……はい、もっとがんばります。
阿求にとって、家族に置いていかれるというのは未知のことだ。
”なぜ私だけ遺して”、“なぜ僕を置いていくんだ”――そういったセリフは読み物で何度も見た言い回しだし、感動的な場面であることはよく分かる。登場人物が泣き喚くその描写に心を痛めたことなどはもはや数知れない。
しかし……常に
阿求たち阿礼乙女は全員が初代 阿礼の生まれ変わりであり、代々その能力といくつかの記憶・経験を受け継いできた。だがその反動なのか、彼女らは総じて寿命が極めて短い。三十路を過ぎて息があれば長生きだと言われるほどである。
百年前後を節目として幻想郷に生まれ落ちる求聞持の御子。誕生したとて、その度に前世の知人全てを失くす彼女らは別れにこそ慣れてはいるものの、それはいつだって彼女らからの離別。何度も死に別れを経験していながら、阿求は誰よりも置いていかれる側の悲しみが分からないのだ。
況して――家族を己の手で殺めなければならなかった者の気持ちなどは、空想することもできない。
しかし、そうして苦しんでいる者がいる。そして阿求はその友である。彼女がもっと小さな時から親しくしてきた親友なのだ。
そんな彼女が苦しんでいるのならば、解決方法など思いつかなくてもいい、手を差し伸べて少しでも支えられるよう努力するべきである。その為にこの知識が役立つならば、阿求はいくらでも頭を捻り出し絞り出し、自分にできる限りの手を尽くすのだ。今までもそうしてきたように。
吐いた息のたちまち白む今日、阿求は吹羽を連れて妖怪の山へと足を運んでいた。当然二人だけでは多少の身の危険が否めないので、椛に同伴を頼んでいる。二人手を繋いで――というよりは阿求が吹羽の手を引いて歩むその後ろで、椛は言葉を挟むこともなく無表情に後をついて来ている。
握る小さな手の感触を確かめて、阿求は意を決するように手を引いた。その合図に、引かれる吹羽はゆっくりと俯いていた顔を上げる。
いつも明るく笑っている彼女の顔は、しかし夜のように暗く陰っていた。
「見てください吹羽さん。巣で小鳥たちが鳴いてます。親鳥を待っているんでしょうか」
指差した先には、葉のほとんど散った枝の付け根に作られた小さな鳥の巣。その中で、数羽の小鳥がぴよぴよと親鳥を呼んでいた。
まだ毛が柔らかいのか見るからにふわふわで、それが数羽寄り添ってまりものようになっている。甲高い鳴き声も相まってなんとも言えない可愛らしさが溢れていた。
どうにか吹羽を元気付けようと声をかけた阿求だったが、しかし当の吹羽は――。
「あはは……可愛いですね……」
透けるような愛想笑いと、消え入るような儚い言葉が返ってくる。以前までの様子は見る影もない彼女の姿に、阿求は返す言葉も思いつかず、きゅっと胸が締め付けられる思いがした。
――あの日から、吹羽はずっとこの調子だった。
輝くようだった笑顔は暗く陰り、風を感じようと空を仰いでいた視線はよく地面を向くようになってしまった。聞く限りでは、近頃はお店も開いておらず鋼を鍛える音も聞こえてこないという。偶に訪ねてみれば、迎える吹羽の目蓋の下には隈ができていることが多くなった。
誰が見ても明らかなほどに吹羽は心も体も弱り切っている。きっと魔理沙でさえ今の吹羽を見るのには勇気を要することだろう。そんな彼女の姿を――親友の姿を見るのが、阿求はどうしようもなく辛かった。
あの日、吹羽は鶖飛の凶行を食い止めた。
霊夢よりも強く、また紫に対してアドバンテージを持っていた鶖飛はまさに幻想郷そのものにとっての脅威だったとも言えよう。この世界を壊そうとしていた彼を食い止めた吹羽はまさに霊夢や魔理沙と並ぶ“英雄”と称されてもなんら偽りない。
しかし、吹羽が背負うことになった傷はそんなもので代われる物ではなかったのだ。
「(この世界を守った……そんな功績なんて、実の兄を斬った苦しみには比べるべくもない……)」
否。そうして理解した気になるのは吹羽が最も嫌う行為で、愚かなことだと阿求は知っている。阿求に分かるのはそれが酷く悲しく虚しいことで、吹羽がいつまでもそれを背負うことになってしまったということだけ。きっとそれを解消できるのは同じように家族を己の手で捨てた者だけなのだろう。だが、そんな人間はそうそうにいない。
それに、知らず知らずの内に夢架――否、夢子の隠れ蓑になってしまっていた自分がそれをできるだなんて、思うことすら烏滸がましい。
ただ、だからといって傍観するだけの知人を親友とは到底呼べない。阿求は、強くそう思ったのだ。
『一体どうするつもりなんですか、阿求さん』
すると、突然耳元に椛の問いかける声が聞こえた。流石に驚いてちらりと彼女を見ると、相変わらず無表情で後ろを着いてきている。話しかけたようには到底見えないが――その視線は真っ直ぐに阿求を指し、返答を待っているようにも思えた。
恐らく、風を使って小さな音を阿求の耳元に届けたのだろう。
音は空気の振動であり、風は空気の流れである。その特有の神通力で風を操れる天狗族、椛もその例には漏れてはいなかったということだ。
一瞬どう返答したものかと考える阿求だったが、椛が阿求に返答する術がないのを承知していないはずはない。彼女の目の良さを信じるならば、読唇術を修めていると見てもいいのかもしれない。
阿求は声を出さないように、唇だけを僅かに動かした。
『どう、とは?』
『吹羽さんをこの山に連れ出して、何をするつもりなんですか。状況は分かっているのでしょう?』
『……勿論。だからこそ、ですよ』
なるほど。椛が微妙に不機嫌に見えるのは、吹羽を連れ出した阿求の行動に納得がいっていないかららしい。
阿求は吹羽が鶖飛を斬った瞬間を見ていない。その点、椛はあの天変地異の最中にいて、決着を見届けた一人である。
吹羽のことだ、幾ら覚悟を決めたといっても、斬った直後は恐らく少なからずの弱音を吐いたはずだ。それを直に聞いた椛は、彼女の傷を想ってそっとしておくのが一番だと考えているのだろう。
確かにそれも一つの手である。傷心に不用意に触れるのはただの愚策だと阿求も思う。しかし今の吹羽には、きっとそれこそが悪手だと阿求は考えていた。
『そっとしておいていいのは、自分で整理がつけられる人です。悩んで、考え込んで、自分で全て背負おうとする人を放って置いてはいけません。……特に、吹羽さんのような子は』
無理をして、抱え込もうとして、吹羽はあるとき阿求や霊夢にすら弱音を吐かなくなった。泣く姿どころか、二人の前ではいつだって
吹羽という少女は、手を差し伸べられない限り自分から人の手を取ろうとはしないし、全ての物事を自分でなんとかしようとする。彼女は元々そういう性格である。そんな人間を傷心のまま放っておいては、きっと近い内に壊れてしまうだろう。
だから阿求はここにきた。少しでも吹羽の心を癒すために、軽くするために。仮に治すことはできなくとも、傷口を優しく撫でてあげることくらいはできる。その為の要素が、ここにはあるのだ。
『心配は無用ですよ。私もあなたと同じ、吹羽さんを大切に思う友人の一人です。この機会を無碍にはしません』
『……分かり、ました』
不安感の拭えない椛の返答に、阿求は小さく頷いた。
吹羽のことをこんなにも心配してくれる椛の気持ちは阿求にも嬉しいものだったが、ここは任せて欲しいと心の中で彼女に告げる。するとそれが届いたのかどうか、椛は阿求を見返して同じように頷いた。
「(手立てはある……今の吹羽さんに必要なのは、人との触れ合いだから)」
罪は消えない。幾ら世界の危機を救ったからと言って、兄を殺めた事実はいつまでも厳然として吹羽の前に立ち塞がり、あるいはその小さな体を押しつぶすだろう。それはこれから先の未来で、吹羽が永遠に背負わなければならないものだ。
吹羽はその全てを一人で背負おうとするだろう。誰の手も借りず、自分でなんとかしなければと。
もちろん最終的に落とし所を見つけるのは吹羽自身だ。しかし阿求は、その
そしてその為には、きっと
「さぁ、着きましたよ吹羽さん」
「……も、守谷神社?」
そう吹羽が呟いたその瞬間、一陣の風が吹き抜けた。
緑色のか細い線を空に残し、真白い袖がはらりと舞う。視界の端に一瞬だけ映ったその光景に、阿求は“予想通り”と頰を緩めた。
「いらっしゃいませ吹羽ちゃんっ! ご注文はお茶ですか? 御参りですか? それとも……わ・た・し?」
瞬時に背後から吹羽に抱き付いた少女――東風谷 早苗は、満面の笑みでそう言った。
◇
初めてできた人間の友人――それが椛にとっての吹羽である。
妖怪の山社会の下っ端も下っ端、哨戒を担う白狼天狗として椛は長年侵入者の前に立ち塞がってきた。この山を侵す者は須らく悪であり、故意に侵入してきた者には首を跳ねて歓迎し――当然ながら、人間に対する評価など語るべくもない。
それが覆ったのは、初めて霊夢と出会った時だった。
逆立ちしたって敵わない――生粋の人間を相手に初めてそう思った。
高め続けた力も、磨き続けた剣術も、洗練し続けた体術も。その長い寿命を費やして積み重ねてきた椛の全てが、たった十数年しか生きていない人間の少女になす術なく打ち砕かれたのだ。それは椛にとって凄まじく衝撃的であり、また溢れ出すかのような
そしてその時の、容易に椛を圧倒した霊夢の顔はいつまでも忘れられなくなった。それは驚愕であり、恐怖であり――どうしようもなく、羨望だった。
それからである。椛が風成一族に興味を持ったのは。
椛は霊夢に真っ向から価値観を覆された。人間は決して下等生物などではなく、少なくとも自分程度の妖怪ならば簡単に超えられる能力を秘めているのだと。そんな彼女に、かつて共に平和な時代を築いていたと伝わる人間の一族がいたなどと伝われば、格好の興味の的になるに決まっていた。
身体的能力も、積み重ねた経験も、何もかもが文字通り人間のそれを遥かに凌駕する天狗族。況して当時で言えば、領域を侵すことを同族にさえ恐れられた天下の妖怪。そんな存在と対等に肩を並べ、言葉を交わし、剰え生活を共にしてみせた人間たち――それは一体どんな者らで、彼らの何がそうさせたのか。
人柄だったのか。能力だったのか。智恵だったのか。はたまた媚び諂っていただけで内心では恐怖していたのか。
可能性は数多あり、想像に天井などなかった。そもそもが遥か昔に断裂した一族、再び二族が繋がることなどまさに夢物語
しかし、その夢物語には想像などいくらでも詰め込める。期待なんて幾らでも重ねられる。
そうして椛は――吹羽に出会った。
吹羽に対する早苗の反応具合といったら、それはもう一度目にすれば焼き付いてしまうというほどのもので、事実椛は、二人が一緒に行動しているのを見たときのことを今でもよく思い出せる。
あの時は椛と合流する前に何やら二人で揉めていたらしく、吹羽は珍しく眉を釣り上げて今にも死に果ててしまいそうな早苗に非常に刺々しい態度で接していた。
今思えば珍しい吹羽を見せてくれたと一抹の感謝を捧げてもいい気がしなくもないが、それをしたらなんだか
なんだかんだ言って椛も早苗とは友達だと言えなくはない仲であり、しかし前提として、吹羽を間に繋がった縁なのだ。
――と、当時のことを思い出してみるが、あの時の早苗がどれだけセーブされていた状態だったのかを今更ながらに痛感する。
三人が通されたのは、吹羽がかつて二柱の神に己が家の神話を語って聞かせた居間だった。簡素なちゃぶ台を炬燵もどきに改造したそれを中心にやや広めに畳が敷かれており、そのちゃぶ台の下には多少毛の長い敷布団のようなものが広げられていた。
それを四人で囲う。案内役でしかない椛は部屋の隅で待機していようとしたが、悲しそうな吹羽の視線を向けられ、渋々と炬燵もどきに足を突っ込んだのだった。
そして、件の早苗と言えば。
「ほら吹羽ちゃん、遠慮なく召し上がってください! 吹羽ちゃんの好きな鯛焼きですよ!」
机の上には大皿山盛りに鯛焼きを積み上げ――
「喉は乾いていませんか? お茶ならいくらでもお出ししますからねっ!」
お茶がなくなれば間髪入れずに注ぎ直し――
「そうだ吹羽ちゃん、また花札をしましょう! この間里に降りて買ってきたんですぅ!」
吹羽が一息つけば共に楽しもうとどこからか玩具を引っ張り出しては大はしゃぎしていた。
吹羽のお腹をたぷたぷにする気かとかわざわざこのために買ってきたのかとか、あるいは一体どうやって吹羽の好物など知り得たんだとか様々な疑問点が思い浮かんだが、この勢いの中に口を挟むのも至難だと投げ捨てておく。
椛は無表情のまま僅かに目蓋を落として一息溢すと、隣に座る阿求に水を向けた。
「本当にこんなもので、吹羽さんが元気になるのでしょうか」
「ぁ、と……わ、私もここまでとは思いもよらずと言いますか、早苗さんを幾分か甘く見過ぎていたと言いますか……」
口の端のひくついた不格好な笑顔で阿求が答える。彼女を疑うわけではないが、予測も出来なかったのに
――否、阿求がそのような行尸走肉な人間でないことは椛も知っている。この場合は、その阿求の予想すらも超えてきた早苗にこそ驚愕を示すべきだろう。限りなく呆れに近いそれではあるが。
とはいえそれで吹羽が嫌がっているのならば話は早かったのだが、案外彼女も満更ではなさそうで。
やはり心からの笑顔とはいえないものの、早苗の過剰過ぎる接し方およびスキンシップに若干頬が緩んでいるのを千里眼はばっちりと捉えていた。
椛は自分にできることを自覚している。自分は吹羽を武力で守ることができるが、友人として元気付けてあげることは中々難しい。その点、それを素でやってのける早苗には多少の嫉妬と羨望を感じてしまう。
僅かに込み上げてくる悔しさを受け入れて、しかし椛は二人に割り込もうとはしなかった。今吹羽に必要なのは、自分ではなく早苗の方だろうから。
「“手四・牡丹”! 上がりですぅ!」
「さ、早苗さん、また能力使ってますね? ボクさっきから一枚も札出してないんですけど……」
「そういうこともありますよ吹羽ちゃん! 私、勝負事に手を抜かない性格なので!」
「早苗さんがそれを言うと本気度が違いますね……」
相変わらずきらきらな眼の早苗に苦く笑う吹羽。語調に覇気は感じられないが、その儚い笑顔にはどこか以前の、そそっかしい早苗を仕方なさそうに見守るような雰囲気が僅かに垣間見えた。
それを見て、椛はほっと息を吐く。阿求の考えには不安ばかりが頭の中で主張を強めていたが、案外無駄ではないらしい。
人は人から元気をもらうこともある。早苗の底なしに明るい性格が、絶望の淵にいる吹羽に活力を注いでいるのだ。それが例え僅かな量なのだとしても、それは椛にはできないことである。
ここは下手に出しゃばらず、見守ることに徹しよう。早苗に頼るのは微妙に遺憾だけれども。
椛はちょっぴり片付かない気持ちを仕舞い込んで、流し込むように冷めたお茶を啜った。
――とはいえ、だ。
「あ、お茶が終わってしまいましたね。新しいものを淹れてきます。ちょっと待っていてくださいね!」
「ぁ、それならボクもお手伝いに――」
「いえ、私が行きますよ吹羽さん。阿求さんと一緒にくつろいでいてください」
そう制して、椛は四人分の湯飲みをさっさとお盆に乗せて早苗の後を追う。その途中、ふとに視線を彷徨わせると、所々に埃だまり――と言っても本当に小さな――が見えた。守谷神社は全体的に管理の行き届いている場所だと椛は認識しているし事実そうだが、どうやら今日は若干清掃が甘いようだった。
台所に着くと、ちょうど茶葉を取り出している早苗の姿が。椛は無言で近寄り、彼女の近くにお盆を置く。
「あ、わざわざありがとうございます。お客様なのに」
「いえ、これくらいはしますよ。私はただの安泰役ですし」
「あはは! その言い草、実に椛さんらしいですね!」
早く持っていってあげないと。
そう言ってお盆を持って振り返ると――早苗は足を縺れさせてよろめいた。
あ、と声を出すより、手が出る方が早かった。椛はお盆に乗せた湯飲みが傾く前に早苗の背後から腕を回し、腹部を抱え込む形でよろめく彼女を支える。そしてお盆も早苗の代わりに持ち上げて、お茶が飛び散るのもついでに防いだ。
腕にも早苗の激しい鼓動が伝わってくる。彼女も相当に焦ったらしい。
「――ッ、あ、ありがとうございます椛さん……」
「気を付けてください。熱いお茶を持っているんですから」
と、腹部に回した手を解く椛。危うく熱湯をかぶってしまうところを救われ、早苗は冷や汗と恥ずかしさに頬を赤くした。
軽い礼を言って早苗はお盆を受け取ると、そそくさと再び歩き出そうとするが――椛はその背を、敢えて呼び止めた。
「早苗さん」
「は、はい?」
「………………」
「な、なんですか? あまり見つめられると恥ずかしいんですけど……」
吹羽にも似た若葉色の瞳に困惑が浮かぶ。それが本当に見つめられた羞恥を原因とするものだったのなら椛は何も言わなかったのだが……残念ながら、そうではないらしい。
早苗の感情を読み取るべく発動していた千里眼を解いて、椛は小さく息を吐いた。
「な、なんですかそのため息!? 転びそうになったのそんなに哀れだったでしょうか!?」
「……早苗さん」
「それとも椛さんの中では私はそこまでの残念キャラだったんですか!? 哀れというか呆れというか、まさか私……諦められてる……ッ!?」
「早苗さん」
「流石にそれは心外ですよっ。ええ心外ですとも! これでも半分神様な現人神JK! もふもふ狼天狗さんに諦められてはモフリストの名が――」
「早苗さん!」
「っ、……」
矢継ぎ早な早苗の言葉を断ち切って、椛は早苗にずいと近寄る。相変わらずの素っ頓狂なテンションだったにも関わらず、早苗の困惑した瞳の中には明らかに狼狽が見て取れた。
何に狼狽しているのか――大方の予想が付いている椛は、故にこそ言わねばならない。共に吹羽を案じる、友として。
「……あなたが無理をしても、吹羽さんはきっと喜びませんよ」
「――ッ!」
びくりと体を震わせて、早苗は一歩後ずさった。その拍子にお盆が揺れてお茶が僅かに溢れるが、二人ともそれを大して気にはしなかった。
早苗の口の端が、不格好に上がる。
「あ、あはは、何言ってるんですか椛さん? 私が無理なんてする人間に見えますか? 自分で言ってはなんですが、こう見えて私、自分の欲望には結構素直なんですよ?」
「見えませんし、知ってますよ。あなたは無理して自分を押さえ込もうとはしない……悪くいえば非常に厚かましい性格をしています」
「なんでわざわざ悪い方を言うんです!?」
早苗の嘆きは聞き流して、
「訳が分からないくらいに天然で、湧き水よりも純粋で、そのくせ嵐のように他人を巻き込んでは場をかき乱す。何度面倒な人だと思ったかはもう数えていませんよ、ええ」
「も、椛さんの中でどれだけ私が酷い印象なのかはひしひし伝わってきますよ、はい……」
いよいよ暗い影を背負い始めた早苗を見る椛の瞳は、しかしさしたる悪感情は宿っていない。事実、椛の中では彼女の印象こそ“めちゃくちゃに面倒くさいことをする人”でコンクリートのように固まってしまっているが、それが悪感情に繋がるかと言えばまた別の話だからだ。
なにせ椛は知っている。彼女がそういう性格で、しかしだからこそ人を思いやる気持ちにも際限がない。それこそ、吹羽を“我が儘”で救った椛に、吹羽のために感謝をするほど。
故に。
「焦っているんでしょう? 自分が吹羽さんにしてあげられることが、とても少ないことに気が付いて」
――友人というのは、とても中途半端な関係だと椛は思っている。
他人よりは遥かに近くて、家族よりは遥かに遠い。当人にとってどうでも良くはないが、比較的容易に切り捨てられる……それが友人という関係性の
友人が友人にしてあげられることは少なくはない。だが、親友がしてあげられることに比べれば天と地の差であり、言葉の重みも変わってくる。
早苗は今まさに、自分が吹羽の
「吹羽さんに起こったこと、どのように知ったんですか?」
「…………諏訪子さまから、ことの仔細を伺いました。あの日、強大な神力の発現に気が付いて、ミシャグジ様を放っていたんです。……それを通して」
「なるほど」
風成家の氏神――級長戸辺命は国産みの二柱から生まれた高位の神格。その強大な神力は、吹羽が真の終階を発動した際に幻想郷中に響いていたはずだ。同じく神である洩矢 諏訪子が反応しない訳はない。
激しい戦闘の中で気がつかれない程度の小さなミシャグジ様を通して、彼女はことの経緯を見ていたのだろう。そしてそれが、そのまま早苗に伝わった。
「椛さんは……あの時あの場に、いたんですよね……どう、だったんですか……?」
曖昧過ぎるその問いに、椛はしばし黙り込む。
きっと早苗自身にも、自分が何を問いたいのかは分かっていないだろう。問いたいことが多過ぎて何から問えばいいのか分からないが、とにかく問わずにはいられない――行動せずにはいられない。
そうした、焦燥感を動力とした行動に椛自身も心当たりがあるのだ。
だから――今度は自分の番だ。あの時の萃香のように。
「必死でしたよ。私も霊夢さんも、萃香様だって。少しでも吹羽さんの力になりたくて、助けてあげたくて……その一心で、私は刀を振るっていました」
「っ……吹羽ちゃんを……守るために……」
吹羽のために力を振り絞った。
その言葉に、早苗が胸を針で刺されたようにたじろいだのを椛は見逃さなかった。
眉は垂れ、唇は震えるのを我慢するように引き結ばれている。前髪に陰った瞳からは、いつ涙が溢れ出すのかも分からなかった。
堪えるようなその表情の内にあるのは、きっと……無力感だ。
「……私は、吹羽さんを大切に思っています」
唐突な切り出しに、早苗はゆっくりと視線をあげる。椛はその視線を敢えて切って、目を閉じて、心の内をありのまま曝け出すようにして言葉を紡ぐ。
「昔から、風成という姓の人間に興味を持っていました。天狗は妖怪社会を担う一翼、誰もが恐れ慄く我々のその隣に……肩を並べていた人間たちがいた――」
霊夢によって覆された人間に対する評価。それを真っ直ぐに刺激したのが、風成という人間の存在だった。
「わくわくしました。霊夢さんのように種を超越したような人間が、大昔は自分たちの近くにいただなんて。それも共存していたんですよ? 天狗と人間が。それがどんな人たちで、どんな力を持っていて、どうしてそうなるに至ったのか……興味が尽きませんでした」
そして、そうした下地と年月を積み重ねて遂に風成の末子、吹羽と出会った。
あの時の言いようのない歓喜を椛は忘れられない。それは生き別れになった姉妹と再会するようでもあって、あるいは恋焦がれた恋人とようやく会えたかのような感動にも近くて。
風紋刀を見せられて、それが間違いなく本物だと確信したときの、溢れ出すあの気持ちの抑えようのなさといったら。
きっと尻尾は無意識にぶんぶんと振るえていて、鉄面皮並みに動かないこの顔もふにゃりと笑っていただろう。心変わりが早過ぎて若干吹羽にも不思議に思われていたかも分からない。それらを思うと、今では少し小っ恥ずかしくもあるが。
「吹羽さんと接して、その時間こそとても少なくはありましたが……その内に私の興味は“風成”から吹羽さん自身へと移って行きました。あんなに健気で、優しくて、儚くて……心の強い人間は、そうはいません」
きっと吹羽にも、霊夢と同じような人を惹きつける力がある。それが何かは分からないし理解する必要もないが、それよりも重要なのは椛も彼女に魅せられた者の一人だということ。
友として、吹羽を好ましく思っているということ。
「友人でありたいと……そう思ったんです。ようやく繋がったこの不思議な縁を、簡単に切りたくはないと。切れない努力をしたいと。そうして何かしていないと……どこか遠くに行ってしまうような気がしたんです」
「どこか、とおく……」
虚に響いたその声に、椛はようやく早苗へと目を戻した。
彼女の視線は再び地に沈み、もはや目元は影で見えなくなっている。その震える双肩が、彼女の心の内を如実に表していた。
「(そう……まさに今回のことは、吹羽さんが私たちの前からいなくなってしまう、その瀬戸際だった)」
吹羽が鶖飛について行ったとしても、自分たちが殺されていたとしても、吹羽が鶖飛に打ち勝たない限り待ち受けている未来は決まっていた。そしてそれは、早苗が自分の無力を痛感するのに十分過ぎる出来事だったはずだ。
事件そのものにも蚊帳の外で、吹羽を助けに参上することもできず、それを知ったのさえ全てが終わったあと。友を自称する者としては、これ以上に耐えがたいものはないだろう。
だからきっと、焦っていたのだ。自分にできることが思っていたよりもずっとずっと少なくて、それでも友として一緒にいたいから、早苗はいつもよりもハイテンションに接しようとしている。その内側にある無力感や劣等感をひた隠しにして、無理矢理に笑顔を作って、せめて吹羽を元気付けようと躍起になっているのだ。
それを否定したいわけではない。努力のできる者を椛は敬うし、貴いとも思う。早苗がやろうとしていることは紛れもなく、現状を打破しようという努力に類するものだ。
だが……それらは目的を持たなければただの独り善がりでしかなく、ともすれば迷惑にさえなってしまう。それを椛は、萃香にぶん殴られて教えられた。
「早苗さん、あなたの気持ちが真なるものなのは百も承知です。あなたは純粋で無鉄砲で愚かしく、だからこそ嘘を吐けない。あなたがやろうとしていることは間違い無く善意でしょう。ですが――それは、本当に吹羽さんのためですか?」
善意とは他人には判断できない。普通の人間は心の内など見透かせないからだ。
早苗のそれは、本当に吹羽のためにやっていることなのか? そう言葉で塗り固めているだけで、それをたった一枚剥がせば“とりあえずためになりそうなことをやっているだけの自己満足”ではないのか?
あの時の自分の姿がフラッシュバックする。
何ができるかも分からずに森を駆けていたあの時の自分は、ひょっとしたら文の、吹羽の、霊夢の――あるいはそれ以外の誰かの想いや心を踏みにじっていたかも分からない。
意思というものの大切さをよく知っている萃香に叩き直されなければ、今の自分はないのだ。
早苗の無理矢理な吹羽との接し方には違和感があり過ぎた。ただでさえ過剰な彼女の調子がことさらに外れているように見えたのだ。あれはきっと、何もできない自分を行動で否定しようと必死になっているだけだ。そんな自分勝手な考え方で、自分の大切な友人と関わらせるなんて言語道断――椛は、そう思った。
「私は吹羽さんの友であり、剣です。吹羽さんが苦難に向かうというならその隣で力になる。脅威があるなら打ち払う。吹羽さんが平和に暮らせるように……私たちが平和に友でいられるように」
そのために刀を振るう――と。それが椛が自分に定めた友としての在り方。
奇妙で数奇な星のもとに生まれた吹羽。そんな彼女と友でありたいと願うなら、自分にできるのはきっとこういうことしかない。
そして早苗も、そうありたいと願う同士であるなら。
「早苗さん。あなたは友のために何ができますか? 何をしたいですか?」
ゆらりと揺れる早苗の瞳を椛は真っ直ぐに視線で射抜く。この問いから逃げさせはしないと縫いとめるように。
「私に、できること……したい、こと」
これは早苗のためでもあり、何より吹羽のためである。誰だってなぁなぁで済ませられる友人関係になど望んで留まりたいわけがないし、その程度の想いなら吹羽にとっては必要ないとすら椛は思うのだ。
ここが争いのない真に平和な世界ならそれでもいい。でも現実はそうではない。“幻想郷はすべてを受け入れる”とはかの賢者の口癖のようなものだが、その実この世界は、適当を許すほど優しくはないのだ。
「――まぁ、それをこの場で見つけろとは言いませんよ。考えて見つかるものでもないでしょうし」
「そ、それなら、どうやって見つけるんです……?」
「見つかるべくして見つかる……と、私は思います。探し続ける限りは、ですが」
椛は萃香との戦闘の最中に見つけた。だが当然のこととして、必ずしもその中に見つけられる訳ではないだろう。ただ
だがそれは探し続けていなければ見つけられない。答えを答えとして認識できない。いつ見つかるかも分からないそれには、きっと早苗が吹羽と友でありたいと願う気持ちの強さが、大きく影響してくるはずだ。
吹羽を縁に繋がった仲――しかし確実に
椛が早苗に願うのは、それだけだ。
「さて、無駄話をしてしまいました。二人が待っています、早く戻りましょう」
「……はい」
椛が話は終わったとばかりに背を向けて歩き出すと、早苗は僅かに俯きながらその後に続く。途中は物静かなものだったが、居間が近くなると早苗はいつの間にか笑顔を取り戻していた。
――否、今はきっと仮面だろう。答え云々はこちらの問題で、苦悩に悶えた表情で吹羽を不安がらせることの方がよろしくない。それが分からない彼女ではなかったらしい。
居間に戻ると、縁側の方に腰掛けて空を仰ぐ阿求の後ろ姿があった。吹羽はその膝の上に頭を乗せて、ゆっくりと胸を上下させている。
入ってきた二人に気が付いて、阿求はちらりとこちらに振り向いた。
「あ、おかえりなさいお二人とも。少し長かったですね?」
「すみません、早苗さんが急にお花を摘みたいと言い出したもので、待っていました。本当に間の悪い人です」
「ぇ、あっ、間の悪さは私のせいじゃなくないですか!?」
「しっ、吹羽さんが起きてしまいます。お静かに」
「解せないです……っ!」
椛の咄嗟の誤魔化しと平常を感じる早苗の返しに、阿求はころころと小さな笑い声をこぼした。それが“理解して”のことなのかは椛には分からなかったが。
「二人の仲がよろしいようで、少し安心しました。吹羽さんが起きていたら、きっと笑ってくれたと思います」
目尻に溜まった涙を指で掬い、阿求はそっと膝で眠る吹羽の髪を撫でた。
細く柔らかい白髪が頬の上で揺れる。そうして覗いた横顔は安心しきっていて、いっそ無防備すぎるとさえ思えた。
ただ、始終暗い影を落としていた彼女の表情に一時でも安らぎが見られることに多少の安堵が溢れる。同時にそれが儚すぎるようにも思えて、椛は僅かに目を細めた。
安らかなこの表情が、今にも苦痛に歪んでしまいそうにも思えて、静かに拳を固く握る。
椛は、この少女の剣である。
「さて、ひと段落したところで」
「?」
阿求はそう溢すと、吹羽の頭を座布団に置き直して正座のまま二人の方に向き直った。
いや、二人のというよりは、早苗の方へと視線をも向けて――ここに訪れた、その目的そのものを口にする。
そう、此度の二人は椛に会うためでも、況して早苗に元気をもらうためでもなく、
「早苗さん」
――八坂 神奈子様に、御目通り願います。
かの軍神――否、
今回のことわざ
なし
最近吹羽ちゃんが元気ないのでことわざ言ってもらうタイミングが……。天丼ネタにしたくてこうしてたのに、もしかしてもはや意味無し……?