風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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そよ風の章
第一話 いつもの一日


 

 

 

 灯り一つない闇夜に、後光が差した。

 

 東の空からは太陽が覗き、空気の澄み渡った朝の到来である。

 暗闇の支配する静かな夜が明ければ、そこに広がるのはひんやりと肌に心地よい空気。その冷い空気に応じてか、はたまた鶏の気魂しい鳴き声からか、眠れる人々はゆっくりと目を覚まし、そして自らの職務を開始するべく眠い目を擦りながらのそのそと準備を始める。

 

 どんな世界だろうと、恐らくは変わらないであろう平和な朝の風景。

 あるいは八百屋、あるいは草履屋、あるいは着物屋、あるいは道具屋。

 寺子屋の教師なんかも、早朝から営業を開始する職業の一つだろう。

 数時間後にはきっと、ここに住まう人間達と少しの妖怪達によって、活気の溢れる“人間の里”が姿を現す筈である。

 

 人々の動き出す朝の空気。それに乗り遅れぬ様にか、人間の里の一角では一人の少女が目を覚ました。

 

「ん、ふあぁあぁぁ〜……朝だぁ……」

 

 昇ったばかりの日が放つ陽光に照らされ、少女は未だに温もり求める身体に何とか抗う。

 暖かい布団を捲り、半身を起こし、欠伸を零す少女の目尻には、小さな朝露の如き涙が浮かんでいた。

 差し込む朝日の光が薄っすらとそれを照らして、キラリと露を光らせている。

 瞼をコシコシと擦ってそれを払うと、少女はグッと一つ、伸びをした。

「……準備しなきゃ」

 

 布団の暖かさにやはり名残惜しさを感じながら、少女はのろのろと布団を片付け始める。

 その動作一つ一つが覚束なくて、ふらふらとして、彼女の頭がまだ完全には覚醒していない事を分かりやすく示していた。

 差し込む光に当たっても、その程度では少女の目覚ましにはなり得ない。だが彼女にとっては毎朝の事なので、これはもう慣れっこだった。

 何をすれば朝の強大な睡魔を打ち倒せるのかも、既に彼女は知っている。

 眠気に負けまいと頻りに瞼を擦り、如何(どう)にかいつもの服、スカート、ペンダントを首に掛けて、羽を象った髪留めを着けた。

 後は居間への廊下を転ばずに進むだけ。

 睡魔を打ち倒す秘密兵器はその先だ。

 

「……うーん、鍵穴は……」

 

 カチャリ。

 廊下を進んで、部屋に入り、きっちりと閉めてある障子部分のすぐ横に目を向ける。

 耳に心地よい金属音と共に、少女は掌大の鉄の筒を壁に差し込んだ。

 

 ――すると、その直後。

 差し込まれた筒から、ひんやりとした風が吹き始めた。

 いや、それだけではない。

 筒が差し込まれ、風が入ってきた途端、この家の中は一瞬で緩やかな風に満たされたのだ。

 決して比喩ではない。流し込まれた風が余すところなく家の中を駆け巡り、ひんやりとしたそれに優しく包まれた少女の眠気をゆっくりと溶かしていく。

 少女はその白い髪をフワフワと靡かせながら、吹き抜ける風を全身で感じていた。

 それはそれは、心地良さそうに、

 

「〜♪ 今日も良い日になりそうっ」

 

 これが、毎朝に行われる目覚ましである。

 ついさっきまで彼女を追い詰めていた睡魔は、まるで鬼が炒豆を投げつけられたかのように逃げ出し、もう睡魔の魔力(強い眠気)は欠片も残ってはいない。

 代わりに、少女の心の内からは溢れんばかりの元気が湧いてきていた。

 どんな眠気も、朝のひんやりした風を感じれば一網打尽なのだ。

 彼女にとって、そんな風ほど心地良く、そして眠気を吹き飛ばすのに丁度良い物はないのだった。

 靡く髪は踊るように舞い、そこから見える横顔は微笑んでいる。

 ――少女は、風が好きだった。

 

「……さて、朝ごはん食べよ」

 

 お祈りもしなきゃ――と、部屋の隅に備えられた一つの神棚に意識を傾ける。

 小さくはあるが、何処か圧倒的な存在感を示すそれを横目で見遣り、少女は台所へと向かった。

 

「お腹、減ったなぁ」

 

 朝ごはんは何にしようか、なんて簡単な事を思い浮かべながら、少女は軽い足取りで台所へ。

 朝の食事は、一日を生きる生命の源である。

 幾ら風を浴びて元気が出ても、栄養が無ければエネルギーを作り出せないのが生物の身体だ。

 

 ――ご飯に、お味噌汁に、焼き魚と……お惣菜もまだあったかな。

 

 まだ幼い彼女も、それくらいは分かっているようで。

 頭の中で出来るだけバランスの取れた献立を立案しながら、食事の準備を始める。

 そしてそれが終われば、仕事を始める前に神棚の前で“お祈り”をし、今日一日の加護を願う。

 それが、彼女の朝の日課だった。

 

 かくして、少女――風成(かざなし) 吹羽(ふう)の一日は、始まる。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 幻想郷には、一つだけ神社が存在する。

 神や幽霊などが常識的に信じられるこの世界で、本来神を祀るべきである神社が一つだけというのは如何なものかと言うところだが、この神社にはしっかりとした役割が、その他にも存在した。

 

 ――博麗神社。

 

 幻想郷と外の世界の丁度境目、この世界の最東端に位置する古い神社だ。

 幻想郷の創生と同時期からある大変古い神社で、鳥居の色も禿げ掛かっていたり鈴が錆び付いていたり。

 古さ――良く言えば、歴史の深さを物語る程度には、所々ボロが目立つ。

 

 しかし、全く放置されているというわけでもない。

 放置されてしまうほど、如何でもいい役割を担っているわけではない。

 

 幻想郷と外の世界――幻想と現実を隔てる巨大且つ強大な大結界、“博麗大結界”の管理の中心となっているのだ。

 この結界があってこそ幻想郷は形を保ち、忘れ去られた者を受け入れる楽園と成る。

 故に、幻想郷にとっての博麗神社は、生物で言うところの心臓部に等しかった。

 世界の最東端という紛れもない僻地に立地しているとはいえ、この神社にとってはそれにこそ意味があるし、幻想郷には必要不可欠な、全く以って大切な神社なのだ。

 

 そして当然ながら、そんな大切な神社が無人であるはずがない。

 たった一人だけ。

 成人にも満たない一人の少女が、赤と白の不思議な装束を纏って巫女を務めている。

 彼女は、代々妖怪退治を生業としてきた博麗大結界の管理者。

 当代、“博麗の巫女”と呼ばれる。

 

 歴代最高の才覚を持ち、結界術に秀で、これまで才能のみで悪事を働く妖怪を退治し続けてきた天才。

 彼女の行う戦闘は、華麗且つ優雅、そして敵対する者に“勝てる気”そのものを抱かせないというのが、この世界での通説である。

 余談だが、彼女の事を良く知る“ある人間”曰く、「あいつは完璧に仕事をこなせる癖に、ちょっと面倒臭がりなのが玉に瑕」なのだとか。

 勿論、そんなことを言われているなど当人には知る由もないのだが。

 

 兎も角、幻想郷にはそんな巫女が存在する。

 妖怪からは畏怖され、木っ端妖怪などは見ただけで逃げ出すレベル。

 幻想郷で知らない者などいない程にその名を轟かせる彼女は――。

 

 “楽園の素敵な巫女”、博麗(はくれい) 霊夢(れいむ)という。

 

 

 

 そして件の博麗の巫女は今、ある場所に向けて人間の里を歩んでいた。

 

 

 

「(今は……正午近くね。 あの子もそろそろ昼休憩かしら)」

 

 今や天高くに昇りつめ、澄み渡った青空の中心で煌々と世界を照らす太陽を見上げて。

 人々の行き交う里の道を、霊夢は悠々と歩いていた。

 大きな赤いリボンがゆらゆらと揺れ、それに合わせるように艶やかな黒髪が風に吹かれている。太陽の光は、きらりと反射して輝いていた。

 

 これから霊夢が向かうのは、彼女の数少ない友人の家である。

 彼女が人里へ訪れる理由と言えば大抵はこれだ。何せ、他に訪れる理由がない。

 僻地に住む彼女が人里に訪れる理由といえば、まず挙がるのが買い出し、そして妖怪退治。……これだけだ。“まず”という言葉にはほとんど意味が篭っていない。友人の件を除けば、他に理由などないのである。

 友人というのも、人里に住むその人以外で挙げるなら、“瘴気の漂う危険な森に住む魔法使い”ときたものだ。

 彼女の友好関係がどれだけ特殊であるか、想像には難くないだろう。

 

 だから、今回も友人に会う為である。

 他に理由なんてなかった。

 

 巫女が神社を空けていいのか、なんて問いは、この際無粋である。

 そもそも前述のように、霊夢自身を恐れる妖怪が多いこの世界。

 仮に妖怪が来たとしても、それは霊夢に一度叩きのめされてある程度友好的になった者か、あるいは神社の必要性と重要性を熟知している知識人のみである。

 問題など、無いのだ。

 

 活気付く人里の中を、霊夢はすり抜けるように歩いていく。

 有名な彼女が里の中を歩いていても、人々はいつも通りとばかりに通り過ぎていった。

 そこの角を曲がって二つ目、まっすぐ行ったら裏道に入って――。

 最早通り慣れた道を逡巡無く選んで歩いていくと、段々と“近付いて来た”という合図の音が聞こえてくる。

 カンッ、カンッ、カンッという、鋼を打ち付ける鈍いながらも何処か高い音。

 風に乗って流れてくるそのリズムを頼りに、霊夢の足は更に迷いなく前へ出る。

 ――やがて、道が開けた。

 

「着いた。中にいるかしら?」

 

 呟きながら、目の前の一軒家に歩を進める。

 合図の音はますます大きく、そしてよりクリアに響いていた。

 微かに香る煤の匂いと、ちょっとだけ感じられる炎の熱。煤の匂いがこびり付くのは少々遠慮願うところだが、共に感じる炎の熱は肌寒いこの時期には丁度良い焚き火代わりとなろう。

 鼻を突く煤の匂いと、熱を照りつける炎。しかしそれも最早慣れたものだと、霊夢は音の響く倉庫のような建物を覗き込んだ。

 

「吹羽〜! 来たわよ〜!」

 

 

 

 此処、“風成(かざなし)利器店(りきてん)”の工房を――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「いやぁ、でも本当にちょうど良かったですよ霊夢さん。ボクもお昼はまだでしたし」

「それは何より。まさかあたしの分のご飯まで作ってくれるとは思ってなかったけど」

「気にしないでくださいよ。ほら、よく言うじゃないですか。“一人分も二人分も作る手間は変わらない”って」

「……まぁ、あんたが良いなら良いんだけどね」

 

 上がり込んだ友人の家、その居間で、二人の楽しげな会話が響く。

 空となった食器を片付ける吹羽は、霊夢が訪ねてきた事を心底嬉しく思ったのか満面の笑みをたたえており、当の霊夢もそれに吊られて、僅かに口元を緩ませていた。

 ただ、楽しそうに会話をしながらも手は休めることなく食器を洗う彼女の姿には、一見して薄情と言われる霊夢も僅かな罪悪感を感じた。

 だって、上がらせてもらった上にお昼まで貰って何も思わないなんて、それはもう人として腐っているだろう。

 霊夢自身、自分はそこまでダメな人間ではないという自負はあるのだ。

 

「……そうね、お昼も食べさせてもらったし、片付けくらいなら手伝おうか?」

「いえ、大丈夫ですよ。何たってボク、立派に一人暮らししてるんですからねっ! 掃除に洗濯料理と仕事! それに比べれば、食器の片付けくらいちょちょいのちょいですよっ」

 

 そう言い、僅かに膨らみの窺える胸を張る吹羽。

 彼女のその表情ときたら、これ以上は無いと言える程のドヤ顔である。

 それはある種では可愛らしく、そして実に微笑ましい仕草だった。

 

 吹羽という少女には、普段からこうして“大人っぽく振る舞おうとする”きらいがあった。勿論それを悪いとは思わないし、文句を言ったりもしない訳だが、一つだけ言わせて貰えば――霊夢に対してはあまり意味のない行為である。

 それなりに長い付き合いであり、吹羽の人となりを知っている霊夢は、当然素の彼女がどんな人間なのかをよく知っているのだ。

 よく見知った吹羽のそんな見栄は、図らずも霊夢を噴き出させるのには十分だった。

 

「…………ぷっ、あははははっ!」

「んなっ!? なんで笑うんですか霊夢さん! ボク変な事言いましたかっ!?」

「ふふふっ、いやいや、毎度思うけれどね、年端もいかないお子様の癖してそんな“大人アピール”とか、逆に子供っぽいわよ吹羽! 相変わらずねあんたは! くくくくっ」

「〜〜ッ」

 

 遠慮も躊躇いもなく大笑いする霊夢を前に、吹羽はみるみると顔を赤くする。

 確かに吹羽は幼いし、霊夢とも幾つか年が離れている。だが吹羽としてはやはり、その程度の差で子供扱いして欲しくないのだった。

 一人で暮らすには大きい家に一人で住んで、家事に仕事に近所付き合いと、子供には少々難しいとさえ思える環境の中で生活していると言うのに。

 ちょっとした気持ちと癖で張った見栄が原因で、またその相手が自分をよく知る霊夢だった事で、彼女の心はたった今猛烈な羞恥に襲われていた。

 

「い、良いじゃないですかこれくらい!

 “するは一時(いっとき)()末代(まつだい)”って(ことわざ)があります!

 それが大人ってものじゃないんですかっ!?」

「くふふ、そうねぇ吹羽はもう大人ね〜」

「……ぅぅう! 凄まじく馬鹿にされている気がしますぅ……っ!」

 

 そんな事ないわよ、と弁明する霊夢の口は、相変わらず微笑ましそうに緩んでいた。

 吹羽にも反論の意思は確かにあったが、同時に“言っても無駄だ”という推測も心の何処かに存在する。

 その為に言い返せず、小さく唸り続ける彼女のジトッとした視線に晒され続けた霊夢は、ようやく収まってきた笑いの余韻を振り払って深呼吸。

 息を整えてから、改めて吹羽を見遣った。

 

「……何ですか。まだボクを笑う気ですかっ」

「いや、そんなつもりはないけどね。……でもホント、あんたは良くやってると思うわよ」

「……?」

 

 ふと、口調の柔らかくなった霊夢に、吹羽は僅かに首を傾げる。

 つい先程までの怒りの矛も収め、彼女の言葉に聞き入った。

 

「あたしも一人暮らしだけど、毎日あんたみたいな仕事までこなせって言われたら、正直一ヶ月経たない内に音を上げると思うわ」

 

 吹羽を横目で見、そして更に横に流れていった彼女の視線は、この家の隣に立つ工房を見透かしていた。

 吹羽も彼女の真摯な気持ちに気が付いたのか、霊夢の隣に腰を下ろして柔らかく微笑む。

 それは嬉しさからか、はたまた照れ隠しか。

 

「……確かに、鍛冶仕事は慣れないと辛いかも知れませんね。それこそ、ボクみたいに昔から修行してないと」

「家業なんでしょ? こんな仕事、よく継ごうと思ったもんだわ。一人で暮らすには嫌でもやらなきゃいけない事が他にも山ほどあるのに」

「絶えさせる訳にはいかないって、言われた事があるんです。……それに――」

 

 ゆっくりと顔を上げる。

 目の前の机、畳、木製の壁と来て、遂に天井を見上げた。

 相変わらず緩く流れる風に揺れる髪をそっと耳に掛けながら、吹羽は天井に彫り込まれたススキのような彫り物を見つめた。

 

 風に揺れる草花のように、天井中に彫り巡らされたその紋様は、最早芸術的な迄に“流れ”という物の美しさを表している。

 それをじっと見つめ、そして流れる空気を肌で感じながら、吹羽は独り言のように呟いた。

 

「……ボク達一族の技術を学べば、もっと風を感じていられるかなって、思ってましたから」

 

 吹羽に吊られ、霊夢も天井を見上げる。

 それは霊夢の目にも紋様としての美しさをありありと見せつけていたが、その一方で、彼女にとってはそれが感嘆に値する物であるとも感じた。

 

 霊夢は知っているのだ。天井に彫り込まれた紋様が、どのような意味を持つのか。

 そしてそれが、幾ら天才の霊夢でも会得のしようのない程に高度なものなのだと。

 じっと見つめて、その太さや長さ、形、彫り込みの深さにまで目を向けてみる。

 ――しかし残念ながら、霊夢には何がどうなっているのかさえ分からないのだった。

 

「……相変わらず意味不明よねぇ。ほんとインチキ技術だわ」

「む、“風紋”をそんな風に言わないでくださいよ。確かにインチキ臭くはありますけど……」

「あんたが認めてどうすんの。 あれ彫ったのあんたでしょうが」

「そうですけどぉ……」

 

 ――風紋。

 そう呼ばれた天井の彫り込みに対して、霊夢は軽い溜め息ながらに皮肉を放つ。

 突出して秀でるものは、他の目からは奇妙に映るものだ。突飛出て強力な存在が居たとして、その力を持て囃されて磨き続けても、力がある一定を超えると尊敬が恐怖へと変わり、連鎖的にその存在は『英雄』から『化け物』へと様変わりしてしまうのだ。

 同じ様に、“彫り込みによって空気の流れ(・・・・・・・・・・・・・)を操る技術(・・・・・)”である風紋は、霊夢にとって非常に理解し難い技術なのだった。

 風紋の機構を理解できない彼女にからすれば、正しくインチキ技術と言う他ない。それ程までに信じ難い技術であり、その道に精通した吹羽の一族でしか扱えない、極めて高度な技術。

 出る杭が異様に見えるのは、当然と言えば当然の事なのである。

 

「ま、あんたがあれを彫ってくれたお陰で、あたしは今こうして気持ちよーく過ごせる訳なんだけどね」

「……別に霊夢さんの為に彫った訳じゃないですよ?」

「あら、あたしの為には彫ってくれないの?」

「…………ぅぅ……その言い方はズルいと思いますぅ」

 

 

 文句も度々口から出せど、なんだかんだで吹羽も霊夢の事を悪くは思っていない。

 彼女の反応から何となくそれを察した霊夢は、彼女に悟られない程度に、僅かに頬を綻ばせた。

 

 “他人に等しく興味を抱かない”

 そう評価されることの多い霊夢としては珍しいとも言える様子である。

 彼女自身、その理由は漠然としか把握していなくて。

 だけど、ちゃんと吹羽の事は友人と認識していて。

 

「(……我ながら、不思議な事もあるものね)」

 

 現実と自己認識に僅かな差異を感じつつ、“まぁいいか”程度に思考を打ち切る。

 友人が居て、困る事など多くはない。

 友人という存在が時に煩わしいものとなるのを霊夢は知っていたが、吹羽にはその心配も必要なかった。少なくとも、今まで接してきた彼女はそうだった。

 だから霊夢にとっても、吹羽との付き合いは決して無駄ではない。

 無駄だと切り捨てられるほど、浅く無意味な付き合いではなかった。

 

「――っと、そろそろ仕事に戻らないとですね。霊夢さんは如何しますか? ボクはまた工房に篭りますけど」

「ん〜……邪魔するのも何だから、あたしも帰ろうかしら。里の見回りでもしながら、ね」

 

 そう言いながら、霊夢はすくっと立ち上がった。

 ここは風が心地良いし、なんだかんだ言って吹羽との会話はちゃんと実がある。

 だから、もう少しここに居たい気持ちも確かにあったのだが、吹羽が仕事を再開すると言うのならば、自分の衝動を抑え込むのには何の障害もない。

 

 仮に吹羽が八百屋を営んでいたのなら、霊夢は喜んでこの場に留まるという選択をするだろう。そういう商売は会話しながらでも問題はないのだから。

 だが、実際はそうではない。

 そんな“もしも”は、想像するだけ無駄なのだ。

 吹羽の仕事は、集中を欠けば大怪我をしかねない類のものである。

 全ての工程が危険な訳ではないにしても、わざわざ危険を冒してまで、自分の相手をしてくれなくてもいい。

 だからここに居ては、吹羽の邪魔になってしまう。

 

 せっかく会いに来たのに、お昼を食べてもう終わり?

 霊夢は帰らざるを得なくなった事をほんの少しだけ残念には思いながらも、仕方なく玄関を出る。

 少し進むと、半身だけ翻して吹羽を見遣った。

 

「……また来るわ。じゃあね、吹羽」

「はい! また来てくださいね!」

 

 吹羽の輝くような笑顔を背に、霊夢は元来た道を戻って行く。

 もう一度振り向く事はなくとも、霊夢は、片手をヒラヒラと振る事だけは忘れなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 帰り道、霊夢はふと空を見上げた。

 真っ白な雲が浮かぶ青い空は、清々しいほどの晴天である。未だ日は高く登っていた。ただ、少しだけ傾き始めただけだった。

 彼女が吹羽の家を訪れてからは、時間にして二、三時間経った頃だろうか。

 正直な所、今から神社に戻っても特にする事がない。事件だって特には起きていないし、なんだったらこの間“月”に関する事件が起きたばかりである。

 勿論、そんな出来事が頻発しては霊夢としても堪ったものではないが、余りにも暇に思う時だけ、不謹慎にも“何か起こらないかなぁ”なんて事を考えてしまうのは、彼女が自分勝手だからなのだろうか。

 霊夢は無意識の内に、自らへの呆れとも暇な事への軽い鬱とも取れる溜め息を零した。

 

 取り敢えず、帰って考えよう。

 そして少しでも暇が潰れるように帰ろう。

 ぼんやりとそんな事を考える。

 飛んで帰る事もできるが、何となく霊夢は、それを勿体無いと思った。

 そしてそれは今考えれば、吹羽の家に来た時もそうだった。

 曖昧な気持ちだったし、それに従わなければならない訳でもない。

 しかし霊夢は、やっぱり歩くのが良いなと思った。

 

「うぅ〜ん……今日も平和ねぇ……」

 

 平和過ぎて、退屈なのが皮肉だなぁ。

 不意に立ち止まり、寝起きのようにググッと伸びをした霊夢の額に、一枚の葉っぱがふわりと乗る。

 払うように手で取ってみれば、その葉は見事な迄に鮮やかな色をしていた。

 

 赤、黄、橙。

 少しだけ緑が混じっても綺麗だろうが、この葉は燃えるように鮮烈且つ実に美しい色をしていた。

 そしてその色が、今のこの世界を綺麗に染め上げているのだと、霊夢はふと思い返した。

 

 太陽は天高い。

 だんだんと冷えていく事は想像に難くないが、今の空気は程良く暖かく、風がとても心地良い。

 ちょっとした拍子に焼き芋の甘い匂いが流れてきても、きっとこの素晴らしい環境を感じる良いファクターにしかならないだろう。

 

 

 

 ――幻想郷は、鮮やかな秋を迎えた。

 

 

 

「さーて、戻ってお茶でも飲もうかな」

 

 暢気な呟きを零しながら、そして横目に景色を楽しみながら、霊夢はゆっくりと神社へと戻って行くのだった。

 

 現在の幻想郷は、退屈な程に平和である。

 

 

 

 




 今話のことわざ
「するは一時(いっとき)()末代(まつだい)

 つらい嫌な事でも一時我慢してやれば済むことであり、するべき事をしないでいれば、不名誉は後々まで残るの意。するべきことは、苦痛であってもしなければいけないという教え。

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