風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第十九話 絶対の覚悟

 

 

 

 ――走れ、疾れ、もっと速く。

 羽が千切れてもいい。心臓が破裂してもいい。吹羽の側へ駆け付けて、彼女を守る刃を振るえる力さえあればそれでいい。

 木々の色が最早線となり果てて後ろに流れていく視界の中、椛はひたすらにそれだけを考えて山を駆けていた。

 

 妖怪としての脚力を惜しみなく炸裂させ、翼を広げて空を切り、なけなしの風を操る力で自らの背中を押す。烏天狗ほど飛翔が得意でない白狼天狗にとってはこれこそが最高速度を叩き出す奥の手。そうして椛は今までにないほどの爆発的速度で地を駆ける。

 

 最早一刻の猶予もなかった。

 先程、山の中間辺りで炸裂音が聞こえて来たのだ。そしてそれと同時に流れ感じたのは、普段よりも幾分か冷ややかに感じる射命丸 文の妖力。

 ――恐らくは、もう既に始まってしまった(・・・・・・・・)のだろう。なれば椛が取るべき行動は、一刻も……一歩でも速くその場所へと駆け付けて、吹羽と文の間に割って入ること。

 例え上司である文と刃を交えることになっても、吹羽を失うのがどうしても嫌なのだと――繰り返し同じことを思考する頭の片隅で、椛は強く自己認識した。

 

 疾れ、更に速く。

 そう念じつつ、椛は視界を絞って脚を回す。景色を視界に映すことすら無駄なことだと椛自身が無意識に断じた現れだった。

 余分な思考をカットし、空いた容量を風の操作と脚の踏ん張りに配分する。

 そうして椛は更なる加速を生み出す。

 

 ――その時だった。

 

 

 

「それがお前さんの答えかい?」

 

 

 

 刹那。

 不思議な程によく聞こえた言葉を脳が認識したその刹那の間隙に、椛は反射的に踏み止まって勢いを上に流した。殺しきれない慣性は巧みな体重移動によって流動し、椛の体をアーチ状に上空へと投げ飛ばして着地させる。

 ちらと見た元の場所では、何かが炸裂したように石片が飛び散り、砂埃を巻き上げていた。

 それに悟り(・・)、咄嗟に振り向いて――、

 

「〜〜ッ!!」

 

 神速で両腕を交差させて防御体勢をとった椛に、凄まじい衝撃が走った。

 それは小さく、しかしその余波で大木すらへし折れてしまいそうなほど、あまりにも強固な剛拳だった。

 その拳圧は、殺しかけだったとはいえ椛の全力疾走が生み出した慣性をいとも容易く上回り、直進していた体を無理矢理に逆方向へと吹き飛ばす。

 

 辛うじて着地に成功した椛は、その拳を放ったかの者を鋭く睥睨した。

 

「おぉっと、流石は“千里眼”だねぇ。今のを防御するのかい」

「あなたは……萃香様ッ!?」

 

 片手首をぷらぷらと揺らしながら“にへら”と宣うのは、音に聞く大妖怪 伊吹 萃香。

 予想外の登場に椛は多少狼狽するも、昔話(・・)を既に伝え聞いた彼女にとって理解は難しいことではなかった。

 つまり、この方も何かしら手を出す(・・・・)つもりなのだ――と。

 

「……おいおい、そんなに睨むなよ。一応わたし、元上司なんだけどな」

「……何故、私を止めるのですか」

 

 射殺さんばかりの眼光で睨め付ける椛に、わざと(・・・)足止めする位置に陣取った(・・・・・・・・・・・・)萃香は飄々と言う。それに返した椛の言葉は、ただただ率直なものだった。

 

 何故この最悪のタイミングでそんな行為に及ぶのか。だって、萃香は分かっているはずなのに。早く吹羽の下へ行かなければならないことは、彼女だって理解しているはずなのに。

 困惑よりも怒りが溢れてくる。椛はそれを抑圧しようとはしなかった。

 いくら上司であろうと、大妖怪であろうと、椛にとって邪魔者には変わりがなかったのだ。

 なれば、今すぐに萃香を斬り捨てるのに何の抵抗もない。

 

「知っているはずです。このままだと吹羽さんは文さんに殺される! 何故止めるんですか!?」

「……ああ? らしくねぇこと言うなぁお前。ほんとに妖怪か?」

「……は?」

 

 萃香は心底不思議といった表情で首を傾げると、一つ大きな溜め息を吐いた。

 

知るかよそんな事(・・・・・・・・)。妖怪は欲の権化だぜ? わたしが止めようと思ったから止める。ただそれだけのことさ」

「――! 〜〜ッ」

 

 無茶苦茶に過ぎる。椛は飄々と宣った萃香に強烈な苛立ちを覚えた。

 多少の理解は出来るのだ。椛も天狗という妖怪の端くれ、欲と畏怖こそが妖怪の成り立ちであるのは本能的に理解している。

 ――だが、それだけだ。

 欲の権化だからといって、人間を見殺しにできるわけではない。又、心が無いわけでもない。

 誰かの命を助けようと奔走する前に立ち塞がる者の理由が“そうしたいから”だなんて、冗談ではない。それは機嫌によって容易に人を殺せるということである。

 覚り妖怪にでも言わせれば、きっと“心が無い”と吐き捨てることだろう。

 そもそも吹羽の生き死にがどうでもいいなら、彼女は一体何を望んで手を加えるつもりなのか――……。

 

 椛は奥歯をギリギリと噛み締めながら、刀の柄を握り込んだ。すると萃香は、徐に口を開くと、

 

「ああ、そうだな……それで納得いかないなら、敢えてこう言おうか――」

 

 刀の柄へ手を掛ける椛を尻目に、萃香は徐に己の掌を眺め始めると、調子を確かめるように数度開閉する。

 そして最後に、グッと握り締めた。

 

「お前がここに来たからさ、ってな」

「――ッ!!?」

 

 瞬間、椛は今までに感じたことのないほどの重圧を感じた。握り締めた拳がその存在感をギシギシと椛の脳内へと叩き込み、それに呑み込まれて地中奥深くへ埋められたような気分になる。冷や汗が止まらなかった。そしてそれが、萃香の放つ膨大な妖力だと気が付くのに、椛は数秒の時間を要した。

 

 ――踏み出そうとする脚から、力が抜ける。一秒でも早く吹羽の下へ辿り着こうとする意思が必死に「萃香を斬り伏せろ」と叫んでいたが、それも彼女の放つ重圧に耐え切れず声を潜めた。身体も震えて、最早抜刀どころではない。

 

「見てたんだよ、お前がどうするつもりなのかをね。さっきの爆発があった場所へ走ってるってことは、止めに入るつもりなんだろう?」

「…………っ、……分かりません(・・・・・・)

「あ? …………おいおい」

 

 先ほどとは違い、酷く呆感の含んだ声音を萃香は零した。

 それに呼応して圧迫してくる妖力もその温度を下げていき、身体の震えは更に激しくなっていく。

 

「……戦いを止めたいとは思います。でも止めようと止めまいと、どちらかは必ず深く傷つく。私はそれを見たくないんです。駆け出さなきゃ始まらない。だから私はあの場所に向かって駆けています」

「………………冗談じゃねぇ」

 

 明確な怒りの篭った声音に、椛はびくりと身体を震わせた。

 

「分からない……って? 止めるかどうかも分からないまま……そんな半端な気持ちを引っさげて、あいつらの所まで行こうって? ……冗談じゃねぇぞ」

 

 零下の視線が突き刺さる。それに含まれた感情は、温度とは裏腹な灼熱の怒りだった。

 ――当然だ、と思う。

 萃香はこの事態を何百年も憂慮して、その上でここにいるのだろう。そこに半端者を介入させるなど絶対に許さないはずだ。

 なれば、今ここで本当に椛の命を握り潰しにかかることも辞さないのだろう。

 

 

 

 現に――萃香は既に、椛の目の前で拳を引き絞っ(・・・・・・・・・・・・)ていた(・・・)

 

 

 

「な――」

「遅せェッ!!」

 

 椛の千里眼はその動きこそ捉えていたものの、身体は全く反応が出来なかった。

 辛うじて出来たのは、体内の妖力を一点に集中させて身体を硬質化することだけ。それも身体が思考を置き去りにして本能的に行った防衛措置である。

 ――咄嗟の防御で間に合わせられるほど、大妖怪の攻撃は甘くない。

 椛が本能的に行った防御は僅かな効力しか発揮せず、威力の九割以上が殺せずに内臓へと炸裂する。

 椛は弾丸のような勢いで吹き飛ばされると、背を大木へと厳かに打ち付けて止まった。

 びちゃっ、と堪えることもできずに血反吐を吐き出し、地面を真っ赤に濡らす。

 意識の飛び駆けた反動で霞む視界に捉えたのは、揺らめくように視覚化した妖力を拳に纏った、萃香の姿だった。

 

「ぐっ……こふ……っ!」

「……わたしがここに来たのは正解だったってワケだな。そんな半端な気持ちで行くつもりなら、わたしは今ここでお前を殺してやる。二人の決着に邪魔になるだけだ」

 

 萃香はパシッと拳と掌を打ち付けると、明確な怒りの篭った無表情で椛を睨め付けた。

 

 その、ある意味二人のことを何処までも想った真摯な瞳に、椛は心の内を見透かされるような気持ちになって。

 その拍子に、椛は思った。

 ――ここが、分水嶺である、と。

 

「決めろ、犬走 椛。選択肢は多くない。何のため(・・・・)()、お前はわたしと戦う?」

 

 何としてでも生き残るために、戦うのか。

 それとも友人の下へと辿り着くために、戦うのか。

 萃香の言葉の裏には、その二択だけがあった。

 

 ……迷いはあった。

 文の気持ち、吹羽の気持ち、そして自分の気持ち。一体どれを取るのが正しくて、一番上手く終わらせられるのか。どれかを取れば必ず何かを失い、必ず後悔するはずである。

 その迷いは今の今まで燻り続けており、だからこそ萃香の問いに「分からない」と答えるしかなかった。

 

 ――だが、ここが決めねばならない時なのだろう。

 

 この先へ突き進むも、この場で立ち止まるも、決定を先送りにしてただ駆けていたところに萃香が立ち塞がったことで、どの気持ちを優先すべきかをはっきりさせなければならなくなった。

 そして数瞬の沈黙の後、椛は――心を決めた。

 

「……いいえ。半端なんかじゃ……ありません――っ!」

 

 確固たる意志で。迷う心を振り切って。椛は否定の言葉を口にする。

 

 自分が何を望んでいるのかを考えた時、椛は案外素直に答えを見つけることができた。

 それは確かに、傍から見れば半端なものなのだろう。どっちつかずな答えで、決めつけるのを放棄しただけで、まるで物語のハッピーエンドしか知らない乙女のような楽観的な思考なのだろう。

 だがそれを――心に決めたことを、外から“半端だ”と決めつけられる筋合いはない。

 

 妖怪は欲の権化だ。それは萃香も肯定した事実。己の望みに素直になって何が悪いのだ、と目の前の大妖怪は高らかに唄う。

 だから椛も、萃香がどれだけ半端だと吐き棄てようと、己の手でソレを掬い取るのみである。

 

「あなたがどうお考えなのかは知りません。文さんの気持ちも多少は分かります。自分が二人を止めたいのかどうか、止められるのかどうかは分かりません」

 

 ですが――と、椛はその瞳を、目の前の強大な“敵”へと向ける。

 

 

 

そんな事私には関係ない(・・・・・・・・・・・)。私は吹羽さんに死んで欲しくない。だから助ける。そこに立ち塞がるなら、私はあなたを斬り捨てます」

 

 

 

 椛の宣言に、萃香は少しだけ驚愕に目を見開いた。

 ああ、そうだ。吹羽に死んで欲しくない。出会って数日にも関わらず、椛は心の底からそう思えた。

 きっと、魅せられているのだろう。いつか烏天狗に話した、吹羽の“人を惹きつける雰囲気”に。だがそれが危険な香りのするものではないから、こんなにも自分は吹羽の危機を救いたがっている。

 

 それに、吹羽は紛れも無い友人なのだ。

 天狗族の任務を愚直にこなしてきた椛にとって、友人と胸を張って言える相手はある河童の少女しかいなかった。そこに吹羽が現れ、しっかりと「友達になろう」と言った訳ではないけれど、お互いがお互いを心配し助けようと思える“友人”となった。

 故にこそ、椛はその数少ない友人を絶対に失いたくない。

 

 椛は改めて自分の心を再確認すると、刀の柄を強く握り締めた。

 震えはもう無い。萃香が放つ圧力は欠けらも弱まってはいないけれど、身体に迸るのは己の鍛え上げて来た技と妖力だけだった。

 

「――……いいね、前言撤回だ」

 

 豪快な笑みが、ビリビリと大気を振動させているかのように椛へと圧力を感じさせる。

 その瞳に映っていたのは、先程までの暗い色の氷ではなく、一人の戦士へと向ける熱い闘争本能。

 

「どうやら、お前はまだ“妖怪”だったらしい。その我に素直な答え、わたしは嫌いじゃあないよ?」

「評価なんて求めていません。駄弁るだけなら退いてもらいたいのですが」

「おっと失礼、そっちは撤回しちゃあいないからね。意地でも退かないよ」

 

 それにな――そう、萃香は続けて、

 

「お前ら、人間を舐め過ぎだぜ? 連中は言うほど柔な種族じゃない。それこそ一天狗の助けなんて、巨大な防波堤の後ろに小石の支えを積むようなものさ」

 

 と、少しばかり非難の色が混ざった声音で言うと、萃香はすぅと構えをとった。

 椛も片足を引き、瞬時に抜刀できる体勢を作る。

 身体は重かった。萃香の重圧も先程の拳も、確実に椛の身体を侵し、破壊している。だが身体が壊れた程度で諦めるのは椛の性分ではなかった。“愚直”とは、悪い言い方をすれば“ひたすらに頑固”であり、“諦めが悪い”ことなのである。

 

 そして、どちらからともなく。

 

「いざ」

「尋常に……」

 

 視線が、交錯して。

 

「「――勝負ッ!!」」

 

 二人は地を、踏み砕いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 もうもうと立ち込める煙の中で、薄っすらと意識が覚醒する。

 意識を吸い取られでもしたかのように靄のかかる思考は、身体中の痛みによって無理矢理に引き戻され、血の滲んだ傷を余計鋭敏に感じて顔を歪めた。

 そうして吹羽は、あれ? と。

 

 

 

 ――死んで……いない?

 

 

 

 刃の塊が打ち下ろされる瞬間を見た。その瞬間の文の喜悦を見た。そしてそこに、吹羽は自らの死を悟った。

 身体を動かそうとすれば傷がじくりと痛み、吹羽にこれが現実なのだと訴えかける。

 傷は沢山ある。切り傷に擦り傷、皮が剥けて血の滲んでいるところもあるだろう。だがどれも今すぐ致命傷になるようなものではなかった。

 

 予想外の事態に思考が定まらない吹羽。

 そこに答えを放って投げたのは――土煙の向こうに立つ、彼女。

 

「あはっ、イイ顔してるわよ吹羽?」

 

 頬を染めて恍惚と微笑む文はとても扇情的で、しかしそれに、吹羽はとてつもない悪意と殺意を感じた。

 彼女の感情が昂ぶっている事は、その口調がシンプルに示している。

 悪寒が走るほどの不気味さを放っているのに、そこに艶麗すら滲ませる彼女の姿は、もはや吹羽に恐怖以外の感情を生ませはしなかった。

 

「痛い? 痛いわよね? 全身がきりきり痛んで呼吸するのも苦しくて、辛くて辛くて仕方ないわよねぇ?」

 

 酷く愉快そうに矢継ぎ早に問う文は、答えなど求めていない――否、分かり切っているとばかりに高嗤う(・・・)

 その声音に震えながらも、吹羽はゆっくりと、血の流れ出る二の腕を抑えながら立ち上がった。

 

「……な、なんで……殺さなかったんですか」

「――さっき言ったじゃない。もう忘れたのかしら」

 

 ぴたりと笑うのを止めた文は、再び能面のような無表情で冷たく言う。

 そして、口を三日月に歪めて、

 

「死んでいく感覚を、全身で楽しんで――ってさ。一瞬で殺してもらえる(・・・・・・・)なんて、本気で思ってたの?」

 

 ――寒気、が。

 その冷酷無情な言ノ葉から、吹羽は暴力的なまでの悪寒を感じた。

 そして、吹羽は悟る。文はきっと――殺してくれ(・・・・・)ない(・・)、と。

 

 吹羽を生かしたまま、嬲り続けるということ。痛いと叫んでもやめてと泣いても、きっと文は嬉しそうに嗤うだけできっと助けてはくれないということ。

 そして、もし吹羽が殺してくれと頼んでも、きっと簡単に殺してはくれないのだ。

 それは精神的に子供である吹羽が直面するには、あまりにも残酷過ぎる未来だった。

 すぐそこまで迫った未来であり、訪れることが確定した未来(悪夢)

 雪崩のように血の気が一瞬で引いてくらりと目眩を感じると、吹羽の酸欠寸前の頭で定まらない思考を爆発(・・)させた。

 

 胸が痛くて苦し寒いよ息ができななんでどうしこわいこわいこ嬲られる刻まれる壊され殺されないでも死ぬこともやだいやだいやだいやんなの夢に決まってに帰りたい死にたくない死にたくない死にたくない。

 

 

 

 ――なら、逃げなきゃ。

 

 

 

 これくらいの傷ならまだ走れる。吹羽は濁流のような思考の中でたった一つ見つけた結論に縋り、文に背を向けて駆け出した。

 脚は重い。血が固まるまで待てないため、動くたびに傷が開いて鋭い痛みが襲い来る。

 それでも脚だけは止めちゃダメだ。止めたが最後、きっと吹羽は拷問の果てに心も体も壊し尽くされて殺されるのだろう。

 それだけは嫌だと恐怖に煽り立てられ、強迫観念にも似た感情が必死に脚を動かす。

 

「あは……鬼ごっこね。ふふ、いいわ付き合ってあげる。精々逃げ回ってみなさいな」

 

 背後で聞こえてきた声に、吹羽は決して振り向かない。そんな余裕はなかったし、今は文の顔を見ること自体がとても恐ろしかった。

 だって、今この瞬間ですら彼女の笑顔が脳裏を過っているのだ。そこには悪意も狂気も殺意だって欠片もなくて、素直に綺麗で可愛らしいと思っていた。

 ……そんな時に、文のあの表情を見てしまったら、足を止めて蹲ってしまいそうだった。

 

 これが現実なのだと理解する心と、それを必死で否定して認めようとしない心が、相反してぶつかり合って、思考がぐちゃぐちゃになっていく。

 そしてそうなれば、吹羽はきっと文に追いつかれて、死ぬよりも残酷な仕打ちを受けるのだろう。

 

 ――それだけは、いやだから。

 

「(とにかく山を下りなくちゃ……)」

 

 ここは天狗のテリトリー、つまり文にとっては庭同然のはずだ。そんな中で逃げ回るのは無理がある。

 僅かな斜面でも、降りていけば必ず平地に出るはずだからと、吹羽は斜面を転げ落ちないよう少し踏ん張りを効かせて降りていく。

 ……と、次の瞬間だった。

 

 ――頭のすぐ側の木から、強烈な炸裂音が響いた。

 

「! きゃあっ!?」

 

 駆けることに必死だった吹羽に、それはあまりな不意打ちが過ぎた。

 吹羽はその唐突な烈音に、思わず驚いて転倒する。

 反射的に音の聞こえた木に振り返ると――その表面が、ズタズタになって抉れていた。

 

「(文さんの……風の弾丸!)」

 

 自分の身体に無数の傷を刻んだ、刃の嵐が脳裏を過る。その傷と酷似した木の傷付き具合は、文が背後から殺傷弾を撃ってきていることを示していた。

 再び、反対側の木に似たような音が響く。

 吹羽は震える心を無理矢理押さえ付けて、必死に駆け出した。

 

「ほらァ、追いついちゃうわよォ!?」

「(速くしないと……もっと速く!)」

 

 身体中の傷は足を動かすたび、体が揺れるたび、息をするたびに悲鳴をあげる。

 絶えず動いた為に血は止まらず、少しずつだが確実に流れ出ていた。自分の身体が徐々に冷たくなっていく気がして、吹羽は意識が遠くなる感覚を覚えた。

 

「うっ……〜〜っ、」

 

 ……なんで、いつ、どこで間違ったんだろう。

 傷が痛い。胸が苦しい。脚が重い。本当は文と仲良く話しながら椛の家を訪ねて、二人で彼女を元気付けるだけのつもりだったのに。

 なんでこんなに苦しいんだろう。なんでこんなに辛いんだろう。一体どこでどうすれば、こんなことにならずに済んだのだろう。

 答えの出ない問いと後悔がぐるぐると頭の中を回る。まともな思考などできる気がしなかった。

 

 今はただ、文が怖い。今まで直面したどんなものよりも彼女が恐ろしくてたまらない。今この時まで遠い先のことだと思い込んでいた“死と狂気”というものが、形を伴って迫ってくるようだった。

 

「(っ、今は……逃げなきゃ――!)」

 

 巨大な津波となって押し寄せる痛み、疲れ、苦しみ、そして恐怖。

 震える身体を押さえつけ、思考を手放そうとする頭を必死に繋ぎ止めて、吹羽は涙の浮かぶ瞳を前へと向ける。

 

 “死”は常に、背後を付け狙っていた――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 少し時を遡り、山の中腹。

 一瞬で姿を消した椛に、烏天狗は呆気にとられて佇んでいた。

 咄嗟に声はかけたものの、まさに脇目も振らずとばかりに姿を消した椛の背中はどこか凄まじい焦燥を感じさせる。一体何が彼女をそこまで追い詰めているのか、烏天狗には全く分からなかった。

 

「……ふむ」

 

 ――吹羽が文といることに、それほど重大な意味があるというのか。

 普段から冷静沈着な椛のことだ、何か大きな勘違いをして二人の関係を危険視している、という事もないだろう。となればやはり、彼女の焦燥は吹羽と文になにかしらの浅からぬ因縁があることを示している。

 

「(追いかけたほうがいい……のか?)」

 

 吹羽をここへ連れて来たのは自分だ。そしてそれを言い出したのも自分であり、文に引き渡したのも自分である。

 これで吹羽に何かあったとなれば、公平主義を謳う彼にとっては非常に寝覚めが悪いし、またそれから先彼女と顔を合わせる事も出来なくなるだろう。彼女程の刀匠と縁が切れるのは実に惜しい。

 

 少々打算的な思考が混ざりはしたが、結論としては既に出ているも同然だった。

 早速黒く大きな翼を広げ、空へと舞い上がろうとした――その刹那。

 

 

 

「まぁ待たんか」

 

 

 

 と、肩を掴まれ地に押し付けられる。その力は暴力的ではないにしろ、言葉とは裏腹に抗し難い圧力を生んでいた。

 振り向けば、

 

「てっ、天魔様ッ!?」

「うむ」

 

 多少強面な雰囲気を醸す天魔 冴々桐 鳳摩を前に、烏天狗は急いで跪く。

 追いかけようとした気など一瞬で消し去り、目の前の主へと最大の敬意を表した。

 

「て、天魔様。何故こちらに?」

「ああ、お主があやつらの下へ飛ぼうとしたのが見えたのでな、それを止めに来た。丁度先程、全天狗に待機命令を出したところじゃ」

「…………なる、ほど」

 

 ――つまり、烏天狗が飛ぼうと羽を広げたその刹那に。

 鳳摩はその瞬間を見て、判断して、翼を広げ、空を駆り、羽音もさせずに着地して、肩を掴んで地に下ろした、と。

 

 天魔がこんなところへ来た理由に驚くより、烏天狗はその途方も無い事実に戦慄した。

 天狗の頂点たる者の、それ(・・)たる理由を見せ付けられた烏天狗は更にふと、こう思う。

 これより強いと言われた先代天魔様は、一体どれほどのものなのか――と。

 

「……そ、それで、何故追ってはならぬと」

「うむ。己の意思(・・・・)を――……」

 

 と、先程炸裂音の響いた方向の、空を見据えて。

 

「嘘偽りない心を、見つけ出さねばならぬからじゃ」

「……心、ですか?」

「うむ」

 

 要領の得ない返答に、烏天狗はその程度の問いしか返すことができなかった。

 しかしそれは承知の上とばかりの天魔は、“烏天狗に返答する”というよりもむしろ独り言を呟くように言葉を落とす。

 

「もうすぐ古くからの()が……良くも悪くも晴れるのじゃよ。その為に、必要のある者(・・・・・・)以外に誰の介入も許すつもりはない」

「……失礼ながら、それは……」

「ああ、お主は察しがいいのう」

 

 声音と共に、ようやく烏天狗を捉えた言葉は、僅かに口角の上がった口から放たれた。

 振り返りながらに言った天魔は再度烏天狗から視線を外すと、過去の記憶を想起するように目を瞑った。

 

「儂はもはや“必要のない者”じゃ。あの日あの時……儂の心は既に決まっていたからのう」

「……意味が、分かりかねますが……」

「ハハハ、良い良い。これは年老いた爺の懐古じゃからの」

「はあ……」

 

 溜め息混じりの相槌を打ちながら、これ程抽象的な天魔様も珍しい――と、烏天狗は心の片隅で思った。

 天魔は物事をはっきりと言うタイプの人物である。遠回しな言葉を使いこそすれ、話し相手に理解の及ばない会話はほとんどしない。

 聞いた話では昔からこういう性格で、面白ければがっつりと食いつき気に入らなければ殴りかかる……そのような、言うなれば非常に“素直”だったらしい。

 そう伝え聞き、何より自分で見聞きした天魔という人物への理解があるからこそ、今の彼が少しばかり不思議な感触だった。

 

 天魔は視線を再び森の方へと戻すと、また呟くように、

 

「あやつは思い知らねばならん。そしてケジメをつけなければならん。あの方が意図したすれ違い(・・・・・・・・・・・・)を、今こそ正さねばならんのじゃ」

「あの方……とは?」

「儂の古き友……そして師のようでもあった方じゃ」

「天魔様の、師……」

 

 ――想像は付かない。そも鳳摩自身が烏天狗の理解の外の存在なのに、その師なんて人物に考えが及ぶはずもないのだ。

 ただ、古き友だと語るその時の。

 何処か哀愁の漂う瞳が、まるで残像のように視界に残って。

 

 烏天狗は思考する。

 吹羽と文にどんな因縁があったのか、一体何を抱えているのか。そして天魔が動き、他の介入を許さないとまで言い切る事柄ならば、恐らくは天狗族全てに関わる事なのだろう――と。

 

「(であれば、後は――)」

 

 椛が、何か良い方向に導いてくれることを願うしかない。

 烏天狗は変わらず跪きながら、椛の走り去った方向の空を見上げる。

 

 快晴だった空は、少しずつ鉛色の雲に覆い隠されようとしていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「はぁっ、はぁっ……う……っ、」

 

 ――どれくらいの時間を、逃げたのだろう。

 朦朧とする思考にそれを考える余力は残っていなかった。たった数分逃げただけの気もするし、もう何年も追われ続けている気もする。時間感覚なんてとっくにない。ただ背後から迫る恐怖から逃れるように、殆ど感覚のない脚を回しているだけ。

 身体は既に枝に引っ掛けた傷や飛び石、そして風の弾丸による切り傷でボロボロになっている。白かった服も、もう殆どが赤黒く染まってしまっていた。

 ――逃げる気力が、底を着き始めていた。

 

「おやぁ? もう終わりなんですかぁ?」

「っ!」

 

 風の弾丸が、言葉と共に頬を掠めた。

 霞んだ視界では着弾点は見えないが、きっと無残にもズタズタに切り裂かれているのだろう。掠めた頬にも切り傷が一つ、浮き出た赤い雫が、すぅと顎まで伝う。

 

「こっちも……だめ……っ!」

 

 振り切るように呟くと、吹羽は抜け落ちてしまいそうな脚でゆらゆらと踏ん張り、なけなしの力で方向を変える。もう何度も繰り返している事である。

 ――そうして逃げていて、一つ思ったことがある。

 それは確かに残虐でありながら、考え方によっては“希望”ともとれる事実だった。

 

 身体を掠めていく弾丸は絶え間がなく――但し弾幕ほどではない――周囲で炸裂を引き起こす。その時の木の破片や石が飛んで身体を傷付けて、次々と血が浮き出してくる。頭だって本当のところは、正しく働いているのかも定かでなかった。

 ただ、そう――掠めるだけ。

 つまり、今のところ文は吹羽を殺す気がない(・・・・・・・・・・・)という事である。

 

 もちろんゆくゆくは殺すつもりだろう。それも彼女が考え得る最も残虐非道残忍無惨な方法で。

 それは確かにとても恐ろしいし、考えるだけで震えが止まらない。それだけ今の文は何もかもが悪魔的且つ暴力的で、何もかもが破綻していた。

 

 だが、まだ殺されないのなら、希望はある。

 

「(殺される前に……殺す気になる前に、里に降りられれば……ッ!)」

 

 人間の里に天狗は入ってこれない。それは結界などの物理的障害があるからではなく、そういう協定(・・)があるからだ。

 人間の里は安全な領域だ、と。

 危険な妖怪は入るべからず、と。

 人間と妖怪の共存を謳ったこの世界の頂点が――何よりも強大な存在が、大昔にそういう掟を創ったのだ。

 何よりも高次の存在が創造した、意識にすら入り込む“見えざる壁”。

 だからこそ天狗達が押しかけてきた時問題になったし、あの烏天狗は吹羽に対して懺悔の姿勢を表した。

 

 そんな人間の里に入れれば、流石の文も暴れたりはしないはずだ――と。

 

「(それなら……無理矢理、にでもっ!)」

 

 入れてしまえばこちらの勝ちだ。傷だらけで駆け込んだ少女を見て見ぬ振りをするほど人間達も白状ではないし、九分九厘命は助かる。あとはどうにでもできるのだ。

 辿り着いた最善の策――強引と言えなくもないそれに、吹羽は躊躇う理由を見出せない。心身共に限界などとうに過ぎ去っているのだ、いつまでも逃げてはいられない。

 

 吹羽は相変わらずふらふらな脚をどうにか斜面の方へと向けると、力を抜く形で一歩を刻み始めた。

 人間は斜面を下る時、脚という支えを出す事で踏ん張りを効かせる。そこに何らの力は必要ない。疲れ切った彼女には最適な歩行方法といえよう。当然、速度も少しずつ上がっていく。

 心なしか、背後から飛来する弾丸の音も遠くなっていくような気がした。

 

「(いける……振り切れるっ!)」

 

 遠ざかっていく恐怖の気配に、吹羽は生存への光を見出した気がした。

 そうだ、初めからこうすれば良かったのだ。弾丸を避け続けることに傾倒するのではなくて、無理矢理にでも斜面を下って里に降りることを目指していれば良かった。そうすればこんなに傷付くこともなかっただろうに。

 

 暗闇で差した光に導かれるように、吹羽は疲労など忘れて力一杯に駆け出した。

 これで助かる。生きられる。死なずに済む。そして文に会うことも、きっとこの先なくなる。

 色々な思いが溢れ出して、そしてそれらは決して不快な色など現さず、吹羽の心のうちに広がり咲いて甘美な香りを振り蒔くかのようだった。

 

 そして、薄暗かった森の先に光が見えた。比喩ではなく、正真正銘陽の光。ずっと下ってきたのだから、きっとあの先が人間の里。

 足が自然と早くなる。背後に迫る恐怖なんて気にしてすらいなかった。

 吹羽は遂に呼吸することすら忘れて走り、その光の先へと手を伸ばした。掻き分けた木々や枝の先、向こう側の日の差す場所へと一心不乱に飛び出して吹羽は、

 

 

 

「え――……?」

 

 

 

 ――眼前の光景に、絶望した(・・・・)

 

「そんな、ここ……さっきの……!?」

 

 見覚えのある木々。光差す葉々の間隙。黄土色と小さな固形物の混合した吐瀉物。そして無数の刃を突き立てられたかのような、抉られた地面。

 

 ――吹羽が文を追いかけて辿り着いた、始めの広場だった。

 

「く、ふっ、ふふふふ……あはははははははっ!!」

「ッ!!」

 

 刹那、立ち尽くす吹羽の鼓膜に狂気染みた嗤い声が突き刺さった。

 頭の中でけたたましい警鐘が鳴り響く。脳内の血を全て出し切ってしまったかのように思考が冷え切り、全身の感覚は一瞬で凍り付いた。

 吹羽はその声音にびくりと体を震わせるも、振り返ることはできない。思考とは裏腹に、身体が――本能が意識から離れてそれを拒否していた。

 

「あはっ、まさかとは思うけどさぁ――」

 

 動け動け動け動け。

 脳内に響き渡る鐘の音に混じって、怒号にも似た焦燥の叫びが聞こえる。

 そして何より、“死”の足音が気持ち悪いほどによく聞こえた。

 手も動かない。足も動かない。頭も働かない。口も乾き切り、喉も震えず、心臓すらも動いていないかのように感じる。

 そして、どうにかこうにか、一瞬の瞬きをした刹那。

 

「――“逃げられる”なんて思ってないわよね?」

 

 

 

 背筋の凍るような文の微笑みが、目の前にあった。

 

 

 

「ひ……っ」

 

 ――全身が恐怖に竦んだ吹羽に、避けられる道理はない。

 文の放った風の一閃は、観えてはいても(・・・・・・・)避けられず、彼女の言葉を体現するようにお腹の薄皮だけを斬り裂いた。――にも関わらず、平和に育ってきた吹羽には見たことも感じたこともない程の血液が吹き出し、切り傷は叫びたくなるほどの激痛を走らせる。

 

「ほらぁ! 蹲るなって言ってるじゃない! 顔見せなさい、よッ!」

「きゃうッ!?」

「加減、してたのよッ! すぐ死んだりしないように、ここに戻ってくるように、ねぇ! 笑い堪えるの大変だったわ! あんた、私が誘導してるのも知らずに必死なんだもの! あはははははっ!」

「ぐっ、ぅうあぁぁあぁあッ!!」

 

 激痛に蹲った吹羽に対し、冷たく見下ろす文は吹羽の腹を痛烈に蹴飛ばすと、狂気的な高笑いを上げながら傷口を蹴り付ける。踏み躙る。

 

 ――痛い。痛い痛い痛い痛いッ!

 痛い熱い苦しい辛いやめてやめてぐりぐりしないでッ!

 踏み付ける脚は万力のような力で内臓を押し潰し、ゆっくりと抉るように蠢く。血がどんどん流れ出吹き出、みちみちぶちっ、と体が千切れていく音が気持ち悪いくらいによく聞こえた。

 地獄でいたぶられるかのようなその責め苦に、吹羽は言葉を紡ぐことも出来ないほど思考を蹂躙されていく。

 自分が、壊されていく感じがした。

 

「どう? 必死に逃げた挙句同じ場所に戻ってきた気分は? もっと泣いてもいいのよ? 叫んでいいのよ? ほら……ほらァッ!」

「っ、はあ゛ッ……ぅぐ……うぅ……っ!」

「なんか、言いなさいよッ、叫びなさいよ! 命乞いの一つでもッ、してみなさいよォッ!!」

「かはっ……あうッ! ゃ、やめ……て……ぇ――!」

「はああっ!? 聞こえない! もっとでかい声でッ、言えェッ!!」

 

 ――もう、何も考えられなくなっていた。

 襲ってくる痛みがあまりに強過ぎて、破滅的で、どんどん思考回路が崩れていく。壊れていく。

 もう逃げることなんてできない。そんな力も気力も気持ちだって一瞬で擦り潰された。抵抗するなんて考えられない。

 ……そもそも、友達だと思っていた文に裏切られた時点で吹羽の心は折れかけも同然だったのに、この拷問のような仕打ち。まだ幼い吹羽にはあまりに厳しく、そして残虐に過ぎる。

 

 投げ出された手足は血に濡れて、押し潰された腹から内臓が飛び出てきそうだ。瞳からは痛みとも悲しみともつかない涙がひたすらに溢れ出て、口からは意識とは全く掛け離れた苦悶の声ばかりが出てくる。

 

 身体は重く、気持ちは薄れて、思考は意識と離れていく。

 濃霧のかかった、限りなく真っ白な思考の中で吹羽はふと思う。そして彼女の小さな口は、その思いをするりと微かに漏らした。

 

「ぼく、が……いっ、たい……なにを、して……」

 

 ――文にこんなにも恨まれる覚えが、吹羽にはない。

 だって彼女とは、出会った当初から仲が良かったのだ。仲良くしてきたつもりだったのだ。いつだって彼女は笑ってたし、楽しそうにしていた。そもそも吹羽は、あの日出会うまで文と面識はなかったのだ。それがどうして、こんな事に?

 

 文は父親を吹羽の祖先に殺されたと言っていた。それは確かに怨嗟を生むには十分過ぎる理由だと思う。吹羽だってきっと家族が殺されたりしたら、殺した相手を生涯恨み続け呪い続け、死んで欲しいと願うかもしれない。

 

 ――でも、文のそれは、祖先であって吹羽ではない。

 

 遠い昔の先祖。直系とはいえ他人と思って差し支えないほど遠く離れた人物である。その他人が犯した罪と、それに端を発する文の凄まじい怨恨を、如何な理由で吹羽が清算しなければならないと言うのか。

 

 どうにもならない現実。取り返しのつかない過去。届かぬ言葉。

 ――これが、真の理不尽だとでも言うのか。

 全く無意識に、そして絞り出すように零した言葉は自分の思考の中で反響する。動かない身体とかけ離れた意識の中で、それはまるで“納得がいかない”と叫び散らすかのような激しい波紋を刻んで。

 ただ、そうして薄れゆく意識の中に入り込んできた言葉は――全く以って、想像だにしないものだった。

 

「――……ああ、そうだったわね」

 

 ――すぅ、と。

 どこか意識の遠くで響いていた笑い声はぱったりと途絶え、ずっと腹にのし掛かっていたモノもいつの間にか無くなっていた。そして何か(・・)が身体の内に流れ込んできたかと思うと、次第に頭から霧が晴れて意識がはっきりしてきたのだ。

 回復した思考で不思議に思い、視界を認識すると――文は少し離れた場所で、背を向けていた。

 

「……楽し過ぎて忘れてたわ。理由も言わずに痛め付けてもつまらないものね」

 

 本気で忘れていたとばかりにやれやれと身振りする文の背中。

 何処か道化染みているな――なんて思ったのは、彼女の表裏を垣間見た故か、それともただの現実逃避なのか。

 

「何も分からないまま死ぬなんて許せない。身体を壊すのは私の手だけど、あんたの心を壊すのは“理由”でなきゃならないわ」

 

 ――“目は口ほどにものを語る”という諺がある。

 そう言いながら振り返った文の瞳を目の当たりにして、吹羽は自分の甘さを痛感した。

 その瞳の奥にあった色は、もはや形容し難いほどに黒く淀んだ呪いの色。

 吹羽が理不尽だと、なぜ自分がと叫んだところで、その上から怒号で砕き散らすかのように。

 どれだけ理不尽であろうと、関係がなかろうと、絶対に晴らしてみせるという真黒な覚悟が、文の中にはあった。

 

「教えてあげる。戦のとき何があったのか……私が何を見たのか。あんたが死ななきゃならない、その理由を」

 

 数瞬の間を置いて、文の唇がゆっくりと開いた。

 

 ――時は、数百年前に遡る。

 

 

 




 今話のことわざ
()(くち)ほどにものを(かた)る」
 情のこもった目つきは、言葉で説明するのと同等に、相手に気持ちが伝わるものだということ。

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