風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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 前回よりは早く仕上がりました。
 そろそろ佳境ですし、勢いのまま進みたいところ……!


第四十五話 追憶・沁みゆく影

 

 

 

 座学というのも、吹羽はそれほど嫌ってはいなかった。

 もちろん実際にやって試して、実験や試行錯誤した末に身につける方が何倍も効果的だと思ってはいるが、何も不必要なこととは思っていない。座学というのは、要は試行錯誤するための事前準備のようなものである。

 

 実験や試行錯誤をするにも知識が要る。土台がなければ応用は成り立たないし、危険も伴う。刃物の使い方も知らない者に包丁を握らせても、何も生産的なことは起こらないだろう。

 だから吹羽は座学にも真摯だ。

 そも風紋を学ぶのは“風を感じる術”を増やすためであるからして、吹羽がそのための勉強を疎かにするわけもなかったのだ。

 

「いい吹羽? いつも言ってるけど、風紋は繊細な刻印よ。だから――」

「寸分の手元の狂いが流れを乱す、だよね? 分かってるよ!」

「……上出来!」

 

 吹羽の自信有り気な言葉を聞き、暮葉も満足そうな笑顔をした。

 

「風って簡単なことで動きが変わってしまうわ。それこそ私たちが息をするだけで流れは乱れ、終いには千々に散ってしまう」

 

 「さてそこで問題です」と、暮葉は人差し指を立てて前置いた。

 

「そんな風を使って安定した効果を発揮させるには、まず何が大切でしょう?」

「はーい!」

「はいふーちゃん!」

「勢いですっ!」

「正解!」

 

 即答してみせた吹羽を暮葉はよしよしと撫で回す。吹羽はくすぐったそうにしていたが、父親同様、母親のこうしたスキンシップは気持ちがいいので始終笑顔だ。

 

「まぁ、この間教えたばっかりだものね。でもちゃんと覚えていたのは偉いわ」

「えへへ」

 

 ――つまるところ、風紋に関する座学とはこういうものだ。

 先祖代々受け継いできた風紋はその過程で研究され、進歩し、より法則的な概念に纏められていった。そうした中で、風紋を扱う上で知っておいた方がいい知識は座学として今日に残っているのだ。ここで学んだことを実践で試し、経験と知識を蓄えて一流の刀匠へと至る――それが風成家における教育である。

 

 因みに、今二人が話していた内容も長い歴史の中で研究されてきた内容の一つであり、風紋を安定して行使する方法である。

 緩い風は儚く、細い風は容易に他の風に飲み込まれる。ではどうすれば良いのかといえば、それは単純な話。太く強い風を生み出せば良いのだ。

 風紋によって流れる風に緩急をつけてまとめる事で強い風を生み出し、次の紋へと流し込む。そうすることで風は他の風に邪魔されることもなく効果を発揮し、安定性が増すのである。

 

 可愛い愛娘を撫で回して満足した暮葉は、吹羽の頭からそっと手を離すと、今度は打って変わって寂しそうな笑みを浮かべた。

 

「でも、本当に偉いわね吹羽。ちゃんと勉強ができて」

「ふぇ? ど、どういうこと?」

「いや、ね? だって吹羽、もうある程度の風紋は使えるでしょう? 秋水さんに言われたからこうしてやっているけど……この勉強も、なんだか今更なような気がしてね」

 

 頰を掻きながら苦笑いをこぼす暮葉の姿に、吹羽は彼女の言いたいことを察した。

 つまり、無駄なこと(・・・・・)をしているのではないか、と暗い内心を吐露しているのだ。

 

 暮葉の言葉通り、吹羽は既にある程度の風紋を扱うことができる。基礎的なものは当然のことながら、複合したもの、応用したもの、なんなら暮葉が考案しようとしてどうしてもうまくいかなかった風紋を完成させたことすらあった。

 この歳にしてそこまで風紋を扱える者など類を見ない。そして暮葉の風紋を完成させたことで、吹羽は歴代最年少で次階到達を認められたのだ。因みにその風紋は基礎にもなり得るものであり、つまり吹羽は風紋という技術の基本概念に当たるものを完成させたのだ。

 

 疑う余地のない、稀代の天才である。

 少なくとも、風成の人間としては最高の才覚を持っていた。

 

 だからこそ、暮葉はこうして座学をすることに少々疑問や虚しさを感じるのである。次階到達者に風紋の勉強など、今更以外の何者でもない、と。

 だが当の吹羽は、そんなことこれっぽっちも思っていなかった。

 

「今更なんかじゃないよ、お母さん」

「え?」

 

 予想外の言葉に、暮葉がキョトンと目を丸くする。

 

「あのね、ボクは確かに風紋を使えるけど、お父さんやお母さんみたいに理解してるわけじゃないんだぁ」

「ああ……“見える”んだっけ?」

「うん」

 

 小さく頷いて、少しだけ能力を解放する。吹羽の翡翠色の瞳が光を灯し、宙に僅かな線が揺れた。

 

「こうしていれば、いろんなものが見えるんだよ。すばしっこい虫さんの羽とか、遠くで鳴いた鳥さんのくちばしの動きとか……風紋を通った風の流れとか」

 

 “ありとあらゆるものを観測する程度の能力”。

 吹羽が生まれ持ったその能力は、奇しくも風成の人間のためだけにあるような能力であった。

 

 こうして人間が風紋を研究し法則的に纏めようとするのは、端的にいえば風の流れを掌握したいからだ。

 風とは儚く気まぐれで、中々思ったように動かない。そして目で見えないゆえに、制御するのがとても困難だ。大昔の風成家の先祖たちは、その目で見えない風を操るために風紋を創造した。

 

 だが吹羽の能力――鈴結眼はそれを真っ向から覆す力だ。

 

 先祖たちが掌握したがった風の動きを、吹羽はその眼によって見ることができる。見ることができたならば、あとは効果を発揮できるように少しずつ調節すれば良いだけだ。知識も最低限のものだけで済み、基礎などなくても応用ができてしまう。

 

 つまり吹羽は、次階に到達した時点でほとんど風紋のことを理解できていなかったのだ。

 

「見えたから、思った通りに動くように風紋を刻んだだけ。理論とか理由とか、そういうのじゃないの。お母さんの風紋を完成できたのも、風がお母さんが言っている通りの動きをするように見ながら刻んだだけ……。だからボクは、風紋のことをちょっとしか知らないんだよ」

 

 応用ができるなら基礎なんてどうでもいい――そんなことを言えるような、ズルい性格など吹羽はしていない。

 そりゃあ確かに吹羽は天才なのだろう。それは疑う余地がない。だが、そうして才覚に溺れたらきっと人は堕落する。そのことを吹羽は幼心に理解していた。

 母は新たな風紋を生み出そうと頭を悩ませていた。父は絶えず進歩しようとひたすらに金槌を振るっている。兄はいくら才能がなくても諦めずに前を見ていた。――そうした環境が、あるいは吹羽の“楽な方を追求してはいけない”という性分を形作ったのかもしれない。

 

 ゆえにこそ。

 

「ボク、みんなみたいになりたい。努力して、身につけて、一流の刀匠になりたい。だから……いくらボク自身の力でも、ズル(・・)はしたくないの」

「吹羽……」

 

 決意に満ちた吹羽の言葉に、暮葉は感動とも感心とも取れる吐息をこぼす。

 彼女の優しい眼差しに少しだけ小っ恥ずかしくなる吹羽だったが、自分の気持ちが全肯定されたようで、嫌な気分ではなかった。

 

 やはり、気持ちや夢を認められるのは嬉しいことだ。ましてそれが親であれば、まるで人として一人前だと認められたように感じてこそばゆい。

 そうしてむず痒さにも似た慣れない感覚に“てれてれ”としていると、

 

「も、も〜ふーちゃんったら一丁前なこと言うようになったわねっ! うりうり〜」

「うひゃっ!? ふあ、ほっぺがっ、つふれひゃうよおかあひゃん!」

 

 両手に挟まれてタコ口になる吹羽を、暮葉はにこにこと笑いながらからかう。だがそうしていながら、暮葉の頰も薄っすらと赤く染まっているのを吹羽は見逃さなかった。

 やはり彼女も、照れているらしい。そりゃ自分みたいになりたいだなんて娘に言われれば、照れてしまうのは無理からぬことだろう。そういう意味では、きっとこうして吹羽を弄り倒すのは暮葉なりの照れ隠しなのだ。

 

「ふふ……その気持ち、忘れないようにね」

「! うん!」

 

 大きく頷き、それに応えて暮葉も笑顔で頷く。

 さてそれじゃあ、と前置いて、暮葉が勉学の話に戻ろうと口を開いた。

 

 ――その時だった。

 

 

 

『何度も言わせるなッ!!』

 

 

 

 身体が芯から震え上がるような怒号が、家中に響いて聞こえてきた。

 それが誰のものなのかなど考えるまでもなかった。思わず肩を震わせてしまうような怒声など、滅多にないとは言え、一人しかいない。

 尋常ではない怒りように吹羽と暮葉は顔を見合わせると、連れ立って声の下へ――工房へ向かった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

『どうして同じ失敗をする!? お前は以前教えたことを覚えていないってのかッ!』

 

 工房の扉前までくると、怒号はより一層強く激しく聞こえてくる。扉を隔ててもこれなのだから、きっと中では凄まじい迫力だろう。想像するだけで足が竦む。

 中々手を出せない吹羽に代わり、暮葉が戸を開いた。

 

 するとそこには、歯をむき出しに目の端を釣り上げる秋水と、彼の前で小さく俯く鶖飛の姿があった。

 

「やる気がないのか!? どうなんだ!!」

「……やる気はあるよ」

「ではなぜ何度も何度も同じ失敗をする!? やる気があるのなら、一度とは言わずとも二度三度言われればわかるはずだろう!」

「……分かってるけど、苦手なんだ」

「“苦手”で済むならこれほどは言わない!」

 

 握り込んだ拳がガンッと机を叩く。見慣れないほどの剣幕で怒り続ける秋水の姿に、吹羽はすっかり怯えて小さくなってしまっていた。暮葉が両肩を手で包んでくれていなければ、一目散に逃げ出していたところだ。

 秋水は駆けつけてきた二人には気が付きもせず、怒りのままに言葉を鶖飛へ叩きつける。

 

「何度言った! 何度失敗した! なぜ工夫をしない!? これで“やる気がないから”以外の理由があるのか!?」

「………………」

 

 ――秋水は厳しい性格の人間だ。

 己のやることにストイックなのは当然のことながら、納得のいかない物事に対してはキツくあたる傾向がある、言わば頑固親父なのだ。

 今回のことも、言葉から察するに鶖飛がいつまで経っても風紋を彫れないことに痺れを切らし、怒りが爆発してしまったのだろうことが察せられた。

 

 だが、鬼というわけではない。彼の中にはしっかりと常識があり、それに基づいて判断された“仕方ない”事象に対しては温情も見せる。ゆえにこそ、彼がここまで怒る――否、鶖飛に(・・・)怒り散らすことは珍しいことだった。

 暮葉も流石に戸惑っている。そして止めに入る隙を見つけ出すことさえ、二人にはできなかった。

 

「お前は風成の人間だろう!! 為さねばならない目標(三階義)があり、一生を賭して励まなければならない! なぜお前はそれがわからないんだッ!」

 

 失敗したことを責めてはいない。失敗したことを反省せず、成功を目指さない姿勢をこそ彼は責めていた。

 

 秋水にとって――“生粋の風成”にとって最も大きな目標とは、つまり三階義の習得である。秋水自身終階に至ったと――承認の絶対数が少ないとはいえ――認められ、現当主として勾玉を受け継いではいるが、そこで止まることを彼の性分は許さなかったのだ。

 そして当主をはじめとした年長者が負う義務とは、後継の育成に他ならない。

 失敗ばかりを重ね、進歩の見られない鶖飛にキツく当たるのはある意味当然と言えた。

 

 だが――鶖飛の努力を、吹羽は知っている。

 

「(違う……違うよ、お父さん……!)」

 

 恐怖に身体が竦んで声こそ出ないが、吹羽は心の中でそう叫んだ。

 鶖飛にやる気がないなんて、そんなことは決してない。むしろ、誰より真摯に学ぼうとしているのは鶖飛なのだ。

 彫刻は確かに下手かもしれない。だがそれを補って余りあるほどに鶖飛は風紋への理解があり、それに関しては吹羽など足元にも及ばない。彼が本気を出して新たな風紋を開発したとするなら、きっと吹羽には全く解読できないほどの複雑さを誇っていることだろう。

 

 だが、秋水はそれを考慮しない。自身が己に厳しく生きてきたゆえに、上手くならないのは偏に努力の不足が原因だという凝り固まった考えが根底にあるのだ。

 得手不得手も努力すれば克服できる。努力は万能の薬だと信じて疑わない。そうした彼にとっての常識(・・)が、鶖飛に対する怒りを生み出しているのだ。

 

 “やる気がないのか”――それは二人のすれ違いが生んだ、とても酷い言葉だった。

 

「苦手など理由にならん……。それは己の怠惰が生んだ言い訳に過ぎない。お前がそんなことを言う奴だとは思ってもいなかったが……」

 

 ――その言葉を聞いた瞬間、嫌な雰囲気がした。

 それは血の気が失せるようで、心臓の鼓動すら遠くなるようで、何か取り返しのつかないことがすぐ目の前まで迫っているような冷たい焦燥感だった。

 

 咄嗟に足を踏み出す。手を伸ばす。しかし父を止めようとした言葉は間に合わず――。

 

 

 

「吹羽とは大違いだ……失望したぞ、鶖飛」

 

 

 

 何か大切なものが、ぷつりと切れた気がした。

 

「………………」

 

 黙って俯いたままの鶖飛の姿。

 彼の瞳すら陰って見えないその姿は、何か決定的なものが切れてズレて、そのまま落ちていってしまうかのような得体の知れない恐怖を吹羽に感じさせた。

 その雰囲気に、秋水は気が付かない。ただすれ違いが生んだ失望に頭を抱え、低く唸るのみだ。或いは、(吹羽)の才能に感激して兄にも期待し過ぎたことを後悔するかのようでもあった。

 

 ――そんな、鶖飛を認めない(・・・・・・・)父に。

 

「……知っていたさ、父さん」

 

 向けられた瞳は――酷薄なほどに透明で、空っぽだった。

 

「……何がだ?」

 

 片眉を上げて訝しむ秋水に、鶖飛は色の無い瞳のまま顔を背ける。

 

「望まれてたのは俺じゃなくて、吹羽だけだってこと」

「……なんだと?」

「とぼけなくていい。今聞いて確信した。風成の人間として吹羽は完璧で、俺は欠陥品だってことだろ」

「ッ!」

 

 諦観に満ちた声音だった。吹羽と知る鶖飛からは考え付かないような弱気な言葉で――秋水が鶖飛に失望した以上に、彼が彼自身に失望したようにも見えた。

 

「吹羽は間違いなく天才だよ。それでも頼ってくれるから頑張ってみたけどさ……もう無理だ。俺じゃ吹羽には追い付けない。父さんの期待には応えられない」

「違う……そんなことが言いたいわけじゃない!」

「何を今更……吹羽みたいにできなくて失望したんでしょ」

「だからそうではないと――」

「なら他に何があるってんだよッ!!」

 

 聞いたこともないような怒りの声が工房に響いた。秋水を睥睨する鶖飛の瞳はやはり憤怒に染まり、刀のような鋭利さで秋水を真っ向から射抜いている。

 そんな兄を、吹羽は知らない。あまりにも普段とかけ離れた彼の姿は、まるで自分が叱られているかのように吹羽の思考を真っ白に染めていた。

 

 何か、とても良くないことが目の前で起きている。でもどうすればいいのかが全くわからない。

 

「俺は父さんたちみたいにはできない……そんなことはずっと前からわかってた! だから俺なりに頑張ったんだ! それでもダメなんだろ!? 父さんの期待通りじゃあないんだろ!! この他に何かあるなら言ってくれよ!!」

「っ、……」

 

 痛いところを突かれたと言ったように秋水は顔を歪ませ、しかし決して口は開かない。吹羽にはそれが何かを秘めているようにも見えたが、激昂した鶖飛にそんなことを気をかける余裕などある訳がなく。

 

「……もういいよ」

 

 そう言い残して、鶖飛は工房から飛び出していってしまった。

 咄嗟に暮葉が名を呼ぶが、一瞬も足を止めることなく林の方に走り去ってしまう。

 秋水は依然苦々しい表情で、小さく舌を鳴らした。

 

「秋水さん……」

「ああ……言葉を間違ったな。そんなつもりで言ったんじゃないんだが……」

 

 暮葉が小さく声をかける。応える秋水の声音は明らかに落ち込んでいた。

 吹羽は混乱と焦燥の真っ只中にいたが、鶖飛を放っておいてはいけない気がして、堪らずに駆け出した。

 

「ぼ、ボク追いかけてくるよ!」

「あっ、吹羽……!」

 

 呼ばれるが、振り返らない。今は両親よりも兄の方が心配だった。

 嫌な予感というのは往々にして当たるもの。鶖飛に何か起こるのが吹羽にはどうしようもなく嫌で、駆ける足を止めることすら恐ろしいほどだった。

 

 日はまだ高い。だが天気が悪く、分厚い雲が日の光を完全に遮っている。今にも雨が降り出しそうなほどに空気は冷たく、隙間風のように寒く感ぜられた。

 嫌な予感を助長するようで、吹羽は無意識にこくりと唾を飲み込む。固く粘つき、喉に絡みつくそれは非常に不快だった。

 

 そうして、“お兄ちゃん、お兄ちゃん”と心の中で呼びながら走り回ること数刻。

 

 

 

 林の中でも一際暗い場所に、鶖飛の背中が見えた。

 

 

 

「っ、お兄ちゃ――」

『なん、だって……?』

 

 咄嗟に声をかけようとするが、それは他ならぬ鶖飛の声によって遮られた。そしてそのまま、何故か不気味に感じて吹羽は言葉を飲み込んだ。

 吹羽の声には気が付いていないのか、鶖飛は背を向けたままひたすら森の奥の方を見つめていた。

 

 吹羽は咄嗟に木陰に身体を隠した。何故こんなことをしているのか自分でも分からなかったが、とにかく今出ていくのがなんとなく不気味に感じて、吹羽は木の陰から鶖飛の様子を覗き込む。

 深い深い闇の方に向けて、鶖飛は何事かを話していた。

 

『なんで……』

 

 話す、というと相手がいるようだが、決してそんなことはない。鶖飛が言葉を放っている方向は暗闇の中で、吹羽の眼で見ても人影らしきものも全く見えないし、声だって聞こえない。誰もいない暗闇の方に、鶖飛が一方的に話し言葉を放っているような状態だ。

 

 恐ろしい――というよりは、心配だった。ひょっとすれば鶖飛の不安定な精神につけ込んで悪霊の類が取り付いたのではないか、と。

 幻想郷では幽霊の類は珍しい存在ではない。害のない幽霊もいれば当然悪霊もいる。精神的な存在である幽霊の類は、やはり弱った精神につけ込んでくるものなのだ。

 

 だが、それだけでこんなにも不気味なものか――幽霊を見たときのそれと釣り合わぬ本能的な怖気に、疑問が浮かび上がる。そしてその疑問が、更に不気味さを煽る。

 

『どういう意味だ』

「(お兄ちゃん……誰と話してるの……?)」

 

 声音に不安定さはない。ゆえに、鶖飛は確かに何者かをその目に認めて会話していると思われる。だが試しに能力を解放して“視野”を広げてみるも、やはり暗闇の中には何もいないし幽霊の類も見受けられない。

 認識できない何かと、鶖飛は会話していた。

 

『……まさか……それが俺、だってのか』

 

 出て行って止めるべきか。いやしかし、危険なものなら鶖飛が抵抗しないはずはないし――。

 木陰から覗きながら逡巡するも、やはり弱気な吹羽は怖気に抗えない。見えないナニカと、鶖飛の不可思議な会話が続く。

 

『………………』

「(お兄ちゃん……)」

 

 そうして様子を見ていると、鶖飛は突然何かに気が付いたようにして振り返った。咄嗟に覗き込んでいた顔も木陰に隠すが、あまりに突然だったので、反応が遅れたことは明らかだった。

 

 暗闇の方へと向かっていた鶖飛の意識が、ようやく吹羽に向けられる。それを感じ取って、吹羽は小さく体を震わせた。

 自分は覗き見をしていたのだ。それに今の鶖飛はきっと父とのことでイラついてもいる。であれば、覗き見なんぞをしていた不埒者に容赦など使用はずもない――と、妙に激しい鼓動を心臓が刻む。

 数瞬か、数秒か、やけに長く感じる静寂を間において、

 

 

 

「なんだ、吹羽。迎えに来てくれたのか?」

 

 

 

 掛けられた言葉は、しかし思っていたよりも何倍も優しいものだった。

 

 思わずひょこりと顔を出すと、相変わらず森の奥は真っ暗だったが、鶖飛は微笑ましげに――それこそいつも以上に(・・・・・・)優しげな表情で吹羽を見つめていた。

 

 少しだけ、違和感があった。

 

「……お兄、ちゃん……?」

「ああ。……どうした? そんなところに隠れてないで、出てきなよ」

「う、うん……」

 

 違和感に困惑しながら木陰から出る。吹羽は鶖飛が完全にこちらを認識していることを確認すると、意を決して一番の疑問をぶつけた。

 

「お兄ちゃん……誰と、話してたの?」

「話? いや、独り言だよ。気にしないでいい」

「え……でも、さっき――」

「吹羽は何も気にしなくていいよ。心配することない」

「………………」

 

 鶖飛はそう言いながら近づいて来ると、わざわざ吹羽に目線を合わせて頭を撫でた。労わるような柔らかい手つきで、もちろん気持ち良くはあったが、なぜか素直に喜べない。

 

 はぐらかされた――そう思った。少なくとも独り言だなんていうのは嘘。明らかに吹羽の眼にも見えない何かと話していたのだ。

 あの時感じた不気味さは今でこそ感じないものの、吹羽は目の前の鶖飛に付きまとう違和感をどうしても拭えないでいた。

 何かが、なんとなく、おかしい気がしたのだ。

 

 判然としない気持ちのまま、しかし拒否することも当然できず、吹羽は鶖飛の手を受け入れる。

 少し経ってようやく満足したのか、鶖飛は吹羽の頭から手を離すなり立ち上がった。

 そして、片手を差し出し、

 

「ほら、家に戻ろう」

 

 そう言って笑った。

 

「え、あの……お兄ちゃん?」

「うん?」

「えと、その……お父さんのことは……いいの……?」

「ああそのことか。大丈夫、何の問題もない。あんなのいつものことさ」

「で、でも……っ、」

 

 “あんなに辛そうだったのに”。

 そう言いかけて、吹羽は咄嗟に言葉を呑み込んだ。それを言ってしまえば、藪蛇をつついてしまう気がしたのだ。

 

「……そっか」

 

 父との問答に於いて、鶖飛が深く傷ついたのは確かだ。だからこそ吹羽は放って置けなくてここまで追いかけてきた。

 だが当の鶖飛は、喧嘩した後にも関わらずこうして笑顔ができている。そこに多少の不気味さや不理解は確かにあっても、鶖飛が傷付いたままよりはずっといいと吹羽は思ったのだ。

 きっとここに来るまでに気持ちの踏ん切りがついたということなのだろう。であれば、わざわざ話を掘り返してしまうのは悪手である、と。

 

 

 

 “鶖飛が笑っていてくれさえすればそれでいい”。

 

 

 

 この頃の吹羽は願望に忠実で、それが叶ってさえいれば、その裏側(・・)を覗き込もうなんて考えもしない――賢く、そして実に愚かな少女であった。

 

「ほら、帰ろう」

「うん……」

 

 ゆえにこそ、吹羽は気が付かなかったのだ。

 この時鶖飛の心に燻っていたものがなんなのか。

 握る手こそ柔らかなものだったが、その表情に於いては――

 

 

 

 疑惑と敵意に満ちた、暗いものだったことに。

 

 

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

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