全ての始まりは、あの時の絶望感。
受け入れられなくて、呑み下すことができなくて、足元から崩れ去っていくあらゆる想いの中で何も考えられずに震えて怯える。
そんな中で唯一受け入れられたのは、目の前にあった一つの事実だった。
なんで。どうして。
そんな言葉だけが渦を巻く壊れた思考の中で受け入れたその事実は、その時の自分を奮い立たせる柱にするには十分過ぎたのだ。
十分過ぎて――我が身を焼き焦がすように、黒く、熱かった。
◇
サクサクと柔らかな音を奏でる枯葉を踏みしめ、吹羽は先を行く文の背中を急いで追う。
足元から聞こえる軽やかな秋の声音を楽しんでいたからか、ふと気が付けば文と距離が開いてしまっていた。
元より吹羽と文では身長差がある。故に歩幅にも差が生まれて来るわけであり、吹羽は少しだけ素早く足を回さなければならないのだ。だのに紅葉に気を取られていたら距離が開くのも当然である。
吹羽はもう何度かこんなことを繰り返していた。
だって、紅葉がこんなにも綺麗なんだから仕方ないじゃないか。
それでも少しばかり大変に感じた吹羽は、僅かに疲れた声で言う。
「あ、文さんっ、ちょっと早いですよぅ!」
「……え、あっ、すいません吹羽さん。気が回っていませんでした」
「……?」
振り向いた文は考え事でもしていたのか、少々驚いたような顔で吹羽を見遣っていた。しかし直ぐに表情がいつもの微笑みに戻る。それはまるで取り繕っているようにも見えて。
……何か悩みでもあるのだろうか――と吹羽はぽつりと思った。歩いている時まで――そして優しい文が吹羽への気遣いを忘れるほどともなれば、それなりに大きく複雑な悩みを抱えている可能性がある。
でも感情を読み取るのが比較的得意と自負する吹羽から見ても、文が悩みを抱えているような雰囲気には見えなかった。
一体何を考えていたんだろう――そんな事をちらと考えていると、文の背中が目の前にまで来ていた。少しだけ歩く速度を落としてくれたようである。
「でも吹羽さん、早く椛に会いたいんですよね? 抱えて飛んでもいいんですけど、それはイヤらしいですし」
「それは、そうなんですけど……」
本当は、以前霊夢や早苗がしてくれたように抱えて飛んでもらうのが一番速い。もちろん文に抱き抱えられるのが嫌なわけでもない。
だが今の吹羽は鉄の塊である刀を数本差している状態だ。勿論この状態でも文ならば容易に空を舞うだろうが、それでも決して軽いわけはないはずなのだ。
重くて疲れることが分かっているのにそれをわざわざ頼むなんて、そんな図々しいこと吹羽にはできない。
“人間の里を出るときは帯刀するように”と霊夢に口酸っぱく言われているので、基本的に吹羽は遠出する時には歩くしかないのである。
「(まぁ、諦めるしかないって分かってるんだけどね……)」
吹羽は文に気がつかれない程度に苦く笑うと、小さく溜め息を吐いた。
べ、別に飛んでみたくなんかないし。此間早苗に抱えられて激しく飛んだ所為で高いところ怖いしむしろ飛びたくないしっ!
――……はい、ウソです飛んでみたいです。また身体いっぱいに風を感じてみたいです。
もう何度繰り返したか分からない“飛行を嫌いになる脳内体操”が、これまたいつものように成果を実らせない事実に内心で肩を竦める。
やはり人間というのは、本能的に大空へと羨望を見出すものなのである。だからボクはなにも悪くないのだ。ないったらない。
「うーん……あ、それなら手を繋ぎましょうか!」
「え、手を?」
「はい♪」
ああなるほど、それは名案だ。
こうして言われるまで全く考えもしなかったが、確かに手を繋いでいれば歩幅は合わせざるを得なくなるし、万一にもはぐれることはないだろう。
吹羽は差し出された手を遠慮なく取ると、歩き出した文に引っ張られる形で足を踏み出した。
――触れた瞬間、文の手が僅かに震えた気がしたものの、吹羽は気に留めなかった。
「……ねぇ吹羽さん、ちょっとお話ししましょうか」
「お話し? 今もしてますけど……」
「ああうん……えっと、そう!
「わぁ! 妖怪さんたちの昔話ですか! 是非聞かせてください!」
妖怪達の昔話。その響きは吹羽にとって意外なほど魅力的だった。
風成一族もその受け継ぐものの中に一つの伝承――神奈子曰く“神話”がある。それだって昔話の一つだ。
であれば、自分達が受け継ぐ昔話とは別に、妖怪達が受け継ぐ昔話とはどんなものなのだろう、と興味を持つのも不自然な事ではない。
文は吹羽の手を引いて歩きながら、しかし彼女を見遣る事もなく言葉を紡ぐ。
「そうですねぇ……じゃあ折角
「ここ……妖怪の山で起こったこと、ですか?」
「はい。昔、この山を支配していたのは天狗じゃあなかったんですよ」
「え……じゃあ、なんの妖怪さんが?」
「鬼、ですよ」
「っ……お、に……?」
予想していなかった衝撃の単語に、吹羽はひゅっと息を詰まらせた。
鬼。
曰く、“力の権化”と呼ばれる非常に強力な妖怪。
喧嘩と称した殺し合いと酒がなによりも好きで、昔はその習性故に多くの人間がその“喧嘩”に巻き込まれて命を散らしたと聞く。
最近ではここ幻想郷でも、鬼の大妖怪、伊吹 萃香が現れたと霊夢に聞いたことがあった。
非常に好戦的で、強力で、恐ろしい妖怪である。
「平和に暮らしていた私たち天狗の元へ、鬼達は突然やってきました――」
――文の昔話。それは数百年前に遡る。
当時既に縦社会を築き上げていた天狗は、それこそ今の妖怪の山のような規律の下に生活をしていた。
天魔を筆頭にして大天狗、烏天狗、白狼天狗と続く縦に連なった社会。そこに共存していた河童も加え、妖怪の山は成り立っていた。そして当然、この頃から侵入者には非常に厳しい対応をしていた。
『さあ天狗共! その力を見せてくれやッ!』
ある時、何の前触れもなく鬼達が姿を現し、山の真正面から堂々と侵入してきた。
喧嘩をしよう、拳で語らおうと凄絶なまでの意思と声音で言い放つ鬼達に、天狗は“言われずとも”とばかりに猛々しく斬りかかる。
しかしその抵抗も虚しく、鬼達は襲い掛かる天狗達の悉くを蹴散らしながら登り行き、気が付けば――天狗族と鬼族の、全面戦争となっていた。
「その時、文さんは……」
「ええ、居ましたよ。――小さい頃、あの場に」
拳の下に地面の爆ぜる音、吹き荒ぶ風が皮膚を引き裂く音、轟く怒号、響く悲鳴――鮮やか過ぎる、紅の色彩。
天狗は刀と風、鬼は己の強靭な身体を用いてぶつかり合い、その衝撃と叫びが地を揺らしていた。
突風烈風へと結い紡がれた風はあちこちを駆け巡り、それに対する鬼はその拳圧で以って大気を爆ぜさせ、当時の妖怪の山は大気のめちゃくちゃな動きによって異常気象すらも起きていたという。
そうした鬼と天狗の戦争はあまりに激し過ぎて、しかし確実に鬼を優勢として、三日三晩続いたそうだ。
しかし、山のあちこちで苛烈な殺し合いが続く中で起きた――ある二つの強大な力の衝突が、終わりの秒読みを始めた。
「強大な力……」
「はい。鬼の序列の事は知っていますか?」
「え、序列なんてあるんですか?」
「ええ、まぁ。一般的な鬼全てを一番下として、その上に“四天王”、頂点に“鬼子母神”がいました」
「じゃあ戦ったのは鬼子母神さん?」
「いえ……戦ったのは四天王の一人、そして我らが天魔様です」
それはあまりに不利な戦いでもあった。
鬼子母神率いる四人の四天王は、襲い来る天狗の悉くを片手間に蹴散らしながら登り続け、遂には頂上付近にまで上り詰めた。
そこで待ち受けていたのは当然、天狗族筆頭、当時の天魔である。
強者との
「そ、そんなの無謀ですよっ。向こうは五人もいるのに、天魔さんは一人でしょう? いくら一人ずつって言っても、身体が保ちませんよ!」
「そうです。だから天魔様にとってはあまりに不利な状況でした」
しかし、だからと言って投げ出せる戦いではなかった。
天魔が率いるのは妖怪世界の一大勢力、『天狗』である。その風を読み操る力は他のどんな妖怪にも真似はし難く、そして強力な力。加えて縦に連なるその社会の特性である、天狗同士での“連携”にも恐ろしいものがあった。
――その頂点に立つ天魔という存在が、どれだけ大きなものなのかは想像に難くないだろう。
格上を何人相手にすることになっても、天狗の領域を侵す
――少なくとも、当時の天魔はそういう天狗であった。
しかし、
「ですが、それでも天魔様は四天王の一人目を討ち取ることには成功したんです」
「ほ、ほんとですかっ!?」
「天魔様だって大妖怪です。鬼だからと言って、同じ大妖怪相手に明け透けな遅れを取る人じゃなかったんですよ」
苛烈を極めた大妖怪同士の殺し合いは、一先ずは天魔が勝利を納めた。
鬼子母神を始めとした四天王も驚愕に目を見開いていたが、しかし次の瞬間その空間を満たしたのは、狂気的とすら思える四人の大妖怪の高笑い。
最早満身創痍に等しい天魔に対して、しかし鬼達は、さも何でもないことのように言う。
『四天王を
『死んだあいつも満足してるだろうよ!』
『よっしゃ、じゃあ次はわたしだ!』
そう言って、凄絶な笑みで躍り出て来たのは、
「……その、勝敗は……」
「………………」
呟くように尋ねると、文は唐突に立ち止まって空を仰いだ。
見上げたその姿に強烈な哀愁を感じ取った吹羽は、反射的にびくりと肩を震わせ、そして無神経にも問うたことを、心の底から後悔した。
そんなこと、問わずとも分かっているはずなのだ。
先程文が“一人目は”と表したことから。
妖怪の山が鬼に支配されていたという事実から。
そして文が、決して武勇伝を語るような口調ではなかったことから。
予測出来なかったはずはない。吹羽は同年代の子供達と比べれば頭も良いし、気遣いのできる少女である。
だがそれでも、こうして踏み込んではいけないことに踏み込んでしまった。
それがどれだけ辛いことなのかを、吹羽はよく知っているはずなのに。
天狗が敗れて、鬼に支配されるようになって、一体この社会がどう変わったのかは知れない。
しかし昔話を語る文の姿に察するならば、決して良い扱いではなかったのだろう。その戦の時、敗れてしまったことを心底から悔いる程度には。
「ああ――……」
犯してしまった失敗に吹羽が声を出せずにいると、ぽつりと呻くような声が文の口から漏れ出た。
変わらず天を仰ぐ文は、微かに、小さく、
「……え? 今なんて――あっ」
反射的に尋ねるより早く、文はするりと握っていた手を離すと、歩いていた山道を横に外れて駆け出した。
身体能力に制限をかけなかったのか、その速度は並外れて速く、瞬きする間に木々の影へと消えていく。
徐に手を伸ばして、
「あ、文さんッ!」
――いけない。
今の文を、放っておいたら絶対にいけない。
吹羽は文の手が離れていく感触を思い出して、さぁ――と血の気が引いていく気がした。
“踏み込んではいけないこと”。それは得てしてその者にとって強烈で、凄惨で、忌み嫌って止まない記憶。氷の張った水面のように、踏み込んでしまえば容易く割れて、押し留めた感情を止めどなく溢れさせる。
知っていたはずなのに。
それも、ついこの間自分がされたばかりなのに。
星月の美しかった、あの夜のことを思い出す。
あの時の早苗は、どうしようもないほど優しくて、暖かくて、ひび割れた心に染み入ってくるのに、決してそれを辛いとは思わせなかった。
そしてそれに、吹羽は確かに安らぎを感じて、心が楽になった。
「――追いかけなきゃ……!」
そうして貰った経験が、今活きる時だ。
あの夜の早苗は故意だったが、今文の心に踏み込んでしまったのは吹羽のミス。しかし、そうしてしまったのなら責任は持たなければならない。
例え早苗のように上手くはいかなくても、今この瞬間、ひび割れてしまった文の心に安らぎを与えられるのは、友達である吹羽の役目なのだ。
吹羽は意を決して、文の消えていった木々の中へと一歩踏み出す。
――何故だか、昼間にも関わらず薄暗い森の中が、酷く不気味に感じた。
◇
――まぁ、結局それは、霊夢にとって物事を裏付けるための
それであらゆる物事を決めてしまうのは加減法よりも簡易明白な愚行であるが、かといって全く無視してしまうのは何処か勿体無いというか。
誰だってその筈である。誰にでも出来ることで、備えている力で、だけれど信憑性は薄いからアテにはしない。人里に暮らすような一般民は全員がそうだろう。それが“ある道の達人”だというのなら少し話は変わってくるが。
――ただ、霊夢の場合はそれが信憑性を通り越して現実味すらも帯びるほどに正確なのだ。
先天性の能力かもしれない。ただ単に毎度当たっているだけかもしれない。そうして誰もが持っている力でありながら、しかし霊夢のそれが突出しているのは確か。
今日も霊夢は、その明晰な頭脳の片隅でその感覚を受信する。
そう――ふと、
「……今度は何かしらね」
この間月の異変を解決したばかりなのに。
霊夢はそう心の中で悪態付くと、手にしていた箒をぽいっと放り出して袖の中を弄る。
常備しているものはあらかた入っていて、改めて準備するものは無い。流石あたし。
霊夢は袖から手を引き抜くと、そのまま流れるように伸びをした。
コキコキ、と肩甲骨の辺りで快音を響かせ、首を回して調子を確かめ、最後に大きく深呼吸。大体こういう予感がするときは面倒ごとが起こるのだ。準備運動はしておいて損はない。
――と、そういえばこの方角は妖怪の山だ。
妖怪の山といえば天狗……そう考えて、霊夢は一つ思い出す。
確かあれは、吹羽と文と早苗とで花札をした日のこと。
僅かに感じた
「………………」
あの日の文の目的は、恐らくは吹羽だった。
しかし、あの日は三人――後から早苗が加わって四人――してただ遊んでいただけで、普段文が嘘と話術を用いてまで行う“取材”は全くと言っていいほど無かった。結局何がしたかったのかは終ぞ分からなかったのだ。
ただ重要なのは、
吹羽を見る文の瞳が、普段とは違うものだったということ。
確かに僅かな変化だった。恐らくは吹羽も早苗も気にさえしていない。
しかし霊夢は違ったのだ。その文の瞳は普段の飄々とこちらを見下すようなものではなく、むしろ――。
「……ま、どんなことであれ、あたしの勘ってほぼ外れないし」
――もし吹羽が関わっているのなら、尚更行かなきゃならないし。
霊夢はいつもの能天気な思考回路で情報を割り切り、しかし異変解決に向かう時のような、どこか鋭く冷たい瞳で地を蹴ると、雲の目立つ空へとひらり舞い上がった。
◇
――椛は、迷っていた。
あの日の夜、天魔の下へ直談判しに行き、そして
示されたその選択肢は、優しい椛にとってこれ以上なく頭を悩ませる。
歩き慣れた森の中の獣道で、椛は僅かに俯いてトボトボと歩いていた。
普段は頭の上でふわふわと揺れている白い耳も、今はへたりと元気なさげに萎れている。
そのあまりの集中力の無さに、仕事の邪魔だと言われて追い出されたほどだった。
普段なら喰らい付いてでも仕事を全うしようとする椛だが、今回ばかりはそんな元気が湧いてくることもなく、むしろ丁度いいとすら思って椛は仕事場を離れたのだった。
「私は、どうすれば――……」
阻むのも傍観するのも、それが生み出す結果はきっと、どちらも納得のいかないものになる。それが容易に予想できたから、椛は答えを出せずにいた。
時間は決して止まらない。椛がどんなに悩んで、答えを出すのを先延ばしにしたとしても、時間はタイムリミットに向けて何者にも阻まれずに迫ってくる。
焦燥にも似たそれが、ジリジリと身体の内側を炙っているかように感じるのだ。
答えは出さなければならない。だが答えを出す勇気は、椛にはまだ無かった。
――そんな時。
「む、そこにいるのは……まさか椛か?」
背後から聞こえた声に徐に振り返ると、そこにあったのは見覚えのある顔。此間風成利器店へと押し掛けた烏天狗だった。
心底不思議といった声音に違わず、彼は僅かに眉間に皺を寄せて椛を見つめていた。
「……はい、そうですが。何か用ですか?」
口を突いて出た言葉が思っていた以上に棘のあるものだったことに、椛は内心で驚愕する。しかし言い直す意味も必要も感じないので、椛は半身を翻した流し目のまま烏天狗を見つめた。
――己のその瞳が、いつも以上に冷たい光を帯びていたことには、彼女自身薄っすらと気が付きながら。
「いや、何故お前がこんなところにいる? お前の持ち場は別の場所だし、家もこの辺りではないだろう」
「? ……ああ、そうですね。うっかりしていたようです」
言われて見回すと、烏天狗の言う通り、椛の持ち場とも住居とも離れた場所であることに気が付いた。
どうやら、頭を悩ませながら歩いていた所為で随分と道を外れてしまったらしい。
椛は不意に漏れそうになった溜め息を寸出のところで噛み殺し、烏天狗に軽く会釈をしてから身を翻した。
――と、一歩踏み出したところで、
「待て」
引き止めた声はやはり、烏天狗のもので。
「何か用が?」
「いや、用という訳ではないがな。一体どうした? 頭の回るお前が呆けるなど珍しい」
「……少々、考え事をしていまして」
「こんなにも道を外れるほどにか? しかもまだこの時間は哨戒の任務中だろう。まさか怠業ではあるまい」
「…………今日の任務は外されました。集中力がなさ過ぎる、と」
「……愚直で真面目なお前が、か?」
「はい」
「何があった?」
「……答える義理はありません」
「尤もな意見だ」と烏天狗は肩を竦めると、呆れたように溜め息を吐く。
そう、答える義理なんてこちらにはない。
いくら彼が天狗族の一翼でも、関係があるのは一握り。そしてその一握りの中に自ら飛び込んだのは椛の意思であり、選択に他の誰を介入させる気もないのだ。
……本当のところは、知り合いといえど上司なのであまり突っぱねるのは椛としても良くはないのだが、今の彼女にはそこまで気を回せる余裕がなかった。むしろ、あまりしつこいならば斬り捨ててしまっても構わないとすら思っていた。
その冷淡で容赦ない思考が映ったかのような、変わらず冷やか――というよりは、冷め切った覇気のない瞳を向ける椛に、烏天狗は逃げるように視線を逸らす。
その様子に会話の終わりを悟った椛は、くるりと踵を返して住処への道を辿り始めた。
――が、椛はまたしても、烏天狗の言葉に足を止めることになる。
「そう言えば、お前がここにいるということは、まだ会っていないということだな」
「……会う? 誰とですか?」
「風成 吹羽だ。お前に元気がないと言ったら、心配して会いに来たんだ」
「……え?」
言葉が鼓膜を震わせ、うずまき管に響き、聴神経から発した電気信号が脳へと到達して理解するよりも早く。
椛は、腹の底が絶対零度の如く凍え冷えるのを感じた。
今、なんと? 吹羽が、妖怪の山に来ている、と――?
それは、本当ならば驚くことではない。何しろ風成 吹羽は天魔が認める
しかし、椛は知っているのだ。
今妖怪の山を訪れることがどれほど危険なことなのかを。
――否、
「どういう……こと、ですか?」
「? 言葉通りの意味だが。今、この山に吹羽が来ている。お前がここにいるということは、まだ会っていないのだろう?」
「――ッ!」
もはや条件反射だった。
椛は加減もせずに地を踏み砕いて加速すると、突き飛ばすような勢いで烏天狗の襟首を掴み引き寄せる。
彼を睨み上げるその形相は、先程までとはどこまでもかけ離れて――、
「なぜ……なぜ連れて来てしまったんですかッ!? こんな危険な場所に、なぜッ!?」
「っ、それも言っただろう? 元気のないお前を心配して――」
「言う必要なんてなかったッ! 彼女が里にいてくれれば、私が悩んでいるだけで良かった! だから……だから私は、吹羽さんに会わないようにしていたのに……っ!」
――八つ当たりなのは分かっていた。
この烏天狗は、吹羽と天狗の間にある問題について恐らくは何も知らず、椛の元気がないと伝えたのもきっと悪意あってのことではない。
吹羽をここに連れて来たことに関して、彼に文句を叩き付けるのは筋違いにもほどがある。
でも、それでも、椛はそんな
“悪気はなかった”なんて在り来たりな弁明で許せるほど、椛は馬鹿ではないし優しくもない。
元気がなかったことだって、吹羽が人里にいてくれるならば“それだけ”で済んでいたことなのだ。
そう――椛が悩み苦しむだけで済んでいたのだ。
それなのに、この天狗は――。
「(……ちょっと、待って……)」
――ふと、そこまで想いを吐き出してから、椛はあることに思い当たった。
たった今、吹羽はこの山を訪れている。椛が居ると踏んで、恐らくは彼女の家の方へと向かっているのだろう。
そして、彼女を連れて来たのは、どう考えてもこの烏天狗の筈で――……
「……一つだけ、答えて……下さい」
「なんだ」
「あの人は……吹羽さんは、今どこに……?」
「む? だからこの山だと――」
「そんなことを聞いてるんじゃありませんッ!!」
至近距離での激昂に体を震わせる彼を気にもせず、椛は犬牙を剥き出しにして睨み上げた。
「吹羽さんを連れて来たのはあなたでしょうッ!? ならなぜここにいないんですか! 今彼女は、
思い過ごしであってほしい――そう願う椛の心は、爆発したかのような憤怒と激昂となって溢れ出る。
ただ、とてつもなく嫌な予感がしていた。普段は予感などという信憑性に欠けるモノなど信じない椛だが、それでは片付けられないドス黒い霧のようなものが心にかかっていたのだ。
それが焦燥を掻き立て、溢れ出る不安に歯止めも掛けられずに目の前の天狗へと叩き付ける。
恐々としたその口から放たれる言葉は、果たして“杞憂”か、それとも“絶望”か――、
「吹羽は今、文と一緒にいるぞ」
――空気を、爆ぜさせて。
地を踏み砕き、有らん限りの脚力で駆け出した椛に、周囲の大気は追い付けずに破裂した。
それでも目で追うことだけはできた烏天狗に声をかけられるも、それは一瞬で過ぎ去る景色とともに掻き消え、椛自身も脇目も振らずに疾駆する。
何か他の事を考えている余裕などなかった。それは例え、遠方から飛来した矢に貫かれようと脚の健をズタズタに引き裂かれようと、止まることは許されないという強迫観念にも似て、椛の華奢な脚をひたすらに回していたのだ。
焦りがあった。迷いがあった。だが一先ずそれは思考の隅の隅の隅へと追いやって、ひたすらに駆けなければならない。
でなければ――、
「(吹羽さんを……文さんに近付けちゃいけないッ!!)」
きっと欠け替えのない物を失うことになる――そう、冷えていく心のどこかで、分かっていたから。
◇
薄暗い森の中で、吹羽は必死に足を動かしていた。
聞こえてくるのは虫の声、鳥の羽搏き、搔き分けられた草の擦れる音。そしてどくどくと脈打つ自分の鼓動と、荒い息遣い。
文を追い掛け森に入って少し経つ。未だ彼女を見つけられないことに吹羽はじくじくとした焦燥を感じていた。
吹羽は文の傷に触れた。それはきっと時間が経つほどに開いていき、血が滲み、最後は裂傷として痕になる。それを絶対にさせまいと、吹羽は暗い森の中をひた走っているのだ。
だがしかし、見据える先は黒光りする木々の肌ばかりで、文の背中は見えてこない。
方角は合っている筈なのだ。吹羽の眼は人よりもよく見える、駆け出した瞬間の文の姿と方向はしっかりと見えていた。
一体どれだけ奥に駆けて行ったのか……考え始めると、あらゆる思いが溢れてきてどんどん胸が苦しくなっていく。
だって、傷付けたのは吹羽自身なのだ。
気が付かずに傷付けて、文は我慢出来ずに走り出した。その心の内で、元凶たる吹羽に何を思っているのか、想像するのが恐ろしいのだ。
――友達に拒絶されたくない。
そう願う吹羽だからこそ、
その重圧が、吹羽の翡翠色の瞳にじわりと僅かな露を滲ませていた。
そうして必死に駆けていると、薄暗かった森が唐突に明るくなり、吹羽はその眩しさに咄嗟に目を瞑った。
……否、まるで植生遷移のギャップ空間のような、木々の開けた日の当たる場所に出たのだ。
次第に目が明順応していくのを感じて、吹羽はゆっくりと目を開ける。変わらず紅葉に埋め尽くされすぎて薄暗い森の中ではあったが、丸く開いたこの空き地には日が差していてそれなりに明るい。それに少しだけ安心感を覚え、吹羽は慌てて周囲を見回した。
すると――向こう側。
ちょうど日の当たらぬ、木々の影になった部分に、蹲る文の背中を見た。
「……っ」
名を呼ぶことも忘れ、或いは声を出すことすらも忘却して、吹羽は反射的に駆け出した。
――見つけた。見つけたっ。見つけた!
焼け付くような焦燥に駆られていた心は、まるでその歓喜を表すかのようにただそれだけを思考の中で反響させる。
声をかけるより。
同情するより。
側に寄り添って一言謝ることが何より大切だということを、吹羽は直感的に分かっていた。
あの夜早苗はそうしてくれた。ただ側にいてくれた。だから今度はそれを、吹羽が文にしてあげる番なのだ。
吹羽が出来る償いとは、それしかないのだから。
――しかし、飛び込んできた光景は、吹羽には全く理解し難いものだった。
「ぅ……おえ゛え゛え゛……!」
びちゃびちゃ、ばちゃ。
聞こえてきたのは嗚咽でもなく、すすり泣きでもなく、ただただ不釣り合いな、何か大量の固形物を含んだ液体が濁流のように地面を打ち付ける音。
目の前で震える文の背中は、悲しみや怒りを感じさせるものではなく、しかし圧倒的な不快感を文字通り
――なんで? いったい何が、どうなっている?
文は吹羽の言葉に傷付いて、悲しくなったからここにきたんじゃなかったのか?
想像とは全く掛け離れた目の前の光景に、吹羽は完全に思考停止していた。
背を向けて蹲る文がばちゃりと吐瀉物を吐き出す度、頭の中で疑問がぐるぐると加速して眩暈を覚えた。頭痛がした。お腹の底が冷えていった。
何故だか、嬉しくない。
吹羽が思っていたように文が傷付いて泣いていた訳ではなかったのに、吹羽の心はそれに全く歓喜を感じていなかったのだ。
――否。
目の前で不快感を吐き出す文の姿が、全く理解できないが故の、嫌悪感。
得体が知れないからこその身の竦むような怖気を、文の姿からぞわぞわと感じるから、自分の心はこんなにも冷え切っているのだ――と。
「――……ぁ、あや……さん……?」
「ぅ……っ……あぁ、
文の言葉が、どうしてかねっとりと耳に残る。その不快感に怯え、吹羽はびくりと体を震わせて後ずさった。
さっきまでと雰囲気が全然違う。駆けている途中で別人に入れ替わったと言われる方がまだ納得できる。
いつも明るく楽しそうに笑っていた文の姿はそこになく、ただただ得体の知れない感情を内に滾らせて佇む知らない“誰か”が、目の前にいた。
「あぁ〜あ、もう少し
「あの、文さ――」
「さっきの話、続きを聞かせてあげるわ」
まるで「黙っていろ」とでも言うかのように吹羽の言葉を断ち切った文は、すくと立ち上がるとゆっくり振り返る。
――その、赤い瞳は。
濁ったように鈍く光って、身体の芯まで凍えるような、絶対零度の色をしていた。
薄く細め、歪められ、
「……負けたわよ、確かにね。でも一つだけ、話の中で言ってないことがある」
吹羽の全てを凍てつかせる視線と、普段とはあまりにも掛け離れた能面のような表情。そして、まるで鞘を払った刀のような、冷ややかで平坦な口調。
今の文から感じる全ての感覚が、ある一点――“恐怖”となって吹羽に襲い来ていた。
そうして吹羽は、気が付いた。
気が付いてしまった。
目の前でゆらりと佇む文の、得体の知れない感情と、その内に滾り燻る灼熱。
吹羽を見つめる瞳の、絶対零度の如き冷たさが一体何故のものなのか。
暗く光る文の赤い瞳に燻るそれは、言葉にするなら、そう。
――暗く静かで、真黒な憎悪。
「あの戦……百鬼侵撃の乱で戦ったのは、鬼と天狗ともう一つ……」
知りたくなかった。
聴きたくなかった。
吹羽は文の紡ぐ言葉がまるで呪詛のように身体に纏わりついてくるような気がして、一気に血の気が引いていく。
相変わらず吐き気のするような疑問が身体の内で渦を巻く中、吹羽は声も出せずに体を震わせた。
だってこんな暗い感情を、吹羽はぶつけられたことがない。これほどまでに黒く淀んだ深淵のような感情が人に向けられることがあるだなんて、知りさえもしなかったのだ。
立っているのが精一杯だった。震える脚は後ずさりすることさえ拒んでいた。
それでも文は、何の躊躇いも見せずに言葉を紡ぐ。
まるで苛烈な非難を浴びせるように。
「――人間。あんたの家よ、風成 吹羽」
端正な顔がぐしゃりと歪んで、それが怒っているようにも悲しんでいるようにも見えて。
「天魔様――父様は、
そう。文は、吹羽のことを、心の底から憎んでいるのだ――と。
その受け止め切れない事実は、容赦なく吹羽に襲いかかった。
信じられない。信じたくない。
だって吹羽の知る文は、いつも笑顔で明るくて、飄々としたところは時に反感を買いもしていたけれど、その軽やかな雰囲気を決して吹羽は嫌いではなかった。なによりそんな彼女を友人だと、信じて疑わなかったのに。
それが、こんな……殺意に満ちた瞳で、射抜かれたら。
「な、なんで……文さん、あんなに、笑ってたじゃないですか。ずっと、楽しそうだったじゃないですか……!」
「……笑ってた? 楽しそうだった? ……私が?」
震える唇から溢れた言葉に、文はぱっと能面を被り直すと、心底不思議そうに首を傾げた。
数瞬の間をおいて、文の口から滴るように漏れ出たのは、
「くっ……ふふふふ……っ、あはははははははッ!!」
――心底愉快といった具合の、喜悦すら感じさせる高笑いだった。
「ぁ……あや、さん……」
「あはっ、あははははッ! は、あふっ……っ、それってぇ――
――ふわり、と。
唐突に文の顔に浮き出したそれは、吹羽の知るいつもの笑顔。優しげで楽しげで、吹羽が“これが自分の友達だ”と信じて疑わなかった微笑みだった。
まるで本当に仮面を付け替えたかのように変異した文の雰囲気に、吹羽はむしろ底冷えするような恐怖を覚えた。
蒼白へと色を変えてゆく吹羽の表情に気を良くしたのか、文は誰もが見惚れるような笑顔で言う。
「これは傑作ですね。まさかここまで馬鹿だとは思ってもみませんでしたよ。さぞ……さぞ幸せな人生を歩んできたんでしょうねぇ!?」
「ど、どういう――……」
「だって、
「っ、〜〜ッ」
――いやだ。
いやだいやだいやだいやだ。
その顔で、その声で、その口調で、そんな言葉なんて聴きたくないッ! そんな視線を向けて欲しくないッ!
さっきまでの
たが、今の文は吹羽の知る、友達だと信じて疑わなかった表情。声。口調。雰囲気。
――そんな彼女に、明確な言葉で拒絶されるのが、吹羽は胸が張り裂けそうなほどに辛かった。
だって、それじゃあ、吹羽はあんなに仲の良かった文に裏切られたということで。
文はずっと、笑顔の奥で嫌悪と殺意を抱いていたということ、で。
頭の中でぐるぐると、思考回路をぐちゃぐちゃに蹂躙しながら渦を巻いて塵を吹く文の声に、吹羽は堪らずに耳を塞いだ。
いやだ、聞きたくない。こんなの夢だ。現実なんかじゃない。
だって文は優しくて、陽気な人で、こんなに酷い言葉は口が裂けたって言わないはずなんだ。
――ただそれだけが言葉になって浮かび上がる。それ以外は砕け散ったように何も考えられない。
しかし、そんな幻想は存在することも許されず――、
「ッ!」
刹那、吹羽はお腹に強い衝撃を受けて吹き飛ばされた。
鈍器で腹部を殴られたたような鈍く響く衝撃。塞いでいた手は当然耳を離れ、地面を打って転がる身体と共に投げ出される。
――襲い来たのは、重く固められた風の弾丸だった。
「ッ、かふ……っ」
鳩尾にまで響く衝撃が強い吐き気を催し、吹羽は外に出ようと溢れる“中身”を必死で堪える。
浮き出した涙にぼやける視界で見上げると、文は不気味に頬を歪めながら、怨嗟の滴るような瞳で吹羽を見つめていた。
「ダメですよぉ吹羽さん。耳を塞いじゃ、目を瞑っちゃ」
ゆっくりとした動きで、文が近付いてくる。もしくは痛みに耐えるのに脳が機能しすぎて、感覚が緩慢になっているのかもしれない。
その言葉の間隙が、とても長くて焦れったくて、まるで今から振り下ろされる錆びたノコギリの鈍刃を、ゆっくりと見せびらかされているようで。
遂に吹羽の目の前に辿り着いた文は、立ち上がれずにいる吹羽の瞳を覗き込むようにしゃがむと、息のかかりそうなほど近くで――酷く艶やかに、嗤った。
「目を逸らすことは許しません。声を拒むことは許しません。思考を止めることも蹲ることも抵抗することも許しません。私があなたに許すのは――……」
嗤って、哂って、嘲笑い溺れて。
「絶望に狂い嬲られ、泣き叫びながら死に果てることだけです」
――ぱきり。
何処かでそんな音がしたのは、果たして気の所為だったのか、どうか。
文に。意味がよく伝わるよう、聞き漏らさないよう、そして深く深く心に刻み付けるためにわざわざ口調を戻したのであろう彼女に、吹羽は何か紡ぐべき言葉を見つけられなかった。
覗き込んでくる彼女の瞳は表面こそ陽に照らされて輝いているものの、その奥に覗く赤色は血のように暗く淀んで、こちらの心をも侵し入るかのような闇だけがあった。
そこに吹羽は、文の本気を悟る。
本当に今までのことは全て演技で、本当の意味で仮面を被ったまま舞踏していただけだったのだ、と。
しかし、頭は理解しても心が付いていかない。
その証拠に、ほら。
吹羽の口は無意識のうちにゆっくりと開き、もはや思ってもみないことを――頭では分かりきってしまったことを、問いかけていた。
「ずっと……ウソ、吐いてたんですか?」
「はい。ぜんぶぜぇ〜ぶウソです」
「ボクとお話をしに来たのは……」
「情報収集ですよ。相手を知らねば嬲ることもできませんからね」
「っ、じゃあ、頻繁に会いに来てたのも……」
「もちろん情報が欲しかったからです。そりゃあ気分の悪いものでしたけどね。顔に出さないようにするのに苦労しました」
「あの日、花札をしたのは……」
「警戒を解くためです。本当はあなたと花札なんて脅されてもしたくありませんでした。ずっと吐き気堪えてたんですよ?」
「……さっき、手を引いてくれたのは」
「道を外れられたら困るでしょう? まぁ私が耐えられなくてここに来たわけですが。蠱毒の壺を触るよりよほど不快でしたよ、あなたの手」
「――……じゃあ、文さんは、ずっとボクのこと……」
「はい、大っ嫌いです♪ 生きてることが許せないくらい」
「っ、……」
「殺したくてウズウズしてたんですよ……気付いてましたか? あなたが魔理沙さんと弾幕ごっこに興じている最中、
「ぐぅッ!」
――全部。
全部全部全部。
あの笑顔もあの優しさもあの明るさも、全部全てが何もかも。
嘘だったと。演技だったと。本当はすぐにでも殺したくて仕方がなかった――と。
真実を叩きつけられ、そして理解したその吹羽の表情が、どれほど絶望に彩られていたことか。
その表情に蕩けそうなほど恍惚とした笑みを浮かべた文はふらりと立ち上がると、揺らめくように片手を空へ掲げた。
「ああ――……イイですよ、吹羽さん。その表情、すっごくカワイイです」
その言葉が、その呪詛が、刃のような風となって上空に凝縮していくのが見える。
その風を操る様は、皮肉にも風紋と似ているな――なんて場違いなことを考えて。
吹羽は、ふと思った。
死にたくない――と。
「それでは吹羽さん、全身で楽しんでくださいね? 自分が死にゆく……その感覚をッ」
打ち下ろされた刃の嵐が、一瞬で吹羽の視界を斬り刻んだ。
今話のことわざ
なし