風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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 追憶はこれでおしまい。


第四十六話 運命にあらがう者たち

 

 

 

 秋水との一件以来、鶖飛は工房に顔を出さなくなった。

 

 食事こそ家族全員で食べるものの、両親とは会話の一つもなく、代わりとばかりによく吹羽に節介を焼くようになったのだ。当然稽古は滞り、その時間帯には森林の方へと歩いていく鶖飛の姿がよく見受けられる。

 

 きっと以前何者かと話していた場所に行っているのだろう。得体の知れない何かと接触している以上行くのはやめて欲しいと思う吹羽だが、帰ってきた鶖飛はいつも優しく笑って接してくれるため踏ん切りがつかず、言い出せずにいた。また、これ以上仲が悪くなってほしくないとも思い、両親にもこのことは打ち明けられずにいる。

 そのことが重りにも焦りにもなり、集中を欠かして秋水に叱られたのはつい昨日のことだ。

 

 きっと両親も鶖飛の変化には気が付いているだろう。特に秋水なんかは努めて鶖飛と吹羽の掛け合いを視界の端に追いやっている挙動が見て取れるので、吹羽にとっては分かりやすかった。

 だが、その頑固な性格が邪魔をしているのか尋ねてくることもない。彼には自分の中で正しいことの基準がはっきり決められている為、きっと“尋ねてしまえば自分が折れた(・・・)ことになってしまう”なんて意地を張っているのだ。

 子供みたいな人だなぁ、なんてここ最近では思うことが増えたのは言うまでもない。

 

 

 

 そうしてどこか軋んだ関係のまま数日が過ぎ――その日(・・・)がやってきた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 その夜、吹羽は夜中にふと目を覚ました。

 換気のために開けておいた障子の隙間から見える外は意外なことにも明るい。隙間を通った月光が目にかかり、白い月の姿がよく見えた。満月の日だったのか夜空に浮かぶ月は大きく丸く、まるで本当に白玉が空に浮いているかのように思わせる。空いっぱいの大きな月が、深夜にも関わらず光量に困らないほど幻想郷を照らしていた。

 

「(…………風がある)」

 

 部屋には緩い風が入ってきていた。外で林の葉々をさわさわと揺らしては障子の隙間に入り込み、布団に暖められた吹羽の肌を撫ぜていく。夜は冷え込む季節だからか非常に冷たく、僅かに触れただけなのに針で刺すような痛みを感じて、吹羽は少しだけ顔を蹙めた。

 

 風に触れて嫌な気持ちになることがあるなんて、と少し残念に思いながら、吹羽は布団から出て障子をぴっちりと閉めた。

 しかし、風が冷たい所為で綺麗に眠気は覚めてしまっている。再度布団に入っても眠りに落ちるには数刻かかるだろう。

 どうしようかな、なんて布団の上に座り込んでぼーっと緩く頭を回転させていると、

 

「っ! ……な、なんの音?」

 

 何処かで物音が聞こえてくる。何かを落としたような、踏みつけるような、兎角深い闇夜に鳴るはずのない音が、僅かに家に響いていたのだ。

 吹羽は恐る恐る部屋を仕切る襖を開き、顔だけ出して周囲を見回した。

 

「(……あっち?)」

 

 やはり先程よりも鮮明に聞こえてくる。森林の方からではなく家の中からの音である証左だ。

 吹羽は冷え切った廊下をゆっくりとした足取りで進み始める。物音の発生源は、この家にただ一つある広間の方角だった。

 

 なんの音だろう――そう思い盗っ人の可能性を考えるが、すぐに切り捨てた。盗みに入るならきっと人里でやるだろうし、手早く荒らせるようにもう少し小さな家を狙うだろう。何か物が落ちただけの可能性もなくはないが、これほど断続的に物が落ちることなどそうそうない。

 であれば、なんの騒ぎなのだろう。

 深夜に一人、広い屋敷の廊下を歩む心持ちは、自分の家なのに妙に寂しく心細い。まるで一人この家に取り残されてしまったかのような気持ちになって、吹羽は少し足早に物音のする方へ向かった。

 

 

 

 ――広間の近くに着く頃には物音は鳴り止んで、冷たい闇夜が周囲に揺蕩っていた。

 聞こえるのは虫の甲高い鳴き声と自身の鼓動だけ。一歩踏み出すたびにぎしりとなる歩き慣れた床が、なぜか今はとても頼りなく感じる。

 

「ぉ、おにぃちゃん……おかあさ――ッ!?」

 

 心細さを補うように呟いた名は、不意に鼻腔を掠めた臭いによって遮られた。

 それはもはや(・・・)嗅いだことのない臭い。見ることが少なくて、臭いがあるなんて知りもしなかったようなモノだが、いざと嗅いでみればそれだとすぐにわかる不快な臭いだ。

 

 吹羽は込み上げてきた吐き気を必死に堪えて、しかしその異常事態に、半ば急くようにして広間の障子に手をかけた。

 一段と臭いが強くなる気がして、ゆっくりと覗き込む。果たして、そこに広がっていたのは、

 

 

 

 月明かりの下でも見えるほどの――どす黒い血の色だった。

 

 

 

「ぁ……ぇ……?」

 

 見たことも、想像したこともないその光景を前にして、思考の全てが吹き飛んだ。

 周囲を囲う襖には隙間が見えないほどの血が飛び散り、わずかに見えた畳は切り傷や引っかき傷で漏れなく荒らされている。そしてその全てに赤黒い血がべっとりと付着しているのだ。

 掛け軸や襖から見られた風情は見る影もなく、ただただ不快な臭いの立ち込める赤黒い部屋と化していた。

 

 この光景の意味が理解できず、処理しきれず、言葉にもならないか細い声が喉から漏れ出る。

 見慣れたはずの広間の赤黒く染まった姿。鼻腔を突き抜ける、吐き気の催すような粘っこい臭い。そしてその中に薄っすらと見える、赤に染まった横たわる何か。

 

「ああ……来たのか、吹羽」

 

 その中に、不意に銀色の線が閃いた。何かが動いて、反射した月明かりが目に映ったのだ。

 線。銀色。それにこびりついて同様に反射する紅色は艶があって、線に沿って滴っている。

 ――血濡れの刀。

 真っ白な頭の中に、ぼんやりとその一言が浮かび上がっていた。

 

「心配ないよ。吹羽は何も、気にしなくていいんだ……」

 

 銀色の線がゆらゆらと揺れて、ポタリポタリと液体の落ちる音がして。そうして暗闇の中から現れたのは、無機質な笑みを顔に貼り付けた――鶖飛の姿だった。

 その手にはやはり、血の滴る刀が握られていた。

 

 何が起こっているのか、吹羽には全く理解が――否、考えることそのもの(・・・・・・・・・)ができていなかった。まるで高度なからくりが機能停止してしまったかのように、頭脳が目の前の光景を処理できていない。しようとしていない。

 

 語りかけてくる鶖飛の異様な雰囲気にも気が付くことができず、吹羽は一歩後ずさって声を絞り出す。やっとのことで出した声も、さざ波のように儚くか細かった。

 

「ぁ、ぅ……おにい、ちゃん……? おとうさんは……おかあさんは……どこ?」

「ん? 二人なら、そこにいるじゃないか」

「ぇ……? で、でも、血がでて……たお、れて……ぇ、え?」

「ああ……暗くて分からない? それとも、刻みすぎて分からなくなっちゃったかな」

 

 ぐらぐらと揺れるような視界の中で、微笑む鶖飛が首を傾げた。そして一瞬暗闇の中に消えると、吹羽がわずかに認識できていた“赤いなにかの塊”を、ぐちゃりと蹴る音がして……その正体が、月明かりの下に晒される。

 

 赤く光る血に紛れて見えるゴツゴツした肌色。濡れて纏まり固まってしまった黒い髪。刺さったままの折れてしまった風紋刀。血を流して光を失った萌葱色の瞳。

 

 ――鶖飛の声が。

 

「ほら、見えたろ。父さんと母さんは……邪魔者(・・・)はちゃんと消えたから、安心して」

 

 

 

 秋水と暮葉の“豁サ菴”だった。

 

 

 

「……ぁ…………」

 

 言葉が出ない。声が出ない。視線が動かない。視界が定まらない。呼吸が荒れて思考が荒れて、身体中に力が入らずぺたんとその場にへたり込んむ。

 

 思考ができなかった。

 理解ができなかった。

 考えたくなかった。

 気が付きたくなかった。

 目の前の光景を拒否する吹羽の思考は、ただひたすらに、理解不能を理解不能のままで溢れさせた。

 

 分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からないからない分からない分からない分からない分からない分からない分かりたくない――。

 

 溢れる言葉。そうして何もかもを拒絶して思考停止した吹羽は、終いに、ぷつりと糸が切れたように意識を失った。

 

 そこから先は、記憶が蘇った今でもよく覚えていない。

 鶖飛が何か言っていたが、聞こえなかった。ふと視界が暗くなったかと思えば、ぼやけた視界の中に黒々とした木が見え、次に見えたのは霊夢の張り詰めた横顔。降り出した雨が顔に当たって冷たく、しかし身体は包まれるように温かい。

 

 覚えていないのも仕方がなかった。だって、その時にはもう吹羽は何も考えられなくなっていたのだから。何も考えられなくなるほどに、吹羽の精神はズタズタに引き裂かれていたのだから。

 

 悲劇を嗤うような氷雨。

 安寧を許さない硬い地面。

 労わるような人肌の暖かさ。

 意識の無い間に様々感じたけれど、吹羽にはもはやそれらを拒否することも、受け入れることすらできない。そのための意思も気力も何もかもが失われていたのだ。

 

 

 

 ――そうして取り戻した記憶は、吹羽にとっての絶望そのもので。

 

 生きる糧としていたはずのものが、逆に今まで生きて来た意味を完全否定するに等しい真実で。

 

 まさしく――吹羽の全てが壊されたその瞬間の記憶だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――薄っすらと目を開くと、見覚えのある天井が視界に映った。記憶を全て取り戻した今となっては忘れようのない、木造の天井。暗くて木目こそ見えはしないが、そこに感じるのは確かに懐かしさ。

 肌を撫ぜる冷たい風は、(記憶)から覚めたことを悟らせた。ここは霊夢に連れられて来た旧風成邸で、自分が横たわっているのはあの広間の正面の廊下。すぐ横に広がる林からは虫の鳴き声が聞こえるが、今はなんともうるさく感ぜられる。

 

 時間はそれほど経っていないように思われた。広間を照らす月は未だ空の天辺には差し掛かっておらず、雲の漂い始めた空に堂々と浮いて煌々と輝いている。それがどうにも“美しい”と思えないのは、果たして今の心境ゆえか。

 

 ゆっくり、起き上がる。

 

「……起きたのね」

「霊夢さん……」

 

 かけられた声は背後から。声の方に振り返ると、霊夢が月を見上げながら座っていた。

 

「……ボク、どのくらい寝てましたか」

「ほんの数刻よ。大丈夫……もう少しだけ時間はある」

「………………」

 

 そうやって刻限を教えてくれるのは、きっと今の心境を慮ってのことなのだろう――吹羽はそう思った。

 事実、こうして蘇った記憶を夢で見ても未だに心が憔悴しているのがなんとなく分かる。ざわざわするというか、ちりちりするというか、まるで鋭い棘の生えた重い荷物を背負って歩かされているかのような。

 

 もうどうにもならないことは分かっていても……今の吹羽には、整理が必要だった。

 

「あの日のあと……どうなったんですか?」

 

 ぼやけた記憶の中に映り込んだ霊夢の横顔。妙なほどに張り詰めたそれが思い浮かぶ。

 霊夢は横目でちらりと吹羽を見遣ると、重々しい様子で口を開いた。

 

「…………鶖飛がね、あんたを連れて行こうとしたのよ。だからあたしは抵抗した。あの時だけは、あたしの“嫌な予感”も捨てたもんじゃないって思ったわ。勘を頼りに駆けつけてみれば……まさかあんなことになっていたなんてね……」

「……どこに……連れて行こうと?」

「……おそらくは――いえ、ほぼ間違いなく別の世界(・・・・)よ」

 

 目を伏せると、霊夢は膝の上に置いた手をきつく握った。

 小刻みに震えるそれが、彼女の静かな――しかし激しい怒りを感じさせる。

 

「あいつはあの日、とても危険な場所へと消えていった……てっきり野垂れ死んだものと思ってたんだけどね……」

「じゃあ……霊夢さんを殺そうとしたのは、やっぱり……」

「ええ………………鶖飛よ」

 

 きゅ、と唇を噛む。

 

「あの日はあいつも弱ってたからなんとかなったけど、今度のはダメだった。萃香と魔理沙が決死の覚悟で隙を使って、あたしが封印するので精一杯。その封印も……もう破られる。……情けない話よね。博麗の巫女ともあろうものが、小さな女の子一人さえ守れないなんて……」

 

 霊夢の遣る瀬無い声が耳に残る。似つかわしくないほどにそれは儚くて、自分の無力を心底から呪うようでもあった。

 

 吹羽はゆっくり向き直って、黒く染まった広間の方を見た。

 あの時の光景そのままだった。ただ赤かった血が変色して黒くなっただけ。それは消せない過去をずっと引きずったままここまで来てしまった吹羽を責めるような光景にも思えた。

 責め、そして――全部無駄だったと嘲笑うかのような。

 

「……くふ、ふふふっ……」

「……吹羽?」

 

 徐に立ち上がって広間の方へ。ゆらゆらと歩く姿は幽鬼のよう。

 やがて立ち止まる。そこは丁度、両親の息絶えた場所。

 力が抜けて、すとんと座り込んだ。

 

「あは、ははっ…………全部、ボクの想いもなにもかも……無駄、だったんだね……」

 

 二人の体があった場所を撫でる。

 手の甲に、雫が一つポタリと落ちた。

 

「お父さんも、お母さんも……とっくに死んじゃってたのに、戻ってくるだなんて盲信して……馬鹿みたい。笑っちゃうよ……」

 

 視界が、崩れて。

 

「笑ってないと、おかしくなっちゃいそうだよぉ……!」

 

 吐き出した想いが、遣る瀬無さが、ぎゅうぎゅうと胸を締め付ける。

 涙がぽろぽろと溢れ出し、浮かび上がる言葉は声にならない。ただただ切ない嗚咽が広間に響いている。

 

 家族は生きている、と。

 いつか必ず戻ってくる、と。

 そう信じて疑わなかった。それが生きる支柱になっていて、それを思えばどんな苦難も我慢できた。そしてそれが報われたかのように鶖飛が戻ってきて、いつ全員が揃うのか、元の幸せな暮らしに戻れるのかを筆舌に尽くしがたい思いで心待ちにしていたのだ。

 

 それが、まさか――こんなことになるなんて。

 

 こんなの、笑うしかない。そうして自分を嘲笑って(・・・・)いないと、忽ちに潰れてしまいそうだった。

 

「おとうさん、おかあさん……ボク、分かんないよ……これから、これからっ、どうすればいいのか……ぐすっ、分かんないよぉ……っ!」

「……吹羽」

 

 嗚咽を漏らす吹羽の肩に柔らかく手が置かれる。霊夢の手だ。慰めの言葉も何もないそれはしかし、だからこそその暖かさに僅かな安らぎがあった。

 手に導かれるまま、吹羽は頭を霊夢の胸元に寄せた。

 

「ぅ、ひぐっ……ぅぁ……ぁぁああぁっ!」

「(……なんて言えば、いいんだろう)」

 

 手の中で泣き喚く吹羽に何か声をかけようとして、しかし霊夢は何も言えずに口を噤む。どんな言葉も、安っぽい慰めにしかならない気がしたのだ。

 

「(どんな言葉をかけるのが……正解、なんだろう……?)」

 

 気の利いた言葉が思いつかない。或いは、こういう時にかける言葉というものに正しいものなど存在しないのかもしれないが、こんなにも可哀想な親友を放っておけるわけもなかった。

 霊夢は自分の無力さに唇を噛み締めながら、努めて優しい手つきで吹羽の頭を撫で続ける。

 

 手の中にある今の吹羽は、まさに道導を失って路頭に迷った幼子のようだ。

 信じていたものが全て虚構だったことに気が付かされて、何をすればいいのか、何を信じればいいのか分からなくなっているのだ。

 

 ――仕方のないことだろう、とは思う。

 

 そも吹羽ほどの年頃であれば、家族の愛情に飢えているのが当然というものだ。自立した生活ができていた吹羽こそが異常だったと言わざるを得ない。

 だがそれも、どこかで家族が生きているのだと信じることでできていたこと。待っていればいつか戻ってくるのだと信じていたからこそ、立っていられただけだ。

 支えがなくなれば崩れ落ちる。自明の理である。

 

 だが、そんなことは理由(・・)にならない。それが吹羽を諦める理由にはならないことを、霊夢は分かっていた。

 

「……吹羽、聞いて」

 

 そもそも、こうなるのは予想していたことじゃないか。記憶の封印を解き、その凄惨な真実を吹羽が思い出せばこうして絶望するのは分かっていたことだ。

 吹羽の優しさを知っている。吹羽の臆病さを知っている。吹羽の賢さを知っている。そして吹羽の、家族への愛を知っている。

 自他共に理解を得て親友を名乗り、こうして辛い時に側にいるならば、手を差し伸べられるのは霊夢だけだ。手を差し伸べなければならないと思っていたから――二人でここに来たのだ。

 

「あいつはきっと、あの日のことを諦めてない。あんたを連れて消えようとしてる。そのために障害となるものはすべて斬り捨てるつもりでね」

 

 両親のみを殺して吹羽を連れて行こうとした時点で、鶖飛が吹羽の存在に依存していることは明らかであり、それを守るためなら手段も選ばないだろうことも想像に難くない。

 吹羽を守るため戦った霊夢に向ける目も、ただただ殺意だけが篭った暗い瞳だった。きっと鶖飛は、吹羽を連れていくためならこの世界すら壊そうとするだろう。抵抗する全ての者を刻み殺し、世界の崩壊に巻き込まれる者たちに何らの悼みを抱くこともなく。そしてそれだけの力が、今の鶖飛にはある。

 ――だが、大切なのは鶖飛の意思や行動ではない。

 

「……吹羽は、どうしたい?」

 

 その問いに、吹羽はおずおずと顔を上げた。瞳には未だ涙が浮かび、悲壮と困惑にぐらぐらと揺れている。

 分かっていた。この状況でこの問いをする残酷さは、霊夢自身がよく分かっているのだ。だが――これだけは吹羽が決めなくてはならないこと。

 

「どう……って」

「両親を殺したことを水に流して、鶖飛と共に行くのか。それとも鶖飛を拒否してこの世界で暮らすのか。……この二択に絞れなんて言わないわ。でも……これだけは決めなきゃならない」

「――……」

 

 俯いた表情に逡巡が見えた。

 真実を知る前なら或いは、吹羽は鶖飛についていくと即答していた――それはそれで親友として寂しいが――かもしれないが、今はきっと、そうではない。

 吹羽は無垢で心優しい少女だが、盲信的な、或いは常識外れな思考をしているわけではない。

 文の時のように恨むべきは恨み、しかし手を差し伸べられるならば差し伸べる。そういう少女だ。今回はその対象が、文でなく鶖飛だという話である。

 

 両親を殺した鶖飛を、吹羽はきっと恨むだろう。だが彼が愛すべき兄であることにも変わりはない。仲が良かった頃の関係がなくなるわけではないのだ。

 

 昔の優しかった兄を信じるのか。

 両親を殺した裏切り者として見るのか。

 

 ――きっとここが、吹羽の人生における分水嶺だ。

 

「情けない話だけど、あたしは今のあんたにかける言葉が分からない。だから、吹羽が納得できる方法を、吹羽自信が見つけるのよ。私たちのこととか、この世界とか、紫の思惑とかそんなものは考えなくていい。あんたの答えを尊重する。……でも、自分に嘘を吐くのだけはやめなさい」

 

 これだけが霊夢にできること。

 他人に与えてもらった答えなど、所詮は他人の思惑でしかない。その人の不幸を色眼鏡にかけて、良かろうと思ったことでしかないのだ。それが必ずしもその人の正解になるわけではないし、納得のいくものである確証はもっとない。

 

 本当の正解はその人自身にしか出すことはできない。

 

 (しがらみ)を取っ払い、望むことのみを追求した時に出せたその答えが――きっとその人にとって唯一無二の正解なのだ。

 

 沈黙は長かった。それだけ吹羽の中で激しい葛藤があるように思われた。

 霊夢には吹羽に対して辛い選択を迫っている自覚はあったが、彼女のためにもこれだけは譲れない。霊夢は踏ん切りがつかないように揺れる吹羽の瞳を見下ろしながら、しかし決して口を開かず黙して待った。

 

 やがて、月が角度を変えて広間の中にも光が差し込んでくる。

 広間の入り口、廊下、畳、こびり付いた黒く固まった血。そしてようやく、座り込む吹羽の顔が照らされた。一陣の風が吹く。背中を押すようにも思われる緩く、しかし弱くはない風に撫でられ――吹羽はゆっくり、顔を上げた。

 

「……ボク、には……決められないです……」

 

 漏れ出した言葉は弱々しく、震えていた。

 

「お兄ちゃんのこと、どう考えればいいのか、分からないんです……。お父さんもお母さんも殺されて、でもそれがボクのためだとか言われて、よく分かんなくなっちゃって……」

「…………」

 

 ぽつりぽつりと語り出す。

 こんがらがった思考を、声に出して整理する時間が必要だった。

 

「ずっとみんなが帰ってくるのを夢に見てて……お兄ちゃんが帰ってきてくれた時、ボク、すっごく嬉しかったんです。それこそ、もう死んじゃってもいいってくらいに嬉しくて……でも、そのお兄ちゃんが二人を……今更、思い出して……」

 

 吹羽にとって鶖飛の存在は、光のようなものだった。

 家族三人が蒸発し、戻ってくると信じてはいても、現実には安否すらわからない。そんな時に現れた鶖飛はまさに、両親もどこかで生きているのだという希望の光だったのだ。

 まるで真っ暗な道に光が差し込むようだった。今まで頑張ってきたことが報われたのだと本気で思った。

 

 だが現実は――当の鶖飛が、壊してしまっていて。

 

 ただ……古く暖かい記憶ばかりが脳裏を過る。

 

「でも、ボク……お兄ちゃんを恨み切れない(・・・・・・)んです……っ!」

 

 ズキズキと鋭い痛みの走る胸を押さえて、吹羽は葛藤を吐き出した。

 

「怒らなきゃって、恨まなきゃって……思ってはみても、優しかったお兄ちゃんの姿がチラつくんです……。例えお父さんを殺しても、お母さんを殺しても、ボクの友達を傷つけていてもっ、大好きなお兄ちゃんに変わりないだろうって……心が――着いてこないんです……っ」

 

 鶖飛に依存していた故、とも言えるだろう。

 思考と心は必ずしも直結しない。頭が分かっていても心が戸惑いみせることはあるし、逆もまた然りである。

 ずっと信じてきた鶖飛の裏切りに、吹羽の心は着いてこなかった。怒るべきなのに、恨むべきなのに、心の中では優しい鶖飛が忘れられず、大好きなまま。

 それが、吹羽に答えを出すことを躊躇わせていた。

 

 ――だから(・・・)

 

「……霊夢さん」

「……なに?」

 

 割り切れない想いに瞳を揺らしながら、吹羽は霊夢の純黒の瞳を見つめる。

 

「ボク、お兄ちゃんに会ってみたいって思います。会って、それで……お話がしたいんです」

「話して、どうする気?」

「お兄ちゃんが何を考えてるのか、訊こうと思います。それを聞いてから……ボクは、答えを出したいです」

 

 涙が浮かんではいたものの、吹羽の双眸は真っ直ぐに霊夢の瞳を射抜き、その考えに対する真剣さを彼女に示していた。

 

 木の葉が吹かれて地に落ちるほどの時間、二人はジッと見つめ合って、その奥に映る決意の炎を覗き見た。

 霊夢から見えたそれは静かで弱々しかったけれど、その熱を表す赤色が確かに輝いて衰えることはなかった。

 やがて、霊夢は目を伏せて一つ息を吐いた。

 

「……分かった。どんな結末でも、吹羽が納得できるなら私は何も言わない」

「……はい」

 

 立ち上がり、霊夢は吹羽に手を差し出した。ショックに腰が抜けていた吹羽は苦笑しながら霊夢の手を取り、立ち上がる。

 するとその瞬間を狙い澄ましたかのように、美しい声が背後から聞こえてきた、

 

「準備はできましたか?」

「……紫」

 

 暗闇からゆっくりと姿を現した八雲 紫は、その作り物のように美しい顔に微笑みを張り付けていた。

 長年の付き合いである霊夢には分かる。きっと今までの自分たちの行動は全て彼女の掌の上だったであろうことを。彼女が微笑んでいるのは、きっと予定通りに事が進んで上機嫌だからだ。

 霊夢は睨めつけるように眉根を寄せた。なんだか苦悩や葛藤が弄ばれていたような気がしたのだ。

 

 だが霊夢と同じようなことを感じたであろう吹羽は、その表情に嫌悪感を滲ませながらも、微笑む紫へ真っ向から真剣な視線を返す。

 

「……“世界のために、自分を取り戻せ”……そう言ってましたね」

「ええ、その通りです。そしてあなたは望み通り全てを思い出してくれた。これで彼に立ち向かう(・・・・・)理由は十分でしょう?」

「立ち向かうかどうかは、まだ分かりません。ボクはお兄ちゃんとお話をしに行くんです」

「あらあら……この期に及んでなんて甘いことを……」

 

 そう言った紫の声音に嫌悪感が滲んだことを、吹羽は見逃さなかった。あまりに僅かな変化だったものの――吹羽はその感覚を、なぜか知っているように思えた故に。

 

「……自分のことは自分で決めます。ボクはボクの意思で前に進むんです」

「土壇場で覚悟も決められない者は全てを失うだけですわ」

「っ、……」

 

 ぴしゃりとした紫の言葉に吹羽は押し黙った。

 

「彼は私の――私の夢の敵。どちらの意味(・・・・・・)でもね。だから彼は私の世界には必要ない。この世界は誰でも受け入れるけれど、自らを破壊しようとする者にわざわざ手を差し伸べることもないでしょう?」

「吹羽に……鶖飛を殺させる気?」

「“殺させる”……ふふ、まぁその通りといえばその通り。ただ、私が仕組むまでもないことですわ」

「……どういう意味ですか」

「あなたはどうあがいても、彼と戦わざるを得なくなるという意味ですわ」

 

 そういうと、紫はぱちんと指打ちを一つ鳴らした。すると二人の背後からスキマが口を開き、ぱくりと飲み込んだ。

 スキマはそのまま口を閉じるとすぅと消えてなくなり、旧風成邸には元の静寂が満ちる。

 

 ただ――

 

「……そう、あなたも私も彼とは相容れない。私の夢も、あの人の願いも……壊させるものですか」

 

 凛とした決意に満ちた声だけを、最後にして。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 書いていて思ったこと――これ伏線回収しきれんのかなぁ?

 頑張れ俺……前作を書き切った自分を信じるのだっ!(顔面蒼白

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