風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第三十九話 嘘の代償

 

 

 

 ――まあ、初めは興味本位だったと言うほかないが、存外に楽しめていることを萃香は嬉しく思っていた。

 

 目の前の風成 吹羽という少女は、見た目こそか弱く儚い人間の女の子だが、萃香をして計り知れない可能性を秘めていると思わせる。特殊な鍛治の業然り、それを自ら扱う剣の技量然り。そもそもかの賢者 八雲 紫に目をつけられた風成の一族であり、己に人間の強さを刻み付けた風成 凪紗の子孫だというだけで、萃香にとっては興味の対象となり得た。

 だから風成利器店へと偶に訪れては話をしていく。鶖飛にも興味があったし、欲を言えば吹羽とちょっとだけ喧嘩(・・)してみる機会を伺ってもいるのだ。どこまでいっても、萃香はやはり鬼なのである。

 

「(それにしても、まあ“人間”だねェ……)」

 

 話せば話すほど、触れ合えば触れ合うほど、吹羽がどれだけ普通の女の子なのかを思い知らされている。しかしそれは当然のことで、いくら天狗に打ち勝つ力があっても偉大な人間の子孫であっても結局吹羽はか弱い人間であるからして、むしろそれだけ特別な環境に身を置いておいてどうしてそこまで普通でいられるかの方が萃香は疑問だった。

 人間が普通なのは当然のこと。しかし、吹羽が普通なのはなぜか当然と思えない。そのギャップに間々頭を捻ることもあるが、まぁ、それも個性か気質というやつだろう。

 

 ――なんて、本人の前で思うのはいささか失礼だろうか。

 

「? どうしたんです、萃香さん?」

「いんや、なんでも。……茶、美味いか?」

「はい! ……って本当は言いたいんですけど、ちょっとこれ……」

「ああ。薄い、よな。薄過ぎる。酒ばっか呑んでて舌がバカになってるわたしからしたら、もうお湯と変わんねーぞこれ」

「お湯って、大して味ないですよね?」

「無いさ。喉を通るあったかいだけの液体だよこんなもん。草木を噛み潰した方がまだ味はあるだろうよ」

「あ、あははー……一理ありますぅ……」

「これ飲んで“お前好き者だな”って言うと、あいつ“じゃあ金寄越せ”って顔で殴ってくるんだ。信じらんないだろ? 鬼だって痛いもんは痛いのによっ」

「霊夢さん、ちょっと短気ですからね……毎日こんなの啜ってるのかぁ……」

 

 吹羽は呆れるような哀れむような表情でお茶の水面を見つめる。

 全くその通り。寂れた神社の貧乏巫女は質素過ぎる生活を好むらしい。当然娯楽もないこの神社では、居候の萃香はよく屋根に登って昼寝している。それしかすることがないのだ。

 お茶くらい新しいの買えよなー、と思いながらお湯みたいなお茶を飲み干して、お盆に置く。再び注ぐ気は全く起きない。

 

 吹羽を中へと担ぎ入れてからしばらく話し、もうそろそろ日が橙色を帯び始めてくるころか。分厚い雲が空を覆う今日では茜色の天使の梯子すらかかりそうにないが、体感的にそれくらいの時刻である。

 もう冬間近の晩秋は日がとても短い。夜の時間が長引くのは妖怪としては嬉しいところだが、吹羽を引き留めるのはマズイかもしれない。

 夜道を帰らせるのが、とかではなくて、真っ暗になって霊夢が帰ってきたときにまだ吹羽がいたら、引き止めていた自分が怒鳴られるかもしれないという話である。ただの人間が怒り散らしたところで怖くもなんともないが、家主である霊夢に怒られるのは少々避けたいところ。なんだかんだ言ってここは居心地がいいのである。

 

 ――と、思ったところで玄関の開く音がした。

 

「あっ、霊夢さんですかね!?」

「うぇっ? あ、ああ、そうかもな……」

「お迎えに行きますねっ! 霊夢さ〜ん!」

 

 萃香の返事も待たずにとてとてと駆け出した吹羽の背中。どんだけ霊夢が好きなんだと声を大にして言いたいくらいの喜びようだが、そりゃまあわたしよりは懐いてるに決まってるか、と軽く流す。

 「お帰りなさい霊夢さん! お邪魔してますっ!」という吹羽の声が響いて、霊夢は彼女に手を引かれて居間にやってきた。

 

「よ。帰ったか霊夢」

「……萃香、なんでこの子がここにいんの」

「あー、ちょっと届け物をな。なに、代金はわたしが払ったから心配すんな」

「…………そう」

「(……?)」

 

 短く返し、袖に隠した荷物を片付ける為にか箪笥に向かう霊夢。その姿を――雰囲気を感じ取り、萃香は内心で首を傾げた。

 何か……ピリピリしている。

 ふと吹羽を見ると、相変わらずにこにこと上機嫌そうに可愛らしい笑顔を零していた。

 人よりは感情の機微に聡い吹羽が気が付かないなら、何百年と本能で生きてきた萃香だからこそ気が付けた雰囲気の変化なのだろう。

 

 一体何があった――そう思っていると、吹羽が卓袱台に手をついて霊夢に言った。

 

「霊夢さんっ、今日はどこに行ってたんですか?」

「ん…………ちょっと野暮用よ」

「野暮用? 妖怪さんのお仕置き、ですか?」

「いいえ。とにかく、野暮用よ」

「そうですか……」

 

 霊夢の声音に勢いを削がれたのか、吹羽は少し落ち着いた様子で乗り出した身を元に戻す。

 野暮用――今回は確か、何かの調査だったか。出かけるときは普段と対して差はなかったように思うが、やはり何か出来事があったのだろう。妖怪退治ではなかったとは言え、仕事が終わって帰還した彼女が、ここでも気を張ったままなのは珍しい。

 

 霊夢は物品を片付け終わると、湯呑みを持ってきて机のお茶を注ぎ、机ではなく縁側の方に座った。丁度吹羽に背を向ける位置である。

 気が付けば、外ではぱらぱらと雨が降り始めていた。参道の石畳をぱたりぱたりと雨粒が叩き、少しずつ黒く染めていく。遠くで僅かに光ったのは稲光か。近いうちに大雨が来るのかもしれない。

 霊夢は、そんな空をジッと動かず見つめていた。

 

 霊夢の様子のおかしさに吹羽も気が付いたのだろう。少しおどおどした様子で立ち上がると、吹羽も同じようにして霊夢の隣に腰かけた。

 話題作りのためか、その際萃香の鋸を持って行って“おお?”と思ったが、追求はしない。

 

「れ、霊夢さん、見てくださいコレ! 今日萃香さんのために持ってきた鋸なんですけどっ」

「ん?」

 

 小さく喉を鳴らして瞳だけで見下ろす霊夢。

 

「ボク鋸はあんまり得意じゃないんですけど、すごくないですか!? 刃がとっても上手くできたんです! ほら、輝き方が違いますよ!」

「……そうね。綺麗な銀色」

「はいっ! 大変でしたよ……鋸って時間を掛けて木を切るものでしょう? だから刀なんかよりも柔軟性を持たせなくちゃならなくて……なんで刃物が柔らかくなくちゃいけないんだって感じですよねっ」

「……うん」

「あっ、でもこれはそれが両立させられたんです! だからボクの最高傑作なんですよ鋸の中では!」

「……よかったわね」

「はい! お兄ちゃんに手伝ってもらわなかったらこんなに上手くはできませんでしたよ!」

 

 ぴくり、と霊夢の肩が揺れた。

 

「お兄ちゃんすごいんですよ! 刀身の柔軟性を高めるのにボクの知らなかった方法を教えてくれて、手伝ってくれたんです!」

「………………」

「刃の角度とかもどれくらいなら一番削り切りやすいかなんてことを教えてくれて……そこの制作なんて全部お兄ちゃんにやって貰ったんです! あ、でもこれだとボクとお兄ちゃんの最高傑作ってことになりますね……危ない危ない、このまま言いふらしたらお兄ちゃんに怒られちゃいますね」

「…………」

「そういえば、この間お兄ちゃんと久し振りに剣の稽古をしたんです! 相変わらず歯が立ちませんでしたけど、なんだか前よりも気迫があって、強くなってたんですよ! ほんとう、あれ以上強くなってどうするつもりなんだろうってすごく思うんですけど、妖怪さんたちが暴れたときとかはお兄ちゃんが里を守ってくれますよね! そうしたら里も安泰ですっ! あ、あとお兄ちゃんたらこの間――」

「ねぇ、吹羽」

 

 ことり、と霊夢の湯呑みが板の間に置かれる。突然の言葉に少々呆けるも、吹羽は笑顔を崩さなかった。

 しかし、萃香は見逃さない。

 吹羽には見えない位置に置かれた湯呑み。それを持つ霊夢の手は――震えるほどに強く、ぎりぎりと握り締められていたのだ。

 ――なんだか、嫌な予感がした。

 

「お、おい霊夢――」

「あたしはね、あんたのこと大切な親友だと思ってる」

 

 普段口にすることのない告白に、不安げだった吹羽の表情が和らいだ。

 

「ぼ、ボクもそう思ってますっ!」

「そう。だから、言わせてもらうわ」

 

 そう言って、霊夢は今度こそ吹羽と真っ向から視線を絡める。

 真剣な視線に微笑みながらも背を伸ばす吹羽であったが――次の言葉に、その表情は凍り付いた。

 

 

 

「鶖飛とは、会うのをやめなさい」

 

 

 

「――……」

 

 ――親友だ、と前置いたのはさて、何のためだったのか。

 単純にその想いを伝えるためではなかったことは、誰の目にも明白である。むしろその言葉は、二の句に対する衝撃の緩衝材的な役割のつもりだったのか、次に言うことにおいて勘違いを生ませないための“これだけは覚えておいて”という前提条件づけのように聞こえた。

 真剣な霊夢の横顔は、萃香にそうした意図を察せさせるものだった。

 だが、しかし、それは冷静な思考ができる者だけが至る結論に過ぎない。

 霊夢の言葉は吹羽にとって――冷静さなど無残に切り裂く、絶望の宣告だった。

 

「…………どういう、意味……ですか」

「言った通りよ。あいつとは会わないようにしなさい。ウチで匿ってあげてもいい。ともかくあいつには――」

「そんなこと聞きたいんじゃありませんッ!!」

 

 吹羽の怒号にさしもの霊夢も言葉を詰まらせる。彼女を見上げる吹羽は、怒るような悲しむような、そんな表情で霊夢を睨みつけていた。

 

「霊夢さんは、ボクを親友だって言ってくれました……ボクもそう思ってるし、これからもそうであってほしいって、思いますよ……でも」

 

 睨みつける視線がだんだんと影って、前髪に隠れる。萃香からは、吹羽の目元に一粒の光が見えた。

 

「なんで……なんで霊夢さんが、そんなこと、言うんですか……?」

 

 弱々しく、しかし心の底からの叫び。

 

「霊夢さんはボクを支えてくれました。ボクを助けてくれました。元気がないときはぶっきら棒な言葉で励ましてくれて、嬉しいときは頭を撫でてくれました……なのに、なのに……なのにっ」

 

 弱々しい言葉が、少しずつ強くなって、終いに苛烈な非難の声音へと変わる。

 まるで霊夢に対する認識が、“信頼する親友”から“兄を離そうとする邪魔者”へと移り変わっていくように。

 否――まさにそうなのだろう。吹羽にとって如何に兄が、家族が大切なものなのかを鑑みれば、大して事情を知らない萃香にだって予想できる。やっと帰ってきた兄。戻ってきた平穏。それを再び壊そうとする邪魔者(霊夢)。いくら親友といっても、肉親の情には到底及ばないだろう。

 吹羽は浮かんだ涙を散らしながら霊夢を見上げて、言う。

 

「親友なら、なんで喜んでくれないんですか……なんでまた、ボクとお兄ちゃんを引き裂こうとするんですか……っ!?」

「っ、あいつはあんたにとって――!」

「いやですッ! そんなの聞きたくないッ!!」

 

 吹羽は耳を塞いでいやいやと頭を振り乱す。そんな彼女を見下ろす霊夢は、苦々しい顔で歯を食いしばっていた。

 

「やっと帰ってきてくれたんです! お兄ちゃんが、家族が……みんなでまたあったかく暮らせるんですっ! この日をずっと、何年も、一人で……待ってたんです……ッ!!」

 

 返す言葉がないのか、それとも吹羽の言葉が突き刺さって声が出ないのか、歯を食いしばってなにも言わない霊夢と、それを見上げて睨む吹羽。

 見ていられない――どちらに声をかけるべきか悩むも、萃香はとにかく吹羽の背に手を置こうとして、

 

 ――パチン。

 

 手を、振り払われた。

 

「っ、なぁ吹羽……」

「萃香さんも、同じなんですか……?」

「は?」

「霊夢さんみたいに、お兄ちゃんをまるで敵みたいに思ってるんですか……ッ!?」

「いやわたしは――」

 

 拒絶するように背を向けて、走り際に荷物を掴む。

 

「待ちなさい吹羽っ!」

「……うるさいです!」

 

 呼び止める霊夢の声に、しかし吹羽はそう吐き捨てて止まらない。普段は大人しい彼女の刃のような言葉が刺さるのか、霊夢は胸元の服を苦しそうに握り締めたまま、外へ飛び出す吹羽に再度言葉を投げる――が。

 

「いいから話を――」

「うるさいって言ってるんですッ!!」

 

 明確な拒絶の意思が、霊夢の声を押しとめる。萃香の労りを突っ撥ねる。

 人の依存心とは恐ろしいもので、それを否定されると、まるで歯車が狂ったように錯乱する。それを知っているはずなのに――霊夢は、選択を間違えたのだ。

 

 

 

「霊夢さんなんか……大っ嫌いですッ!!」

 

 

 

 降り出した雨の中走り去る吹羽の背を、霊夢と萃香は、呆然と見つめることしかできなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 走り、走り、走り――どこまで進んだかも分からないまま走り疲れて、吹羽の足は次第にとぼとぼとした力無い歩みに変わっていった。

 鋭い氷雨が体を打つ。ぱらぱらとしていた雨はいつのまにか激しくなり、もう五月雨と遜色ないほどに降りしきっていた。

 凍えるような寒さだ。冬間近の雨は凄まじい勢いで温度を奪う。張り付いた服から襲いくるあまりの冷たさに次第に自分の体温すら感じなくなり、やがて氷雨を冷たいとすら思わなくなる。或いは同じくらいに心まで冷え切って、冷たさを感じなくなってしまったのか。

 何もかもがぐちゃぐちゃになってしまった今の吹羽には、傘を差すなんてことに気を回す余裕すら、少しだってなかった。

 

 嗚呼――この感覚には、覚えがある。

 

「(……あの頃と、似てるんだ……)」

 

 記憶を壊し、なにに対しても怯えて過ごしていたあの頃の記憶が脳裏に過ぎる。

 なにも分からなくて、周囲の言うことが理解できなくて、なにも信用できなくて、ある種の疑心暗鬼に陥っていたあの頃。誰にも頼れなかったあの頃の自分は、きっと暗い気持ちばかりを積み重ねて、ものすごく冷たい心をしていたと思う。

 今の状態は、あの頃によく似ていた。

 

 あれから数年が経った。

 あらゆる物事に四苦八苦しながら、それでも支えてもらって今の生活ができている。体の覚えだけを頼りにしていたあの頃と比べれば、目を見張る進歩であったと自負している。

 ただただ、家族が戻ってくることをひたむきに信じて暮らしていた。誰がなんと言おうと、きっとみんなは帰ってくる。きっと戻ってくるはず――そうした吹羽の態度は、或いは、人には狂気的にすら見えていたのかも知れない。広いようで狭い幻想郷、それでも何年も戻ってこない者たちの辿る道など決まっているのだから。

 

 しかし、そうして待ち続けて、やっと兄が戻ってきた。

 

 報われたのだと、そう思った。嬉しくて嬉しくてたまらなくて、思わず溢れた涙は止まらず、浮かび上がる言葉は形にならなかった。

 ああ、氏神様は見ていてくれたのだ。ずっとずっと続けてきた祈りがやっと届いたのだ。これほど幸福を噛み締めたことは今までにない。兄と過ごす日々は毎日が暖かくて、優しくて、布団に入ればいつだって明日が待ち遠しい。

 吹羽はとても幸せだったのだ。

 

 

 

 しかし、それを否定したのはあろうことか、ずっと支えてくれた親友だった。

 

 

 

「っ、……〜〜っ、ぅぅ……」

 

 空を仰ぐ。苦しげな嗚咽が漏れ出た。

 鉛色の重苦しい雲は、冷たい雨粒を吹羽の頰に打ち付けては赤く腫れた目元をぴりぴりと刺激する。頻りに溢れる涙を拭うこともなく打っては弾け、小さな痛みばかりが吹羽を襲った。

 心が、ズキズキと痛かった。

 

「……なんで、なん、でぇ……れいむ、さん……っ、ぐすっ……」

 

 一番に喜んでくれると、そう信じて疑わなかった。

 だって、誰より吹羽のことを想ってくれていたのは間違いない。怯えてばかりでなにもできなかった自分を、それでも根気強く支えてくれたのは霊夢である。今の自分があるのは彼女のお陰といっても過言ではないほど吹羽は助けられたし、それくらい彼女も吹羽のことを想ってくれている。当然、吹羽がどれだけ家族に焦がれていたのかも、よく知っていたはずなのに。

 

 ――裏切られた。

 

 そんな言葉が、心の中で浮かんでは消え、浮かんでは消える。

 そんなはずない! と切なく叫ぶ自分とこれが現実じゃないかと冷たく呟く自分がぶつかって、ぎしぎしと心を軋ませていた。燻んだ白色と泥のような黒色が混じりあいうねりあい、なにがなんだか分からないままに頭の中でぐるぐると回っている。酷く不快で、もう気が触れそうだった。

 

「れいむ、さん……れいむさん……っ」

 

 自分の知っている霊夢がいなくなってしまったようで、とても悲しかった。譫言の如く名前を呼ぶ度、呆れている霊夢や怒っている霊夢、笑っている霊夢がフラッシュバックしては泡沫のように儚く消えていく。

 吹羽はついに立ち止まり、ぱちゃりと落ちるように座り込んで、幼子のように泣き続けた。

 

 

 

 ――そこに、声が。

 

 

 

「吹羽、さん……?」

 

 ゆっくりと顔を上げると、ぼやけた視界の中に見知った友人が立っていた。

 雨の中傘を差し、鮮やかな着物に身を包んだ小柄で可愛らしい少女――稗田 阿求である。

 

 とぼとぼと歩いているうちいつの間にか人里に帰ってきていたらしい。しかし雨が若干強いためか人通りはなく、ここには吹羽と阿求しかいない。

 阿求は驚いた表情で吹羽を見つめ、泣いているのだとわかると途端に血相を変えて歩み寄ってきた。

 

「どっ、どうしたんですか吹羽さんっ!? どうして泣いてるんですか……!? こんな雨に傘も差さず……何か、あったんですか……?」

 

 いつになく心配そうな表情で尋ねてくる阿求だが、あいにく受け答えするだけの余力すら吹羽には残っていなかった。

 阿求の表情を見た途端更に涙が溢れてきて、耐えられなくなった吹羽はわんわん泣きながら阿求に抱き着く。雨の当たらない彼女の腕の中はとても暖かく、無意識に涙を抑えていたなけなしの防波堤を、いとも容易く破壊した。

 

「ぐずっ、あきゅう、さん……っ、ぇぐ……ぅぁ、あぁああぁぁあああんっ!」

「ああ、ああ、よしよし……大丈夫ですよ。だから泣かないで、吹羽さん……」

「ぁあぁっ、ぐす……うぅぅうぅっ!」

「……とにかく、私の屋敷へ行きましょう。ここは寒いですから。ね?」

 

 阿求の優しい声音に、吹羽はこくりと頷いた。

 ここは稗田邸からほど近い場所のようで、吹羽の家に戻るよりも都合がいいらしい。

 それに、今鶖飛と顔を合わせるのは、正直に言って辛かった。今ですらこんなに辛く悲しいのに、鶖飛が傍にいては何度も思い出してしまうだろう。そんなの、生き地獄に等しい。

 

 阿求が吹羽の手を取る。今は彼女の存在が――その暖かさが、なによりも有り難かった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「はぁ……ったく」

 

 一方、博麗神社。

 雨の中に霧の混じる湿った空気が満ちた居住区にて、萃香は大きく溜め息を吐いた。

 喉を不味いお茶で潤して湯呑みを置くと、視線をついと部屋の隅へ向ける。

 そこでは、霊夢が膝を抱いて座っていた。

 

「なぁ霊夢、いつまでいじけてるつもりだい?」

「……いじけてない」

「いじけてんだろ。そういうなら屍みたいなその顔やめろ気味悪い」

「…………うるさい」

 

 独り言のように小さく呟いて、霊夢は萃香から顔を背けた。その視線はどこを彷徨うわけでもなく、ただじーっと襖の桟に付いた小さな埃に向いて固定されている。

 この虚ろな姿を見せておいて、“いじけてない”は無理があるだろう。誰がどう見たって今の霊夢は落ち込んでいるし、どんよりと暗い粘性の雰囲気を纏っていた。霊媒師が見たなら死相でも浮かんでいるだろうか。

 

 理由なんて明白だった。芯の強い霊夢がこうして虚ろな状態になってしまったのは、吹羽のあの一言が原因である。

 

 

 

『霊夢さんなんか……大っ嫌いですッ!!』

 

 

 

 去り際に放ったこの一言が、霊夢を一撃で追い詰めた。直前までの言い合いでも苦い顔をするだけで感情を殺し切っていた霊夢が、その一言を聞いた瞬間に崩れ落ちたのだ。

 別に責める気など萃香にはなかった。

 博麗神社に居候する身である、霊夢が吹羽を慮っていた実情は知っているため、吹羽の一言の威力がどれだけのものであったかは想像に難くない。

 今まで拳で語らうことを常としてきた萃香だが、それくらいのことは理解できるのだ。

 

 だがまああれ(・・)は正直……どうだったのだろう、と思いはする。

 

「なぁ霊夢。このままだとお前が腐っちまいそうだからいっそ言うが、あれはお前が悪いぞ?」

「…………」

 

 ちらと灰色の瞳が萃香に向く。少しは聞く気があるらしい、とポジティブに捉えて、萃香は思ったことをそのままに言い放つ。

 

「お前だって吹羽が鶖飛にでれでれなのは知ってるだろ? 嬉しそうに語ってるあいつの話をぶった切って“会うのやめろ”なんて、反発するに決まってるじゃないか」

 

 人の心の強さは知っている。それが底知れない力を生むことを、萃香は誰より知っているのだ。

 心というのは複雑怪奇。力の方向性だって千差万別である。数年かけてやっと戻ってきた鶖飛に依存する吹羽の心も、きっと計り知れないほどに強かったはずだ。それを真っ向から否定などすれば、強烈な反撃をもらうのは必然である。況してそれが、親友の口からでは。

 

「お前が何を思ってああ言ったのかは皆目見当もつかないが、少なくともあれは正解じゃあない。いやむしろ、ありゃ間違いだ」

 

 確信を持って言える。

 

「お前は、選択を間違えたんだよ」

「…………そうね」

 

 萃香の断言に、霊夢は相変わらずの小さな声で呟く。

 これを受け止めて開き直ってくれりゃ儲けもんだが、と思いながら、しかし霊夢の言葉は続く。

 

「あたしは間違えた…………我慢しなきゃ、いけなかった。言うべきじゃなかったのは分かってる。でも…………耐えられなかったのよ……っ! あの子が、あんな嬉しそうな顔で鶖飛を語るのが……っ!」

 

 見れば、霊夢の手は固く握り締められて震えている。

 一体何がそこまでの激情を誘うのか気にはなるが、萃香にはそこまでのことに首を突っ込む資格がない。

 ただ黙って、霊夢の紡ぐ言葉を受け取る。

 

「何も知らないのよ……あの子は何も知らない! 知るべきじゃない、知ってはならない! だけど、だけど……っ、あの子の傍に鶖飛がいて、それがあの子の笑顔を作ってるなんて……そんなの……そんなの――っ!」

 

 がんっ、と拳をぶつける。冷静な霊夢にしては珍しく、燻る激情を抑えられないようだった。

 ひたすらに強く感じる霊夢の怒り。それは間違いなく鶖飛に向いているもので――しかしどこか、自分にも向けたもののようにも見えた。

 

「葛藤、してんのか」

「っ、…………」

 

 何に対する葛藤なのか……そんなことを萃香は気にしない。それは霊夢が自分で考えなければならないことで、他人が口を出すべきではないことだ。

 ならば、萃香が霊夢にしてやれることはなんなのか?

 

「なぁ霊夢。わたしは別に優しい奴じゃあない。人助けなんて面倒だと思ってるし、ムカつく奴は思いっきり殴っちまう。難しいことをうじうじ考えんのは性に合わないのさ。だが……」

 

 鬼はいつだって拳で語る。拳をぶつければ、相手が自分をどう思っているのか伝わってくるものなのだ。

 篭った力、狙う位置、拳の硬さ、拳の受け方――あらゆる要素に相手の想いは浮き上がる。考えるのが不得手の代わりに肉体が強靭な鬼だからこその、苛烈なボディトークとも言えよう。

 しかし、そうした単純な生き物だからこそ、恩を感じる相手には最低限尽くそうとするのだ。

 

「義理は返す。わたしはお前がいたからここにいるんだ。そしてかつての約束を果たすこともできた」

「……手伝う、ってこと?」

「いいや、手伝うつもりはない。その代わり――」

 

 にかっ、と犬牙を見せて笑う。

 

「キツいときは助けてやる。だからお前は、答えを出せばいいんだ」

「………………」

 

 霊夢はしばし萃香の瞳を見つめると、不意に顔を背けて立ち上がった。

 言葉を待つ。霊夢は萃香の視線に応えるように、小さく息を吐いて前置いた。

 

「……背を押してるつもりかもしれないけど、あたしは他人に押してもらわないと進めないほど弱くないわ」

「知ってるよ。わたしを倒した人間がそんなひ弱なもんか」

「答えなんてとっくに出てる。ただ情けなかっただけ。自分を抑えられなかったのは、初めてだったのよ」

「そうかい」

「………………」

 

 傍目には強がりにも見えるそれは、しかし萃香には好意的に映った。

 言葉に出せば己の気持ちも定まってくる。霊夢が口に出して言ったのは、情けない姿を見せた自分を受け止め、目的のため前に踏み出す決意とするため。

 

「…………ありがと、萃香。気が楽になったかも」

「おうよ。それでどうするつもりだ?」

「準備を始めるわ」

「吹羽には?」

「伝えない。全て終わってから全部話す。あの子の心からあいつを引き剥がすのは、その時でいい」

 

 ――決着を、つけなくちゃ。

 

 こんな嘘だらけの悲劇(・・・・・・・)は、もう終わりにしよう。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 夜の帳が下り、吐息の白む澄んだ月夜だ。

 昼間の雨は次第に弱くなり、今では空から滴るような大人しい雨が降っていた。

 軒先からぽたりぽたりと雫が落ちる。川のせせらぎのようにも聞こえる雨音は静謐として、穏やか過ぎて、空も泣いているのかと阿求は部屋から空を見上げた。

 

 昼間、雨の中で見つけた吹羽は別室で休ませている。この屋敷に着く頃には涙も啜り泣き程度に治まっていたが、足元がふらついていたあたり相当な心労があったのだろう。そのまま帰らせるのはあまりに薄情と思い、今日は阿求が彼女を預かることになっていた。鶖飛には既に使いを送っている。吹羽の手前事情は話せないが、彼なら快く任せてくれるだろう。

 

 ――それにしても。

 

「(霊夢さんがそんなことを……まさかとは思うけれど、それなら吹羽さんがあんなことになるわけがないし……)」

 

 おおよその事情は吹羽から伝え聞いている。どうやら、霊夢は吹羽にとても酷いことを言ってしまったらしい。

 彼女はあれで優しい精根の持ち主である。いくら情味の薄い人間だといわれていても、吹羽の気持ちが分からないわけはないはずなのに。

 

 ……なんだか、気味が悪いな。

 いつだって正しいことを為す姿を見せてきた霊夢の不可解さに、阿求は言い知れない不安を感じた。

 この雨がもたらす陰気な雰囲気も手伝っているのだろうか。そわそわと気持ちが落ち着かず、いつのまにか巻物を広げる手も止まってしまっていた。

 溜め息。

 頬杖を突いて、ぼーっと外を眺める。

 

 不意に、声がかかった。

 

『阿求様、夢架はただいま戻りました』

「っ、入りなさい」

「失礼します」

 

 襖をきっちりと二回に分けて開き、流れるような動作で入室する侍従、夢架。相変わらず鉄面皮な彼女に、阿求は軽く微笑む。

 

「お帰りなさい夢架。頼んだものは買ってきてくれましたか?」

「こちらに」

「わあ! ありがとうございますっ」

 

 両手を合わせて笑顔の花を咲かせる阿求の前に、夢架は傍に置いておいた包みから箱を取り出す。その表面には、大きく羊羹(・・)の文字が。

 嬉々として箱を開け始める主人の姿に、夢架は澄まし顔に少しだけ呆れを込めて視線を送る。それでも食事用の器を即座に用意して差し出すあたり、やはり彼女は極めて優秀な侍従だと言わざるを得ない。

 

「お言葉ですが阿求様、お食事の買い出しであれば丁稚にやらせればよろしいかと」

「あなただから任せたんですよ。こんな時間にお菓子が食べたいなんて言ったら、あの子達を伝って他の侍従にも広まってしまうでしょう? 怒られたくないですから」

 

 それに、夢架に頼んでおいて正解だったと今は思っている。ちょうど不安が膨らんできて頭が回らなくなっていたところだ、こういう時には甘いものを摂るのが一番である。

 

「はむっ……んん〜! 美味しいっ! 夢架も食べますか?」

「……………………いただきます」

 

 大分溜めがあったが、夢架も静かに近寄って羊羹を一切れ拝借。楚々と口に運ぶ姿も絵になっていて、僅かに綻ばせた表情は誰もが見惚れる可愛らしさがあった。

 阿求が眺めているのに気がつくと、夢架は一つ咳払いをする。次の瞬間には元の鉄面皮に戻っていた。

 

「ところで、どうやら吹羽さんがいらしているそうですね。廊下で他の侍従が話しているのを聞きました」

「ええ。今は別の部屋で休んでもらっています」

「お世話はどうされますか?」

「………………」

 

 世話、か。

 果たして今の吹羽が、ほとんど知りもしない人に世話されるのを受け入れるだろうか。

 人は心が傷付いたりしたとき、よく一人になりたいと感じるものだ。知人ですら拒絶するそのときに、大して知りもしないウチの侍従なんかに世話をさせては返って負担をかけないだろうか。

 

 ふと夢架に世話をさせるか、とも考えたが、それは夢架に対して失礼にあたると思い直す。

 夢架は自分のお付き。数多くいる侍従の中から選ばれて自分の付き人になっている。そんな人間に“自分のことはいいから客の世話をしろ”なんてあまりに申し訳ない。付き人の主は、暇を与えない限り大人しく付き人に世話をされるのが一番の礼儀なのだ。

 

 となると、だ。

 

「……私が見るしかありませんね」

「よろしいのですか? 他の侍従たちが聞いたら猛反対しそうなお考えですが」

「今の吹羽さんにはあまり他人を近付けたくありません。それこそ我が屋敷の侍従の方たちでさえ。それくらいに不安定なんです。……吹羽さんも、きっと私と話した方が気が楽でしょうから」

 

 正直なところ、今の吹羽がどれ程までに傷付いているのか阿求には測ることができなかった。ひびの走ったガラス細工のように、不用意に触れたらたちまち砕け散ってしまいそうな気さえする。そんな彼女に他人は近付けさせられない。

 その点、阿求にはある程度吹羽に近寄れる確証があった。心を許していなければ、きっと吹羽は阿求の腕の中でわんわんと泣いたりしなかっただろうから。

 

 ほう、と一つ溜め息。

 阿求はまた一切れ羊羹を咀嚼すると、気怠そうに頬杖を突いて口を開く。

 

「ね、夢架。人は何をどう支えにして生きるのが正解なんでしょうね」

「……というと?」

「何度も転生を繰り返してきて、全ての記憶を引き継いでいるわけではないけれど、その時々に生きてきた人々を私は知っています。……彼らを見るたびに思うんです。立派な人も粗末な人も、賢い人も粗忽な人も、皆芯と呼べるものを心に持っている。そしてそれが砕けて立てなくなることを、絶望すると言う……なら、砕かれない心の芯とは何でできていて、どうやって立てるのだろう、と」

 

 誰しもが何かを支えに生きている。それはきっと人それぞれに材質が違って、どう支えにしているのかも違うはず。その心の芯と呼べるものは、耐えられないほどの強い衝撃を受けた場合にはしばしば折れてしまう。だからこそ、どんな時にも折れない芯を持つ人のことを“強い人間”と呼ぶのだ。強い芯は壁に立ち向かう勇気を与え、時に力を与えて鬼すらも凌駕する。

 ――ならば、そうした強い芯はどうしたら作り立てられるのだろう、と阿求は疑問だった。

 

 今まさに、吹羽は心の芯が折れてしまっている。彼女は決して“強い人間”ではない。今までだって軽く折れることはあっただろうが、今回は粉々に砕けてしまっているような有様だ。それをどうにかしてあげたいと、阿求は心から思っていた。

 

「答えは存在しない、なんて分かりきっています。人それぞれに個性があるように、支えとなりうるものはそれぞれに違う……吹羽さんに最も相応しい強い支えとは……一体なんなんでしょうね」

「それは、阿求様がお考えになることではないように思います」

「そうですね……こういうものは本人が見つけるしかない。でも……それでも助けてあげたくなっちゃうんですよ。私、吹羽さんの親友なので」

 

 無力感、遣る瀬無さ、それらが含まれた切ない笑みを阿求は浮かべた。

 自分では吹羽の支えになってやれないことは百も承知。それでも助けようと思わずにいられないこの気持ちの、なんと遣る瀬無いことか。

 

 阿求は持っていた黒文字で羊羹を新たに二切れ取り分けると、広げていた巻物を懐に差し、まだ使用していない黒文字を器に添えて立ち上がった。

 

「さて……少し空けますね」

「吹羽さんの部屋へ?」

「ええ。そろそろ小腹が空く頃でしょう。あなたのようにはできませんが、せいぜい頑張ってお客さまをもてなしますよ」

「……私の仕事は些事に過ぎません」

「あら、誇ってもいいのに。これでも私は、随分と助けられていますよ」

「恐縮にございます」

 

 そんな会話を最後に、廊下へ。

 部屋の中で火鉢を焚いていたわけではないが、やはり室内と屋外では気温に差があり、阿求は軽く身震いをして吹羽のいる部屋へと向かう。

 彼女の部屋は阿求の部屋からもほど近い場所に設置している。本当ならば家主の部屋とは距離を開けて設置するのが客室だが、今回はその家主(阿求)の要望でこんな形を取っている。今の不安定な吹羽を、あまり遠くに置いておきたくなかったのだ。

 

 程なくして、吹羽の部屋の前に着いた。

 中は非常に静かだった。もともと吹羽は夜中に騒ぐような非常識な人間ではないが、今この部屋には、中に人がいるのかどうかも分からなくなりそうな静かさで満ちているようで少々恐怖を感じるほどである。

 

 開ける前に、声をかける。

 

「吹羽さん、少しお話をしませんか? 美味しい羊羹も持ってきたんです。……入りますよ」

 

 吹羽の答えを待たず、阿求は少し強気に構えて襖をゆっくり開く。すると、部屋に広がっていたのは暗闇だった。戸も開けず、灯りもつけず、ただ欄間から差し込む弱々しい外の光が差し込んで、部屋の中央に広げられた布団を照らしている。しかし、そこに吹羽の姿はない。

 暗順応してきた目で部屋を見回すと、吹羽は部屋の隅で膝に顔を埋めて蹲っていた。

 

 部屋に入り、灯りに火を灯そうと手を伸ばすと、

 

「……つけないでください」

「え?」

 

 まだ震えるような弱々しい声。

 

「何も……目に入れたくないんです……」

「……そう、ですか」

 

 要望に従って手を引っ込めると、阿求は吹羽から少し距離を開けて座った。

 畳が磨き立てのように艶やかだ。それには人が部屋にいる痕跡がなく、恐らく吹羽はここにきてからずっとあそこに蹲っているのだろうと予想された。

 羊羹の器を置いて、吹羽を見る。年齢相応の小柄な彼女だが、今はより一層小さく見えた。

 

「阿求さん、も……お兄ちゃんが悪い人だ、って……思ってますか……?」

「………………」

 

 ――何の前置きもない、抜き身の刀のような答えにくい質問。容易に返せなくて黙る阿求に、吹羽は言葉を続ける。

 

「霊夢さんが、なんでボクからお兄ちゃんを取ろうとするのか、ずっと考えてました……。でも、ダメでした。そんな理由思いつかないんです。霊夢さんがお兄ちゃんのことを悪い人だと思ってるって、ことくらいしか……」

 

 それはきっと、消去法で導き出されただけの理由。妥当な答えが見つからないから、前提として考えついたものでしかない。しかしそれにすら賛同も否定もしにくいのが辛いところか。

 だから阿求は、思っていることを素直に言うことにした。

 

「私は…….鶖飛さんのこと、とても酷い人だと思っています」

「……ぇ」

「当然でしょう。突然消えてはふらっとまた現れて、平然と前の暮らしに戻ろうとしているんです。残された可愛い妹のことなんて頭の片隅にもない――兄の風上にも置けない人だと思っていますよ」

「…………まだ怒ってるんです?」

「もちろん。言葉では許しましたけど、私は彼のしたことを一生忘れるつもりはありません」

 

 彼が吹羽を大切に想っている事実は認めている。年の功を積んできた阿求をしてそこに嘘はなかった。だが、それとこれとは話が別である。

 妹のことはちゃんと想っていた。だがそれでも残して自分は消えた。それが厳然たる事実。ならば彼が吹羽のことを蔑ろにしたのも事実である。当事者の気持ちと事実は必ずしも一致しない。彼の所業だけは、忘れ去るつもりなど毛頭ない阿求であった。

 

「じゃあ……阿求さんも、お兄ちゃんとは会わないほうがいいって、言うんですか?」

「いいえ。私は言いませんよ」

 

 その言葉に、吹羽はようやく顔を上げた。

 

「ほ、ほんとう、ですか……?」

「ええ。そもそも私は、鶖飛さんに吹羽さんのことを任せた張本人ですから。簡単に言葉を撤回したりはしません。ですが、吹羽さん……」

 

 吹羽の表情にわずかな光が灯る。本来ならこうして元気付けて終わりにしたいところではあったが、そうもいかない。

 吹羽の話を聞く限り、これはただの喧嘩ではない。もっとなにか重大なことが背景にあって、きっと吹羽はそれを深く考えなければいけない立場にある。答えをあげることは出来ないが、吹羽の親友として、助言くらいはしてあげられる自負が阿求にはあった。

 

「しっかりと、考えなくてはいけませんよ」

「え……?」

「霊夢さんに辛いことを言われた、でも吹羽さんの意見と同調する私がいた――吹羽さんは、たったこれだけの言葉だけで全て決めつけてしまう(・・・・・・・・・・)つもりですか?」

「っ、」

 

 認めたくない現実に共に反抗してくれる人がいる。それは確かに心強いことだろう。だが、たった一人が自分の思いに賛成したところでそれが真実である・正しいことであるかどうかは保障されない。人は時に数千人単位でも間違えることのある生き物だ、たった一人の賛同程度で真実を見通せるわけもないだろう。

 吹羽は今、“信じたいもの”を信じているだけなのだ。

 当然阿求にも霊夢の意図やこの場で言う真実というものは何一つ分からないが、吹羽が偏った思考を辿っていることだけは理解できた。

 

 そうして形作られた認識は、危うい。

 特に、吹羽のような何事にも信心深い無垢な少女には。

 

「吹羽さん、大事なのは対話です。人は会話する生き物でしょう? 言葉は気持ちを伝えるために編み出された概念なんですよ」

「……もう一度、霊夢さんと話をしろって……ことですか……?」

「……ただ言葉をぶつけ合うだけの会話で伝わる気持ちなど高が知れています。霊夢さんが正しいとは言いません。でも今の吹羽さんは、話し合うことからすら逃げています。これでは取っ組み合いの喧嘩と同じですよ」

「…………喧嘩なんかじゃ、ありません……霊夢さんが分からず屋なだけなんです……」

 

 そう言って、吹羽は再び顔を膝に埋める。阿求に賛同が得られないと分かって、また塞ぎ込んでしまったのだろうか。

 まあ、無理もない。阿求もたったこれだけの対話で説得できるとはハナから思っていない。落ち込んだときなんかは、誰しも他人の言葉を受け入れがたいものだ。霊夢の言葉に打ちのめされた今の吹羽には、きっと考える時間と冷静になる時間が必要だろう。

 

 ――これは、今伝えるべきではないな(・・・・・・・・・・・)

 

 懐に忍ばせた巻物をぐっと奥へ押しやり、代わりに持ってきた羊羹を差し出す。

 

「吹羽さん、お腹空いたでしょう? 本格的なものは出せませんが、美味しい羊羹を持ってきたんです。……食べませんか?」

 

 努めて優しい阿求の声音に、吹羽の体がピクリと揺れた。

 お腹は空いているだろう。どうやら食事もまともに摂らなかったと侍従に聞いていた阿求にとっては、少しでも食べて元気をつけて欲しいところではあるが――吹羽は僅かに反応しただけで、食べ始める様子はなかった。

 

 吹羽に気付かれない程度に小さな息を吐き、阿求は静かに立ち上がった。

 

「じゃあ……私はそろそろ行きますね。また明日来ますから」

「……っ、あ、あの……っ」

「! は、はい。なんですか?」

「えと……その……」

 

 襖に手を掛けたその刹那、吹羽の切羽詰まった声が阿求を引き留めた。

 驚いて振り返ると、不安そうに揺れる瞳が阿求を見ていた。

 

「し、しばらく……ここに置いて貰っても…….いい、ですか……?」

「……家には帰らなくて大丈夫ですか?」

「……はい。今は、お兄ちゃんに会うのも……辛いんです……」

「そうですか」

 

 襖から手を離し、阿求は微笑みながら吹羽の側にしゃがみ込む。始めよりもずっと近い距離だ。吹羽は拒絶することもせず、縋るような弱々しい瞳で阿求を見つめる。その頭に、阿求は優しく手を添えた。

 

「もちろん、好きなだけ泊まってください。心が落ち着くまでいつまでも。私はどんな時にもあなたの味方なんですから」

 

 そんな阿求の微笑みに、吹羽はぽろぽろと涙を零し始めた。嗚咽こそなく静かな涙だったけれども、阿求は吹羽の見せたその涙がとても嬉しいことのように思えた。

 吹羽が、頼ってくれているのだ。何処か抱え込みやすい気質の彼女が、辛いから側にいてくれと、そう言っている。心の拠り所にさせてほしいと、そう願っている。

 ――嬉しくないわけがなかった。

 

「もう、吹羽さんは泣き虫ですね? 可愛らしい顔が台無しですよ」

「ぅぁ、あきゅう、さんが……なかせるからですぅ……!」

「まあ、人聞きの悪い。じゃあ私が慰めてあげないとですね。羊羹食べます?」

「ぐすっ……たべ、ますぅ……」

 

 涙を拭いながら羊羹を囓る吹羽。止まらずはぐはぐと咀嚼するその姿に、やっと食べてくれた、と阿求は少し安心した。

 

 しとしとと滴る雨が、鎮魂歌のように穏やかな音を奏でる夜。

 それに紛れる涙の音が寝息に変わるまで、阿求はずっと彼女の頭を撫でていた。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

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