風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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そろそろこの作品の好き嫌いが分かれてくる頃かなぁ(ボソ


第三十二話 帰ってきた日常①

 

 

 

 とても懐かしい匂いが、ゆらゆらと鼻腔をくすぐっていた。

 否応無しに胸の奥が暖かくなるような、それでいて懐かしさを感じさせる穏やかな香り。何度も嗅いだことはあるはずなのに、今までとは違って何故かもう少し眠っていたくるような、はたまた起きなきゃと焦りに駆られるような。

 甘やかだけれど、やっぱりどこか優しい酸味の発酵食品。そう、これは――お味噌汁の匂いだ。

 

「ん、にぁ……?」

 

 眠気に抗うように喉を震わせて、重い瞼を薄く開く。するとぼやけた視界は明るくなって、冷やい空気が目にじわりと染みた。浮かんだ涙が目の端に溜まっていくが、拭うことも億劫だった。

 しばらく判然としない意識で微睡んでいると、すぐ側に誰かが歩み寄る気配がした。これもまた懐かしい匂い。吹羽にとってこれ以上ないと思えるほどに安心できる匂いだ。

 それが、お味噌汁の匂いに混じって、すぐ側に屈み込む。

 

「やっと起きたね吹羽。相変わらず、能力を使った後は寝込んじゃうみたいだね」

「ぅ、ん……おにぃ、ちゃん……?」

「ああ」

 

 頭を傾けるのも億劫で、吹羽はころんと仰向けになって声の主を見遣る。

 吹羽の顔を覗き込む兄――鶖飛は仕方なさそうな顔で微笑んでいた。

 

「おはよう、吹羽。一昨々日ぶり(・・・・・・)だね」

「ふぇ……さきおととい……?」

 

 微睡む思考の中で鶖飛の言葉が木霊する。そしてようやっと頭が理解し始めると、吹羽はゆっくりと瞳を散大させた。

 

「――……一昨々日ッ!?」

 

 自称“一人で暮らせる大人な幼女”風成 吹羽。

 大人とは名ばかりに三日も寝過ごした衝撃の事実によって、久しぶりに兄との朝を迎えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「うー……仕方ないこととはいえ、三日も寝込んじゃうなんて……不覚ですぅ……」

「落ち込まない落ち込まない。昔からそうだったんだから、今更気に病んでもしょうがないよ」

 

 衝撃の事実に飛び起きてから数刻。体は鶖飛が拭いておいてくれたらしいが、一応湯浴みをしてからの朝食だ。卓袱台に並んでいるのはご飯と味噌汁と、なんと魚の塩焼きである。山奥に存在する幻想郷では塩も魚も非常に貴重なはずなのだが、朝のショックが強過ぎて目に留まらない吹羽。魚の身をほぐしほぐし――というかいじいじとほぐしてばかりで少しも食を進められずに、朝食の時間を過ごしていた。

 

「そうなんだけど、そうじゃなくて……」

「?」

 

 能力の使用で寝込むの仕方ないことだ。鶖飛が言っているように、吹羽が能力を酷使した後に寝込んでしまうのは、能力と脳の容量の関係上どうしようもないことである。

 

 “視野”を全開にした場合に脳が処理する情報量は膨大だ。普段気にも留めないようなことすら思考のうちに無理矢理組み込み、体を頭の天辺から爪先まで全てを意識して動かし、その上で相手の筋繊維の微細な動き、目線の僅かな細動、飛び道具の軌道予測、挙句相手の次の次の次まで行動を見透かす。その他到底挙げきれない例の数々を含めその情報量は、普段人間が処理する情報量を水溜り程度の水量とするなら、まさに対面の湖畔が見えない湖の如しである。

 本来なら人間に処理できる情報量を裕に超えているのだ。それを能力の補正でどうにかこうにか行使しているだけ。

 だからこそ制限時間がある上に一度使えば数日寝込む。これは吹羽にはどうしようもないことだ。そもあの時は霊夢と魔理沙を想って正真正銘の全力全開だった。何日か寝込むだろうなぁなんてことは言われるまでもなく覚悟していたのだ。

 

 そうではなくて。

 吹羽が落ち込んでいるのは、そんなどうでもよろしい(・・・・・・・・)ことではなくて。

 

「(せっかくお兄ちゃんがいるのに三日も寝たままなんて……勿体なさすぎるよぅ……)」

 

 心の中で言葉にして、吹羽はさらにどよーんと頭上に青黒い空気を浮かべた。それに目聡く気付いた鶖飛がよしよしと頭を撫でてくる。

 手付きが優しい。理由は分かっていないくせに、大切にしてくれているという暖かい気持ちが胸に直接染み込んでくるよう。鶖飛のそういうところが吹羽は大好きだった。

 

 ――うん、元気貰った。

 

 吹羽は徐に顔を上げると、一つ大きく深呼吸をした。そうして目に入ってきたのは、ほぐされ過ぎて原型を留めていない魚の塩焼き。

 そうだ! と吹羽は笑顔を輝かせた。

 

「お兄ちゃんっ、久しぶりにアレやってあげるよっ」

「ん? お、おおう」

 

 若干視線が泳いだ気がしたが、ちゃんと了承は取れた。吹羽はほぐされた魚の身をご飯に乗せて箸で救うと、鶖飛の口元に持っていって、

 

「はいお兄ちゃんっ! あ〜ん♪」

 

 在りし日の習慣――満面の笑みで“あ〜ん”を敢行した。

 

 輝く笑顔に花が咲く。吹羽の控えめに言っても整った顔で笑顔のあ〜んに、鶖飛はちょっと赤くなって頰を引き攣らせていた。

 昔はよくこれをやってじゃれていたものだ。普通の子供よりも少しばかり早くませ始めていた吹羽がこれに憧れて、大好きなお兄ちゃんを相手に真似するようになったのだ。当然鶖飛も当時は幼く、妹の可愛らしい要求に文句なく付き合っていたのだが――時は非情かな、鶖飛も青年に近しい年。いくら愛する妹の魅惑的なあ〜んであっても流石に――

 

「……あむ」

「おいしい?」

「ん、おいしいよ。吹羽はきっといいお嫁さんになるな」

「えへへぇ……♪」

 

 ……応じてしまうのが、鶖飛の妹至上主義(シスコン)とも言うべき性質である。吹羽の元を離れていた数年間を経てさえ、妹への愛情は変わりないらしかった。

 因みに、当時こうして食し食させる“お遊び”を母は微笑ましそうに、父は複雑そうな表情で見守っていた。ふーちゃんは将来何になりたいのかなぁ? と母が尋ねれば元気に「おにいちゃんのおよめさんになる!」とか小っ恥ずかしいことを平気で親の前で言っていたのだが、生憎とそこは都合よく忘れてしまっている吹羽。鶖飛は流石に覚えていたので、若干視線を泳がせていたのだ。

 まぁ、それでも吹羽のあ〜んに逆らえないあたりが、鶖飛のシスコンと呼ばれる所以とも言える。

 

「……あの、ご飯を作ったのは私なんですが」

 

 と、突然形作られた二人だけの空間に浴びせられた冷や水の如き言葉。

 吹羽はぎくりとして居住まいを正すと、おずおずと声の主を見上げて

 

「そ、そうでしたね! お魚を持ってきてくれたのも夢架さんでしたよねっ! も、もちろん分かっていますとも!」

「……もしかしなくても、私のことを忘れていませんでしたか? 鶖飛さんなんて、私の目を気にしてすらいましたよね? 忘れてるフリですか?」

「いや、そうじゃないけど……不可抗力で――」

「なるほど、阿求様がシスコンと言っていた意味がよく分かりました。人は見掛けに依らないとはこういうことなのですね」

「くっ、言葉の端々が鋭い……」

 

 冷静な無表情でぐさぐさと言葉の刃を刺していくのは、阿求から遣わされた侍従、夢架であった。

 彼女は、吹羽が寝込んでいる間に、環境に慣れていないであろう鶖飛を慮って阿求から派遣されて来たのだという。本当は本業優先しなければならないのが“お付き”というある種重要な役回りなのだが、「どうせ鶖飛とも長く付き合うことになるだろうから、この際に親睦を深めてくると良い」と阿求に言われたそう。いくら夢架が優秀でも、他の侍従たちだって阿求の世話に年月を重ねている。彼女がいない程度で家の運営が傾くほど稗田邸は落ちぶれていないのだ。

 

 いつのまに鶖飛の帰還を知ったんだと思った吹羽だが、まぁ三日もあれば知人数人と顔を合わせるには十分だろう。阿求なんか自分が気を失った当日に全力疾走で駆け付けてきそうだ――なんて思うと、ちょっと苦笑いしそうになる。

 

 とはいえ、若干夢架の存在を忘れていたことも事実。ごめんなさいをしようにも、夢架が鶖飛に向けているような冷やい視線が自分に向くかもしれないと思うと、吹羽は怖くて言い出せなかった。ただでさえ小心者な吹羽にとって、普段から無表情鉄面皮な夢架の冷たい視線は殊更に高威力なのだ。

 

 気を紛らわすように、吹羽はほぐした魚の身をご飯と一緒に口に含む。

 脂の乗った魚の身が、塩の塩辛さと混ざってご飯に溶けていく。以前食べたのが数週間も前で、久しぶりの魚ということもあったが、それを抜きにしても非常に美味な一品であった。親友とはいえ他人の世話をする侍従に高級な魚と塩を持たせるとは、彼女はやはりお嬢様なんだなぁと吹羽は思い耽る。何から何まで阿求様々だ。あと、持ってきて調理までしてくれた夢架にも“様々”である。ごめんなさいの代わりにありがとうを伝えよう。その方が幾分か気も楽だし。

 

「それにしても、昔からこんなことをしていたのですか? 仲が良すぎてもはや新婚夫婦です。あ〜んとか今時は幻想の産物でしかないことをご存じないのでしょうか」

「え、そうなんですか? まぁ夫婦とかならしないかもしれませんが、こんなの兄妹なら当たり前ですよね?」

「……は?」

 

 吹羽の迷言に、流石の夢架も首を傾げた。

 

「いえ、兄妹ならあ〜んってするくらいは普通のことじゃないんですか?」

「…………それはどなたかに教えられたのでしょうか」

「いえ、そんなことはないですけど……。“色は思案の外”という諺があります。理屈とかじゃなくて、お兄ちゃんにはなんとなくそうしてあげたいなーって思うんです。ボクがそうなんだから、兄妹ならどこでも普通のことなのかなって……」

「……ああ、分かりました。少し使い方が違う気もしますが、そういうことですね。理解しました」

「え、え? な、何を理解したんですか? 何か変なこと考えてません!?」

「いえ、お気になさらず。他言はしませんので」

「何をですかっ!?」

 

 夢架の鉄面皮に若干の呆れや哀れみの色が映る。何か重大な勘違いをされているような気がした吹羽が抗議するも柳に風。敬愛すべき主のツッコミすら受け流す完璧侍従スキルは、吹羽相手ではやはり役不足なのだった。

 

 果たして勘違いは――実は勘違いに非ず。厳然たる事実であった。即ち、結局吹羽も昔から兄至上主義(ブラコン)だということだ。そもそもあ〜んを兄相手にし始めた時点で吹羽の“お兄ちゃん大好き”は上限を迎えており、数年の隔絶を経て再会した今ではある意味勢い付いて遂に天元突破してすらいる。今更その愛情に歯止めなどあるはずもなく、故に今更あ〜んをする程度この兄妹には当たり前のことなのだ。

 というか、他の兄妹というものをあまり知らないので、これくらい兄妹なら常識的にするものと思っているところすらある。

 

 妹至上主義(シスコン)の兄に、兄至上主義(ブラコン)の妹。

 常識外れなくせに均整が取れてしまっている奇妙な兄妹を、夢架はどこか呆れた瞳で見つめていた。

 

「――さて……それじゃあお兄ちゃん」

「ん? ……ああ、そういえばそうだったね」

 

 朝食を食べ終えると、吹羽は早速鶖飛に声をかけた。彼もすぐに何事かを理解したようで、部屋の一角に目を向ける。

 

「お祈り……この神棚だけは昔と変わらないな」

「こまめにお手入れしてるもん。お父さんお母さんが帰ってきたときに汚かったら、きっと怒られるし、氏神様もきっと悲しむよ」

 

 懐かしそうに神棚を見る鶖飛を隣に、吹羽はいそいそと神棚の前に正座して手を合わせる。できれば夢架にもしてもらいたいところだが、彼女は恐らく龍神様の信徒であるはずなので、無理強いはするべきでないだろう。

 隣で鶖飛も正座に手を合わせる気配を感じながら、吹羽は今日も一日のご加護を願った。

 

「氏神さま氏神さま、御前に拝してお頼み申す。今日も御風の導きと加護がありますよう、ボクたち風の眷属に、貴方さまの御力をお貸しくださいますよう――」

 

 祝詞としては不十分な言葉。神に対するものとしては不敬にすら思える言葉。しかし吹羽は心の奥底からこの言葉を紡いでいる。形式というのは大切だが、もっと大切なのは伝わる言葉で心から願うこと。それを吹羽はなんとなく知っているのだ。

 このお祈りは、彼女がもっともっと小さい時から続けてきたことであり、彼女が敬虔な神の信徒である何よりの証拠。

 だが、いつもよりも少しだけ、願い事を多く重ねて。

 

「(どうか……どうかお兄ちゃんがもう、絶対にいなくならないように、ご加護をください、氏神さま……)」

 

 決して言葉には出さず、しかし他の願い事に勝るとも劣らない想いを込めて、切に願う。

 吹羽の信じる神は確かに風の神様だ。恵みの風、癒しの風、荒ぶる風、その他あらゆる風を司る偉大な神様である。だがやはり、誰かと誰かを繋ぎ続けるような権能を持った神様ではない。きっと兄と離れ離れにならないように願うのは御門違いというところだ。

 しかし、願わずにはいられないだろう?

 やっと再会できた愛する家族。それがいつまでも側にいて欲しいと願うことに無理はない。権能が違うからといって、自分の最も信じるその神様に願わない訳はないのだ。吹羽には未だ、縋る相手が必要なのだから。

 

 吹羽はキュッと瞼を瞑って殊更強く想いを込めると、ゆっくり手を膝の上に戻した。

 隣にいた鶖飛も、丁度お祈りを済ませたところだった。

 

「……そうだ、お兄ちゃん」

「ん、どうした吹羽?」

「これ……お兄ちゃんに渡しておくね。いつまでもボクが持ってるわけにも……いかないから」

「! これは……親父の」

 

 そう言って鶖飛に差し出したのは、吹羽が常に身に付けている勾玉のペンダント――風成家現当主の証だった。

 元々は二人の父親が持っていたものだったが、何故かこれだけが残されて吹羽の手元に入ってきていたのだ。当主の証とはいえ、どこかに置いて保管するのは流石に危険に感じたので吹羽が肌身離さず持ち歩いていたのだが、兄が帰ってきたのならもう吹羽が持っている意味はない。資格的にも実力的にも、きっと鶖飛の方が適任だと吹羽は判断している。

 

 しかし、鶖飛は手を伸ばそうともせず、ゆるく首を横に振るだけだった。

 

「どうして?」

「俺よりも、きっと吹羽の方が持っているべきだからさ。お前が寝ている間工房を見てきたけど、俺のよりもずっと優れた作品ばかりだった。きっと当主としては吹羽の方が適任だよ」

「でも……どの道お父さんが帰ってくるまでの繋ぎだし……」

「……そうだったな。でもきっと親父もこう言うよ。やむを得ない状況じゃなければ、適格者が持っているべきだってね」

「……そっか」

 

 鶖飛の言葉に納得はできなかったものの、強要などもっとできない吹羽は渋々ペンダントを自分の首にかけ直す。

 鶖飛もそれを見て一つ笑顔で頷くと、くしゃくしゃと吹羽の頭を撫でた。

 さて、と前置いて立ち上がり、

 

「それじゃあ、取り敢えず吹羽の仕事を手伝おうか。どれだけ役立てるかは未知数だけど」

 

 しかし、それを聞いた吹羽はきょとんと一言。

 

「お兄ちゃん、今日はお店は定休日だよ?」

「え、そうなのか?」

「風成利器店は週に一度定休日があると聞いています。吹羽さんは鍛治仕事をかなりのハイペースでこなすので定期的な休養が必要なのだと阿求様が仰っていました」

「はい、まぁ。休みは取りなさいって阿求さんにも霊夢さんにも口酸っぱく言われてるので」

「ですが、最近は臨時休業の札がよく店先にかけられているとのことです。ここ三日間も休まざるを得ない状況でしたし」

「うぐっ……言い返せないです……。でもでも、最近休業が多いのはその……大体魔理沙さんとか早苗さんとかの所為ですから! 別に仕事が嫌になったとか、そういうんじゃないですからね!」

 

 勘違いしないでね! とばかりに言い募る吹羽に、夢架はしかしすーんと澄まし顔。彼女としては事実を言ったまでで、その理由などは心底どうでもいいのだろう。知り合いに変な勘違いをされたくない――というか兄に呆れられたくない吹羽が騒いでいるだけである。

 まぁ、シスコンたる鶖飛はそんなことで呆れたりしないのだが、やはり吹羽としては良いところだけを見ていてもらいたい訳だ。

 

「じゃあ……どうする? 念の為吹羽の休養をもう少し多めに摂ろうってことで、日がな一日ごろごろするか?」

「うーん、お兄ちゃんとならそれもすっごく魅力的だけど――」

「そんな自堕落極まりない時間の使い方は感心しませんね。私がいながらあなた達にそんな生活をさせたとあっては阿求様に叱られてしまいます。吹羽さんの休養は十分でしょうし、もうちょっと人間らしい生活を心掛けてください。ブタになりますよ? それともブタと呼んでほしいんですか?」

「い、いや、断じてそんなことはないけど……。ぶ、ブタって、なんでそんなに言葉が鋭いんだよ……」

「(…………ゆ、夢架さんにブタって言われる……蔑まれる……)」

 

 美しい澄まし顔で情け容赦ない言葉を突き立てる夢架の姿は、ふと吹羽に“どえす”なるモノを思い起こさせた。

 阿求から聞いた話では、“どえす”というのは好きな相手を鞭でイジメてその痛がる姿に興奮してしまう人のことを言うらしい。夢架のそれは鞭ではなかったが、イジメること自体は言葉でも十分にできるし、実際に近いことを今やっている。

 あの澄まし顔が、その言葉によって針の筵にされた自分たちを見て艶やかに笑むとするなら。

 夢架という掛け値のない美少女が、普段は見せない満面の笑みを浮かべて自分たちを言葉責めにし、そしてそれに屈してしまう自分、もしくは鶖飛の姿を見て恍惚の表情を零す――。

 

 ……………………。

 

 ぶるりと吹羽は身震いして、しかしそれが恐怖だけによる純粋な震えでなかった(・・・・)ことに、吹羽は愕然として青褪めた。

 

 ……夢架さんみたいな美少女にうっとりした顔でイジメられるなら……ちょっと、いいかもしれない……気が、しな、くも…なくも、なく、ない……?

 

 なんて思ってしまった自分はもしや、“どえす”の対となるらしい“どえむ”とやら予備軍なのだろうか。いやいやそんなイケナイ子になった覚えはない。きっと気のせいだろう。

 吹羽はちょっぴり赤く染まった頰を隠すように鶖飛たちに背を向けると、話題転換を目論んで「そうだ!」と声を上げた。

 再度鶖飛たちに向けた顔は、もういつもの明るい吹羽である。

 

「それならお兄ちゃん、ちょっとお出かけしようよ!」

「お出かけ? 必要なものは揃ってるでしょ。少なくとも今買い物は行かなくていいと思うけど」

「違うよ。買い物じゃなくて、お・出・か・けっ」

「……??」

 

 首を傾げて不理解を示す鶖飛に、吹羽は今日一番の可愛らしい笑顔を見せて、

 

「ボクの新しい友達、紹介するよっ!」

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――とこのように、先代博麗の巫女は恐ろしい妖怪を退ける代償に命を落としたと言われている。そしてその跡を継いだ現在の巫女が彼女の娘、博麗 霊夢なんだ。まぁ娘と言っても血は繋がってはいないがね」

 

 そう言葉を括って、手元の資料をそっと机に置く。そして掛けていた眼鏡を取ると、何を言ったわけでもないのにどことなく室内に弛緩した空気が流れ出した。

 もぞもぞと蠢きながら筋を伸ばそうとする者、あくびを嚙み殺そうとして浮かんだ涙を拭う者、大胆にも万歳で伸びをする者。行動は十人十色なものの、そこにあるのは同一の思考。シンクロニシティな思いの動きだ。

 

 “あ〜やっと終わった。退屈だったなー”。

 

「(やはり子供は素直でわかりやすい……)」

 

 どんな言葉も性格も、その性質は見方次第で百八十度変わるもの。素直で愚か、可愛げがあり醜くもあり、本能的でおつむが足りない。それが子供というモノであり、そのどんな要素も究極的にはやはり“良くも悪くも”だと断じている。

 素直な気持ちを愚かにも発露させた子供たちに向けて、上白沢 慧音はパンパンと柏手を向ける。

 

「なぁに終わった気になってるんだ、まだ授業中だぞ」

 

 弛緩した空気が一気にひりつく。

 だがそんなものにはとうの昔に慣れきった慧音は、欠けらだって怯まずに、

 

「はじめに配った紙があったろう? 今話した歴史について、一人一つ質問を書いて提出すること。それが終わったら休んでよし」

「えー! しつもんなんてべつにないよー」

「それを考えるのが勉強なんだ。よーく話したことを思い出して、疑問点を見つけ出しなさい」

「せんせー! そもそも習った歴史に疑問点があったらせんせーの説明不足ってことじゃないですかー?」

 

 くっ、微妙に鋭いことを。

 

「そ、それはアレだ。君たちが質問を見つけられるようにわざと残した考察の余地というやつだ。だから諦めずに探すこと。いいね?」

「「「はーい」」」

 

 暗記だろうが計算だろうが、自分で考えて答えを出すことが勉強である――それが慧音の持論だ。

 やらされるのではなく、やる。教育者は、それが中々難しいであろう幼い子供達を誘導するのが役目なのだ。……まぁさっきのは正直、咄嗟に誤魔化した部分もなくはないが。なまじ教え子が優秀だと教師は心休まらないものなのだ。

 言った通りに近くの子たちときゃっきゃと話し合いを始めた子供たちを満足気に眺めて、慧音は軽く一息吐いた。

 

「(ああ、今日も良く晴れているな)」

 

 ふと開け放たれた障子の外を見遣ると、木造りの家々の上に青空がふんわり乗っかっているのがよく見えた。

 秋真っ盛りだからか最近は雨もなく、実に良い天気が続いている。ただでさえ冷やい空気は朝方だと少し肌寒くすらあったが、不快な冷たさでは決してない。雨に濡れるよりはよっぽどマシだ。

 子供達への課題ももう少し時間がかかるだろう。慧音は己の発言を棚上げして一休みする気持ちになり、頬杖を突いてぼんやりと青空を眺めていた。

 

 青い空。チリチリになった綿飴のような雲。ひょこっと現れるのは白く揺れる中に混ざった羽の形。黒くサラサラな束。金色がかった茶色の川模様。

 

 ――……んん?

 

「(…………まさか)」

 

 浅く植えられた生け垣の上部にひょっこりと覗く不思議な三色。そのうち二つには見覚えがある。慧音は改めてじーっと、それはもうじーっとジト目のように眺めてやると、その内の白色がもこっと膨らみ、少しだけ焦りの伺える翡翠色の瞳が見えた。

 

 っていうか、やっぱり吹羽だった。

 

「(何をやってるんだ、あの子たちは……)」

 

 生け垣に隠れた吹羽は、隣の二色――片方はどうせ稗田邸の夢架だろう――とこそこそ相談を始めている。

 子供達が勉強している手前、あまり気を散らすようなことができない慧音は、手元の資料を一切れ千切り、さらさらと一言書いてこっそり吹羽たちの方へと向けた。

 

『ちゃんと入り口から入ってきなさい』

 

 吹羽は人並み外れて視力がいいと聞いた。慧音の書いた言葉を見て予想正しくぱぁっと笑顔を閃かせた吹羽は、残りの二色と共に寺子屋の入口方面へと進んで行った。

 生け垣の上部から目立つ頭だけが顔を出してひょこひょこと進んでいく光景。なんというか、シュールだった。

 

 というか、まさか吹羽が寺子屋を訪れるとは思っていなかった。生け垣から見ていたのは間違いなくこの教室だった訳だし、十中八九慧音に用があるのだろう。

 “何の用だろう”と不思議に思う反面、会いに来てくれた喜びに頰が緩まずにいられない慧音。ふふふ、と声が出てしまいそうになるのを割と真剣に抑え込む。

 

「せんせー、何にやけてるの?」

「ぅおわっ!? べべ別ににやけてなんかないぞ!? 私が何を見てにやけるっていうんだ!」

「そんなのしらないよぉ。それこっちが訊いてることだもん」

「どうせアレだよ、やっと見つかった恋人のことおもいだしてたんでしょー!」

「せんせーえっちだー!」

「えっちえっちー!」

「ちょ、その話は誤解だと何回言ったら分かる!? そもそも恋人のこと思い出すだけでなんでえっちなんだ! お前たち何か変なモノ読んだんじゃないだろうな!」

「変なものって?」

「どんなもののこと〜?」

「せんせーなにを想像したのー??」

「〜〜っ、もううるさぁぁあい! いいからさっさと質問を提出して休憩にしなさいっ! 今から一刻以内に提出できない者には頭突きするぞ!」

「わわ、はやくしないと!」

「頭突きはやだー!」

 

 さっきまで“質問なんてあるわけない”と嘆いていたとは思えない速度でさらさらと質問用紙を提出していく子供たち。驚くべきことに全員が予告通り一刻以内に提出をし終わり、蜘蛛の子を散らすように庭へと駆けて行った。

 慧音以外誰もいなくなった教室で、なんだやればできるじゃないかと質問用紙に目を落とすと、その半数以上が拙い文字で――、

 

 

 

『慧音先生は何を見てにやけていたんですか。やっぱり恋人ですか』

 

 

 

「………………はぁ」

 

 もうこの授業形式はやめよう。

 寺子屋の苦労人教師 上白沢 慧音。天井を仰ぎながら、彼女はそう固く心に誓った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「いやぁ、ごめんなさい。寺子屋って初めて来たので、慧音さんに会うにはどうすれば良いのかよく分からなくて」

「だからって、なんで生け垣に隠れてたんだ?」

「入り口から入っても授業中ならお邪魔できないじゃないですか。無関係の人が自由に入っていいとも思えませんし。だけど休み時間を見計らって直接会いに行けば他の人に見つかりませんから、何も問題ないかなって思いまして。それで見張るのに丁度良かったのが生け垣だったんです」

「な、なるほど……」

 

 授業をひと段落つけて吹羽たちを探しに行くと、彼女たちは既に応接間に通されて待機していた。

 お茶を啜って待っていたのは吹羽と、やはり稗田邸で阿求の世話を務める侍従 夢架。それと黒髪碧眼の見慣れない少年。

 少年のことを慧音は少しだけ訝しむも、吹羽による説明に期待して三人の対面に座り、取り敢えず初めに訊いておきたかった疑問をぶつける。

 なるほど。分からなくはないが、絶対に自分では辿り着けない結論だなと慧音は呆れ気味に結論付けた。

 

「というか、なんで夢架がいながら生け垣に隠れるなんて奇行を行うことになるんだ。君、一応阿求の御付きだろう? 止めなかったのか?」

「私が提言しなかったのは至極単純、それが阿求様から承った命に外れていたからです。訊かれもしなかったもので」

 

 鉄面皮でそう語る夢架を前に、慧音は口をへの字に曲げた。

 

「それは屁理屈だろう。人の奇行に言するのは思いやりの範囲内じゃないか。阿求だってまさか命意外なことを何もするなとは言っていないんだろう?」

「お世話をしろ、親睦を深めてこい。そう仰っていました。手助けをしろとは仰せつかっておりません。ですが……そうですね、人間として恥ずかしくない生活をさせろ、という意味では提言すべきだったかもしれません。今後気を付けます」

「そうしてやってくれ」

「……なんか、奇行とか人間として恥ずかしいとか、ちょくちょく傷付くんですけど……」

「…………まぁ、そういうこともあるさ」

「否定してくださいよぉっ」

 

 溜め息を吐き、組んでいた腕を膝の上に戻す。前座はこれくらいにしてそろそろ本題に入ろう、と慧音は淡い笑みを浮かべて吹羽を見遣った。

 

「それで、どんな用件なのかな。見たところこちらの少年に関係があるようだが」

「はいっ! お兄ちゃんにボクのお友達を紹介しようと思って! 慧音さんはその第一号です!」

「ほう、なるほど………………お兄ちゃん?」

 

 ふと聞こえてきた単語に、慧音は眉をハの字に曲げて首を傾げた。吹羽は満面の笑みでもう一度「はいっ!」と返事をすると、

 

「こちら、風成 鶖飛お兄ちゃんです! ついこの間、帰ってきたんですっ!」

「な、なにぃ!?」

 

 お兄ちゃん。つまり、家族。吹羽が帰ってくると信じてやまなかった、愛しい家族の一人。

 あまりに唐突過ぎていきなりは呑み込めないその事実を、しかし慧音は吹羽の心底嬉しそうな笑顔から理解だけは完結する。

 目を丸くしたまま件の少年へと目を向けると、彼は軽く会釈しながらおずおずと言った。

 

「えっと……風成 鶖飛です。吹羽がお世話になりました……」

「………………」

 

 吹羽のハイテンションな紹介に対して、しかし慧音は自分でも驚くほど静かに目を見開いていた。それはもう吹羽が“あれ、もしかしてそんなに驚くことでもない?”と心配するくらいに。そして鶖飛が“あれ、挨拶間違えたかな?”と心配するほどに。

 だがそうではない。事実慧音は非常に驚いていた。ただ――驚愕よりも安堵(・・)の方が大きかったというだけ。予想を超えた安堵が、慧音の驚愕を圧殺しきっていたのだ。

 

「……ふふ、そうか」

 

 たった一言。笑いを零しながら納得の意を示した慧音は、見るもの全てを安心させるような優しい微笑みをたたえていた。

 

 慧音はただ、嬉しかった。

 口伝ではあっても、慧音は吹羽に起きた悲劇と苦悩を知っている。分かり合うことはできないが、半妖として長い時を生き人生経験の豊富な彼女は、知識としてそれを理解していた。

 幼い吹羽が背負うことになってしまった大きな重荷。そしてそれを支えてくれた霊夢と阿求への感謝のために無理をして、押しつぶされそうになっていたあの時の涙。

 成熟した大人である慧音が、そんな不安定(・・・)だった子供への救いに喜ばないわけはないのだ。

 

「え、えっと! 慧音さんは見ての通り寺子屋の先生でね! 霊夢さんと大通りに来た時に出会ったんだよ!」

「へぇ……慧音先生はそのとき何をしに?」

「え、ああ……あのときは買い出しに行っていたんだ。ふと吹羽を見かけて、見ない子だなと思って声をかけた」

「ボク、あんまり大通りには行きませんからね……でも、慧音さんに声をかけてもらって内心嬉しかったですよ!」

 

 だって、ほら。

 吹羽は今、きっと心の底から笑っている。帰ってくると信じ続けた家族が、遂に帰ってきた。押しつぶされそうだった心の救済が、今成されたのだから。

 

「俺がいない間、本当にお世話になったようで……感謝します、慧音先生」

「そう思うなら、もう吹羽を寂しがらせないことだね、鶖飛君。家族を悲しませて憚らない者は、人の風上にも置けないということを知るといい。ま、君はそんなことなさそうだが」

「……はい」

「大丈夫ですよ慧音さん! お兄ちゃんがボクを置いていこうとしても、ボクが絶対に離れたりしませんから!」

「全開ですね吹羽さん……」

 

 三人との会話に、慧音はふわりと笑いながら目の端に浮かんだ一粒の涙をそっと拭う。鶖飛の帰還に心底から驚きつつも、彼と吹羽が紡ぐ言葉の数々が、安堵感が、慧音自身にすら底知れないもので、その感動が目の端から溢れ出すのだ。

 

「慧音さん? どうしたんですか?」

「仕事疲れでしょうか。寺子屋の教師というものは相当気を揉むものと記憶しています」

「ん、ああ、いや……眠くなったわけではなくてね……」

 

 だから、余計な言葉はいらない。

 ただ兄の帰還を知らされただけの今でさえ、他のどんな問いや祝福よりも、慧音が吹羽にあげられる言葉は一つしかない。

 優しげに細めた瞳で、ふわりと綿雲のように微笑んで、

 

「本当に……良かったな、吹羽」

「――……はいっ!」

 

 慧音の心からの言葉を敏感に感じ取った吹羽のその笑顔は、やはり命の輝きのように眩しくて。

 慧音は少し見つめるのが恥ずかしくなって視線を逸らした。すると、吹羽の代わりに視界に入ったのは、件の兄 鶖飛。

 

 ――あまり、似ている兄妹ではないな。

 彼と吹羽を見比べて、初めに思うのはそれだった。性別が違うということもあるだろうが、吹羽のまん丸で大きな瞳とは違って鶖飛のそれは少し切れ長に細められていたり、髪の色が対照的に違っていたり。どちらも目が醒めるほどの美男子美少女ではあるものの、言われなければ兄妹だなんて思い付きもしないだろう。

 だが、感情表現の豊かな子供を多く見て来た慧音には分かる。鶖飛は確かに吹羽とは似ても似つかないし、一見冷たそうな雰囲気のある少年ではあるが、吹羽を見つめるその奥にある感情は、ひたすら“優愛”だ。

 里で“兄妹”を探したとしてもきっと到底及びもつかないような優愛が鶖飛の瞳には宿っている。それは家族として間違いなく正しい感情で、慧音が兄妹という間柄の二人に是非持っていてほしいと思うモノ。

 兄妹という切っても切れない縁に結ばれたからこそ、同族嫌悪することが多々あるのは事実だが、是非助け合って生きてほしい。そしてお互いをしっかりと愛し合っていてほしい。

 例え年長者のエゴイズムと誹られようと、慧音はそれを願ってやまない。そして吹羽と鶖飛は、間違いなくそれを満たしていた。

 

「……鶖飛君」

「はい、なんですか?」

 

 慧音の口は自然と動いていた。願ってやまないからこそ、彼女は鶖飛に一言だけ念押しをしなくてはならない。思うよりも先に、体が動いていたのだ。

 

「もう吹羽を、悲しませてはいけないよ」

「……はい。……善処します」

 

 ま、一先ずはそれでもいいか。

 鶖飛の若干物足りない返事に軽く苦笑いしつつ、慧音は鶖飛という存在を今、確かに認めた。

 

 

 

 




 今話のことわざ
(いろ)思案(しあん)(そと)
 愛情や恋情は常識で説明できるものではなく、割り切れもしないということ。

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