風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第二十一話 意思

 

 

 

「は、はは――殺す? 突然現れてなにを言い出すんですか霊夢さん」

 

 文の意思とは関係なく震える身体が、絞り出す声すらも震わせて言葉を紡ぐ。興奮して崩れていた口調も、無意識の内に丁寧語へと戻っていた。

 ――別に、“殺す”と言われたことにではない。そんな言葉はいくらでも言われてきたし、昨今の外界では冗談としても用いられるそうじゃないか。そんな薄っぺらい言葉で震えてしまうほど文は脆弱な心をしていないのだ。

 

 違う。そうじゃない。

 文を本能的に震わせているのは――霊夢のその、表情だった。

 

「なにって、そのままの意味よ。博麗の巫女が悪い妖怪(・・・・)を退治しようとしている――たったそれだけのことじゃない」

 

 見たことのないほど、感情の消え失せた顔。

 感情豊かな霊夢としては有り得ないとまで思えるほど、文を見つめるその表情に感情は写っていなかった。

 たった一つの目的を達成することにのみ思考を傾倒し、他の全ての感情を捨て去ってしまったかのように感じさせるそれは、実力がどうこうと言う以前に本能的な恐怖を煽る。

 

 あくまで淡々と語る霊夢を前に、文はゆっくりと、様子を見るように、言葉を放る。

 

「み、脈絡が無さ過ぎますよ。そもそも何をしにここへ? 私はちょっと吹羽さんと遊んでいただけですよ?」

「遊ぶ……? 吹羽のこの傷が、遊びでついたものだと?」

 

 霊夢は徐に振り返り、呼吸も満足にできないまま横たわっている吹羽に触れると、唄うような声音で祝詞を告げた。

 

「祓い給え、清め給え。この身に入り染む壊毒の、源たるその悉くを我が御力以て打ち払え」

 

 霊夢の掌から淡い緑色の光が溢れる。霊術の一つであろうそれを浴びた吹羽はみるみると顔に赤みを取り戻し、次いで身体中の傷も少しずつ塞がっていった。

 ――よく見れば、文が施した治療術の妖力すらも消え失せている。

 文は内心で舌打ちした。

 

「これで大丈夫よ。血は戻ってないから、暫くは安静にしててね」

「っ、は……はい……ありがとう、ございます……」

「うん。じゃ、ちょっと待ってて」

 

 立ち上がり、再びこちらを向いた顔もまた、無表情。

 しかしその瞳の中に「これでも遊びと宣うか?」という言葉を読み取った文は、こりゃ嘘は無意味と開き直って、溜め息を吐いた。

 

「はぁ……簡単に解いてくれますね。結構強固に掛けた筈なんですけど」

「遺言はある?」

「物騒ですね。何故そんなにも殺気立っているのです?」

 

 少しだけ挑発してみるが、霊夢はぴくりとも表情を変えない。まるで、既に文を殺すことしか考えていないかのように、今の彼女は付け入る隙が全くなかった。

 ただ、何故彼女がこれ程までに殺気立っているのかは本当に分からない。先ほどの問いは文の本心でもあった。

 

 正直に言って、退治される(・・・・・)理由はある。

 それは天狗と人間の里の間にある条約のようなもので、その中で天狗は“里が他の妖怪に襲われないように監視する代わり、妖怪の山への人間の侵入を拒否している”のだ。故に里の人間である吹羽に文が手を出すことは条約において重大な違反にあたり、文自身も退治され罰を受けることはやぶさかでもなかった。だってそれは、どの道吹羽を甚振り虐め嬲り殺した後に起きることだから。

 全て終わった後に自分がどうなろうと問題ではなかったから。

 

 だが――霊夢のこれは、それだけ(条約違反)の理由で現れる表情なのか、と。

 

 彼女は確かに重役だ。博麗の巫女は代々妖怪退治を生業とし、今まで起きた数多くの異変を人の身で納めてきたのだ。今回だって文という妖怪が条約に違反したのだから、罰を下すのは当然当代巫女である霊夢の仕事である。

 だが――彼女はそれほど仕事に乗り気ではない。

 

 異変解決は渋々で、やる気を出すのは自分に被害がある時だけ。

 何事にも興味が薄く、感情は豊かだが決して能動的な性格ではない。

 であれば何故、霊夢はこんなにも殺気を放っている? 何故意識せねばまた身体が震え出してしまいそうなほど冷たい瞳ができる?

 そう、これではまるで――私怨(・・)ではないか。

 

「あんたに、理由なんか言う必要ないわね」

「……何故です?」

「さっき言ったわ」

 

 刹那、霊夢の姿が搔き消え――、

 

 

 

「今から殺すもの」

 

 

 

 声が聞こえるのとほぼ同時、文は反射的にその場を飛び退いた。

 次の瞬間に響いた轟音と地の破片を視界の端に、文は手加減無しに風の弾丸を周囲にばら撒く。すると土煙から飛び出した霊夢は風の弾丸を驚異的な動きで避けながら、無数の退魔符を拡散させた。

 

「(っ、相変わらず出鱈目な人間ね……ッ!)」

 

 霊夢の放った退魔符は文の放った弾丸と衝突し、相殺しながらも確実に文に迫っていた。宙を飛び回りながら弾丸による迎撃も行い、相殺しきれない退魔符は無理矢理にでも避ける。霊夢の放った符には膨大な霊力が込められ、一撃でも受ければ致命的なのは明白だった。

 

「でも、この程度なら……!」

 

 勝算はある。

 出鱈目な戦闘能力を持とうが、所詮人間。そして彼女が得意とするのは弾幕ごっこであり、それはルールとして弾幕に隙間を作らなければならない。

 つまり――霊夢の癖で、避けられる隙間が無意識にできてしまう、と言うことだ。事実文が避け続けているのは、霊夢の苛烈な弾幕にルートのような隙間が続いているからだった。

 そのルートを通って一撃瀕死の符を避け続け、霊夢が疲れたら殺さない程度の威力に設定して適当に弾丸を当ててしまえばいい。博麗の巫女を殺害する事は絶対の御法度であるため少々慎重になる必要はあるが、結局はたったそれだけの、至極簡単な作業(・・)である。

 

 無数の符が飛び荒ぶ中、文はあくまで冷静にルートを駆ける。多少擦りはしたが決して致命傷ではない。

 難なく通り抜け、風を集め、適度に調節した風の弾丸を、しかし目に捉えることすら叶わぬ文の最高速度で打ち出す――……

 

「だから言ってるじゃない。殺す、ってさ」

 

 ぞわり――文の身体が身の竦むような悪寒を感じた時には、もう遅い。

 咄嗟に打ち出すのをキャンセルし、飛び退く隙間を探したときには既に――霊夢の追尾退魔符(ホーミングアミュレット)が、文の周囲を隙間なく囲っていた。

 

 ――これは、一分にも満たない攻防である。

 霊夢がたった一パターンの弾幕を張り、文が瞬時にそれを見極め、回避し切ったところを致死性の弾幕が襲いかかる。たったそれだけの攻防だ。

 しかしその内実、二人の間でどれだけ高度な読み合いがあったかなど傍目にはきっと分からないだろう。互いの挙動、目の動きを追って弾幕を読み切り、秒速何十メートルにもなる弾丸の嵐をあろう事か相殺すらさせ――その上で、文は人間である霊夢に読み負けた。

 霊夢の実力は把握しているつもりの文であったが、その認識がいかに甘かったのかをこの短い攻防の間に思い知る。

 初めからこの退魔符を当てるつもりで弾幕に道を作り、誘導し、致死性の弾幕を問答無用に叩き込む。長々と戦う必要はない。何せ初めから殺す気でいたのだから――と。

 

 文は霊夢の凍り付いたような無表情に改めて戦慄を覚えながら、無意識に、

 

「しまっ――……」

 

 その言葉を紡ぎ切るよりもっと早く。

 一撃瀕死の退魔符は文の身一つに殺到し、視界を、音を、意識を白く染め上げた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 あまりの衝撃に轟々と土煙が舞う中、手応えを確かに感じた霊夢はゆっくりと地に足を付けた。

 手加減などしていない。これは最早弾幕ごっこなんかではなく、ルールに違反した妖怪への罰である。間違っても決闘などという高尚なものではなく、また両者の同意など必要とはしていない。

 そしてそれとは別に――霊夢の私的な、仕返し(・・・)でもあった。

 

「――ふむ、結構頑丈なのね。誘導までしてありったけの退魔符をぶち込んだのに」

「はぁっ、はぁっ、殺す気、満々っ、ですね……!」

 

 独り言のように呟いたその言葉に、返す言葉は土煙の中から響いてきた。

 晴れてきたその中にいたのは、先ほどまでの余裕など欠片もない、傷だらけになった文。

 霊夢は冷めた瞳で、荒い呼吸を零す文を射抜く。

 

「なに言ってんの? 弾幕ごっこでもなんでもない戦闘で、まさか殺されないなんておもってたのかしら」

「分かり、ませんねぇ……! 何故あなたに、殺されなければならないのです? ルールに違反は、していてもっ、その罰が死とは……随分と過激な、巫女だこと――!」

「あら、違反してるのは分かってたのね。じゃあその罰則は今のでチャラにしてあげるわ」

「……ならば、さっさと――……」

「でも、それとこれとは話が別ね」

 

 言葉の端に被せるように、霊夢は両手に構えた退魔針を目にも留まらぬ速度で投げつけた。

 退魔符に負けず劣らずの霊力を含ませた針は空気の壁すら容易に打ち破って襲いかかるが、そこは文も妖怪である、能力で風に体を乗せて咄嗟に回避する。

 それでも数発の針に貫かれた文は、苦悶の声を漏らしながらも反撃の弾幕を放つ。

 霊夢はそれを、涼しい顔で結界を用いて防御した。

 

「あんたを殺す理由が、“罰だ”なんて誰が言った? あたしがあんたを殺すのは、そんな高尚な理由じゃない」

「っ、意味がっ、分かりません! 巫女の役割以上に、優先すべき理由がっ、あるとでも!?」

 

 文の困惑した声が、弾幕の風切り音に混じって聞こえてくる。しかし霊夢は、そんなもの全く意に介さないかのように強烈な弾幕を放ち続けていた。

 まるで苛立ちが弾に力を与えているかのように、文の弾丸を穿ち烈してなお勢い衰えず、文の身体を傷付けていく。

 

 言い分は理解していた。故に文の困惑も当然だとは思っていた。

 だがそれでもなお、霊夢には優先すべき理由がある。霊夢が霊夢である限り、何をおいても、無視出来ないことがあった。

 だというのに、相変わらず非難と困惑の言葉ばかりを叫ぶ文の姿に、霊夢は恐ろしく低い声で、

 

「……うるさい(・・・・)わねぇ」

 

 刹那、ホーミングアミュレットと結界を同時展開して急加速した霊夢は、弾丸を物ともせずに文の眼前へと迫ると、驚愕に目を見開く彼女の眼前で回転し、強烈な踵落としで地面へと叩き付けた。

 ばら撒かれたホーミングアミュレットは空中で急旋回すると、文の墜落した土煙の中へと嵐の如く殺到する。

 そこに数枚の札を投げつけると、霊力を込めた言霊で、宣言。

 

「――『八方龍殺陣』」

 

 土煙を打ち破って、橙色にまで視覚化した霊力がお札を頂点にして炸裂する。

 お札を起点に作られた結界が、内部の爆発を必死に押し留めるように軋みをあげながら天空を穿っていた。

 爆風は結界で留められているものの、その轟音と濃密過ぎる霊力が大気を震撼させ、風が吹いているわけでもないのに地面を、木々を、天空を揺るがす。霊夢がどれだけ本気で文を滅しようとしているのかを如実に表していた。

 

 少しして発動が収まると、霊夢はその光が消えないうちに内部へと飛び込み、当然の如く霊力を纏わせた健脚で、土煙に浮かぶシルエットを蹴り飛ばす。木々に激突し、血反吐を吐き出しながらもたれかかるのは、もはや満身創痍の文だった。

 

 ――劇的。

 文の言葉に苛付いた霊夢の連撃は、目にも留まらぬ早業でありながら容易に妖怪を滅することができるほど強烈なものだった。

 吹羽を相手に、絶妙な力加減で甚振っていた文が手も足も出ず、一撃の反撃すらも許さないその手腕は人々が言うところのまさに“天才”。

 彼女の繰り広げる戦闘は、劇的と称するに相応しいものである。

 

「……まだ死なないの。これだから妖怪の相手ってヤなのよね」

「〜〜っ、」

 

 文の目の前に降り立った霊夢は、酷く無関心な瞳で彼女を見下ろす。

 その瞳には心底悔しげに霊夢を見上げる文の姿が映っていたが、歯軋りする力すら残っていないのか、何処か迫力に欠けていた。

 

「私を、ころして……どうする、つもりですか……?」

「どうもしないわ。あたしの目的が達成されるだけ」

「非情、なんですね……生き物を殺して、平気とは……」

「今更よ。あたしは巫女。巫女は無用な殺生も出来なきゃいけない。今までだってそう。これからもそうよ」

「……薄情な、人間……」

「薄情? ……あんた、何言ってんの?」

 

 え――と掠れた吐息のような声が漏れる。

 霊夢はそんな文を冷めた瞳で――否、絶対零度の(・・・・・)怒りを以って(・・・・・・)、侮蔑するように睨め付けた。

 

 

 

「だって、吹羽を殺そうとしたじゃない」

 

 

 

 ひゅ、と息を詰まらせる音が聞こえた。

 

「痛め付けて、絶望させて、あの子を殺そうとした奴に怒ることの何処が薄情なの? 何がおかしいの? 殺そうとした奴が殺されることの……いったい何がっ、不満なのッ!?」

 

 溢れ出てくるのは、真紅の憤怒。

 己をしてあらゆる物事に無関心だと自覚している故、霊夢は身の内に滾る熱に全くの覚えがない。ただ無意識の内に、本能的に溢れてきては思考を染め上げ、今すぐにでも文を惨殺してしまいたい気持ちに駆られる。それはもはや焦燥の域に達しつつあり、事実――文の言葉によって、完全に霊夢の感情は決壊していた。

 

「あんたが何を考えてるのかなんて知らないわ! 例えどんな理由があってもあたしには関係ない! 吹羽が殺されそうだったから、あの子を守るためにあんたを殺す! あたしはあの時の決意(・・・・・・)を貫き通すだけなのよッ! 文句なんて、絶対言わせないッ!」

 

 文には分からないだろう。理解できないだろう。或いは分かったとしても、霊夢の覚悟の強さに言葉を紡ぐことはできなかったかもしれない。

 傍から見れば、彼女の様子はやはり不可思議なものだった筈だ。感情は豊かであれ、あらゆる物事に興味を示さない霊夢が、友人を嬲られたことにかつてない怒りと憎しみを抱き、鈴の鳴るようなその声で口汚く”殺す”と叫ぶ。例え魔理沙であってもこの状況を見れば首を捻るに違いない。

 

 だが、霊夢の覚悟は本物だった。

 例え“お前らしくない”と言われようと、本物である事に間違いはない。

 それだけ霊夢は、自分の中で吹羽を特別な位置に置いているのだった。

 

「……のよ」

 

 しかし、文の口から漏れ出るのは、決して納得や畏怖などではなく――。

 

「いったい、なんなのよッ!!」

 

 ただただ困惑と理不尽を振り払うような、怒号を放つ。

 

「“友達がなんだ”って、“吹羽がなんだ”ってっ! 私の目の前でさも“当然だ”ってぇっ! いい加減にしてよ……なんで、私にはぁ――っ!」

 

 血を吐くような憎しみと、滲み出す本心が、涙と共に文の口から漏れていく。

 その想いが霊夢に届くことはないと分かっていても、文は霊夢と吹羽を前に吐き出さずにはいられなかった。

 

「なんでっ、なんでなんでなんでなんでぇッ!? 私と……何が……違うのよぉ……っ!」

 

 ――ずっと、辛苦に耐えて生きてきたのだ。

 父を亡くし、仇を見失い、飄々とした自分を作り上げることで悲しみと憎しみを忘れようと必死になって生きてきた。周囲の人々はそうして無理をする文を心配こそすれ、本当の意味で慰めることは出来ずにいたのだ。

 当然のことである。幼い少女が目の前で親を殺され、まるで刻印のように刻み付けられた心の傷が、一体誰に癒すことなど出来よう。

 どんなに想いがこもっていようと、慰めようとする限りその言葉は文の心に届く前に朽ちて腐って途方も無い嫌悪感を撒き散らす。

 所詮は他人事なんだろう? 哀れんでいるだけなんだろう? ――と。

 

 心はずっと一人だった。

 支えてくれる人なんていなかった。

 幸せなんて無縁だった。

 友人なんて信じるに値しなかった。

 

 そして吹羽は――その全てを持っていた。

 

 森の中で吹羽を見つけた時、彼女が凪紗の子孫なのだと文はすぐに確信した。純白に輝く髪と緑がかった大きな瞳はあまりにも特徴的で、何より彼女が風を操る刀を振るっていたから。

 

 確かに憎っくき仇だ。殺さなければならない相手だ。だが、記憶や感情とは薄れていくものである。過去の憎しみを忘れようとして数百年――突如降って湧いた復讐のチャンスに、再び当時のような復讐心を燃やすことは文にも出来なかったのだ。

 だから、“ついでに死んでくれたらラッキーかな”程度に考えて、森の中から吹羽の膝を狙い撃ち、魔理沙の弾丸を衝突させた。

 だが、少し調べてみればどうだ――吹羽も家族を失くしている。

 

 それを知ってこそ、文は吹羽に対して強烈な憎しみを抱くようになった。

 同じように家族を失くしているというのに、なんだあの笑顔は。なんだあの雰囲気は。なんだあの、幸福は。

 私はこんなにも苦しんで生きてきたのに、風成の子孫がなぜ笑っていられる? なぜ私の持っていないものを全て持っている?

 なんで、どうして、なぜ、なぜ、なぜ――……。

 

 挙げ句の果てには強大な存在(博麗の巫女)からの庇護まで受けて、まるで絶望に堕ちた私を嘲笑うかのようじゃないか。堕としたのはあいつらの癖に。

 溢れ出す感情は止まることを知らず、溢れ出しては脳髄に刻み込むように憎悪が膨らんだ。

 吹羽が零す笑顔が憎い。吹羽の作り出す雰囲気に吐き気がする。吹羽の周囲にいる人々を無性に壊したくなる。吹羽の全てを嬲り殺したくて仕方がない。

 文は、そうして狂っていった。

 

 だが――。

 

「そんなもの知らないわ。あたしが知ってるのはあんたが吹羽を殺そうとしたことだけ。そしてそれさえあれば、あたしが行動を起こすには十分な理由よ」

「同じはずなのに……私だけこんなぁ……。いや……もう、いやなのよぉ……っ!」

 

 紡ぎだす言葉はもはや霊夢には向いていない。ただどうにもならない現実と過去を嘆き喚き散らして楽になろうとしているだけ。楽になれない苦しみに悶えているだけ。

 

「………………もういいわ」

 

 霊夢は会話すら成り立たなくなるほど打ちのめされた文にすら何も思わず――否、それが重要とは欠片も思えずに、変わらず絶対零度の瞳で見下ろす。

 そして徐に片手を上げ、大幣を大上段に構えると――膨大な霊力を集約した。

 

 集めた霊力を余すところなく力に変換し、触れた者を情け容赦なく討ち滅ぼす一振りと化す。古の大妖怪ですらこれを喰らえば決して無事では済まないだろうそれは、理不尽極まる暴力的なまでの殺意そのもの。

 もはや満身創痍の相手に行使するには些か以上に威力の高過ぎるそれは、例えどんな事があっても文を殺し切るという霊夢の覚悟の表れのようでもあった。

 

 ――もう、生かす意味はないのだ。

 霊夢にとって、吹羽を殺そうとした文は滅するに値する大罪人である。なにか事情があったらしいが、そんな事霊夢は知らないし興味もない。そしてそれを正確に把握したところで、きっと霊夢は文を殺すことに躊躇いなど見せないだろう。

 他人の事情より、身内の命を取るのは当たり前だ――と。

 例えその相手が、己の人生を心底から呪い、死の間際まで泣いて絶望する悲哀を煽る姿だとしても。

 

「じゃ、そろそろ死んで」

 

 一つ言葉を落とし、一撃必殺の大幣を振り下ろす。濃密過ぎる霊力が蒼く輝き、それは見た目非常に流麗でありながら、しかして巻き込まれた大気すら無惨に爆ぜ散らして。

 

「ぁぁぁあああああああッ!!」

 

 無様に泣き噦り、頭を抱えて叫ぶ文へ。

 

 

 

 ――届く、その直前。視界に映った一つの陰に、霊夢は反射的に手を止めた。

 

 

 

 急停止させられた霊力は爆発するように暴風を撒き散らし、両手を広げて立ちはだかった(・・・・・・・・・・・・・)者の髪を激しく振り乱した。

 身体は震えて、満足に動くこともできないはずで、その背後に加害者の姿を庇って。

 全く理解できないその行動に、霊夢は僅かに、眉を潜めた。

 

「…………何の真似、吹羽(・・)?」

 

 文を守るように霊夢の前へと立ち塞がった吹羽は、凡そ親友に向けるとは思えない強い眼差しで、霊夢を見つめていた。

 

「……だめ、です」

「は?」

 

 予想だにしない吹羽の言葉に、思わず声を上げる。

 

「文さんを殺すのは、だめです」

「……あんたを殺そうとしたのよ?」

「分かってます」

「生かす意味なんてないのよ?」

「それでもです」

「ここで逃したら必ずまた殺しに来るのよ!?」

「それでもです! ダメったらダメなんですっ!」

「……っ、」

 

 頑なな吹羽の言葉に、吐き出しかけた怒号が塞き止まる。ここまで意見を曲げない彼女を初めて見たが故に、霊夢はこれより先に放つ言葉に意味などないのだろうと悟った。

 吹羽の瞳をジッと見つめる。そこにある光は寸分の陰りさえもなく、ただただ希望と覚悟が静かに満ち満ちているだけだった。

 まるで“分かってくれ”と霊夢に訴えかけるような真摯な瞳。傷は治れどまだ血は戻りきらず、立っているのも本当は辛いはずなのに。

 霊夢は大幣を構えたまま、僅かにも視線を逸らさず見つめてくる吹羽を逆に見つめ返して――問う。

 

「…………全部、分かってるのね?」

「分かってます」

「それでもなお、あんたはそれを選ぶのね?」

「はい」

「……文を、憎まないの?」

「っ、……」

 

 ――吹羽がそこで“憎いわけない”と言える偽善者だったなら、きっと友達になることはなかっただろうな、と。

 霊夢は僅かに瞳を揺らめかせた吹羽をジッと見つめて数秒……悟った決意を想い、肩を竦めて大きな溜め息を吐いた。

 

「……分かった。尻拭いはしてあげるから、好きになさい。但し、あんたが死にそうになったら容赦無くあたしはそいつを消す。それは覚えておいてね」

「! はい、ありがとうございます!」

 

 瞳をパァッと輝かせながら、しかし強い意志の輝きを失わせないという器用なことをやってのけた吹羽を見て、霊夢は漸く大上段に構えた大幣を下ろし、“さっさとやれ”と言わんばかりに瞑目して腕を組む。

 

 吹羽はそれに小さく頷くと、振り返ってしゃがみ込む。

 そこにはやはり――頭を抱えて涙を流す、弱々しい文の姿があった。

 

「……文さん」

「………………なに」

「ボクは、文さんの気持ちが分かります。ボクも家族を失って、ずっと暗闇の中もがいてきました」

「うそよ……あんたには、みんながいたじゃない……っ! 支えてもらってたじゃないっ! 同じなんかじゃないのよ……!」

「……そうです。同じじゃありません。ボクはボクで、文さんは文さんです」

 

 考えることも嫌なのか、更に膝を抱えて蹲る文。吹羽はそんな彼女に、決して苛立ちや面倒臭さなど向けず、囁くように語りかける。

 そして――すぅ、と手を差し伸べた。

 

「だから、文さん――ボクと弾幕ごっこ、してください」

「………………は?」

 

 涙を啜る音が一瞬途絶え、弱々しくも困惑を隠し切れていない惚けた声が漏れる。

 その視線は吹羽と差し伸べられた小さな手をゆっくり往復し、終いには弱く吹羽の瞳を睨んだ。

 

「いまさら……何を言ってるの……?」

「突拍子も無いのは分かってます。でもこうでもしないと、文さんには何も響かない」

「響くって何よ……これ以上私に何を見せる気なの……っ!? もう放っておいて! もうどうでもいいのよ! あんたの事も父様の事も、何もかも全部ッ!」

「……全部諦めて、どうするつもりなんですか」

「どうする、って……」

 

 ――分かる。今文が何を考え、何を口に出そうとしているのか、吹羽には手に取るように分かった。

 揺れる瞳。泣き腫らした瞼。小刻みに震える身体。頰を頻りに伝う熱い露。そうしてぐしゃぐしゃになった、文の心。

 ずっと恨み続けて、心の穴に満ちる悲しみを誤魔化し続けて、そうして最後に全てを諦めたのだとしたら、きっとその先には終焉(・・)しかない。

 不安定に保っていた心の柱が折れてしまったのなら、後は全てが崩壊するのみだ。それは心も体も、自分の命ですら。

 

 ――そんな事、させる訳にはいかない。

 

「文さん。ボクは文さんが怖いです。身体中傷だらけにされたし、何度も何度も蹴られたし……あの時霊夢さんが割り込まなかったら死んでいたと思うと……やっぱりボクは、今までみたいに文さんと仲良くは、出来ないかもしれません」

 

 でも――……と言葉を繋ぎ、

 

「文さんが、とっても悲しんでいたから」

 

 吹羽を害する直前の、瞳の奥の深海色を思い出す。

 本当にただ復讐に狂っているだけならあんな瞳を出来るはずがない。だって本当に狂ってしまったのなら、復讐に心の靄を払う効果を求めるのはおかしい。それは偏に、復讐で振り払うことができないほど悲しみが深過ぎるという事。そう感じられる心が残っているという事だ。

 ならば、吹羽の言葉を伝えることはできるはず。

 ただ、口にするだけではきっと伝わらないだろうから。

 

「ボクと文さんは他人です。でもおんなじ悲しみを知っています。傷を舐め合いたい訳じゃありません。だから――ボクと弾幕ごっこをしてください」

 

 真剣に、されど何処か瞳の中に優しさを宿らせて告げる吹羽に、文は暫し逡巡する。

 そして徐に上げた視線に決意を宿すと――文はゆっくりと口を開いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 山中に響く烈音は、更に激しさを増していた。

 

 傷だらけで死力を振り絞る椛は、豪快な笑みで拳を振るう萃香に必死に喰らい付く。それは紛れもなく、どんな手であろうと萃香を打ち倒し吹羽の下へ駆けつけるという強い意志の為せる業だ。

 限界なんてとっくに超えていた。

 動かない身体を動かして、未だ健在の大妖怪を相手にしているのだ、形振りなんて構ってはいられない。

 

「ぅぉおおおあああああッ!!」

「うははははッ! そうさその粋さッ!!」

 

 一振り一振りに“狼牙”を用い、暴風の大剣で以って剣閃の嵐を体現する椛。死力を振り絞る彼女の姿に、萃香は溢れ出る歓喜を抑えることができなかった。

 

 萃香が“仕切り直しだ”と椛を叱責した後から、椛は本当に見境なく力の全てを行使していた。

 自棄糞なのではない。無闇矢鱈に力を振り翳す唯のお遊び(・・・・・)を、萃香は決して喧嘩などとは呼ばない。仮に椛がこれを始めたのなら、萃香は瞬時に、そして全力で彼女を殴り殺すと決めていた。

 理性を失った刃で誰かを救うなど失礼にも程がある、と。

 しかし椛の剣閃には決して無理性の暴力など含まれてはいなかった。ただ必死に吹羽を想った助けたいという意志が乗り、自分(萃香)を殺してでも駆け付けるという覚悟に満ちているのだ。

 そして現に椛は満身創痍ながら、そして萃香も本気ではないながらに、互角の戦闘を繰り広げているのだ。

 

 中妖怪程度の白狼天狗が。

 妖怪の頂点に立つ鬼の四天王に。

 

 その意味を、きっと椛は理解していないだろう。

 否、理解していて振るう力に決して死力など宿りはしない。その程度の集中力で為す力はきっと唯の全力だ。萃香の求めるものはそこにはない。

 そう――椛の今のこの力こそが、萃香が再び見たかったもの!

 

「そら……耐えてみなっ!」

 

 襲い来る“狼牙”の隙間に、萃香は拳を握りこむ。椛の袈裟斬りを脚を引くことで避け、引き絞った弾丸の如き拳をすれ違う椛の腹へと突き込んだ。

 炸裂した拳圧が地面を抉り、数メートル先の大木をも穿ち吹き飛ばすが、それは椛が威力を流した(・・・・・・)からこその結果である。

 千里眼によって萃香の動きを見切っていた椛は、拳が放たれる瞬間に振り抜いた刀を引き抜く形で腹の前に翳し、突き込まれる萃香の拳を斜め後ろへと流したのだ。

 当然、椛は駒のように回転して宙へと放り出されるが、彼女も一端の天狗である。数転して体勢を整えると、勢いを殺さぬまま萃香へと再度“狼牙”を振り下ろす。

 萃香自身の拳圧を遠心力へと変換して放つ強力無比な一撃である。

 

「やぁぁあああッ!!」

「やるねっ」

 

 椛の絶技を横目で捉えて、萃香は思わずに呟く。

 そこへ凄絶な速度で“狼牙”が振り下ろされるが、萃香が能力を用いて己を拡散(・・・・)したことで空振り、その先にあった大木を縦に両断するだけに終わった。

 

 萃香の能力――それは“密と疎を操る程度の能力”である。

 物質だろうが思念だろうが、萃香はそれを萃めたり疎めたりすることで拡散・凝縮を自在に操ることができる。それが例え己の体であっても、だ。

 

 椛の“狼牙”を拡散して回避した萃香は、瞬時に椛の頭上へと凝縮(・・)すると、今度は妖力を拳へと凝縮して躊躇いなく打ち下ろした。

 

「っ! くぅっ!」

 

 空中では流石に流しきれないと判断したのか、椛は翼をはためかせてその場から離脱を図る。しかし萃香の拳は拳圧もさる事ながら打ち出す速度も凄まじい。“怪力”という鬼特有のアドバンテージが、ただそれだけで他の妖怪を圧倒できる理由の一つである。

 回避には成功したものの、刹那の後に地面に触れた萃香の拳は、圧縮した妖力を炸裂させて爆音と共に地面を大きく砕き割った。

 爆風と飛び散った破片を諸に受けた椛は、直撃こそしなかったが体の至る所に切り傷を作りながら容易く吹き飛ばさる――が、それだけで終わるなら椛は萃香と同等に戦えはしない。

 

 吹き飛ばされた直後、体勢を整える序でに椛は妖力弾を無数に放った。

 土煙を穿ちながら無数の弾丸が萃香に迫るが、これくらいなら能力を使うまでもない。単純に腕を凄まじい速度で横に振り切り、土煙諸共弾丸へと固められたはずの妖力を散り散りに引き千切る。

 

「なんだぁ? こんな弱っちぃ豆鉄砲じゃ痛くも痒くも――」

「いいんですよッ!」

「ッ!?」

 

 刹那、聞こえた声に振り向いた萃香は、その視界に背後から(・・・・)突きを構えた椛が突撃して来るのを認識した。そしてその視界の端に写る、表面を砕かれたようにひび割れさせる木々の姿――。

 

「(あの攻防から、木を足場に背後を取るとはねッ!)」

 

 椛は先の一瞬で、弾幕を牽制に萃香の目を眩まし、吹き飛ばされた先で木々を蹴って三次元的な動きで萃香の背後に回り込んだのだろう。

 その体捌きと状況判断は凄まじいの一言に尽きるが、そんなことより――……

 

「そんな戦い、中妖怪が出来るとは思えないけどねぇッ!!」

 

 そも、中妖怪・大妖怪と言った区分けは妖力の大きさだけが基準なのではない。勿論明確な基準があるわけではないし、妖力の大きさも判断する要因の一つではあるが、区分けする際に主に見られるのはその者の“総合的な強さ”である。

 智力体力妖力能力――その者を構成するすべてのステータスを鑑みて、他の有象無象と隔絶した強さであるならば、人々はその者を大妖怪と呼び、畏怖する。

 

 椛が見せた的確な判断能力、即座に対応する思考速度、宙を駆けるかのような凄まじい体捌き、そして刀の力とはいえ強力無比な一撃を放つその技量。

 進退窮まったこの戦闘に於いて、大妖怪たる萃香の背後を瞬時に突いた椛が、彼女のことを知らない者に“実は中妖怪だ”と言って何人が信じるだろう?

 大妖怪に喰らい付くことが出来る(・・・・・・・・・・・)その強さは、決して中妖怪なんてもののはずがない、と口を揃えて叫ぶに違いない。

 

 そう、萃香はこれが見たかったのだ。中妖怪でありながら大妖怪にすら迫り得るこの凄まじい力の発現を。

 人間だとか妖怪だとか、況して神だとか全く関係なく、誰にも備わっておりしかして発現させられるのはこの世に生きるほんの一握りの者たちだけ。途方もない覚悟――想いを貫徹する強い意志が備わった者だけが見せる限界を裕に超越した力。

 

「あはッ! いいぞ“千里眼”! それでこそわたしが見定めただけはあるっ!」

 

 萃香はその喜びに打ち震えながら、また“それでこそ鬼”と言える凄絶な笑みを浮かべながら、椛の“狼牙”による突き――“白爪”にその剛腕を打ち据えた。

 砕き割った風の刃が破片となって腕を薄く切り刻み、鋭い痛みと血液が飛び散るが、萃香は微塵も躊躇わずに上へと振り抜いて刀を弾く。

 椛はその力に逆らわず瞬時に半回転すると、その流れのまますれ違う形で萃香の胴を斬り付けた。追撃とばかりに返す刀で斬りあげるが、萃香は腹の傷など物ともせずに椛の手首を掴んで受け止めると、顔面を狙った椛の拳も掴んで止めた。

 

 ――自然、萃香と椛は至近距離で睨み合う。

 

「へへ……痛ェなぁ。これ(痛み)を味わうのは久方ぶりだ。よう、誇ってもいいんだぜ? わたしに傷を付けられる奴はそういないからね」

「はぁ、はぁ、嬉しく……ないですね……私はそんなことを誇って、ここで立ち止まりたくなんてありません……っ!」

「ツレないねぇ……鬼の首を取るのは歴史に名が残るくらいの偉業なんだし、傷つける事も栄誉ある事なんだが……いや、それでいい(・・・・・)んだよ、“千里眼”……!」

「〜〜ッ! ぐぅ……!」

 

 鬼と天狗。当然腕力は鬼の方が桁違いに強い。

 萃香は椛の返答に満足すると、手首を掴む手にぎしりと力を込めて振り回し始めた。

 

「おらぁァアアッ!!」

 

 数転して遠心力を高め、その勢いのまま椛を地面に叩き付ける。遠心力と鬼の腕力が合わさったその一撃は地面を容易く砕き割ってクレーターを形作った――が、それだけでは終わらない。

 萃香はまだ手首を持ったまま。つまり、宙に放り出されたままの椛は萃香のなすがままになるしかない。情け容赦一切無用とばかりの萃香は、叩きつけた反動を利用して再度数転すると、再び椛を地面に叩き付ける。

 ――地面のかけらに混じって、赤黒い血反吐が舞う。

 

「こんなものかぁッ!?」

「ま……だ――ァッ!」

 

 数回の殴打の後、吐血と共に声を絞り出した椛は、飛び掛ける意識を手繰り寄せながら体勢をできる限り直すと、叩き付けられる瞬間に姿勢を落として衝撃を殺しにかかる。

 “千里眼”によって地面に触れる瞬間やその位置などを割り出した上でいなされたその力は、椛がふわりと地面に着いたのとはあまりにかけ離れた爆音を響かせて、足元の地面を大きく砕く。

 ――瞬間、萃香に向けて掌を向けた。

 

「っ、」

「はあっ!」

 

 掌で瞬時に収縮させた妖力を、椛は制御するでもなく爆散させた。それは人間であれば間違いなく吹き飛ぶレベルの爆風だが、妖怪にとってはまだ“強風”の範囲。当然萃香に何のダメージも無いが、その拍子に掴んでいた手首を離してしまった。

 ――いや、椛もそれが狙いだったのだろう。あのまま掴まれていれば萃香の強烈無比な叩き付けが延々と続いただろう。現に、爆散した妖力の圧にふわりと乗って後方に着地した萃香に対して、椛は手を離させることだけを考えていたのか木々に衝突して受け身も取れていなかった。

 

「苦し紛れか……だがいい手だ。これだけ高度な戦闘をこなしていながら、よく頭が回るね」

 

 刀を杖に、身体中から血を流して肩で息をする椛。しかしその瞳に宿る覚悟には微塵の衰えも見せない。

 

 萃香の言葉は実に素直なものだった。先述の通りもはや中妖怪ができる戦闘の範疇を遥かに超えているが、椛は未だ萃香に喰らい付かんと付いてきている。先程の妖力の爆散も、妖力の消費と状況を考えれば最善の策だったろう。

 限界を超えた戦闘の中でよくもまぁそれ程までに頭が回るものだ、と。

 

「(……さいっ、こう……!)」

 

 ああ――歓喜だ。

 鬼という種族に生まれて幾星霜、今この時訪れた途方もない歓喜に、萃香はひたすらに打ち震えていた。

 大昔、天魔と凪紗を相手にした時に垣間見た力。今まさに、椛が無意識の内に行使しているそれがまさに“意志の力”だ。高々中妖怪が頂点に君臨する大妖怪を相手に互角の戦いを繰り広げる――それが如何に凄まじい事か、そしてそれを成す柱である“意志の力”がどれほど凄まじいものなのか、これでこそ証明されるというものだろう。

 

 酒と喧嘩が何よりの娯楽である鬼としては、いつまでだってこの甘美な時間を貪りたいと願うところだが――「生憎だな」と萃香は徐に背後を振り返る。

 

「……どうやら、ここで楽しむのも終わりみたいだ」

「どう、いう……意味ですか……?」

「そのままさね。タイムオーバーだ。わたしがここでやるべきことは、全てが完了した」

 

 視線の先で怯えるように揺れる妖力を感じながら、萃香は椛へと視線を戻すと掌を突き出した。そしてそれを握り込むのと同時に――身の内に滾る妖力を、完全開(・・・)()した。

 

「〜〜ッ!!」

「だがなぁ、どうしても欲が出ちまうんだ。目的を見失ってる訳じゃない。が、それでもやめられない甘美さを、お前さんは味わわせてくれたんだよ」

 

 溢れ出した妖力は、まるで大気の全てを押しのけて空間に満ちるように吹き荒び、ただそれだけで椛の意識を刈り取ろうと周囲に遊んでいた。

 途方もない密度と殺気がその妖力を“瘴気”と言えるほどにまで変質させ、中てられた木々をどんどんと萎れさせていく。

 すると次の瞬間、それらの妖力は一瞬で消え失せた――否、不動を貫く萃香の背後に、明確な形を持って凝縮していた。

 

「なぁ“千里眼”、もう手加減なんて必要ねぇよな? もう我慢しなくていいよな? これが最後だからさ――もう、殺す気でやってもいいよな?」

「………………っ、」

 

 ギラギラと獰猛に、しかし何よりも果たし合いたいという純粋な欲を見せる萃香の瞳。

 椛はその強過ぎる闘争欲求とそれを感じさせる途方もない殺気に中てられ、ふらりと眩暈を感じてふらつくも、刀を杖にして踏み止まった。

 ここで倒れたら意味がない。もともとこちらは萃香を殺す気でやっていたのだから、今更彼女が本気になったところでやることは変わらない。

 彼女を、どんな手を使ってでも斬り倒して、吹羽の下へ駆け付ける――と。

 

「とっておきを見せてやる。――いくぞォッ!!」

 

 椛の揺るぎない瞳を見て笑い、萃香は初めて能動的に攻撃を仕掛けた。

 背に巨大な妖力を纏い、それでも萃香の身の内に滾る力は地を踏み砕いて一瞬で椛の目の前に躍り出た。歩数にして――三歩。

 

「三歩必殺――改式(・・)ィッ!!」

 

 一歩。地面を踏み砕いた衝撃が地盤をすら揺るがし、椛の体勢を打ち崩す。

 二歩。揺れる地面を物ともせず、ただ二歩目を踏み出し一瞬で宙を駆けて目の前に肉薄する。

 三歩。足を突き刺す勢いで踏み込み、固定して振り被った拳を最速最強の動きで打ち出す、これが鬼の四天王が誇る奥義である。そして――ここからが、(あらため)だ。

 

 萃香は拳を振りかぶったその刹那、背に纏った妖力を拳へと何層にも分けて(・・・・・・・)凝縮した。濃密過ぎる妖力は目に見えるほどだったが固めているわけではないので、まるで萃香の拳に揺らめく炎が纏わり付いているかのようだ。

 そして拳を打ち出し、衝突するその刹那に――全ての層を、思い切り拡散させた。

 

 凝縮した妖力の制御を解くだけでもなく、押し留めたモノの爆発をさらに後押しする。単純な原理である。

 しかしそれを萃香の膨大な妖力で、そして何層にも分けたその全てで行使したのなら、それは想像を絶する威力に達する。

 炸裂した威力を、更に炸裂した威力で以って押し上げ、更に更にと炸裂した威力同士で後押しし合う。それを一瞬で何度も重ねた結果生まれた衝撃は、まさに月すらも一撃で砕き割るほどの威力。

 拡散した妖力は拳を中心に円を描いて炸裂し、その内側を迸る妖力が紫電の如き速度と姿で駆け巡る。それはまるで巨大な満月に致命的なまでの大きなひびを刻むが如く――これを萃香は、こう名付ける。

 

「『崩撃(ほうげき)罅々月天門(かかがってんもん)』――ッ!!」

 

 星を砕き割るその拳は、打ち出し切った所で萃香に手応えなど感じさせない。触れた瞬間に全てのものは粉微塵に消し飛び、或いは血液すら残さずに千切れ吹き飛び爆ぜ散らかされる。

 そして触れなかったものでさえ、その威力に運悪く巻き込まれた森羅万象は見るも無惨な姿へと一瞬で変身するのだ。事実――その拳の先にある山肌は、大噴火でも起こったのかと本気で見間違う程に大きく深く抉れ、空に掛かっていた雲は巨龍に食い千切られたかのように断裂していた。

 

 轟々と、地響きのような音が低く唸り、巻き上がった土煙が舞う中を、萃香は少しだけ冷めた頭を以って見ていた。

 

「(あぁ、ついやっちまった……中妖怪相手に使うもんでもねぇのに……)」

 

 と、流石に腕力も妖力も使い切って疲れた萃香は、ぷらぷらと手を振りながら考える。

 まぁ、事前に予告したししょうがないか、と。

 ――だが、萃香はまだ甘かった(・・・・)

 

「さて、それじゃあとっとと――ッ!!?」

 

 土煙の舞い上がる先。あらゆる物の存在が消え失せたその大地の中に、萃香は生者の気配を感じ取った。

 まさか、あり得ない。あれを喰らって生きられる可能性のある奴なんて、それこそ賢者くらいのものなのに、と。

 

 土煙が晴れていく。確かに地を踏みしめる足、血に塗れて力を感じさせない腕、ボロボロの白い獣耳。

 ――そこには確かに、犬走 椛が立っていた。

 

「な――ッ!?」

「〜〜ッ!!」

 

 ふらりと倒れかけた椛は、あろうことかそのまま萃香に向けて肉薄した。刀を振り上げ、最後の力で以って萃香を斬り伏せようと鋭い犬牙を覗かせる。

 垣間見た瞳には相変わらず強い光が宿っていた。そして不意に見えた足の甲には刺し傷があり、何より今の椛には――片腕の肩から先がなくなっている。

 萃香は今の彼女の全てに、ただただ驚愕していた。

 

「(まさか……片腕を犠牲に威力を殺し切ったのか……ッ!!?)」

 

 椛はその能力による副恩恵で非常に動体視力に優れている。そして相手の力の流れを読み、自分の体を通して外へと流す術にも優れる。

 今の彼女の状態は、恐らく片腕で全力で威力を“いなし”にかかり、最終的には片腕が千切れることに抵抗しなかった事で(・・・・・・・・・)体に衝撃が来るのを最小限に抑えた結果なのだろう。そしてそれでも殺しきれなかった風圧などの要素は、足の甲に刀を突き刺し地面に固定する事でどうにか耐え切った――と。

 

 こんな所行、この世に生きる一体何人ができる事だろう。

 椛の想像を絶する覚悟は――萃香をしてまだ理解しきれていなかったその“意思の力”は、形振り構わぬ狂気的なまでの行動により、大妖怪の正真正銘の究極奥義を中妖怪が耐え切り、最後の最後で致命の反撃を許すに至ったのだ。

 

「――ぁぁあああアアアアッ!!」

 

 絞り出された声が、溢れ出す血反吐と共に宙に舞い、そして振り下ろされる刀身がそれを斬り裂き弾きながら萃香の肩口へと襲い掛かる。

 全力を使い切った萃香に、椛の執念に驚愕していた萃香に、それを避ける術はない。

 間違いなく致命の一撃。食らえば幾ら萃香とて無事では済まない。

 

 そして、刃が触れ、

 

 

 

 ――刀身が砕け散り、空を切った。

 

 

 

「一歩……およ、ばず……か――……」

 

 ポツリと零した椛は、踏ん張ることも出来ずにそのままぐしゃりと倒れ込むと、一瞬で意識を失った。

 手に持っていた刀はその衝撃でひびが広がり、遂には粉々に砕け散る。

 萃香は呆然とその姿を見ていたが、不意に溜め息を吐くと、

 

「…………見事だよ、“椛”」

 

 初めてその名を口にして、血濡れになった白い髪を優しく撫でた。

 もはや言葉は必要ない。萃香が望んだ事に十二分以上の行動を示してくれた椛に対して、労いの言葉や励ましの言葉、況して謝罪の言葉など全く無意味。ただ己の何もかもを曝け出して己の信念を示してみせた一人の戦士に、萃香は心から“承認”の言葉を落とす。

 そして、少しだけ冷たくなったボロボロの手を握って、

 

「確かに、受け取った。……任せておきな」

 

 

 

 ――その想いは、証明された。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

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