風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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 書き忘れてました。今章最終話です。


第四十話 切れかけの火蓋

 

 

 

 ――そろそろだ、とは思っていた。

 

 敵対していたのは明白だったし、それを覆そうとも思っていなかった。目的のためには否が応でもぶつかる壁であり、自分は彼女とは絶対に相容れないことなんて分かりきっていたことだ。

 

 自分には芯がある。彼女にも芯がある。

 そしてそれらはある一点で交わっていながら、決して混ざることはない水と油。液体と固体。或いは善と悪。悪と善。ならばぶつかり合うのは必至である。

 そして口火を切るのは必ず彼女の方であると、確信していた。

 

 手元の紙に目を落とす。そこに書かれた簡潔な内容に、僅かに頬を緩ませる。

 

「……うん。じゃあこっちも最終準備をしようか」

 

 一人呟き――鶖飛は紙を散り散りに切り飛ばした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 吹羽を保護して数日。長く穏やかに降り続いた秋雨も止み、白い雲から青色の覗く晴れた朝だ。阿求は、ようやく部屋から出るようになってきた吹羽と共に自室で朝食を食べていた。

 

 稗田邸の料理は主に阿求の好物を中心に組まれる。もちろん栄養面は厳重すぎるほどに考えられていて、好物ばかりといえどそこらの家庭料理とは比にならないくらいに栄養満点な朝食だった。

 初めはその豪華さに目を剥いて恐る恐る食べていた吹羽も、慣れと元気の回復が助けたのか、普段通りの速度で箸を動かしている。

 僅かに緩んだ唇が横から見えた。例え僅かでも、笑顔の友人と食べる朝食はこんなにも暖かいものか、と阿求はしみじみと感じた。

 

「美味しいですか吹羽さん?」

「はい……美味しいです。ボクが作るよりずっと」

「自分でお料理ができるだけすごいと思いますけどね。私はできませんから」

「やらざるを得なかっただけ、ですよ」

 

 こうして和やかに会話ができるほどに回復したのだから、やはり時間というのは万能薬なのだと思う。

 このまま塞ぎ込んだままだったらどうしようと思っていた阿求だが、この分ならどうにかなりそうで気も楽というものである。

 

 ――まぁ、吹羽がこんなにも早く回復した理由の大部分が、阿求自身の健気なお世話のためだとは本人は気が付いていない。あの雨の日吹羽を見つけたのが阿求でなかったら、今頃どうなっていたのかは誰にも分からないことである。

 

 柔らかな雰囲気の中箸を進めていると、阿求の側で控えていた夢架が吹羽の横合いから声をかけた。

 

「お茶のおかわりは要りますか?」

「へ、あ、お願い、します……」

 

 空いていた吹羽の湯のみにお茶が注がれる。香り立つ湯気がのほほんと阿求の方にも広がってくるようだ。

 空いた湯のみが冷たくなる前におかわりを差し出す――相変わらず仕事が早い夢架に何度目かもわからない関心を抱きながら、阿求も空いた湯のみを夢架に頼む。楚々とした動きで丁寧に注がれるお茶を眺めていると、ふと吹羽が夢架を眺めていることに気がついた。

 夢架も気が付いているのだろうが、侍従如きがお客様に話しかけるなど言語道断とか思っていそうだ。

 阿求は彼女に代わる気持ちで、吹羽にどうしたのかと問いかけた。

 

「あっ、いえ、その……ボクはお邪魔してるだけなのに、夢架さんにお世話してもらって……ご飯を食べる時間もないんですよね……ちょっと、申し訳なくて……」

「ああ、そんなことですか」

 

 なにを妙なことで悩んでいるのか、と阿求はくすくす笑う。呆気にとられた吹羽は少し頰を膨らましたが、怒るほどの元気はまだないらしい、そのまま小さく俯いてしまった。

 

「大丈夫ですよ、夢架がこの時間に朝食を食べないのはいつものことですから。ね、夢架?」

「主人と席を共にするなどお付きにあるまじき行為です」

「私は気にしないと言っているんですけどね、この子は見ての通り真面目でして」

「………そう、ですか」

 

 フォローしたつもりだったが、吹羽はそう答えたきり俯いたまま箸を置いてしまった。吹羽の机の上にはまだ半分ほどの料理が残っている。急に食欲が失せてしまったかのように、吹羽は再び食べ始める様子を見せなかった。

 数瞬の間をおいて、押し殺すような声が漏れた。

 

「……そろそろ、決めなきゃ……ですよね」

「…………そうですね」

 

 吹羽同様に箸を置き、阿求は手で夢架に下がるよう指示しながら答える。吹羽の言葉は、阿求が待っていた言葉でもあった。

 

「悩むこと考えることは大切です。でも、そこで二の足を踏み続けては進めませんから」

「……ほ、ほんとう、は……もっとここで蹲っていたい、んですけど……こうしているのもなんだか、辛くなってきてて」

 

 阿求に諭された日から、きっと吹羽は考え続けていたのだろう。

 霊夢の言葉を受け入れるのか。鶖飛のことを信じ続けるのか。一体なにが正しいのか。それが分かったとして、自分はその一歩を踏み出せるのか。――あるいは、その全てを知って答えを知るのが怖くて、進めない。

 吹羽のような幼い子供には少々辛過ぎる事態であるとは阿求も思っているが、こればかりは吹羽自身が答えを出さなければ解決しない。それくらいに今回の件は大きく、吹羽の過去も今後も左右する事態なのだ。

 

「ボクは……阿求さんに迷惑かけてばっかりです……記憶が壊れちゃったときも、今までのことも、今回のことも……」

「迷惑なんて。親友の悩みに寄り添うのは当然のことですよ。迷惑なんて思ってません。むしろそんな迷惑ならいっぱいかけてください。その方が私としては嬉しいんです」

 

 抱え込むより頼ってほしい。阿求の、吹羽に対するいつまでだって変わらない想いの一つである。

 多分吹羽のことだから、稗田邸のあらゆる人に世話をかけていることを気に病み始めたからこんなことを言うのだろう。そういう優しいところは本当に吹羽の美点だが、今回はそれが裏目に出ているな、と阿求は思った。

 

 大切なことはいつだって自分で見つけるしかない。そのためならいくらでも手を貸すつもりなのだから、遠慮なんてせずに頼ってくれればいい。

 ――まあ、しかし、この様子だと難しそうである。で、あれば。

 

「じゃあ吹羽さん、一緒なら怖くありませんか?」

「ふぇ?」

「霊夢さんとお話をするとき、私も一緒に行って手を繋いでいてあげます。一人が怖いなら、二人で行きましょう?」

 

 阿求の提案に、吹羽は少し呆けた表情で見つめてきた。それをまっすぐに見つめ返すと、吹羽の瞳は戸惑いと期待を浮かべて大きく揺れる。

 怖いのはきっと心細いからである。身も竦むような恐怖に立ち向かうとき、一人で進めるのはごく一部。大多数は何かに頼れない孤独の中で襲ってくる恐怖というものには抗えない。

 だからこういうときは、誰かと一緒にいればいいのだ。心細いなら手をつなげばいいし、不安なら目を見て会話すればいい。寂しいなら抱き合えばいい。今、吹羽の怖がる心に寄り添えるのは、阿求しかいないのだ。

 

 そうして間をおいて、吹羽の口から小さく漏れ出た言葉は。

 

「……心の準備、させてください」

 

 その返答に、阿求は自然に笑顔を浮かべて満足げに頷いた。

 再び箸を取る。それを横目で見たのか、吹羽もおずおずと箸を取って再び朝食を食べ始める。それはなんとなく遠慮するようなゆっくりとした箸運びだったが、迷いだけは見て取れなかった。

 

 あとはその準備が整うのをしばし待つだけだ。吹羽のことだから、こうやってきっかけを作ってやればそんなに時間はかからないだろう。

 霊夢の言い分を聴きながら、吹羽の気持ちを慮って場をまとめる。中々難しい仕事だが、いいだろうやってやろうじゃないか。

 

 一口米を運ぶ。少し固めに炊かれた米はむぎゅむぎゅと噛みごたえがあって、身体に活力が漲ってくるようだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 濃い緑の生い茂る森の中に影が浮かんでいた。箒の房になびく髪。その上で揺れるとんがり帽子は人里にはないシルエットである。

 雲の浮かぶ青空を背に飛ぶ影――魔理沙は今日も当てなく大空を飛翔していた。

 

 いつもなら家に篭って魔法の研究でもしている彼女だが、なんだか妙に捗らず外に出てきた次第である。外の空気は家の中と違ってひんやりと冷たく、遥かに澄んでいるように感じられる。ただ魔法の森特有の湿った感覚は、慣れたものとはいえ少し不快。空を飛んでみても、あまり違いがないように感ぜられた。

 

「空は晴れてんのに……なんか落ち着かないなぁ……」

 

 原因はまったく不明。こんな天気の日はいつもなら諸手を挙げて空を滑空するところなのだが、なぜかそんな気分になれなかった。霊夢曰く快楽主義者な自分がこんな暗い雰囲気になるのは珍しいことなのだ。

 多分、家の中でも無意識にこの感覚を感じていたのだろう。実験が捗らないわけである。

 

「(最近は事件もないし、平和は平和なんだが……)」

 

 嗚呼、これが嵐の前の静けさというものなのだろうか。

 平和が続くこの頃に感じた今の不愉快な気分。或いはこれが勘というものなのかもしれないが、魔理沙には今の平穏がどこか紙一重なものに感じられるのだ。何か些細なことで大きく事が変わってしまう予感――なんともそわそわして嫌な感じだ。こんな感覚をいつも感じているのなら、霊夢の当たりすぎる勘というのも便利なばかりでないと魔理沙は思う。少なくとも、彼女には常に何かを心配していられるような豪胆な肝は備わっていないのである。

 

 まあ、心当たりくらいならある。むしろそれの所為でこんなにもそわそわするのかもしれないとすら思う。

 脳裏によぎるのは、ほんの数日前に霊夢とともに訪れた、森の中の光景だった。

 

「……けっ、思い出すだけでも気が滅入るぜ。胸糞悪りぃ……」

 

 黒く固まった血の空間。一体なにをすればあれ程の血が噴き出るのかすら魔理沙には想像できない。魔理沙の頭では到底及びもつかない理解不能の領域――あの空間にいて吐き気がするほどに感じたのは、ただひたすらにおぞましい狂気であった。

 

 そう、あの事件に関しては解決していない。少なくとも魔理沙の中では。

 

 魔理沙は言わば“なんちゃって解決者”である。異変に挑む理由など大したものは持ち合わせていないし、霊夢のように妖怪退治を生業にしているわけでもない。

 挑みたいから挑み、その結果解決できてしまうから解決者と呼ばれるだけだ。そこに霊夢のような使命的な意味などない。

 しかし、そこに実力が伴わないのかと言われれば断じて否だ。

 確かに彼女は使命を帯びて異変解決に挑んでいるわけではない。だがそれに幾度と挑み無事に帰ってこれているのは偏に彼女が強いからである。霊夢ほどとは言わずとも、魔理沙はその努力で手に入れた超火力の魔法を以って大妖怪すら相手取る。霊夢の次に強い人間は間違いなく彼女なのだ。

 

 そんな魔理沙の経験的な勘(・・・・・)が、悪い予感を感じ取っていた。

 あの光景を見逃してはいけなかった。その場で熟考し行動に移すべきだった。何より……あの件を霊夢に任せてはいけなかった、と。

 

「(あー……ミスったのかなぁわたし……まあ今更悩んでも仕方ねーけど)」

 

 時空魔法でも使えりゃタイムリープしてやるんだが、と諦めた笑いを零して、魔理沙は自慢のとんがり帽子を被り直す。熱がこもり過ぎていたのか、被り直すと帽子が少し熱く感じられた。

 何とはなしに己の相棒――ミニ八卦炉を取り出して調子を確かめる。魔理沙の扱うあらゆる魔法の重要なファクターであり生活必需品でもあるこの道具は、彼女自身の日々の手入れによっていつでも絶好調だが、何か胸騒ぎがして、魔理沙は昨日の手入れ忘れたかのようにじっくりとミニ八卦炉を眺め回す。

 

 そして、満足げに頷いた――その刹那だった。

 

「うむ、今日も絶好――ッ!!?」

 

 

 

 首を刈り取る、鋭利な刃の気配だった。

 

 

 

 咄嗟に身を屈めて刃を避ける。風切り音すら聞こえないのは、きっとそれほどまでに鋭い神速の一太刀だったことを窺わせる。

 咄嗟のこと過ぎて取り落としそうになったミニ八卦炉をおろろと掴み、即座に気配の感じた方向へと向けて目を細める。が、そこには誰もいなかった。

 

 冷や汗が噴き出ている。背筋を伝う汗は氷塊の如き冷たさだ。

 今の一撃、あと一瞬でも気が付くのに遅れていれば間違いなく首が飛んでいた。自分の実力に自信のある魔理沙だからこそ、首を狩られるその刹那まで気配に気が付けなかったことに愕然とすると同時に、戦慄していた。

 

 周囲を見渡す。誰もいない。或いは一旦身を隠して隙を伺っているのか。どちらにしても次は逃さない――そう思っていた魔理沙はしかし、

 

 先ほどと同等の刃の気配を無数に――目の前に(・・・・)感じ取る。

 

「な――ッ!!?」

 

 不可視の刃――その一言が脳裏をよぎる。突如現れた刃は魔理沙の真正面から飛来したにも関わらず、先ほど同様に直前まで気配が悟れなかった。

 能力か、そうでなくても無数の刃を同時に飛ばすなどその道の達人にしかできないこと。相手は相当強力な相手で――自分はこの攻撃に対処する術を持たない。

 魔理沙は激痛を覚悟して頭部を両腕で守るように構えた。

 

 ……が、魔理沙の身体に触れたのは、刃ではなく。

 

「〜〜っ、……? こりゃあ……魔力?」

 

 体に衝撃はなく――否、感覚的には強烈な魔力の衝撃を感じとり、魔理沙は困惑を露わに腹や手を触ってみる。

 傷はない。痛みもなければ血も出ておらず、相変わらず張りのある柔らかい肌だった。

 

「(一体なんなんだ……ただの魔力を攻撃だと錯覚したってのか……!?)」

 

 ただ漂ってきただけの魔力を必死の一太刀と錯覚した――その事実にさぁと顔を青褪め、どくどくと苦しいほどに心臓が鼓動を刻む。干上がる喉に思わず手を添えると、粘度の高い唾液が口の中に溢れてきて、ごくりと飲み込んでもまだ苦しい。

 あり得ない、と思った。

 

 魔力は純粋な生命エネルギーではない――後天的に身につけることができるため――が、身体に宿る異形の力という意味ではそれらと同義である。それはあらゆる術を行使するのに使用されこそすれ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。術の発動に消費されるからだ。

 なのに、漂ってきた魔力を攻撃なのだと錯覚してしまった。

 これは魔理沙の常識を超えた事象であり、理解不能の現象。この魔力を放った者は、恐らく魔理沙の常識を悉く覆すレベルで魔力を変質させてしまうほどの力を持つ者なのだ。

 

 それこそいくつもの異変に挑み、そして確実に功績を残してきた彼女の肌にほんの少し触れただけで死を覚悟させるほど。

 

 だが、疑問も残る。なぜこれほどまでに強大な力が、むしろほんの少ししか漂っていないのか? 強烈な衝撃波として襲ってきていても何ら不思議ではないほどなのに。

 ――その答えを、魔理沙はすぐに知ることになる。

 

「っ、これは……」

 

 不意に、ちらりと微かな力が頰を掠める。先ほどの魔力が巨大な滝ならば、それは流される小枝ほどの小さなものだったが、魔理沙には分かった。

 だってこの力は……何年も共に時を過ごした親友の霊力だ。

 

「まさか……霊夢、か? 霊夢が、この化け物みたいなヤツとやってるのか……!?」

 

 今にも飲み込まれてしまいそうな微かな霊力。それは普段の彼女には全く似つかわしくないものだが、確実に彼女のものだった。加え、もしそうなら先ほどの疑問に説明もつく。恐らくこんな異質な魔力が外に漏れないよう結界の中で戦闘しているのだろう。或いは他に何か思惑があるのかもしれないが、それは魔理沙には与り知らぬことである。

 

 一体だれと戦ってる? そもそも何が理由で? いや、十中八九例の件だろうが、あの光景を生み出した奴がこの化け物だってのか? ならなぜあんな小さな事件を起こす?

 様々な思考が一瞬のうちに魔理沙の脳裏をよぎっていくが、結局辿り着いた答えは一つだった。

 

「……ああ、霊夢は殺せない。殺しちゃいけないんだ、この世界では。だから心配ない。最後に勝つのはいつだってあいつなんだから」

 

 そう、いくら相手が化け物染みていても、凶悪な存在でも、この世界にいる限り霊夢を殺すことは自身の破滅を招くことと同義である。霊夢は紫と共に幻想郷を見守る存在だが、その幻想郷を包む博麗大結界の要となっているのは霊夢自身である。故に彼女を殺めることはこの世界の破滅に等しい意味を持つ。だから今までの異変の首謀者たちも彼女の命だけは取ろうとしない。この世界で最も忌まれる禁忌なのだ。

 

 だから今回のやつも、霊夢の命は取れない。そして霊夢は消し飛ばしでもしないと死にそうにないと思えるほど強い人間だ。

 心配は不必要なのだ。杞憂なのだ。……そのはずなのだが、魔理沙はどうしても不安が拭えなかった。今日の不愉快な空気が理由なのか、それとも感じ取れる力の差があまりにも大きい為なのかは分からないが、どうしても魔理沙には霊夢にすべて任せて知らんふりをするのに抵抗があった。

 

「…………仕方ねえ、ちょっくら助けてやるか。親友、だもんな」

 

 魔理沙は帽子を深く被り直すと、あの魔力から確かに感じた恐怖を心の内に閉じ込める。

 戦闘に恐怖は必要不可欠だが、過度なものは毒にしかならない。その毒はきっと体の動きを鈍らせ、最後には死を招く。特に今回の戦闘は弾幕ルールを使っていないようだし、気を抜いてはいられないはずだ。

 

「今行くぜ……霊夢!」

 

 胸に燻る不安と不愉快な空気。それらを振り払うように、魔理沙は箒に魔力を込めて空を駆け出した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 秋らしい、夕焼けの空が広がっていた。

 橙色の光が山の向こうから空を覆い、その中で転々とした黒い鳥がかぁかぁと声音を上げている。それがどうにも必死に見えて、まるでもうすぐやってくる夜の時間を恐れているようだな、なんて阿求は思った。

 

 空を眺めて、視線を落とす。縁側で広げた本の文字は、赤く照らされて非常に読みにくい。読むこと自体を億劫にさせる気怠さが感じられた。つと屋敷の奥に目をやって、一つ軽い溜め息を吐く。

 

「どうかされたのですか阿求様。溜め息など珍しい」

「ぁ、夢架。ありがとうございます」

 

 声と同時に小さな毛布のような布が肩にかけられる。もう夕方でも肌寒い時期、何も掛けずに縁側で座っていては風邪を引いてしまう。考え過ぎて自分の体が強くないことを忘れていた阿求は、はにかみながら傍に控えた夢架に礼を言う。彼女は変わらず、無表情だった。

 

「いえね……少し悩んでいまして」

「悩み事ですか。恋煩いでしょうか」

「そうですね……っていや、違いますよ!? こらっ、そんな目で私を見ないっ!」

 

 口元を隠して胡乱な視線を向けてくる夢架に抗議の阿求。この侍従、完璧かと思っていれば意外とボケてくる。全身作り物のように整った姿形をしているくせに意外とお茶目なところのある侍従なのだ。今までのお付きだったら絶対にこんなことはない。

 

 ……まあ、夢架なりの気遣いなのだと思えば苦ではないのだ。思い詰めた雰囲気の阿求の頭に新しい風を運んでくれたのだろう。夢架を叱るのもそこそこにして、阿求はもう一度茜色の空を見上げた。

 

「なんのお悩みかは存じ上げませんが、私にできることはあるでしょうか」

「ふふ、あなたがやるべきことを尋ねてくるのは初めてですね?」

「……私は完璧ではありません。やることが分からないときもあります」

「そうですね、完璧な人間なんていません。じゃあ、そうだなぁ……ただ、聞いていてください」

「畏まりました」

 

 話せば気が楽になることもある。阿求はそう自分に結論付けて、手元の巻物の文面に目を落とした。

 今更言葉を遠回す必要もない、当然これは吹羽に関することだ。いつだったか、吹羽が書斎から見つけてきた謎の家系図――あの存在を疑問に思って、少し調べた結果分かったことである。この巻物には、その手がかりが記されていた。

 

「いつ言うべきか、悩んでいるんです」

 

 本当に独り言のように、阿求はポツリと言葉を落とす。

 

「吹羽さんは自分のことを知りたいと言っていました。だから私はその力になってあげたい……でもこの事実は、吹羽さんの認識を大きく変えることになるかもしれないんです」

 

 況して、今の吹羽は霊夢とのことでとても疲弊している。そこに大きな事実を告げてしまえば、きっと彼女は抱えきれないだろう。

 それは阿求の望むところではない。自分が望むのは吹羽の平穏であって、間違っても“驚愕の事実とやらを知って自分の運命に立ち向かう”などという英雄的なものではない。

 いつものように店を開け、訪れる人たちと笑顔を交わし、時折自分を始めとした友人たちと遊んで、なんの事件にも巻き込まれずに平穏な生を過ごして欲しい――阿求が吹羽に望む人生とはそういうものだ。

 

「今告げるべきではないんです。でも、今告げなかったら、永遠に告げる機会を失ってしまう気がして、なにか怖くて……」

「……それは――!」

 

 言いかけて、言葉を止める。

 訝しげに思って夢架を見ると、廊下の方を見つめて固まっていた。引き結んだ唇は、意図的に口を噤んだようにも見える。つられて視線を向けると、そこには。

 

「吹羽、さん……」

「………………」

 

 未だ沈痛な面持ちの吹羽が、立っていた。

 しかし、その瞳は僅かに強い決意を窺わせる光が宿っている。しっかりと心の準備を済ませてきたということだろう。

 だが、しかし――阿求を見やるその瞳は、やはり別のことを訴えているように見えた。

 

「聞かせてください、阿求さん。ボクの家の……ううん、ボクのことを」

 

 言い逃れは、出来ないか。阿求は素直に観念して、しかしやはり今言うことを拒んで押し黙る。終いには向けられる強い視線に耐えられずに吹羽から視線を逸らした。

 そんな阿求に、吹羽は言い募る。

 

「心の準備はしてきました。どんな言葉も受け止めて、ちゃんと頭で理解しようっていう準備です。お兄ちゃんのことも、霊夢さんのこともボクには大切なことで、ちゃんと考えなきゃいけないことです……でも、その前にボクは、ボクのことをよく知らない……自分のことを知らないのに、友達のことを理解なんて出来ないって思うんです」

 

 よく考えて、感じたことに素直な気持ちを言葉にして、そうして整理した先にある結論のように。

 吹羽の言葉には確固たる意志があって、どんなに言葉を募っても意見を変えないであろうことがよく分かった。

 

 それでも逡巡する阿求に、夢架の鈴転の声がかかる。

 

「……阿求様、僭越ながら意見させていただきます。吹羽さんが望むのであれば……受け止める準備ができているというのなら、良いのでは? なにを聞いても、吹羽さんは吹羽さんでしょう?」

「…………そう、ですね」

 

 なにを聞いても、なにを成しても、それは変わらず吹羽であり、なにも変わりはしない、と。

 阿求が明らかにした事実は確かに、人里である程度平穏に過ごしてきた幼子には大きな事実だが、それを聞いて吹羽が変わってしまうかどうかと問われたなら――阿求は、緩く頭を横に振る。ただ、心の内が混乱している今告げることは得策でないと思って告げることを渋っているのだ。

 だが――吹羽が受け止めてみせる、と言うのなら。

 信じてやるのが、親友というものだろうか。

 

「――“名前”というのは、存外に重要な意味を持っているんです」

「……え?」

 

 巻物の文面に目を落としたまま、阿求は呟くように語り始める。

 

「人が生まれて、初めに与えられる“意味のある言葉”……そういうものは、与えられたものに意味を与え、存在を定義するんです」

「……親が子供に名を与えるのが、自分の子だと定義するということ……そういうことですか?」

「そう、その通り。名前は呼ばれることで他人に認識され、認識されることで自分を意識するんです。“ああ、そう呼ばれるのが自分なんだ”、と」

 

 一見なんの脈絡もないように見える阿求の話に、吹羽は彼女の傍に腰を下ろして聞き入る。

 名前を呼び合うことで存在を定義し合う――名前とは、人や妖怪といった“個”を世界から区分する膜に等しいのだ。名を持たなければ、定義されることもなく存在しないに等しい状態に陥ってしまう。

 

 阿求は、あの家系図の塗り潰された名前を特に不思議に思っていた。

 あの名前は樹形図の一番初め、つまり最も先祖にあたる部分だ。一族の中で追放などされた場合は塗り潰されたりもするが、始祖にあたる存在を追放するわけはない。

 

「吹羽さん。あの家系図は確かに風成家のものではありませんが……恐らくあなたの前の家(・・・・・・・)のものです。相当大切にされていたようですが、それも含めて風化具合を見ると何百年も前……恐らくは、風成家の初代にあたる頃のものと思われます」

「何百年も前……? じ、じゃああれは、初代様の持ち物……!?」

「ええ。恐らく初代当主が風成家を起こす前のものでしょう」

 

 初代が出家したのか単純に滅びたのか、初代が家を出た際に持ち出した、或いは書き写したもの――それがあの家系図だ。恐らく吹羽の両親はその存在を知っていたのだろう、だから名字が違っていたし、風化が進まないよう本に挟まれていた。

 

 では、なぜ初代はそれを大切にしようとしたか。名前が塗り潰されていたか。

 それを阿求は、常々思っていた疑問と共に語る。

 

「もう一つ、ずっと疑問に思っていたことがありました。吹羽さん、あなたの家は幻想郷の創世記から存在する家です。つまり、この世界ができた時にはもうこの世界にあった……ならばなぜ、あなたの家だけ龍神様ではなく、風神様を信仰しているのでしょう?」

「え? それは、だって……ずっとずっと昔から風神様を信仰していたから……」

「そうです。この世界全体が龍神様の御力の及ぶ領域であるにも関わらず、あなたの家だけは元の信仰(・・・・)を忘れなかった(・・・・・・・)。それはなぜです?」

「……??」

 

 未だに理解の及ばない表情で小首を傾げる吹羽に、阿求は仕方なさそうな笑みを向ける。それも当然、この話はちょっと複雑だ。

 阿求は手がかりを並べるのをやめ、重要なことだけを述べることにした。

 

「吹羽さん、名前は存在を定義します。だから、“名前を捨てる”ことは即ち……その存在を逸脱する(・・・・・・・・・)――ということに他ならないんです。だから家系図に名前を書いておけなくなった」

「存在を、逸脱する……?」

「はい。そして初代が家系図を大切にしていたのは恐らく、己の信仰心を……一族の信仰心を忘れさせないため。“風神”という神を忘れないためです」

「神様を忘れない……え、待って、下さい」

 

 そう、人を逸脱した故に家系図から名前を消された。自分たちが信仰するべき存在となった(・・・・・・・・・・・・)先祖を、自分たちと同格とはしておけなかった。そして初代はその信仰を、“風神”の信仰を忘れないようにするため家系図を受け継ごうとしたのだ。

 人から“信仰するべき存在”になった例など、数える程度しかいない。

 

「人という存在を逸脱して、それを初代様が大切にしようとした……って、ことは」

「……はい。あなたは恐らく、あの一柱(・・・・)の――」

 

 

 

 ――と、その時だった。

 

 

 

 阿求が座る縁側、そこから見える庭に何かが勢いよく着地する音が聞こえた。相当勢いがあったのかザリザリッと庭の地面を抉りながら止まったのは――腕や頰から血を流す、霧雨 魔理沙だった。

 

 一瞬呆ける三人だったが、ふらふらとした足取りの魔理沙がガクンと崩れ落ちたのを境に我を取り戻す。

 

「ま、魔理沙さん!? どうしたんですかその傷っ!?」

「夢架っ、今すぐに治療具を! 応急処置をします!」

「すぐに」

「いやいいっ、私のことは後でいい!」

 

 魔理沙の状態に慌ただしく動き出す三人を強い口調で引き止め、彼女は駆け寄った吹羽の肩を勢いよく掴んだ。

 怪我をしているとは思えないほど力強く、そして焦燥に駆られた表情で、魔理沙は告げる。

 

 

 

「霊夢が――死にかけてんだッ!」

 

 

 

 その、絶望すべき事実を。

 

 

 




・盆東風【ぼん-ごち】
 夏の終わりに吹く東風。暴風雨の前兆と言われる。

 今話のことわざ

 なし

 今章はコメディっぽさがでるように頑張ってみたのですが、どうだったでしょうか? こういうのって自分で面白いと思っていても読んでみると寒い、つまらないなんてことがよくあるので、このすば!とか万人を笑わせられるようなネタを思いつくラノベ作家さんには素直に脱帽です。その才能を分けて欲しい(切実

 ともあれ、ここから物語が動き出します。今までのお話でいくつか謎が残ってると思いますが、それらの伏線もようやく回収のターンですね。し切れるか不安ですけど。
 活動報告でお知らせした通り、ここからは一話ずつ書きあがったら投稿……完全な不定期更新になります。納得できるものが書きあがったらすぐ投稿するつもりですので、それまで少々お待ちください。

 それでは次回の投稿まで、ではでは〜。

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