風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第二十話 射命丸 文

 

 

 

 とても――そう、とても平和な時代だった。

 自然は潤沢に生い茂り、仲間は大きな諍いもなく社会を形成し、そして何よりも天狗族に敵という敵は存在しなかった。

 文は、そんな時代に生まれ育った。

 

 当時の天狗は、その戦闘能力と知性、何より統率力を他の種族に恐れられ、妖怪世界の一端を担う一大勢力だった。

 当時から妖怪の山(テリトリー)への侵入者へは“苛烈な歓迎”をしていた故、そしてその強大という他ない背景から、天狗族に反抗する者はほぼ存在しなかったのだ。

 ――というより、その力を恐れるあまり、テリトリーどころか周囲一里ほどには妖怪などほとんど存在しなかったと言っていい。皆、偶然や何かの拍子に境界を踏み越え、天狗の怒りに触れることを恐れたのだ。

 そしてその“怒り”の――恐怖の筆頭としてあげられたのが、天魔。

 

 当時の天魔は、文の父親だった。

 天狗族の首領にして強力無比な大妖怪。その一挙手一投足が、見上げる者の全てを圧倒し、威圧する。戦闘能力も統率力も、人望だって岩盤のように厚い、まさに理想の天魔。そんな彼を、文は当然の如く敬い慕い、憧れさえしていた。

 

 文の中にある最高の天狗とは、正しく父親の姿。

 彼の背中を追いながら天狗としての修行に打ち込む中、きっと文も立派な天狗になれる、天魔様の娘が弱いはずがない――と、文はよく周りの同胞からは言われたが、文はどうしてもそうは思えなかった。

 彼女の中にある立派な天狗とは即ち、父親のような天狗のこと。絶対に超えられはしないと崇拝の念すら抱く相手と、同じようになれるとはどうしても思えなかったのだ。

 そして、同時に――常に彼の隣をいく、あの人(・・・)のようにも、なれるとは思えなかった。

 

 天狗の領域――即ち妖怪の山近辺に、もう殆ど妖怪は残っていない。

 それは前述のように、天狗族の力が――引いては天魔の力が恐ろしく強かった為だ。

 知性のある者は逃げ出した。たとえ偶然でも天狗の怒りを買いたくはなかったから。そんな事で死ぬくらいなら、何処へなりとも逃げ出して力を蓄え、中妖怪程度のお山の大将でいる方がまだ気分が良い、と。

 間違った考えではなかった。命に代えられる誇りなど、持ち合わせている方が珍しいのだ。だから天魔も、わざわざそういう者らに干渉しようとはしなかった。

 

 ただ、そんな中――山の麓には、堂々と住まう種族が一つだけ存在した。

 

 それは、妖怪ですら忌避する領域に存在するにはあまりにも脆弱な種族。体も力も何もかもが妖怪のそれの劣化。おまけに頻繁に栄養を摂取せねば簡単に衰弱し、ほんの少しの傷ですら治癒するのに数日かかる。

 妖怪たちから見れば正しく劣等種。存在する価値すら、妖怪たちには見出せない。

 

 それは――人間。

 

 それも軍隊を率いるような国ではなく、小さな村。たった一つの、民族だった。

 

『文。彼女らは父さんの恩人であり、大切な友なんだよ』

 

 父はまるで口癖のようにそう言っていた。

 まだ彼が未熟だった頃、他の妖怪に殺されかけたところを救ってもらい、友好を結んだ仲なのだと。

 そして、自分が天魔にまでなれたのは間違いなく――彼女(・・)のお陰なのだ、と。

 

『とうさまとあの人間は、仲良しなんだね?』

『……ああ、そうだな。だから文も、“人間”ではなくしっかりと名を覚えなさい』

『うんっ!』

 

 天魔の恩人――彼女の名は、凪紗(なぎさ)。風成という性を持った一族の人間であった。

 凛とした女性だった。薄く白みがかった髪は長く艶やかで、引き締まった表情には若さにそぐわぬ風格を醸し、時折見せる微笑は幼い文が見惚れてしまうほど。

 その後に聞いた話では、彼女は文の父と親しくなった故に一族の長となったそうだ。女性が一族を治めるなど普通なら考えられないと父は言っていたが、彼女ならば容易に熟せてしまいそうだと文は思っていた。それほどの品格が、雰囲気が凪紗にはあったのだ。

 

『なぎさ! わたしにもそれ見せて!』

『ああ、構わないよ文。でも振るってはいけないよ。危ないからね』

『わかってるよ! なんでも切れちゃうもんね!』

『分かってるならいいが』

 

 彼女の一族は所謂刀匠であり、特殊な彫刻師でもあった。

 刀身に刻んだ紋を沿う風は、緩急をつけて収縮・拡散し、ただの刀では成し得ない斬れ味を生み出す。彼女ら風成一族が創造し、そして凪紗が天狗族に伝えた技術だ。それが天魔と凪紗を結び付け、更には天狗と人間を結び付けた。

 そして彼女は、それを用いて瀕死であった文の父を救い、そして彼を天魔にまで押し上げたのだという。

 文の父の、暴風を操る力は風成の紋と非常に相性が良かったのだ。

 

 天魔と凪紗はとても仲が良かった。だから文も凪紗とはよく遊んだ。そして天魔と凪紗に憧れ追いかけていたのが現天魔――冴々桐 鳳摩だった。

 

『さぁ二人共! 今日こそ勝負をつけるぞッ!』

『またか鳳摩。面倒臭い……どうする凪紗?』

『いいんじゃないか。偶には身体を動かさなければ鈍ってしまう』

『懲りないねぇ鳳摩さん。とうさま達に勝てるわけないのにぃ』

『こういうのは勝てる勝てないじゃねぇんだよ文。俺は兎に角二人に力を認めさせたい。ただそれだけの為に戦うんだ!』

『お前十分強いだろうが』

『てめぇに認めさせてこそ意味があるんだよ。お世辞はいらねぇ、心底からの言葉を俺は聞きたい!』

『ま、志を高く持つのは戦士として大切なことだ。いいだろう、私達が相手をしよう』

『ありがとうございます凪紗さんっ!』

 

 二対一では公平でない――なんて野暮を、文は挟まなかった。当時の鳳摩は二人を追いかける事に必死で、故に二人に認められる事に執心していたのだ。

 曰く、二人は共に戦ってこそ真の強さを発揮する。

 勿論どちらも、一人だろうが圧倒的な強さを誇っていた。天魔の操る暴風は凪紗の齎した武器によって強化され、一振りで並の妖怪すら粉微塵にする威力を得た。凪紗の圧倒的な“観察眼”は、天魔の風を操る感覚を教授された事であらゆる事象を観察出来るまでになり、行動の先の先の先を見透かせるようになった。

 だが、鳳摩をして“そうではない”と。彼らの真価とは、経験と信頼――何より二人の人格的な相性により裏付けされた、完璧に息のあった連携にこそある、と。

 

 それぞれと戦って勝ったところで、彼らの強さの底を見ることはできない。二人を同時に相手にしてこそ彼らの本気と相見えることができる。それを前にして己の力を示すことこそを鳳摩が望んでいるのだと、文は薄々と気が付いていたのだ。

 

 三人の勝負は毎度苛烈を極め、しかして天魔と凪紗の勝利に納まっていた。鳳摩は悔しそうに表情を歪めこそすれ、決して言い訳も弱音も吐かなかった。

 簡単に超えられないからこそ目標足り得るのだ、と。彼のそのスタンスは二人をして立派なモノと讃えられ、また文も、そうした彼を見習うようにと父に習った。

 

 文はそんな日々が好きだった。

 立派な父がいて、憧れるに足るその相棒(凪紗)がいて、見習うべき友がいて。

 力がある故に平和を謳歌しつつ、しかし怠惰を貪る訳でなく実力を研鑽し、何よりもそれを認めてくれる人たちが、文の周囲には存在した。

 これを“幸せ”と形容せずに、なんと表そう。

 

 世の中には恵まれない者が存在する。人間に限らず、妖怪にだってそういう者は一定数存在するのだ。

 妖怪は人間の畏怖から生まれ、その畏怖の大きさが個体の力の大きさに比例する。つまり、人間のふとした恐怖から生まれた妖怪は当然力も弱く、またそれ故に研鑽することも難しい。格上の相手と出会ってしまった場合、むざむざと殺されるのを待つ他ないのだ。

 

 文は、研鑽出来る環境に生まれた。

 それは間違いなく、恵まれた誕生(・・・・・・)なのだ。

 それを不幸だと蔑むのは、そういう“本当に恵まれない者達”への――“摂理”への冒涜であると、文は実り切らない思考の中で漠然と思う。

 胸を張って、こう言えた。

 (自分)は、幸福である、と。

 

 ――しかし、そんな幸せな日々を崩壊させる足音は、酒の匂いと拳を打ち付ける音、そして猛々しい雄叫びを引き連れて、やってきたのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 妖怪の山の中腹では、“音”が響いていた。

 それは空を切る、或いは収束したひょうという刃の音。それは撫でた大気を爆ぜさせる豪腕の音。そしてそれは――衝撃に耐えきれず千切れ飛んだ周囲の木々の音。

 決闘というにも、況してや弾幕ごっこというにもあまりに不相応な音が、その地点では絶えずに響いていた。

 

 間断なく振るわれる純粋な力が地面を砕き、大木を穿ち、瞬時に定められた目標へと飛ぶ刃が無数の残跡を刻む。

 たった二匹の妖怪が衝突しているにも関わらず、もはやその惨状は局地的な大嵐が起きたものと同等であった。

 それも当然と言えば当然だろう。片や力を司る大妖怪と、片や天狗族でも名のある“千里眼”。戦闘が苛烈を極めるのは必然であった。

 

 ――そんな中、一際大きな炸裂音が森を揺らし、旋風と形容するにも生温いほど巨大な土煙が吹き上がる。

 土煙の尾を引きながら吹き飛び幾本かの木をへし折って止まったのは、“千里眼”犬走 椛だった。

 

「う……く――っ」

「なんだなんだぁ、もうへばったのかぁ?」

 

 捲き上る土煙を豪腕の一閃で搔き消し、愉快そうな笑みでそう言い放つのは、膨大な妖力と殺気を溢れさせる大妖怪、伊吹 萃香である。

 未だ無傷の彼女に対し、その視線の先で剣を杖に立ち上がる椛は、まさに満身創痍という言葉が相応しい程に傷付いていた。

 

「さっきの宣言はどうしたよ? もうボロボロじゃないか。ギブアップするのかい?」

「ご冗、談……を……っ!」

「いいねぇ、その粋だ」

 

 全身に切り傷擦り傷を作り、萃香の拳によって骨ですら砕けているだろう椛は、しかしその瞳に光を宿したままゆっくりと立ち上がる。萃香はその闘争心溢れる姿に、感嘆の吐息を漏らしていた。

 

 予想できる展開ではあった。

 萃香は大妖怪、そして椛は有名とは言えせいぜい中妖怪である。幾ら強力な武器を持つからと言っても、正面からの真剣勝負に於いて力の差は歴然だった。

 しかし、椛はどれだけ痛烈な拳撃を受けようと立ち上がる。事実、先程萃香の二割ほど本気を出した(・・・・・・・・・・)()を受けて、彼女は今立ち上がっているのだ。

 

 そう――まさにあの日の天狗達のように。

 

「あぁ、思い出すなぁあの時を。あの頃はお前みたいに血気盛んな奴らがわんさと向かってきたもんさ」

「それ、は……百鬼侵撃の乱、のことですか」

「とーぜんっ」

 

 萃香はとんとんと跳躍すると、三度目に地を踏んだ瞬間加速した。踏み込んだ地面は遅れて爆散し、耐え切れなかった大気が衝撃波(ソニックブーム)を生み出す。周囲を薙ぎ払いながら到達した先は当然、よろめく椛の目の前である。

 

「乱れ舞う天狗達の翼ッ」

 

 引き絞った拳を、妖力と共に撃ち放つ。並みの妖怪ならば竦み上がって回避不可なそれを、椛はその鋭い千里眼で以って確実に捉え、倒れ込むように側面へと回避した。

 萃香の獰猛な笑みと共に放たれた拳は、しかし衝撃波のみでさえ背後の木々を圧倒し千切飛ばしていたのだ、確実に――しかし疲労困憊である椛としては、この回避は見事と言えるだろう。

 

「ふッ!」

「地を踏み砕く鬼共の健脚!」

 

 拳を振り抜いた萃香に対し、側面へと倒れ込んだ椛はそのまま懐に潜り込んで鋭く斬り上げた。

 完全な死角からの斬撃。萃香の脇腹を捉えた椛の風紋刀が、鋭利な風の刃を纏って舞い上がるが、それを予期していた萃香は一瞬で体を捻り回し、外に軌跡を描いた彼女の足刀が逆に椛の脇腹を抉った。

 吹き飛ぶ椛の体。情けはないとばかりに、萃香はすぐさま体勢を整えると大きく跳躍し、上空から拳を構えた。

 

「そして人間達の、脆くも鋭い魂と業ッ!」

「ッ!!」

 

 萃香の体重と妖力を乗せた拳が、地にひびを走らせて爆音を響かせる。まるで大規模な土砂崩れでも起こしたかのようなその轟音と衝撃は、飛び散った萃香の妖力と共に木々を掠め、その硬い肌を抉り取っては押し倒す。

 ごうごうと立ち込める煙の中、固く握った拳をずるりと地面から引き抜くと、萃香は横を見遣って徐に口の端を上げた。

 視線の先には――咄嗟に転がり避けた、椛の姿が。

 

「……誰もが戦いに、血に狂い、魂を引き絞って力を振るった。あれ程気持ちのいい大喧嘩は、今も昔もありゃしねぇ」

 

 強者に飢えた肉食獣――言わば鬼族とは、そういう存在だった。

 “理不尽な程の力に抱く恐怖と憧憬”。それが鬼の根本となった感情である。生まれながらに他を逸脱した力を持っていた鬼は、それを存分に振るえる相手を常に求めていた。当然である。彼らの力とは、振るわれた相手が認めてこそ理不尽たり得るのだから。

 そんな彼らが、当時強大な力を持つと知られていた天狗達を見逃すはずはない。

 数と連携で攻めてくる天狗達に対し、鬼達は嬉々として力を振るい、雄叫びをあげ、そして時には嬉しそうに死んでいった。

 そんな血湧き肉躍る大合戦を繰り広げた事が、萃香は堪らなく嬉しかったのだ。

 それはもう、思い出すだけですら恍惚とする程に。

 

「そんな、だから――……」

「あん?」

「あなたがそんなだから、あんな悲劇が起こったんじゃないですかッ!!」

 

 椛の絶叫は、体の傷など感じさせないほどに強く、鋭かった。

 

「喧嘩が楽しい……? 殺し合いが気持ちいいっ!? ふざけないでくださいッ! あなた達の楽しみの為に、文さんは心に傷を負ったんですかッ!? 吹羽さんは今殺されかけているんですかッ!?」

 

 強者を求めた鬼が天狗の話を聞きつけ、領域を侵し、勃発した合戦の果てに天魔は死んだ。

 なれば享楽の為に縄張りを侵した鬼こそが愚かであり、憎むべきである――と。

 椛の言い分は尤もだと、萃香は思った。

 何も間違っていやしない。鬼が鬼である為に、天魔は死んだのだ。その戦いに鬼としての快楽がなかったと言えば、それは全くの嘘である。

 

「ああ、そうさ」

「〜〜ッ!!」

 

 犬牙を覗かせながら椛が踏み出し、爆発的に加速する。その形相はいっそ鬼と言って相応しい程だったが、萃香は涼しい顔でそれを見つめていた。

 

「『狼牙』ァッ!!」

「おっと」

 

 一瞬で距離を詰めた椛は、その勢いを乗せたまま上段に構えた刀を振り下ろした。“狼牙”と名付けられたそれは、加速の勢いと振るう際の風の流れを合わせて爆発的に威力を跳ね上げる技。

 萃香の眼前で完成したその刀は、収束した風が刀身そのものとなり、萃香の身の丈を超える大剣となっていた。

 しかし結局はただの袈裟斬り。勢いと威圧によって怯む事がない萃香にとって避けるのは容易い。

 難なく半身を逸らして避けると、想像以上の強風が萃香の髪を巻き上げ、地面には地割れを思わせる残痕が走っていた。

 

 しかし、椛の猛攻は止まらない。

 

「あなた達が来なければ……っ、あなた達がいなければッ! こんな事にはならなかったんですッ!!」

 

 怒りを乗せた“狼牙”が疾る。真っ赤な憤怒を冷静さで制御された一撃は、怒りの中にあっても刀の鋒をブレさせることはなかった。

 萃香が避けた先で、樹齢何十年にもなる木々が倒れる。長年かけて固まった山肌に亀裂が走る。

 剣戟の応酬が数十にもなった頃、椛は我慢していた何かを吐き出すように、刀を振り上げ――、

 

 

 

凪紗さんが天魔様を殺す事も(・・・・・・・・・・・・・)、なかったはずなのにッ!!」

 

 

 

 ――一筋の血が、宙に飛ぶ。

 刹那の後に山肌を大きく抉ることになる一撃が、萃香の頰を薄く斬り裂いた。

 

「……間違っちゃいねぇ。引き金を引いたのは間違いなくわたしたち鬼だ。わたしたちがいなかったら文は狂わなかったし、風成の子も巻き込まれることはなかったろうよ」

「なんで……なんで平然としてられるんですかッ!?」

 

 非難の言葉を叩きつけながら、椛は再び“狼牙”を交えて猛追する。

 その剣戟はやはり凄まじいものがあったが、萃香は手を出さずに避け続けた。袈裟斬りを半身を逸らして避け、刺突を放つ刀身を拳で弾いて逸らし、斬りあげを傾首して頰に掠める。

 溜まった鬱憤を晴らさせるように、本音を吐き出させるように、剣戟によって砂埃と斬痕が舞うような中を、萃香は無言で避け続けた。

 

「はぁっ、はぁっ、ぅうおおぉぁあああっ!」

「……気は済んだか」

「ッ!? ぐあっ!」

 

 大振りの横薙ぎを屈んで避けた瞬間、萃香はポツリとそう呟いて、がら空きの椛の腹を突いた。

 力はほとんど込められていなかったものの、触れた瞬間に炸裂した妖力が椛の体を小石のように吹き飛ばす。

 弾丸のような速度で飛ばされた椛は、初めと同じように、激しく大木に背を打ち付けて止まった。

 

「ああそうさ。わたしたち鬼がこの山に来なければ何も変わりはしなかった。何事もなくこの地(幻想郷)に辿り着いただろうし、天魔も死ぬことはなかっただろうさ」

「はっ、はっ、分かって、いるなら……! なぜわたしを、止めるのですか……っ!!」

「それは初めに言っただろ。わたしがそうしたいからしてるって」

「罪悪感は、ないんですか……ッ!? 自分の所為で殺される人がいるというのに……殺された人がいるというのにッ! なぜ……っ!?」

「罪悪感、ねぇ……」

 

 弱肉強食の世界で罪悪感を説くとは、まだまだ青い妖怪だな――萃香はふとそう思いながら、一つ溜め息を吐いた。

 

「私は……吹羽さんを、助けたい……ッ! 初めての、人間の友人なんです! そんな人すら守れないなら……私がこの刀を持つ資格は、ありません……ッ!」

「いい心意気だね。武士道とでも言うんだったか。守るべきものがいるから武器を取るってね」

「あなたは快楽主義者じゃない! 加虐趣味でもない! 理性ある大妖怪で、渦中にいた張本人! だから、もう一度だけ願います……ここを通してくださいッ!」

「………………」

 

 ――呆れを通り越した、関心だった。

 たった数回、知り合って一月も経っていないだろうに、ここまでして吹羽を救おうとする椛の姿に、萃香は少し関心を覚えた。

 誰がどう見たって満身創痍である。傷だらけと言うにも生ぬるい程椛の体は萃香の拳によって痛めつけられていた。

 無数にある切り傷からは血が染み出し、特に頭部の傷から流れ出た血液は顔を伝って片目を塞いでいる。骨も数本は折れているだろうし、歩くだけでも激痛が走るはずだ。

 

 それでも、椛の心は折れなかった。

 それは吹羽が大切な友人だからなのだと、彼女は叫ぶ。

 

 この子は本能的に分かっているのだろう。

 萃香が決して気まぐれでここに立ちはだかっている訳でない事を。理由を持ってここにいる事を。だがその理由を知り得ないから、こうして己の心を曝け出してまで請うているのだ。

 

 

 

 全く――どいつもこいつも、と。

 

 

 

「――ッ!? ぅく……っ!」

「ったくよ……踊らされやがって、嫌になる」

 

 刹那、萃香から放たれた強烈な殺気と妖力に、椛は一瞬で意識を失いかけた。

 面倒臭気に呟く萃香は底知れない苛立ちに満ち満ちていて、今にも椛の心臓を握り潰さんとしているかのように錯覚させる。

 

「こんな事なら初めから全部話しとけってんだよ鳳摩の野郎。……いや、こいつに託したってだけかね……」

 

 萃香は吐き捨てるようにそう呟くと、拳を握りなおしてゴキリと音を奏でた。

 瞬間、更にきつく引き締まっていく空気。萃香はやれやれというように――しかし微塵も苛立ちを隠そうとせず、言葉を紡ぐ。

 

「分からせてやらなきゃならねぇんだよ、文の奴にな。今やってる事がどれだけ無意味かを、自分の過ちを以って脳髄に刻み込ませなきゃならねぇ」

「わから、せる……?」

「ああ。その為には……お前はちょっとばかし邪魔なんだ、“千里眼”」

 

 人間も妖怪も、失敗や過ちを犯してこそ真に物事を学ぶ。そしてその必要性は、その“物事”に現実味がない程に高まる。当然だ、現実味がない物事を言葉で語って聞かせたところで、真に理解など出来るはずもないのだから。

 今の文には、学ぶ事が必要なのだ。

 そしてその為に、この志(犬走 椛)は少しばかり邪魔だった。

 

 ただ、椛の志を、理解できるが故に。

 彼女の想いをここに留めて、風成の子へと伝えないままにしてしまうのは勿体ないな――と。

 

 萃香は一つ深呼吸をして目を薄く開くと、息も絶え絶えな椛を、膨大な殺気を以って睨め付けた。

 

「なぁ“千里眼”。お前のその能力は風成の奴ら(・・)によく似ているが、あの女――凪紗は決してその程度じゃなかったぞ」

「なに……を……?」

「同じなのさ。天魔と凪紗も、同胞達を守る(・・)ために武器を取り、わたしたち四天王に立ち向かった。そして見事に一人打ち取ったんだ。……ただの人間がだぞ? わたしはあの二人に人間の――思いの強さを知ったのさ」

「………………」

「……なぁ“千里眼”よぉ――……」

 

 みしり――と、大気が軋む音がして。

 

 

 

「てめぇはその程度なのかって訊いてんだよッ!!」

 

 

 

 萃香の咆哮は音だけに留まらず、無意識に声に混ざった妖力がまるで霊撃を放つかのように拡散した。

 暴風となり、衝撃となり、木々を揺らし時にはへし折り、呼吸が止まったと錯覚するほどに、椛の心臓すらも鷲掴みにする。

 

「風成の子を救いたいんだろ!? 悲劇を断ち切りたいってんだろッ!? 分かるさ! わたしはその始まりを目の前で見たんだっ! 目の前で親友に刺(・・・・・・・・)される父親(・・・・・)を目の当たりにした、文の絶望をッ!」

 

 苛立ちが声となり、妖力を纏って言霊と化す。萃香は無意識にだが、その身の内に燻った思いを椛に叩き付けていた。

 

 そう、萃香が始まりだった。

 立ち向かってきた天魔と凪紗――二人と萃香の闘争とその結末が、全ての引き金だったのだ。

 その悲劇を知り、文の絶望を例え言葉だけだとしても理解し、椛はそれでも吹羽を救いたいと思った。その志は、幾ら立ちはだかる側である萃香であっても手放しに賞賛できる。

 全く以って素晴らしい――と。

 それでこそ友だ――と。

 

 だがだからこそ――それで終わりなのか(・・・・・・・・・)? と。

 

「はぁ……はぁ……っ、なぁ“千里眼”……よく聞けよ」

「………………」

 

 少なからず圧倒された様子の椛へ、萃香は鋭い瞳のまま言葉を紡ぐ。

 それは確かに苛立ちが際立っていたが――その中には、椛に対する関心が根差していた。

 

「わたしはお前の想いを汲んでやれる。その為の力と資格がある! ――気が変わったのさ。その想いは“半端”じゃあない。……確かに本物だ」

「っ! じゃあ――……」

「だが、足りない」

 

 何処か期待に満ちていたような椛の言葉を、萃香は不正解だとばかりに断ち切った。

 

「足りねぇんだよ。想いを糧にした者に感じる、妖怪だとか神だとか全く以って関係ねぇ“畏怖”ってもんが! お前の想いは確かに本物だろうさ。だが……その程度なのかよ!?」

「……っ!」

 

 萃香は言葉の端に被せるように踏み出し、椛の眼前へと躍り出た。

 小細工など必要ない。真っ向から拳を振り上げ、萃香はその膨大な妖力と思いを込めて拳を振るう。

 咄嗟に反応した椛は刀で辛うじていなしかかるも、萃香の圧倒的な圧力に押し負けて側方へ飛ばされた。得意の冷静な頭脳ですぐさま思考を切り替えた椛は、半ば強引に地に足をつけて踏ん張ると、妖力を固めた数発の弾丸を萃香へと放った。

 しかしそれを予期できない萃香ではない。振り向き際に裏拳を放つと、その圧力によって全ての弾丸が散り散りと消えていく。

 

 萃香はその光景を視界の端に捉えながら、ふらふらながらも刀を構えた椛へと突撃する。拳と刃の凄まじい応酬が再び始まった。

 

「足りねぇ足りねぇ足りねぇェッ!!」

「っ、くぅ! ぐっ……!」

 

 かつて凪紗に対して感じた底知れない畏怖を思い、萃香は精一杯の言葉と拳を椛にぶつける。

 彼女にも“先”があるはずなのだ。本物の想いを秘め、そしてそれを振り絞った時、理屈では説明できない底知れぬ力が溢れ出す。

 萃香はそれを目の前で見た。それが己に向けられる様を感じ、畏怖したのだ。

 だってそれを萃香に見せた彼女は、その強い意志の力で以って苦渋の決断(・・・・・)を下し、萃香に一矢報いたのだから。

 

 萃香は確かに椛の思いを汲み取れる。言ってしまえば、“萃香の思惑と椛の思惑は似通ったところがある”のだ。

 だが中途半端な志を汲んでやるほど萃香は甘い妖怪ではない。だからこそ彼女の前に立ち塞がったのだ。「半端な気持ちで行くなら殺してやる」――とはそう言う意味だ。

 

 椛はその思いを示した。

 嘘偽りなく、本心であり、何より覚悟を決めたのだと萃香に認めさせたのだ。

 ――後は、振り絞るだけ。

 その強い気持ちを爆発させ、萃香(自分)という壁を乗り越えろ。そうしてこそお前を認める価値がある。決して……決してその程度であるはずがないのだ――と。

 

 萃香は調子を確かめるように拳をゴキリと鳴らすと、鋭い眼差しで椛を睨め付けた。

 そして口の端を僅かに釣り上げ、彼女の獰猛さを象徴するかのような犬牙を覗かせて、

 

「さぁ来い“千里眼”、仕切り直しだぜ。てめぇの想いを――示してみせろッ!!」

 

 他の何もかもを塗り潰すように、蹂躙するように。

 放たれた萃香の覇気が、強烈な波紋となって妖怪の山に木霊した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――吹羽はただ、呆然としていた。

 

 文の語る戦の真実は、幼い吹羽にはまだ受け止め切れなかったのだ。

 幸せな日々を、よりにもよって近しい人に目の前で壊される――それがどれだけ辛いことなのか、吹羽には想像が出来ない。

 だって吹羽は、そんな凄惨な経験をしたことがない。想像を絶する絶望に呑み込まれたであろう文に対して、軽々しく理解しようとすることの浅はかさを、吹羽はよく知っている。

 他人の絶望を聞かされて、受け止めることなんて出来るはずがないのだ。

 

「(ボクと……一緒……)」

 

 文の大好きだった天魔である父親。彼を追いかけていた若き日の鳳摩。そして親友であった天魔を刺し殺した……風成 凪紗。

 その事実は不覚にも、文が誰かを恨むには十分過ぎる理由だと吹羽にも思えてしまった。

 だって、大好きな人が殺されたら、その犯人を恨んでしまうのは当然のことだ。それを許せてしまうような聖人君子(薄情者)などいるとは思えない。

 

 家族を失う苦しみだけは、吹羽にも分かる。吹羽も家族を失くしているのだ。

 だが、それは“二度と会えない苦しみ”ではない。故に吹羽では、どれだけ頑張っても文を理解することなど出来るはずがない。

 何より、吹羽は霊夢と阿求のお陰で立ち直ることができたのだから。

 

 きっと――苦しみをぶつける相手が必要だったのだ。

 幼い頃に襲い来た絶望をその身の内に溜め込み続けて、悲しみと怒りを燻らせ続けて数百年。溜め込んだ感情を爆発させて、叩き付ける相手が文にはどうしても必要だったのだ。

 そしてそれが、父親の仇(凪紗の子孫)であるならば。

 

 それはどうしようもなく、正当性に満ちている(・・・・・・・・・)――と、思えてしまう。

 

「ねぇ風成 吹羽……あんた、なんで生きてるのよ」

「え……?」

 

 呟くような小さな声で、文はポツリと言葉を漏らした。

 

「父様が死んで、何にも分からなくなってさ……みんな殺して自分も死のうとか思ったけど、その後すぐに人間達も消えちゃったから自棄になることもできなくて……ずっと目の前が真っ暗だった」

「……っ、」

「それである日、あんたを見つけたのよ。すぐに分かったわ。あの女によく似た白い髪と緑がかった瞳。森の中で、魔理沙と楽しそうに弾幕ごっこしてさ……如何にも“幸せです”って顔してさぁ……っ!」

「あ、文さ――……」

「なんでそんな顔出来るのよ。私はこんなに苦しいってのにっ、こんなにしたのはあんた達なのにッ!」

 

 地団駄にも似た足踏みが地を砕く。その拍子に溢れ出した妖力があまりに冷たくて、まるで文の怨念そのものが吹き出しているかのようだった。

 

「知ってるわよ、あんた家族がみんな蒸発したらしいわね。ざまぁないわ。そのまま心も体も焼き切れてしまえば、私も少しはスッとしたでしょうけど……」

 

 殺意と形容するにもまだ足りない、深淵のように真暗でドロドロとした、ただただ悍ましい限りの濁った怨念。

 ゆっくりと振り返った文の赤い瞳は、呪怨と憎悪に狂い切った鈍い光を覗かせて。

 

「ねぇ、なんであんな幸せそうなのよ。なんで普通してられるのよ。なんであんた生きてんのよ。死ねばいいのに死ねばいいのに死ねばいいのに――ッ!!」

「ぅうっ! あうッ!?」

「癪に触るのよっ! あんたの笑顔も仕草も何もかもがァッ! 生きてる価値あるのッ!? 父様の屍の上にいる癖にッ! 返せかえせ私が失くしたもの全部カエセェッ!!」

「……っ、〜〜っ!」

 

 吹羽にはもう、抵抗する理由がなくなってしまっていた。

 確かに文の拷問はとても辛いし気絶してしまいたい程に痛い。妖怪の脚力による蹴りに、徐々に切り口が深くなっていく風の刃。恐らくは骨も何本も折られているし、傷口を抉るように放たれるその何もかもが、吹羽には辛くて仕方がない。

 

 でも――文はきっともっと辛かった。

 

 それは理解など到底できないが、きっと時間の経過ではどうにもならないくらい深い傷が、文の心にはあるはずなのだ。

 八つ当たりなのだと分かっている。拒絶する権利は吹羽にだって確かにある。でも、文の境遇に同情してしまう自分もいる。

 幼い癖に妙に大人びている吹羽の思考は、そんな文の八つ当たりを甘んじて受け入れてしまっているのだ。

 

 ただ――苦痛の中に消えてしまいそうな思考で吹羽は、“文に一つだけ言っておかなければならないことがある”、と。

 

「ぁぁああああッ!!」

 

 怒りを叩き付けるように放たれた刃の嵐が、身体中を傷付けながら吹羽を小石のように吹き飛ばす。

 地面に転がる中で土が傷口に入り込んだり折れた骨が圧迫されたり、泣き喚きたいほどの激痛が走るが、吹羽はむしろ吹き飛ばして(話す隙を)くれた文にちょっぴり感謝した。

 

 このまま嬲られて死ぬなら、もうそれでもいい。

 でも何もせずに息絶えて、家族を失った苦しみから文を救い出せないのは、余りにも遣る瀬無い。

 吹羽はこの短かった人生で最期の役目を果たすつもりでゆっくりと口を開き、喉を震わせ――ようとして。

 

 

 

「――ッ! う、ごほっ……かは……っ!」

 

 

 

 溢れ出したのは、鉄臭くて赤黒い、どろどろの血液だった。

 

「(これ……ボクの、血……? なんで……さっき治ったはずじゃ――ッ!?)」

 

 刹那、吹羽の全身に今までの比にならないほどの激痛が走った。

 まるで体の内側から肉を食い破られているかのような。そして脳内に響く吐き気がするほどの負の感情。体に留まらず意識にすらも侵し入るかのような、あまりにも残忍で凄惨な苦痛だった。

 叫ぶ事ものたうちまわる事も許されない中では、それはもはや破滅的なまでの威力であり、吹羽の意識を一瞬で消えかけにまで追い詰めた。

 

「く、ふふふ……ねぇ知ってた? 妖力って人間にとっては毒そのものなのよ。当然よねぇ? 妖怪は人間の負の感情から産まれるんだからさぁ。だから妖力を使った治療術(・・・・・・・・・)を人間に施すと、死ぬ事もできないまま耐え難い苦痛がいつまでも続くのよねぇ」

 

 言葉が――声が遠い。吹羽の意識はもう既に、身体の内側から襲い来る激痛に耐える事でいっぱいになっていた。

 

「あハッ♪ すごくイイ顔してるわ、吹羽。声も出せず呼吸も出来ず、涙と絶望でぐちゃぐちゃになった顔……とっても素敵♪」

 

 何が起きたのか全く分からなかった。

 だってついさっきまで、傷だらけと言えどここまでの激痛はなかったのだ。こんな唐突に襲いくる痛みなら、もっとじわじわと痛くなるはずなのに。こんな痛み、吹羽は知らない。知りたくもなかった。

 

「あぁ、あぁ、あぁ――っ! そんな、えずくような声、お腹の底がきゅんきゅんするわ! 苦しいのよね? 辛いのよねえ? もっともっと苦しんでよっ! 流れた血が黒く固まって傷口から蛆が湧いて、あんたの体の何もかもが食い尽くされるその果てまでさぁッ!」

 

 聞こえない聞こえない聞こえないっ!

 痛みに耐える事でいっぱいになってしまった脳は、文の言葉を理解することすら放棄してしまっていた。

 ただ視界に映るのは、溢れ出した血の飛び散る様と、恋人に愛を囁かれたように濡れた瞳と蕩けた表情を零す文の姿。

 

「――ああ、でもぉ……ダメだなぁ。おっかしいなぁ……」

 

 だが、不意に見えたその表情が、一瞬だけ。

 

「こんなに楽しいのに、こんなに気持ちいいのに……全然、何にもすっきりしないよぉ……!」

 

 深海色をした想いのかけら――癒えることのない悲しみの色が、見えた。

 

「(ああ――やっぱり、悲しいだけなんだ)」

 

 何をしても、どれだけ時を経ても色褪せることのない悲しみの色。溜め込んだそれが怒りや復讐心と綯い交ぜになって、きっと今の文を動かしている。

 ――文も、他の人と何も変わらないのだ。

 幾ら怒りに焼かれ、復讐心に燃えていて、例えその果てに狂気に呑まれたのだとしても、その根底にある想いはきっと癒えようのない悲しみだけ。

 非力な人間やただの妖怪達と何も変わらない、悲哀を背負った一人の少女。

 

 大切な人が居なくなって、ただどうしようもなく悲しいだけなのだ――と。

 

「(なんだか……もういいや、って気が……してきた――……)」

 

 死ぬのは嫌だ。どうしようもなく怖い。けれどこれだけ苦しんだ後ならば、案外すんなりと死ねるのかもしれない。

 吹羽は相変わらず自分のものとは思えない苦悶の声を聞き流しながら、ふとそんな考えに至った。

 それに何より、こんなにも深い文の悲しみが自分を嬲り殺す事で少しでも和らぐなら、仇の子孫としては“それもいい”と思えてしまう。

 

「そうだ……もう殺しちゃおう。取り敢えず首を刎ねてから手脚を指先から細かく刻んで肉達磨にして……内臓掻き混ぜてぐちゃぐちゃに絞り出したら、頭だけ木に吊るし晒して後は燃やして捨てよう。そうすれば少しはすっきりするはず……」

 

 勿論、言いたいことはある。家族を亡くした絶望に染められた文に対して、吹羽にはどうしても言っておきたいことがあった。

 でも――それはもう、叶わない。

 意識はとっくに霞掛かり、口は意識とは全く関係なしに凄惨な絶叫を放っている。身体は最早自分の意思ではピクリとだって動かないし、もしかしたら既に心臓も止まっているのかもしれない。

 本当に残り僅かな吹羽の寿命(運命)、できることは――死を待つことだけなのだから。

 

「ああ、じゃあ取り敢えず……バイバイ吹羽。あんたとの時間は控えめに言って――」

 

 鋭利な刀と化した文の手刀が、ゆらゆらと振り上げられ――、

 

「死にたいくらい、生き地獄だったわ」

 

 吹羽の細い首を寸断するべく、振り下ろされる。

 

 

 

 ――その、刹那だった。

 

 

 

 遠くなった意識と聴覚が地を砕き割る轟音を、もはや閉じかけていた瞳が眩い虹色の光を捉えた。

 それは吹羽のすぐ目の前で起きていた事だったが、意識が朦朧としていた彼女にそう多くのことが考えられるはずもなく、ただ一つ――、

 

 まだ、生きている、と。

 

「(なに……が……?)」

 

 ぼんやりとそれだけを思い浮かべた吹羽は、その答えを求めるようにゆっくりと視線をあげた。

 鉛のように重い瞼を開き、目の前の光景をようやく脳が認識すると、そこにあった光景は――、

 

「れ……いむ……さん――?」

「……ええ、そうよ吹羽」

 

 吹き飛ばされた文に向かう、博麗 霊夢の背中。

 

「ねぇ文、あたし今から……」

 

 

 

 ――あんたを殺す(退治する)わね。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

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