風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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 大変お待たせしました。
 一ヶ月空きはヤバイですね……反省します。


第四十四話 追憶・久遠の幸せ

 

 

 

 そう――疑ってさえいなかった。

 森に、風に、家族に囲まれて、穏やかな日々がいつまでも続いていくのだ、と。

 

 平穏の裏で何が起こっていたかなど、無知な自分は何も考えていなくて。

 ただ降って湧くような幸せを享受するだけで――いつの間にか走っていた小さな罅のことなんて、気が付いてもいなかったのだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 家にもほど近い森の中で、吹羽は必死に走っていた。大木の横を通り過ぎ、横たわる倒木の下をくぐり、小川を軽く飛び越えて、時折後ろを振り返りながら先へ先へと入っていく。

 呼吸は苦しいが、止まる訳にはいかなかった。時間切れは目の前なのだ。

 

「(早く、隠れなきゃ!)」

 

 見つかる訳にはいかない、絶対に。

 激しい鼓動を刻む胸に拳を当てて、走りながらも周囲を見遣る。早く隠れなければならないが、見つかりやすい場所を選んでは返って悪い。

 慎重に、かつ迅速に。

 吹羽は目を凝らして睥睨するように周囲を見回し――ようやく納得のいく隠れ場所を見つけた。早速駆け寄り、自らの体を滑り込ませる。

 

「(ここなら、見つからないよね……?)」

 

 中身が枯れ落ち空洞になった倒木の中に潜り込み、吹羽は深くゆっくり深呼吸して息をひそめた。

 どくどくと激しい鼓動が嫌に大きく聞こえる。あまりにも大きすぎて、この木の外にまで響いてしまっているのではと心配になるくらいだ。

 吹羽はさらに体を小さく縮こめ、外の音に耳を澄ます。

 

 ――すると、しばらくして落ち葉を踏みしめる音が聞こえてきた。

 

 サク、サクと一歩ずつ確かめるようなゆっくりとした歩みだ。

 思わず息が詰まった。見つかると思うと体が震えて、今すぐにでも逃げ出したくなる。もっといい隠れ場所があったのではないかと若干の後悔すら湧き上がってきた。

 

 だが、もう遅い。

 

 足音はだんだんと大きくなり、不意にすぐ近くでピタリと止まった。丁度、目の前――木の壁を隔てたそのすぐ先に、いる。

 両肩を抱き寄せ、きゅっと目を瞑って吹羽は願った。

 

「(お願い……見つからないで……っ!)」

 

 ――その想いが通じたのか。

 敏感になった吹羽の聴覚は、少しずつ小さくなっていく足音を聞き取った。そのまま小さくなって、遠くなって、終いには聞こえなくなる。足音の主が、吹羽の隠れた倒木から離れていった証だ。

 

 徐に安堵の吐息が漏れた。絶対に見つかってはならない状況下、まさに極限と言って差し支えない状況だ。心臓は未だにどくどくと激しく鼓動を刻んでいて、掻き抱く肩は少し震えている。中々緊張が冷めやらない。

 でも、と吹羽はポツリ呟く。

 

「あとは時間が過ぎるのを待つだけ――」

 

 

 

「みぃつけた」

 

 

 

 ――声にならない悲鳴が、全身を駆け抜けた。

 一瞬呼吸が止まり、体が跳ねて倒木をもぐらりと揺らす。そのくせ血の気がさぁと引いていってうまく体が動かないため、声の方向へと向ける頭はギギギといった風にゆっくりだった。

 

 そして、その先には。

 

「やっぱりここだったか。吹羽はすぐ狭いところに潜りたがるからなぁ、こういう時」

 

 倒木を覗き込んでくる兄――鶖飛のしたり顔があった。

 呆れたようなその声音に応える吹羽の言葉は、驚愕が響いているのか若干震えていた。

 

「ふぇ……でも、さっき向こうに行って……」

「そりゃあお前……せっかくだから驚かせないとと思って。ほら、抜き足差し足ってね」

「せ、せっかくだからじゃないよう! びっくりしすぎて死んじゃうところだったよーっ!」

 

 いそいそと倒木から出てくると、吹羽は怒りを露わに鶖飛のお腹をポカポカと叩く。だが、当の鶖飛は嫌がるよりもむしろ楽しそうにからからと笑っていた。

 作戦に見事にはまり、そして可愛らしく憤る吹羽の姿が大変に可笑しいらしい。

 

「さぁて吹羽、約束は覚えてるよな?」

「……………………もう一回戦、だよね?」

「とぼけるなって。かくれんぼで三回勝った方がおやつのたい焼きを一つ、負けた方から貰うって約束だろ?」

「……ぅぅうう〜っ!」

 

 激しく唸る吹羽を尻目に、鶖飛はスタスタと歩き出してしまう。兄の背中と森の奥に視線が何度も往復して、吹羽は終いに空を見上げた。

 日の傾き方からして、まさにお母さんがおやつを出してくれる時間帯である。もう一度かくれんぼをする時間が無いのは明白だ。

 大好物のたい焼きがかかっている以上すんなりと負けを認めるわけにもいかず、かといってこのままここで駄々をこねて本来食べられるはずのたい焼きさえ食べられないのは苦痛以外の何者でもなく――吹羽は仕方なく、鶖飛の後を追いかけることにした。

 

「ずるいよぅお兄ちゃん……お兄ちゃんだけたい焼き三つも食べられるなんて」

「ずるくねぇよ。仕掛けてきたのは吹羽だろ? 全部取るわけじゃないんだからグズるなって」

「でもぉ〜!」

「でもじゃない。今度母さんに買ってもらえ」

「ぶー」

 

 正論過ぎてぐうの音も出ない。真綿で首を絞められるとはこういうことかと吹羽は見当違いな遣る瀬無さを感じた。

 

 相変わらずお兄ちゃんには勝てないなぁ。鶖飛の袖の先を摘んで歩きながら、吹羽はほうと小さく息を吐いた。

 護身と刃物への理解を深めるために剣の稽古もしているが鶖飛には一太刀入れることもできないし、こういう遊びでも数えるくらいしか勝ったことがない。今日もいつもの如くじゃれついて(・・・・・・)みたわけだが、結果はまぁこの通りである。

 

 鶖飛は剣術の腕が特に頭抜けて高いが、その他のことも――鍛治を除いて――一通り平均以上にこなすことができる。そんな彼が吹羽には眩しく、また超えたいと幼心に思うのだ。

 今日のかくれんぼでも、鶖飛は稽古の疲れを感じさせないほどに元気で優秀で、悔しいと共に誇らしくも感じるのである。

 

「「ただいまー」」

 

 玄関の戸を開いて示し合わせたように声を重ねる。すると、奥の方からひょこりと美しい女性が顔をのぞかせた。

 薄っすらと萌葱色が浮かぶ瞳を優しげに細めて、彼女――母、暮葉は二人を笑顔で迎えた。

 

「お帰りなさい二人共。おやつはもう出してあるからね」

「やったぁ! ありがとお母さん!」

「はいはい。でもちゃんと手を洗ってからね。鶖飛!」

「分かってる。行くよ吹羽」

「はーい!」

「ああそれと……ふーちゃん(・・・・・)!」

 

 手を洗うべく水道へ向かおうとして、暮葉の、吹羽をからかう時の呼び方を聞いて足を止める。

 少し恐々とゆっくり振り返ると、そこには暮葉のにやりとした笑みがあった。

 

 

 

「巫女様、来てるわよ!」

 

 

 

 

 

 

 手洗いうがいを終えて居間に向かうと、吹羽はそこに優雅にお茶を啜る少女の背中を見た。

 相変わらず綺麗に座るなぁと思いながら、吹羽は満面の笑みに歓喜を浮かべて彼女に駆け寄った。

 彼女が家に来て、吹羽が喜ばないわけがない。なにせ彼女は吹羽の一番の友人であり――初めてのお客様(・・・・・・・)だったのだから。

 

「霊夢さん、いらっしゃい!」

「ああ、吹羽。お邪魔してるわ」

 

 簡素にそう答える少女――博麗 霊夢の隣に座ると、彼女は湯飲みにお茶を注いで吹羽の前に置いた。礼と共に受け取り、ずずずと温かいお茶を啜る。

 全身に染み渡る心地良い熱。自分の身体が限界近くまでリラックスしているのが自覚できる。

 霊夢の隣は、吹羽にとって非常に居心地が良い場所だった。

 

「霊夢さん、ボクの打った包丁の具合はどうですか?」

「んー? ああ、いい感じよ。どんなに硬い野菜もスパッと切れちゃうからね」

「刃毀れとかは?」

「ないわ」

「んふふ〜!」

 

 というのも、霊夢は吹羽が初めてお客様として作刀を承った相手であり、ゆえに一生忘れ得ぬ思い入れのある相手なのだ。それも霊夢が吹羽を指名しての依頼である、当時の吹羽が舞い上がるほどに歓喜したのは想像に難くないだろう。

 それ以来、吹羽は霊夢に懐きっぱなしである。霊夢自身も面倒見が悪いわけではなく、吹羽のことを気に入っているようだったので度々風成邸に訪れるのだ。

 

 因みに、包丁の具合に関しては彼女が訪れるたびに尋ねる決まり文句みたいなもの――作刀してから数ヶ月経っているにもかかわらず――である。

 嬉しさゆえ懲りずに尋ねてくる吹羽に対して、面倒がらずに答えるあたり、やはり霊夢は吹羽を気に入っているのだと言える。

 

「阿求さんは来てないんですか?」

「あたしだけじゃ不満?」

「あいえっ、そういうことじゃないですけど!」

 

 予期せぬ返答に慌てて弁明すると、霊夢はにやりと可笑しそうに笑った。

 

「冗談よ。あの子は忙しいから、あたしからは誘わないようにしてるわ。重なった時はまぁ運が良かったってことね」

「そ、そうなんですか。じゃあ阿求さんはまた今度ですね……あっ、たい焼き! はむっ♪」

 

 霊夢の言葉に納得する。次いで視線を動かすと、吹羽は自分の皿に盛られた二枚のたい焼きに目を輝かせ辛抱堪らん! とばかりにかぶりついた。

 生地はサクサクで軽く、中はねっとりとした甘い粒餡だ。これは里でも安くて美味しいと有名なお店のたい焼きだろう。咀嚼するたびに甘みが舌に絡みついてきて、吹羽は本当に頰が落ちてしまうかのような錯覚に陥った。

 ――もちろん、その様子は霊夢がバッチリと見ているわけで。

 

「……相変わらずほんっとうに美味しそうに食べるわね。そんなに美味しいかしら、たい焼き」

「おいひいでふよぉ〜♪ 〜〜っんく。ボク、きっとたい焼きを食べるために生まれてきたんだと思うんですぅ〜♪」

 

 たい焼きなんぞに存在意義を見出す幼女の姿に、霊夢は大きな溜め息を吐いた。

 

「まぁ好みは人それぞれだけれど。取り敢えずそのだらしない顔を直しなさい。一応あたし客なのよ?」

「はひっ!? そうでした! 見なかったことにしてください!」

「だから直しなさいよ」

「これは不可抗力ってやつなのでどうにもできないんです!」

 

 実際、何度かたい焼きを食べても表情が蕩けないように意識してみたことはあるが、いつも惨敗に終わっている吹羽だった。そうして検証の結果彼女が辿り着いた結論とは、“たい焼きを食べてだらしない顔になってしまうのは神の神秘なので直せない”ということである。

 

 神秘ならば仕方ない。人の身で神の力を超えられるなんて傲慢なことを、敬虔な信徒である吹羽は考えない。なので見なかったことにしてもらうしかないのだ。

 霊夢がたい焼きを食べても普通にしているのはアレだ、巫女だから神の力に慣れというか耐性というか、そういうのがきっと付いているのだ。内心ではもうとろっとろになっているに違いない。

 

 と、霊夢とたい焼き談義に花を咲かせていたところに新たな声が。

 

「またしょうもないこと言ってるなぁ吹羽。たい焼きなんぞでそうなるのはお前だけだぞ。よっ」

「あぁっ!? ボクのたい焼きぃ!」

 

 一つ目を堪能し、早速二つ目(最後)に手を出そうとしたところで、それは頭の上から伸びてきた腕に掻っ攫われてしまった。その腕の主たる鶖飛は、当然と言った表情でたい焼きを口に咥え、吹羽の隣に座る。

 もちろん、吹羽は食いかかった。

 

「最後の一つ! 取らないでよぉ〜!」

「いや、約束なんだからこれは俺の分だろ?」

「それは! そう、だけどぉ……」

 

 だとしても、上から無理矢理取るのは違うだろ!

 ――そう言いたいのは山々だったが、性格上約束を破るような言葉を鶖飛に投げるのも憚られ、吹羽は頰をぷっくりと膨らませて押し黙る。

 当然と言った顔で妹のものを取る兄と、それに何も言い返せない気弱な妹。傍目からは兄妹にありがち(?)な理不尽染みた光景に、眺めていた霊夢が苦言を呈した。

 

「ちょっと鶖飛、妹におやつを集るなんて随分と恥知らずなことするじゃない」

「誰が恥知らずだ。戦利品だコレは」

「なんの勝負か知らないけど、勝ったからって妹のものを本当に取っていく兄がいるかって話。嫌われるわよ? 誰にとは言わないけど」

「うっせ。お前こそ人の家に我が物顔で上がり込むなんて、いつかぬらりひょんと間違われるぞ。妖怪に間違われる博麗の巫女とか、いい笑い物だな?」

「は?」

「ンだよ」

「や、やめてよ二人ともぉ……」

 

 きつい視線をぶつけ合う二人に挟まれ、吹羽はオロオロと視線を彷徨わせる。

 幾らいつものこと(・・・・・・)とはいえ、それを自分を挟んでやってもらっては敵わない。国同士の戦争で最も被害が出るのは、いつだって両国ではなくその間にある国(戦場)なのだ。

 剣呑な雰囲気で視線を交わす二人。そしてその間で体を縮こまらせる吹羽。だがそれを中断させたのは、やはりこれもいつも通りに――。

 

「あらあら、巫女様と随分仲がいいのね鶖飛?」

 

 そう言ってにこにこしながら、暮葉が自らの湯呑みを持って居間にやってきた。

 二人は即座に視線を切ると、鶖飛は不機嫌そうに眉根を寄せ、霊夢は澄まし顔でお茶を啜る。

 

「別に仲良くない」

「喧嘩するほどなんとやらと言うけどね。あなた達会うたび会うたび口喧嘩するじゃない」

「それはこいつが文句つけてくるから」

「文句はつけてないわ。恥知らずに常識を教えてあげてるだけよ」

「非常識の塊みたいなヤツが何言ってるんだ」

「あんたに言われたくないわ。なんなら此間つかなかった決着を今からつけてもいいのよ? この剣術バカ」

「あ?」

「なによ」

「仲が良いってそう言うことよ?」

 

 言葉を交わして二、三言目には火花を散らし始める二人の姿に、暮葉は初々しいものを見たような柔らかい笑顔をこぼした。

 

 基本的に二人は喧嘩が多い。暮葉の言葉通り会うたびに口喧嘩しては火花を散らし、吹羽や暮葉が仲裁するというのが日常茶飯事である。

 正直に言えば吹羽も二人は仲が良いと思うのだが、これを言ったらなにをされるか分かったものではないのでいつも喉奥に留めているのだ。

 二人共“天才”と言って差し支えないほどになんでもできる似た者同士なのに。同族嫌悪というやつなのだろうかと吹羽はいつも思う。

 

「……話がズレたわ。ともかく、兄が妹のものを取るなんて恥を知れってことよ」

「なに、鶖飛。まさか吹羽のもの取ったの?」

「違うって。いや違くないけど、勝負に勝ったからもらったんだって」

「ほんと、吹羽?」

 

 覗き込んでくる暮葉に、吹羽は渋々ながら頷く。結局のところ鶖飛の言い分は正しくて、ただ吹羽が敗北を認められないだけなのだ。

 だが、どうやら暮葉は霊夢の味方のようで、霊夢と共に意味ありげな視線を鶖飛に向ける。すると、鶖飛は居心地が悪くなったのか「しょうがないな……」と呟き、

 

「……ほら、吹羽」

「ふぇ?」

 

 鶖飛が差し出してきたのは、半分に割られたたい焼き。

 

「もらっていいの……?」

「バカ言え。俺が勝負に勝ったから、お前の分を半分もらう(・・・・・)んだよ」

「! お兄ちゃん、ありがとっ!」

 

 よく見れば、鶖飛が差し出してきたのは餡がたっぷりと入ったたい焼きの胴部、対して鶖飛の方はヒレ部である。あくまで貰う側だから小さい方でいい、なんて言葉が聞こえてきそうな気遣い方だ。

 例えそれが責められた故の行動だとしても、なんだかんだでこうして優しくしてくれる兄が吹羽は大好きなのだ。

 満面の笑みで礼を言い、それをありがたく受け取って吹羽は迷わずかぶりつく。舌に広がる餡がますます甘く、暖かく感じられた。

 

「えへへ……もう、霊夢さんがお姉ちゃんになってくれたら良いのになぁ〜」

「あら、いいこと言うわね吹羽。じゃあ巫女様、うちの鶖飛をお願いしますね」

「「それだけは絶対にない」」

「遠慮しなくていいんですよ霊夢さん?」

「「こんなやつこっちから願い下げだから」」

「やっぱり仲良いじゃない」

 

 これだけ言葉を重ねられる二人が、仲が悪いなんてありえない。

 鶖飛に貰ったたい焼きをもぐもぐしながら、吹羽は幼心にそう確信していた。霊夢が姉で、鶖飛が兄。二人がずっと傍にいて、いつでも遊んでくれる生活……嗚呼、なんと素晴らしい。そこになんらかの形で阿求がウチに住んでくれれば最高なのだが、流石に望みすぎだろうか。

 

 大好物のたい焼きを噛み締めながら、吹羽はそんな甘々な妄想に浸って、実に幸せそうな笑顔をこぼす。彼女は気が付いていなかったが、それを見ていた霊夢、暮葉、鶖飛までもが優しげな笑みを浮かべていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 真っ青だった空は既に茜色に染まっている。小鳥の鳴き声は烏のかぁかぁという声音に変わり、宵の時刻を伝えていた。おやつと団欒の時間も終わり、三人――霊夢は客人なので省略――は皿や湯呑みなどを片付けていた。

 

 そんな折、ふとしたように鶖飛が口を開いた。

 

「そういや、父さんは?」

 

 数時間前の指南の後、一度も見ていない父の姿を思い出す。

 台所で皿の水洗いをしていた暮葉は、特に振り返ることもなく答えた。

 

「まだ鋼を打っているわ。あの人は本当に、鍛治に対しては誰よりも“風成”なのよね」

「お父さん、また研究をしてるの?」

「そうみたい。今日は依頼も早く終わったみたいだったんだけどね。全くもう……」

 

 吹羽と鶖飛の父――名を秋水(しゅうすい)

 その名の通りに、誰よりも曇りなく生真面目な刀鍛冶だった。一に鍛治二に鍛治三にやっと家族が入ってくるほどストイックな鍛治師であり、食事と就寝以外はほとんどの時間を工房で過ごしている。

 当然ながら吹羽と鶖飛の師匠でもあり、一日数時間に及ぶ鍛治の指導はとても厳しい。

 

 因みに、暮葉も風成の分家の出であり、ある程度鍛治や信仰についての理解があるので座学などは彼女が担当である。

 両親はすでに他界しているので、実質吹羽の家族(風成本家)こそが風成一族最後の家ということだ。

 

「そうだ。二人とも、お父さんにおにぎり持っていってもらえる?」

「おにぎり? なんで」

「あの人、放って置いたらいつまでも金槌振るっていそうだからね。様子を見るついでに、持って行ってちょうだい」

「はーい!」

 

 炊き出してあった釜からご飯を取り、手早くおにぎりを仕上げた暮葉。それを小さな皿に盛ると鶖飛に手渡し、吹羽の方には緩めに冷めたお茶が手渡された。

 

「ついでに、夕飯時には切り上げるように言っておいて」

「分かった」

「うん!」

 

 工房へは通路で繋がっている。庭を挟んで少し離れた場所に建てられている古い工房だが、代々受け継いできたものということもあって近くに新しく建てるというわけにもいかず、代わりに家から直接行き来できるように渡り廊下を建てたのだ。

 

 持たされたおにぎりとお茶を落とさぬよう気持ち慎重に渡り、辿り着いた工房の扉に指をかける。

 暮葉の言葉通り、稽古の終了から大分時間が経っているにも関わらず、中からは力強い鋼を打つ音が響いていた。

 

「お父さん、おにぎり持ってきたよっ!」

 

 工房の引き戸を開いて、元気よく吹羽が声をかける。返事はなかったが、鋼を打つ音は絶えず聞こえてくるので、炉の向こう側にいるのだろう。

 二人は多数の道具や作品が並べられた中を慎重に進み、高熱を放つ炉の横から顔を出した。

 そこには案の定、鋭い目つきをした父、秋水の姿があった。

 

「父さん、軽食を持ってきた」

「おにぎりと、お茶もあるよ」

「…………」

 

 返事はない。力強く鋼を打っては位置をずらし、鋭い視線は一瞬たりとも鋼から離れない。

 

「お父さーん?」

「……集中すると音が聞こえなくなる癖、いい加減直したほうがいいんじゃないか、これ」

 

 鶖飛の苦言に吹羽も苦笑いしながら頷く。

 秋水のこの状態は珍しいことでもなんでもなく、むしろ頻繁に起こる彼の癖ともいうべき習性だった。

 

 筋肉質の体は年に似合わず、炎の僅かな色の違いすら見逃さない鋭い眼光は、射抜かれれば熊ですら逃げ出すだろう。まさに“鍛治師となるために生まれた”ような体を持った彼は、いざ鍛治に向かう際にはとんでもない集中力を発揮するのだ。それこそ至近距離での他人の会話にすら気がつかないほど。

 暮葉の言葉通り、彼は今代の誰よりも“風成”の人間であり――故に現当主なのである。

 

 とは言ってもこのままではらちがあかない。短いながら彼を見続けてきた息子娘の二人は、こういう時にどうすべきかも既に心得ていた。

 鋼を打つ金槌が傍に置かれ、秋水が鋼の表面の出来を観察するその短い隙に、鶖飛は彼の肩をトントンと叩いた。

 

「んっ? おお、鶖飛と吹羽。どうした?」

「飯。母さんから」

「おにぎりだよ!」

 

 向けられた視線は相変わらず鋭いが、声音は穏やかだ。二人が持ったお茶とおにぎりを見て、次いで工房の外を見遣った秋水は、小さく「またやっちまったか……」と呟いて頭を掻いた。

 

「悪いな。どうにも鋼に触れてると時間感覚が飛んじまうんだ」

「いい加減直したほうがいいんじゃ?」

「つってもなあ……」

 

 仕方なさそうに眉をハの字にして、秋水はほんのりと赤められた鋼を見下ろす。何度も熱せられ、叩かれ、不銹鋼(ふしゅうこう)硼砂(ほうしゃ)と共に鍛えられたそれは、既に刀剣程の薄さと僅かな反りが見受けられた。

 持ち上げて、ジッと睥睨するように眺める。太い首にかけられた勾玉のペンダントがからりと鳴った。

 

「風と共に生きる……そのためにご先祖様が編み出したのがこの技術だ。それを持って鋼と向き合うと、夢中にならずにいられねぇ」

「……子供みたいだよ、お父さん」

「ははっ、吹羽に言われちゃ世話ねぇな!」

 

 カッカと笑いながら、秋水は乱暴に吹羽の頭を撫でた。

 年頃の子供には嫌がられるであろう激しいスキンシップだが、“家族大好き”を地で行く吹羽にはただただ嬉しいだけで、頭を撫でるゴツゴツとした感触を笑顔で受け入れていた。

 その様子に“俺は嫌だなぁ”とばかりの渋い顔をして、鶖飛は一つ溜め息をこぼした。

 

「はぁ……まぁとにかく、飯は渡したから。母さんも夕飯には切り上げろって言ってたよ」

「ああ、分かった」

「んじゃ――」

「あー少し待て、鶖飛」

 

 工房の引き戸に手をかけたところで、鶖飛は父の声に振り返った。

 まだ何かあるのか、といった表情。吹羽も何事かと振り返る。

 

「技術ってのァ積み上げてくもんだよな。風紋だって、数え切れない数のご先祖様方が日々精進してきたから成り立ってる。理解してるか?」

 

 真剣な表情でそう語る秋水は、真っ直ぐに鶖飛を見つめていた。そこには何か底知れない想いのようなものが微かに感じ取れるが、幼い吹羽にはそれがなんなのか全く以って分からない。

 しかし、鶖飛はどこか呆れたように溜め息を吐いて、

 

「またその話か……もう耳にタコができるくらい聞いたよ」

「ああ、そうだな」

「“どんな技術も一人の天才と九十九人の凡人が研鑽して作り上げたものだ”、でしょ? 分かってるよ、なんの話か全然分かんないけど」

「今はそれでもいいんだ」

 

 緩く首を振るい、鶖飛の言葉を肯定する。この問答ももう何度か繰り返されてきたことで、鶖飛は渋い顔で息を吐いた。

 

 なんでこんな話をするんだろう、とは吹羽も思っていた。鶖飛が言うように、父のこの言葉は聞き飽きたほどで、決まって鶖飛がいるときに話をするのだ。吹羽ですら聞き飽きているのだから、鶖飛などはもううんざりするほどだろう。

 まるで鶖飛にだけ言っているような感じ。それはまさに、鶖飛に“決して忘れるな”と念を押しているようにも見えた。

 

「……毎回そう言うけど、ならいつ分かるようになればいいのさ」

「……さぁな。それは俺にもわからねぇよ」

「はぁ?」

「だが、否が応でも分かる時がくるさ。なんでこんな話をするのかってこともな」

「はあ……」

 

 要領の得ない秋水の言葉に、今度は二人して首を傾げた。

 普段は豪快かつストイックな人が、こんなにも曖昧な問答をするのは珍しく思われる。きっと鶖飛に――二人に臨む何事かがあるのだろうが、それを理解できない。もしくは、秋水に伝える気自体がないのか。

 

「ま、とにかく伝言は聞いた。引き止めて悪かったな」

 

 釈然としない二人を見かねてか、秋水はそう言って話を打ち切った。

 いつもの豪快な笑みを向ける秋水に、今考えても分からないだろうと二人は諦めて思考を脳の隅の方に放り投げる。

 取り敢えず覚えておけば、きっとそのうち分かることだろう。

 

「ん……じゃ」

「ちゃんと戻ってきてねお父さん!」

「おうよ。後でな」

 

 頼まれごとも果たし、二人は連れ立って工房から立ち去る。

 

 

 

「ああ……大切なウチの子宝なんだ。繰り返させやしねぇさ……賢者様(・・・)よぉ」

 

 

 

 秋水の小さな呟きには、決して気が付かぬまま。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 そういえば、吹羽が大人ぶりたくなる前なので今回と次回は自然とことわざ無しですね。
 ご理解を。

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