風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

52 / 68
第五十一話 終階

 

 

 

 ――あの時感じたのは、ぶつかり合う技の衝撃ではなく、身体を貫いた硬く冷たい感触だった。

 

 血に濡れた赤い刃が胸から生えている。満身創痍の体は立っていることもできず、その場にぐしゃりと崩れ落ちた。

 すると、上から声が降ってくる。

 

『これで……これで俺が一番だ……ぁは、あはっ、あははははははッ!』

 

 それがよく聞き知った声であったことに、ひどく後悔したのを覚えている。

 

 何故こうなったのか。何故気付いてやれなかったのか。

 歪んだ笑い声を浮かべる“弟”を見上げて、“兄”は近付いてくる死の足音を聞いていた。

 

『許さないわよ……約束したでしょう! どちらかがどちらかに殺されるまで、死なないと!』

 

 見えたのは大嫌いな奴の顔。本当は悲しくなんかない癖に、やけに悲しそうな顔でこちらを見ていた。

 自分が何を言ったのかはあまり覚えがない。きっと心残りを伝えたと思う。我ながら馬鹿なことをしたとは思ったが、それを後悔する余裕もなかった。

 

 意識が薄れる。足音は耳元で聞こえた。自分を刺した弟の背中は、ひどく虚ろに見えた。

 

 そう――神話は、これで終わったはずだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「っ、なんだ!?」

 

 突然巻き起こった暴風に、鶖飛は驚愕を露わに顔を覆った。

 竜巻である。

 外の世界ならば街一つ滅ぼすだろうという巨大な竜巻が、彼らのすぐ側で天を衝いていた。

 凄まじい風圧が全身を強烈に打ち付け、十数年間育った程度の木であれば根ごと持ち上げて吹き飛ばしてしまいそうなほどの衝撃が周囲に分け隔てなく撒き散らされている。

 

「(一体なんだこの竜巻は! それにこの風……ただの風じゃ、ない……!?)」

 

 魔力を含んだ禍風にも似るが、性質は全く違うように感ぜられた。

 鶖飛の魔力を含み、触れるものを悉く削り喰らう禍風とは違って、この風自体には触れても何も問題はない。なんならただの風と同じようなもの。

 だが、それに含まれる力に鶖飛は底知れない何かを感じた。まるで温厚で愛らしい生き物が、無骨で巨大で、なんでも切り裂く鋭利な牙を隠し持っているかのような。

 

 そう考えたその刹那、竜巻は爆散した。

 

 “壁”と形容しても何ら違和感がないほどの衝撃波が闇夜を駆け抜ける。周囲に揺蕩っていた禍風をも吹き飛ばしたそれは、鶖飛ですら踏ん張らなければ地面から離れてしまいそうになるほどのものだった。

 

 そして、次いで気が付く。

 側にいた霊夢が、いなくなっていることに。

 

「どこに……ッ!!」

 

 ――探すまでもない、とはまさにこういうことだろう。

 いなくなった霊夢を探そうと周囲に意識を向けたその瞬間、背後から放たれる圧倒的な存在感に鶖飛は咄嗟に振り向いた。

 

 

 

 そこには、白く神々しい巫女の姿があった。

 

 

 

 雲のように白い衣には金の装飾が散りばめられ、若葉色の袴には滑らかな模様が描かれている。羽の形をした髪留めは変わらず前髪を留めており、白い髪に新たに差された簪からはちりんちりんと涼やかな鈴の音が鳴っていた。首にかけられたペンダントには淡い光が灯っているようだ。

 

 次いでかしゃん、と硬質な音。それが霊夢の胸から抜かれた“鬼一”であることに、鶖飛はすぐさま気が付き目を見開く。

 

 その音を聞いてようやく我に帰った霊夢は、困惑しながら自分の胸元に触れた。しかしそこにあったはずの刺し傷は、綺麗さっぱりと消え失せていた。

 否、その傷だけではない。身体中にあった切り傷、擦り傷、打撲痕など、凡そ怪我と呼べるもの全てが痕もなく無くなっていたのだ。

 気が付けば、しゅるしゅると緩やかな風が体を包み込んでいる。どこか暖かく、心安らぐような風だった。

 

「……吹羽?」

 

 ほとんど無意識に呟くと、目の前に立つ白い巫女はゆっくりと振り返る。ちりんと鈴を鳴らし、真っ白な袖を揺らして霊夢を見たその顔は。

 

 

 

「はい、霊夢さん」

 

 

 

 誰もが見惚れるような、よく知る親友の優しい微笑みだった。

 

「待っていてください。すぐに全部、終わりますから」

 

 それだけ告げると、豪奢な巫女服を纏った吹羽は徐に手を鶖飛に向けた。

 相も変わらず小さな手。石ころ一つを持てば何もつかむことができなくなりそうな華奢で非力な手。

 しかしその手のひらに集まる力を目の当たりにして、鶖飛は初めて戦慄した。

 

「――『野分(のわき)』」

 

 “轟”、とはまごうことなき風の音。瞬時に収束した大気が吹羽の手のひらで渦を巻き、打ち出された瞬間に“飛天”をも凌駕する暴風の砲撃となる。地を抉り大気を引き裂き、凄まじい衝撃波を伴って軌道上のすべてのものを蹂躙する。

 

 それが――無数に襲いかかってきた。

 

「ッ!!」

 

 いくらなんでも無事では済まない。

 瞬時にそう判断した鶖飛は、すぐさまその場を飛び退いた。次の瞬間に砲撃が空間を食い破るがそれだけには終わらず、砲撃は弾幕掃射の如き速度で鶖飛に襲いかかった。

 風圧、衝撃波。絶え間なく地を抉り揺らす砲撃は今までには考えられないほどの破壊力だ。

 

 鶖飛は刹那の隙になんとか“刺繍(エンブリム)”で刀を引き寄せて掴み取る。そして一気に踏み込むと、最大限の力を込めて飛び出した。

 砲撃の嵐が吹き荒ぶ中、残像すら残らない速度で飛び込んだ鶖飛は、砲撃の間の糸を通すような小さな隙間に巧みに入り込む。

 そして巫女服を纏う吹羽の目の前に着地すると、

 

「『八相閃(はっそうせん)』ッ!」

「来て、“韋駄天”」

 

 同時に八つの“閃”が至近距離で放たれる。が、それを受け止めたのは吹羽の言葉通りに“韋駄天”である――ただ、それは複数本(・・・)が重なって顕現していた。

 

「ッ!?」

 

 重なった“韋駄天”は、鶖飛の禍風をも推進力に変えて完全に鶖飛の斬撃を堰き止めていた。防御を突破できない鶖飛の目の前で、吹羽は言葉と共に片手を振り下ろす。

 

「『(おろし)』」

 

 ――直感だった。両断される、という直感。

 鶖飛が咄嗟に刀を頭上で構えると、次の瞬間凄まじい圧が降ってきた。その想像以上の圧にがくりと膝を折ると、慌てて刀を滑らしてその場を離れる。

 ズドンッ、と地を揺らす轟音。視界の端に映ったその場所には、地割れを思わせる深い溝が出来ていた。

 

 乱れた体勢と視線を戻すが、既にそこに吹羽の姿はない。

 しかし、鶖飛がどこだと探すまでもなく、

 

「こっちですよ」

 

 吹羽の声は背後から聞こえてきた。

 

「っ、く――!」

「“大嵐”」

 

 振り向く間も無く、背後から振り下ろされたそれが嵐の如き突風を叩き付ける。

 先ほどの“韋駄天”と同様今までとは桁違いの威力で、そして複数本によって放たれたそれは到底防御し切れるものではなく、鶖飛は身を翻すこともできずに流星の如き速度で叩き落とされた。

 地面が爆ぜる。巻き起こった土煙は天にも登り、まさに隕石落下による煙と見間違えてしまいそうな様相を呈していた。

 

 ふわりと吹羽は霊夢の前に着地する。常軌を逸した力で鶖飛を圧倒する彼女の豹変ぶりに、霊夢は呆然とその背を見つめていた。

 

「吹羽……? なにが、起こっているの? その姿は? その、力は?」

 

 霊夢の問いかけは独り言のようで、何より己の目で見たものが信じられないというような声音をしていた。

 

 姿が一変し、よくよく感知すれば雰囲気すらも何処か凛としたように感じる。戦いぶりは壮大で、しかし服装も相まってか優雅にすら見えるのに、それがもたらす破壊はあまりにも凄まじい。

 

 何より霊夢は、吹羽が素手で風を操って見せたことに驚いていた。

 風紋を用いず、天狗の神通力や風を操る能力を持った文など及びもつかないような精密さと力強さで風を操るなど、能力なしには考えられない。

 しかし吹羽の能力とは、間違いなく“ありとあらゆるものを観測する程度の能力”である。

 ()が二つの能力を持つなんてことは――あり得ない。

 

「……思い出したんです。この瞳の本当の使い方を」

 

 霊夢の考えていることを察して、吹羽は小さく語りかけた。

 懐かしい風に巻かれ、響いてくる声に耳を傾けると、封が解かれたように古い記憶が溢れ出してきた。それはこの特別な眼の本来の使い方であり、自分の中に眠っていた強大な力の可能性だった。

 その古い古い感覚を吹羽の体は、遺伝子は、“声”をきっかけに思い出したのだ。

 

 吹羽は内側に語りかけてくる声に同じく内側で応えながら、霊夢をちらと見下ろす。

 呆然としながらもどこか心配するような瞳に、まさか霊夢にそんな目をされるとはな、なんて思ってくすりと笑う。

 

「とはいえ、霊夢さん。先に鶖飛さんをどうにかしないといけません」

「え? ぁ、ええ、そうね……」

「だから少しの間待っていてください。心配はいりませんよ。この程度じゃ……ボクは死にませんから!」

 

 そう言って前に向き直った瞬間、土煙を食い破って“禍蛇神土”が放たれた。それに吹羽が“飛天”を叩き付けると、一瞬の拮抗を見せた後にもろともを切り払って鶖飛が飛び込んできた。

 魔力を完全に解放したのか、“鬼一”の刀身には形容し難い色の風が纏わり付いている。触れた木の葉は一瞬で灰のようになって消えるのが見えた。

 

「吹羽ッ!」

「鶖飛さん!」

 

 大気の爆ぜる音と共に、“太刀風”と“鬼一”が激しく衝突した。

 ぎりぎりと鍔迫り合う二人の周囲では、濃度の増した禍風と僅かに輝くような風がぶつかり合い、喰らい合い、竜巻のような局所的豪風を巻き起こしていた。

 

 しかし拮抗したのも僅かな間。

 周囲に渦巻く禍風を吹羽の風が呑み込み、強烈な圧となって鶖飛の体を打ち据えた。

 弾丸のように吹き飛ぶ鶖飛に、吹羽は次々と追撃を放つ。吹羽にとって使い慣れた風紋武器たちがその威力を更に増し、容赦なく鶖飛の体を斬り、穿ち、叩き、吹き飛ばした。

 並みの妖怪ではとっくに塵と化しているであろう凄まじい攻撃を受けて、しかしそれでも鶖飛は動く。

 

 意地ゆえか、執念ゆえか。恐らくは魔法による治療を行なっているのだろうが、どちらにしても末恐ろしいほどの強靭さで吹羽の圧倒的な攻撃を耐え凌ぎ、鶖飛は時折斬撃を仕掛けてきた。

 が、そのどれもが今の吹羽には届かない。

 吹羽の周囲に渦巻く風はあらゆる害意を弾き、散らし、主人たる吹羽を一部の隙間もなく守護しているのだ。

 そう、まるで――付き従っているかのように。

 

「縫い止めろ、『刺繍(エンブリム)』ッ!」

「乗せて、『時津風(ときつかぜ)』」

 

 言霊が成した暴風は、吹羽の体をも巻き込んだ。そうして風速となった吹羽に幾本もの糸が襲いかかるが、前のようには捕まらない。

 当然だ。どれだけの糸を束ね張り巡らせたところで、風の流れを止めることはできないのだから。

 

 鶖飛は地を蹴った。そして空中に巡らせた糸を足場にした立体機動で風となった吹羽を追いかける。絶え間なく降り注ぐ釘や手裏剣、果ては針のように小さな刃を必死に、しかし正確に弾きながら、鶖飛は空中で凄まじい機動を繰り返した。吹羽を捉えようと繰り出す剣閃は禍風を纏い、軌道上の空間そのものを僅かに揺らがせている。

 

 しかしその速度の差は歴然であった。

 時折刀で打ち合うものの、魔人となっても“膂力”の概念から抜け出せない鶖飛と、風そのものとなって宙を駆ける吹羽とでは比べるまでもない。

 人より風が速いのは当然のことだ。

 

 そして風とは、時に人に対して牙を剥くものである。

 

「『下降気流(ダウンバースト)』」

 

 神速の攻防を繰り返す中、吹羽は実にあっさりと鶖飛の背後を取ると、宣言と共に手を振り下ろした。

 それから成されるのは、“災害”と呼び恐れられるほどに強烈な下降気流――それが吹羽の力で更に強化されたもの。

 落雷と聞き違えるような轟音を鳴らして天から落ちた風の鉄槌は、巻き込んだ鶖飛の姿を搔き消して地に落ち、爆散した。巻き起こるはずの土煙さえも吹き飛ばし、ビル群でもあればなぎ倒しているであろう強烈な爆風が四方に撒き散らされる。

 それはまさに、外界において災害と呼ばれるそれを大きく凌駕する破壊力であった。

 

 吹羽はふわりと地面に着地すると、“下降気流(ダウンバースト)”によって抉れた地面の中心を見つめた。

 そしてそこで刀を杖に立ち上がろうとする鶖飛の姿を認めて、軽く息を吐く。

 

「……まだ、続けるつもりなんですね」

「はッ……はッ……っ、愚問、だろう……それは……!」

「そう……でしたね」

 

 声音に少しの悲愴を含めて、吹羽は静かに瞑目した。

 今更鶖飛が降参などする訳がない。そんなことは誰より知っているはずなのに、不意に言葉が出てしまったのは未だに心の何処かで諦めがついていないからなのか。

 

 緩くかぶりを振って、吹羽はゆっくりと片手を持ち上げた。

 諦めがどうとかは自分の問題だ。全てが終わった後に振り切るべきことである。

 鶖飛の言動を許容すれば、殺されるのは自分の大切な人たち。それだけは許せないと心に決めたのだから、今はそのために力を振り絞るだけだ。

 

 吹羽の周囲に風が渦巻く。それは彼女を優しく包み込むような緩い風ではあったが、そこに含まれる力の密度は今までの比ではなかった。

 例えるならば、そう――人が大空を仰いだ際に感じる偉大さや、広大さや、劣等感にもなりはしない惨めさ。ちっぽけさ。

 そういった見る者すべてに“敵わない”と思わせる偉大で壮大な圧倒的、力。

 

「“嗚呼、我が溢るる(じゃう)の御し難き様よ。最早溜むことをさえ奇しく思ひなれば――”」

 

 星月の浮かぶ夜に黒雲が立ち込める。月光は差さなくなり、ちらちらと隙間に覗くのは雷の光。ぽつぽつと降り始める雨は氷の如き冷たさで、しゅるりと柔く巻いたつむじ風がそれら氷雨を攫っていく。

 

「“唄えや、踊れや、意のままに。我が(うら)(だれ)(たれ)もやむに能わず”」

 

 人を超えた鶖飛にすら否応無しにそう思い抱かせるその力を以って、吹羽はその権能(・・)を言霊に乗せた。

 

 

 

「――……『(そら)宴霆(えんてい)』」

 

 

 

 現れたのは、まさしく天変地異。

 触れるもの全てを焼き焦がす雷鳴が絶えず地に落ち、鉄砲水を嘲笑うような速度で大粒の雨が降り頻る。そこに混じる雹は砲弾の如き威力を併せ持ち、それらを包み込むように激しい乱気流が入り乱れた。

 

 空に表情があるのなら、それを好き勝手に撒き散らすこの天変地異はまさに“空の宴”と言えよう。

 雷の如く怒り、雨の如く悲しみ、雹の如く冷静で、そして風の如く痛快に。溢れ出ずる感情をそのままに、唄い踊るようにして留めもしない。それはちっぽけな人間の常識からすれば全く埒外の、この世の終わりを思わせる天変地異以外の何者でもなかった。

 

 この瞬間、鶖飛は遂に悟った。

 

「そうか……それが――」

 

 天狗など及びもつかない精度で風を操り、風そのものとなって空を駆け、果てには空の全てを支配し天変地異すら起こして見せた吹羽。

 その突然の変貌と、人を大きく超えたこの力の正体とは。

 

「神降ろし……それが“終階”か……ッ!」

 

 風成家の歴史上、当主たちによって様々な“終階”が見出されてきたが、吹羽の力を目の当たりにした鶖飛には確信ができた。

 “風を従える”とは、きっとこういうこと。風とはそれそのものではなく、この大空全てを指した言葉だったのだ。そしてそれができる今の吹羽の力以上に相応しく強大な“終階”は存在しないだろう。

 

 人を超えたこの力は、吹羽がその身に降ろした風神の神力――信者の願いを叶える力(・・・・)

 風が操れるのは、吹羽がそう願ったから。

 傷が治ったのは、吹羽がそう願ったから。

 天変地異が起きたのは――吹羽が、そう願ったからなのだ。

 

「そうです、これは神降ろし。風神様の御力が、ボクの眼を通して(・・・・・)宿っています」

 

 風成家の信仰する氏神は、風と盲目の神。

 なぜ盲目なのか――それは、今はかの神の手に無いから。依り代と成り得る人間に、かつて渡してしまったから。

 

 風神から授かった瞳に淡い光を灯し、吹羽は別人のような神々しい空気を纏って鶖飛を見下ろす。

 その矮小な身に神を宿し、強大極まるその力を行使することを許された者。それは最早、ある種の――“超越者”と言うべきものだった。

 

真の終階(風神降ろし)。これが……原点にして頂点ですッ!」

 

 雷鳴、豪雨、嵐に降雹。

 吹羽の願いを聞き入れた大空そのものが、たった一人の鶖飛(ヒト)に牙を剥いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ぱちぱちと頰に当たる雨粒によって、萃香の意識はゆっくりと覚醒した。

 酩酊したような意識のまま緩慢に瞼を開くと、見えたのは降り頻る雨と大粒の雹。当たれば相当痛いだろうが、不思議と萃香の体に直接当たるようなことはないようだった。

 ゆっくりと体を起こすと激痛に思わず顔が歪み、そして思い出す。

 そうだ――鶖飛の一撃に、あろうことか気を失っていた。

 

「く、そ……わたしとしたことが……! けど、この嵐は一体……!?」

 

 目の前に広がっていた光景に、萃香が絶句したのは言わずもがなだろう。

 この世の終わりを思わせる天変地異――“天ノ宴霆”。それは天候を統べる風神の力を最大限に生かした天災そのものだ。その中に悠然と佇む白い巫女が吹羽であることに、萃香は驚愕を隠し切れなかった。

 

 それに、この場所に満ちているのは濃密な神力。萃香にも神力を感じた経験はあるが、ここまで強大なものは初めてだった。

 相当に高位の神。その力が吹羽一人に宿り、行使されている。それがいわゆる“神降ろし”と呼ばれる術であることを、萃香は当然知っていた。

 

「(神降ろし……本来は長く神事に通じた神主や巫女がやるもんだが……吹羽はただの鍛冶屋の娘。そんなのに神が宿るってこたぁ……)」

 

 神とは万物に宿る人の願いや希望が意思を持ったものである。この世のあらゆるものには望まれる機能や役割があり、それはまさしく人の期待――願いや希望である。故に八百万の神が存在するのだ。ただしそれらは、強い力を持たない故に顕在化はできない。

 

 そしてこの世の理を司る神というのは、強大ゆえに明確な意思を持つ。

 太陽の神、月の神、海の神、山の神、国の神、そして風の神。神主や巫女が修行の果てに会得する“神降ろし”は、そうした偉大な神を宿す術だ。

 それは逆に言えば、修行もしない人間が神を降ろすことなどあり得ないということ。

 

 であれば、ただの人間にして神を降ろした――否、神が降りた(・・・・・)吹羽は、きっと。

 

「神に護られている、ってか……?」

「その通りよ、萃香」

「!」

 

 思わず漏れた萃香の言葉に、答えたのは聞き慣れた声だった。

 声の方向を見遣れば、いつの間にか紫が佇んで嵐を一心に見つめていた。その目は何処か憎々しげでもあり、懐かしげでもあるように見える。

 

 なぜここに、と問いかけて、萃香は問うまでもないことだと口を噤んだ。

 萃香たちにはほとんど風雨は襲ってこないが、この嵐は文明一つがが容易に滅ぶと思えるほどの破壊力だ。それに神力が篭っているのだから、鶖飛の魔力などとうに消し飛んでいるだろう。

 紫がここへ来たのは、単純な話。邪魔な魔力が無くなったからだ。

 

「言ったでしょう。風成 吹羽は“小さな神話を紡ぐ者”だと。あの子は決してただの人間などではないのよ」

「神話……風成家の、氏神か」

 

 紫は瞑目し、僅かに頷いた。

 

「あの子は……あの一族は、風神に愛されている。確固たる信心を持って願いさえすれば立ち所に叶うほどにね」

「……それだけじゃあ、これは片付かないだろ。“神降ろし”には素質が要る。それくらい知ってるだろ」

「ええ。だから、彼女ら風成一族には素質がある。――起こり(・・・)が、特別だもの」

 

 わざわざ遠回りな言い方をするのは、きっとそのことを萃香に明かす理由がないからだろう。

 一族の起こりなど当人が知っていればいいことだ。それを外側から聞き出すことは無粋に他ならないし、萃香はその辺りを大切にする性格である。

 

 相変わらず面倒くさい友人の思惑をなんとなく察した萃香は、何も追求せず目の前の天変地異に視線を戻した。

 相変わらず落雷はあり得ない速度で地面を爆散させ、雨粒はまるで弾丸のよう。あの巨大な雹に万一でも当たれば、最悪五体満足ではいられないかもしれない。荒れ狂う大空そのものを敵に回した鶖飛は、もはや見る影もないほどに死に体だった。

 

 そんな天変地異の中に、豪奢な巫女服を纏う吹羽は優雅に佇んでいる。白い髪は暴風に靡き、袖はばたばたと揺れていた。しかしそれがこの世のものとは思えないほど美しく見えるのは、その身に宿した神格の神々しさ故なのか。

 

 いつか、紫の言っていた言葉を思い出す。その時は“何を言ってるんだか”と呆れや哀れみを覚えたものだったが――。

 

『期待しておくといいわよ、萃香。あなたはきっと見るでしょう。脆弱な人間の――理解不能(あり得ない)を』

 

 何の修行もなしに高位神をその身に宿し、ただの人の身で大空を支配する。それがどれだけ異常なことなのか、吹羽はきっと気が付いていない。きっと“自分は風が好きなだけだ”とか、的外れなことを言うのだろう。彼女はどこまで行ってもただの少女で、どうしようもなく人間なのだ。

 

 だが、嗚呼、だからこそ。

 

「はは……ほんっと……あり得ねぇ(・・・・・)

 

 乾いた笑いと言葉の先で、一際強い雷鳴が鳴り響いた。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 ちなみに級長戸辺命は、実際には盲目の神なんかではありません。ある種、吹羽の鈴結眼が風神の眼そのものであることの伏線でもありました。
 級長戸辺命のことを知っている人からすれば“は?”と思うところだったかも知れませんが、まぁそういうことだったということで。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。