風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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 お待たせしました! これから先は時間いっぱい取れるので、頑張って完結まで書いていきます!


第五十三話 陰の蜘蛛糸

 

 

 

 

 雨上がりの湿った空気が頬を掠めていく。木の葉に乗っていた虫や雫を弾き飛ばしながら、魔理沙は全速力で箒を飛ばしていた。

 真夜中の森を照らす月にはもはや一つの雲もかかってはいない。煌めく金色の髪を靡かせながら、月光の照らす森の中を一条の星が駆けていく。

 

「ちっ、紫のやろーめ。去り際さえ抜け目ねぇとは……おかげで出遅れちまった……!」

 

 時折当たりそうになる雫を手で払いながら、魔理沙は誰に言うでもなく悪態付いた。

 それもそのはず。彼女はつい先刻まで紫の置き土産(スキマの回廊)によって足止めを食らっていたのだ。どういう訳だか、凄まじい衝撃が迸ったのと同時にスキマが解除されたので、魔理沙はこれは好都合とばかりに箒を飛ばしたのだ。

 なぜ、とは問うまい。魔理沙が閉じ込められていたのはまさに紫の言葉通りの理由――あの場に居合わせるには、不相応だから。

 

 萃香は強い。霊夢も強い。椛は紫に認められた。そして吹羽には、行かなければならない理由があった。

 魔理沙だって分かっているのだ。自分が行っても役には立たないこと、況して手負いでは本当に死体が増えるだけだろうことも。紫の言葉は全て的確で、無情なまでに真実だ。

 

 しかし、そんな理屈で片付けられる性根を持っていたなら、はなから魔理沙はここにいない。

 

「急げ……霊夢が、吹羽が戦ってんだ……ッ!」

 

 魔理沙は情に厚い少女である。

 泥棒こそ働くし、都合が悪くなるといくらでも屁理屈を並べる捻くれ者ではあるものの、基本的に友人思いの“いい奴”である。友人が困っていれば――できるかどうかは別として――助けようとは思うし、適度なライバル心を秘めて切磋琢磨し合うこともできるのだ。

 

 今、魔理沙が友人と認める二人が、死と隣り合わせの戦闘の中にいる。そのような状況で魔理沙が黙っているはずはなかった。そしてそれを阻む紫に容赦ない悪態が出てしまうのもまた、自明の理と言えよう。

 それに――

 

「(デカい魔力が消えた……だが、すぐ後に現れた()かデカい魔力(・・・・・・)……こんなのは普通じゃない……!)」

 

 見据えた森の先からビリビリと感じる強大な魔力。その存在に、魔理沙は何よりも焦りを感じていた。

 始めに消えた魔力は言わずもがな、鶖飛のものだ。恐らく吹羽たちは鶖飛との戦闘にはなんとか勝利したのだろう。あとは誰も欠けて(・・・)いないことを祈るしかない。

 問題なのは、後から現れた魔力。

 

「鶖飛よりも強い……あいつらに相手できる訳がねぇ……!」

 

 あろうことか、現れた魔力は鶖飛を凌駕するものだった。

 鶖飛にさえ一度負けているのにそんな化け物など相手にすれば、待っている結末は想像に難くない。

 そもそもこれほど強大な魔力の持ち主が、今までどうやって隠れ仰せていたのか(・・・・・・・・・・・・・・)が疑問である。未知の術、あるいは能力を持っている可能性は限りなく高いだろう。

 

 自分が行っても足手纏いかも知れない。鶖飛にさえ歯が立たなかった魔理沙が更に強大な相手に挑んだとて、焼け石に水にしかならないかも知れない。

 一縷の希望は幻想郷最強の妖怪、八雲 紫があの場にいることだが、何を考えているのかも分からない彼女を信頼する道理は魔理沙にはなかった。

 

 十中八九、無駄。徒労。不必要な犠牲。

 だが、魔理沙は行くのだ。何故なら友が戦っているから。

 

「わたし抜きで……盛り上がってんじゃねぇぞ――!」

 

 字面に似合わぬ険しい表情。頬を伝った冷たい汗を置き去りにして、魔理沙は更に速くと箒を駆った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 端的に言って、今の吹羽にまともな思考能力などなかった。

 みんなのためと自分を説き伏せ、割り切れない想いを押さえつけて迎えた実の兄との決着。勝利に対する歓喜などほんの一欠片すらないそれに続いた、全くのイレギュラー。そんなものを受け入れる余裕などあるはずもなく、吹羽は涙を浮かべたまま夢架を見上げていた。

 

 なぜ夢架が現れたのか。なぜ別人のような振る舞いをするのか――なぜこれほど強大な魔力を持っているのか。

 目の前に現れた明確な“危険因子”にも関わらず、心の弱った吹羽はその危機を感じ取ることすらできなくなっていた。

 

 呆けた表情をこぼす吹羽に、夢架は艶やかな笑みを浮かべたままふわりと近付く。そしてそのたおやかな指が吹羽の頰に触れる――その瞬間だった。

 

「その子に――」

「触るなッ!!」

 

 瞬時に発動した二種類の弾幕が、構えもしていない夢架に殺到する。それは弾幕勝負用に調整されたものでもなんでもなく、それこそ鶖飛に向けたもの以上の凄まじい威力を秘めた弾丸の嵐だった。

 しかし夢架は微笑みを崩さずに後退して避ける。そして弾幕の主である霊夢と紫が、吹羽を守るように前に出た。

 

「ふふっ、随分なご挨拶ね。私まだなぁんにもしてないのに〜」

「そんだけ魔力ダダ漏れにしてよく言うわ! 今更何しに来たの……!?」

 

 変わらずふわふわとした物言いの夢架に、霊夢は警戒を露わに睨み付ける。

 吹羽の願いによって全快した霊夢の気迫に空気がぴりぴりとひりついていくが、対する夢架はどこ吹く風だった。これだけの実力者を前にして崩さないその態度は、そのまま夢架の余裕の表れのよう。それが彼女に対する違和感に更なる拍車をかけるのだ。

 真っ白な頭の中に浮かぶのは、一体なにがどうなっている? と、ただその一言のみだった。

 

「だって魔力を抑えるのなんてやったことないんだもの。仕方ないじゃない? それに“今更”って、私これでもちゃぁんとタイミングを計って――」

「何しに来たんだって訊いてんのよ! 夢子(・・)ッ!」

「ぇ……ゆめ、こ……?」

 

 鬼気迫る霊夢の怒号に、夢架――否、夢子と呼ばれた少女はその笑みを深くした。

 

 彼女はおもむろに人差し指をぴっとあげると、くるりと一つ回した。するとその軌跡がキラキラとした光を帯びてふわりと広がり、彼女の体全体を包み込むと――姿が、一変する。

 

 茶髪は完全なる金髪へ。清楚な着物は空気に溶け込むように色を薄くし、代わりに現れたのは赤と白のエプロンドレス。

 可憐さはそのままに色気と艶やかさを一雫落としたような、着物とは違う給仕(メイド)服。呆然とする吹羽の視線に、少女は寒気のするほど鮮やかな微笑みを返した。

 

「うふふ、魔力が漏れるとやっぱり分かっちゃうのね。まぁ、もういいんだけど♪」

「夢架、さん……? なんで……え? どういう――」

「ノンノン、吹羽ちゃん♪ さっき霊夢が言ったでしょ? 私は夢子。ほんとは夢架なんて子は存在しないのでしたぁ〜♪」

 

 おぞましい魔力さえなければ誰もが見惚れるであろう笑顔を前にして、しかし吹羽は背筋が薄ら寒くなる気配を感じた。

 目の前にいるのは夢子で、向けられているのも間違いなく彼女の笑顔なのに、その姿の向こう側に悍ましくて強大な何かが幻視出来てしまうのだ。

 会ったことも見たこともない何か。夢子の姿を誰かに重ねているわけでもないのに感ぜられる。それは、それぞれが持つ雰囲気や空気感――“個”が必ずある人間としては、明らかに破綻しているように思えた。

 

 と、そこに氷のような紫の声。

 

「なるほど、風成 鶖飛を導いたのはあなた……いえ、あの一柱(・・・・)ですわね。魔力が分からなかったのは、彼女が分からないようにしていたから……さしずめ“神の加護”というところかしら」

「御名答♪ 流石に世界の創造主。私が現れただけでそこまで分かっちゃうかぁ」

 

 ふんふわと浮くような問答の仕方に、僅かに紫の眉が動いた。夢子はそれを見てくすくすと笑う。まるでこちらの反応を弄んでいるかのようだ。

 そしてまた何事か言葉を紡ごうとしたその刹那――豪速の弾丸が夢子の頰を掠めた。

 

「――おっとっと、危ない危ない。せっかちだねぇ霊夢」

「さっきからだらだらと! あたしの質問に答えなさいッ!」

 

 まるで緊張感のない夢子の問答に痺れを切らしたのか、霊夢は神速で距離を詰めて大幣を振りかぶった。

 全快し、彼女自身の力を最大限に発揮したその一連の動作はまさに直撃必至。滅魔の霊力が夢子の脳天に振り下ろされる。

 

 しかし、弾けた蒼き霊力の衝撃は、夢子の髪をさらりと揺らすのみだった。

 霊夢の視界に魔力の糸がきらりと映る。夢子の正面に蜘蛛の巣のように張り巡らされたそれ――“刺繍(エンブリム)”は、霊夢の絶技をいとも容易く受け止めていた。

 

「ッ!」

「バカだなぁ。真っ正面からの攻撃なんて喰らうわけないじゃない」

 

 嘲りを含んだ夢子の言葉を聞き流し、霊夢は即座に距離を取るべく後退する。夢子はそれに何の対応も見せないと思いきや――彼女の魔力は、既に蠢いていた。

 

「“縫合(スーチェ)”」

 

 いつのまにか繋がれていた強靭な魔力の糸。霊夢と夢子の体を繋いだそれは、霊夢の即座の後退を許さなかった。

 くん、と霊夢の体が止まると、収縮するようにして急速に引っ張られる。夢子が瞬時に抜刀した剣の冷ややかな銀光に、霊夢は珍しくも戦慄した。

 

「っ、――ッ!」

「危ない、って言った意味わかってる?」

 

 剣が銀線を描き――霊夢の細首を薙ぐ。

 

「危うく、反撃して殺しそうになったってこと♪」

 

 ボッ、と炸裂を思わせる音が響いて夢子の腕は振り抜かれた。音すら切り裂いて放たれた鋭過ぎる斬撃は、吹羽の目にすら捉えることは難しく、霊夢の首を無慈悲に切り飛ばした――と、思いきや。

 

「……あら?」

 

 夢子が振り抜いた腕から伸びた剣に、刀身はなく。その視界の端には、大口を開けたように開いた“スキマ”が見えていた。

 妖怪の賢者 八雲 紫の能力。

 彼女の介入によって九死に一生を得た霊夢は瞬時に結界を展開。霊術に長ける彼女の結界は夢子の糸を断ち切り、それを足場にすることで夢子の間合いから離脱する。

 吹羽たちの元に戻った霊夢の額には、冷たい汗が流れていた。

 

「仕留め損ねちゃった。今のが見えてたなんて、さすがは賢者ね♪」

「御託は結構。飛び出した霊夢も霊夢だけれど……言い分には賛同しますわ」

 

 落ち着いた口調の裏に、身も凍りつくような絶対零度の感情を秘めて、

 

「彼が現れた時点で予測はできていましたわ……魔界の民が、今更何の用でしょうか?」

 

 刃のような光を宿した桔梗色の瞳が夢子を射抜く。“幻想郷最強”を冠する大妖怪の眼光はありとあらゆるものを萎縮させ、畏怖させ、矮小な妖怪であればそれだけで失神してしまうだろう。

 それを真っ向から向けられた夢子は、しかし――妖艶に微笑(わら)っていた。

 

「くふっ、くすくす……あぁ、可笑しい」

「なに……笑ってんのよ!」

「だって、そうじゃない? なぁにんも関係ないあなた達がこんなにも殺気立ってるのに、当人(・・)はまだぽけーっとしてるんだもの」

「……当人」

 

 口の端から漏れるように呟いて、紫の視線が、背後で座り込む吹羽に向けられる。それを受けて、自失していた吹羽はようやく夢子の目的が自分であることに気が付いた。

 そして、状況を飲み込めていないのが自分だけであることも。

 

 縋るような瞳で霊夢を見上げるが、頼りの彼女もいつになく険しい表情で夢子を睨むばかり。まるで吹羽のことなど頭の片隅にも置いていないかのよう。

 友人たちの力を借りて、ようやく過去の因縁に決着をつけられたはずなのに、どこか一人だけ取り残されてしまったような気がして――拳をきゅっと握りしめる。

 

 腕の中には、変わらず鶖飛の遺体があった。

 冷たく、もう熱を取り戻すことは決してない、大好きな兄の空っぽの体が。

 

「ねぇ、吹羽ちゃん」

 

 隙間風が吹くような心を瞳に映しながら、吹羽は虚ろに夢子を見た。

 可憐であり、妖艶でもあり、どこか邪悪にいやらしくもある彼女の笑顔はしかし――今の吹羽の目には、優しく包み込むようにも見えた。

 そしてその優しげな雰囲気を引き連れて、夢子は驚くべき提案――否、目的(・・)を口にする。

 

 

 

「私と一緒に、魔界へ行かない?」

 

 

 

「ぁ、ぅ……え……?」

 

 思いもよらない言葉に、吹羽は喉を詰まらせた。

 当然だ。だって脈絡がない上に、今の吹羽には大して考える気力がない。或いはそれを狙って問いかけたのかも分からないが、どちらにしろ夢子のそれは吹羽を混乱させるに足りるものだった。

 それを見越していたのか、夢子は微笑みを崩さぬままにぴっと人差し指を立てた。

 

「一つ、いいことを教えてあげる。吹羽ちゃんもきっと喜んでくれると思うんだぁ〜」

 

 次いで夢子は手を前に差し出すと、もう片方の手に剣を顕現させた。相変わらず目に見えぬほどの早業だったが、今度はゆっくりと見せつけるように刀身を手首に当て(・・・・・・・・)――斬り飛ばした。

 

「ッ!」

「“再縫合(リスーチェ)”♪」

 

 しかし、飛んだはずの夢子の手首は導かれるように元の場所に張り付くと、瞬時に傷口は無くなってしまった。

 わざわざ確認するまでもない。文言から効果まで、全てが鶖飛の用いた魔法と同一である。

 夢子は一頻り手の感覚を確認すると、後ろ手に組んで、吹羽へと甘い笑顔を向けた。その、血に彩られた頰を緩めて。

 

「私たちはね、人形(・・)なのよ」

「にん、ぎょう……?」

「そ。魔人という名の創られた生命(いのち)、人形なの。同じ魔法からできているんだから、同じ魔法が使えるってこと。……意味、分かるかな?」

 

 意味。それの指すものが“同じ魔法が使えること”でないのは明らかだった。

 創られた命、魔人。夢子と鶖飛は全く同じ魔法が使えた。そして彼女の語る“いいこと”――。

 

 荒唐無稽すぎて言葉に出せない吹羽に代わって、夢子は答えを口にする。その、世が世である限り絶対にあり得ないはずの奇跡(・・)を。

 

「生き返らせることができるよ、鶖飛クン」

 

 ひゅ、と息が止まった。

 

「正確には……そうね、クローンとでもいうのかな。記憶はある程度しか引き継いでいないけれど、正真正銘の鶖飛クンだよ」

「お兄ちゃんが……生き、かえる……?」

「そう。鶖飛クンは死んじゃったけど、私と同じ魔人だったから、また創れるの。たとえ壊れちゃっても、記憶という糸で縫い直せば、人形は元どおりって訳ね♪」

「ふざけたこと言うんじゃないわよッ!」

 

 そう叫んだのは、憤怒に染まった霊夢だった。

 

「鶖飛が生き返る? 仮にそれが本当だとして、じゃあ吹羽の気持ちはどうなるのよ! 苦しんで、覚悟してっ、決着を付けても涙を流すこの子の気持ちは、どうなんのよッ!」

「本当に馬鹿だねぇ霊夢。やっぱり寂しいから泣いてるんでしょ。私はそれを助けようとしてるだけじゃない」

「覚悟を蔑ろにすることが助けるですって? ふざけるのも大概にしなさいよ――ッ!」

 

 目の前で繰り広げられる口論は、しかし吹羽の頭には全く以って入ってこない。ただひたすらに夢子の言葉――鶖飛が生き返るという言葉のみが繰り返し頭の中を回っていた。

 それはまるで地獄に一本の蜘蛛の糸が垂らされたようで、だがそれを容易に掴むにはどこか心が痛くなる……そんな形容しがたい心地にさせた。

 

 どっちの言うことも、きっと吹羽にとっては正しいことだ。

 霊夢の言うように、吹羽は覚悟をして鶖飛と対峙し、相入れないと理解したから討ち倒した。そこに偽りはなければ霊夢の勝手な解釈もなく、ただただ真実である。吹羽が想いや覚悟を踏みにじられることを嫌うという霊夢の理解も、至極正しい。

 

 だが同時に、夢子の言葉にも惹かれてしまっている自分がいる。

 自らの兄を手にかけることがこんなにも辛く寂しいことだなんて、吹羽は想像だにしていなかった――否、想像を遥かに凌駕していたのだ。

 仮にも覚悟を決められたのは、皆を守らなければならない、という責任感に感覚が麻痺していたからなのかもしれない。それが完遂できたことで麻痺から解き放たれ、自分のしたことがどれだけ重く辛いことなのかが正常に感じられたのだろう。

 

 大好きだった兄を自らの手で殺してしまった。

 その事実は重苦しい壁となって吹羽を追い詰め、感情の波濤は容赦なく彼女を波に沈めて呼吸を奪う。そこに手が差し伸べられたのなら、きっと誰でもそれを取ろうと思うだろう。

 

 寂しい。辛い。苦しい。誰か助けて。でも差し伸べられたその手を取ると、きっと壊れてしまう気がする。

 

 ――……けど、こんなに辛い思いをするくらいなら。

 

 ゆっくりと握り締めていた拳を解き、糸に釣られるように手を伸ばそうとして。

 

 

 

 ふにっ、と柔らかな感触に抑えられた。

 

 

 

「ぇ……?」

 

 感じたことのない触り心地に一瞬呆けていると、視界の端に真っ白な毛並みが映り込んできた。

 風もないのにゆらゆらと揺れ、逆立ち、月光に照らされるそれは白金のように輝いている。その存在感は一度目にすれば視線を外せないと思うほどで、吹羽は見遣った目を大きく見開いた。

 

 目の前にいたのは、見たこともない聞いたこともないほどに美しい、白い狼。

 

 次いで、もふっと頭に何かがひっつく。首の部分をひしと掴み、頭頂部に足らしきものが乗せられて吹羽の後頭部を包み込んでいる。

 かすかに聞こえるハッハッという息遣いは、まさに子犬のそれだった。

 

 狼は子犬をちらりと見やると手から前足を離し、夢子の方へと向き直る。グルルル、と低く唸って、次の瞬間。

 

 

 

 音にもならぬ咆哮が、大気をズタズタに引き裂いた。

 

 

 

 威嚇するようでも、全てを打ち払うかのようでもあったそれは、しかし“その”為にはあまりに苛烈。咆哮と共に放たれたその力は霊夢や紫のものを遥かに越え、狼自身の声をも呑み込んで強烈な衝撃を周囲にもたらした。

 

 大気が震える。大地が揺れる。空は鳴動し、森は沈黙した。

 森羅万象あらゆるものを強引に黙らせてしまう超量・超密度の神力(・・)に、初めて夢子の表情から微笑みが消えた。

 

「あらあらあら……そこまでして吹羽ちゃんを渡したくないんだね――風神さま(・・・・)

「グルルルル……」

 

 威嚇するように喉を鳴らす白狼は、濃密な神力を漂わせて夢子を睥睨する。それは、少しでも妙なことをすれば即座に喰い千切るという殺意の表れのようにも感ぜられた。白狼から感じられる力を鑑みれば事実そうだろうし、躊躇などもするわけがない。

 

 ピアノ線のように張り詰めた空気の中、新たに二つの足音が加わる。

 

「渡すわけがないでしょう……! 心の弱ったところにつけ込むような輩に……吹羽さんは任せられません!」

「わたしから興味の対象を取ろうってのが傲慢ってもんさ。それに、血に濡れたお前の手は、吹羽が取るには汚過ぎらァな」

 

 椛、萃香。ようやく治癒した二人が紫と霊夢の隣に居並ぶ。剣を握り、拳を握り、狼や霊夢たち同様に最大限の警戒を表すと、もはやその様相は弱った姫に甘言を囁く悪魔に対峙する五人の騎士だった。

 

 夢子は無表情でそれをしばし見つめると、ふと笑みをこぼして肩を竦めた。

 

「……ま、この面子を相手にするのは流石に分が悪いかしら。特に神さまなんて、加護もないのにやってられないわ」

 

 夢子はそう呟いて、指を一振り。軌跡を描いた魔力の発光が体を包み込んだ。なんの術かは当然分からないが、この場から離脱を図るための魔法であろうことは誰にでも理解できた。

 それに即座に反応したのは霊夢と白狼。霊夢はお得意の刹那亜空穴(空間跳躍)で夢子の背後を取り、白狼は神力で発現した大顎と牙を夢子に放つ。

 

「逃すと思うの!?」

「捕まえられると思ってるの?」

 

 神速一閃、破魔の霊力を宿した大幣が大木を断ち切るかの如き威力で振るわれる。が、答えた夢子の声音は余裕綽々と背後から。

 夢子は、今度は紫でさえも捉えられぬ早業で抜剣して薙ぎ払った。霊夢の一撃をも超える威力であるそれを神懸かり的な反射神経で辛うじて避けた霊夢は、しかしソニックブームによって吹き飛ばされ、その刀身に宿った魔力によって白狼の神力も相殺された。

 一瞬の攻防に続き、萃香や椛が上空から追撃を仕掛け、紫は封印術を行使する。

 

 ――しかし、そこには既に夢子の姿はなく。

 

 

 

「それじゃあね、吹羽ちゃん。私、ずっと待ってるからね♪」

 

 

 

 ふわりと両肩にかかった手の重みと、耳元で囁かれた甘い言葉。

 吹羽が咄嗟に振り向いた時には――既に夢子は影も形もなく消えていた。

 

「夢子、さん……」

 

 敵なのだろう。悪なのだろう。その身から放つ濃密な魔力からは邪な気が見て取れた。それこそ霊夢が言うように吹羽の覚悟を踏みにじろうとするならば、吹羽自身にとっても敵対すべき存在だ。

 だがぽつりと呟いた彼女の名に、その自分の声音に、少しの嫌悪感も混じっていなかったことに気が付いて、吹羽はそっと自らの唇に指を当てる。

 

「――……」

 

 鶖飛と会って、相入れないことを理解して、殺すことで終止符を打つことができた。

 だがそれで得たものとはなんだろう? どれだけのものを失ったろう? その失ったものは――どれだけの価値があったろう?

 夢子の手を取ろうとした手を見つめる。泥と血に汚れたその小さな手には、もう何もない。

 

「(お兄ちゃん……ボクは、どうすれば良かったの……?)」

 

 晩秋の冷たい風が吹くある夜。

 過去に決着をつけることのできた吹羽の心に残ったのは、しかし勝利の歓喜でも鶖飛への尽きぬ怒りでもなく――背筋に這い寄るような不安感と、涙も枯れる暗い悲哀。そして、

 

 

 

 ぽっかりと胸を穿たれたような、重苦しいほどの寂寥感だった。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 うーんこの夢子のキャラね。

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