風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第三十八話 雪中の決意

 

 

 

「――御力を、お貸しくださいますよう」

 

 いつものように神棚の前で手を合わせてお祈りを済ませると、吹羽は少し張っていた気を解いて息を吐いた。

 隣では鶖飛が同じように合わせていた手を膝の上に戻し、重そうな瞼をゆっくりと開けている。その様子がどこか物珍しくて、吹羽は鶖飛を見上げながら小首を傾げた。

 

「お兄ちゃん、あんまり眠れなかったの?」

 

 しっかり者が珍しい、と不思議そうに吹羽が尋ねると、鶖飛は人差し指で瞼を軽く擦りながら気の無い返事を返してきた。

 

「ちょっとね……たしかに、最近あんまり眠れてないかも。取り敢えずもう一回顔を洗ってくるよ。吹羽は先に仕事を始めててくれ」

「ん、分かった! ちゃんと目を覚ますんだよお兄ちゃん! そういう何気ないことが怪我に繋がったりするんだからねっ。夜更かしはダメだよ!」

「はいはい、肝に銘じとく」

 

 ひらひらと手を振りながらお手洗いへと歩いていく鶖飛の背中を見送る。真面目な話なんだけどなぁ、と唇を尖らせる吹羽だったが、すぐにまあいっかと楽観的に考えを切り捨てた。

 

 今日の天気は曇りである。

 家の中を巡る風もどこか湿っぽく気怠さを運んでいる。どんよりとした雲は隙間もなく灰色で空を覆い隠して、今にも雨が降ってきそうな雰囲気だった。

 この間は夜のうちに降り止んだようだったが、ここ最近は曇り空が増えている。本格的に秋雨が始まったのかもしれない。

 嫌いじゃないけど長いのは困るなぁ、なんて頭の片隅で思いながら着替えを済ませ、吹羽は髪紐と髪留めで仕事モードに切り替えてから工房に入った。

 

 外は曇りでも仕事は仕事。いくら気分がどんよりしていようとお店は開かなければならない。休んでいいのは定休日だけだ。

 最近の臨時休業? いやいや、やむを得ない時にしかしてないから大丈夫。そもそも魔理沙や早苗に半ば無理やり連れ出されたからそうしていたのであって、サボりたかったわけではない。ないったらない。

 

 吹羽は手早く道具棚から金槌なら砥石やらを取り出すと、一纏めに置いて一つ、ぐぐっと背伸びをした。

 

 と、丁度背後の扉が開く。

 

「お、やる気まんまんだね」

「元気出していかなくちゃ。空は雨模様でも炉の火はちっとも冷めたりしないからね!」

「それもそうだ。雨なんて、刀匠がだらだらと惰性で刃物を打つ理由にはならない」

「そういうことっ♪」

 

 雨は休む理由にならない。至極当たり前のことだが、それを口に出して宣言してみると改めて気持ちが昂る気がした。

 嫌な仕事なら、きっとここで気分が沈む。でも自分は沈むどころか昂ぶっているのだから、本当に鍛治が好きなんだなあとしみじみ感じられる。

 

 ――いや、鍛治というよりは、これを通じて感じられる風が好きなのだ、とすぐに思い直す。何せ“これだけは”と吹羽が自信を持って言えることの一つである。自分はもちろん、霊夢も阿求も早苗だって知っていること。

 吹羽は今でも当然、風が好きだった。

 

「……あ、そういえば……」

「どうかした?」

「あ、ううん。大したことじゃないんだけど、ちょっと面白いこと言われたのを思い出してね」

「面白いこと?」

 

 手に持っていた道具を置き、鶖飛が関心を引いたような視線を向けてくる。吹羽は小さく頷くと、ある日早苗に言われたことを鶖飛に語った。

 

「あのね、少し前に早苗さんと“風が好きなんだ”って話したことがあったんだけど、その時にね、言われたの。『心から風が好きなら、きっと吹羽ちゃんは風神様に魅入られた風の御子なんだね』って」

「……随分過大解釈してるね」

「ふふ、そうでしょ? あとで思い出してみたら大袈裟だなあって。早苗さんってなんでもすることが大仰で面白いよね!」

「…………そうだね」

 

 当時こそそう言われても実感がなく、言われたことをそのまま頭の中に入れるだけだったが、改めて考えてみるとやはり早苗の言うことは大袈裟だし、吹羽に対しては虚妄が過ぎる。大体風が好きだってだけで御子呼ばわりなら、きっと世界中御子だらけだ。本当にそう呼ぶなら吹羽よりも適任がいるだろう。

 

 ただまあ、そう言われて気が悪くなる訳もなくて。

 あの夜以来、早苗の純粋な気持ちを受け入れられるようになった今の吹羽には、ただただあの時の彼女が面白おかしいだけなのだった。

 

「そうだ、お兄ちゃん。今日のお仕事のことなんだけど」

「ん? 何かあった?」

「あ、大したことじゃないんだけどね」

 

 言いながら炉に火を灯す。ぱちぱちと弾け始める火は、しかし空気が湿っているからかあまり勢いがなかった。

 むうと頬を少し膨らまし、吹羽は火が固まっているところに火箸をがしゃりと突っ込む。

 ぱちん、とまた火が飛沫いた。

 

「今日はちょっと出かけなきゃならなくて。午後からはお店任せるね」

「依頼かい? ――って、ああ、アレか」

「うん。まあ、そんなところかな」

 

 よし、と火の勢いに納得して立ち上がる。

 つられて鶖飛も吹羽を見た。

 

「じゃあ今日もがんばろ、お兄ちゃん♪」

「ああ。風成利器店、今日も開店だ」

 

 お互いに持った道具を前に突き出し、二人は笑顔で頷きあった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 正午過ぎ。鶖飛に店を任せた吹羽は、肩に包みを引っ掛けて歩いていた。

 曇り空は相変わらず重苦しい色で空にのさばっており、日の光は少しだって差していない。冬間近の秋にはそれが厳しく空気を冷えさせるので、吹羽は普段着の上に一枚服を羽織っていた。以前慧音と出かけた際に買ったふわふわの羽織である。

 

 小柄な体躯に柔らかそうな羽織を着る今の吹羽には思わず抱き締めたくなるような愛玩人形的可愛らしさがあった。

 実際人里の往来を通った時にはぽつぽつと多くの視線を感じていた吹羽だが、人のそういった自分への感情に慣れていない吹羽は当然そわそわと困惑するだけだ。

 隣に鶖飛がいなかったことは僥倖と呼ぶべきだろう。彼がいたなら、きっと吹羽をそういう目(・・・・・)で見ていた者らなど物理的に細切れにされていただろうから。

 閑話休題。

 

 吹羽が向かうのは博麗神社である。手紙による依頼だったのだが、鋸を打って欲しいとのこと。そして届ける場所も博麗神社に頼む旨が(したた)められていた。

 なぜ霊夢が鋸など? そもそも普通に取りに来ればいいのに。

 そういった当然の疑問が浮かんだ吹羽だが、今回の霊夢はあくまでお客様。友人として接するわけにはいかないというのが吹羽の考えだ。お届け奉仕というのも、ウチに歩いてこれないお年寄り相手にはしばしばしていたことである。だから文句は言わないし、そも注文に文句をつけるなど商売人の風上にも置けない。

 取り敢えず鶖飛の手も借りながら自分にできる最高の鋸を完成させ、吹羽はさほど整備されていない道を一人歩く。腰にはいつもの如く、かちゃりかちゃりと五振りの刀が音を奏でていた。

 

「そういえば、博麗神社に行くのは久しぶりな気がする……」

 

 居住区の居間でお茶を啜る霊夢の姿を思い浮かべて、思いのほか懐かしく感じたことに驚く。

 それを肯定するように、木の上の小鳥がちゅんちゅんと可愛らしく鳴く声が聞こえた。

 

 それもそうか、と思い直す。なにせ以前訪れたのはみんなで花札をした日であり、それから今日まではあまりにも濃い日々だったのだから。

 文の一件、鶖飛の帰還。言葉にすればたったこれだけなものの、それがあまりに鮮烈で、きっと一生忘れ得ないであろう記憶であることは間違いない。慧音との約束すら忘れてしまうくらいだったのだから、なるほど博麗神社への訪問を懐かしく感じるのは当然のことだ。

 

 いや、もしくは、短期間で多くの人に出会い過ぎたのかも知れない。

 

 慧音に始まり、魔理沙、椛、文、萃香。早苗に神奈子、諏訪子、天魔、烏天狗に至っては、あの男性二人をはじめとして多くの者と顔を合わせている。

 ほんの一、二ヶ月前までは霊夢と阿求くらいしか友達がいなかったというのに、なんの縁か多くの者と吹羽は知り合った。

 これは大きな進歩かも知れない、と吹羽は神妙な顔つきになって、ふむと頷く。仕事の虫といっていいほど家に篭りきりだった自分が、よくもまあ短期間でこんなにたくさんの知人や友達を作れたものだ。

 

「慧音さんは優しいお姉さんで、魔理沙さんは元気な人、椛さんは初めての妖怪さんの友達で、天魔さんは……」

 

 助平なおじいさん?

 天魔の言動の破廉恥さを思い出してポンッと湯気を噴く。今更になって話が理解できてきた吹羽である、今思えばあの人は会うたびに破廉恥なことしか言っていない気がする。

 

 ともあれ、こうやって羅列していくと本当に知り合いが増えたと実感できる。自分の世界がどれだけ狭かったのかをつらつら目の前で愚痴られている気分だ。

 嫌ではない。そしてこれだけ知り合いが増えても変わらず霊夢と阿求を親友だと認識できることが、思いのほか吹羽は嬉しかった。

 だってそれは、それだけ二人の存在が自分の中では大きいということなのだ。

 

 勿論他のみんなも友達や知人程度には大切に思っている。だがそれでも、霊夢と阿求だけは吹羽の中では別格の扱いだ。

 今の吹羽を形作った二人であり、現在でさえ吹羽の心の拠り所になっているのは二人である。今は家に鶖飛がいるので困った時などは彼に甘えるが、結局それは近くにいるからに過ぎない。

 霊夢や阿求が近くにいたなら何も遠慮せずに頼る。それが彼女らへの信頼の証にもなると慧音に教わった。今の吹羽は、二人と鶖飛の二本柱によってできている。

 

 二人もボクのことをそんな風に思ってくれていたら嬉しいなぁ。

 そんなことを思っていると、いつの間にか自分が鼻歌を歌っていたことに気が付いた。吹羽は咄嗟に周囲を見回して誰か見ていなかったを確認するが、幸いにも誰もいなかったらしい。

 

 ちゅんちゅんぴより、木の上から声が聞こえる。さっきの小鳥が着いてきて、吹羽の鼻歌に乗せて唄ってくれていたようだった。

 無意識で歌っていたために上手いか下手かも判断の付かない鼻歌は、聞かれるとさすがに恥ずかしい。吹羽は小鳥相手にも照れ臭くなって、少しだけ歩みを早くする。

 幸いにも、博麗神社への入り口は目と鼻の先にあった。

 

 博麗神社は里の外れ――どころかこの世界、幻想郷の端に存在する。この世界を包み込む“博麗大結界”の要であり、そこ以外には作り得なかったのだ。おまけにそこは小高い丘の上であり、長い長い石階段と整備のされていない杜撰な道によって人里と繋がっている。参拝客はお察しだ。

 霊夢はそういう場所に住んでいる。親友たる吹羽は何度かこの道を歩いて博麗神社を訪れているが、家に篭ってばかりの幼女の足腰にはやはり辛いものがあり、慣れとは未だに程遠い。「足腰が弱いな吹羽は」とは、鶖飛との剣の稽古で耳にタコができるほど聞いた台詞だ。剣を振るっているのだし、それなりには頑丈だと思っているのだけど。

 

 小刻みに息を切らせながら階段を登り切ると、正面に朱色の大きな鳥居が見えてきた。元は綺麗な紅色だったのだろうが、長い年月を経て色がぼやけている。これを見る度に「霊夢さんって掃除とかしてるのかなあ」と心配になるが、言ったが最後きっと拳骨が飛んでくるに決まっているので喉元に留めていた。

 “触らぬ神に祟りなし”という諺がある。わざわざ危険を冒す必要はない。吹羽は賢い子なのだ。

 

 鳥居をくぐって、草が僅かにはみ出た参道を歩む。正面に聳える境内を通り過ぎて居住区の前に立つと、

 

「霊夢さーん。いますかー? 品物のお届けに来ましたよー」

 

 ――声が響いて、一拍。

 静まり返った神社から応答はなく、代わりにからりとした風がさあっと吹き抜けた。枯れ始めた葉々がかさかさと乾いた擦れ音を奏でている。神社を旋回するようなゆるい風が、枝から引きちぎった枯葉を参道に撒き散らしていた。

 

「待たせたね」

「――っ!?」

 

 唐突に、背後から声がした。

 

「――と言いたいところだが、あいにく霊夢はいなくてね。わたしが応対しよう」

 

 突然の声にどきりとして吹羽は慌てて振り返る。一体なんだ! と心の中で身構えて視線をやると、そこにいたのは――ちょっと不満そうな顔をした小鬼、伊吹 萃香だった。

 吹羽の様子に、萃香は片眉を釣り上げて言う。

 

「なんだい、そんなに驚かれるとちょっと遺憾だねぇ。鬼だって傷付くもんは傷付くんだよ?」

「あっいえ、そのっ……何か悪いものが寄ってきたのかと思って……! まさか萃香さんだとは……っ」

「悪いものぉ?」

 

 あわあわと咄嗟の弁明する吹羽の言葉に萃香は目を丸くすると、次いでかっかと笑い声をあげた。

 

「はっはっはっ! 神社で声をかけられて咄嗟に思ったのが“悪いもの”か! こりゃなんと皮肉! 霊夢だったら膨れっ面しそうだっ!」

 

 目の前で大笑いする大妖怪の姿に呆然とする。が、次第に言葉の意味がわかってくると、ちょっと失言だったことに気が付いた。

 神社は一般的に神聖な場所とされており、妖怪など寄り付かないのが基本である。そんな中で悪いものが寄ってきたと咄嗟に思ってしまったのだから、吹羽の博麗神社に対する印象(本心)が伺えるというもの。霊夢の前で言ったら、普通に怒られそうな事実である。

 

 ――萃香とは、文の一件で家に訪ねてきて以来の付き合いだ。なのでそれほど長くない付き合いのはずなのだが、萃香にとっては凪紗の子孫だということに感じるものがあるのか、ごくごく偶に――未だに数えられる程度の回数――だが吹羽の家を訪ねてはお茶を飲んでいったりおしゃべりしたりする。吹羽としては、強大な大妖怪が自分の家でお茶を飲んでいくという異常な事態にはようやく慣れを感じ始めてきた、というところであった。

 加えて、鶖飛が帰ってきてからは天魔の屋敷で会ったきり。何故だか吹羽には分からなかったが、なんだかとても久しぶりなように感じられた。

 

「す、萃香さん! 今の霊夢さんに言ったらダメですよっ!?」

「はははっ、分かってるよ! 言わないと約束しよう」

「ほんとですね!? 信じますよ!?」

「ああ信じてくれ。大丈夫、わたしは嘘が大嫌いだからね。ちょっとしか嘘はつかない」

「その“ちょっと”は心配ですっ!?」

 

 まあ“ちょっとしか嘘はつかない”と正直に(・・・)言った、という見方もできるため、多少心配ではあるものの、告げ口する萃香がどうにも想像できない吹羽は、訝しい視線を向けながらも彼女を信じることにした。

 

「まあ、実際のところこの神社には悪いものは入ってこれないから安心していい。そういう結界を霊夢が張ってるんだよ」

「そ、そうなんですか?」

「ああ。だからほら、わたしなんかここに居候してる。何よりの保証だろ?」

「そう、ですね……」

 

 ……霊夢は入ってきた悪い妖怪が即死するような結界でも張っているのだろうか。

 自分の生存を理由に説明する萃香に、吹羽は霊夢の情け容赦なさ幻視して戦慄する。

 

 萃香は薄く笑って肩を竦めた。

 

「ともあれ、警戒するのはいいことさ。ここは里の外――神社は安全だが、ここに来るまではいつ襲われるか分かったもんじゃない。その点、風紋刀もちゃんと持ってるね」

「あ、はい。里を出るときは帯刀しろって霊夢さんに言われてますから」

「言いつけをちゃんと守ってるんだね。えらいえらい」

「あ、頭を撫でないでください……ボク子供じゃないんですよっ」

「はいはい」

 

 わしわしと髪をかき混ぜる手に抗議すると、萃香は気の無い返事をして手を離す。次いでにかっと眩しく笑った。

 

「ま、取り敢えず本題を済ますかね。はいよ、これ」

「へ? これ……お金?」

 

 差し出された手には、人里で使うようなお金――それもかなりの大金が乗せられていた。風紋刀一振り程度に匹敵する大金である。萃香は上機嫌そうな薄い笑みを浮かべているが、吹羽は困惑の只中にいた。

 だって、突然お金を差し出されたら誰でも驚くだろう? それもこんな気軽に大金を出されたんじゃ、驚愕を通り越して声も出ない。一体なんて言葉を返せばいい?

 

 そんな吹羽の心情を読み取ったのか、萃香は一変、不思議そうな顔をして小首を傾げた。

 

「どうした? 受け取っておくれよ」

「え? いや、あの……なんのお金です?」

「なにって、代金(・・)さ。後払いだろう? お前の店は」

「へ? そう、ですけど……代金?」

 

 たしかに風成利器店は依頼品と交換する形で代金や代品を受け取る方式をとっているが、そもそも萃香には刃物など作っていないので交換できない状態だ。それでこんな大金を差し出すとは、一体なんの冗談だろう?

 

 いまいち状況が掴めていない吹羽に対し、萃香は少し視線を宙に彷徨わせると、すぐに得心がいったように小さく声を漏らした。

 

「お前さん、今日は依頼の品を届けに来たんだよね」

「はい……」

「その以来の品ってのはなんだい?」

「えと、鋸……ですけど」

「それ、わたしが依頼したもんだ」

「……え?」

 

 一拍おいて、短く疑問の声が漏れる。萃香は気にせず、

 

「霊夢が日曜大工なんてすると思ったかい? 鬼は建築が割と得意でね、わたしなんかは偶の趣味にしてるんだが、この間鋸が壊れちまってることに気がついてねぇ。だからお前さんところに依頼したってわけさ」

「え、でも名義が……」

「博麗神社とだけ書いたはずだよ?」

「……そういえば、そうですね……」

 

 家に置いてきた依頼書を思い出す。受け取り場所が博麗神社と書いてあっただけで、吹羽はてっきり霊夢が欲しがっているものと思い込んでいた。

 そうだ、あの面倒臭がりの霊夢が日曜大工なんてするわけがない。いくら彼女がなんでも十分以上にできてしまう天才でも、結局は非力な女の子だ。腕力が必要になる大工なんて彼女にはできないだろうし、そもそも建材なんて結界を使って切断してしまうだろう。

 

 再度突き出してくる萃香のお金を、吹羽はやっと得心いって受け取った。お礼を言ってから荷物を降ろし、中から布に包まれた品を取り出す。萃香に渡すと、彼女は包みをとって依頼の品をまじまじと見つめた。

 

「ほー……予想以上の出来だね……こりゃ鍛治技術も昔よりよっぽど進化したらしい」

 

 ひゅっひゅっと軽く振るう。重さを確かめているのだろう、萃香は刀を振るうように鋸を振るっては握りを直し、再度振るうのを繰り返していた。ほんとはそんな使い方じゃないはずなんだけどなーとぼんやり思いながら眺めていると――萃香はトンと地を蹴って、軽く跳び上がった。

 

 緩い回転を経て萃香の手に持つ鋸が――否、腕のそのものがヒュッと搔き消える。同時にボッっと空気を消し飛ばす音がして目を向けると、なんと神社の脇に立つ木が、断ち切られて斜めにずれ落ちていった。

 

 ポカンと吹羽。萃香は呑気に。

 

「おお……前使ってたのより切れる。こりゃいい買い物したな」

「…………ボクの知ってる鋸じゃないです……それ、刀でもよかったんじゃないですか? もしくは斧とか」

 

 それこそ風紋刀ならもっと容易に斬れるのに。相変わらず妖怪というのは人間にできないことを平然とやってのけるなぁ。

 そろそろ妖怪というものの人外っぷりに慣れ始めてきた吹羽は、萃香の所業に驚きを通り越して呆れていた。

 そもそも鋸の使い方違うし。一振りしたところで断ち切れるようなものではないはずなのに。ていうかそこまでできるなら手刀とかでスパッと行けそうな気もするんですけど。

 色々と文句染みた感想が浮いて出てくるが、それらは全て吹羽の大きなため息に含有されていた。

 しかし、当の萃香は何を心外なとばかりの表情。

 

「必要なのは鋸さ。建材だよ? わたしらの手刀じゃこんな綺麗な断面は作れないからね」

 

 と、倒れた木を片手でひょいと掴んで断面を見せつけてくる。そこには綺麗な年輪が描かれており、何十年もそこに根を張っていた立派な木だったことを物語っていた。

 触らなくてもわかる。断面は刀で竹を袈裟に斬ったような滑らかさがあり、摩擦で表面が薄く焼けたのか日の光を反射して薄っすらと光っている。鉋を引いた後のそれよりも美しい断面である。たしかに、手刀などでは作れなさそうだ。

 

「それに、お前さんのことだから鋸の使い方が違うーとか思ってそうだけど、一応分かって振るってるんだよ? 鋸は引いて削り切るための刃物。人間が何度も引いて切るところを、わたしは一度だけ引いて切ってるだけの話さ。刀なんて高尚なもんはわたしには使えんし、合わん。だから頑丈な鋸がいいのさ」

 

 そう言われるとなんだか納得してしまいそうになる。妖怪など人間の常識を軽く凌駕する存在なのだから、吹羽の極々一般並み平凡の常識を振りかざしたところで通用するはずもないのだ。

 人間が何度も繰り返して為すことを、妖怪はたった一度で成し遂げる。たったそれだけのこと。人外なんてみんなそんなものなのだろう。

 

 ……うーん、いや、だが、しかし……人外が人間の理解できなことを成すというなら、手刀で美しい断面を作ることもできるかもしれないということでは? うーん……。

 

「……“燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや”という諺があります。ボクにはまだ、萃香さんの考え方は早いみたいです……」

「そんなに卑下することないと思うが……まあ妖怪の文化を人間に教えたって、納得する方が難しいか。ともかく、わたし達ゃそういう妖怪なのさ」

 

 頭をひねりながら吹羽はふむと頷き、妖怪のことが分かったような分からないような、不思議な感覚を味わいながら曖昧に笑顔を浮かべた。

 

 ――ともあれ、萃香()が品物に満足したのだからもうお役御免である。さてと前置いて、下ろしていた荷物を再び背負う。

 

「じゃあ、そろそろ行きますね。これからも風成利器店をご贔屓に、萃香さんっ!」

 

 商人の決め台詞――と吹羽は思っている――を笑顔で萃香に送ると、身を翻して歩き出した。

 帰ったらまだ仕事だ。次階に到達していない鶖飛の技術は、非常に言いにくいが大した風紋は刻めない。加え彼がいない間に吹羽が開発したモノも取り扱っているので、きっと困っていることもあるだろう。

 早く戻って一緒に仕事しよう――そう思って、駆け出そうとして。

 

「まあ待ちなって」

「ふぇ?」

 

 肩を掴まれ、振り向こうとする前にふわりと浮遊感が吹羽を襲った。

 上がる視界。慣れない感覚に身体が竦んで抵抗もできない吹羽を軽々と肩に担いで、萃香は実に機嫌が良さそうな足取りで参道を戻る。

 

「ちょ、萃香さん!? ボクまだお仕事が――!」

「そんなの兄貴にやらせとけって。せっかく来たんだ、お茶くらい飲んでいくだろ?」

「ぇう……そうしたいのは山々ですけど! お兄ちゃんに何も言わずにゆっくりはしていけないです!」

「連絡か?」

 

 問うた萃香の足取りは変わらず軽く、吹羽の抗議も柳に風といった風だ。

 萃香は短く笑って、

 

「今確認してるとこだ……お、“ゆっくりしておいで”だとよ」

「か、確認? どういうことです?」

「わたしは霧みたいになれる能力があってね。今お前の兄貴のところに分身送ってワケ話したら、そう伝えてくれだと。良かったな吹羽」

「それ本当なんですか? 丸め込もうとしてませんかっ!?」

 

 なんだかめちゃくちゃ胡散臭い。こう自分勝手で人間を振り回すところは本当に妖怪らしいと思うが、振り回される方はたまったものではない。

 ――とは思いつつ、萃香の肩の上で暴れて万が一にでも殴ったりはしたくない吹羽は、渋々ながら彼女のなすがままに居住区の中へと連れ込まれていく。

 

「大丈夫さ。そもそもなんでわたしが博麗神社を受け取り場所に選んだと思ってるんだい?」

「え? そりゃ……その方が楽だからじゃないんですか?」

「うんにゃ、そこまで図々しくはないと自負してる。まあ、いいからいいから」

 

 実は、依頼そのものが吹羽と話をする口実だったとはつゆ知らず。

 吹羽は萃香の肩に担がれたまま神社の居住区、霊夢の家に上がり込んだ。

 

「――わたしを信じろ。鬼は、ちょっとしか嘘は吐かないからさ」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――もし、生まれたてのひよこが、親鶏を殺した狼を母親だと思って愛するならば、それはなによりも残酷な刷り込み現象だと思う。

 

 運命の悪戯か、或いは神の試練なのか。いくら何も分からないひよこを導くための習性だとしても、これではあまりにも悲惨で、報われない。

 ひよこがある日その真実を知ったなら、一体どうなるのだろうか。どうなってしまうのだろうか。少なくとも、幸福に満ちた明るい未来でないのは確実であろう。

 それなら、と。

 それが目の前で起こるのならば、ひよこの目を潰してでも阻止してやりたい――そう霊夢は思う。

 

 歩んでいた足を止める。鼻を突く臭いは乾いていて、長居をすれば体の奥底にまで染み込んでしまいそうな不愉快さがあった。

 次いで、共にここへ来た魔理沙が足を止めた。目の前にある光景を目の当たりにして、魔理沙は顔を蒼褪めさせつつ驚愕をあらわにする。

 

「うわ……なんだこれっ!?」

「…………全部、血でしょうね、妖怪の」

 

 二人の前に広がっていたのは一面の黒だった。葉の緑と木々の茶色に満たされた森の中にあって、ここだけはほぼ真っ黒――爆発でも起こしたように激しく飛び散った血液が地面を浸し、幹を汚し、葉々を染め、その状態で乾いてしまって固まっている。

 

 二人は今、調査に出向いていた。出向いた、と言っても、不穏な力を霊夢が感じ取り、向かう道中で魔理沙と出会って共に飛んできたというだけだ。

 まるで強烈な匂いが風に乗せられて鼻をかすめるように、霊夢と魔理沙は感覚のままに森を進み、この場所を見つけたのだ。

 

 嫌そうな顔を隠しもしない魔理沙に比べ、霊夢は神妙な顔付きでそれを見つめて、ぽつりと零す。

 

「……僅かに力を感じて来てみれば……そう――そういうこと」

 

 冷たい風が頰を撫ぜた。しかしそれ以上に、薄く開かれた霊夢の目に潜む灼熱は、絶対零度の如き鋭い光を放っている。並みの妖怪なら睨まれただけで卒倒――椛ほどであれば過呼吸で立つこともできないやもしれないほどの怒気。

 

 その空気に中てられたのか、はたまた漏れ出した霊力が衝撃を伴って舞ったのか、周囲の木々からたくさんの葉が千切れて落ちる。

 はらはらと、ではない。

 もうほとんど黒く染まって固まった血液の重さに従い、ぽとぽとと落ちていく。霊夢の足元では、同じく固まった草花がぱきぱきと音を立てる。

 その背後では、顔を蒼褪めさせた魔理沙が思わず一歩後ずさった。

 

「…………これで、はっきりしたわ」

 

 呟き、周囲を睥睨する。この乾いた血で真っ黒く染まった一面を見て、霊夢は強烈な殺意(・・・・・)を胸に宿していた。

 

「……ねぇ、魔理沙」

「っ、……な、なんだ……?」

 

 振り向かないまま、霊夢は魔理沙に問いかける。意識を向けられただけで声が詰まってしまった事実に内心驚愕しながら、魔理沙は弱々しく返す。

 

 問うのは、最後の確認。霊夢の中で半ば確信に変わりつつある事実に、確証を得るための。

 

「魔力って、完全に隠せたりするかしら」

「魔力……? いや……どれだけ巧妙に抑えても、完全に隠すなんてできないはずだぜ」

「それは……人間なら?」

「……人間でも妖怪でも、だ。……まあ、妖怪はそもそも妖力だがな」

 

 霊力も妖力も生命エネルギー。身の内から絶えず湧き出してくるものであり、それを元に形作られる術や法では完全に抑え込むのはほぼ不可能だ。魔力だけは後天的に得ることができる――つまり生命エネルギーとは別枠だが、同じ原理で、身体に宿った魔力は押さえ込めない。

 何を今更? と小首を傾げる魔理沙に、霊夢は僅かに視線を向けた。

 

「じゃあ……別の何かが外から抑え込むなら可能かしら。例えば……神、とか」

「神だと……? うーむ……難しいが、できなくはないかもしれないな」

 

 ふと考えて、強大な力を持った一柱なら或いは、と思う。

 力が完全に隠せないのは、無限に沸き続ける力を押さえ込んでもすぐさま限界がきてしまうという理由と、抑える術そのものが力を用いて発動しているからという二つの理由がある。だから外部から押さえ込もうとしたところで、大した抑制はできない。

 だが逆に言えば、限界が来ないと思えるほど膨大な力での外部からの抑制なら完全に消すこともできるということだ。

 しかし、妖怪でそれほどの力を持つものを魔理沙は知らない。人間は言わずもがな。神にしても力を失った状態の神しか見たことがなく、また顕現できないほど小さな神では当然抑え込むなんて土台不可。

 

 ならば、それができるような強大な神(・・・・・・・・・・・・・)はどこにいる?

 

 その考えは霊夢の脳裏にも巡っていた。だが魔理沙と違ったのは、その問いに対する答えが粗方出ていたこと。そしてこの空間を作り上げた犯人を、今の問いから導けたことだった。

 

 そもそも、こうした惨状を生み出していたと推測される奴らは誰だったのか。

 なぜ再びこれが起こったのか。

 なぜ今になってこの場所で力を感じられたのか。

 自分は何を勘違いしていたのか――否、勘違いさせられていた(・・・・・・・)のか――……。

 

「やってくれたわね……あいつッ!!」

 

 怒気が衝撃を伴って噴き上がるように、無意識に放った霊夢の霊撃が周囲の血を一斉に砕き割った。

 くぐもった破砕音が無数に重なり、ガラスの割れるような甲高い音となって響かせる。雪のように舞って降るのは、粉々に砕かれて黒い埃と成り果てた血糊だ。

 

 ぱらぱら、はらはら。

 黒い雪が降り止むのを待たず、霊夢は身を翻して魔理沙の横を通り過ぎた。

 それにハッとし、驚きから立ち直った魔理沙は去り行く霊夢の背に声を投げる。

 

「お、おい霊夢!? どこ行く気だよ!?」

「……準備よ」

 

 はぁ? と首を傾げる魔理沙を背に、霊夢は立ち止まると、どこか躊躇うようなそぶりで振り返り、魔理沙の目を真っ直ぐに見つめた。

 

「……魔理沙。もしあたしが、あたしの命すら危機に晒すような危険なものを側に置いて生活してたら、どうする?」

「あん? あー、そりゃお前……捨てさせるか、壊させるかのどっちかだろ」

「それは嫌だ、って言ったら?」

「……どうしてもか?」

「どうしてもよ」

 

 要領を得ず、しかし真剣に自分の目を見つめ返す霊夢を前に、はぐらかすのは良くないと魔理沙は思った。

 直情的な性格の魔理沙である。対面した物事に真っ向から挑むのが彼女の性分だが、だからこそ一度答えが出るとそれをそのままにしてしまうことがよくある。それをよく分かっていた魔理沙は、簡単に答えが出てしまわないよう、慎重に頭を捻る。

 

 難しい質問だった。霊夢の身に危険が及ぶものを彼女自身が側に置きたいと訴え、それを捨てさせようとしても拒否を貫くという。それを前に、自分はどうするのか。

 “馬には乗ってみよ人には添うてみよ”とも言う。実際にそうならないと分からないものは現実的にあるのだ。これに関しても想像ができず、魔理沙は仕方なくそう返事をしようとして――しかし、霊夢がそういう答えを求めているのではないのだとなんとなく察する。或いは霊夢の向けてくる瞳の力強さがそう訴えているのかもしれない。

 

 ふむ、と腕を組んで目を瞑り――他にどうしようもないな、と小さく息を吐いた。

 

「……お前にバレないように持ち出して、わたしがこの手でそれを壊す……かな」

「……そう…………そうよね」

 

 危険なものを手放そうとしないなら、気付かれないように壊すか捨てるしかない。例えその後に凄まじい非難をされたとしても、きっと魔理沙は霊夢の命には代え難いと胸を張るだろう。

 親友の命と比べられるものなんて、せいぜい自分の命か家族の命くらいだと魔理沙は思う。

 

 霊夢の望む答えを贈れたかは分からなかったが、魔理沙の目には、少なくとも多少の賛同は得られたように映った。

 霊夢は再び魔理沙に背を向けると、徐に天を仰いだ。

 

「……幼馴染って、考え方まで似るのかしら」

「さぁな。兄弟なら或いはあるかもしれないが、わたしはそう思わないな。あくまで幼馴染だろ。血のつながりも何もないし」

「あたしは……ちょっと、そう思う(・・・・)わ」

「は?」

 

 予想外の答えに魔理沙は目を丸くするが、そうしているうちに霊夢はふわりと飛び上がり、何も言わずに飛んで行ってしまった。

 突然の別れ。何も言っていかないのもらしくない。霊夢の不可思議な様子に魔理沙は一人首をひねるが、まぁそんなこともあるだろうとすぐに思考を放棄した。

 そして後ろを振り返り、

 

「…………まぁ、あの様子ならこの血溜まりの件もあいつが片付けるか」

 

 手元の箒に飛び乗り、魔理沙もまた曇り空を駆け出した。

 

 

 

 ――魔理沙は、後悔することになる。

 この時、霊夢の考えを察せなかった己の短絡さを。

 霊夢にああした答えを与えてしまったことを。

 ……この時に霊夢を、止められなかったことを。

 今はまだ、知る由もない。

 

 

 

 




 今話のことわざ
燕雀安(えんじゃくいずく)んぞ鴻鵠(こうこく)(こころざし)()らんや」
 小人物には、大人物の考えや大きな志などがわからないこと。

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