風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第四十八話 訣別

 

 

 

 襲い来る妖怪の鋭爪を掻い潜り、噛み千切らんと飛びかかってくる獣の尖牙をかち割り、萃香と椛による露払いを前に駆けた先には、大きな広場があった。

 

 自然にできたものでないことは一目瞭然であった。地面に草花はほとんど無く、周囲を囲う木々は全て薙ぎ倒されている。爆風か何かを受けて無理矢理折られた様相で、その中心に不自然に空間の歪む箇所が見えた。月の光すら歪んで屈折しているのか若干薄暗く、見つめれば深い水の底を覗き込んでいるような錯覚に陥りそうである。

 すぐに分かった。

 ここが霊夢達が戦った場所であり――鶖飛の封印されている場所だ、と。

 

『ああ……思ったより早かったな』

 

 思ったその刹那、歪んだ空間に無数の線が走り、次いで硝子を叩き割るような乾いた音が響き渡った。歪んで見えていた景色はぴったりと周囲に調和し、その中心を丸く大きな月が照らし出す。美しいはずのその光景と共に、隣から霊夢の舌打ちが聞こえてきた。

 ざあ、と風が吹く。

 斬り裂かれ散々となった結界のかけらがきらきらと光を反射して風に運ばれ――その中心にいた人物の姿を吹羽達の前に現した。

 

「ちょうど飽いてきたところだったんだ。待ってたよ」

「…………お兄ちゃん」

 

 見慣れない黒衣を纏い、風紋刀を鞘に収めた兄――鶖飛。

 数日前に見たきりの彼とは全く以って違う雰囲気に、吹羽は一つ唾を飲み込む。

 

「その様子だと……全部思い出したみたいだね、吹羽」

「っ、……本当に……本当にお父さんとお母さんを殺したの、お兄ちゃんッ!?」

 

 どこか縋るような声音だったことを吹羽は自覚していた。未だに認めたくない自分が心の何処かにいて、それが鶖飛を前にして顔を出したのだと。

 本当は違う、そう言って欲しかったのだ。全て自分の見間違いで、霊夢の勘違いで、彼女を傷つけたのもなんらかの喧嘩の延長線上だった、と。認めたくない現実の前に立ち、吹羽の今だに迷っている一部分が請い願うような心地で叫ぶ。

 鶖飛はその悲痛な声に笑顔(・・)を向け、

 

 

 

「ああ、そうだ」

 

 

 

 実に簡潔に、簡単に首肯した。

 

「親父もお袋も、俺がこの手で斬った。なんだ、思い出したんじゃないのか?」

 

 何を当然なことを、と言外に表す鶖飛に吹羽は悲しげに目を細める。両親を殺したと何の悔悟もなく認めてしまう彼の姿は、決定的な倫理破綻を起こした狂人のそれを想起させた。

 鶖飛は、両親を殺したことに何の感情も抱いていない。

 その事実が、吹羽に兄が変わってしまったことを真に理解させた。理解せざるを、得なかった。

 

「…………」

 

 嗚呼、なぜこんなことになったのだろう。家族や友人たちと穏やかに暮らしていたかっただけなのに。

 

 自分があれだけ望んだ平穏は、皮肉にも悲劇の上に成り立っていたのだ。それを知った今ならば、霊夢がなぜこれを隠そうとしたのかもなんとなく分かるような気がした。

 何かを犠牲にして掴んだ平穏なんて吹羽は喜べない。その犠牲にしたものが自分の一番大切なものならば尚のこと。いっそ犠牲にしていること自体を忘れてしまった方が何倍も楽で、限りなく健全である。霊夢はそれをよく分かっていて、吹羽が苦しまないようにするため記憶を封印したのだ。

 

 何を間違ったのだろう。どこで何をすればこんなことにならずに済んだのか。

 家族を失ってから幾度となく脳裏を過ぎったその問いをしかし、吹羽は今度こそ振り払う。

 もうどうしようもないところまで来てしまっているのだ。過去を悔やんだところで今は変わらない。或いは考えたところで自分にはどうしようもなかったかもしれない。ならば、吹羽にできることは初めから一つだけだ。

 

「なんで……何でこんなことするの、お兄ちゃん……?」

 

 元の目的に帰結して、吹羽はか細い声でそう問いかける。そこには既に縋り付くような弱々しさは無く、ただ人としてあまりに非道な行いをした鶖飛への非難にも似た響きを含んでいた。

 それに対し、鶖飛は。

 

「何でこんなこと、か。勘違いしてもらいたくないんだが、挑んできたのは霊夢だぞ? 俺から始めたわけじゃない」

「お父さんとお母さんのことも……霊夢さんだって……殺そうとしたんだよね。昔のお兄ちゃんなら、殺し合いになんてならなかったはずだよ」

「…………ああ、そうだな」

 

 昔の鶖飛――それが両親を手にかける前の彼のことを言っているのだと、きっと鶖飛も理解したのだろう。

 自分の変化を認めたその返答は、暗に“霊夢を殺そうとしたのは間違いではない”と言っているようなものだった。

 昔の穏やかな鶖飛なら、霊夢に挑まれた時点で何とか穏便にことを済まそうと言葉を重ねるだろう。それがいつもの喧嘩だったなら違うだろうが、殺し合いとなれば話は別だ。

 

 鶖飛は、霊夢を殺そうとした。

 霊夢が鶖飛を処理(・・)しようとしたのも確かだが、吹羽にとってはそのことの方が重い意味合いを持っていた。

 

 鶖飛は悲しそうな瞳で見つめる吹羽をしばし見つめ返していたが、しばらくしておもむろに後頭部をがりがりと掻きむしった。

 

「……参ったな、嫌われないよう正直に問答したつもりだったんだが、ダメだったみたいだ」

「はんっ、嫌われないようにだなんて笑わせるわね。まるであんたのしたことが“理解されないだけで正しいことだった”って言ってるみたいじゃない。正当化も甚だしいわ」

「正当化も何も、俺は間違ったことはしていない」

「っ、……あんた、本気で言ってんの――ッ!?」

 

 小馬鹿にするような、しかし明確な敵意を持って放たれた霊夢の言葉に対する飄々とした肯定。

 それは胸に巨大な杭を突き刺すかのような痛みをもたらしたが、吹羽は歯を食いしばって耐えた。

 怒り散らすのは簡単だ。思ったことを大きな声で叩きつければ、それがいくら馬鹿げた言い分でも怒号にはなる。だがその代わりに失うのは冷静さ。心の中で吹き上げた激しい炎は、きっと誰の言葉も受け入れようとはしないだろう。それでは本末転倒なのだ。

 

 鶖飛の言葉を聞き、彼が何を考えているのかを理解した上で答えを出す――それが霊夢との約束だ。

 

「俺の願いはな、霊夢。吹羽といつまでも穏やかに暮らすことなんだ。朝一緒に起きて朝飯を食べ、適当にやりたいことを消化して家に帰り、夕飯を共にして静かに眠る……それだけさ。たったそれだけのことさえ邪魔するなら、俺はそれを全て斬り捨てる。親だろうと何だろうと」

「はっ、それで吹羽を悲しませてちゃ世話ないねェ。わたしも家族のことなんか分かっちゃいないが、お前のそれがエゴでしかないのは分かるぜ鶖飛よぅ」

「今はそうかもな。でもいずれ吹羽も分かってくれる……いや、分からざるを得なくなる。俺たちが平和に暮らすためにどれだけのものを捨てなくちゃならないのかを、な」

「だから無理矢理に押し付けるってか。……狂ってるな、お前の愛情は」

 

 肩をすくめてみせる鶖飛は、それを否定しなかった。

 狂うほどの愛情を抱かれている――それは本来なら妹として最高に幸せなことなのだろう。それがどれだけ(いびつ)でも、家族愛に飢えすぎた吹羽にとっては嬉しいことに変わりはない。

 

 ただ、その狂気が他の人に向くならば話は別だ、と吹羽は思った。

 

「守りたいもののために剣を振るう……鶖飛さんの言い分も、分からないとは言いません」

「ああ、お前は俺と同じ守る側の存在だろうな、椛」

「はい。私だって大切な人を守りたい。そのために剣を取り、ここに立っています」

 

 一歩前に出て、椛は胸に手を当ててそう語る。鶖飛の考えに理解を示す彼女だが、それが彼の考えに同意している訳ではないことはこの場の誰もが分かっていた。

 椛の瞳は強い眼差しで鶖飛を見つめ、訴えかけていた。

 

「……ですが、だからといってなぜ全てを捨てる必要がありますか。あなたの言う素朴な幸せは、全てを捨てなければ叶えられないようなものなのですか」

「大きな目的のために全てを捨てるのは、英雄譚でもおとぎ話でもよくあることだろう。俺たちの素朴な幸せが小さな目的だなんて思うなよ」

「っ、全てを捨ててしまう前に、捨てずに済む方法を考えろと言っているんですッ!」

「考えたさ。考えて考えて考えて考えて、辿り着いたのがこの結論だ。ああ、だが、そうだな……」

 

 一瞬ゆらりと揺れ、片手で顔面を覆う。手と前髪の隙間から見えた彼の瞳は――不気味に歪んで見えた。

 

私怨(・・)があるのは否定しない。……俺は、八雲 紫の夢を壊したいんだ」

 

 飄々としていた彼の放つ歪な空気に、四人は各々息を呑んだ。封印が破られてから彼が初めて見せた感情のように思えたのだ。

 

 私怨――八雲 紫を恨んでいると。彼女の夢であるこの幻想郷を壊し、全てなくなった世界で吹羽と共に暮らしたいのだ、と鶖飛は言う。

 彼が掲げる二つの目的を同時に達成できる合理的な話だ。幻想郷を壊せば紫の夢を潰すことができ、その直前に吹羽を連れ出せば幻想郷ごと邪魔者をまとめて消し去ることができるのだから。

 

 きっと彼が初めて感情を露わにして語った言葉だからだろう、どこか道化のような口調で話していた鶖飛の、それが本音のように思えた。

 

 だがその本音によって――ようやく吹羽は自分がどうすべきかを理解してしまった(・・・・・・・・)のだった。

 

 

 

「……もう、いいよ」

 

 

 

 小さな言葉が、鶖飛に呑まれつつあった空気を断ち切った。

 さらに言葉を重ねようとしていた椛も声を詰まらせ、誰もが吹羽を注視する。小さく俯いた吹羽の表情は陰って見えない。

 

「お兄ちゃんは……例えボクがお兄ちゃんに着いて行くって言っても、この世界を壊すつもりなんだね」

「ああ、それも目的の一つだ。だが吹羽がどうしてもって言うなら、霊夢と紫を斬る程度で済ませてもいい」

「っ、それじゃあどの道みんな死んじゃうよ……!」

「そうとは限らない。二人を殺せばこの世界は潰れるが、死んでいなければ抜け出す手立てはあるかもしれない。俺が直に殺すよりよっぽど可能性があると思うが」

 

 それでは大して変わらない。この世界には強い妖怪はたくさんいるが、それでも弱い妖怪、非力な人間が大半を占める。力を持たない彼・彼女らが、博麗大結界の崩れるその刹那に世界を抜け出すなど不可能だ。

 鶖飛のそれは脅しのようで脅しでない。そも愛する妹相手にそんな選択をさせようとする時点で、吹羽の知る鶖飛とはかけ離れた存在のように思える。

 

 否――もう在りし日の鶖飛は、この世にいないのだろう。

 

「……ボクの知ってるお兄ちゃんは……あの日、お父さんたちと一緒に死んじゃったんだね……」

 

 鶖飛が父と母を斬り殺した日。あの日あの時あの瞬間に――吹羽の知る優しい鶖飛は、殺された。

 

「何言ってるんだ。俺はここにいるじゃないか。ちゃんと生きてるぞ」

「ううん、もういない。もうお兄ちゃんじゃない。ただ……ボクの大切な人たちを傷付ける酷い人……」

 

 父が死に、母が死に、そして兄も死んだ。それをしたのは目の前にいる人物で、自分の大切な人たちをも傷つけて殺そうとした。

 それが事実として受け入れられるようになってくると、吹羽の中でぷつんと何かが吹っ切れる音がした。

 それは堪忍袋の緒だったかもしれないし、あるいは理性だったかもしれない。正体は分からないものの、しかし吹っ切れたことで吹羽の中で変わったものがあった。

 

 目の前にいる人は兄ではなく、みんなを傷付ける敵である、と。

 

 ――覚悟は、決まった。

 

 

 

「“天網恢恢疎にして漏らさず”という諺があります。お兄ちゃん――いえ、鶖飛さん(・・・・)。あなたはボクが斬ります。大切な人たちのために、あなたの罪はボクが濯いでみせますッ!」

 

 

 

 溢れそうになる涙をぐっと堪え、“太刀風”を抜刀。同時に成った風の刀身が大気を巻き込み一瞬の突風を巻き起こす。

 吹羽に明確な拒絶の言葉を突き付けられた鶖飛はやや眦を決すると、ふと表情を消し去った。

 

「……そうか。残念だ、吹羽」

 

 抜刀――衝撃。

 刀を抜いた瞬間に溢れ出した膨大な魔力が暴風となって激震を走らせ、周囲の空間を軋ませる。重過ぎる魔力は体を押しつぶしてしまいそうなほどなのに、常に首元に刃を突きつけられているかのような鋭い殺気をも感じさせた。

 

 恐怖はある。今にも足は崩折れそうだし、心臓はばくばくと激しい鼓動を放っている。これだけで大気をも揺らしてしまいそうなほどだ。

 だが鶖飛を止めるという使命感が吹羽を留まらせていた。両親が死に、霊夢が殺されかけ、萃香も魔理沙も傷付けられた。それが自分を理由に行われたというなら、彼を止めるのは自分じゃなければいけない。たとえ助けは借りたとしても、人任せにはできないのだ。

 

「もう、誰も殺させません。ボクの心に誓って!」

「全てを殺すよ。ただ、君のために」

 

 陰り始めた月光の下、吹き抜ける風は鋭く、冷たかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 四人の立ち去った森の中、紫は一人静かに佇んでいた。

 どういう理屈か、八雲 紫というスキマ妖怪に対して徹底的に対策された魔力が彼女の進行を妨げているのは事実だったが、実際には彼女にこれ以上進む気自体がなかった。

 

 諦めている、というわけではない。

 ただ紫は、見届けるべきものを見届けようとしている――それだけである。

 

「あの日から幾星霜……どれだけ待ちわびたのか知れませんわね」

 

 太古の昔、紫が交わした最も古い約束。交わすことに何故だか抵抗を感じなかった、この世で最も嫌いな男との約束。

 それを思い出し、紫は徐に目を伏せた。

 

 何故あんな約束をあんな男としたのか、今でもはっきりとは分からない。ただ浅くない付き合い方をしたその男からの最後の願いだった故に、断れなかっただけのような気もする。

 大嫌いな相手の願いを理屈もなしに引き受けてしまう自分は、ひょっとしたら案外ダメな女なのかも知れないと紫は思った。

 

 安請け合いは身を滅ぼす。使命感だけで振るう刃は何も守れはしないし、何に届くこともない。

 そんな当たり前のことを人間は理解できず、ただひたすら大きなものに立ち向かう力を勇気と唱う。紫に言わせればそんなもの、ただの蛮勇でしかないのに。

 

 だが、しかし。その蛮勇で“あり得ない”ことを成し遂げてしまう――そんな人間がいることも、紫は確かに知っていた。

 

 と、そんなことを考えているうち、紫は何かが己の感覚に引っかかったことに気が付いた。

 気配と言い換えてもいいが、紫が日常的に周囲に張り巡らせている知覚に入り込んだ者がいる。こんな状況下で乱入なぞしてくる不特定因子など邪魔以外の何者でもなかったが、紫に焦りはなかった。

 なにせ隠しもしていないその魔力には覚えがあるし、彼女が突っ込んでくるのはその性質上自明の理とも言えた。

 

「……まったく、大人しくしていられないのかしら」

 

 指打ち一つ。能力発動を示すその仕草によって開かれたスキマは、しかし彼女の周囲に開かれたわけではなかった。狙い澄ましたのは上空。入り込んだ乱入者が進むであろう、そして避け切れないであろう位置だ。

 乱入者が無事にスキマに突っ込んだのを感知すると、すぐさまスキマを閉じ、かき混ぜるようなイメージでくるくると指先を回す。そしてもう一度スキマを開くと、中から黒と白の塊がどしんと吐き出された。

 

 予想の通り――それは霧雨 魔理沙だった。

 

「く、そ……急いでんのに……! 何すんだよ紫!」

「こちらの台詞ですわ。何をする気――というのは愚問ですわね。もう一度彼に挑む気でしょう」

 

 紫の中では、魔理沙は凡才だが努力を欠かさず、故にこそ極度の負けず嫌いであるという評価で一貫している。

 一度負けたくらいではへこたれない精神の持ち主なのだ。彼女がいくら努力を続けても越えられない霊夢という壁があり、しかしその彼女といつまでも親友であり続けられる魔理沙であれば、再び鶖飛と戦うために神社を飛び出すであろうことは予想の範囲内だった。

 

 故に広げていた知覚範囲には気を配っていたのだ。事実魔理沙は紫の妨害にまんまとはまり、こうして放り出されて動けないでいる。

 因みに魔理沙が動けないのは、スキマの中で彼女を至極雑に撹拌して平衡感覚を壊し、ついでに放り出す時に軽く地面に叩き付けたからだ。

 人間の持つ半規管は軸回転するだけで狂ってしまう。体ごとぐるぐると撹拌されれば機能がめちゃくちゃになるのは自明の理である。おまけに体自体に衝撃を与えてあるのだから、魔理沙が立ち上がることすらできないのは当然のことだった。

 

「行かせませんわ。邪魔者は大人しくしていなさい」

「邪魔者、だと……!? 霊夢達が、戦ってんだぞ! わたしが行かなくて、どうすんだよ……!」

「あなたが行ったところで何一つ変わりはしませんわ。死体が一つ増えるだけです」

「ッ、てめェ……!」

 

 暗に足手纏いだと言われて癪に触ったのだろう、魔理沙は親の仇でも見るような目で紫を睨め付けた。

 

 だが事実だ。紫は感情の籠らない表情で魔理沙を睨め返す。

 今あの場はただの人間が介入していい状況ではない。そも世に名を轟かす酒呑童子こと伊吹 萃香が暴れているというだけで本来なら人間が足を踏み入れていい場所ではないのだ。そこに本調子ではないとはいえ博麗の巫女、そして正面から戦えば恐らくは紫の命にさえ届きかねない強さを持った――萃香との戦闘と彼の目的などから観て紫はそう推察している――風成 鶖飛がいる。異変解決者とはいえただの人間であり、かつ傷も治っていない魔理沙が行っては足手纏いにしかなり得ないのだ。

 

 もちろん、萃香と椛が参戦したことを魔理沙は知らない。故に彼女が傷付いた体に鞭打って神社を飛び出したのは、霊夢と吹羽を心配してのことと思われる。

 根底にあるのは二人への心配、そして負けたことに対する悔しさ。だがもっと分かりやすく表面上にある思いはきっと、

 

「あの吹羽が戦ってて、わたしが戦わないなんて……そんなのは、ねぇだろ――ッ!」

 

 弱者に任せて強者が退く、そんな無様を魔理沙は認められないのだ。

 力に自信があるのだろう。いくつもの苦難を乗り越えた経験が彼女の根底にはあるのだろう。努力家であるが故に、自信があるが故に、魔理沙は一度己の手をつけた物事を投げ出したがらない。自分の力では無理だと決めつけてしまうことを嫌っているのだ。

 

 だが、自分の限界さえ見極められないのはただの愚か者である。

 

「分際を弁えなさい、人間。感情論で動くほど私は落ちぶれていませんし、浅慮なつもりもありません。あなたがあの場に行くのはただの無駄。それだけですわ」

「鶖飛がどれだけ強いのかはっ、知ってるだろ! このままじゃ……霊夢も、吹羽も……負けるぞッ!?」

そうですわね(・・・・・・)

 

 は? と呆けた表情をする魔理沙に、紫は開いた扇子を口元に瞑目する。

 当然だ。眼が良いだけの小娘が、大妖怪をも退ける化け物に勝てるわけがない(・・・・・・・・)

 

「霊夢は普段の半分以下の力しか出せない。萃香は単純に実力が劣る。犬走 椛など考えるまでもない。ただの人間である風成 吹羽が、彼に勝てる道理なんてありませんわ」

 

 きっと、皆勘違いしているのだ。紫は吹羽に期待などしていない。そも大妖怪たる自分が、手を出せないからとか弱い人間の少女を頼るなど恥晒しもいいところだ。

 紫にも矜持はある。それは目的のためにならば犬の餌にできるものではあるが、守るべきことであるにも変わりがない。

 

 己の夢の行く末を託したからと言ってなんだ。それが彼女の勝利を期待してのことかの理由になどなりはしない。時間稼ぎのために当て馬として選んだだけかもしれないし、単なる囮という場合もあるだろう。そしてそれは紫だから考え付く戦略という訳でもないのだ。

 

 紫には考えが――否、勝ち筋(・・・)が見えている。だが、それが吹羽の手で成し遂げられるものとはかけらも思っていないのだ。

 

「私は風成 吹羽が嫌いですわ。そして故にこそ彼女の実力は把握しています。彼女が風成 鶖飛に勝つことは、那由多の果てにもあり得ませんわ」

「っ、じゃあ、お前……何のためにあいつらを向かわせたんだ……ッ!」

 

 不快と不理解の込められた強い視線で魔理沙は睨む。紫はそれを涼しい顔で受け流していた。

 もともと人間の理解など求めていないのだ。紫は至極淡々と、己の敵になった相手の処理を進めているだけ。そういう意味ではなるほど、霊夢に言われた“吹羽を利用しているだけ”という評価はまさしく正しいだろう。だがそれを改める気はない。

 利用できるものは利用する。守るべきものは守る。要らないものは排除する。そうやって紫はこの世界を作り上げたのだから。

 

「愚問ですわね、霧雨 魔理沙。私はいつだって私の目的のために動きます」

 

 吹羽を気遣うよう霊夢に言い含めたのも、萃香に霊夢の様子を見るよう頼んだのも、稗田の書斎で吹羽の前に現れたのも、そして鶖飛の下に吹羽たちを向かわせたのも。

 全ては一つの目的に帰結する。だって、

 

 

 

「風成家を見守ると……そうあの男と約束したのですから」

 

 

 

 紫が古の約束を――風成家初代当主(・・・・・・・)との約束を忘れたことなど、一度だってないのだから。

 

 

 

 




 今話のことわざ
天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして()らさず」
 天罰を逃れることは決してできないということのたとえ。

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