第四十一話 本当の気持ち
魔理沙の手当てもそこそこに、吹羽は魔理沙、阿求とともに箒に飛び乗って先を急いだ。
生温かいような風が全身を包んでいる。冬の温かい風は有り難いはずなのに、今だけはそれが不安を煽る気味の悪いモノのように思えて仕方がない。会話も憚られるような逼迫した空気の中で、三人は博麗神社に辿り着いた。
辿り着くなり箒から飛び降りて、吹羽は勢いよく居住区の扉を開け放った。
「霊夢さんッ!」
答える声はない。代わりに奥の方から微かな声が聞こえてくる。自分の声に反応しない薄暗い建物の中は、見慣れているはずなのにとても恐ろしいモノのように思えた。
吹羽は阿求と魔理沙が来るのも待たず、靴を放り出して声の方へと向かう。
ばくばくと跳ねて急かす心臓の鼓動を押さえつけながら、いくつかある部屋の中で唯一明かりの漏れる場所、霊夢の寝室の襖を開いた。
そこにあったのは――医師と思われる女性二人と、意識のない霊夢の姿。
ドクン、と心臓が跳ねた。
「えっと、二番の薬は……って、ん? なにこの子。今治療中だから外に――」
「霊夢、さん……霊夢さんッ!」
「あっ、ちょっと!?」
頭にウサギ耳のついた少女が駆け寄ってくるが、吹羽はその手をすり抜けて霊夢に詰め寄る。
今の吹羽には、静止の言葉など全く聞こえていなかった。
「やだっ、霊夢さん! 死なないでください、霊夢さんッ!」
「ああの治療中だからっ! 近づいちゃダメだってば!」
何が何だか分からない想いが溢れてきて、頭の中が真っ白に染まっている。考えがまとまらなくて、霊夢が目を瞑って倒れているこの状態がたまらなく嫌で、吹羽はなにも考えることができずに悲痛な声をあげた。
言葉がまとまらない。自分の声に、霊夢が反応してくれない。
激しく狼狽する吹羽の声に、しかしぴしゃりとした声が響いた。
「静かに」
それが目の前の――霊夢に向かう銀髪の女性の言葉だとはすぐに分かった。吹羽に放たれたその声は鋭く真剣で、僅かに向けられた瞳は冷たい光を帯びていたのだ。
その雰囲気に吹羽は声を詰まらせ、形の定まらない言葉は霧散した。
「鈴仙、その子を外に。治療の邪魔よ」
「は、はい師匠。……ちょっとゴメンね」
「ふぇ……っ!?」
女性の声に応え、ウサギ耳の少女――鈴仙は吹羽の目を見つめた。
美しい真紅の瞳。吹羽の瞳を覗き込んだそれが妖しい光を放つと、突然視界がぐにゃりと歪んだ。耳に入ってくる音もひしゃげて遠くなり、平衡感覚が狂ったようで立つことすらままならない。
抵抗できずその場に倒れこむと、先ほどの女性の声だけがやけに透き通って聞こえてきた。
「安心なさい、博麗の巫女は絶対に死なせないわ。死んでもらっては私たちも困るもの」
鈴仙に抱えられ、部屋の外へと連れて行かれる。心地悪い浮遊感が襲ってくるが、それでも吹羽は必死で手を伸ばしていた。
「(れい、む……さん……!)」
歪んだ視界がボヤけて暗くなる。伸ばした手は虚しく空を切って――吹羽はふつと気を失った。
◇
「――おや、目が覚めましたか?」
ふと意識が水面に浮かび上がるような心地がして目を開けると、そこには微笑む阿求の顔があった。背には畳独特の柔らかいような硬いような感触があり、後頭部には人肌の暖かさと柔らかみが。
吹羽は阿求に膝枕をされているらしかった。
「あきゅう、さん……ッ! れ、霊夢さんはっ――うきゅっ!」
「落ち着いてください吹羽さん。あなたが慌てても何も変わりはしません」
暴れ出す吹羽の頭をぐいと抑え、阿求は諭すように言葉を落とす。落ち着いた様子の阿求の笑みに、強張っていた身体から力が抜けていくようだった。
吹羽は大人しく頭を阿求の柔らかな太ももに戻すと、不安を拭いきれない瞳で彼女を見つめ返した。
「あ、阿求さん、霊夢さんは……」
「先ほど、一先ず山は越えたと永遠亭のお医者様から知らせが来ました。今は引き続き様子を見ているところです」
そういうと、阿求は優しい手つきで吹羽の髪を撫でた。その手つきがまるで母親のような包容力に満ち満ちていたものだから、氷山のようだった不安が、しとしとと溶かされていくようである。
そうやって心を落ち着けていると、暗い気持ちを吹き飛ばすような声が聞こえてきた。
「いて、いててて痛いって! もうちょっと労ってくれよ怪我人だぞっ!?」
「だから労って治療してあげてるんじゃないの。薄い切り傷ばっかりなんだから多少痛いのは我慢しなさい」
「お前ほんとに医者かよっ!」
「残念ながら“薬師の弟子”なんですよねこれがぁ〜」
はい終わり! ――そう言って、ウサギ耳の少女が布を当てた魔理沙の腕をぺちんと軽く叩く。すると魔理沙は声にならない叫びをあげて畳をのたうち回った。多少の知り合いではあるのだろう、ウサギ耳の少女は魔理沙の様子を呆れたように見下ろしてはふんすと息を吐いている。
「さて、じゃあ片付け――あ、さっきの子気が付いた? さっきはごめんねー、師匠って怒らせると怖いからさ? 真剣な時は逆らいたくなくって」
まあ弟子なんだから当たり前なんだけど、と付け足しながら、ウサギ耳の少女は吹羽に向けてぎこちない笑顔を浮かべた。
吹羽はゆっくりと起き上がると、小さく首を振るって気にするなと示す。慌てて声を上げられるほど、今の吹羽には元気が残っていなかった。
「あたし、
「風成 吹羽です……。人間の里で鍛冶屋を営んでます」
「よろしくっ。まあ怪我しなけりゃ会うことなんてないとは思うけど。なんか怪我したら、ぜひ永遠亭まで来てね、吹羽」
そう言って笑顔を浮かべる鈴仙はとても可愛らしく魅力的だったが、やはり霊夢のことでいっぱいいっぱいの吹羽は軽い会釈を返すのみで俯いてしまう。
鈴仙は少し不満気に唇を尖らせるが、吹羽の心境のことは分かっているのかそれ以上に言葉はなく、再び微笑んで吹羽の頭をポンポンと撫でた。
「随分霊夢と仲が良いのね? あんなに必死な人の顔は久方ぶりに見たわ」
「それ、は……」
――霊夢と仲が良い。
その一言が胸に突き刺さる気がした。
拍子に溢れ出してきた涙は堪えられないほどで、目の端からぽろりぽろりと涙がこぼれる。
真っ黒な後悔が、心の内に渦巻いて暴れていた。
「え、ええ!? ど、どうして泣くのっ!? 撫でられるの嫌だった!?」
「ああいえ、そうじゃないですよ鈴仙さん。……ほら吹羽さん、涙を拭いてください」
見兼ねた阿求が近寄ってきてハンカチを差し出す。吹羽は大人しくそれを受け取ってぐしぐしと涙を拭いた。慌てていた鈴仙も、その様子にほうと息を吐いていた。
しかし、そうして落ち着くと、先ほどの言葉が再び頭の中で反響し始める。
阿求が傍にいるからか涙が溢れることはなかったものの、心の中は嵐のように荒れ狂っていた。
今までの思い出、喧嘩した日の言葉、想い、倒れ伏した霊夢の姿。それらが激しくフラッシュバックを繰り返し、更に焦燥と後悔を煽っている。
どうしよう、なぜこんなことに。
そんな取り留めのない言葉ばかりが、吹羽の心の中を蹂躙していた。
「……大丈夫ですよ吹羽さん。霊夢さんは強いですから、きっと平気です」
「でも、でも、阿求さん……霊夢さん、気を失ってました……っ! 目、閉じてて……肌も青白くって……これじゃあまるで――っ!」
「吹羽さんっ!」
吹羽の言いかけた言葉を阿求が遮る。しかし、一度溢れ出したら、言葉は止められなかった。
「ボク、霊夢さんに酷いこと言っちゃいました……っ、大っ嫌いだって、そんなこと、思ってもないのに、勢いで言っちゃったんです……っ! ボク、謝れてないです……霊夢さんと、仲直りできてないんです……っ!」
あの日、確かに吹羽は霊夢の言葉に激怒した。そりゃあそうだ、彼女は親友なのに吹羽の幸せを否定したのだから。
だがその程度で霊夢への気持ちが覆るなんて、そんなことはない。ある訳がない。だって彼女が吹羽のためにしてくれたことは紛れも無い事実で、それに感謝する気持ちも間違いなく事実だから。ただ、霊夢のものとは思えない言葉に激昂してしまっただけなのだ。
大っ嫌いだなんて……本当は思ってもいなかったのに。
「いやですよ……こんなの、あんまりですぅ……っ! 霊夢さんと、仲直りしに来たのに……会いに行こうって、決めたのにぃ……っ!」
「吹羽さん……」
「れいむさん……れいむさんが、しんじゃったら! っ、どうしよぉ――っ!!」
胸を締め付けるような、悲痛な慟哭だった。
大好きな親友と喧嘩別れしたまま置いて逝かれるなど吹羽には耐えられないことで、認めることなど絶対にできないのだ。
いつだって霊夢が心の支えだった。神社からここまではかなり距離があるのに、ぶっきらぼうに理由を付けてはよく会いに来てくれて、困ったことがあればなんだかんだ言っていの一番に助けてくれた。あの笑顔に救われた回数など数知れず、叱られた時にさえ胸が暖かくなるような心地になった。文との一件では自分のために怒ってくれて、しかしそれでも吹羽の意思を尊重してくれた。
計り知れない感謝があった。
伝えきれない想いがあった。
それが、たった一度の喧嘩なんかで無為になるなんて……あまりにも酷過ぎる。
縋るように阿求を見つめる瞳からは大粒の涙があふれ、ぽろぽろとこぼれ落ちて吹羽の手の甲に落ちる。スカートを握り締める彼女の手は、小刻みに震えていた。
あまりにも切ないその姿に三人は呆然として、言葉のひとつも――指先すらも動かせない。
大切な友人が死の淵を彷徨っている状態を嘆く彼女に、一体どんな言葉をかければいいというのか。簡単に“きっと大丈夫だ”と励ますことはできない。かといって“彼女は恐らく助からないだろう”だなんて口が裂けたって言えない。こういう時、励ますことが大切なのは事実……だがどうやって励ませばいい?
絶望した心は酷く脆い。不用意に触れれば砕け散って、ともすれば元に戻らないかも分からないものだ。吹羽の慟哭は彼女の悲しみ、後悔、絶望を空間に響かせ、三人の心に浸透させていた。
親友たる阿求も、いつだって元気な魔理沙すらかける言葉を見つけられない今――ふと吹羽の前に歩み寄ったのは、薬師の弟子たる鈴仙だった。
――それは、流れるような動きで。
「こらっ」
こつん。少しだけ頰を膨らませた鈴仙の、軽いデコピンが弾けた。
「医者の前で“もし死んじゃったら”なんて失礼だと思わない? こっちだって必死に命を繋ぎとめようとしてるんだから」
「で、でも……でも……っ!」
「でももへったくれもないの。医者が信用出来ないなら一体誰に治療させるのよ」
「……〜〜っ、」
視線を落とす吹羽の頭に手を乗せ、そしてふと真剣な表情になると、鈴仙は彼女の瞳を覗き込むように見つめて言った。
「あのね吹羽、気休めは何の薬にもならないから先に言っておくわ。あなたを気絶させてから数刻経ってひと山は越えたけど……霊夢は今、結構ヤバい状況なの」
「――ッ!!」
明らかに動揺した吹羽を見て咄嗟に魔理沙が声を上げようとするが、阿求の視線がそれを制した。
鈴仙の言う通り、事実をひた隠して気休めを伝えても何も意味がない。むしろいざ最悪の場合に陥った時、その絶望に拍車をかけてしまうだろう。
阿求も鈴仙の言葉に同感だった。下手に嘘を吐くより、事実を包み隠さず話して心を決めさせた方がまだ吹羽のためになる。例え吹羽には受け入れられない事実でも、実情を知らないでいるよりはよっぽど健全だ。
そういう点が初対面の相手にも分かる鈴仙は、やはりさすが薬師の弟子というところである。
鈴仙はビクついた吹羽の頭に手を置いたまま、躊躇いなく言葉を放つ。
「骨は何本も折れてた。切り傷は数え切れなくて、いくつかは内臓にも届いてた。破裂してるのもあったし、失血が酷くて、即死してもおかしくない状況だったの」
「っ! そん、な……」
想像を遥かに超えた惨状に、吹羽の表情が再び絶望に染まる。しかし、鈴仙はなんの躊躇いもなく言葉を続けた。
「あんまりにも酷い怪我だったもんだから、流石の師匠も焦っていたわ。あいつに死なれちゃこっちも困るから。よくもまあそんな怪我で……あたし達を呼び出せたもんよね」
「…………ぇ? 呼び出せた……?」
「……ふふ、そう。呼び出されたの、あたし達」
そう言って鈴仙は悪戯っぽく、しかし優しげに目元を緩ませた。
「あんな怪我をしていて、虫の息にも等しい状態で、簡単な式神を使って声だけ届けてきたの。……なんて言ったと思う?」
「なんて、って……助けてください、とか」
「あはははっ、あいつがそんな謙ったこと言うわけないじゃない!」
軽く笑って、立てられた人差し指が吹羽の目の前で揺られる。違うわ、と前置いて、鈴仙は
「“ヤバい死にそう。今すぐウチ来て治しなさい”って」
――それはなんとも状況にそぐわない粗野な言葉で、なんの必死さもなくて、そして何より――いつもの霊夢らしい理不尽な言い方だった。
「これでも人外なあたし達を信用してたわけでもないでしょ。あいつはね、自分が死ぬなんてこれっぽっちも思ってないのよ。例え本当に死の淵にあったとしても、死ぬなんてありえない……或いは死ねないって、思ってるのかもね」
そんな言葉を、鈴仙はさして気を悪くしてもいないように笑顔で語る。そこには何があっても
例え死の間際にいても、死を受け入れず生に縋り付くのは、ともすれば醜くみっともない姿と言われるかもしれない。しかしそれは、医者から見れば非常に好ましい姿勢なのだろう。生きようとしない者を救う理由はない。生きようとする者に手を差し伸べるからこそ、医者は医者たり得る。その価値があるのだ。
「人ってのはね、気の持ちようで幾らでも変われる。だから、死の間際にいても普段通りの自分を貫き通せるあいつが死ぬわけなんてないし、あたし達が死なせない」
「鈴仙、さん……」
「あいつが死んだ時のことを泣きながら考えるくらいなら、あたし達をもっと信用しなさいよ。人として信頼するのは無理だろうけど……医者ってのはね、患者に対しては誰よりも誠実な者のことを言うんだから」
鈴仙の言葉は、吹羽の心に染み入るようだった。
決して楽観視はしないけれども、自分たち医者という存在を信じろ、と。霊夢が死んだ時のことなんて思い浮かべるより、霊夢が生き残ることだけを祈っていろ、と。
ぱっと靄が晴れるようだった。覗き込んでくる鈴仙の瞳は強く輝いて、真っ直ぐに見つめ返してくるその姿勢に計り知れない頼り甲斐が感じられた。
――霊夢は死なない。死ぬわけがない。
この世界で誰よりも強いのは霊夢だ。人間の“有り得ない”を体現したような存在が霊夢だ。どんな相手に対しても負ける姿を想像すらさせないのが、霊夢という博麗の巫女なのだ。そんな彼女の
阿求のいうとおり、今ここで吹羽が泣き喚いたって何も変わらない。霊夢の命綱を握っているのは吹羽でなく、鈴仙たち。吹羽にできるのは泣くことではなく――どうか霊夢が助かるようにと、神に願うのみなのだ。
「は、い……はい……っ! 霊夢さんを、お願いします……っ!」
「ええ、任せときなさいって!」
むんと胸を張る鈴仙に、吹羽は涙を溜めながらも笑顔を浮かべる。傍で事の成り行きを見守っていた二人も、吹羽の様子に少し頰を緩ませていた。
さて、と前置き、鈴仙が立ち上がる。その手には救急箱を持って、彼女は再び霊夢の寝室の方へと去っていった。どうやら魔理沙の治療が目的で部屋から出てきていたらしい。
「吹羽さん、お茶を飲んで一つ落ち着いたらどうでしょう」
「ん……はい、いただきます」
いつの間にやら机に出されていたお茶を湯のみに注ぎ、阿求が差し出してくる。それを一口啜ると、無意識に震えていた身体が弛緩して落ち着いていくようだった。
霊夢はまだ眠っているのだろう。それを考えるとやっぱりそわそわしてしまうが、鈴仙のおかげか取り乱すほどの心配は襲ってこなかった。
信じていれば、想いは届く。そのことを吹羽は、恐らく誰よりも知っている。
「……ところで、魔理沙さん」
と、話が落ち着いたのを見計らってか、阿求がおもむろに口を開いた。
「なんだ阿求」
「一体全体、何があったんですか? 博麗の巫女が倒されるなんて……ただの妖怪、というわけではないのでしょう?」
当然とも言える阿求の問いに、魔理沙は薄く微笑んでいた表情を引き締めて視線を逸らす。
――それだけで、ただ強力な妖怪が現れただけではないということを、聡明な阿求は悟れてしまった。
「霊夢さんは……何に、やられたんですか?」
「……それは――」
『妖怪じゃねェんだよ』
突然響いた声に、三人はギョッとして周りを見回す。すると開いた障子の桟に背を預ける形で、もやもやとした霧が少女の形を形成し始めていた。
その現象をそろそろ見慣れてきていた吹羽が、真っ先に声を上げる。
「萃香さん……? ってどうしたんですかその傷! もしかして、萃香さんも……!?」
「よぉ吹羽……こないだぶり――っ、いつつ……」
姿を現した小鬼、伊吹 萃香は力なく微笑んで息を吐くと、無数にある傷の一つを抑えた苦しげに呻いた。
慌てて立ち上がって駆け寄ろうとするが、萃香はそれを静かに手で制す。心配はいらない、ということだろうか。
「なんだ萃香、どこにいったのかと思ってたら霧になってたのかよ」
「ああ、多少は治りが良くなるかと思ってね。だが……どうやらただの切り傷じゃないらしい。わたしの回復力を以ってしてもまだ血が止まる程度さ」
そう言って再度呻くと、指の隙間から傷口が見えた。
その様子に、萃香は汗の浮かぶ顔で微笑んだ。
「はは、この程度で驚くなんて、やっぱお前さんは小心者だな」
「で、でも萃香さんっ、その傷……!」
「なに、大したことないよ。ただ痛いだけさ。血も止まってるしね。そんなことより、もっと気にしなきゃなんねェことがあるだろ……っ」
萃香の痛ましい姿に吹羽はおろおろと慌てるが、鬼の生命力を知っている阿求が傍に寄って落ち着かせる。
自分の今の状態が分からない愚者ではない、萃香本人が大丈夫だというならば心配は無用ということだ。
阿求は吹羽をその場に座らせ、萃香に目を向ける。吹羽の代わりに――というには己の興味が先行している気がしたが、阿求は萃香に問いかけた。
「妖怪ではない……とは、どういうことですか?」
「……そのまんまの意味さね。わたしらが戦ったのは妖怪じゃあないんだよ。妖怪の中でこんなにもわたしらを打ち負かせられる奴をわたしは知らない」
「っ、じゃあ、なにが……」
「……よう魔理沙、だから吹羽をここに連れてきたんだろ?」
「……ああ、そうだな。ちょっと……浅はかだったかなって思ってるけどな」
そう言って魔理沙がちらりと吹羽の方へと目を向けたことを、阿求は見逃さなかった。その視線はすぐに外され、魔理沙の前髪の影へと隠れる。
まるで言うのを憚かるような仕草である。勢いで吹羽を呼び寄せてしまったことを今更ながらに後悔しているかのような様相。
――二人が言わんとしていることを、阿求が悟るには十分過ぎた。
萃香を圧倒できるほどの強者。
妖怪ではないなにか。
そして吹羽に向けられた魔理沙の――哀れむような視線。
それはあまりにも……酷薄な事実。思わず拳を握りしめ、絞り出すような声音で言い募る。
「そんな……うそ、ですよね……? そんなことって……!」
「わたしだって驚いたさ……今まで魔力なんてこれっぽっちも感じなかったのに」
「だとしても、なぜこんな!」
阿求の必死な声音に、魔理沙が押し黙る。話の行方に不穏な空気を感じ取り、吹羽が無意識に阿求の服の裾をきゅっと握ると、彼女はハッとしたように振り返って吹羽を見た。その表情があまりにも
阿求がすがるような瞳で萃香を見ると、彼女は一つ大きな溜め息を吐いて、目を細めた。
そして重そうな口を開いた――その時だった。
「全員、居るわね」
湧き水のように澄んだ声音が響き渡る。萃香の言葉を遮ったその声に振り返ると、奥へと続く廊下には銀髪の美しい医者――鈴仙の師匠 八意 永琳が佇んでいた。
神妙な面持ちで、先程のように真剣で冷たい印象だけれども、どこか一安心したような声音で、彼女は告げる。
「待たせたわ、霊夢の容態が安定した。……もう、部屋に入っても大丈夫よ」
◇
もうそろそろ、宵の時刻だ。
日が傾き、空が茜色を呈し始めて数刻。窓から差し込む光が目に入り、椛は僅かに目を細める。
夕日は実に美しい光景だけれども、直に見ると目を潰されてしまう。素晴らしい景色が目の前にあるのに、ちゃんと見ようとすると見えなくなってしまうのだ。それはなんとも悲しく虚しいことで、世の理とはどうしてこうも上手くいかないものなのかなんて幾度か考えたことがある。
しかし自分は、それに逆らうすべがないこの世界の住人。理の内。手のひらの上。
椛は細めた瞳を、諦めたように閉じて息を吐く。
そうして待つのは――背を向けて佇む天魔の言葉だった。
「……呼び出された訳は、分かっているかの?」
「…………は」
短い問いに、短く返す。天魔は椛のそれに少しの疑いも見せず神妙に頷くと、ゆっくりと振り返った。
その視線は、脱いで置かれた椛の風紋刀へ。
「原因は不明、しかし並みの相手でないのは確実じゃろう。儂も僅かに感じた程度じゃが……あんな魔力には覚えがない」
「……未知の魔法使い」
「ふむ……肯定はし難いのう」
果たしてあの魔力の持ち主を魔法使いと称して良いものか――椛が窺う天魔の表情には、そんな言葉が見て取れた。
明らかに異質な魔力。椛が哨戒中に感じ取り、また天魔が彼女を呼び寄せた理由たるそれは、二人をしてあまりにも馴染みのない異様なものだった。
だが、彼が肯定し難いと言ったのがそれだけの理由でないことは、椛には分かっていた。
「天魔様も……思われましたか、あの魔力に」
「…………うむ」
椛を横目で見て、天魔は首肯する。
「我ながら、天狗の持つ神通力とは便利なものよなぁ。“神に通ずる力”……あれだけ異質で覚えがない魔力の中にも、何か
「万能な力です、天魔様のものともなればそういうこともありましょう」
「うむ、そうじゃな。会った気がするからこそ、お主を呼んだのじゃからな」
天魔はそう言って椅子に腰掛けると、机に両肘を突いて俯いた。
「天狗が魔力を得たならば儂に分からないわけがない。一度感じた力を忘れてしまうほど落ちぶれたつもりもない。ならば会ったことがあると感じるのは、ごく最近に顔を合わせているからじゃ。……当たりなど、簡単につけられるのう」
「………………はい」
選択肢など限られていた。そして天魔が感じ、思い、考えたことには椛も同感だった。
異質な魔力に何処か違和感を感じ取り、超高速で仕事を片付けてそれを確かめに行こうとしたところで呼び出しがかかった。
強大な侵入者に相対するというなら、椛なんて中妖怪よりも大天狗を招集するだろう。となれば、椛でなければならない理由が必ずあるはず。
――思い当たった結論は、あまり信じたくはないものだった……が。
「さて、椛よ。お主はどうする? 儂ら天狗はある一つのものに過干渉出来ない……それは分かっておるな」
「はい」
この世界の勢力図の一つを担う天狗は、ある一つの物事にのめり込むことができない――それは他の勢力に隙を与え、呑み込まんとして戦乱が起きかねないからだ。平和であり続けるためにはバランスを保たなくてはならない。それは天狗の頭領たる天魔が殊更に重要視する規則だ。
椛は天魔の問いに即答で返し、瞑っていた瞳を開く。
「しかし、儂らは二度と
その不可思議な問いに、しかし椛は逡巡しない。それは今この場において分かりきったことだったから。
萃香と相対した時に決めたことである。自分の刀は何のためにあるのか。何のために振るうのか。
一度はブレて叩き直されたりもしたけれど、今の椛には答えを出すのに何の迷いもない。
「……私の刀は、自分の大切なものを守るためにあります。この山の秩序、自分の命……そして、決して欠かせない大切な友人」
大切なものを、失くさない為に。
「私は、友人として……友のために剣を振るいます」
「うむ……それで良い」
望む答えだったのか、天魔はにやりと口の端を歪めた。
置いた刀を手に持ち、椛はすと立ち上がる。天魔の満足気な、しかし普段のような柔和な雰囲気などかけらもない視線を背に、椛は執務室を後にした。
「(この戦い……きっと彼女の分水嶺になる)」
廊下を歩きながら、椛は大切な友人のことを思い浮かべる。
平凡に暮らそうとしていながらこんな厄介ごとに巻き込まれた彼女の運命とは、きっとここが分かれ道になっている。来るべくして来た試練なのだろう。
彼女がどんな道を辿るのか、自分は見届けなければならない。そして友人として助けられることなら、助けなければならない。
椛は決意を瞳に宿して、風紋刀の鞘を強く握った。
「……文さん、は――」
例のあの事件を経て友人を名乗るようになった烏天狗の少女を思い起こす。話が出なかったということは、呼び出されなかったということだろうか。
あの時から文は“素の顔”で話すことが多くなり、雰囲気も丸くなった。友人の前ではそれが特に顕著である。一見、呼び出されない理由などないように思えるが――しかし、と椛は緩く首を横に振る。
戦友を失くせない――それは決して利用するためではなく、共存しようとしての言葉である。それは互いの領域を守り、干渉しすぎず、必要なときには助け合うということ。
――文はきっと、干渉し過ぎる。自分で選択させなければならない場面で、きっと文は無意識に、自分の都合のいい方へと導こうとするだろう。
悪いこととは言わない。しかし共存を考えるならば、それは褒められたことではないのだ。きっと天魔はそれを見抜いて、椛だけを呼び出したのだ。
同時に、ただ友の剣にのみなれる椛は、自分の踏み入れる領域を弁えられる自信があった。
「(…………でも、もし、間違えそうになっているなら――……)」
友人としての自分。天狗としての自分。剣としての自分。
様々な自分を胸の内に感じながら、自分はせめて間違えまい、と。友人であり導でもあれれば、きっとそれが理想なのだと椛は思う。
妖怪の山から見える夕日は最後とばかりに輝いて、向こうの山へと消えて行く。
――夜の、訪れだった。
今話のことわざ
なし
不定期投稿に変えたので、これからはこれくらいの文字数になります。一万文字くらいって読み応えあると思いません?