をも早苗さん達に押し付けるつもりですかッ!」

「少し落ち着いでください椛さん。私は何もそう言っているわけではありません」

「落ち着け!? 落ち着かなくさせているのはあなたでしょう!」

「ああの、喧嘩は……!」

 

 

 

 ――刹那、背筋も凍るプレッシャー。

 

 

 

 早苗の言葉は断ち切られ、牙を剥いていた椛さえも大量の脂汗を噴き出させた。阿求などは言わずもがな意識を保つのもやっとだが、なんとか吹羽の風除け(・・・)程度の役割は果たしていた。

 何者からの圧力かは考えるまでもない。少しでも気を抜けばあっという間に暗転してしまいそうな瞳を圧に逆らって持ち上げ、目の前の――眉根を寄せた神奈子を見上げる。

 

「……喧嘩は良くない。君たち人間は手を取り合うことこそを力とするのだからね。私をあまり失望させないでくれ」

「っ、お……お見苦しい、ところを……」

「ああ、そうだね」

 

 瞬間、解かれる神奈子のプレッシャー。水底深くに沈められたような感覚が一気に解かれると、阿求は無意識に息を止めていたことを思い出して盛大に咳き込んだ。

 ――否、強大な神格の力を正面から受けて、呼吸すらままならないほどに中てられていたのだ。神奈子の言葉は優しく穏やかではあったが、その裏に秘められていたのは”()の前で言い争いとは、随分人間は偉くなったものだな“という怒りに他ならない。古くから人々は神を前にしたとき、その面前に傅き敬い崇め奉り、その言葉を拝聴できることに至上の喜びを得なくてはならないのだ。それを欠いた者共(阿求たち)に、あるいはこれは神奈子からの怒りと罰である。

 

 神とは誰も彼もが利己的で、自分の価値を誰よりも分かっている。柔和な印象の神奈子ですらそれは変わりないこと――それだけの話。失望させるな、とはそういうことだ。

 

 神奈子はそんな阿求たちを気にも止めず、腕組みに一つ息を吐くと、

 

「だが、誰の言い分も理解はできる。私たちがその子を預かって何になるのか……まずは君の考えを訊きたいと思うよ。まさか何の説明もなしに預かれというわけではあるまい?」

 

 神奈子の問いに、ようやく息を整えた阿求は神妙に頷く。

 彼女の言う通り、何の考えもなしに吹羽を他人に預けようなどとは思っていない。それは信頼を寄せてくれる吹羽を裏切るのと同然の行為であり、そんなことは死んでもしたくないと思っている自分を認識しているからだ。

 椛の言い分は尤も。先程彼女に伝えた通り、吹羽が自分で心の整理をつけられるならば阿求もそっとしておいただろう。だが事実として吹羽は兄を殺めたことに深過ぎる傷を負い、今もそれを雨風に晒しているような状態だ。

 ならば阿求が手を差し伸べなくてなにが友情か。なにが絆か。なにが親友か!

 背後で力無さげに手を握るこの少女の、この不安に押し潰されそうな顔を、阿求はどうしても許容できないのだから――。

 

「……始まりは、吹羽さんが私の家の書庫で見つけた、一枚の家系図です」

 

 頭の中で組み上げていた理論を阿求は順序よく語っていく。時に想像も混じえつつ、阿求はいつか吹羽に語った結論を神奈子にも披露した。

 その家系図がおそらくは初代風成家当主の持ち物であろうということ。風成家の尽き果てぬ風神信仰。そして、塗り潰された名前。

 それを神奈子は感情の読み取れない、しかし真っ直ぐな瞳で聞いていた。語っている阿求ですら本当に伝わっているのか確信が持てず、口を動かしながらも内心で困惑を積もらせるほど。

 

 だが同時に、止めようともしていない。それに阿求は、なんだか結論を急かされているような気持ちになって。

 舌で唇を湿らせると一つ指立たせ――神奈子へ見せつけるように、提起する。

 

「疑問は一つ……なぜ、元の一族が消えてしまったのか」

「ふむ……一族が滅びる理由など幾らでもあるだろうね。大飢饉、お上の勅命、戦争なんかもよく聞いた話だ」

「ええ。ですが、それでは辰真さんが生き残っている理由がない」

 

 神奈子の挙げた例は確かに代表的だ。どれも一つの族が消滅するには十分に足る理由だし、事実それが大昔からあちこちの村や集落で繰り返されてきたことであるのは歴史が証明している。

 だが、そのどれも一族全てが息絶える形である。飢饉では全員が飢死に、勅命であれば一族郎党皆殺しにあうこともあったろう。戦争などは語るべくもない。――これでは辰真は、生き残っているはずがないのだ。

 で、あれば。

 

「私はこう考えています。元の一族が消えてしまったのは……いわば内乱。それも、縋る先を失って分裂した(・・・・・・・・・・・)形の」

「分裂……縋る先?」

「はい」

 

 無理解を示すように反芻する早苗の言葉を、阿求は短く肯定した。

 いつの時代の人間もなにかしらに縋って生きている。親を信じる、友人を信じる――神を信じる。言わば心の寄りかかる先であるところの“信じるなにがしか”を持たなければ、人は芯を失くして立つことすらできないからだ。

 

「それが突然消え去ってしまえば、崩れ去るのは自明の理。神奈子様や早苗さんは、そのことをよくご存知かと」

「――……」

 

 “信じるなにがしか”。その際たる例が神であろう――阿求の言葉は、その裏にそうした意味を秘めていた。

 向けられた問いになにも答えないのは、彼女ら――この場合は主に神奈子――がその“信じるなにがしか”に成りきれずこの地に逃げ延びてきたことを自覚しているからだろうか。

 彼女らのことを幻想郷縁起に書き記した阿求は二人の心境をそうして推し量りつつ、しかし躊躇わない。

 神奈子は軍神としての信仰を失い、この地に逃げ延びてきた。何をどう取り繕っても忘れ去られた存在(・・・・・・・・)であることに違いはない――れっきとした、幻想郷住民なのだから。

 

「……それで、消え去った縋る先とはなんなのですか。重要なのはそこでしょう」

「――そうですね。極論、それこそが最重要です。それそのものが内乱のきっかけと言って過言ではないでしょうから」

 

 焦れる椛の声を肯定して、しかしその問いの無意味さに軽く吐息を漏らす。それを目敏く感じ取ったのか椛は再び目に険を宿すが、突っかかろうとはしなかった。

 きっと彼女も半ば答えを確信しているのだろう。ただ、それを自らの口で暴くことがどれだけ不敬(・・)であるかを理解しているだけであって。

 故に、阿求は。

 

「そうですよね……風神(・・)、八坂 神奈子様」

 

 瞑目して、阿求の推論に耳を傾ける彼女へと水を向ける。

 

「……私をそう呼ぶのは、この世界に来て二人目だよ、稗田 阿求」

 

 神奈子は疲れたように小さく息を吐くと、組んでいた腕を下ろして気怠げに座り込んだ。

 その場に足場など存在しない。まるで空気が彼女を支えているかのように、神奈子は文字通り空中に座り込んだ。本来ならば御柱を出現させてから座るところだが、ようやく目を開けた彼女の瞳にはひたすらに呆れと諦観、そして身を重くするほどの億劫さが浮かんでいた。

 

 そう、阿求は神奈子が元は人間であることを看破している。より正確には、彼女が瞑想をしていると聞いたことで予測が確信に変わったのだ。

 瞑想とは己を見つめ直すために行うもの。その存在そのものが人間の願いや希望によって定義付けられる神格にとって、本来は不必要なもののはずなのだ。己を見つめ直したところで、その存在の維持にも意味にも影響はないのだから。

 となれば、聡明な阿求は結論付けるのになんの躊躇いもなかった。瞑想が必要となる神など聞いたことがないが、人間から神になったのであれば可能性としてはあり得る話である。そしてそれはまさに――神奈子がかつて、人間を逸脱した(・・・・・・・)何よりの証左でもあり。

 

「なにがどうして、私はこうも見透かされるのかね。なぁ、歴史家」

「……あなたが未だ、人間味に溢れ過ぎる――そう言ったら、お怒りになられますか?」

「いや……あながち間違いではないのかも知れないよ、それは。疲れもすれば泣きもする。こうして自分にさえ呆れられるんだから……やっぱり私は成り上がりということさ」

 

 はぁ、とため息を吐く神奈子。その様子に阿求は、やはり彼女は人間らし過ぎると思い直して苦笑する。

 神というのは自分本意で、常にマイペースだ。それは己の存在理由と価値をよく理解しているからであり、それを思えば当然のことでもあるが――神奈子は、どうだろうか。

 

 彼女自身が言うように、何事かを厭わしく思えば疲れるし悲劇があれば当然のように悲しむ。自分の価値を誰より知っているはずなのに、自分自身に呆れることすらできてしまう。それらは全て――神奈子の根本的な部分が未だ、人間だった頃の心を忘れていないからだ。

 

 洩矢 諏訪子などが良い対比だろう。彼女はいつでものほほんとしていて、誰と相対してもそのスタンスを崩さない。何処かへふらりと出掛けてはいつのまにか帰ってくるし、はたまた出掛けたと思っていれば屋根の上でくつろいでいるだけだったりする。早苗にいたずらしようと隠れているだけだったりもする。

 自分本意ここに極まれり。それでも早苗だけにはある程度の温情や愛を感じさせるのは、恐らく彼女が遠い子孫に当たるからだろう。そこだけは例外ではあるものの。

 

「ま、まさか……」

「……そう、そういうことです、椛さん」

 

 ここまで解いて、ようやく同じ結論に至ったと見える椛が驚きに目を見開く。それを横目で確認して、その瞳の中に同時に納得の色も窺えることを阿求は見逃さなかった。

 そうだろう。そうだろうとも。

 なにせ椛はあの決戦に参じていたのだから。吹羽が――巫女でもなんでもないただの少女が、強大極まりない高位神をその身に降ろす瞬間を目にしているのだから。

 

 

 

「“神に連なる子”。風成家――吹羽さんは、神奈子様の遠い子孫です」

 

 

 

「「――……」」

 

 あるいは、早苗のような現人神にも近い存在。正真正銘に人間ではあるが、正真正銘に神の血も流れる一族。それが阿求の辿り着いた風成家の正体である。

 

 阿求が描いた風成家の成り立ちとはこうだ。

 大昔、ある一族の中に神奈子は生まれた。彼女は人間ではあったものの、生まれ持った能力の強大さ故に信仰を集めてしまい、期せずして現人神となり遂には風神となった。

 しかし良いことばかりではない。一族の中から神が生まれたことは喜ばしいことではあったが、彼女は最終的に大和へと下り、軍神としての信仰を集めるようになってしまった。恐らく彼女が洩矢 諏訪子と出会い、そして争ったのはそのころだ。

 

 風神としての彼女が失われたことで、元の一族は信じる先を見失った。ある者は別の神を信奉しようと危機感に声を荒げ、ある者はきっと彼女が戻ってくると頑なに変化を望まず――そうして対立する内に内乱のような形になり、崩壊。辰真は一族を失ってなお生き延びた。

 彼はきっと誰よりも信心深かった者の一人だったのだろう。故に神奈子の名前すら消された家系図を持ち出し、一族が崩壊しても風神信仰を閉ざそうとはしなかった。そうして彼が作り上げた新たな一族が“風成“であり、その最後の継承者が吹羽なのだ。

 

 その信心深さゆえに高位の風神を氏神として得、その特別な血ゆえに吹羽はなんの準備も代償もなしに神降しを発動できる。

 時と世代を超え、こうしてこの地で再び二人が出会ったのは偶然か必然か――ただ、信奉される神と敬虔な信徒、二人がそれぞれの運命の中で幻想郷へと招かれたのを、阿求はどうしても偶然とは思えないでいた。

 

 だってそうでなければ――一人ぼっちの吹羽が、あまりにも可哀想だったから。

 

「風神信仰の始祖。そして今は唯一の血縁――吹羽さんをあなたにお願いしたいのは、それが理由です」

 

 友を預ける信頼と、それを神に願う祈りの光。その二つを瞳に乗せて、阿求はそう言葉を締めくくった。

 

 吹羽に必要なのは人との触れ合いだ。それは間違いない。しかし他人との触れ合いで得られる熱など高が知れているし、どこの馬の骨とも知れない人物にそれを頼むなど恐ろしくてとても出来ない。仮に阿求がそれをやろうとしたとしても、椛が決して許さないはずだ。

 

 その点で、神奈子の存在は最適解とも言えた。

 例え家族とは程遠くても、血の繋がりというのはどんな手段を用いても途切れない強固な縁の一つだ。そして彼女がかつて信仰していた神その人であるなら、吹羽も比較的容易に心を預けられるだろう。

 神奈子の側に関しても、己の子孫であると発覚すれば多少なりとも情は湧くはず。人の心を忘れきれない神奈子は、それを感じずにはいられないはずだ。

 

「……なるほど、ね」

 

 それだけをか細く呟くと、神奈子は吹羽から視線を落として小さく息を吐いた。

 それが理解の証でこそあれ、了承の意思であるかは実にあやふやなところであると阿求は判断する。彼女の色悪い思考部分を塗り替えるべく言葉を重ねようと口を開き――一太刀。

 

「先に言っておこうか――君の願いは、聞き入れら(・・・・・)れない(・・・)

 

 希望の増長を堰き止めるかの如く、神奈子は断固たる意志を感じさせる声音で阿求の懇願を叩き斬った。

 当然、提案を真っ向から否定された阿求は心中穏やかでは在れない。冷静沈着な彼女には珍しく驚愕と焦燥に目を見開き、唇を小さく震わせて、

 

「な、なぜですか……!?」

「第一に、始祖であり血縁だからと言って必ずしも心の傷は癒せない。関わりの薄い他人がいくら言葉をかけたところで人の傷心など治らないからね」

「ですから――いえ、だからこそ! 血縁であるあなたにのみかけられる言葉が――」

「血の繋がりなど……私にとっては己の出自を説明するための一要素でしかないよ、稗田 阿求」

「っ、」

 

 ほんの僅かな揺らぎすらも感じさせない言葉に、阿求は二の句を告げずに押し黙る。

 そんな彼女に対して、神奈子は振り抜いた刃を更に返し、

 

「第二に、信仰とは君が思っている以上に繊細なものだ。当然だね、私たち神格の力と存在意義に影響を及ぼすものなのだから。今その心を傾けている氏神に頼らず私に頼るということは、その信仰心をかけらでも私に向けることに等しい。そんなもの、誰のためにもなりはしない」

 

 信仰とは本来、人の心の支柱となるべき概念だ。人々が望み願いそう在れかしと夢見た形が神という存在である。

 級長戸辺命を信奉する吹羽が、血縁とは言え神奈子に心の拠り所を求める――それは神にとっては何より大切な、信仰心を揺るがす行為に他ならない。

 知恵を求める程度のことならば何も問題はなかった。だが阿求は、神奈子に吹羽の心の傷を癒して欲しいと求めているのだから彼女が許容できるはずもない。神奈子にとってそんな半端な信仰心など必要なく、氏神にとって大切な信徒を失うことに等しく、吹羽にとっては縋る相手への優柔不断さによって、己の信じるものを揺らがせてしまうだけだ。

 

「最後に――」

 

 淡々と続く神奈子の言葉は、三太刀目をそうして前置かれ、

 

 

 

「その優しさは自己満足(・・・・)ではないのかい、稗田 阿求?」

 

 

 

 阿求の思考回路を、真っ二つに断ち切った。

 

「――……」

 

 ざぁ、と吹いた一陣の風が、心の隙間に抜けていくような冷たさがあった。

 息を呑んで思わず止まった胸がきゅうと締まる。最後の言葉が思いの外突き刺さったことに、阿求は焦りを含んだ驚愕を覚えていた。

 自己満足? いや、そんなはずない。自分は一番に吹羽のことを考えて、だから、きっと、けど、それを。

 

 ――否定する言葉が、出てこない。

 

「あ、阿求、さん……?」

「っ!」

 

 恐る恐るといった様子の吹羽の言葉で我に帰ると、阿求はここにきて初めて神奈子へと怒りの視線を向けた。

 当然の感情だ。阿求が心から吹羽を想ってしたことを、無残に切り捨てられた挙句踏み躙られたのだから。

 阿求は吹羽の手を強く握り返し、目尻を吊り上げて神奈子を見上げた。

 

「どういう意味か、お答えいただけますね……!?」

「……怒りに支配されても、ある程度礼儀のある言葉遣いを忘れない。常に相手を見据えて動くその姿勢には素直に感心するところだが、なぜそれを他人にしか向けないのか……」

「なにを――」

「気が付かないのかい? 今君が示した全ての願いは、君の口からしか語られていない(・・・・・・・・・・・・・・)ということに」

「――ッ!」

 

 ――誰かのために何かをする、というのは字面ほど簡単なことではない。

 “親しき仲にも礼儀あり”というように、例え親しい間柄であっても礼節は尽くすべきだし、分際は弁えなければならない。当人のして欲しいことを勝手に決め付け、意見も聞かずに引っ張っていくことは果たして、礼があっただろうか。

 断じて否。神奈子は、そう言っている。

 

「(自分の気持ちに嘘はない……それは間違いない、のに……)」

 

 それは、本当に吹羽が望むことなのか? 脳内で反響したその問いに、阿求は少なくとも肯定的な思考をすることはできなかった。

 例えその通りに望んでいたとしても、阿求のやり方はその想いに則したものなのかどうか。思えば自分は吹羽の意見など一度だって聞かずに手を引き、半ば無理矢理にしてここまで連れてきた。それに吹羽は、一度でも心からの笑顔を向けてくれたか? 常に不安げな表情で、自分はそれに勝手な使命感を抱いて、空回っているだけではなかったか?

 

 そんなのは最早――独り善がりでしかないということに、気が付かないまま。

 

 阿求の空回った思考回路を、或いは神奈子は初めから読み取っていたのかもしれない。不安げな吹羽の表情に。そんな彼女の手を引く阿求の決意に満ちた表情に。訝しげな椛の雰囲気に。

 全て察した上で阿求の言葉を聞き、否定し、諭そうとするその姿はまごうことなき神格だった。縋ることを拒絶しながらも、神奈子は領分を超えて道を示してくれたのだ。

 

「さぁ、答え合わせだ」

 

 神奈子の言葉が降ってくる。湖に響き渡るようなその声音が、阿求の耳には直接脳に染み渡るような感覚がした。

 

「私の庇護を受けるかい? それとも、友人の側で養生するかい? 決めるのは君だよ、風成 吹羽」

「――……」

 

 そう告げる神奈子の瞳に阿求の姿は映っていない。阿求もまた、目を向けるべきが神奈子ではなく吹羽であると気付いて、恐々といった様子で振り返る。

 吹羽は相変わらず不安げな顔をしていた。この表情が鶖飛の件のみならず、自分の行動によってのものだったと思うと、申し訳なさで胸がいっぱいになるようだった。そして、兄と決別するという重大な決断を彼女に迫ったすぐ後にまたこうして吹羽に意思を委ねている――委ねざるを得なくなった自分に、嫌気が差してくる。

 胸の内にあるこれを形容するならば、阿求は墨汁を一滴たらしたような黒く濁った泥とそれに混ざった小さな針、と表現する。

 ただ、そう――

 

「ボク、は……」

 

 彼女を想ってくれる人達が何人もいる。その中で、親友たる自分が力になれないことが――阿求にとっては、なによりも悔しかったのだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 静寂の戻った湖に、神奈子は未だ同じ中空で座り込んでいた。

 動くのも面倒くさい――だなんて怠慢を口にするつもりはない。そもそも何事に対してもマイペースを貫く神格にとって怠惰などという概念はないのかも知れないし、確証が持てない。

 まぁ、成り上がりにはその程度のことしか分からないが……“怠惰を司る神”ならばあるいは。

 そんなことをふと考えて、一つ溜息。これもまた、呆れだとか疲れだとかによるものではなかった。話は戻って――ただ、再び瞑想に入れる状況ではなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・)のだ。

 

「――それで、何用か。風神殿」

『なに、間を見極めていただけだとも、軍神殿』

 

 そう言って目を向けた水面に、ゆらりと真っ白な毛並みが映り込んだ。風がなくとも宙に靡く毛は雄々しく、猛々しく、そして何より神々しい。切れ長な瞳には強い意思と光が宿って、その目に見つめられるだけで圧倒されるような心地にされそうだが、その背に乗る毛玉のような白い子犬がいくらか雰囲気を柔らかくしていた。

 

 白狼と白犬――級長戸辺命。

 

 ……の、化身である。

 

「化身であってもその力。相変わらずのようですな」

『君の方こそ、この世界へ逃げてきた割にはそれなりの力を保っているようだね。勇ましいことだよ』

「腐っても軍神さ。戦いを望む者は未だに多くいる、ということでしょうな」

 

 ある程度の平和が保たれたこの世界に来てまで、永遠に戦いとの縁を切れない我が身を嗤う。結局、神として崇められ始めたその時から神奈子の運命は定まっていたのだ。

 先程遠い血縁との運命的な出会い――発覚した、という意味で――をしたばかりである。本物の神格ですらこうして弄ばれる(・・・・)のだから、きっと神格の位というものには際限がないのだろうと常々思う。

 果たして自分は、どこまで神に成り切れているのだろうか――。

 

『我が依り代は、お主の目から見てはどうだった?』

「……不幸な子、といえばそれまでだが、決して恵まれない子ではない。……そう思いますな」

 

 風神の問いに、神奈子は一瞬の思考を経てそう応えた。

 客観的に見ても、吹羽は明らかに数奇な人生を送っていると言えるだろう。詳しいことは当然分からないし、漠然とした情報の断片を無理くり繋ぎ合わせた程度の認識ではあるが、言ってしまえば高位の風神がその身に降りたというだけでも何事にも代えがたい経験である。しかし、厳然たる事実として、あの歳でそうならざるを得ない状況に追い込まれた彼女はきっとこの世界では誰よりも不幸だ。

 

 ただ同時に、吹羽は周りの人間に恵まれているとも神奈子は思う。

 傷付いた自分のために空回ってくれる友人とは、当人が思っている以上にありがたい存在である。外の世界にはそんな存在に誰一人と出会えず孤独に生を全うする者すらいる、それを思えば吹羽はきっと、外の世界を含めて見ても人に恵まれた環境にいると言えるだろう。

 

 早苗に連れられてきた時の吹羽を思い出す。そして次いで、先程己の意思を告げて山を降りていった彼女を再度思い起こす。きっとこれからも大きな不幸に合い、それに友人に支えられながら立ち向かうであろう彼女。

 神奈子はそんなあの子を、愛おしい己の子孫だとようやく認められた気がした。

 

 だが、そんな時。

 

『……そんな事を訊いた訳ではないと、分かっておろうに』

 

 低く唸るような、白狼の小さな吐息が鼓膜を揺らした。

 

『君にそんな事を言われなくても、我らは依代のことよく知ってる。ずっと見守り続けてきたんだから』

『はぐらかさずとも良い。そしてお主の捉えた感覚(・・・・・・・・)は正しい。成り上がりとて、己の格を下げるような真似はするでない』

「……失礼を」

 

 僅かな叱責を含む風神の言葉に、神奈子は迂闊だったと小さく俯いた。

 そして風神の問いの意味を正しく解釈し直して、薄く目を開く。山の麓へと消えた吹羽の背を――その内側を見透かして、

 

「……違和感」

 

 ぽつりと、滴のような言葉を零す。

 

「不思議な感覚でしてな、自分では確証が持てなんだ。飛んだ非礼を」

『よい。我らもそう感じて問うたのだから』

 

 狼が低く喉を鳴らし、子犬がきゅうんと小さく声を漏らす。化身とはいえ高位の風神が、或いは不甲斐なさに落ち込むような声音にも聞こえた。

 

 違和感、といってもさして大きなものではない。というより、大きなものでないからこそ神奈子は確証が持てなかったといってもいい。

 それこそ、気が付けば服に埃が一つ乗っていた程度の違和。本当に言葉に表しようがないほど小さな、しこりのような何か。

 ただ――それが吹羽の奥深くに根付いてしまっているような気がして。

 

『君の判断は正しかったと思うよ。あんなよく分からないもの、下手に触れてなにが起こるか分からない。なにも起こらない可能性もあるとは思うけど……』

「らしくないですな。そんなことをしようとすれば真先に止めるでしょうに」

『……そうだな。依り代を失う可能性を孕む選択だけは、この身を捨ててもさせはせん』

『大切な我らの巫女だからね』

 

 風神はそう言うと、聞くべきことは聞いたとばかりに姿を空間に滲ませ、その毛並みを空気に溶かして消え去った。

 ふらりと現れてはふらりと消える。どこか諏訪子を彷彿とさせるが、真性の神とは須くそういうものなのだろう。神奈子も、人間の頃に比べれば格段に自分本位になった自覚はあった。

 

 自覚はあった、が、やはりどうにも――

 

「吹羽。我が子よ。君の内に宿る違和を……私が取り除いてやれないのは、素直に悔しく思うよ」

 

 だが、それを運命が許さないというのであれば、きっとあれは、吹羽自身が乗り越えなければならないものなのだろう、と。

 

 凪いだ青い湖面に映ったたった一つの小さな雲を、神奈子は静かに見つめていた。

 

 

 




・科戸風【しなと-かぜ】
 風の美称。罪や穢れを吹き払う風。「し」は「風」、「な」は「の」、「と(ど)」は「処」の意。

 今日のことわざ

 なし

 長かった今章もこれで終わりです。伏線回収が少し難しくて結が長引いたのが心残り……テンポ悪すぎ。まだまだ勉強が足りませんね。

 さて、この物語もようやく最終章に突入です。ここまで読んでくださった読者様方、更新は鈍亀ですが、あと少しお付き合いくださいませ。

 では、次章で。

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