――“将来、何になりたいか”。
何処の誰だって何十回と問われた事のある、実にポピュラーな質問ではないだろうか。
現代社会に生きる者であれば、例えばお菓子屋さん。少し真面目なところで、考古学者とか。“正義の味方”なんて、微笑ましい限りの将来を夢見る者もいるだろう。
己の将来を思い描くのは自由だ。
その真っ白なキャンパスを好きな色で自由に彩り、明るい未来を夢に見る。実に純真、且つ無垢で、喜ばしい事である。
そんな夢見る子らの光が、成長し非情な現実を叩きつけられて木っ端微塵となるのを想像するとこれまた非常に悲しい気持ちにもなってしまうが。
まぁ、それは楽観思考か悲観思考かの違いであろう。
それはさて置いて。
将来何になりたいか――それは、一言で表せば“夢”である。夢とは、これまた言い換えて“人生の目標”。そして目標とは、人が生きる上で必要不可欠なものである。
例えどんなに些細な事でも、人は目標無しには行動出来ない。
少しそこまで行ってこよう――。
これは完成させなくては――。
適当にそこらを歩いてみよう――なんて、一見目的も何もなさそうな事ですら、“一定量歩く”という目標の元に起こる行動なのだ。
目標があればこそ人は行動を起こし、目標があればこそ向上心が育まれる。
時にそれは、一族を通しての“義務”として確立されている事すらあるのだ。
忍者などが良い例だろうか。
遥か昔、大名などの警護には忍者が就いていたと言われる。
甲賀忍、伊賀忍などと呼ばれるように、彼らは一族を通しての目標――義務を果たすべく修行し、技を身につけ、自らに課せられた任務を遂行していったのだ。
そしてそれが更に優秀な忍者を育て、その忍者が新たな技を開発していく。留まることを知らない、技術進歩のサイクルである。
そして、そのサイクルをそのまま確立した一族が、実は幻想郷にも存在していた。
◇
「さんかいぎ……?」
天高い太陽が燦々と光を注ぎ、朝と比べれば程良い気温となって過ごしやすくなった正午である。
丁度昼飯を摂りに大勢が集まってきたある茶屋の一席で、三人はお茶を手元に談笑していた。
とは言っても、主に話しているのは慧音と吹羽。それも、慧音が吹羽に質問をする形で成立する会話であり、霊夢はお団子を頬張りながら話を聞いているだけだ。
吹羽の発した聞き慣れない単語に、慧音は首を傾げる。
漢字が分かれば想像も付くのだが、生憎丁度いい文字は思い浮かばず、慧音は苦し紛れに視線を逸らした。
「えぇと……その“さんかいぎ”と言うのが、君達一族の――」
「はい! ボク達が一生を懸けて到達しなきゃいけない、三つの技術段階です! 因みに、三つの“三”と階段の“階”、義理の“義”の字で
「……成る程、それで三階義か」
“三つの階層に辿り着く義務”
慧音の脳内に浮かんだ訳語は、そんなところだった。
技術段階と言うからには、きっと先程説明された“風紋”や、鍛治の腕の事なのだろう。
それを一族通しての目的としている辺り、吹羽の家系がどれ程長い歴史を持っているのかは想像に難くない。少なくとも、数百年以上の単位であるのは確実だろう。
教師として優れた学力を持つ慧音の推測は、見事に真実を捉えていた。
しかし、まだ彼女の好奇心は収まらない。
聞き慣れない単語を知ったからには、その内容までもを知りたくなるのは当然であった。
「……その、三つの階層と言うのを聞かせてもらってもいいかい?」
「勿論ですっ」
吹羽の小さな人差し指が、上を差して立てられた。
「まず一つ目が『
「……いまいち想像が出来んな。風と共に生活するとは、どう言う……?」
「えーっと、昔からボク達の生活には何かと風が必要だったんですよ。風紋を生活にも使ってたからって言うのもあるんですけど、とにかく風を上手く使えないと生活するのが辛くてですね……」
「……??」
「…………吹羽の家に行けば、一番手っ取り早く理解出来るわよ」
助け舟を出したのは、言わずもがな霊夢であった。
吹羽のあたふたとした説明も、それによって余計に混乱した慧音も、側で会話を聞き流す霊夢からすればもやもやして仕方がない。
コトリと湯飲みを置くと、霊夢は机に頬杖を突いた。
「吹羽の家の中は、壁や天井に彫られた風紋のお陰で一年中ゆるゆると風が吹いてるわ。まぁ元々、入り組んだ路地の先にある癖に風だけは通りやすい場所に立ってるんだけど、吹羽自身の意向でね」
「えへへ、とっても頑張ったんですよ!」
「……んで、その風を使っての風呂沸かしやら料理やら……風紋を使って、風を生活のあらゆる箇所に利用してるのよ、この子の家系はね。だから、始階は言い換えれば“生活に利用できるだけの風紋技術を身に付けるのが目的”って事よ。ちゃんと説明しなさい、吹羽」
「あはは……言い方が思い付かなかったんですぅ……」
「……風を使っての風呂沸かしとは?」
「風紋で風を集めて、薪の周りで強く摩擦させれば火は出ますよ? 角度とか強さとか、色々コツがあるんですよ。湿った日だと難しいんですけどね」
「な、成る程な……」
と口で零しつつ、慧音は風紋とやらの技術を改めて認識した。
言い換えれば風紋は、風で人の生活を成り立たせられる程に高度且つ便利で多様な物、と言う事。
外の世界とは数代文化が劣ると言われるこの幻想郷、どこの家でも生活するには多大な苦労を要するものだ。
風呂を沸かす事は勿論、水だって等しく供給されている訳ではないし、何なら夜を過ごすのもひとえに簡単とは言い難い――白熱灯などの普及が大して進んでいない。因みに風成家は完備――。
それをこの子は、この一族は。
たった一つの技術で、生活を成り立たせていると言うのだ。
さらに言えば、この少女はそれ程の技術を既にある程度扱えると言う事である。
感心の上限が、知れなかった。
「それで、二つ目は?」
「あ、はい。二つ目の階層は『
「……因みに、この子は既に次階までは到達しているらしいわよ。自称だけれど」
「一言! 一言多いです霊夢さんっ!」
主に家を形作る木。ある程度柔らかい素材でもある木面に刻む所から、より硬く扱いの難しい鋼に刻む段階へと。
吹羽の家系が代々刃物を扱う鍛冶屋だと言う事は、先の説明を受けて知っている慧音であったが、その階層に辿り着く為の努力が如何程のものだったのかは、想像が付かなかった。
ただの彫り込みならいざ知らず、その溝を使って風を制御するともなれば、その精密さたるや神掛かったものが必要になるだろう。
それに、きっとそれだけではない。
鋼を彫刻する為の単純な腕力も必要だし、何より途轍もない集中力を要する筈だ。
――なんともまぁ凄まじい。
文字通り、人間離れした技術である。
「そして最後。三つ目の階層は『
「……ん? どうした?」
先程までの勢いが綺麗さっぱりと姿を消し、吹羽は困ったように眉を傾けた。
不意に視線を移せば、霊夢も“語る事はない”とばかりにお茶を啜っている。――否、今の慧音には、霊夢すらもこの『終階』なるものを説明出来ない故に、我関せずを装っているように見えた。
一体、どうしたというのか――。
暫し続いた沈黙は、思い切ったように語り出す吹羽の声に打ち破られた。
「え、えっと、ですね! 実は、その……『終階』については、ボクもよく分からないんです……」
「よく分からない……? どういう事だ?」
「一族の間では、“終階は風を従えるのを目的とした階層”と言われているんですが……具体的にそれが何なのか、誰も分からないんです」
「……代々、風成家の当主達は独自の方法でその階層に到達してきたらしいわよ。それが本当に終階なのかどうかは、誰にも分からないんだけれど」
「万人が認めれば、嘘も本当になったりしますしね」
「……ふむ?」
考える事に意味がない事は、分かっていた。
吹羽という存在を知ったのもついさっきである慧音に、彼女の家系に関する事が推測出来るはずもない。
いや、例え推測は出来たとしても、それが答えに辿り着く可能性など皆無なのだ。
しかし、何となく考えずにはいられなかった。
それは慧音が教鞭をとる身だからか、はたまたただ吹羽に関心があったからなのか。
「歴代の当主達は――例えば風紋技術を極めて、一振りの刀で何十通りっていう効果を生み出す刀を作り上げた事で当主になったり、風を扱う天狗さんと完璧に心を通わせた事で当主になったり……色々居たそうですよ」
「……前者は分かるが、後者は最早鍛冶に関係無くないか?」
「ボクもそう思います……。最早その人自身の力でもなくなっていますしね」
「それ位、みんな全然分かってなかったってことでしょ。まぁ、“風を従える”なんて突拍子も無いことを、人間のちっさい頭程度で直ぐに理解出来る訳もないと思うけど」
「もしくは、三階義の定義そのものが間違っているのかもしれませんね。全部口頭で伝えられたものですから」
「ふーむ、八方塞がり……いや、そもそも情報が少な過ぎるな」
必死に頭を捻り上げる三人。その努力も虚しく、結局『終階』に関しては結論を得られず、という事で話は纏まった。
そもそも、何代も掛けて追求されようと出なかった答えが、三人集まって知恵を寄せた程度で出てくる訳もない事を皆十分に分かってはいたのだが、それでもやはり落胆はするものであって。
日の傾きに気が付き、また軽く昼食も摂れた事で三人が店を出るまで、吹羽はしばしば溜め息を吐いていた。
「“三人寄れば文殊の知恵”という諺があります……。でも、上手くいかないこともあるんですね……」
「そう落胆するな、吹羽。辿り着き方が分からないという事はつまり、辿り着き方は君の自由という事だ。君なりの方法を、ゆっくり考え付けば良いさ」
「慧音さん……!」
尊敬の眼差しを向けてくる吹羽の髪を、慧音は微笑みながら優しく撫でた。
当然の事とは分かっていても、そうする事で彼女の力になれなかった無力感が、少し洗われる気がした。
暗く落ち込んでいる姿は、この子には似合わない――。
自分の言葉が、その助けとなっているのならば、慧音としては本望である。
「なぁ吹羽、少し良いか?」
「はい、なんですか?」
ふとした思いつきだった。
吹羽の人柄や才能に関しては、今日一日でかなり把握することが出来た。
実によく出来た子である。それは疑いようもない。
だから――もう少し、欲が出た。
「君のご両親にも、会ってみたい。いつか、お邪魔しても良いかい?」
吹羽がどのように育ってきたのか、どんな努力をしてきたのか。
未だ幼いながら、この子をこれ程までに育て上げたご両親とは、どんな人物なのか――。
慧音の、実に真摯な望みである。
数瞬の間を置いて、吹羽は慧音に頷き返した。
「……あっ、はいっ! 分かりました。お父さんとお母さんに……言っておきます」
「うむ、よろしく頼むよ。霊夢も、それじゃあな」
「……ええ」
名残惜しくはあったが、そろそろ慧音も自分の事をしなくてはならない。
未だ買い物も終わっていない状況だ、早く終わらせて残りの仕事を片付けてしまわなければ。
大量に残る仕事を思い浮かべ、また憂鬱な気分を感じそうになった慧音はしかし、一つぱしんと両頬を叩いて気合いを入れ直した。
「(ぃよし、明日からも頑張るぞ!)」
色付き始めた太陽を背に、慧音は足早に二人と別れるのだった。
◇
慧音の背中が人集りに消えるのを見送ると、吹羽はゆっくりと振っていた手を下ろした。
去って行った慧音とは対照的に、吹羽は僅かに俯いている。その表情に、先程までの元気な雰囲気は見て取れなかった。
俯いた視界に入るのは、薄い橙色に染まる道に落ちた、自分自身の長い影。
それがどうにもドス黒い深淵にすらに見えて、どうしようもなく寂しく思えた。
「……大丈夫?」
「………………はい」
そう答える吹羽の声音も、確かに元気が無くなっていた。普段の溌剌とした口調は鳴りを潜め、まるで花が萎れたように細々とした声音をしている。
彼女がそうなった理由など、霊夢にとっては問い掛けるまでもなかった。
何せ、先程の言葉には彼女すらも反応しそうになったから。
きっぱりと会話を止めて、慧音の“勘違い”を正してやろうとも思ったから。
“君のご両親にも、会ってみたい”――。
「……言わなくて良かったの? 慧音、完全に誤解してるわよ」
「……良いんです。不幸自慢するつもりはありません。覚えているのもちょっとだけですし、何よりせっかく慧音さんが楽しそうにしていたのに、水を差すのは悪いですよ……」
「っ! そんなの、あんたが気にする事じゃ――」
「霊夢さん……っ」
吹羽の絞り出すような声に、霊夢は思わず言葉を詰まらせた。
冷水を掛けられたようだった。
か弱い光を呈する彼女の笑みは酷く弱々しく、暗に“もうやめて”と、霊夢に訴えかけているようだった。
霊夢だって分かっていたはずなのだ。吹羽とはそれなりに付き合いがある。彼女が今どういう状況にいて、どんな心境をしているか位は想像が付くはずなのだ。
でも――その自負にかまけて、危うく吹羽を傷付けるところだった。
「っ……ごめん」
「いえ……。これはボク達の――いや、ボクの問題です。ボクがちゃんとしてなきゃいけないんです。――きっと三人共、帰ってくるって信じてますから」
そう言った吹羽の表情が、霊夢にはとても儚く、寂しげなものに見えた。
いや、本当に寂しいのだろう。寂しくないわけがない。
吹羽が幾ら自立した人間だと言っても、結局その精神は子供のそれと変わりない。
良い事があれば喜ぶし、痛ければ泣く。
多少の理性は働いていたとしても、その心には常に沢山の感情が渦巻いて光っているのだ。
だからこそ、
――家族が皆、
再び俯いた吹羽を見下ろして、霊夢は確かに胸がきゅっと痛むのを感じた。
友人として、なんとかしてあげたい。しかし、今自分に出来ることは何もない。
悔しさにも似た感情が、霊夢の心にも影を落とす。
そんな空気を孕んで二人並び、無言の時間が続いた。
道行く人々が不思議そうな視線を向けてきても、それに対して思う事など何もない。ただ二人して、自分の気持ちに整理が着くのをじっと待っている。
暫くして、霊夢は一つ深呼吸をした。
「……吹羽、あたしも今日はもう帰るわ。色々支度しなきゃいけないし」
「あ……はい」
「……ね、吹羽。あんたさっき言ってたわよね。あたしに対して、“ボクはずっと友達ですけど”って」
「……はい」
今は、これしかしてやれない。
自分はこの子の家族の代わりになることはできない。だから、せめて――。
霊夢はそっと吹羽の頭に手を乗せて、その翡翠色の美しい瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……あたしも、ずっとあんたの友達よ。だから、寂しくなったらいつでも来なさい。あたしは、神社にいるから」
「……っ!」
じゃあね、と一つ髪を撫で、霊夢は吹羽に背を向けた。
彼女の残した言葉を吞み下すのに時間を要したのは、きっとその言葉が吹羽の心に届いたからだ。
はっと気が付いた時には、もう霊夢の姿は人の波に消え入りそうな程遠くなっていた。
吹羽は弾かれたように一歩前に出て、未だ僅かに見える霊夢の背中に、叫んだ。
「ま、また! また来てください、霊夢さんっ! 待ってますからっ!」
小さく、片手を上げる霊夢の背中が見える。
相変わらず周囲の人々は不思議そうに吹羽を見ていたが、やっぱり、大して気にはならなかった。
きっと、さっきとは違う理由で――。
◇
博麗神社までの道は、所謂獣道というやつだ。
博麗神社という存在は幻想郷全土に知られているが、その参道の整備が杜撰な事もあって参拝客はほぼいない。
それを見る度に何か急かされているような気がして、普段なら何となく通るのを避けていた霊夢であるが、今回はトボトボとその参道を歩いていた。
周囲には当然、誰の話し声も気配もない。
――いや、気配だけは一つあった。
「実に――」
美しい声である。
霊夢のすぐ隣から、波紋が広がるように響いた声を、霊夢は横目で一瞥する。
彼女が視線を戻したのを切っ掛けのようにして、その空間が唐突にばくっと開いた。
ぎょろぎょろと不気味な目玉の覗く、身の毛もよだつような異空間――“スキマ”と呼ばれるものである。
そこから現れる人物など、一人しかいない。
直ぐに、その不気味な空間から、一人の女性が姿を現した。
「実に、暖かい言葉ね。 “ずっと友達でいる”なんて、これ程信憑性に欠ける言葉も中々無いわ」
「皮肉りに来たのなら帰りなさい。あたしはこれでも、あんたの相手をしてられるほど元気じゃないの」
「あら、私の言葉に大した反応も起こさない辺り、平常運転ではなくて?」
「……煩いわね」
僅かな風に揺れる金色の髪が、夕日に輝いて美しい。そして麗しいその声が、人ならざる美貌に更なる拍車を掛けていた。スキマから上半身を覗かせるのは、誰もが目を奪われるであろう妖艶な美女である。
しかし、彼女を見る霊夢の表情は、心底嫌そうなものだった。
それに気を悪くした風も無く――
まるで、望み通りの反応を得たかのように。
「何よ、どうせまた気まぐれに出てきたんでしょ。いつから見てたの」
「あら、私はいつだってこの幻想郷の全てを見ているわよ。いつからと言うなら、最初からね」
「謎掛けしてるんじゃないのよ」
「いいえ、全て真実。霊夢、あなたも“全て”分かっているはずだけれど」
「………………」
紫の言葉に、霊夢は無言で眉を顰めた。
傍目からでは何の話をしているのか分かり得ないであろう言葉を紡ぐ紫に対して、霊夢だけはそれを、その内容を理解しているようだった。相変わらずその表情は嫌気に歪んではいたが。
その言に返したくないのか、霊夢は頑として無言を貫いている。
彼女の思い通りに話が進むのは何処となく良く思わないし、わざとこちらの気分を煽るように振る舞うその姿勢も気に入らない。
意地と言えばそうかも知れないが、しかし、本音である。紫の掌の上で舞踏するのは、どうにも癪に触るのだ。
――無言の霊夢に、紫は僅かにその艶かしい唇を緩めた。
「まぁ、あなたがどうしようと勝手なのだけどね。仕事さえこなして貰えれば、私はあなたにそれ以上を望まない」
「……相変わらず回りくどい奴ね。気に入らない事があるならはっきり言ってくれる?」
「気に入らないなんて。私は何も文句は言っていないわ」
「じゃあ何よ」
「思うまま、自由にしなさいって事よ、霊夢」
紫に真面目に問答する気が無いのを悟り、霊夢は溜め息ながらに軽く頭を振った。
この妖怪は相も変わらず、霧のようにつかみ所がない。故に、真面目に取り合うだけ無駄なのだと再度認識を上塗りした。
真剣な話ならまだしも、今の彼女にはきっと“気まぐれ”以外の行動原理などないのだろう。霊夢をからかう姿勢に始終している点からもそう判断出来る。
とはいえ、それならそれで構わない、と言うのが霊夢の本音だ。
向こうがその気ならば、自分にはまともに取り合う理由がないのだから。
もともと好意のある人物ではないだけに、霊夢の感情の推移は実に淡白で、色が明け透けていた。そんな所で紫がただ言葉遊びしているだけなのだと悟ってしまえば、霊夢が後に表すべき態度など語るまでもない。
摘む程度にはあった紫への興味を遂に失くし、霊夢は頭の片隅で今日の夕飯はどうしようか、などとどうでもいい事を考え始める事にした。勿論、相槌程度は打ってあげるつもりだが。
「それで、あんた何しに来たの? 茶番に付き合ってやる程あたしは暇じゃないわよ」
「う・そ。暇じゃないのではなくて、暇でない事を装っているのでしょう? あなた、いつも掃除が終わってからはお茶を啜ってばかりだものね。昼夜問わず」
「そこまで分かってるなら、あたしがこうしてる理由も察しなさい。あんたと話してると疲れんのよ」
「あら、失礼。どうもあなたをからかい始めると止まらなくて」
「………………」
霊夢の無言の怒気を一身に受けながら、紫はそれでも涼しい顔を浮かべたまま。本当に厄介な大妖怪だと、霊夢は心底うんざりした。
全く、用もないなら出てくるな。迷惑するのは此方なのだ。
言葉にすると逆に手玉に取られる可能性が高いので、敢えて言葉を口の中だけで転がし、露骨に不機嫌な視線を向けてやる。せめてもの反抗のつもりだったが、当の紫は気味悪く笑っているだけ。それすら煽っているように見えるのだから、何処までも救えない。その捻くれた気構えさえなければもう少し周りからも好印象だろうに。
だがまぁ、今更だ。自身が相手に及ぼす心労を分かっていながら、それでもやめない辺りが“質の悪い妖怪”と言われる所以の一つ。おまけに力技では追い返せない、話すととても疲れる、言動がいちいち胡散臭い……etc。
はっきり言って、霊夢が意図して関わりたくない人妖の三本指に入る人物である。なんならここで、幻想郷の賢者たるこの大妖怪を“若作りパープルババア”とでも罵ってやろうか。返り討ちにされるだろうが。
「ふふふ、まぁそんなに怒りなさんな。可愛いお顔が台無しよ」
「余計なお世話だっつーの」
「冷たいわねぇ。なら、さっさと本題に入りましょうか」
「………………面倒な奴」
心底うんざりした霊夢の呟きは、少しだって紫に拾われる事はなく、
「今日来たのは少し忠告――と言うより、気に掛けておいて欲しい事があるからよ」
「…………何かあったの?」
「ええ、まぁ」
パチン。
扇子の閉じられる音が、妙によく響いた。まるで、思考を一度リセットするかのようなその音は、否応なしに再度霊夢の意識を紫へと向けさせる。
「少し、嫌な予感がするのよ。確証はまだ無いし、危険性も確実な目処は立っていないけれどね」
「はぁ? そこが重要でしょうが。しっかりしなさいよ賢者でしょ」
「ええ、そこは反省しましょう」
なんて、反省なんてしない癖に。
口には出さずに、霊夢は毒突いた。
「けれど、結界に何か干渉してくる感覚があるのよね。何か――
「…………扉」
「そう、“扉”……よ」
紫の視線が、真っ直ぐに霊夢の双眸を射抜く。
これまでの中身のない問答が嘘ように真剣な視線が、霊夢に僅かながら危機感を覚えさせた。
そして、その美しくも鋭い瞳が語っている。
何の覚悟なのか。それは傍目からでは理解し得ない。この場で視線を交わす二人の間だけで、ある種のコミュニケーションが成立していた。
憎たらしい程に綺麗な淡紫色の瞳をじっと見つめ、霊夢も了承したのだろう。ふいと視線を外すと、小さく「分かったわ」と呟いた。
「さっきも言ったけれど、あなたの行動は全てあなたが決める事よ。でも、よく考えて行動なさい。人の心なんてガラス細工と同じような物。少し罅が入れば――一瞬で砕けてしまうわよ」
そう言葉を残し、紫は再びスキマの中に消えた。
まるで何事もなかったかのような沈黙が、もやもやと霧を抱えた霊夢を包み込む。
気が付けば、空は既に宵を迎えていた。
「…………本当、ヤな奴」
太陽が落ち、月と星が登ってくる様をきっと睨んで、霊夢はポツリと呟いた。
もう数刻で夜だ。こんな獣道で突っ立っていたら、いつ妖怪に襲われるか分からない。勿論もしそうなったならば、襲って来た妖怪を容赦無く徹底的に蹂躙して足蹴にし、侮蔑を伴った絶対零度の視線を叩きつけてその愚行を心底から後悔させてやるつもりだが、生憎今は余り元気がない。万一にも負けはしないが、戦闘は避けた方が精神的に宜しいのだ。
霊夢は一つ大きく深呼吸すると、心のもやを振り払うように飛び上がった。
彼女の心に掛かった疑問の霧は、未だ、晴れる気配はない。
今話のことわざ
「
特別に頭の良い者でなくても三人集まって相談すれば何か良い知恵が浮かぶものだ、という意味。