風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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 今章最終話です。


第二十五話 一人舞の幕切

 

 

 

「え……っと、お迎え、ですか?」

「ああ。準備は出来ているか?」

「あ、その……えっと……?」

 

 と、実に優しい微笑みで尋ねてくる慧音に、しかし吹羽は返答できなかった。

 何せ吹羽には慧音に迎えられるような事をした覚えが全くないのである。物覚えが殊更悪い訳ではないが、何分ここ一週間ほどは非常に濃密な日々であったからして、心当たりが見つからない――というより、多分埋もれて(・・・・)いる。

 とは言え眼前の慧音はとても嬉しそうな表情をしているし、そんな彼女に面と向かって「何の話ですか?」と切り込むのは非常に勇気の要る事である。

 どうしようかと心の内で困っていると、流石に違和感を覚えたのか、慧音は困惑顔の吹羽の前で笑顔のまま小首を傾げた。二人見つめ合って首を傾げ合うという不思議な状況の完成である。

 一向に進展しない二人の空気に、霊夢は心底訝しげに片眉を釣り上げて、

 

「……なに慧音、まさか吹羽に確認も取らずに約束した気でいたの? そこまで思い込みが激しくなったってんなら永遠亭行った方がいいわよ」

「んなっ!? 人を老人扱いするな! 体はいたって健康だし、そもそも私が簡単には老いない事くらい知ってるだろうっ!?」

「知ってるけど、元々勢いのまま思い込む所あるからねぇ」

「うぐっ……ぬぅぅ……」

 

 霊夢の弁に反論の余地が無いのか、慧音は悔しそうに口を噤む。

 吹羽は与り知らぬことだが、慧音は半分が“白沢(はくたく)”と呼ばれる妖怪である。故に老いにはそれなりに強く、いつぞやの“長い夜の異変”にて彼女の妖怪の姿と対峙した事のある霊夢は、慧音のその秘密を知っていた。

 と言ってもそれは吹羽には関係ないことであり、やはり伝えても無意味である為、霊夢はそのことを吹羽に言っていない。

 当然二人の会話に付いてはいけず、一人放ったらかされた吹羽は更に眉をハの字に傾けて、困惑の瞳で二人を見上げていた。

 

「な、なぁ吹羽、本当に覚えていないか? 一週間ほど前ここに来た時、一緒にご飯でも食べに行こうと約束したはずなんだが……」

「一緒に、ご飯……」

 

 本当に覚えていなさそうな様子に割と本気で泣き出しそうになる慧音。目の前でそんな悲痛な表情をされた吹羽は、たまらず罪悪感を感じて必死に記憶の引き出しを引っ掻き回す。

 すると、最近の濃ゆい出来事の中に一つだけ、湖に浮かぶ砂粒のような記憶を見つけた。

 それは確かに、約一週間ほど前のこと――。

 

「――あっ、思い出しましたっ! 初めて椛さんがウチに来た時ですね!」

「そう、それだ! やはり覚えていてくれたか良い子だなあ吹羽〜っ!」

「うわっぷ!? く、苦しいですぅ……っ!」

 

 泣きそうになるほどがっかりした反動か、慧音は頭上に白熱灯の幻影を浮かべた吹羽に咄嗟に抱き付いて凄まじい勢いでいい子いい子し始めた。

 当然吹羽は慧音の腕の中。顔に至っては彼女のたわわに実った胸に埋もれている始末である。

 約束を覚えていた程度でこんなに喜ぶとは、彼女も中々に感情豊かな女性だ。……まぁ、決して早苗に並びはしないと思うが。

 

 一頻り堪能したのか、慧音は一息吐いて吹羽から離れた。

 

「ふぅ〜。じゃあ、行こうか吹羽。何が食べたい? 無理がなければなんでも良いぞっ!」

「えっと、んー……」

「ああ待って。吹羽、ちょっとこっち来なさい」

「霊夢さん? はい――っひぇ!?」

 

 なんだろうと思いつつ、吹羽は目線を合わせるようにしゃがんだ霊夢に近付くと次の瞬間――何故か、霊夢にまで抱き締められていた。

 

「あ、ああの霊夢さんっ!?」

「もう、いいからジッとしてなさい」

「はひっ」

 

 まさか霊夢にまで抱き締められると思わなかった吹羽は、あわあわと萃香に膝枕された時のような言葉にならない“文字”を羅列するが――それすら気にしないかの如く、霊夢はするすると吹羽の背中や腕などを撫でるように触っていた。

 うなじ、首筋、背中、肩から指先まで――霊夢の手は柔らかく滑らかで、確かにくすぐったくはあったものの、決して嫌な気持ちにはならない。

 そしてそれがどうにもただ抱き締められただけのようには思えず、昇った血がさあと下るように、吹羽は少しずつだが焦燥を落ち着けていった。

 少しして、小声で霊夢。

 

「ん……傷は塞がってる。痕もちゃんと消えてるみたいね。お腹の傷も癒えてるし、血流も問題ない。……心音がちょっと大きくて早いけど、傷が痛い訳じゃないのよね?」

「あ……はい。痛くはないです。少し怠いだけで……」

「……そう。なら良いわ」

 

 耳元で聞こえるほっとしたような声音に、吹羽は“ああ、触診するために来てくれたんだ”、と気が付いた。思えばここへ訪れた時の第一声も具合を尋ねるものだったし、きっと霊夢も心配して来てくれたのだろう。

 吹羽はその事実に少し心が温かくなる気がして、思わず頰が緩んだ。

 

 触診を終えた霊夢は最後とばかりに吹羽の頭を一撫ですると、更に耳元に口を寄せて囁く。

 

「昨日の事、慧音には言ってないからね。人に心配かけるの、苦手でしょ」

「あ……分かりました。ありがとうございます……」

「ん。じゃあ行ってらっしゃい。でも無理な運動はしないようにね」

「はいっ」

 

 そう言って体を離した霊夢は見惚れるほどに綺麗な微笑みを浮かべていて、吹羽はぽーっとそれを見つめながら、改めて優しい人だなあと感慨に耽った。

 こんな人に守られてなんて幸せなんだろう、と思うとまた頰が緩みそうになるが、当の霊夢が目の前にいる手前、そんな恥ずかしいことはできない小心者な吹羽は咄嗟に視線を逸らした。

 ――すると、隣で二人を見ていた慧音の、如何にも複雑そうな視線にぶち当たり、

 

「……なんだろう、すごくイケナイ(・・・・)事をしているように見えるんだが。身体中触って、何やら耳元で囁いて……教師としてこれは注意すべきなんだろうか……」

「? 何の話?」

「?? ボク、何か悪いことしたでしょうか……?」

「いや……なんでもないよ……」

 

 そうして霊夢から許可も得た吹羽は、慧音と連れ立って家を出ることにした。

 霊夢も来れば良いのにと思ったものの、どうやら本当に吹羽の様子を見に来ただけのようで、その場で道を違えることになった。

 

「じゃあ、行ってきます」

「ええ、行ってらっしゃい」

 

 薄く微笑み小さく手を振る霊夢に、吹羽は笑顔で手を振り返す。

 その表情を見て、何故かふと思い浮かんだ萃香のあの言葉は――何処か、自分を責め立てられるような心地だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 日は直上にあった。里を貫く大通りに並ぶ店々は活気に溢れ、人間はもちろん温厚な妖怪も道を闊歩している。秋も本番、ひんやりとしてきた空気を吹き飛ばそうとするかのように里は賑わい、畑で採れた旬の食材を加工する香ばしい匂いがあちこちから溢れて満ちていた。それはまさに、里全体で“食欲の秋”を謳歌するかのようである。丁度良い気温に快晴なのも相まって、どこもかしこも笑顔で一杯だった。

 

 そんな中を慧音と吹羽は二人並んで進む。

 この時間帯は昼食を摂る者が多い。二人も例に漏れず食事処へと向かう道中だった。

 初めは吹羽のリクエストを受けて店を選ぼうと考えていた慧音であったが、当の吹羽はどこでもいいと欲のない申し出をしてきたので、仕方なく慧音行きつけの食事処へと案内することになっていた。

 まぁ、慧音としても場所はどこでも良かった。目的は“吹羽を知る事”なのだから。その第一歩が食事であるというだけなのだ。

 

『お、先生。今日も綺麗だねぇ。今日は可愛い女の子も連れかい』

『あ、ちょっと寄ってきな先生! 新鮮なのが揃ってるよ!』

『あー先生! こんにちはーっ!』

『な、なぁ……あの女の子どこの子か知ってるか? めちゃくちゃ可愛いぞ!?』

『知らないよっ。全然見慣れないし……もしかしたら今度寺子屋に来るのかもっ!?』

『………………かわいい』

『ちょっとあんた達何見惚れてんのーっ!』

『『『いだだだだッ!』』』

 

 その道中、道行くあらゆる人々は慧音を見つけては元気に声をかけてきた。

 慧音はそれに一々顔を向け、笑顔を向け、言葉を交わして過ぎていく。声をかけた人々も、その表情は満足げである。

 偶にすれ違う子供達などは、白髪の見慣れぬ愛らしい女の子――吹羽にぽーっと見惚れていたりするのだが、当然吹羽は気が付かない。そしてその隣にいた女の子にギューッと引きちぎる勢いで頰を抓られていた事も、当然吹羽は知る由もないのだった。

 

 慧音と人々の和気藹々とした関係。

 その光景を間近で見ていた吹羽は、話していた人が過ぎていくのを見計らい、呟くように問い掛けた。

 

「人気者……なんですね」

「はは、顔見知りが多いだけだよ。まぁそれを証拠に人気者だというなら、嬉しいものは嬉しいけれどね」

 

 今から行く食事処も、実は似たような経緯で誘われて常連になったのだと慧音に聞かされると、吹羽はどこもかしこも慧音の知り合いであるような気がして、きょろきょろと忙しなく周囲を見渡していた。

 きっと里の人々にすれば、慧音は頼れる人物なのだろう。でなければ歩くだけで声をかけられなんてしないし、明らかに慧音よりも屈強な男の人に笑いかけられる事もない筈だ。

 そう考えると今のこの笑顔で一杯の里の様子が、そんな訳はないのに、慧音の人望が形作ったもののような気がしてくる。意外と凄い人と知り合ったのかもしれないと、吹羽はひっそりと慧音へと関心の吐息を漏らした。

 

「さて、着いたよ。ここだ」

「……賑わってますね」

 

 そうして辿り着いたお店は、他の店や家などと大して違いのない佇まいにも関わらず、店内に並べられた席には所狭しと客が座って食事をしていた。

 雑多で、しかし少しだって嫌味な物を含まない食欲を唆る香りが満ち満ちていて、中で忙しなく注文取りや運搬に追われる店員さん達の必死で元気な姿は、自然と客足をこの店へと向けさせる。

 いいお店――その言葉はこの為にあるのだと思えるほど理想的に、“いいお店”である。

 

「お、慧音先生。久しぶりだねぇ!」

「ああ、久しぶり店長。賑わっているようで何よりだよ」

「お陰様でね。最近来ないから寂しかったよ。先生みたいな別嬪さんが来ると釣られてお客は増えるからねぇ――っと、今日は随分と可愛らしい子も連れてるみたいで。こりゃ今から更に忙しくなるかな?」

「はは、世辞はいいよ店長。席は空いてるかい?」

「世辞じゃあねェんだがなぁ……まぁいいや、丁度二つ空いたところさ。ゆっくりしていってくれ」

「ああ、そうさせて貰うよ」

 

 小走りで駆けてきた店員に促され、二人は空いた席に向き合うように座った。

 品は壁に掛けられた木版に刻まれており、どの品目も名前からして美味しそうなものばかりだ。

 吹羽は無難に並盛りの親子丼を、慧音は常連だけあって“いつものものを”と注文する。

 程無くして運ばれてきたのは、香ばしく焼き上げた鶏肉の刻みと黄金に輝く卵が絡み合う、見るだけ嗅ぐだけでも極上の親子丼。そして慧音の前には“赤黄緑”とバランスのとれた定食が。

 二本の親指で横向きに箸を掴んで手を合わせ、二人は煽られる食欲のままに箸を進め始めた。

 

「どうだ、ここの飯は美味いだろう?」

「ふあ……ふぁい、おいひいれ――んうっ!? は、はふっ!」

「ふふふっ、掻き込みたい気持ちはよぉく分かるが、火傷しないようにな……」

「ふぁ〜い」

 

 過去同じ経験をして苦しんだのか、少し遠い目をして言う慧音に、吹羽はまだ熱々の親子丼を舌の上で転がしながら返事をした。

 

 しばらく雑談しながら、知らなかったのが損と思えるほどの料理に舌鼓を打っていると、ふと思い出したように慧音が言った。

 

「そういえば、君は阿求とも知り合いだそうだね」

「あ……はい。阿求さんはお友達ですよ」

「……その割には敬語なんだな。霊夢にも“さん”付けだろう?」

「それは……そうですね。気が付いた時にはこの話し方が癖になってて」

 

 あはは……と、前々から少し気にしていたのか、吹羽は困ったように苦く笑った。

 実際、この口調も記憶が壊れてしまっても体が覚えていてくれた事の一つであり、吹羽も意識しないままこの口調で話してきた。

 まぁ風成利器店は作刀と販売を主とする接客業の一種でもある、普段から敬語で何も問題はなかったため、今更直そうとも思っていなかった。

 友人に対してもコレというのは、件の阿求にも以前指摘はされたのだが。

 

「全く、博麗の巫女に魔法使い、おまけに稗田家とも縁があるとは……君はなにか? 人里を裏で牛耳ろうとでもしてるのかな?」

「ふぇ!? ななな、なんでそうなるんですっ! ボクがそんな大それた事できるわけないじゃないですか!」

「冗談だよ。そもそも人間の里なんて牛耳ったって仕方がない。この世界では人間は等しく弱い立場だ、その中で誰が上だの誰が下だの、差別するのは無駄だって誰もが分かってる」

「……そ、そこはボクの人間性的な理由で冗談だって言って欲しかったです……」

 

 若干望んだモノとズレた言葉を返す慧音に、吹羽はしょぼんと肩を落とす。

 いや、慧音の言うことは尤もなのだが、どうせなら“君がそんなことをするとは思っていない”みたいな感じで笑い飛ばして欲しかったところである。

 こんな些細なことで浮かない顔をする吹羽が何処か可笑しくて可愛らしくて、慧音は堪らずころころと笑った。吹羽はむぅと頬を膨らませて、出来得る限りの抗議を視線で以って試みるも、その効果の程はお察しである。

 

「まぁでも、実際驚くべきことだよ。霊夢はあんな場所に住んでるから里の人間とは交流が薄いし、阿求も言わばお偉いさんだからそう会えるものでもない。きっと君自身にも人を惹きつける何かがあるんだろうな」

「っ、……そんな事ありませんよ。ボクはただ、鍛冶屋に生まれただけの女の子です」

「そうか? 少なくとも、君の元気ある明るい笑顔は十二分に魅力的だと思うが……。阿求もそのことをとても……うん、とても嬉しそうに話していたしな」

「嬉しそうに……ですか……」

 

 身体があまり強くないにも関わらず、素っ頓狂なテンションで吹羽を語る阿求を思い出し、慧音は少し視線を逸らして困惑気味に言う。今思えばあれも吹羽を友人として大切に思っている証なのかもしれないと、慧音は鼻息荒く――しかし満面の笑みを浮かべた阿求を思い出す。

 しかし――対面の吹羽はと言えば、思い浮かぶ阿求とは対照的とも思えるほどに、何処か憔悴したような弱々しい表情をしていた。幼い故の儚さとも違い――そう、何かを抱えているかのような。

 

「(……?)」

 

 その理由を慧音は察しかねていたが、すぐに切り替えてまた箸を進め始めた。それに釣られて、吹羽も思い出したように箸を持ち直す。

 今そのことを追求するより、その曇った表情を今日一日でどうにか晴れやかにしてやれればいいな、と思いながら、慧音は少しだけ冷めて緩くなってしまった白米を一口、口へと運んだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――それから、二人は実にホクホクとした表情の店長に代金を払い、このまま帰るのも味気ないのでと里の中を改めて見て回ることにした。

 吹羽も普段からあまり外には出ない方なので、頼りになる慧音と連れ立って行けるのは僥倖という他なかった。

 

 お昼時を過ぎてから一時間ほどしか経っていないからか、大通りを少し横に逸れただけでもまだ路は賑やかだった。

 里は全体的に見ても裕福ではない。外の世界のように溢れかえるような通貨がある訳ではなく、場合によっては物々交換で商売をする。それ故に服などの装飾品を売っているような店――見て回って楽しい店は、食事処よりも数が少ない。服を作る苦労に利益が釣り合わないのだ。

 それでも里の中をほぼ知り尽くしている慧音に連れられ訪れた装飾店で、二人は少しだけ買い物をした。

 慧音は最近飾り気のあるものを買っていない、と青い紐で括られた小さな腕輪のようなモノを買い、吹羽はこれから寒くなるという事でふわふわと暖かそうな上着を一着。

 是非着てみてくれと慧音にせがまれたが、なんだか面倒なことになりそうな気が――慧音の表情から――した吹羽はやんわりと、しかし断固として断ったのだった。

 

 道中、二人の目立つ容姿が災いして頻りに投げかけられるちらちらとした視線に、吹羽は少し落ち着かなそうにそわそわとしていたが、見兼ねた慧音が差し出した手をきゅっと握ってからは少し安心したようにぽてぽてと歩いていた。その様子に、慧音が堪らずぽわぽわとした表情を零していたのは至上の蛇足。

 

 そうして時は過ぎ、傾いた日が僅かに赤みを帯びて着た頃。少し歩き疲れた二人は、空き地に設置してある木製の長椅子に並んで座り、休憩していた。

 一つ息を吐いて、慧音は薄い微笑みを浮かべて吹羽に問い掛けた。

 

「今日はどうだったかな、吹羽」

「……とても楽しかったです。初めて見るものも多くて……人間の里がこんなに広いなんて、考えたこともありませんでした」

 

 今日一日のことを思い浮かべてか、吹羽は少し頬を緩めてながらにそう言った。

 

「君はあまり外に出ないそうだからね」

「はい。だからすごく新鮮で……でも、だから、なんとなく――」

「……ん?」

「…………いえ、なんでもないです。とても楽しい一日でした」

 

 ――でも、だから、なんとなく……怖い(・・)、と。

 そう言いかけて、吹羽はその言葉があまりに無粋なことに気が付いて、咄嗟に言葉を濁した。

 吹羽があまり外に出ないのには、勿論そういう性根だからというのもあるが、それなりの理由がある。……聡い者なら察するであろう、それは当然――“知ること”の恐怖。きっかけを作ることの恐怖だ。

 かつて阿求が紐解いた吹羽の心理に潜む怖れ、友人関係に一歩踏み出し淀むのと、本質は同じである。一度記憶を壊し、それが如何に恐ろしく精神を傷付けるのかを知っている吹羽は、無意識の内に、新しい誰かと知り合うこと、新しい何かを知ることを恐怖している。もう一度失ってしまったら、どれだけ辛いのかを身体が覚えているから。

 だから、与えられない限りは求めない。与えられるものを拒絶して、一人になるのもまた――わがままにも、怖いのだ。

 

 ただ、それを今慧音に言ったところで無意味である。せっかく楽しい一日を過ごしたのに、その最後をこんな言葉で台無しにするのならば、むしろ言うべきではない。

 それに吹羽自身、楽しかったのは本当のことだった。

 ただ――ある時(・・・)から、ある事(・・・)がずっと頭の中に反響しているだけで。

 

「……思っていたんだが」

「はい?」

「少し、元気が無いな。何処からだったか……昼食の時、阿求の話を出してから、かな」

「っ!」

 

 そして、そうして紡がれた言葉は奇妙にも――狙い澄ましたかの如く、核心を突いていた。

 

 吹羽は僅かに肩を揺らして、コクリと唾を飲み込んだ。膝の上で固めた拳に僅かな汗が滲む。そうして初めて吹羽は、自分がこの事を……この心境を慧音に悟られたくなかったのだと気が付いた。

 唇をきゅっと引き締めて、返答を拒む。

 

「……何か、悩みがあるなら聞くよ。これでも教師でね、子供の悩みの聞き方はそれなりに心得ている」

「………………」

 

 殊今に至っては、これまでのように“子供扱いするな”と怒鳴ることもできない。何か少しでも口にしたら、そのまま全てを曝け出してしまいそうで、どうしても踏ん切りが付かなかった。

 吹羽は会話を頑なに拒み、慧音はそれでも言葉を待っているのか、それきり口は開かない。そうして生まれた静寂は、風に揺られる木々の音と何処からか聞こえる人々の僅かな喧騒に彩られて、二人の間に揺蕩っていた。

 

 暫くして、二人の前を親子が通りかかった。子は母の周りを笑顔で走り回り、母はそんな子の言葉に相槌を打ちながら慈愛に満ちた表情を向けている。そろそろ夕焼けと言って過言でない日の光に引き伸ばされた二つの影は、重なったり離れたりして賑やかに過ぎて行った。

 

 それを横目で見送って、一つ溜め息を吐いた慧音は、やれやれといった風に言葉を紡いだ。

 

「……すまない、さっきのは忘れてくれ。少し酷なことを言った」

「……え?」

「実はな……君が今何を抱えているのか、検討はついてるんだ」

 

 慧音の告白に、吹羽は言葉を失った。

 

「出来れば君の口から聞かせてもらいたいと思ってね……だが、言いたくないなら仕方ないよ」

「ど、どういう――」

「君の事を、阿求から聞いた」

 

 その言葉は、吹羽の追求を引き千切るようにして放たれた。

 “君の事”――それが何を表すのかは、もはや考えるまでもない事だった。

 今まで吹羽が慧音に隠してきた事。それはもちろん悪意あっての事ではないが、同時に善意でも全くなかった。

 全ては吹羽が望んだ事。知られて、そして――同情など、されたくなかったから。

 

「気になっていたんだ。君に今日の約束を取り付けた日、住居の方が妙に静まり返っていて。一族で鍛冶屋を営んでいるのなら、君の両親も働いているはずだろう? ――いや、工房で作業しているのが、君だけだったということがそもそもおかしい。……そう思って、何かあると、考えていたんだ」

 

 事実のみを淡々と語る慧音は、不意に表情を歪めて、

 

「随分と凄絶な経験をしたらしい。初めて会った日、浅慮な希望をした事……出来る事なら、許してほしい」

「っ、……それ、は……その……」

 

 何を言えばいいのかが予想以上に思い付かず、吹羽はそこで言葉を切ってしまった。

 しかし慧音は、それを何ら気にした風も無く、

 

「初めは魔理沙に聞きに行って、でも阿求の方が詳しいからって、聞きに行ったんだよ。夜中だったが、散々渋った末に話してくれた。……ああ、それはもう……如何に君が辛い経験をしたのかという事を、彼女が知る言葉の全てを用いて、伝えようとしてくれた」

 

 当然、語った阿求も聞いた慧音も、それでは到底語り尽くせてはいないのだと理解はしている。しかし、記憶として、吹羽の経験を客観的には、感じる事ができていた。

 父、母、兄、そして彼らと過ごした多くの記憶。そんな欠け替えのないものを一度に失い、取り戻す事なく今を生きる。それがどれだけ理不尽で恐ろしい事なのか、想像すらできないほどに慧音は畏怖していた。

 そしてそれを知ってしまった後に思い描く吹羽の笑顔は――どうしようもなく、空虚なものに思えてしまった。

 

 だから慧音は、覚悟を持って心に踏み込む。辿り着いた推測が正しいのならば、吹羽はきっとこれから無理をする、と。ならばそれは気が付かせてあげなければ、この幼い少女はきっと精神をすり減らし、壊れていくに違いない。

 だから――、

 

「吹羽、君は――」

 

 小さく深呼吸をして、慧音は語り聞かせるように……しかし敢えて吹羽を視界に入れようとはせず、

 

 

 

「自分を、取り繕ってはいないかい?」

 

 

 

 ――吹羽の心を、その表面を覆う薄い殻を、砕き引き剥がすかのように、慧音は遠慮なく鋭い言葉を突き入れた。

 

「君に起きた悲劇は……そう、簡単に立ち直れるものじゃない。きっと私でも……大人でも極めて困難なことだと思う」

「やめて、ください……」

「況して君は幼い。熟した心なんてあるはずがないのに、割り切ったように何でもないことのように、いつも笑顔で明るいんだ。……それは、立ち直った自分を演じてるだけじゃないのか?」

「やめてくださいっ!!」

 

 大人しい吹羽とは思えないほどに強い語調は、きっと拒絶反応にも近かったのだろう。

 簡単に心同士の間にある境界を踏み越えて、吹羽の心を覗き込んだ慧音に対する自己防衛反応。しかしそれは裏を返せば、慧音の言葉が核心を突いていることの、何よりの証左でもあった。

 

 だから吹羽は、湧き水のように溢れてくる黒い泥のような言葉を、押し留めることもできない。

 

「慧音さんに何が分かるっていうんですか……! 熟した心とか、自分を演じるとか……何でもかんでも知った風な口利かないでください……ッ!!」

「何も分からないさ。私は嘘を吐く事はあっても自分を偽った事はないから。でも君の笑顔は明る過ぎる。いっそ夢幻の光なんじゃないかと思うほどにね」

「ボクは偽ってなんかいませんッ! 霊夢さんにも阿求さんにも、本当の本当に感謝してるんですっ! 何も分からない慧音さんにとやかく言われる筋合いなんてありませんッ! もう、決めたことなんですっ。霊夢さんと、阿求さんに……だから、だから……」

 

 怒鳴り散らすようには放たれた言葉は、弱々しく尻窄んでいく。漸く吹羽へと向けられた慧音の視界には――目尻にいっぱいの涙を溜めて、気丈に慧音を見上げる吹羽の姿があった。

 

 慧音は無言でそんな吹羽の後ろに手を回すと、彼女の頭を抱きかかえるように引き寄せる。手は力なく放り出され、少しの遠慮もなく、吹羽は身体を慧音に預けた。

 それは何処か、何かに疲れ果てたような印象を見る者に与えた。

 

「だか、ら……ボクは、幸せでないと……いけないんです……。じゃないと、二人に……顔向けができません……」

「その為に、君は幸せな自分を演じるのかい? 本当は心から笑えなんてしないのに」

「だって、他に思い付かないんです……。ボクは二人から貰うばっかりで、何にも返せない。だからせめて、二人がしてくれたことに、ボクは報いないといけないって……決めたんです……」

「……そうか。優しい子だな、君は……」

 

 感慨深い様子で呟いた慧音は、胸元に寄せた吹羽の頭を優しい手つきで撫でた。

 誰かの為に自分を偽る――そんなことが出来る優しい子は、きっと探したって見つからない。幸せなんて分からないのに、他人のために幸せを演じるそれはきっと、精神的にとても負担のかかることのはずだ。それをこの子は、こんなにも幼いにも関わらず、ずっと一人でこなしてきた。それを想うと、慧音は不覚にも泣いてしまいそうになる。

 

 暫くその手つきに感じ入っていたのか、次第に泣き止んだ吹羽は、徐に言葉を紡いだ。

 

「……痛いん、です」

「ん?」

「最近、霊夢さんや阿求さんの笑った顔を思い出すと、胸の奥がちくちくして……すごく、痛い。こんなこと、ほんの少し前まで、なかったのに……」

「何か、きっかけがあったんじゃないのか?」

「多分……そうです。つい、この間……自分を偽って、苦しんでいる人を見ました」

「……そうか」

 

 当然、これは慧音が知るところではない。吹羽が口にしたのは間違いなく文のことで、慧音はその事の顛末を少しだって聞き及んではいないのだ。

 多分、きっかけというならば、それだと。

 自分を偽って吹羽に近付き、完璧に空虚な笑顔を演じ切った文の姿が、どうにも自分と重なってしまったのかも知れない。

 吹羽は慧音に抱かれながら、遠い目をして、ぽつぽつと語る。

 

「……ある人に、言われました。“いつまで余裕ブッこいている気だ”、って」

「それは……辛辣だね」

「ずっと……慧音さんに阿求さんの話を聞いてから、ずっと考えてたんです。どういう意味だろう、って……何が言いたいんだろう、って。ボクは……自分を演じてた、の……でしょうか……」

「……その気持ちに嘘があるとは思っていないよ。報いないといけない、という覚悟も立派だと思う。でもね、私は……頼られないのも辛いことだと思うんだ」

「頼られない、こと……」

 

 ゆっくり咀嚼するように鸚鵡返しした吹羽は、よく分からないのか小さく唸っていた。

 慧音はそれに少し微笑んで、言葉を続ける。

 

「信じて頼ること。文字通り“信頼”というものの話さ。頼られないということは、言外に信頼がないと、言っているようなものなんだよ」

「そんな……ボク、そんなつもりじゃ――」

「分かっているよ。これは極論だ。それに霊夢や阿求がこれに気が付いているかを私は知らない。あくまで、受け取る側はそういう気持ちになる事もあるということさ」

「………………」

 

 決して、吹羽が霊夢と阿求を信頼していないとは思っていない。そして彼女の演技が、二人のことを考えた末の行動だという事も重々承知している。

 ただ、そうして本心を隠してしまう事は、場合によっては二人を傷付ける事実になり得る。そしてその過程で、吹羽の精神もきっと磨耗してしまう。誰も得をしないだろうと慧音は考えていた。

 

「じゃあ……じゃあ、ボクはどうすればいいんですか? ボクは、二人に恩返しできる何かなんて持ってません……! 何もないから、報いなきゃって、思ってたのに……」

「一つ訊くが、君にはもう報いる義務(・・・・・)があるのかい?」

「…………え?」

 

 慧音の不思議な言葉に、吹羽は徐に顔を上げて慧音を見上げた。

 

「言い方を変えよう。君は二人に報いることができるほど、既に救われているのかい? 立ち直れているのかい?」

「……あっ」

「……分かるね、吹羽。そうして悩んで、本当でもない幸せを演じている時点で、君はまだ立ち直れてなんていないはずだ。まだ家族のことを割り切れてなんていなくて、今でも苦しんでるはずさ。そんな君が、二人に報いるなんて……まだ考えちゃいけない」

 

 救われてすらいない者に、救ってくれた者に報いる義務は発生しない。当然のことだ、その義務は達成してから発生するもので、まだ経過途中にある者は、大人しく自分が救われることだけを考えているべきだから。人に報いようなんて考えは、救われてから持てばいい物なのだ。

 

 勘違いしていた。吹羽は自分が一人で生活できるようになって、誰の助けも必要としなくなって、すっかり自分は立ち直れているものだと思い込んでいた。

 だから、本当は心は救われてすらいないのに、報いなきゃなんて思い上がった考えが浮かんだのだ。救われた演技をしなきゃいけなくなった時点で、既にその考えは破綻していたのにも関わらず。

 

「“いつまで余裕ブッこいているんだ”、か。粗野な言葉だが、実にいい台詞だな。本当はまだ辛いのに、もう大丈夫だと二人を拒絶する……確かに、余裕ブッこき過ぎだよ、吹羽」

「……なら、どうすればいいんですか?」

「ははっ、簡単な話さ」

 

 未だ答えに辿り着かない吹羽が少し可笑しくて、慧音はそう前置いてころころと笑った。

 こんなに簡単な話なのに、先のことを見過ぎて、この子は足元が見えていないのだと、子供特有の愚かさを微笑ましく思いながら。

 

「また、二人を頼ればいいんだよ。本当に立ち直れるその日まで、ね」

 

 二人を思って抱え込むのではなく、せっかく助けてくれるのだから、思っていること、悩んでいること全て言葉にして、遠慮なく二人の手を取ればいい。

 そうして救われて、初めて吹羽は報いる義務を得るのだ。――否、吹羽が己の無事を二人に見せつけて報いるとするならば、救われた時点でその義務は達成されるのだろう。その後は、感謝の念をいつまでも忘れずに、得た幸せを噛み締めればいいのである。

 三人で手を取って、そして笑い合って。

 きっと霊夢も阿求も、本心を隠されるよりは、頼って欲しいと思っているはずだから。

 

「助けて……くれるでしょうか……?」

「君が信じた二人は、助けてくれない人たちなのか?」

「…………いいえ。お二人はいつも……笑って手を差し伸べてくれます」

 

 それが答えだ、と言わんばかりに慧音は吹羽の頭をぽんぽんと撫でた。

 つづけていると、それがあんまりにも心地良かったのか、吹羽は慧音の腕の中でうとうとと眠りに誘われ始める。

 

 無理もない、と慧音は思った。

 体は疲れていなくても、きっと今日の話は精神的に負荷をかけただろう。そういう意味では荒療治と言えなくもない。

 心を乱したならば、眠って休んだ方がいい。そして目が覚めて一息吐いたならば、心はきっと晴れやかになっているはずだから。

 慧音は、徐々に寝息を立て始めた吹羽を起こそうともしなかった。

 

「なぁ、吹羽……君はきっと色々なものに恵まれている。だから、安心しなさい」

 

 聞こえる事はないと分かっていながら、しかししっかりと語り聞かせるつもりで呟く。

 不意に腕の中の吹羽から声が漏れた。

 「んみゅ……」と寝言かどうかも分からないそれは、何処か慧音の呟きに返事したようで、彼女は一人くすくすと笑い、空を仰ぐ。

 

 見上げた空の茜色は輝く雲に彩られ、昼間よりも余程美しい空だと思えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 夜の帳もすっかり落ち、虫の声が漣の如く寒々しく響く中、それはゆっくりと口を開けた。

 音もなく、また不思議なことに周囲の空気すら揺らすことなく、まるで湿った闇が気配なくして忍び寄るかのように開いたそこからは、不釣り合いにも二人の何か(・・)が姿を現した。

 暗がりで細かな姿は見えない。しかし大人というには少しばかり、背格好の足りない者達だったのは確かである。

 

「……ああ、神社の裏山か」

 

 先に出てきた一人が、さして興味も無さげに呟く。

 その声に反応するように、後から現れた一人が横に並んだ。

 

「懐かしいかしら。めそめそ泣きついてきても私が広ーい心で受け止めてあげなくもないわよ?」

「馬鹿言え。誰がお前みたいなのに泣きつくか」

「あら失礼。そういえば泣き付きたい相手は決まってるんだったわね?」

「……ふん」

 

 軽口の応酬の中にあって、しかしそこに和やかな雰囲気は決してなかった。

 ただ、煮詰めてドロドロになるまで濃縮したかのような強い意志を秘めた瞳と、それが放つ圧力を何でもないことのように受け流すおちゃらけたその態度。

 二人が放つのは、視界に入れただけで吐き気を催すような殺伐とした空気だった。

 

 後から来た一人は、もう一人の強い瞳を見て一つ「ふむ」と頷くと、何の前触れもなく片手を凄まじい速度で薙いだ。

 残像すら残らない速度。もっと大きな物体だったならば確実にソニックブームで周囲がズタズタに破砕されるであろう超音速の一薙。それはいつのまにか一振りの剣を持って、隣に佇む一人へと瞬時に襲い掛かった。

 

 しかし次の瞬間、弾け飛んだのは千切れた腕でも首でも、況して切断された上半身でもなく――薙がれた、剣の方。

 そして腕を振るった一人の方は、いつのまにか肩から腰までをバッサリと袈裟に斬られていた。

 しかし、そこには一滴の血も付いてはいない。どころか切り傷すらも見つからず、斬り裂かれたのは着ていた赤いドレスと下着のみ。傷やシミひとつない真っ白な肌が、惜しげも無く晒されていた。

 

「あらぁ? こんな強引に脱がせるなんて、別れに際して欲情しちゃった?」

 

 何の恥じらいもなく今にも零れ落ちそうな豊満な胸をぷるんと揺らす一人に、もう一人は心底不機嫌そうに横目で睨んだ。

 

「……何のつもりだ?」

「最後にちょっと腕試し♪ あと訛ってないかの確認ね。開けるのに時間かかっちゃったしぃ」

「……紛らわしいんだよ。危うく殺すところだった」

 

 うんざりとした表情で吐き捨てる一人に、もう一人は“へぇ?”と不敵な笑みを浮かべる。

 

「あなたが私を殺せるなんて、本気で思ってるのかしら?」

「殺せるさ。胸零れそうになって堂々としてられる痴女だったって言いふらせばな」

「あそういう意味っ!? ちょ、やめてやめてホントに死んじゃうからぁ!」

「だったら早く隠せ。その格好で出歩くつもりか?」

「斬ったのあなたの癖にぃ……」

 

 渋々と胸元の服を神速で縫い直した一人に、もう一人は冷めた瞳で眺めて思う。

 

 ――化け物め、本気で斬りつけて無傷とはな、と。

 

 暴力的なまでの速度で振るわれた剣、反撃を無意味と化す強固な肌。

 しかし実際にその攻撃を防ぎ、瞬時に斬り返した一人の技量もやはり、化け物染みていると評されよう。

 それが今は味方であることが、なんとなく心強い、と。

 

 ――こうして二つの化け物が、深淵より這いずり出た。

 真暗で静かな夜のようにぬるりと湧き出したその存在に、誰一人として気が付くことはない。或いは、その登場を予見すらしていなかった。

 

 一人は一歩前に出て、闇に包まれた幻想郷を俯瞰し――にやりと、口の端を歪める。

 そしてその後ろから、服を直した一人が言った。

 

「さ、じゃあそろそろ行きましょ。効果(・・)が切れる前に」

「あァ、そうだな。やっと迎えたこの機会……絶対に無駄にはしねェ……ッ!」

 

 決然とそう語るその姿に、背後の一人は実に楽しそうに愉しそうに、赤い唇を弓に歪めて妖艶な笑みを浮かべた。

 

 悠然と浮かぶ月が、風に乗せられた薄い雲に覆われる。その影が二人の姿を包み込むのと同時に、二人は忽然と姿を消した。まるで夜の闇にその身を溶け込ませたように。

 

 月はまだ高い。闇を照らす月光は、その中にも更に濃い影をあちこちに作っている。風は冷たく、虫の声は未だ止まない。

 

 ――夜明けは、まだ遠かった。

 

 

 




・伊吹【い-ぶき】
 何日も吹き続ける風、居吹きの意。

 今話のことわざ

 なし

 余談ですが、閑話を書こうかちょっと悩んでます。次章の投稿も多分半年とか掛かるので、その間の誤魔化げふんげふん繋ぎとしてあった方がいいのかなぁと。
 まぁこちらは書けたら投稿ということになると思うので、投稿されてたらぜひ読んでみてください。
 それではまた、次回の投稿まで。ではでは。

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