風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第三十六話 裏。裏。裏。

 

 

 

 道側に大きく開けた工房の入り口からは、しとしとと降りしきる雨空が見えた。

 灰色の雲は空を隙間なく覆って見下ろしてくるが重苦しくはなく、陰々鬱々というよりはむしろ眠気を誘ってくるように気持ちを落ち着けてくれていた。

 雨音が耳に優しい。撫でるようにするりと入ってきては、ふわふわと頭を包み込むような音色で非常に心地良い。気圧が下がって眠くなっているだけということもあるだろうが、それを除いてもこの穏やかな気候が眠りへと誘ってくるようだ。

 

 幻想郷は雨が少ない。というのも、ここは外の世界と陸続きではあるものの、大きな山々に囲まれた僻地に存在するため雨雲があまり流れてこないのだ。

 だから今日の雨は珍しい。山を越えてくるような大きな雲なら大雨になることも予想できるのに、滴るような穏やかな雨だった。ひょっとしたら秋雨なのかもしれない。

 あまり雨が続くとお客さんが減るからちょっと嬉しくないなぁ、なんて思いながら、吹羽は金槌をかちんかちんと赤めた鋼に打ち付ける。

 その隣では、椅子に座って鶖飛が刃物の研磨をしていた。

 

 リズムよく、鋼を擦り削る爽やかな音を響かせながら鶖飛はポツリと呟く。

 

「……お客さん、来ないね」

「仕方ないよ、雨だもん。包丁や農具の修理なんて、わざわざ雨の日に行こうとは思わないよ」

 

 鶖飛は小さく肩を竦めた。

 

「折れた、ってことなら急いで来るんだろうけどね」

「包丁なんて滅多に折れないしねぇ……。刃毀れ程度なら使えないこともないし、きっと優先度が低いんだよ。大人しくしてよう?」

「そうだね」

 

 道行く人はやはり少ない。雨足が激しくないとはいえ、望んで濡れるリスクを背負う人は少ないということだ。そんな日にわざわざ鍛冶屋を訪ねる人はよほど急な用事があるのか、他にすることがない人だろう。

 

 鶖飛が帰ってきて数日が経過した。

 彼がいない間にできた友人の紹介も終え、いよいよ本格的に仕事を始めたところである。

 鶖飛の腕は少しばかり鈍っていたようで、金槌を振るう度に軸がブレるものだから、吹羽は見ていられず勘を取り戻すところから始めるよう提案した。

 吹羽の仕事を見て思い出すもよし、より刃物に触れて思い出すもよし、本音を言えば鶖飛と一緒に仕事ができるだけで嬉しくて仕方ない吹羽は、その提案にも若干適当なところがあったが、鶖飛はそれは杞憂だとばかりに勘を取り戻し、研磨に至っては以前のように戻りつつあった。

 

 だがそれでも、刀匠としての腕に関しては以前から吹羽に及ばない。だから現在は、吹羽が打ち上げ鶖飛が仕上げるという形を取って店を回している。

 まあお客さんが少ないので、今日は書筒で頂いた依頼の消化に励んでいるわけだ。

 

「――よし出来た。お兄ちゃん、仕上げはよろしくね」

「わかった。これもあと数回で研ぎ終わる。次のは……風紋付きだったか」

「うん。硬い薪割り用の斧らしいから、“韋駄天”の紋を彫るよ」

「ん。じゃあえっと……刃は太くなくていいんだっけ。荒く仕上げるよ」

「お願いね」

 

 打ち上がった鋼の塊を鶖飛の傍に置き、吹羽は結んでいた髪を解いて一息吐いた。

 白いセミロングの髪がふわりと舞って落ちる。少し汗をかいていたのか、首筋に張り付いた幾本かがくすぐったい。吹羽はせめて前髪だけでもと、いつも身につけている羽型の髪留めを付け直した。

 椅子に座り、ふと雨の降る外を見ていると、なんだか手に違和感があった。自分の手を眺めると、なんだか、熱を帯びて熱くなっている。

 

「(……力が入り過ぎちゃったかな)」

 

 手のひらをにぎにぎすると、痺れるような疲労感があった。

 恐らく気づかぬ間に金槌をいつも以上に強く握り締めていたのだろう。仕上げに影響はなかったようだが、張り切り過ぎはやはり良くない。特に力の僅かな入れ具合が品質の良し悪しを分ける刀匠は、いつだって冷静に鉄を打たねばならないのだ。自分の仕事に誇りを持っているなら尚更である。

 

 だけど……正直これは、仕方ないかなぁ。

 

 吹羽は諦めたように薄く笑って、ちらと鶖飛の背中を見遣った。

 するとその視線に鋭く感付いたのか、鶖飛もちらと吹羽の方を振り返った。

 

「……どうかした?」

「んーん、なんでもないよっ♪」

「? そっか」

「うん!」

 

 不思議そうな顔ながらも作業に戻る兄の背中を見て、吹羽はより一層笑みを深めた。

 大好きな兄と一緒に仕事できるだけでこんなにも嬉しい。数年離ればなれになっていた反動なのか、ともかくこの気持ちには歯止めなんて効きようがないんだから、無意識に力が篭ってしまうのも仕方のないこと――吹羽はそうやって納得していた。

 無理矢理に歓喜を抑える努力より、どうにかしてそれを制御する努力をした方が余程建設的だ。下手に気持ちを高ぶらせて失敗しては笑い話。何より兄の足を引っ張りたくはない。

 

「よーし、やるぞっ」

 

 吹羽はぱちんと自分の両頬を叩き、ふんすと可愛らしく気合を入れる。

 

 ――と、その時だった。

 聞き慣れた鈴の音の声。聞こえてきたのは、工房入り口の方角。

 

「随分と張り切ってるのね、吹羽」

 

 凛とした声音に導かれるように振り向くと、傘をたたんで水滴を払う少女の姿が見えた。

 立っていたのは、博麗 霊夢。いつもの澄まし顔を浮かべて柱に背を預けていた。

 久方ぶりに見た親友の顔に感極まり、吹羽は大輪の花を咲かせたような笑顔を浮かべる。

 

「霊夢さん!」

「ええ。久しぶり」

「ほんとですよ。今日は何をしに? 雨の日に来るなんて、急用ですか?」

「いえ、そうじゃないわ」

「そうですか……じゃあどうしたんです?」

「ん、ちょっとね」

「え、えっと……そう、ですか」

 

 しかし、喜び溢るる吹羽の仕草はだんだんと勢いを失っていく。霊夢の来訪に喜びを露わにする吹羽に対し、今日の彼女はどことなく冷たい対応だった。無意識に尻すぼんでいく自分の声が、なんだか礼を失っているようで少し申し訳ない。

 よく見れば顔も笑っておらず、いつものような柔らかい雰囲気ではない。吹羽の言葉に最低限の返答はしてくれるものの、その意識は全く別のことに注がれているように感ぜられた。

 

「あんたも……久しぶりね。鶖飛」

「……そうだね。久しぶり、霊夢」

 

 つと視線をやって簡素な挨拶を放る霊夢。鶖飛もその剣呑な空気を感じてか、どこか冷ややかな声音で返した。

 

 しばらく張り詰めた空気で見つめ合う二人だったが、不意に目を伏せた霊夢は鶖飛から視線を外し、持っていた傘を柱に立てかけた。

 おろおろと心配そうにしていた吹羽に視線をやって、僅かに微笑む。

 

「少し、見ていっていいかしら」

「ふぇ? 構いませんけど……ど、どうしたんです? ボクたちの仕事なんて面白くないですよ?」

「それは知ってる」

 

 ばっさりと言い切った霊夢に、えぇ……と微妙な顔をこぼす。

 いや自分で言ったことだけれども、そこは遠慮というか気遣いというか、もうちょっと柔らかく包んだように言うべきじゃないだろうか。相変わらず容赦がなくて平常運転、親友たる吹羽としては何よりである。もちろん皮肉だが。

 霊夢は、複雑な表情の吹羽の頭をポンポンと撫でた。

 

「面白くはないけど、見ていく価値はあるってことよ。気にせず働きなさい」

「ぅぁ……阿求さんもですけど、なんでそんなに見て行きたがるのかボクには分かりません……」

「分からなくていーの。椅子、借りるわね」

「ぅぅ……どうぞ……」

 

 吹羽の了解もしっかりと聞かず、霊夢は先程吹羽が腰かけていた椅子に座った。

 相変わらず姿勢が綺麗だ。背筋を凛と伸ばして足を揃えまるで正座しているかのように膝の上に手をちょこんと乗せている。そこには気張ったような余裕のなさはかけらもなく、非常識なほどに美しい。その楚々とした雰囲気は大人びた美貌を持つ霊夢に実に合っていて、吹羽は思わず見惚れて息を呑んだ。

 

 ああ、巫女なんだなぁ――親友としてどこか遠慮がなくなっていたことを自覚する。それが悪いこととは思わないけれど、やはり霊夢は吹羽の親友である前に、巫女なのだ。

 神に仕え、魔を滅し、どこまでも清廉潔白であり決して侵されざる心身であるべき、博麗の巫女。

 改めて、よくもまぁ自分なんかがこの人を親友を名乗れるまでになったものだ。

 神のいたずらなのだろうか。それともこれこそ運命というやつなのだろうか。吹羽はぽーっと霊夢を見つめながら、そんなどうでもいいことに思い耽っていた。

 

 すると、霊夢の瞳がちらりと吹羽を射抜く。

 

「……仕事しないの?」

「ふあっ!? し、しますします! ちょっと休んでただけですっ!」

「そ」

 

 見惚れてたとは流石に言えない。

 吹羽は霊夢の流しジト目に耐えかねていそいそと髪を結び直す。

 そうしてまた、しかし今度は霊夢の見学というオマケをつけて、吹羽は次の鋼を炉にくべた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――暗い部屋だった。

 聖堂のように広々とした空間には何本もの柱が立ち並び、天井には硝子をふんだんに使った豪勢なシャンデリアが吊るされている。床に一本線を引く真っ赤なカーペットは皺一つシミひとつなく、踏みしめる者には少しの負担も感じさせないだろう。

 その中央奥。一段高い場所にある一つの大きな椅子。その後ろに覗く巨大なステンドグラスは外の僅かな光で妖しく光り、神秘的な雰囲気で以って向かい、しかし空気をすら圧倒していた。

 

 不可思議な部屋だ。

 それだけの装飾が施された広間であるにも関わらず、そこは闇が閉じたように薄暗く、不気味で妖しく、そして美しくもある。

 この薄暗い広間を“そう”感じさせる所以は明白だった。

 

 最奥の椅子。まるで玉座を思わせる荘厳なその椅子に、優雅に腰掛ける女がいた。

 滑らかですらりとした脚を組み、華奢な腕で手摺に肘をつきながら、白銀の髪に彩られた顔を微笑みに歪ませるその姿は、まさに絶世の美女。その紫紺の瞳で見つめられれば思わず傅いてしまいたくなるような雰囲気を纏っていた。

 ただそこに在るだけで空間そのものすら美しく彩るようなその美貌は、訪れる者全てに人ならざる“何か”を感じさせるだろう。

 

 女はどこか遠くを見透かすように目を細めると、そのたおやかな指先に小さな光を灯して、緩く振るった。

 暗い空間に浮かび上がる細い光は、陽炎のように揺らめきながら宙を漂うと、女の目の前に円を作り出す。

 ――紡がれた言葉は、まさしく“権能”だった。

 

人形よ、義眼を差し出せ(ねぇ、あなたはなにを見ているの?)

 

 声が力となって響き、作り出された円の中に水面のような窓を現出させた。しかし、その向こう側に見えるのは薄暗い広間ではない。

 円内の水面は、まるで明鏡止水の如く静謐に、ここではないどこかを映し出す。

 そこに見えた光景に、女はうっとりと吐息を漏らした。

 

「ああ……もうすぐ、なのね……」

 

 長かった。しかしそれ以上に楽しみだった。

 時を積み重ねる度に期待が膨れ上がり、それが解放された時の心地良さを想像しては熱い溜め息を漏らす――そんなことを幾星霜。

 それがもうすぐ、結実しようとしている。そう確信させる光景が、作り出した窓には映し出されていた。

 

 女は気まぐれな性格だった。そしてどこまでも楽観的で、快楽主義者であった。

 その時良ければ後はどうでもいい。自分が気持ち良ければその他はどうでもいい。

 あらゆる存在が“個”では完成できないこの世にあって、その圧倒的な独裁思想はただただ異質と言えよう。その思想が行き着く先は破滅。不完全な存在は最後には消えゆくものだ。

 

 ――しかし、女はそんなことを認めなかった。そしてそれを否定し、成し遂げられるほどの力が、彼女にはあった。

 

 その時良ければどうでもいい――どうとでもする力があった。

 その時気持ち良ければ後はどうでもいい――どんな事柄も捩じ伏せる力があった。

 あらゆる存在は“個”で完成できない――女は唯一、完成していた。

 

 故にこそ、望んだものは手に入れる。飽きたら捨てる。歯向かってきたら壊す。死で呪おうとするなら魂をすら侵し蝕む。

 どんな抵抗も許しはしない。私が望んだのだから、この世のあらゆるものは“そう”在るべきなのだ。

 

 今回もそうだった。

 あらゆるものに飽き飽きしていて、そんな時に見つけた実に面白そうな悲劇(・・)。その結末を見てみたい、自分で作ってみたいと、そう思ったから、この時まで待っていたのだ。

 

 物語は、悲しみで出来ている。

 英雄譚などありきたりなものばかりだ。主人公が誰より強い? だからなんだ。勝って当たり前の人間の勝利を描いたところでなんの感慨もありはしないのに。

 主人公は、絶望しなければならない。挫折しなければならない。いっそのこと狂いに狂って、どうにもならないところまで堕ちてしまえばいい。そうしてこそ物語は語る価値があるのだから。

 

「うふふ……そうね、その後は……」

 

 そうして完成したならば、さてどうしようか。

 当事者たちを手中に――コレクションしてみても面白いかもしれない。家族のように接しても当分は飽きないだろうし、愛でに愛でて堕落させるのもきっと楽しい。或いはその辺に敢えて捨て去り、泣き喚いて縋り付く様を眺めても気持ちいいかも。

 それともいっそ……殺してみる? 手塩に掛けて手に入れたその子らを敢えて己の手に掛けたのなら、その虚脱感と爽快感は如何程のものだろうか。

 

 女はくすくすと妖しく笑う。

 楽しいことは歯止めが効かない。そして女には我慢する必要もない。その一瞬を貪り感じるためにここまでしたのだ、物語が完成した暁には、きっと想像を絶する興奮が待ち受けていることだろう。

 

 今から期待に胸が膨らむ。作り出した窓の向こう側をいつまでだって眺めていたい衝動に駆られる。だがそれをしてしまったら、きっと余計なことを考えて余計な手を加えてしまうだろうことを女は自覚していた。

 あくまで様子見。念願にどれだけ距離があるのかを測るだけの覗き見だ。楽しみを自分で潰すのはあまりにも勿体ない。

 

 さあ、さあ、さあ――ッ!

 

 急く気持ちは笑みになって零れ落ちる。今から膨らむ期待で、胸がはち切れそうな気さえした。

 

「ほら、早く……早く、早く早く早くぅ……」

 

 暗い部屋に、不気味なほど無邪気な催促が響き渡る。

 子供が駄々をこねるように無邪気で、しかし恋人が愛を囁くように甘いそれは、暗い部屋に染み込んでは、余韻を残すように空間に溶けていった。

 

「うふ、ふふ……あはははははっ!」

 

 堪え切れない期待は、堪え切れない笑いとなって漏れ出ていく。

 女は目の前の水面をつと優しく撫で――そして、搔き切るように握り潰した。

 

「さあ、とびきりの悲劇を見せてちょうだい……人形たち……?」

 

 暗い部屋は、そうして再び絶対の闇に呑み込まれていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 涼やかな虫の声が鳴っていた。

 雨上がりの空は雲が千々に浮かび、その隙間には淡く光る星々が夜空を彩る。僅かに欠けた月がどこかに隠れた日の光を浴びて輝き、夜の帳が下りた人里を照らしていた。

 

 縁側からは真暗で静かな里が感じられた。風成利器店の周囲には柵や生垣があるわけではないので外の様子が眺められるが、入り組んだ道の先にあるため里を見渡すことは出来ない。ただ虫の鳴き声と葉々の掠れる音のみを伝えるこの空気が、寝静まった人間の里を感じさせる。

 

 人間の里の一日と同時に仕事も終わり、霊夢の撤収と吹羽の就寝も見届けて何もかもが寝静まったこの時間――鶖飛はぼんやりと縁側に座っていた。

 隣にはお茶と湯のみがおぼんに乗せて置いてあり、一つには僅かに湯気が上がっている。屋内をいつでも巡っている緩やかな風が、上がった湯気を攫ってはふわふわと散らしていた。星月が見守る穏やかな夜だ。

 

「ふぅ……疲れたな……」

 

 一息吐き、程よい疲労感と共に一日を振り返る。

 今日は――というよりここ数日は工房で刃物を研磨してばかりいる。吹羽の提案によるものだが、お陰で鶖飛はだいぶ勘を取り戻していた。今なら研磨以外の仕事も問題なくこなせるだろう。

 

 だが、その必要が大してないことは鶖飛が一番よく分かっていた。

 

「(天才(吹羽)がいるからね……本当なら俺の出る幕なんてどこにもないんだけど……)」

 

 程よく熱いお茶を一口啜って、溜め息にも聞こえる呼気を漏らす。白くなった息は、風に乗って一瞬で散り散りと消えた。

 

 ――“三階義”とは、風成の人間が生涯をかけて目標とする三つの技術段階だ。

 一、始階。風を知り、触れ、それと共に生活を営むこと。大半の者が子供の頃に到達する階層。

 二、次階。風紋を学び、刀に刻むことである程度風を操ること。既に吹羽が到達した階層。風成の人間として壁となる領域だ。

 三、終階。風を従え、使役すること。これに到達した者は風成の人間として完成したことを認められる。しかしその方法は明確に示されておらず、代々これに到達した当主たちは試行錯誤の末に己だけの方法を見つけ出してきた。故に必然、当主が空席のままの時代もあったという。

 尤も、周囲の人間が認めたからこそ“終階”に辿り着いたと言われているだけであり、本当に言葉通りに“風を従え使役する”にはどうすれば良いのかは未だ判明していない。正体不明であるゆえにいつの代も事実無根。至難であるからこそ、基準が最も曖昧な階層だ。

 

 鶖飛は、始階に至ったまま停滞していた。

 

 努力を怠っていたわけではない。始階には小さな頃に至っていたし、鍛治の手伝いがてらの勉強も一度だって欠かしたことはなかった。紋の形は全て覚えているし、彫刻の仕方も頭に入っている。助言だって聞き逃したことはない。

 ただ、それでも満足のいく風紋を彫れたことはなかった。

 

 どれだけ注意深く彫っても削り過ぎの失敗は絶えず、風が予想外の動きをした時の対処もままならない。少し工夫をしようとすればたちまち全体の仕組みが崩れてしまい、何度父に叱られたかは最早知れない。

 それは正しく“才能の欠如”という取り返しのつかないものであり、理不尽であり――風成の人間としては致命的だった。

 

 そしてそんな彼を追い越して、(吹羽)は幼いうちに“次階”へ到達した。

 

 紛れもない天才だった。

 長い歴史を見ても半数以上の者が次階の一歩手前で生涯を終える中、吹羽は誰よりも幼くしてその領域へと至った。当然ながらあの歳でそこに到達した者は他に存在しない。加えて歴史上数人しか発現していない“鈴結眼”を持っていたこともあり、吹羽は鶖飛とは対照的に、風成の人間としてこれ以上ないというほどの天賦を持っていた。

 彼女が彫った紋は彼女の想像通りに風を束ね導き効果を発揮し、どうすれば風を思い通りに動かせるのかを吹羽は感覚的に知っている。彫刻の技術はその補佐に過ぎない。両親をして“氏神様に愛されている”と言わしめるほどの凄絶な才能である。

 当然、鶖飛にはその才能に強烈な劣等感を抱いていたこともあった。事実、今だってそれなりの劣等感はあるし、嫉妬もないといえば嘘になる。

 

 だが、それを当たり散らさず卑屈にもならなかったのは、それもまた吹羽のお陰だった。

 

『あの、おにいちゃん』

『……なに?』

『ここ、どうすればいいのかわからなくて……』

『父さんに訊けばいいだろ。なんでオレなんだよ』

『い、忙しそうだったの……おにいちゃんなら、わかると思ったから……』

『…………一回しか言わないぞ』

『! うん!』

 

 鶖飛は知っている。吹羽が才能に溺れた怠惰な人間なら、自分を追い越して“次階”に到達なんてするわけがなかった、と。

 いくら才能があっても知識がなければ活かすことはできない。吹羽はその知識に対して貪欲で、分からないことがあればなんでも鶖飛に尋ねてきた。それはきっと、吹羽が鶖飛の努力を知っていたから。

 おにいちゃんならきっとわかる。だから教えてほしい、と。

 それは、鶖飛の吹羽に対する強烈な劣等感を慰めるには十分な――“信頼”の証だった。

 

 優越感にも等しかったかも知れない。

 鶖飛よりも圧倒的に優れた才能を持つ吹羽が、それでも先達として自分に教えを請いにくるという状況は、情けない大人気ないと分かっていても鶖飛の心を喜ばせた。そしてそれを少しだって無駄にせず吸収し今日の仕事に活かしている姿は、兄として妹を誇らしく、また愛おしく感じさせた。

 

 ああ、愛しているとも。

 これほど健気な妹を愛せない兄などいるはずがない。例え自分とは才能で雲泥の差があっても、素直に頼ってくれる妹を大切に思えないなら、鶖飛は自ら吹羽と絶縁していただろう。そんな情けない自分はあり得ない。むしろ死んだ方がいい。

 

 今の自分があるのは吹羽のお陰だ。

 吹羽がいなかったら――否、吹羽がああした素直な性格でなかったら、ロクでもないことになっていたのは想像に難くない。

 

 ここ数日で吹羽の存在を改めて思い知ったのだ。なんだかとてもほっとするような心地である。

 ――だからこそ。

 

「(吹羽だけは……絶対に失くせない、な)」

 

 一瞬瞳に決意(・・)が宿り、しかし鶖飛はすぐにそれを霧散させた。

 今ここで滾っても仕方ない。吹羽は敏感だから、そんなことをすれば起こしてしまう。ぐっすり眠っているんだからそれはよろしくない。

 短く息を吐いて、鶖飛は再びのんびりとした月見に戻る。

 

 ――だけでは、なかった。

 

「それで……いつまでそうしてるつもりかな」

 

 独り言のようでそうでない呟きは、薄暗い縁側の先へと放られていた。

 しかしそこには何もなく、当然反応もない。ただ奥へと続く暗闇が鎮座するばかりだ。

 だが、鶖飛は確信を持ってその空間に、伏せられた湯のみを返しつつ言葉を続ける。

 

「せっかく二人分(・・・)の湯のみも用意しておいたんだ、隠れてないで座りなよ。話したいことがあるんだろ――霊夢」

 

 確信に満ちたその言葉から数瞬の後、まるで観念したかのように、視線の先でぐにゃりと空間が揺らぐ。そして大して驚きもない鶖飛の前に、数時間も前に帰宅したはずの霊夢が姿を現した。

 その表情は、余裕を感じさせる鶖飛の微笑みとは対照的に無表情で固まっていた。

 真一文字に引き結んでいた口が、静かに問う。

 

「…………いつから気付いてたの」

「始めっからかな。君が帰った直後からきつい視線を感じてた。お陰で集中しきれなくてちょっと吹羽に怒られたよ。霊夢の所為だぞ?」

「……認識阻害に気配遮断まで掛けた結界だったんだけど」

「知らないのか? 武人っていうのは気配に鋭いものだよ。ついでに俺の周りに展開してる符術も解いてくれると嬉しいな。目には見えないけどちびちび漏れてる霊力が鬱陶しいんだ」

「っ……」

 

 さも当然といった鶖飛の口調に、霊夢は思わずぴくりと眉の端を揺らして口籠る。

 筒抜けだった。鶖飛の周囲に展開した符術にも認識阻害と気配遮断が付与されていたのだが、同じ術で隠れていた霊夢に初めから気が付いていたとなると早々に見破られていたと考えるべきだろう。当然、その符術が鶖飛を攻撃するためのもの(・・・・・・・・・・・・)だったことも。

 心底不満そうな表情を容赦なく鶖飛にぶつけつつ、霊夢は徐に手を横に薙いで展開していた符術を解除した。

 やれやれ、といった鶖飛の呼気に眉根を寄せる。

 

「別に争うつもりはない。夜中だし吹羽も寝てる。言ったろ、話があるなら座りなよってさ」

「………………」

 

 無言の霊夢に、お茶を注いだ湯のみを差し出す。

 

「お茶、飲むだろ?」

「………………っ」

 

 鶖飛の手からお茶をひったくり、霊夢は横目で鶖飛を睨みつけながら彼の隣に腰を下ろす。

 お茶は、既に冷めて緩くなっていた。殺気の篭った符術の霊力残滓なのか、流れてくる緩い風もどことなく生温く感ぜられる。

 異常な差異があった。おぼんを挟んで座る二人の間には、まるで文化の異なる国々を隔てるかのような雰囲気の壁があった。

 片や噴火寸前の火山のように奥底で莫大な熱を溜め込む霊夢。

 片やそんな霊夢を横にしてすら呑気にお茶を啜る和やかな雰囲気の鶖飛。

 

 果たしてそれは、何をもって和やかであり、余裕なのか――。

 

「“なんで監視してたのか”、なんて愚問はするんじゃないわよ。分かってるでしょ」

「何のことか分からないな。もうちょっと穏やかに会話したいんだが」

「この期に及んでしらばっくれるんじゃないわよ。ふざけてんの?」

 

 嫌悪感剥き出しの視線が、鶖飛に突き刺さる。

 

「穏やかに会話したい? 自分が何をしたのか理解した上でそう言ってるなら、あたしは今すぐあんたを殺してやるわ」

「君にそれができるのか?」

「できないと思ってるの? 舐められたものね。あんたくらい簡単に捻り潰して――」

「いいや、強弱の話じゃない」

 

 向けられた鶖飛の瞳に、霊夢は思わず言葉を詰まらせた。

 確信に満ちた声音――否、事実を語っているに過ぎないと宣言する声だった。

 

「君は俺を殺せない。君が吹羽を想っている限り、俺の傍に吹羽がいる限り、君は俺に手を出せない」

「な、なに言って……」

「俺がまたいなくなったら、今度こそ吹羽は壊れるぞ?」

「ッ!!」

 

 霊夢の無表情が、初めて崩れた。

 

「吹羽を想って……俺を危険視して監視してたのは分かってる。再会から日が空いたのは準備とか心構えとか必要だったんだろ。……分かってたはずだ。俺を殺したら十中八九最悪の状況になる。だから今日ウチに見学に来たふりして、監視用の札を貼って(・・・・・・・・・)いった(・・・)んだろ?」

「…………それも、バレてたの」

「ああ。プライベートまで人に晒す趣味はないからね。君に気付かれないよう既に全部はがしておいた。吹羽にも多分バレてないよ」

 

 隠しもせずに舌打ちする。本当に何もかもが筒抜けだったことに――何より鶖飛の言うことがいちいち事実であることに、霊夢の怒りがふつふつと沸騰し始める。

 その通りだ。ここ数日、鶖飛にどう対応するかで霊夢は散々悩んでいた。鶖飛が帰ってきたことは霊夢にとっても衝撃的で、故に何の考慮もしていなかったのだ。

 

 吹羽の下に鶖飛が戻ってくれば、必ず彼女は依存する。またいなくなったりしないよういつでもついて回るようになるだろう。そもそもが危うい均衡の上、そこから鶖飛を取り上げれば今度こそ吹羽が壊れてしまうのは簡単に想像がついた。

 だが、霊夢は鶖飛がなにをしたのか知っている。だから彼をこのまま放置はできない。一番良いのは鶖飛を吹羽から遠ざけることだが、彼女の精神状態を鑑みればそれに踏み出すのは容易ではない――そうして数日悩んだ結果が、今回の行動だった。

 姿を隠したのも符術を展開していたのも、二人きりになった場合に鶖飛がなにをするのか油断できなかったが故の措置だ。

 だが、それらは全てが見透かされていた。これを舌打ちせずにいられようか。

 

 長々と問答を続けても揚げ足を取られるだけだ――。

 霊夢はぐだぐだと敵意だけをぶつけるのを諦め、本題に入る。

 

「…………あんた、何をしに帰ってきたの?」

「随分な言い方だね。自分の居場所に戻ることが、そんなに責められることかな」

 

 鶖飛は目を瞑って、お茶を一口啜った。

 

「どのツラ下げて戻ってきたのかって訊いてんのよ……っ! 自分の居場所ですって? よくそんなことが言えたものね!? どれだけ吹羽が苦しんだか分からないの!?」

「どのツラ、ね。それはもちろん、吹羽の兄としてここに戻ってきた。それ以上でもそれ以下でもないよ」

「兄ッ!? 言うに事欠いて兄ですってッ!? 今更あんたが吹羽の家族面出来るとでも!? ふざけんなッ!!」

 

 溢れ出す怒りのまま怒鳴り散らす声が夜に響く。その気迫に中てられたのか、虫の鳴き声もいつのまにか鳴りを潜めていた。

 中身がこぼれることも厭わず湯のみを乱暴に置くと、霊夢は立ち上がって射殺すような瞳で鶖飛を睨め付けた。

 

「あんたは吹羽の家族なんかじゃないッ!! 悪虐で冷酷なただの外道よッ!! 何が居場所だ! 何が兄だッ! ほざくのも大概にしなさいよッ!?」

 

 認めるわけにはいかなかった。霊夢にとってもきっと吹羽にとっても、彼は絶対に認めてはならないことをしたのだ。

 そしてそのまま居なくなって、突然帰ってきて、兄? 家族? そんな寝言は死んでから言え。その死体すら塵に変えてやる。

 

「そんなもの誰が認めてもあたしが認めない……! あたしだけは絶対にあんたを許さないッ!」

 

 霊夢の怒りは真紅に燃えるマグマのようで、濁流の如きその勢いを容赦なく鶖飛に叩きつけていた。

 きっと魔理沙がこの場にいれば、彼女がここまで怒り狂っていることに首を傾げていただろう。

 霊夢は淡白で薄情者と言われていて、何をされても本当に怒ることは滅多にない。それだけ他に興味がないだけということでもあるが、それは彼女生来の優しさに起因することでもある。

 

 そんな彼女の本気の怒り。

 きっとほとんどの者は圧倒されるなり気圧されるなりして、少なくとも平静は保てない。

 

 しかし――それを向けられた鶖飛は、暢気にもお茶を湯のみに注ぎ直していた。

 そのあまりにも場違いな行為は、霊夢に“馬鹿にされている”と判断させるに十分な材料だった。

 新たに青筋を浮かべ、顔を真っ赤にして怒鳴り散らそうとした霊夢に――しかし鶖飛の、冷や水のような言葉が放たれる。

 

「なぁ霊夢。俺と君は似た者同士だよね」

 

 突然の告白に、霊夢の思考は停止した。

 

「お互いにさ、自分のことより吹羽のことを考えて、そのためにこうして口論してる。ともすれば殺し合いすら始めてしまいそうなこの空気感を作ってる。……吹羽のためにって思って、本当に正しいの(・・・・・・・)かどうかも分からないこと(・・・・・・・・・・・・)をしてるんだ」

「っ……な、なにを――」

「“記憶”のことだよ」

 

 びくん、と肩を震わせた霊夢に、鶖飛はにやりと笑って視線を向けた。

 

「俺がいなくなった日から、吹羽の記憶は壊れてしまっているそうだね。見ている限りじゃそんなそぶりは見せないもんだから、本当にあの子は大したものだよ」

「……それが、なに、よ」

「いや、ね……どうもキナ臭いと思って。だって記憶ってのは、そう簡単に壊れるものじゃないからね」

 

 見透かしたような鶖飛の視線が霊夢を射抜く。血の気がさぁっと引いていた。

 

「例え脳震盪で記憶が飛んだとしても数時間あればだいたいは戻るし、記憶喪失でもきっかけがあれば思い出す。人間の脳は良くできてて、外傷でなければ自己修復だってする。なんたって、本来なら人間の演算領域をはるかに超えた情報量すら扱い切ることができる性能があるんだぞ。事実それができる吹羽なら言わずもがな……記憶が壊れたまま何年も戻らないなんて考えにくい」

 

 鶖飛は確信を持った声音で以ってそう言い切ると、霊夢の湯のみにも溢れた分のお茶を注ぎ直した。

 最初の威勢はどこへやらと顔を蒼白に染める霊夢を見遣って、薄く笑う。

 

「じゃあ、吹羽の記憶はなぜ壊れてる? 一体どこへ行ったんだ?」

「違うッ!!」

 

 鶖飛の言わんとしていることを理解し、霊夢は咄嗟に怒鳴った。

 その拳はきつく握りしめられ、しかし目だけはぎゅっと瞑って、鶖飛の言葉を拒否しているようにも見えた。

 そんな霊夢に、鶖飛は躊躇いなく言葉を紡ぐ。

 

「何も違わない」

「違う違う違うッ!」

「吹羽が失くした記憶のことで苦しんでいるのは知ってるだろ」

「ちが、う! ちがうのよ……っ!」

「何度でも言うぞ」

「ち、ちが――」

「君は、俺とよく似てる」

「………………〜〜っ」

 

 言葉が出なかった霊夢は、狼狽したように頭を抱えて激しく振り乱した。

 それはまさしく拒絶反応。受け入れがたいものを聞かされて、取り入れて、間違っても吸収しまいと吐き出そうとする仕草だった。

 

「君は、俺と、よく似てる。考えてることも、やっていることも、想っている子のことも……」

「………………ち、がう……わ……っ!」

 

 しかし次第に狼狽が治まってくると、霊夢は独り言のように先ほどの言葉を繰り返した。

 言い含めるように。言い聞かせるように。或いは自分への、暗示として。

 

「あたし、は……あんたとは違う……! これだけは絶対、何があっても揺るがないわ……ッ!!」

 

 かつての光景がフラッシュバックする。

 雨の夜。冷め切った心を覆うように張り付く服と、生温かくも冷たい手の感触。握りしめた大幣。そして無惨にも“谿コされたtgjだim蠱onおkcび”。

 それは霊夢が、巫女としての覚悟を決めた日。忘れることのない、忌まわしき日(・・・・・・)

 

「あたしは間違ってない……! 間違ってるはずがない! あんたなんかよりずっと吹羽のことを知ってるのよっ! 分かったような口を利くな……ッ!」

「実の兄に言うことじゃないね」

「何度も言わせんな……あんたは吹羽の家族じゃない! あんたみたいな外道があの子の家族だなんて、あたしが許さないわッ!」

「じゃあ訊くけど、君は吹羽の何なのかな」

「っ、なに、って……それは――っ!」

「答えられるなら、君の言い分は認めるよ。どうかな?」

「……っ、…………」

 

 “友達に決まってる”、と言おうとして。

 何故か声が出せなかったことに、霊夢はなによりも愕然として、困惑した。

 

「ほら、それが全てさ」

 

 嘲笑するように漏らしたその言葉に、霊夢は何の反論もできなかった。

 

「本当の君は分かってる。心の底では理解してる。本当に吹羽を想っているから(・・・・・・・・・・・・・)、君はそこで胸を張って“友達だ”と言えない。それでよく俺を兄じゃないなんて罵れたもんだ」

 

 鶖飛の言葉が胸を貫く。抉り抜く。心臓が鷲掴みにされたように痛む。霊夢は思わず顔を歪めて、胸元を強く握り締めた。

 

 なぜ何も言えない? 自分は間違っているはずがないのに。全ては外道の宣う戯言のはずなのに。

 頭の中は困惑を極めていた。自分の考えこそが正論だと分かり切っているのに、それを揺るがすほどに鶖飛の言葉は霊夢の芯に響いていたのだ。

 それに、そもそも――、

 

「なんで……」

「ん?」

「それなら、なんであんたは……兄だって、言えるのよ……!?」

 

 そう――“似ている”というなら、なぜ。

 

「正しいかは分からないんでしょ!? ならなんで、あんたは堂々と兄だなんて言えるの……!? あんたは何をしに、戻ってきたのッ!?」

「………………」

 

 鶖飛はまた、茶を濁すように湯のみを口につけて黙り込んだ。今度は適当に茶化したりもせず、言葉を選ぶような沈黙で以って間を作る。

 しかし、不意に鶖飛の口から呼気が漏れた。それは面倒になったようにも諦めたようにも見えて。

 

「…………答える気、ないの……っ!?」

「答えたところで、君は納得なんてしないだろ」

「……っ、……そうね。きっと理解はしても否定するわ」

「それは、何故かな」

「あんたがどうしようもない鬼畜外道だからよ……っ。そんな奴の言い分なんて、理解こそすれ納得するわけないじゃないッ!」

「ほら、それがあるから、君は絶対に納得しない。言うだけ無駄さ」

「………………ちっ」

 

 舌打ちを一つ落とし、霊夢は身を翻した。

 これ以上問答しても期待した答えは得られないだろう。

 むしろ、言葉を重ねれば重ねるほど自分の芯が揺るがされるようで、おかしくなってしまう気さえした。

 

 またこれから、考えを巡らせなければならない。監視で妥協するのか、それとも強引にでも――。

 

「霊夢」

 

 鶖飛の声に、足を止める。

 

「お互い、複雑な立場で苦労するね」

「……複雑? 何を言ってるのかしら」

 

 霊夢は振り返り、嫌悪感に染まった鋭い視線を鶖飛に叩き付けた。

 

「むしろ単純よ。あたしは吹羽の味方で、あんたの敵。あんたこそ何が複雑なの? あんたはただの孤独な咎人。死んでも許されない鬼畜外道よ」

 

 そう吐き捨て、霊夢は今度こそ空に飛び上がって去って行った。

 

「…………目的、ね」

 

 周囲に視線も霊力も感じないことを確認すると、鶖飛はポツリと先ほどの問いを思い返して呟いた。

 

 目的。最終的に目指すべきもの。自らの望み。自分のそれは――決して難しいことではないはずなのに、こんなにも面倒なことに、なってしまった。

 

「……俺はただ、吹羽と静かに暮らしたいだけだよ。……それだけなんだよ」

 

 だから、俺は、何をしてでも――……。

 

 続く言葉を呑み込んで、鶖飛は湯のみに残った苦い茶葉を足元に捨てた。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 ……うん、まあ……ね?

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