風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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 すまぬ、焼き肉に夢中になってたのだ……。


第三十七話 想起の導に

 

 

 

「――というわけで」

 

 風成利器店。その住居区画の居間にて、吹羽はどこか嬉しそうに言葉を前置いた。

 それを聞くのは、遊びに来るのは意外に久しぶりな阿求、そして“文々。新聞”に風成利器店の“かたろぐ”とやらを載せる為に尋ねてきた文である。二人とも面識はあったようで、適当に挨拶をしていた。

 鶖飛は買い出しで出かけていて家におらず、そんな折に二人が訪ねてきたのだった。

 きょとんとした表情を向けてくる二人に対し、吹羽は胸に抱いた一冊の本を突き出すように見せて言葉を続ける。

 

「ボク、日記を書き始めたんですっ!」

 

 そう言って、吹羽は手に持つ稲の刺繍が施された本をさらに突き出した。

 しかし、対する二人は若干の困惑顔。なんなら首を傾げてすらいた。そんな二人の様子が気に食わないのか、吹羽は花の笑顔を一転して唇を尖らせた。

 

「むぅっ、なんですかその微妙な顔! 何か言って欲しいです!」

「いえ、何かと言われても……」

「日記書き始めました! って報告されてもですね……? こっちとしてはふぅんそうなのとしか返せないです……」

「それでも困り顔は傷つきますよぅ!」

 

 二人の苦言に吹羽は悲痛な叫びをあげた。しかし文は「そもそもねぇ……」と前置いて、溜め息気味に、ある種最もありがちな質問(・・・・・・・)を返す。

 

「何が“というわけ”なのか分からないですよ? 吹羽さん、私たちが来て早々“ちょっと待ってて”って言って待たせて、その本持ってきたと思ったらすぐにこれだったじゃないですかぁ」

「ぅ……そ、それはそうですけど」

「まあ脈絡がなかったのは確かですけど、なぜ日記なんか? 今までは書いてませんでしたよね」

「! よ、よくぞ訊いてくれました阿求さん!」

 

 追求されてぐうの音も出ない吹羽を見かねて阿求が助け舟――という名の話題転換――を出すと、吹羽はそれこそ救われたように表情を明るくして食いついた。

 思い出すように目を瞑ると、吹羽はうっとりした表情で本を胸に抱いた。

 

「最近ボク、すごく幸せです。もうホントに幸せ過ぎていつか溶けるんじゃないかと思ってます」

「え、ええ……」

「“光陰矢の如し”という諺があります。あまりにあっという間過ぎて勿体無いので、読み思い出していつでも浸れるようにしようと思いましてですね」

「…………その為にその本をウチに貰いに来たんですか?」

「はいっ! ありがとうございます阿求さんっ! やっぱり持つべきは親友ですね!」

 

 ああ、大輪の花咲く笑顔が眩しい。阿求は呆れ気味に(・・・・・)そう思いながら目を細めた。

 数日前、吹羽が白紙の本がないかと尋ねてきた時には何をする気だと不思議に思ったものだが、蓋を開けてみればこの通りである。要は、いつまでもお兄ちゃんとの日々に浸っていたいから記録しておく、ということなのだろう。

 親友たる阿求は吹羽がどれだけ鶖飛に心酔しているのかを知ってはいたが、まさかこれほどとは、と認識の甘さを痛感する。

 

 そりゃ吹羽が幸せなのは喜ばしいことだが、これだけ“振り撒いて”いてはいつか毒にならないか心配だ。

 甘味も摂り過ぎれば胸焼けを起こす。褒め言葉も重ね過ぎれば皮肉に聞こえる。何事も過多すれば一転して良くないものになるのが世の常というものだ。

 いつかこれが吹羽にとっての(あだ)にならないか心配どころではあるが――。

 

「それにしても、相っ変わらず吹羽さんは鶖飛さんが好きですねぇ。本音を言うと本当に兄妹かってところですよ」

「どういう意味です?」

「自覚してないのがまた……」

 

 文はそれこそ魂を吐き出すように大きく溜め息を吐くと、ピンと人差し指を立てた。

 

「そもそもですね、吹羽さんは兄妹ってどんなものか分かってます?」

「そ、それくらい分かってますよ!」

 

 心外だ! とばかりに叫び、吹羽はわずかな膨らみのある胸を張る。

 

「兄妹っていうのは、家族間でも最も近く親しい間柄です。時には両親より頼りになることもあって、分からないこととか困ったことがあればお互いにいつでも助け合うような相手のことですっ」

「そこ!」

「ふぇ?」

「そこが色々ズレてますッ! そう思ってるの多分吹羽さんと鶖飛さんだけですよッ!」

「ええッ!?」

 

 文の指摘に、吹羽は天地がひっくり返ったような表情をした。

 吹羽的には今語ったものがまさに兄妹の定義なのだろう。今まで信じてきたものが完全否定されたその表情は穿った見方をすれば絶望しているようにすら見えた。

 そんな彼女に、文は遠慮なく危機感の伺える強い視線を向ける。

 

「吹羽さん、大人になりたいならばやはり世間の常識というものを知らねばなりません。私はこれでも新聞記者なので一般常識には自信ありますよ?」

「お、教えてください文さんっ! 世間知らずな子だなんてお兄ちゃんに思われたくないですっ!」

「いいでしょう吹羽さん……私はあなたの気持ちは全肯定しますよっ!」

「(嫌な予感しかしないです……)」

 

 森羅万象を見下すような文のドヤ顔にあろうことか目を輝かせる吹羽。側で見ていた阿求はなんだか妙なことになっている気がして、しかし口を出せずに視線だけオロオロしていた。

 そんな彼女の心配などつゆ知らず、文はキメ顔で指打ちしつつ吹羽を指差した。

 

「ズバリ! 兄妹とは互いに馬鹿にし合い口では嫌いと言いながらも内心では頼りに思いまくっているという、乙女心そのもののような間柄のことですっ!」

「そうなんですかっ!?」

「そんな訳ないじゃないですか! それのどこが一般常識なんです!?」

 

 瞬間、阿求のツッコミが炸裂した。

 

 やっぱり変なこと言いだした! とばかりの声音に、文が狐につままれたような顔を阿求に向けた。

 

「どこって、それが兄妹ってものですよ? 朝会えば一言目にどギツく“こっち見んな”! 道ですれ違えば当然無視! 部屋に入ろうものなら包丁で刺し殺されそうになる! でも内心では気になって仕方なく、汚い言葉は愛情の裏返し! なんと複雑な心情でしょう……ああ、でもそれが兄妹というもの! 逆らえぬ運命に結ばれた二人なのです!」

「単語一つにどれだけ深読みしてるんですか、まったく……。しかもお話を盛り過ぎでしょう。何処の恋愛小説ですかそれは……」

 

 兄妹の形なんて人それぞれだ。吹羽ほど兄に執着はしていなくても単純に仲のいい兄妹はいるはずだし、もしかしたら文の言うようなまさに字に起こしたような(・・・・・・・・・)兄妹もいるかもしれない。兄妹というものも結局人間関係の一種なのだから、定義なんてできるはずもないのだ。

 それにしても、なんて極端な例しか挙げないものだろうか。もう少し普通の――一般的な兄妹形なんてちょっと考えれば思いつくだろうに。

 

「ぶー。じゃあ阿求さんは分かってるってことですね、兄妹の定義ってものが。是非私と吹羽さんにご教授願いたいところなんですが」

「定義なんてありませんよ。人それぞれってやつです。言葉にするのも難しい」

「うー、言葉の専門家(幻想郷縁起の編纂者)が言うんじゃお手上げですね」

「でも、吹羽さんが普通の兄妹とどこかズレているのは確実です」

「えー!?」

 

 ――三人での会話に花が咲く。そこには陽気で楽しげな姦しさが満ちていた。

 

 阿求はふと思う。鶖飛が帰還してから、本当に吹羽は笑顔が増えた、と。帰還直後は彼の無責任さなどに怒りを感じて宣言通りに説教もしてやったが、実のところは感謝しているのだ。

 今までの吹羽は、ちょっと無理をしている雰囲気があった。恐らく意識してはいないのだろうが、時々会話に間が空いたり、ちょっと強めの口論になったりした時、慌てたように言葉を重ねようとする姿に阿求は気が付いていた。

 それがいつからか少し柔らかくなって、僅かに感じていた遠慮のようなものが消え去り、終いに鶖飛の帰還によって本当に笑顔を見せてくれるようになった。

 これは、喜ぶべきことだ。

 ずっと吹羽を見てきた阿求は当然、きっと霊夢だって――。

 

 そうして次第に話は盛り上がっていった。吹羽がちょっとズレてるという話から文の悪戯っ子が顔を出し、吹羽の揚げ足をとってはからかい笑う。吹羽は終始むくれていたが、阿求にはそれがどこか楽しそうに見えた。

 

「もう! ボクがズレてるって話はいいですからぁ! そんなことより、文さんの取材とかはいいんですかっ!? 確か“かたろぐ”っていうのを作るんですよね!」

「あー、もう楽しくなっちゃったので後日に回しますよ。急ぎでもないですしぃ?」

 

 そう言って文は意味ありげな笑みを吹羽に向ける。まるで“逃げ道はありませんよぉ〜?”とでも言うかのように。

 吹羽はちょっと怯えたように体を竦めると、呟くようになんだと問う。

 

「いえね、そんなどうでもよろしいことは置いておいてですね……私、吹羽の日記読んでみたいなぁ〜(・・・・・・・・・・・・・・)……?」

「え゛」

 

 あ、口調が戻った。

 文が遂に記者モードでいることを諦めた証拠だ。そしてそれは同時に、文が仮面を外して本性を現したこと――吹羽が更に追い立てられることを暗示していて。

 

「吹羽、先に訊いておくけど、なんで私たちにそれ紹介したの?」

「へ、え、っと……」

「察するに、自分が始めたことを知ってもらいたくてウズウズしてたんじゃないの?」

「うっ」

「あー、新しく始めたことって理由もなく知ってもらいたくなる時ありますよね」

「えうっ!?」

「そうそう。別にいう必要も意味もないのに“あーこれから帰ってから習い事だー”とか大声で言ってみたりね。いやそんなこと知らんしって感じよね、あれ」

「ふぐうっ!?」

 

 怒涛の三連撃。見事に会心撃を浴びた吹羽の苦悶の声がしっかりと二人には届いている。

 しかし、意地の悪い文は止まらない。

 

「――で、それを私たちに報告した理由は?」

「……え、えっとぉ…………ちょっと勢い余ったと言いますか、大した理由はないと言いますか……」

 

 あからさまに視線を逸らしながら萎れた声を出す吹羽。文はふぅん? とニヤニヤした顔を吹羽に向けて、

 

「大した理由はない……そうかそうか、そりゃあ確かに日記を始めた報告に大した理由も何もないでしょうね」

「は、はい……」

「でもさぁ――」

 

 瞬間、文の姿が消えた。

 

「吹羽、分かっててやってるわよね?」

 

 次に声が聞こえたのは、吹羽の背後。細かな風の操作で巧みに室内で旋回し吹羽の背後に回り込んだ文は、彼女が胸に抱いていた日記をするっと抜き取った。

 

「あッ! ボクの日記!? 返してくださいぃい!」

「だぁめ、読み終わってからねー♪」

「ああ、ズルイです! そんな高いところ届かないですぅっ!」

「いいじゃないちょっと読むくらい! そもそも誘ってきたの吹羽でしょう?」

「さ、誘ってなんかないですよぅ!」

「ホントぉ〜?」

 

 実際のところ、吹羽としては日記の中身を見られるのは非常に恥ずかしく思っていた。そりゃ日記なんて人に見せなきゃいけないものでもなし、吹羽に至っては後で読み返して思い出に浸るため――つまりは後で自分で読むためだけに書いているのだ。

 つまり、その本の中には最近の吹羽の心情が赤裸々というか真っ裸というか、むしろ恥じらいなんて何処へでも消えてしまえとばかりに思ったこと感じたこと想像したことをつらつらと語っているわけだ。

 それがもし人に読まれることになったら、当然吹羽の黒歴史まっしぐらなわけで。

 

 本を吹羽の手の届かない高さで広げ始める文と、必死に跳躍して取り返そうとする吹羽。じゃれ合う中でちらと向けられた文の視線に、阿求は言いたいことの全てを悟った。

 

 要は、分かってて報告したんだよね? と。

 こうなることは予想できた癖に、それでも報告したんだね? と。

 そしてその“無意識の望み”を文に看破されて墓穴を掘った吹羽の慌てる姿に、阿求のごく僅かな悪戯心さえも刺激された。

 

 良心のかけらで少しばかり吹羽に申し訳ないと思いながらも、しかし阿求の悪戯心は好奇心を優先させた。

 だって自業自得だし? 困り顔の吹羽も格別に可愛いんだし、仕方ないのだ。それを見ていたいと思うこの気持ちも、親友としては仕方ない。

 今回ばかりは文の味方だ――そう、全ては吹羽が可愛いのがいけないのだから!

 

「吹羽さん吹羽さん」

「なんですか阿求さんっ、今忙しいんで――」

「見せてくれたら、たい焼きいっぱい買ってあげますよ?」

「っ!!」

 

 吹羽の耳元に口を寄せて、悪魔の甘言を阿求は囁く。

 ぴたりと止まった吹羽の動きに、文はニタァっと笑みを浮かべていた。

 

「そ、そんな誘惑にはの、乗ったりしませんよっ」

「吹羽さん、最近たい焼きあんまり食べてないんじゃないですか? 久しぶりに食べる大好物はきっとすっご〜く甘くて美味しいですよぉ?」

「うっ、それ、は、確かに美味しそうです……けど、」

「とろとろの餡、サクサクの衣……肌寒いこの時期に食べるあつあつのたい焼き、一体どれだけ美味しいんでしょう……ああ、想像するだけでよだれが出てしまいますね……?」

「…………じゅる、ゴクっ……」

 

 吹羽の白い喉が鳴る。きっと彼女の脳内では、日記を取るかたい焼きを取るか必死の葛藤が繰り広げられていることだろう。

 吹羽の大好物といえばたい焼きである。以前から阿求も、あんまりにも吹羽が言うことを聞かない時にはたい焼きで釣ったりしていた。釣られてしまうくらい吹羽はたい焼きが好きなのだ。

 特に――鶖飛と一緒に食べるたい焼きなんかは。

 

「好きなだけ食べていいんですよ? 日記をたった二人、私たちに見せるだけで山のようなたい焼きをプレゼントしてあげます」

「にっき、見せるだけで……やま……?」

「そうだ、今度鶖飛さんも誘って買いに行きましょう。兄妹水入らずをお邪魔するのは気が引けますが、吹羽さんに買ってあげるなら鶖飛さんにも差し上げないとですもんね? そうしたら家で、ゆっくり、鶖飛さんと、一緒に食べてください。きっと最高ですよ……?」

「お兄ちゃんと……一緒に、たい焼き……」

 

 肩に手を置き、一層近くに口を寄せて「ね?」と囁けば、それはもはやトドメと等しかった。

 吹羽はす、と阿求の手を肩から下ろすと、両手で包み込んで満面の笑み(・・・・・)を浮かべた。

 

「阿求さん、ボク、日記見せちゃいますっ! いっぱいいっぱい見て、いっぱいいっぱいたい焼き買ってくださいっ!」

 

 ――堕ちた。

 阿求は笑顔の裏でしたり顔を浮かべた。

 

「よーしじゃあボクの日記鑑賞会ですねっ! お茶とお菓子用意しますぅ♪」

 

 そう言って、吹羽は小躍りするようにスキップして台所へと向かう。

 阿求はその背中を見て満足げな笑みを浮かべていたが、そんな彼女に文はだんだんと引き攣ってきてしまった笑みを向けていた。

 

「ねぇ阿求……いえ阿求さん、あなた人心掌握の術でも修めてたんですか……?」

「いえ? そんなもの私はできませんよ。私ができるのはせいぜい見聞きしたものを忘れない程度です」

「いやでも、今の吹羽さん、目から光が消え失せてた気がするんですけど……」

「ふふふ、私のお話をちゃんと聞いてもらえたようで良かったです♪」

「………………」

 

 ヤバイな、この娘見かけによらずくそ怖ェ……。

 本能的恐怖から思わず引っ込んだ文の本性は、人の思考を簡単に捻じ曲げて見せた阿求を心底畏怖した。

 外の世界には“メンタリスト”という人の思考をある程度読んで誘導できる人間もいると聞くが、それはあくまで誘導する程度。考え方を正反対に向けることはできない。しかもそれすら何十年と修練した結果に得られる技術だ。

 しかし、阿求のそれは思考の改竄と言ってもいい。確固たる意志を打ち崩し、まったく新しいものへと生まれ変わらせる。それを囁き一つで成してしまった阿求は、まさに人を魔へと誘う小悪魔のよう――というのは流石に大袈裟に過ぎるのだが、この時文が阿求に対して心底恐怖したのは確固たる事実だった。

 

 だが阿求、術なんてそんな大げさなものじゃない、と内心では思っていたりする。ただ吹羽がチョロ過ぎるだけなのだ。

 吹羽を操るコツというのは二つあって、まず吹羽の大好きなもので釣る、次にそれを鶖飛と共に楽しむ想像をさせる――これだけだ。

 ただ単純に吹羽がチョロ過ぎる子供で、ただ単純に阿求が吹羽の扱い方を知っているというだけの簡単な図式。阿求が吹羽の友達として接してこの方法を見つけたのならば、文がこれを見つけ出すのははてさて、いつのことになるやら。

 

 二人そうして雑談を挟みながら大人しく机について、ちょっとおかしくなったっぽい吹羽がお茶を持ってくるのを待つのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ◯月△日

 

 今日は一日お仕事でした。普段からお仕事なのだけど、お兄ちゃんと一緒のお仕事は一層すぐに時間が過ぎてしまいます。楽しいことも大変なことも気が付けば一瞬で過ぎ去ってしまう気がしたので、今日からこうして日記を書きます。

 明日はどんなことがあるだろう?

 

 

 

 ◯月▽日

 

 今日は仕事中に霊夢さんが訪ねてきてくれました。阿求さんもそうだけど、ボクのお仕事なんて見ていて何が面白いんだろう? 時々お兄ちゃんの方も見ていたようだし、やっぱりお兄ちゃんの様子も見にきたのかもしれないなと思います。

 

 そういえば、お兄ちゃんと霊夢さんって昔はそれなりに仲が良かったように思います。二人ともボクよりずっとずっと強くて、万一妖怪さんと出会っても圧倒できてしまう二人なので、時々一緒に稽古していた気がします。

 

 ……やっぱり、お兄ちゃんが心配だったのかな? 霊夢さんは優しい人なので、きっと帰ってきたばかりで慣れないお兄ちゃんを想ってくれてたのかも。

 心配ないですよ霊夢さん! お兄ちゃんの側にはいつでもボクがいますからねっ! 千人力なのですっ!

 

 それと、今日は雨が降ってました。お客さんが減っちゃうので、明日は晴れてるといいなぁ。

 

 

 

 ◯月◇日

 

 まったく、今日は大変でした。

 少し離れた場所に住むお爺ちゃんに農業用の鎌の修繕を依頼され、受け取りに行ったのですが、その帰りに早苗さんに捕まって里中を連れ回されました。

 本当、あの人は神出鬼没過ぎて油断できません。布教ために降りてきたならそっちに集中すればいいのに。

 別に一緒に里を回るくらい別にいいんだけど、毎度毎度人前で抱きついてくるのをやめて欲しい。とにかく恥ずかしいんです。

 まあそうでなければ全然構わないし、なんなら人前でなければ別に抱きつ縺?※繧よキサ縺?ッ昴@縺ヲ繧(乱雑に消され)ゆク?蜷代(ている)

 ほんとう、どうにかならないかな?

 

 帰ったのは夕方頃で、お兄ちゃんにも謝り倒したけれど、わけを話したら笑って許してくれました。やっぱりお兄ちゃんは優しい。頭を撫でられた時は思わず足から力が抜けそうになった。

 今日はお兄ちゃん成分が足りてないので、一緒の布団で寝ようと思ってます。

 

 そういえば、明日は定休日です。せっかくだからお兄ちゃんと何処かに行こうかな。

 

 

 

 ◯月◯日

 

 今日は定休日なので、お兄ちゃんと買い物に行きました。

 以前夢架さんに戴いたお魚が忘れられなくて見回ったけれど、やっぱり入荷は僅かみたいです。

 途中で慧音さんに会ったので、一緒に買い物をしながらお魚のことを話したら、ちょっと雑学を教えてくれました。

 幻想郷は山に囲まれているし、魚のいる川は妖怪の山の近く。だからみんなあまり魚を獲りたがらなくて、魚も珍品になってしまったらしいです。

 昔はもっとたくさん獲れたのかな。食の豊かさよりも命の危険を顧みるのは当然かなとは思うけれど、またあのお魚を味わえる日がくればいいなと思います。

 

 そういえば、あの時のお魚を捌いたのはお兄ちゃんだとか。料理は夢架さんの方が美味しいけど、捌くのだけはお兄ちゃんの方が上手かったらしいです。

 お兄ちゃん、刃物の扱いだけは凄まじく上手いからなぁ……。他の事は意外と失敗もしてて、そこがちょっとカワイイなって思ったりもするんだけれど。

 

 だから今日のお料理も頑張りました。お兄ちゃんができないことはボクが頑張らなきゃ。

 ちょっと時間をかけていっぱい作ったら、お兄ちゃんは呆れていたけど全部美味しいって平らげてくれました。

 お兄ちゃんはどれだけボクを喜ばせたら気が済むんだろう。明日も頑張ろっ!

 

 

 

 ◇

 

 

 

 日記は未だ数枚しか書かれてはいなかった。

 日記というのは本来毎日綴るものだが、また思い出したいと思ったものを書いているに過ぎない吹羽の日記は、書き始めて間もないことも加えて、まだ厚みのあるものとは言えない状態であった。

 だがそれでも、一枚一枚読み込むと流石に時間がかかる。阿求と文は吹羽の持ってきたお茶を啜りながら文面を流し読みしていた。

 

 なお、当の吹羽は部屋の隅でいじけている。二人が日記を読み始めたあたりで我に帰り、後に引けない状況にまで陥っていたことが悔しいらしい。

 文は苦笑い。阿求はそんな吹羽が可愛い可愛いとだらしない笑顔であった。

 

 だが、日記を読むうち阿求の笑顔すらもだんだんと引き攣ったものに。

 その心象を察したか、文は実に言いにくそうに重い口を開いた。

 

「なんか……凄まじい、わね」

「は、はい……」

 

 文の言葉に阿求も頷く。

 

「二言目にはお兄ちゃん、三言目にもお兄ちゃん……なにこれ、新婚夫婦の惚気話を聞かされてる気分だわ」

「これは……かなり重症ですね……」

「うぅぅうぅ〜っ、だから見せたくなかったのにぃ〜……っ!」

 

 部屋の隅で顔を覆う吹羽の声はもちろん羞恥に震えていた。真っ白な髪に覗くあの朱色は彼女の耳か。

 そんな様子も可愛いけれど、この日記を見た後だとあんまり素直に笑えない。なんだか悪いことをしている気がしてきた阿求である。

 

 この日記から伝わってくるのは、ひたすらに吹羽の“お兄ちゃん大好き”ばかりだ。文の言った表現はまさしくその通りで、きっと新婚熱々の若妻が日記を書いたらこんな風になるのだろう。夫への愛がダダ漏れである。甘さがダダ漏れ過ぎて胸焼けしてくる。

 吹羽がどれだけ肉親に飢えていたのかを考えればまあ納得できなくもなくなくないのかも知れないが、吹羽は元々鶖飛に懐きまくっている。そう考えると、これはむしろ新婚というより、浮気相手から自分の元に戻ってきた夫に、嬉しさから尽くしたくて仕方ない人妻の様相だった。

 

 幼女の癖して、中々生々しい感情を内にお持ちのようだ。吹羽の将来がちょっぴり不安である。

 

「ちょくちょく鶖飛さん以外の人も出てきてますけど、中心はやっぱり彼ですね」

「もーどんだけ彼のこと好きなのよ吹羽。兄妹でしょ、もうちょっとこう……距離があるもんじゃないの?」

「いや、文さんの言い分は当てになりませんからね?」

「し、仕方ないじゃないですかぁ。だって……お兄ちゃんなんですもん……」

 

 ……そこで吹羽が“女の顔”になっていたのなら、流石に阿求も止めるところなのだが。

 どうやらまだ健全であるらしく、単純に憧れているだけのように見える。まぁ、些細なきっかけでその一線を飛び越えてしまいそうな危うさはあるが、そこら辺は鶖飛が自分で止めるだろう。

 流石に阿求も、親友に人間としての禁忌に触れて欲しくはない。

 

「他のもこんなんなの?」

 

 呆れた声を隠しもせずに言いながら、文はぱらぱらと日記をめくる。阿求には早過ぎて読めなかったが文はそうでもないらしく、軽い溜め息を吐くと元の頁にぱたんと戻した。

 まあ、同じような内容だったのだろう。ここまで赤裸々なら二人に見られるのを拒むのも納得できる。

 人が覚妖怪に心を読まれるのを嫌がるように、日記を人に読まれるのはやはり同種の嫌悪感があるのかも知れない。或いはむず痒いのか。

 

「うぅ……溜め息ばっかり吐かないでくださいよぅ……なんだか残念な子に見られてるみたいでヤですぅっ」

「いやそんなの今更じゃない――ああごめんね本気で思ってないから泣かないで!?」

 

 泣き顔の吹羽をあわあわと宥める文を横目に、阿求は改めて日記を流し読む。

 相変わらず鶖飛のことばかりで代わり映えはしないが、吹羽がどれだけ彼を待ち望んでいたのかがひしひしと伝わってくる。

 この日記を彩る文字の内容が自分のことでないのは少しばかり寂しいものの、やはり“親友の情”が“肉親の情”に勝る道理はないのだろう。そうやって仕方のないことと思えば、この日記も案外普通のもののように思えてくる――いや、普通ではないかもしれないが、常識外れではないように思えた。

 

「ともあれ、有効に使ってくれているようですし、私から言うことは何もありませんね」

 

 いくら偏った内容しか書かれていなくても、吹羽にとってはそれに意味がある。そうして意味のあることをするのに力を貸せたと思えば、親友としては上出来なのではなかろうか。

 

 阿求はぱたんと日記を閉じた。

 まだ真新しい表紙だ。汚れもなく、曲がった様子もない。その内の真白な頁はまだまだ九割以上残っている。これらも、これから少しずつ吹羽の思い出で埋められていくのだろう。

 あの吹羽があれだけ楽しそうに見せてきたものだ、いつか彼女が許してくれた時に、一緒に読み返すのもいいかも知れない。吹羽をからかって遊ぶのは、またその時でもいいだろう。

 

「さて、じゃあこの日記のことはそろそろ――」

 

 多少の収穫もあったし、と阿求が話題を水に流そうと声を向ける。いい加減吹羽にも泣き止んでもらいたいし、この話は打ち切るのが一番の得策だろう。

 しかし、阿求に目を向けた吹羽は泣き止むどころか――絶望を顔に覗かせた。

 

「? どうしたんですか吹羽さ――」

 

 と、言い切るよりも早く。

 

 

 

「一体なんの話をしてるんだ、三人共?」

 

 

 

 音もなく、気配もなく、いつの間にか背後に現れた鶖飛が、興味深そうな顔で三人を見回していた。

 

 一体いつの間に帰ってきたのか、鶖飛は麻の買い物袋を手に下げており、その端からは青々とした立派な長ネギが身を乗り出している。男性の癖に一見主婦のようでちょっぴり笑いを誘う姿なのだが、しかし今この場でのそれは、くすりとも笑えない瑣末なことだった。

 

「……お、お帰りなさい鶖飛さん」

「ん、ただいま帰ったよ。二人もいらっしゃい」

「お邪魔してます……」

「し、してます、ですぅ……」

 

 生返事ながらに挨拶し直して、そうすると鶖飛は、目の前で笑顔を引きつらせる阿求に目を落とした。

 

「で、阿求のその本はなんだ? 随分大事そうに抱えているじゃないか」

「――……ふぇっ!? あ、ああいえなんでも……大したものでは、ない、ですよ――?」

 

 抱えていた本を瞬時に背に隠す阿求。咄嗟の行動だったそれは、しかし火に油を注ぐ行為だったことにハッと気が付く。

 如何にも“見せたくない”行動をとれば、見たくなるのが人間の性というものだ。

 事実鶖飛は片目を釣り上げ――完全に阿求を標的として視線に捉えていた。

 

「……大したものじゃないならなんで隠すんだい?」

「い、いえその……これは見ない方がいいと言いますか、むしろ見ないであげて欲しいといいますか……」

「うん? ますます気になるな。三人で見てたなら俺にも見せてくれないかい?」

「え、えーとですね鶖飛さん! 世の中には知らなくてもいいことがありましてですね、私と阿求さんは既にその禁忌に触れてしまったのでもう後に引けないというか、鶖飛さんを巻き込めないわけですよ! ねっ、阿求さん!?」

「ふぇ、は、はい!」

「禁忌……だと!?」

 

 いやどこまで話を盛ってるんだ、とは思いつつ、文の言葉に全力で阿求は頷いた。

 そう、知らなくてもいいことは世の中に沢山ある。妹の日記の内容なんて筆頭候補だ。こんなもの鶖飛当人に見られでもしたら、きっと吹羽はこの歳にして人生最大の恥をかく羽目になるだろう。半年くらい部屋から出てこなくなるんじゃなかろうか。流石にそれは阻止しなければならない。

 阿求は心の内でグッと拳を握りしめる。ここで死力を尽くさずに何が友達か、何が親友か!? 吹羽の秘密は私が守るのだ!

 

「そ、そういうわけですので、これを読むのはご遠慮――」

「それは、吹羽も巻き込まれてるってことだよな……?」

「…………へ?」

 

 予想外の言葉に、困惑の吐息が漏れた。

 

「い、今なんと?」

「それは吹羽も禁忌とやらに触れたってこと、だよな」

「え、あの」

「なら今すぐそれをブッた斬らないといけないだろ! 今すぐそれを見せろ!」

「いやいやっ、これをブッた斬るのはダメですけど!」

 

 刀掛台から風紋刀をぶん取り、今にも抜刀しそうな表情で叫ぶ鶖飛に、阿求は思わず叫び返した。

 この妹至上主義者(シスコンやろう)、どこまで吹羽のことが好きなんだ。普通の兄は例えこんなこと言われたとしてもそんな発想には至らないぞ。

 

「というか、もしかして吹羽は泣いてるのか? 誰だ泣かせた奴は……文か。文だろ」

「ひえっ、なぜ断言するんですか!? 阿求さんだっているじゃないですかぁ!」

「阿求が吹羽を泣かすわけないだろうが!」

「なんですかその偏見っ!」

 

 いやまあ確かに私なんですけど……と口をしょぼしょぼさせながら文が付け足す。

 それを決起に鶖飛の手元がカチリと鳴る。鯉口の切られた刀を手にする鶖飛は、控えめに言って修羅だった。というかあれは人ですらない。きっと悪鬼羅刹の類に違いない。

 

「吹羽を泣かせる奴には刀の錆になってもらう」

「人が変わり過ぎでしょっ!? あの時の優しそうな鶖飛さんは一体どこへ!?」

「お前が吹羽を泣かせた時点で俺が殺した」

「なんと、人格制御まで体得なされているとは!」

「感心するところそこじゃないですよね文さん!? はひゃっ!?」

 

 現実逃避なのか見当違いな言葉を返す文に近寄ると、背筋がぞわぞわっと逆立つ感覚に襲われた。

 きっとこれが殺気というやつなのだろう。文に向いていたものが、彼女に近寄ったことで阿求をも呑み込んでいるのだ。

 争いとは比較的離れた場所に住む阿求にすら感じ取れるそれは、きっとそれだけ濃密なものだということだろう。場数を踏んでいる文が現実逃避するのもなんとなく分かる気がする。

 妹を泣かせただけでこんなことになる兄なんて、世界中探してもきっといない。

 

「さあ、潔くそれを俺に見せろ。そうすれば峰での兜割りで助けてやる」

「助けるとは一体……?」

「理不尽の塊……霊夢さんみたいですよぅ……!」

 

 刀身を光らせてにじり寄ってくる鶖飛に、文と阿求はもう抱き合って震えるしかなかった。

 当然だ。文ですら震え上がる悪鬼羅刹を前にして、非力な阿求が何をできるわけもない。腰が抜けたように立ち上がることすらまともにできる気がしなかった。失神しないだけ褒めて欲しいくらいである。

 

 鶖飛が一寸進むごとに冷や汗が吹き出てくる。もはや一貫の終わりか――そう思われた時。

 

 横合いから飛び出た吹羽が、鶖飛の腰に抱き着いた。

 

「っ……吹羽?」

「ぐすっ……ぇう、ぅうぅ……」

 

 まだ泣いているのだろう、抱き着いた吹羽から聞こえる声は未だえずいている。鶖飛はそれに驚き、足を止めて吹羽を見下ろしていた。

 

「ど、どうした吹羽……」

「ぅ……おにい、ちゃん……」

 

 吹羽が顔を上げた。

 涙の溜まった潤んだ瞳で、鶖飛を上目遣いに見上げる。か細い声は震えていて、えずく度に抱きつく力が強くなる。

 

「ごしょう、ですから……みないで……でも、きらないで、ください……おねがいしますぅ〜……っ!」

 

 がしゃん!

 鶖飛の手から刀が零れ落ちる。

 

 普段鶖飛に対しては使わないはずの敬語が必死さを伝えたのだろう、一瞬で殺気を霧散させたかと思うと、鶖飛は瞬時に吹羽を抱き締めて頭を撫で始めた。阿求たちが息を吐く間もない。

 

「わ、分かった見ない! 吹羽が言うなら俺は見ないから!」

「ぐすん……ありがとう、ございます……」

「そそそうだ! 買い物ついでにたい焼きをいっぱい買ってきたんだ、それこそ山のようにな! 一緒に食べよう吹羽! 二人もっ、食べて元気を出そう!」

「「…………………」」

 

 想像もできないほどだった。

 普段は物腰柔らかにいつでも微笑みを浮かべているような典型的とも言える美男子の鶖飛が、見るからに狼狽しながら妹を抱き締めて滑舌の悪い言葉を紡いでいる。これが父親ならまだ分かる光景なのだろうが、いかんせん兄妹だと微妙に違和感がある。

 

 ジト目だった。これ以上ないほどねっとりとした二人のジト目が、変わり身の早過ぎる鶖飛を貫いていた。

 さっきまでの悪鬼羅刹は一体どこへ? お答えしよう。きっと吹羽が殺したのだ。

 妹のために殺気を振りまき、妹のためにその矛をしまうその姿は、二人の目には非常に残念な人に映る。

 あれだけの怒りが一瞬で消え失せるのは、違和感を感じる以上に困惑と失笑が大きく――短い時間ではあるものの散々と振り回された二人の心は、冬の雪山の如くごうごうと吹雪いていた。

 

「さあ二人も、まだ暖かいたい焼きだ、冷めないうちに食べるといい!」

「「………………」」

 

 ――……まじで、なんなのこの人。

 

 この妹にしてこの兄あり。

 吹羽の友達は変わり者が多いと評した彼は、その実彼自身も負けず劣らずの変わり者なのだと、二人はこの時思い知ったのだった。

 

 ――因みに、たい焼きは大変に美味しかった。吹雪いていた心もほっこりであったそうな。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ぱちゃぱちゃ、ぴちゃん。軽い水音が鳴っていた。

 

 日がまだ高く、木漏れ日が天使の梯子となって降り注ぐ森の中。小鳥の囀りは耳に優しく、葉擦れが日の光を揺らめかせる。ハンモックでもあれば、それらをBGMに苦もなく眠れることだろう。

 

 そんな中、紅いエプロンドレスがふわりと舞う。

 

 くるりと回ればそれに合わせて柔らかに弧を描き、ちゃぷんと水音と共に着地すれば、スカートの裾が揺れて健康的な太ももが日に晒される。

 鼻歌のリズムに乗せて揺れ回る髪、滑らかな白い手足、鮮やかな赤と白の服。それらはきらきらと燦めくように、甘い花の香りが風に乗って舞うように、そら恐ろしいほどに美しかった。仮に他に人がいて偶然踊る彼女を見かけたならば、きっとその場で立ち尽くして呆然と見惚れていたことだろう。その甘美な舞踏は、可憐な彼女の上機嫌ぶりを天よご覧あれとばかりに表していた。

 

 まさに幻想的な光景。緑色に支配された森の中にあってふわりふわりと舞う美しい彼女はまさに一輪の花の様相。

 くるりと回り、軽く跳んでは着地する。その度に鳴る軽やかな水音。ぴちゃんと跳ねる水滴――しかしそれは、どろりとして赤黒かった(・・・・・・・・・・・)

 

「ふんふ〜ん……あー、気持ちいいー♪」

 

 手を横に伸ばしてくるりと回る。

 風に吹かれた一枚の葉から、赤い雫がポタリと落ちた。

 

「薄暗い森、この独特な鉄の匂い、手に残る柔い肉を斬る感覚……気持ち良すぎて踊りたくなっちゃうわぁ」

 

 ちょっとここは明る過ぎるけどー♪

 鼻歌に乗せて言葉を続けると、少女は不意に剣を取り出した。

 一体どこから取り出したのかもわからない早業――そもそもそれが懐に忍ばせていたものなのかどうかも定かではないが、少女は変わらず満面の笑みを浮かべたままくるりくるりと剣を手に舞うと、唐突にそれを投げた。

 

 一本や二本ではない。一本しか持っていなかったはずの剣は、投げられたのに続いて四本、八本、十六本と数を増やし――赤黒い池に浮かんでいたなにかの塊に、次々と突き刺さった。

 その内数本が大きな管を傷つけたのか、刺さった瞬間に塊からブシッと赤い液体が吹き出る。

 

 舞踏の締めに美しい直立で立ち止まると、少女は木の幹に背を付けて、こくりと可愛らしく首を傾げた。

 

「うーん、あんまり派手に出ない……死んでるから仕方ないかぁ」

 

 吹き出た液体を見てそう吐き捨てると、少女は興味を無くしたように目を瞑り――徐に腕を振るった。

 

 瞬間、ビシュッと空気を引きちぎるかのような音が響き、剣の刺さっていた塊が赤黒い液体を撒き散らしながら細切れに裂かれた。

 赤い飛沫は周囲の木々の幹をべっとりと汚し、塊の浮かんでいた水溜りを一際大きく広げる。細切れになった欠けらは木々にへばりついたものが多かったが、水溜りにぷかぷかと浮いているものもある。

 噴き出した赤黒い液体は、少女の白い頬にも飛び散って汚していた。

 

 ――赤黒い、まだ新しい、温かい血液が、この森の一角全てを赤黒く染めている。

 可憐な少女はその光景を視界に収めて――うっとりと頰を緩めた。

 

「ああ、それとも彼の力が戻ってきたから、あんまり血が出なかったのかも? こっちの魔力が薄過ぎるとはいえ、流石だわ。……うふふ、ますます良い男になるわねぇ、か・れ……♪」

 

 少女はこの光景を作り出した者の背中を想起して、その艶やかな唇に舌舐めずりした。頰をうっすら染めて、後ろに手を組む姿は恋する可憐な乙女そのもの――しかし、この血みどろな光景の中にあるそれは、ただただおぞましいものでしかなかった。

 

 指先で頰の血を拭う。指についたそれをじっと見つめると、少女は徐に指を口に含んで舐めとった。

 指先と唇を繋ぐ銀の糸。その官能的な光景とは対照的に少女は僅かに眉を顰めたが、すぐに笑顔を浮かべた。

 

「〜〜っ、まっずぅ……でもお・い・し♪」

 

 強い者が好きだ。

 生きていくためには力がなければならない。情け容赦はなく、慈悲はなく、生きるために何もかもを切り捨てられる者が彼女は好きだった。

 半端な心と実力では生きていくことすら困難な世界を彼女は知っている。そんな世界で創まれ(・・・)生きてきた。

 だからここに来て、勝手の違う状況に足踏みせず、着実に本来の力を発揮できるよう調整(・・・・・・・・・・・・・・)していく彼が、彼女は好きで好きでたまらなかった。邪魔なものを全て斬り伏せるために力を磨く彼の姿が、彼女の目に、心に痛いほど焼き付いて離れない。その痛みすら心地よく感じられた。

 

 彼が作り上げたこの光景は、この匂いは、この気持ちは――彼がこの世界でも着実に強くなっていっている証。そんなものには頬を緩ませずにはいられない。そんなものなら例えまずいものでも、美味しく感じられる。

 

「ふふふ……まあでも、そろそろ潮時かしら。流石に日が経ち過ぎて“加護”は弱くなってる。一度戻るわけにもいかないし……そろそろ気付かれるわね」

 

 それに、準備は大方整っただろう。彼の力がこれだけ戻ったのなら、もう動き出しても問題はない。後は見ていれば良いのだ――彼が目的を成し遂げる、その時を。

 

 それにしても……嗚呼、なんとも――……。

 

「全部終わって、全部捨て去って……そうしたら彼、どうなっちゃうのかしら……ああ、想像しただけで濡れちゃいそう……♪」

 

 さあ、見届けよう。もう、間もなくだ。

 

 

 




 今話のことわざ
光陰矢(こういんや)(ごと)し」
 月日の経つのがとても早いこと。

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