風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第二十四話 我見の張り子

 

 

 

 ――ちゅんちゅん。小鳥の囀りが朝の到来を知らせる。夜の間少しだけ開いたままにしておいた窓の隙間から日が細く入り込み、寝室を淡く照らしていた。

 此間よりも更に冷たくなった空気が隙間風のように入り込み、程よく暖かくなった肌へ撫でるように吹き付ける。それに少しだけ覚醒して、しかしまだ眠た気に、吹羽はゆっくりと起き上がった。

 

「…………あさ」

 

 何時もならばすっきりと眼が覚めるはずなのだけど――と、吹羽は何故か非常に重いたい身体にぼんやりと首を傾げる。瞼も鉛のようになっており、気を抜けば一瞬で意識を失ってまた布団に倒れ込んでしまいそうなほどに気怠い状態だった。

 吹羽は気の抜けた頭をどうにかこうにか回して、倒れ込んだらまた寝てしまう、と至極簡潔な結論を導き出し、

 

「おきない、と…………痛ッ!?」

 

 と、倒れこんでしまう前に起き上がろうとしたその刹那、吹羽は激痛を感じて腹のあたりを強く押さえた。あまりに唐突な痛みに脂汗が噴き、指の一本を動かすのも躊躇われる。溢れそうになった絶叫も、咄嗟に喉の奥で堰き止めなければ外に響くほどだったと思う。

 何かで刺されたかのような痛み。しかも針などの小さなものではなく、もっと長く分厚く、硬く、ともすれば背中から突き出てしまいそうな――。しかし、恐る恐る見た掌には一滴の血だってついてはいなかった。

 ふと、ぼんやりとしていた頭が、強烈な刺激によって急激に記憶を取り戻す。そして、

 

 ――ああ、幻肢痛ならぬ……幻覚痛かな、と。

 

 そう、身体が重いのも仕方がないのだ。何せ今日は、文の過去を巡ったあの凄絶な一日の、翌日である。

 傷を負った身体で山中を走り回り、人間の身で妖怪と弾幕ごっこし、挙句腹に穴が空いたのだ。おまけに能力までも使用しておいて、身体が疲労しないはずはない。

 “ありとあらゆるものを観測する程度の能力”は、視覚から入ってくる情報量が多過ぎる為に脳への負担が大きいのである。こうして後が辛くなるという事が、この能力の行使を吹羽に躊躇わせる理由なのだ。加え、いくら萃香の万能薬と霊夢の治療術があったとて、精神的なダメージも決して少なくはない。

 吹羽は傷があった場所をぺたぺたと触って確認し、ぽつり。

 

「傷は治ってるけど……これじゃあお仕事出来ないなぁ……。定休日でよかった……」

 

 幸か不幸か今日は定休日である。傷があろうがなかろうがどの道仕事はお休みの日。疲労困憊の身体も目一杯休めて本望だろう。不意の幻覚痛に気を取られて金槌を指にでも落とした日には、きっと吹羽は泡を吹いて失神してしまうだろうし。

 ――まぁ、普段の定休日には趣味で(・・・)風紋開発に勤しんでいる訳で、それすら出来ない今日は、身体的に“幸運な日”でも気持ち的には“不幸な日”である。吹羽は少しだけ肩を落として溜め息を吐く――が、何かにはっとし慌てて首をぶんぶんと振るった。

 

「(ってダメダメ、仕事ばっかりじゃ女の子としてダメって前に文さん言ってたし……っ!)」

 

 いくら仕事は休んでいると言い張っても、趣味で開発なんてしていたらそれは仕事しているのと変わりない――とはいつかの文の弁。

 実は女の子として相当ダメな生活をしているのかもしれないと、その時内心では相当なショックを受けていた吹羽である、文の言葉を思い出して「そう、これが普通……これが普通の女の子……」と自分に必死で言い聞かせる。

 ――すると、不意に思考の中で、その日の文の笑顔がチラついた。

 

「…………文さん」

 

 ……あの笑顔も、嘘……だったのか。

 全てを知った今、その事を考えるととても寂しい気持ちになる。

 絶望して、狂ってしまって、きっと笑顔なんて忘れてしまっていただろうに、無理矢理笑顔の仮面を被り偽って。

 なんて悲しい生き方をしてきたんだろう、と吹羽は、昨日の――ぼろぼろと涙を零す文の表情を、思い出す。

 

「(……ううん、だからこそ)」

 

 吹羽は目を瞑り、心の中で“断じて否!”と叫んだ。

 今まで悲しい生き方をしてきた。ならこれから、楽しい生き方をすればいい。そうやって立ち直る手伝いをするのだと、決めたばかりじゃないか。

 吹羽は暗くなった気持ちを深呼吸で追い出して、「よしっ」と一つ心を決める。

 

 そうだ、その為に友達がいるのだ。辛いことを分かち合えるなら、楽しいことも分かち合えるはず。文の手を引いて、楽しいこと、暖かいことを経験すればいいのだ。

 

 そうと決まれば――。

 

「先ずは、ちゃんと起きないとっ」

 

 決意を新たに、吹羽はちゃちゃっと布団を畳んで手早く着替える。そしていつも通り風を感じに、居間への扉を開く。

 

 

 

 ただ――未だチラつく文の虚空な笑顔に、ちくちくと胸の奥を刺される気がした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「はぁ……無茶をしたものだな、全く」

 

 さわさわと優しい葉擦れ音が満ちる中、多分に呆れを含んだ声が向けられる。それに同調するように「クソ真面目もここまでくりゃ病気だな!」と茶化すように言葉が重なると、「それはまた皮肉な病気ですね」と微笑む少女の声が。

 彼らの中心で布団に横たわる椛は、半眼のジト目と不機嫌を言葉に乗せて放った。

 

「あの、うるさいです。もう少し静かにしてくださいあと余計なお世話です」

「おお、二重の意味で“五月蝿い(煩い)”ってことですね! 大怪我人にも関わらずなんと余裕な……」

「だからうるさいですって、えっと……早苗さん。見舞い人が怪我人の言葉にそんなどうでもいいところで納得しないでください」

 

 拳を頭に当て“てへっ”と、幻想郷民には若干分からない可能性の高い仕草をする見舞い人――東風谷 早苗に、椛は一つ嘆息する。

 ――ここは、天狗の集落に存在する療養所、その一室である。昨日、応急処置を施されたとはいえ片腕を失った上に大怪我を負った椛は、吹羽たちと別れた後この場所へと搬送されてきた。

 身体中あちこちにある打撲痕、内出血の酷いところはもはや“黒”と形容した方が適切な色にまで変色しており、骨折と骨のひびは数知れず。

 妖怪の治癒力と治療術を駆使しても数日はこのまま絶対安静と告げられたのだ。失った片腕はもうどうにもならないと諦めている。

 三人とも、椛の負傷を早くも聞き付けて見舞いに来てくれた――何故か面識のないはずの早苗も来た――のだ。

 

「だがよう、よく片腕で済んだもんだと思うぜ? 萃香様と本気でやり合って生きてるたぁな。あの破壊跡――いや破滅跡(・・・)見たか? あんなの真正面から喰らりゃァ大妖怪でさえ文字通り消し飛んじまうぜ」

「……必死だっただけですよ。仮に両腕があっても、もう一度戦ったら確実に殺されます」

「……それが底力というものなのだろうな。中妖怪が大妖怪を追い詰めるとは……常識を打ち破ったと言っても過言ではなかろう」

「…………買い被りすぎですよ」

 

 それぞれ関心の言葉を零す二人の烏天狗に、椛はふいと視線を逸らして呟く。因みに、前者は以前“噂”の件で真っ先に風成利器店を訪れた烏天狗――朱座(あかざ)、後者は吹羽を妖怪の山まで送り届けた烏天狗――九楼(くろう)という。

 白狼天狗としては烏天狗全てが上司である。流石に全員の名前を覚え切る事は出来ない為関わりのある者だけを覚えるようにしていた椛だが、最近になって顔を多く合わせるようになったこの二人の名を、椛は改めて覚えようと決めていた。

 そうしてちらと、呑気に欠伸する朱座を見遣り、

 

「……朱座さんは、知ってたんですね」

「んあ? 何がだ?」

「件の……先代天魔様と凪紗さんの事です」

 

 ああそれのことか、と呟くと、朱座は後頭部で手を組んで天井を見上げた。椛にはそれが、何処か昔の思い出を懐古するかのようにも見えた。

 

「……俺も一応、あの戦乱に参じていたからな。天魔様――いや、章様と凪紗様のことは当然知ってたさ。……その最後もな」

 

 朱座は“百鬼侵撃の乱”の時代から存在する数少ない烏天狗の一匹だ――とはつい先日知った事である。それも当時の二人を実際に見て、声を聞いて、その指示のもと妖怪の山を形作った中の一匹。そして真実を知りながら、文のために歴史を改竄した天狗の一匹だ。――それを知り、椛はようやく、あの日に言われた言葉の意味を理解したのだ。

 

「“私も、朱座さん自身も入っていい話ではない”……今ならその理由が分かります。何を今更、という話ですが……」

「全くだぜ。俺の忠告をガン無視しやがってよ、剰え当事者である萃香様と喧嘩をおッ始めるたぁ、全くもっていい度胸だぜ。なァ?」

「う……す、すみませんでした……」

 

 普段のつんけんとした態度などおくびにも見せずしおらしく謝罪する椛の姿に、朱座は初め面食らったように片眉を釣り上げた。

 そして一つ嘆息し、「あ゛ぁー」と声を荒げると後頭部をガシガシと掻き毟ってそっぽを向いた。

 

「……いや、いいんだよ。元々俺は一介の烏天狗に過ぎねぇ。偶々その場に居合わせて、偶々二人の事情を知って、偶々長生きして来ただけだ。……あの忠告も、文が自分で片付けなきゃならねぇ問題だと思って言ったんだが……むしろ天魔様は、お前に介入して欲しかったらしいしな」

「………………」

「ま、気にすんなや。そもそも誰も不幸にはなってねぇ。誰かが損をしたってなら話は別だが、事実そうじゃねぇ。お前が正しかったと思ったのならそれは正しかったのさ。今更、俺の忠告を聞かなかった程度のことで落ち込んでもらっちゃこっちが困らァ」

「…………その原因は朱座さんの言葉なんですが」

「ははっ、そりゃそうだな! お前はそうやってつんけんしてる方が“らしい”ってもんよ!」

 

 しんみりした空気を吹き飛ばすように笑う朱座の豪快な笑顔に、椛は少し心が休まる気がして淡く微笑んだ。

 そして僅かな沈黙を挟み、会話の断絶を悟ったのか今度は早苗がおずおずと言葉を放る。それは、ずっと聞きたかったけど聞けなかった、とでも暗に語るかのような声音をしていた。

 

「それにしても……全然悲観しないんですね、椛さん」

「何がですか?」

「何がって……腕のことに決まってるじゃないですかっ! 無くなっちゃったんですよ!? なんか、こう……うまく言えないですけど、不安にならないんですか!?」

 

 と、呆れとも驚きとも取れるヒステリックな叫びを上げる早苗に、しかし椛は“ああそんな事か”と、大した反応もなく小さく嘆息する。

 昨日、萃香に言われた事を思い出しながら、

 

「しませんよ、悲観なんて。……する訳、ないじゃないですか」

「ど、どうしてです?」

「私が萃香様に想いを示した証……吹羽さんを、救えたという証……ですから」

 

 鳳摩は言った。己の行いを責めるなと、否定するなと。そして萃香は言った。たった一言、しかし清々しい程の笑みで“誇れ”と。

 それは己の行動が、想いが正しかったのだと肯定する言葉。苦悩を超えて萃香に立ち向かった椛が、何よりも欲していた言葉だった。

 ならば、腕の一本くらい安いものだ。だって、吹羽も死なず、自分も死んではいないのだから。

 

「うーん、“名誉の負傷”……という事でしょうか」

「そんなに大層なものでもありません。結局私は、自分のわがままを通したかっただけなんですから」

 

 そう言って椛は、どこか自嘲気味な笑みを浮かべて遠くを見つめた。

 誰がどんなに褒めようと、椛の行動はその全てが彼女の意思に基づいた物。鳳摩が願いの半分を託したとしてもそれは一方的な委託でしかなく、故にこの傷は、椛が何を顧みることもなく吹羽を助けたいと思って行動した、そのわがままの結果なのだ。

 天狗としての役目に忠実で、朱座曰く“クソ真面目”と評される椛には、この傷を“名誉の負傷”だなんて格好の良い捉え方をされるのがなんとなく嫌なのだった。

 

「……だが、萃香様には“誇れ”と言われたのだろう? あの方は根からの喧嘩好きらしいからな、そんな捉え方をしていればいずれ怒りに触れるとも考えられるが……」

「それはありませんよ」

 

 ぽつりと悩める表情を浮かべた九楼に、椛は即答で返した。

 

「あの方は確かに喧嘩を大事にしていますが……それよりも意思を重要視していました。戦いの最中、私の想いを――その強さをきっと萃香様は感じられた。だから私の想いを汲んでくれたんです。……ならば、“今更あれはわがままだった”と言ったところでどうなるとも思えませんし、多分それもお見通しだと思います。……萃香様は、そういう方ですよ」

 

 私が感じた限りでは、と最後に付け加え、椛はやんわりと失った左腕の肩に触れた。

 この傷は、自分のわがままが生んだもの。だから“名誉の負傷”なんて言いたくはない。だが、別の意味(・・・・)でなら――自分の想いを、萃香に示したその印としてなら、椛は素直にこの傷を誇らしく思えると感じた。

 己の想いを通した証――差し詰め“貫徹の証跡”かな、と。

 

「ま、何にせよ無理するのはこれ切りにするこったな。知り合いが死ぬのは寝覚めが悪りィしよ。だぁれも得しねぇのさ」

「……損もする訳ではないと思いますが」

「はっ、ほざけ頑固者。お嬢ちゃん(・・・・・)もきっと大泣きじゃ済まねぇだろうって話だよ」

「っ、それは……そう、かも知れません」

「“かも”じゃなくて、事実そうだろうが」

「…………はい」

 

 朱座の呆れた言葉に反論できず、椛は口をもごもごとさせながら押し黙った。

 確かに今回は吹羽が無事だったから良かったものの、仮に吹羽を救うために椛が無理をして、剰え命を落としたとしたら、きっと吹羽は心を病んで悲しむだろう。椛が見た限り、彼女はこと“友達”というものに並々ならぬモノを抱いているようだし、何より傷付いた自分を見た時の彼女の号泣っぷりは目に焼き付いている。まるで吹き出す涙でアーチでも作ってしまうかと思えるほどだった。

 朱座の言葉に瞑目して頷く九楼の姿もあり、椛はばつが悪そうに視線を逸らして窓の外を見遣った。

 

 ――快晴の空だ。燦々と降り注ぐ陽の光は目に眩しく、しかし空気の冷たさも相まって程よい気温に落ち着いている。妖怪の山特有の燃えるような紅葉は鮮烈で、はらはらと舞い散る火の粉のような葉々は光を受けてちかちかと輝いていた。それは山の景色を見慣れた椛でさえ、見惚れるほどに美しかった。

 

 ふと、その木々の隙間から荒々しい岩肌が見えた。山肌を大きく抉り取ったような跡。萃香のたった一発の拳が作り出した、朱座曰く“破滅の跡”である。

 火山の大噴火を経たかのように消し飛んだその岩肌は、しかし現在進行形で、此間やってきた神の手でもこもこと修復されている最中のようだった。

 きっとぶつくさと文句を垂れながら、その“坤を操る程度の能力”で以って奮闘しているのだろう。あの小さな身体で広大な大地を操る様は、どこかシュールな光景だと椛はぽつりと思う。

 

 ――はて、そう言えば、と。

 

「……忘れていましたが、早苗さんは何故ここへ?」

 

 自然に会話してくるものだからすっかり忘れていたが、そもそも早苗は何故椛の見舞いなどしにきたのか甚だ疑問である。

 椛と早苗は今日この時顔を合わせるまで面識はなかったし、現在は彼女の祀る神の一柱が山を相手に孤軍奮闘している最中である、共に暮らす彼女が何故一人こんな所へ来たのか、椛にはその理由に全く想像が付かなかった。

 一体何を企んでいるのやら――と心の片隅で考えた椛は、知らぬ間に目をすぅと細めて早苗へと問い掛ける。

 その信用も無ければ容赦も無い視線に晒されて、早苗はちょっぴりおどおどしていた。

 

「え、なんで私睨まれてるんですか……? 見舞いに来ただけでこんな目されたの初めてですよ……!?」

「……まぁ、過ぎた事とは言え、先日突然やってきた部外者ではあるからな。何をせずとも疑われるのは止むを得ないだろう。哨戒を担う白狼天狗は、まず疑う(・・)のが仕事だからな」

「がっはっはっ! 怪我をしてても哨戒天狗か! 見境いねェなクソ真面目ってのはよ! 友達無くすぜ!?」

「……癖になってるのは否定しませんけど、これくらいで切れる友人ならそもそも私は欲しくありませんよ。無条件に信じ合うのを友人関係とは呼びません、ただの相互依存です」

「結構ドライ、ですね……? いや、正論なのかな……」

「ふむ……それで、結局君は何をしに? 椛の疑問は尤もなんだ、さっさと話してくれるとこちらも張り詰めずに済むのだが」

「う……!? さ、三人してそんな目で見ないでくださいよ怖いですっ! い、今から本題に入りますからっ」

 

 今更ながらとんだアウェー空間へと一人のこのことやって来てしまった事に気が付いたらしい早苗は、もごもごと口の中で何か呟きながら姿勢を正した。その視線は朱座でも九楼でも、況して三人共ではなく――椛へと。

 

「実は、その……吹羽ちゃんに会いに行く前に、御礼をと……思いまして」

「……御礼?」

 

 ――はて、何故早苗がそんな事を? と思わずにはいられない椛。

 側で聞いていた朱座ら二人も合わせ、三人して首を傾げるその様子に、早苗は「まぁそうですよね……」と人差し指で頰を掻いた。

 

「事の顛末は……昨日天魔さんから伺いました。山が抉れちゃいましたからね、神奈子様たちも大慌てでしたよ」

 

 俯き気味に視線を彷徨わせながら、ぽつぽつと早苗は語る。

 

「それで、吹羽ちゃんは大丈夫なんですか、って天魔さんに訊いたら、犬走 椛という白狼天狗が吹羽ちゃんを守ってくれた、と聞きまして」

「………………」

 

 ――仮にも天辺に住んでるんだから、もう少し他に気にすることはないのか。

 喉元まで出かかったその苦言を、ギリギリで椛は堪える。

 それに気が付いたのかどうか、早苗は俯いていた視線を上げて椛をジッと見つめた。

 

「椛さん、“吹羽ちゃんが大切だ”って、助けてくれたんですよね」

「……友達、ですから」

「それに先ず、御礼を言わせてください。吹羽ちゃんを助けてくれて、本当に有難うございました、椛さん」

 

 誠意の伺える姿勢で恭しく頭を下げる早苗の姿に、椛は少しだけ恥ずかしくなって、薄っすらと頰を紅潮させた。

 仕事柄、御礼を言われることに椛は慣れていない。むしろ偶に発生する侵入者から敵愾心を向けられる事の方が多いため、剣呑な空気の方がまだ触れ慣れているくらいだ。

 それなのに、こんなにも真摯な礼を真っ直ぐな瞳でされたら、照れ臭くて戸惑うのは必然だ。

 何とも言えない鼓動の高まりを感じて、椛はうろうろと視線を何処へとも彷徨わせた。

 

「照れてるな」

「照れてやがる」

「う、うるさいですね。慣れないだけですっ! 早苗さんも頭をあげて下さい。さっきも言いましたけど、私のわがままでしかないんですから!」

「あ、はい。……それでその、私が本当に御礼を言いたいのはそれ(・・)なんです」

「……え?」

 

 早苗はそう言って、改めるように姿勢を正す。

 

わがままで(・・・・・)、吹羽ちゃんを助けてくれたんですよね……?」

 

 その様子を伺うような言葉に、ああそういうことか、と。

 椛は一つ納得して、怪訝に寄せていた眉を柔らかく緩めた。

 

「その腕、わがままで付いた傷だって言ってましたね」

「ええ。事実、そうですから」

「でも、吹羽ちゃんの為に付いた傷だってことも確かですよね。それって……そういうのって、本当にその人の事を想っていないと出来ない事だと思うんです」

 

 誰かの為に自分が傷付く――否、傷付いてでも誰かの為に尽くそうとするのは、その人を本当に想っていなければ到底出来ない事である、と。

 椛はそれを否定しない。

 この傷が吹羽を想った所為で付いた、と責める(・・・)つもりは毛頭無いが、尽くそうとした結果である事に違いはないのだ。椛が吹羽を想って付いた傷であり、それは椛がしたくてした事。つまりは、椛が我がまま(・・・・)を貫いた結果なのだ。

 

「……椛さんから見て、吹羽ちゃんってどんな子ですか?」

「どう、って……そうですね……」

 

 一番初めに思い浮かぶのは、満面の笑みを浮かべる吹羽の姿。次に浮かぶのは、霊夢に振り回されたりして、困って苦笑いを浮かべる吹羽。いつも楽しそうにしていて、背伸びして大人ぶろうとするところが可愛らしい。

 それらを、そう――一言に表すならば。

 

「“元気で明るい女の子”……そんなところでしょうか。実にありがちな表現ですが」

「……そうですね、私もそう思います。ええ勿論、心の底から」

 

 心底の共感を表すようにうんうんと頷く早苗は、しかし不意に表情を暗くすると、少しだけ俯いて、呟くように口を開いた。

 

「でも……むしろ(・・・)、なんだか悲しそう、寂しそうって……思うんです」

 

 そう言って、早苗は膝の上に置いた両の手をきつく握り締める。早苗から見た彼女は、それ程までに悲しさ寂しさを抱えているように見えたのだという事だろう。

 その理由を、椛は知らない。しかし早苗はきっと知っている。吹羽自身に聞かされたのか、それとも存外に鋭く察しただけか、それは分からないしどうでも良いが、きっとそれを知っている早苗には吹羽の笑顔が寂しさなどの裏返しのように見えたのだろう。

 

「……余計な事とは思うんです。私は吹羽ちゃんに会ってまだ間もないし、人が背負ってる物を一緒に背負えるほど私は丈夫には出来てません。――事実、背負わせてもらえませんでしたし」

 

 一度試した事があるような口調で語る早苗は、拳に落とした視線をついと上げて、真摯に耳を傾ける椛の視線を真っ向から見つめ返した。

 

「でも、側にいる事は出来ると思っています。そりゃ、吹羽ちゃんには霊夢さんが側にいて、きっと私の何十倍――何百倍だって信頼してるんでしょうけど……誰かが側にいてあげるのに上限なんて必要ありません。例え一緒に背負えなくても、少しだけ手を添えて軽くしてあげる事はできます。助けてあげる事はできます。事実今回は……友達として側にいる椛さんが、吹羽ちゃんを救ってくれました」

 

 早苗の言葉に、昨日の吹羽と文を思い出す。

 事の顛末は聞いた。文が真実を受け入れ立ち直る手助けを、友達となった吹羽がすると、そう誓い合ったのだと。

 きっと吹羽も助け合う大切さは知っている。信頼度に格差はあれど、きっと早苗が言ったことと同じようなことを考えているのだろう。だからこそ似た境遇にある文を理解しようと己の腹を刺しまでしたのだから。

 

「だから、御礼を言おうと思ったんです。吹羽ちゃんの代わりに。きっと吹羽ちゃんも、そう思ってるだろうから」

 

 早苗はそう言うと、改めて姿勢を正した。ジッと椛を見つめる瞳に誠実さを、そしてそこに、優しさの滲み出るような微笑みをたたえて、

 

「吹羽ちゃんの友達になってくれて、ありがとうございます」

「………………はい」

 

 頭を下げる早苗に、椛は今度は頭を上げろなんて無粋な事は言わなかった。それはきっと、早苗の気持ちを踏み躙るのと同じ事だと思ったから。

 余計な事だ、と。会って間もない人に尽くそうとするのは要らぬ世話だ、と。早苗はそう言った。しかし椛はこうも思う――例え浅い縁でも心から尽くそうとしたその気持ちは、きっととても尊いものなのだ、と。

 

 幼馴染を想うのは当然の事だろう。親が子を守り育てるのも当然だ。兄弟が姿を消して悲しむのも当然である。それは互いに縁があって、理由があるからだ。

 ならば縁がない場合は? 早苗と吹羽のように出会って間もなく、細いと言ってなお足りぬか細い繋がりなら?

 ――椛なら、こう断言する。

 

 無論、“当然”ではない。でも本来、想うのに理由なんて不必要だろう、と。

 

「……でも、早苗さん」

「はい」

「あなたのそれを、“余計な事”だなんて……言わないでください」

「……え?」

 

 理由のない気持ちなんて幾らでもある。それはきっと本能的に感じるもので、理由なんて挙げられないのではなく、存在しない(・・・・・)だけなのだ。

 “理由”は、当然である事の必要条件でしかない。なら当然でなくても良い気持ちや想いに、理由はいらない。そして理由がいらない気持ちほど本能的なものは存在しない故に――そういう想いは、きっと尊く貴いもの。そこに打算的な考えがない限り、それが起こした行動を否定していい者など、あってはならない。

 それに、きっと……椛は、早苗と同じ立場なのだから。

 

「立派だと思いますよ。親でも恋人でもないのに、誰かの代わりに心から御礼を言える事は。でもそれを余計な事だなんて否定したら……此間友達になっ(・・・・・・・)たばかり(・・・・)の私は、立つ瀬がありません」

「……あ」

 

 そう――椛も早苗と同じく、吹羽と過ごした時間はまだ短い。それこそ早苗と同じかそれ以下の時間しか共有していないのだ。

 でも、椛はこうして、腕を失ってでも吹羽を助けようとした。それも間違いなく――“浅い縁でも尽くそうとした証”である。

 友達も結局は他人だ。そも友達になろうと思った事でさえ、椛には特に理由がない。

 なりたいとなんとなく思ったから、なった。ならばそれを理由に吹羽を助けた椛は、早苗と同じと言って何の間違いもないのだ。

 

「私と早苗さんは同じです。繋がったばかりでか細いばかりの、吹羽さんの友人です。だから、遠慮なんて無しで行きましょう。友の友は、同じく友なんですよ」

「……はいっ」

 

 ようやく顔を上げた早苗は、元気よく返事をして微笑んだ。

 友の友は友――それは椛の一見解でしかなかったが、少なくとも早苗は、その申し出(・・・)を受け入れたように見えた。

 互いに想い合うのを友達というのなら、他の誰か一人を想い合う二人だって、友達でいいじゃないか、と。

 

「あ、でも私、吹羽ちゃんの友達じゃあないですよ?」

「……はい?」

 

 ――と、突然すっ惚けるように言った早苗は、むんと胸を張って、

 

「私は、吹羽ちゃんのお姉さん(・・・・)ですからっ! 例え“いずれはそうなる”的なアレでも、確定事項なら今から断言したって同じなのですっ! だから椛さん、改めてよろしくお願いしますねっ!」

「……は、はい……」

 

 ――ああ、この人元気過ぎて空回りするタイプか……。

 早苗の満足気な笑顔に気圧される椛は、ふとそうして、早苗の人となりを知るのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 こぽこぽ、とぷん。

 柔らかくそよ風が吹いて回る室内に、落ち着いた水音が響く。日が燦々と輝いて程よい気温にあるこんな日には、日向ぼっこでもしながらお茶を啜るのが至福であろう。

 吹羽は傾けていた急須をかちゃりと置いて、鮮やかな黄緑色をしたお茶の茶碗をお盆に移した。

 ついでにみかんもいくつか用意して、と。

 実はこのお茶、吹羽が飲むものではなかった。

 

「えっと……粗茶、ですが、どうぞ」

「お、ありがとうよ。まぁ、年中酒ばっか飲んでるから茶の味なんて分かる舌はしてないがね。……んー、香りはいい感じだ」

「あ、ありがとうございます……」

 

 と、窓際の日に当たる位置に座して笑うのは、仕様のない休日を過ごす吹羽を突然訪ねてきた小鬼、伊吹 萃香だった。

 ――いや、訪ねてきたと言うと語弊がある。何せ彼女、玄関など触りもせずに(・・・・・・・・・・)侵入してきたのだから。

 

「にしても良く出来た子だねぇ。直接里に入れないからとはいえ、能力使って前触れ無く現れたわたしを追い出すどころかお茶とみかんまで出すとは。こんな事霊夢にやったら拳骨じゃ済まないのに」

「うぅ……霊夢さん、ちょっと短気ですから……」

「ははっ、そりゃまさに!」

 

 からからと笑う萃香に、吹羽は少し気圧されながら愛想笑いを浮かべる。というのも、いくら能力持ちとて吹羽は結局ただの人間であるからして。

 考えても見よう。怪我の影響により仕事ができない所為で止むを得ず過ごす休日、誰もいないはずの家の中で突然声をかけられれて仰天し、慌てて振り返ってみればその声の主は世に名を轟かせる大妖怪ときた。まるで平々凡々な日々を過ごす子供の家に突然裏世界のトップ(ヤーさん)が上がり込んできたようなものである。吹羽でなくとも心中穏やかであれる訳がない。

 驚愕のダブルパンチ、連続クリーンヒット。気絶しなかっただけ自分を褒め讃えてもいいと思う吹羽である。

 

「……ふむ、大丈夫かい? ちょっとカタいようだけど。わたしとは昨日会ったばかりじゃないか」

「む、ムリ言わないでくださいよぅ……。椛さん相手にも初めは怖かったんですから……」

「んーまぁ、あいつの剣気は頭抜けて強かったから比べてもアレだとは思うが……意外とちっちぇェんだなお前」

 

 何が、と敢えて直接言わずに笑う萃香を恨めし気に睨んでみるも、視線が合った途端に吹羽は反射的に視線を落とした。

 目の前にいるのは圧倒的強者なのだ。もちろん戦う意思なんてこれっぽっちもない吹羽ではあるが、やはり人間は“どうしようもない力の差”には意図せず恐怖してしまうものである。昨日顔を合わせただけの大妖怪と真っ向から視線を合わせられるほど、吹羽の肝っ玉は据わっていないのだ。

 

 すると不意に、「……よし」という呟きが聞こえた。言わずもがな萃香のものだ。

 何事かと吹羽が恐る恐る視線を上げようとすると、

 

「ちょっと来な風成の」

「ふぇ、あ――っ」

 

 ――それよりも早く、片手を引っ張られて前に倒れ込んだ。

 

 前方には当然萃香がいる。そのまま倒れ込めば衝突し、打ち所が悪ければお互いに痛い思いをするだろう。それでもしも萃香の機嫌を損ねたりすれば――と、吹羽はまるで走馬灯でも見たかのように思考を高速で回転させると、咄嗟に目を瞑り、震えることも忘れて衝撃に備えた。

 

 ――が、ぽすっ、と。

 

 衝撃などは欠片もなく、むしろ気の抜けるような柔らかな感触に、吹羽の頭は受け止められた。

 

「……ん、ぅ……?」

「おいおい、そんなに怖がるなよ。いくら鬼でも傷付くもんは傷付くんだぞ?」

 

 恐る恐ると目を開くと、そこには困ったように笑う萃香の顔があった。

 それはすぐ上。いつの間にか仰向けに調整されて倒れ込んだ吹羽の、ほんの数寸先の位置。

 吹羽は状況を理解するのに、数秒の時間を要した。

 

「どうだい? わたしゃこんなの誰にもした事ないんだ、自慢にしてくれたっていいぜ? ……鬼に膝枕(・・)してもらった、ってさ」

「〜〜ッ!!」

 

 尋常でない状況に急いで起き上がろうとすると、つんと額に素早く指が添えられた。それは萃香の細く小さな指。しかしそれだけで吹羽は全く起き上がることができなくなり、半ば無理矢理に萃香の健康的な太ももへと頭を乗せることとなった。

 予想外の妨害に焦燥の極みへと陥った吹羽は、あわあわと視線を右往左往させて、

 

「あっ、その、萃香さっ、ごご、ご、ごめんなさ――」

「いいからこうしてろ。わたしがしたくてやってるんだから、謝る必要なんてない。それとも、わたしの膝枕なんて嫌かい?」

「い、いいいえそういうっ、訳ではっ!」

「あっはは! やっぱ愉快な反応するねぇ! 霊夢がからかいたくなる気持ちも、ちっとは分からァ」

 

 慌てふためく吹羽の姿にからから笑うと、萃香はそう言って改めてに、と微笑んだ。

 その笑顔が何処かで見たことがあるような気がして、吹羽は少しだけ心を落ち着けて、ゆっくり起き上がろうと込めていた力を抜いた。不思議と、緊張していた心がほっと弛緩した気がした。

 萃香は満足気に頷いて、吹羽の白く柔らかい髪を撫で付ける。

 

「……改めて聞くが、どうだい? 鬼の膝枕ってのは」

「……思ってたより、柔らかくて……あったかくて……気持ちいい、です……」

「はは、まぁわたし達はゴツい奴らばかりだからね。そう思って当然さ。それで……まだ、怖いか(・・・)()?」

「…………いえ。怖く……ないです……」

 

 ――優しい、感触だった。

 怪力で知られる鬼の肌は、思っていたよりもずっと柔らかくて、張りがあって、妖怪なのにとても女の子らしい体つきだと素直に思える。

 風に乗って流れてくる香りはやっぱりお酒くさいけれど、どこか嫌とは思えない甘さを含んでいて。

 何よりも瞼を開ければ見える萃香の笑みは、何処にでもあるような――そう、吹羽がよく見慣れた、里の人たちの笑顔と同じだった。

 

 変わらないのだな、と思った。少なくとも萃香は、力があるだけで、妖怪であるというだけで、吹羽が普段接するような人たちと何ら変わりない存在なのだと。

 話ができて、感情があるなら、怖がるのはむしろ彼女を傷付けているのかもしれない。文の一件で“人は無意識に人を傷つける事がある”と学んだ吹羽は、少しだけ申し訳なく思って、謝る代わりに、遠慮なく萃香に身体を預けた。

 

「――実はな……わたしは初め、お前を犠牲にするつもりでいたんだ」

「…………え?」

 

 どこか虚空を見つめて、萃香はぽつりとそう独白した。

 

「凪紗の願いは文が自らの力で生きる事。あの戦乱で間違いなく一番の絶望を味わったあいつを、凪紗は放っておけずに自分を恨ませる事にした。……わたしはその仕上げ(・・・)を、託された」

 

 慕っていた人に裏切られ、父を殺され、あらゆる目的を見失って一人になった。そこから救い出してやる事が、数百年前から続く萃香と凪紗の約束だった、と。

 

「風成の。わたしが文に思い知らせてやりたかったことは、お前さんのと全く同じだ。復讐したって何も戻っては来ない。誰も笑ってはくれない。後に残るのは、支柱を無くして脆くなった空っぽの自分だけ。……それを思い知らせるには、経験(・・)させるしかないって思ってた。無くした支柱には、後で何かを据えるとして、な」

 

 ちらと萃香が見遣る先は、快晴の青空。燦々と照る太陽は、薄っすらとした雲に隠れ始め、彼女の目元に陰を落とす。

 

「……ボクを、文さんに殺させよう――と?」

「………………」

 

 それを茫然と見つめながら呟いた言葉に、萃香は少しだけ目を細めた。それが何かを睨みつけているようにも見えてびくりと吹羽は身体を震わせるも、萃香はそんな彼女の髪を、実に優しい手つきで撫でていた。

 

「……もちろん、今更“お前が死んだ方が良かった”なんて言うつもりはないよ。何せあの女の子孫だ、出来れば元気でいて欲しいとは思うし、多分霊夢も悲しむ。……何より、みすみす死なせたら今度こそわたしは椛に殺されちまうよ」

「……そんな、こと……椛さんはしないと思いますけど……」

「はは、どうだかね。あいつの“意思”はわたし達が推し量れるほど弱くなかったからねぇ……。よっぽど、お前という友達が大事なんだろうさ」

「っ……」

 

 呆れたような、感心したような。

 そんな萃香の口調に、吹羽は椛の怪我を想った。

 大怪我だったのだ。打撲や切り傷は塞がるとしても、片腕が無くなってしまった。それは吹羽が考え得る最悪の怪我であり、今後一生彼女に付いて回る傷だ。

 それを見て、萃香を説得する代償だったと聞かされて、吹羽はあの時恥じらいもなく号泣した。感謝と、罪悪感と、様々な感情が止めどなく溢れてきて、どうしたって止められなかったのだ。

 あれはきっと、椛が吹羽のことを想って付いた傷だ。その想いの丈が、あの傷を負わせたのだ。

 それを考えると、萃香の言葉も否定はし切れないな、と。

 そして、あんな無茶はこれ以上して欲しくないな、と。

 吹羽はまた溢れてきそうになる涙をぐっと堪えて、思う。

 

 ボクが、しっかりしなくちゃ――と。

 

「まぁ色々言い訳したが、何が言いたいかってェとな……その事を、謝りたかったんだ。わたしはお前を見捨てようとしてた。幾ら最終的には誰も死んではいないとはいえ、そう考えてたわたしは確実にいた。その罪悪感はまだ残ってて、わたしの中で燻ってる。……だから、謝らせてくれ。……ごめんな、すまなかった。そして文のために命を張ってくれたこと……心から感謝するよ、吹羽(・・)

「萃香さん……」

 

 そう言って吹羽を見下ろした萃香は、申し訳なさそうな微笑みを浮かべていた。

 少しだけ儚さすら感じさせる彼女の笑みに、しかし吹羽はなんと返せばいいのか分からずただ見つめ返す。逸らしてはいけないことだけは、なんとなく理解できた。

 

 そんな吹羽の不安げな表情に、萃香は一つ息を吐くと、

 

「ま、それを抜きにしてもお前さんは実に面白い。凪紗と同じ鈴結眼を持つこと然り、文を圧倒できるほどの風紋技術然り……強い奴とは知り合っておきたいのが鬼の性ってモノでね」

「…………戦いませんよ? 能力使うとすごく疲れますし、痛いのは嫌ですし」

「はははっ、自殺紛いの事をした奴の言葉とは思えないね! じゃあ仕方ない、お前さんが戦う気になるまでゆっくり待つさ」

「だから戦いませんってば!」

 

 誰が山を抉り取るような拳撃なんて受けてやるもんか、と吹羽は妖怪の山の惨状を思い出して内心叫ぶ。

 元々戦うのは好きではない。そりゃどうしようもなくなれば今回のように頑張って戦いはするものの、吹羽はそもインドアな性格であり、要は活発な方ではない。まぁ、純粋に萃香(四天王)の拳を受けられる気が全くしなかったことも多分にあるのだが。

 

 そうしてだらだらと平和に過ごし、吹羽の中にも萃香への恐怖が殆どなくなってきた頃、萃香は「さて」と前置きして、吹羽に退くよう促した。

 ――そろそろお別れらしい、と吹羽は思いのほか残念に感じる自分に、少し驚く。

 

「……そんなに残念そうな顔されるとは思ってなかったなぁ。なんだ、寂しいかい? なんなら今日はここに泊まっていこうか?」

「っ! け、結構です! ボク寂しくなんかないですからっ! 一人でなんでもできますもん!」

「慌て過ぎて日本語おかしくなってるぞ……」

「〜〜っ、“細工は流々仕上げを御覧じろ”という諺がありますっ! 心配なんて、ボクのことをもっとよく見てからしてくださいっ!」

「お、おう……? なんか使い方が違うような気がするが……まぁ頑張って強がってるし、いいか」

「強がってないですぅ!」

 

 自分をからかって遊ぶ萃香をジトっと睨むと、彼女は気にした風もなくよっこいせと立ち上がった。釣られて吹羽も立ち上がる。お見送りは当然しなければ、と。

 ――しかし、当の萃香は歩き出すでもなく不意に振り向くと、とん、と吹羽の胸に拳を当てた。

 

「っ、萃香さん?」

「……最後に、一つ言っておこうと思ってな」

 

 呟いて、吹羽を射抜くその視線には、萃香が文に対した時のような鋭さが籠っていた。

 

「人間ってのは、支え合って生きるもんだ。妖怪みてェに強くないし、一人じゃ完結できないからね」

「…………はい」

 

 昨日文に向けられていた強い瞳が、今自分に向けられている。その事実に少し圧倒されながら、吹羽は曖昧に返事をした。

 萃香はそれを何ら気にせず、続けて言葉を紡ぐ。

 そしてそれは――予想外にも、胸を貫くような鋭さを秘めていて。

 

 

 

「お前、いつまで余裕ブッこいてる気だ?(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 

 

 その衝撃に――胸の奥に感じた理解不能な(・・・・・)激痛に、吹羽は思わず後退りした。

 

「……な、なに、を……」

「今まで拳で語らうことを続けてきたからか、わたしは本質ってのに聡いみたいでね。……お前と話してて、ずっと感じてた事だ。それ(・・)は多分、自己満足でしかないぞ、吹羽」

 

 萃香の言葉が理解できず、しかし確実に心に響いてくるそれに、吹羽の体は意識とは関係なく反応していた。

 分からない。何を言っているのか、萃香が何を言いたいのかが、吹羽には全く理解できない。しかし彼女の体は、まるで“早く気付け!”と叫び散らすかのように、思考がさぁと冷え切り、鼓動が胸をばくばくと叩き、冷たい嫌な汗が背筋を伝う。

 

「……別に責めてる訳じゃない。だが、わたしは嘘が嫌いだ。偽りが嫌いだ。仮面が嫌いだ。だから喧嘩する。拳は本音しか語らないからな」

 

 「その点霊夢の奴は素直過ぎて扱い辛いがな」と戯けたように言うと、未だ混乱の坩堝にある吹羽に、ふわりと微笑みかけた。

 

「ま、ただの忠告さ。人間ってのは、自身が思ってるより脆いものらしいからね。……無理(・・)は、するんじゃないよ」

 

 そう言って、落ち着かせるように吹羽の頭をぽんぽんと撫でる。それに少しだけ冷静さを取り戻した吹羽は、うるさい鼓動を黙らせるようにぎゅっと胸を拳で押さえた。

 

「あ、あの、それはどういう――」

「おっと、お客みたいだぞ」

「……え」

『ごめんくださーい』

 

 萃香の言葉に理解を得るよりも先に、玄関から響く声という形で答えは降ってきた。

 萃香はくいと顎で指し、早く行くように促す。

 吹羽はそれに従って玄関へ駆け出そうとして――しかし萃香に問いただしたい気持ちに、足を止めて振り返った。

 

「あの、萃香さ――え?」

 

 しかし、さっきまでそこにいたはずの萃香は既に影も形もなく、少しだけ陰った居間にはお茶とみかんを乗せたお盆が机に乗るのみだった。

 いっそさっきまでの出来事が全て夢であったかのように露と消えた萃香。しかし向けられた言葉の数々に篭った気持ち、そしてさっきの言葉(衝撃)を思い出して、吹羽は不安げに、ぽつりと呟く。

 

「自分で考えろ、ってこと……ですか……?」

 

 それに答える声は無い。でも、不意に頬を撫でた冷たい風に肯定されたような気がして、吹羽は小さく頷き、気持ちを入れ替えるように一つ深呼吸をした。

 萃香は大妖怪だ。見た目がいくら若々しくとも、何百年という月日を生きてきた妖怪である。そんな彼女がわざわざ“最後に一つ”と前置いて放った言葉に、意味がない訳はないのだ。

 

 でも、とにかく今はお客さんを迎え出ねば。

 

 吹羽は気持ちを切り替えて、改めて玄関の方へと向かった。

 すると、そこには――。

 

「……具合はどうよ、吹羽?」

「霊夢さん! ――と、慧音さん! お久しぶりですっ!」

「やあ吹羽、久しぶりだね。と言っても一週間ぶり程度な気もするが……まぁいいか」

 

 なかなか出てこない吹羽に痺れを切らしていたのか、腕を組んで若干不機嫌そうな霊夢。そして、最近は濃い内容の日々を過ごしてきた為とても久しぶりに顔を見る気がする女性――上白沢 慧音の姿があった。

 

 慧音は少し困ったように頬を人差し指で掻くと、改めて笑みを浮かべ、言った。

 

「さ、迎え(・・)に来たぞ」

 

 

 




 今話のことわざ
細工(さいく)流々仕上(りゅうりゅうしあ)げを御覧(ごらん)じろ」
 仕事のやり方は色々なのだから、途中でとやかく言わないで出来あがりを見てから批判して欲しいということ。

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