「〜〜っ、出来ましたっ!」
夜の帳が下りた人間の里。
月明かりが照らす風流なある庭に、歓喜の声が一つ、響き渡る。
その声の主は、庭を眺められるように開け放たれた屋敷の一室にて巻物を高く掲げて、満面の笑みをたたえていた。
――阿求。
彼女はたった今、ある書物を記し終えたのだった。
「はぁあぁぁ大変でした……何せ神様ですからね、背景が壮大な分なにから記せばいいのか配分が難しい……」
掲げていた腕を下ろし、墨痕鮮やかに――自分で思うのもアレだが――書き連ねられた文字を見て、阿求は嘆息染みた言葉を零す。
彼女の手にある書物は、“幻想郷縁起”だ。
そう、彼女がそれを完成させる事を生業とする、幻想郷唯一最古の歴史書である。
数日前から書き始めていたある人物達の項目が、たった今書き終わったのだ。
苦労した。本当に苦労した。
二人は本物の神様でヤケに緊張したし、一人は言うことがコロコロと脱線するし、ぶっちゃけ聞きたい事を聞き出すのが相当な苦行だったのだ。
そして聞き出せたはいいものの、どう書き記していけばいいかが見当もつかずに数日過ごした。お陰でここ最近は吹羽にも会いに行けていない。
――それが今、遂に、書き終わったのだ。
ああ、この歓喜をどう表せばいいだろう。
我が歴史書に神の存在を刻み付けることができたのももちろん嬉しいが、これで少しは休息が取れると言うものだ。なによりも大仕事を終えた達成感が凄まじい。
幻想郷は、外の世界で忘れ去られた者達が集う楽園。妖怪も神様も確実に存在する世界だが、神がその姿を現す事自体は少ない。何せ“八百万の神”と言うように、幻想郷での神々は大抵万物に
故に、名前だけが知られる神々の方が圧倒的に多い。
故に、今まで明確に神々のことを記すことができないでいた。
幻想郷縁起は唯一の歴史書だ。その存在意義とは言わずもがな、幻想郷で起きたあらゆる事変・出来事・そしてそこに生きる主要な存在を記す事。転生を繰り返してこれを書き重ねて来た
「(やっと……もう一歩です……)」
神は信仰が無ければ存在し得ない。
つまりは、“存在を確認されなければ存在できない者達”を、神と呼ぶ。
神とは“幻想”の最たる存在だ。その神が在わす世界の歴史を記すと銘打った書物に、明確な神の存在を記録出来ていないなんて、本来ならあってはいけない事なのだ。今までが異常だった訳であって、それが解決出来なければ完成なんて程遠い――そう、常々思っていた。
だから、幻想郷に現れた強大な神――八坂 神奈子と洩矢 諏訪子、そして東風谷 早苗という現人神を、嘆くほど苦労してでも書き記すことができたことが、阿求はえも言われぬ心地だった。
出来ればあと数日この余韻に浸っていたい。
――そういえば。
「早苗さん、気になることを言ってましたね……」
思い出すのは、コロコロと話の脱線する妙にハイテンションな現人神の少女。
話を聞くのに最も苦労したのは彼女であり、その脱線した話の中で少し気になることを言っていた。
確か――、
『人里に降りようにも忙しくてちょっと
――白くて、綺麗な髪?
――……欲求不満?
人間の里で白くて綺麗な髪といったら心当たりしかない訳だが、彼女に対して……欲求不満って?
墨汁を落としたように広がる不安に、阿求は僅かに眉を顰める。なんだか違和感があるのは、気の所為だろうか。
これまで長い年月を掛けて様々な存在を見てきた阿求は、人を見る目に関しては確固たる自信を持っている。早苗は確かに他に類を見ない扱いにくさをしていたが、決して悪意を持った人物ではなかった。
その彼女に感じる違和感。
もし……もし早苗が彼女にまた出会って、その
「ま、まぁ……大丈夫、です……よね?」
そう声に出して、言い聞かせる。
うん、きっと大丈夫。早苗だって外来人だ、常識くらいは持ってるはず。それに悪人でないのは確かなのだから、何が起こってもそう悲惨なことにはならないはず。
……多分。きっと。
「(こ、今度……それとなく聞いてみようかな……)」
阿求は自分が歪んだ微笑みをしていることを自覚しながら、しかし“今はどうしようもないか”と、頭の中を切り替える。
そう、下手な心配は重荷になるだけなのだ。今は信じて、自分は自分に出来ることをするべきだ。
「さて――」
――お茶でも、飲もうかな。
そう思って、立ち上がった直後のことだった。
庭の方で、かさりと僅かな音が鳴った。
風で揺れた草花の掠れ音ではない。それよりも何か物質に当たって鳴ったような、はっきりとした音。
阿求は反射的に振り返って、その凡その方向を訝しげに凝視する。
すると――、
「あー悪い悪い。警戒させたな、わたしだ」
「……魔理沙さん? と、そっちにいるのは……」
影から姿を現したのは、“普通の魔法使い”こと霧雨 魔理沙。後ろ髪を撫でながら、彼女はどこか申し訳ないといった表情をしていた。
こんな時間にどうした、まさか泥棒か!? ――となるのが普通のところなのだが、阿求は彼女の更に後ろから出てきた人影に、思わず言葉を詰まらせた。
魔理沙の後から出てきたのは、銀色の長い髪――。
「け、慧音さんっ!?」
「……すまない、こんな夜更けに」
聞きたいことがあるんだ。
そう言って、慧音は少しだけ微笑んだ。
◇
星月の照らす真黒な夜。
微かに耳を撫でる音は、さわさわと風に揺れる木々の葉擦れと、鈴虫達の爽やかな声音だけ。
一人の夜はやはりちょっぴり寂しいけれど、それを差し引いても心地良い夜だ。まるでふわふわの綿毛に包まれて、甘美な金木犀の香りを堪能しているかのような。
暗闇がこんなにも甘く優しいものなのなら、このまま包み込まれて溶けてしまってもいいと思えるほど、今宵はとても気持ちのいい夜である。
気持ちのいい夜、なのだけど――、
「(なんで……こんな事になってるんだろう?)」
身体に絡まる優しい温もりに、吹羽はひたすら困惑する。
いつもと違う布団の感触も、柔らかい毛布の感触も、就寝した時と何も変わってはいない。しかしふとした拍子に目覚めれば、なぜ自分はこんな状態になっているのだろうかと吹羽は心底不思議に思った。
ゆっくりと首だけを動かして、静かに上を見上げる。するとそこには、
――安らかな寝息を立てる、早苗の顔があった。
「(〜〜っ! お、おお落ち着いてボク……! ゆっくり、ゆっくり思い出してみて……っ)」
吹羽はどきどきと拍動する鼓動に急かされながら、なぜ早苗に抱き着かれて寝ているのかを思案する。
確か、帰る直前に早苗に駄々を捏ねられて、結局は泊まっていくことになった。常に早苗が側にいたことを除けば、特に困るようなことも発生していない。
せいぜい夕飯を貰った時に“あ〜ん”を誘われたり、お風呂を借りたら早苗も突撃してきたり――……あ結構困ってるかも。
寝る時まで振り回されてなるものかと、確固たる意志で寝る部屋だけは別々にしてもらった――もちろん早苗を傷つけない程度に抗議した――のも覚えているが……。
うん、分からない。少なくとも、自分の意思で一緒の布団に入った訳ではない。
……あれ? というか、そうなると――、
「(こ、これって所謂……よよ、
いや、女の子の布団に女の子が潜り込むことをそう呼ぶのかは分からないが。
吹羽はまさかこの年でそんなえっちぃ出来事に出くわすとは全く思っておらず、心臓は更に鼓動を大きくする。
だってまさか、自分なんかにそんな欲情する人なんて吹羽は想像もできない。
背もちっちゃいし、胸も大きくないし、それにまだ幼女と言って差し支えのない歳だ。そりゃ髪は柔らかい方だと思うが、人里では珍しく真っ白だし、何より自分はそれほど可愛くもないと思う。それこそ霊夢や魔理沙、ここにいる早苗とかの方が全然可愛い。
阿求には「比べる人達がアレなだけで、吹羽さんには余裕で需要があるので心配いりませんよ!」とかなんとか力強い太鼓判を貰ったこともあるが、それでも自分なんてまだまだのはずなのだ。未来的に“ぼんきゅっぼん”になる予定なのだ。
それなのに――。
「んぅ……ふぅ、ちゃん? ねむれないんですかぁ……?」
降ってきた眠そうな声音に、吹羽は少しどきりとして身体を震わせる。
再び見上げて、
「いえ、その……早苗さん、なんでボクのお布団にいるんですかっ。お部屋分けて貰いましたよね?」
「うぅ〜ん……なんだか寝てる時間がもったいない気がしまして……せっかく吹羽ちゃんがウチにとまっているのに……」
「(この人そんな理由で夜這いなんてしたのっ!?)」
いや、もはや驚くまい。早苗がいつでもどこでも突拍子の無いことを仕出かすのは、出会って間もない吹羽でも嫌という程理解させられた。吹羽自身もメンタル的に強固になってきている。
むしろ、早苗に付き纏われる当人なのだから、その強化具合には
とりあえず、夜這いの理由については今は置いておこう。
「で、でもでも、抱きついて寝ることないじゃないですかっ。おお、女の子同士なんですよ!」
「だぁいじょうぶですぅ……私は別に、よこしまな気持ちで潜り込んだわけじゃないので……」
「夜這いしといて邪じゃないですか……」
「ふうちゃんが可愛過ぎるのがわるいんですぅ……」
「……早苗さん、ちょっと寝惚けてます?」
「寝惚けてなんていませんよぉ……?」
既に暗順応し切った目で見てみれば、こちらを見つめる早苗の瞳はどこか虚として、ぼんやりしていたが、目の焦点はしっかりとこちらを捉えているので、意識はちゃんとあるようだ。寝惚け具合もちょっぴりなのだろう。
……ちゃんと意識があるのに、抱きしめる手を解かないとは。
やはり早苗には困りものである。
「もう少しこうしてたいです……」
「ひゃっ……ちょ、近いです早苗さんっ」
「良いじゃないですかぁ。吹羽ちゃん、抱き心地がふんわりしてて気持ちいいんです。それに、もう少しお話もしたいですしぃ」
「そ、それならまた明日にしましょ? 起きれなくなっちゃいますよ」
「朝には強いので大丈夫ですぅ。吹羽ちゃんも起こしてあげますから……ね?」
「うぅ〜……と、取り敢えず自分のお布団に戻りましょう? 早苗さんがお布団にいないのを神奈子さんや諏訪子さんが見たら、きっと心配します、か……ら――」
「………………ね?」
その、こちらを見つめる瞳。
いつかのような、優しい光を灯していたが故に。
するとふと、抱き締める力が強くなる。まるで、まだ言いたいことを言えていないとでも主張するかのような。
吹羽はどうすればいいのか分からなくて、逃げるように早苗から視線を逸らした。
紡がれる言葉は――、
「――ご家族の事を……聞きたかったんです」
「え……?」
「あの時吹羽ちゃんが、寂しそうな目をした理由を知りたいんです。……聞かせてくれませんか?」
「………………」
――あの時。きっと神奈子にペンダントのことを問われた時のことだろう。
早苗の視線はしっかりとこちらを向いていて、拍子にあげた吹羽の視線とまっすぐ絡まった。
……もう、寝惚けたような瞳ではない。その優しげな視線の全てに、早苗の真摯な気持ちが映し出されていた。
「……えっと、その……」
言いたいことではない。吹羽にとって家族の記憶は、そう易々と語れる代物ではない。
誰に見せることもなく自分の中だけで、大切に大切に守り通して温めて、ひっそりと思い描いていたい泡沫の夢。
声に出してしまうことで、それが例え少しでも人と共有してしまうと、自分の宝物が蹴手繰り奪われたような心地がして、とても怖いのだ。
だから吹羽は、元々の知古である霊夢と阿求以外に家族の話をしたことはない。
自分だけの、命より大切な、宝物だから。
でも――。
「……寂しそうな目なんて、してませんよ。あれはただ、当主でもないボクがこのペンダントを持っていることに、罪悪感があっただけで――」
「嘘は、自分が苦しくなるだけですよ。誤魔化すのにも限界はあります。それに吹羽ちゃんが悲しそうな顔をすると、私まで悲しく辛くなるんです。友達とかって、そういうものなんですよ。だから、私には分かります。吹羽ちゃんが悲しいときは、きっと私も、みんなも悲しいんです。だから、無理なんてしないで……」
「早苗、さん……」
ああ、ああ、この感じは、霊夢や阿求の時と同じだ。
心から心配してくれて、寄り添おうとしてくれている温かさ。じわりと心に沁みてくる甘い毒のような、抗い難い気持ちのカケラ。
我慢なんてしないで吐き出してしまえと、耳元で囁かれるようだ。そうすればきっと、少しは楽になるのだから、と。
――こんなの、ずるい。
傷心につけ込んで取り入るみたいに、早苗の気持ちは心に響く。
こんなに温かい気持ちを拒絶するなんて、吹羽にはできる訳ないのに。
それを早苗は、きっと本能的に知っているはずなのに。
傷口に染み入る熱さを堪えるように、吹羽はきゅっと唇を強く結ぶ。その拍子に溢れ出たのは、僅かな涙だった。
そうして一頻り我慢して、振り切って、決心したように閉じていた瞼を開く。
――そうしてゆっくり、語り出す。
「……ボクたちは、四人家族でした」
覚えているのは、家族みんなの笑った表情。
あまり多くのことはまだ思い出せないけれど、それだけは覚えている。きっと家族と過ごした時間の中では、みんなが笑顔になっている時間が大半だったのだろう。だから記憶が壊れてしまった今でさえ、こんなにも思い描ける。
――父の、豪快な笑顔。
「お父さんは、すごい腕利きの刀匠で……ボクが風紋をうまく刻めるようになると、笑って頭を撫でてくれました」
鍛治の技術も、風紋の技術も、お店を継ぐ為に必要なことはみんな父に教わった。
確かに厳格な人で、曲がった事は大嫌いで、自分がダメと決めた事は徹底して否定するような人だったけれど、だからこそ認めてくれた時の笑顔と賞賛はとても澄んでいると思えた。
よく、くしゃくしゃと頭を撫でてくれたゴツゴツの大きな手。
……もう、その感触も思い出せないけれど。
――母の、柔和な笑顔。
「お母さんは、いつだって微笑んでいました。優しくて、明るくて、お料理がすごく上手で、ボクも将来はこんな大人になりたいなって、ずっと……思ってました」
困ったことがあればいの一番に助けてくれるのは母だった。
父に叱られた時はよしよしと慰めてくれたし、転んで怪我をした時は周りの目も気にせず“いたいのいたいの飛んでいけ”を何度もしてくれた。お料理を教えてくれたのも母だった。
その柔らかな抱擁は、いつだって吹羽を安心させてくれた。
……もう、その時の優しい香りだって思い出せないけれど。
――兄の、穏やかな笑顔。
「お兄ちゃんは……本当にボクを大切にしてくれました。いつも遊んでくれたのはお兄ちゃんです。ボクが怪我をしないように、つまらなくならないように、いっぱいいっぱい気に掛けてくれていたんです」
そして、兄。大好きなお兄ちゃん。
する事がなくてつまらなそうにしていれば、外へと連れ出してくれたのはいつだって暖かい兄の手だった。
常に身につけている羽の形をした髪留めも、兄が買ってくれたものだ。
外で遊んだり買い食いをしに行ったり、偶に付き合ってくれる剣の稽古では、結局吹羽は一度だって兄から有効打を取れなかった。ただ、剣はものすごく強いのに不器用なところがあって、精密な彫刻の必要な風紋には四苦八苦していたのが印象深い。
そしてそれでも決して諦めなかった兄の姿を、本当にかっこいいと思う。
陽の下に連れ出してくれた兄の大きな背中。
……もう、その背中を追いかける事も、出来ないけれど。
厳しい父、優しい母、頼れる兄。
きっと吹羽は、どんな人にだって自慢できる幸せな家庭に生まれ育った。
誰になんと言われようと、吹羽は三人のことが大好きで、自慢の家族なのだ。
掛けられる力強い言葉が好きだった。
柔らかな抱擁が好きだった。
引っ張ってくれる手の感触が好きだった。
――自分を大好きでいてくれる家族みんなが、大好きだった。
……でも――。
「みんな……みんな、いなくなっちゃいました……っ! ボクだけ残して、いつのまにかっ。それなのに、ボクは……その理由も覚えていないんですっ。いえ、理由だけじゃありません。本当はもっと、もっともっとたくさんの思い出があったはずなのに、それすらボクは、思い出せないんです……っ! なんで……なんでっ、こんな……ことにぃ……っ!」
「吹羽、ちゃん……」
壊れてしまった記憶の中に、きっと大切な思い出は沢山あった。
霊夢や阿求のお陰で少しずつ取り戻して、何とか一人で暮らせるまでには戻ったけれど、それでも大半の記憶は失ったままだ。
もしかしたら父に何か大切なこと伝えられたかもしれない。
もしかしたら母がその大きな愛情を言葉にしてくれたかもしれない。
もしかしたら兄が、どうしようもなくなって自分を頼ってくれた事もあったのかもしれない。
どれだけ足掻いてもそれらを取り戻せないこの悔しさが、きっと他の誰にも分かるはずはないだろう。否、分かって欲しくなんかない。分かった振りをして、慰めて欲しくなんかない。
同情なんて何の役にも立たないと知っている。背負うだけ無駄な、不必要な重荷でしかないのだ。そんな無価値なものなんて要らない。
無意味な憐れみで、分かった気になられて、“その程度”とこの想いの価値を決めつけられてしまう事が吹羽には絶対に許せない。
早苗の腕の中で吐露するその想いの欠けらが、再び熱い雫となって頬を伝う。
家族のことを自分から話したのはこれが初めてだ。今まで考えないようにしていたあらゆるものが、言葉と共に溢れ出て止まらない。自分はもっと我慢強い人間だとどこかで思っていたが、そんな事は決してなかったのだ。
少しでも漏れ出してしまえば、後は流れ噴き出すのみ。淡く守っていた心の防波堤すら簡単に砕き散らして、他のどんな感情も溺れさせて尚溢れる。
まるで水の入った桶を逆さにしたように、爆発した想いが止められない。
吹羽は涙に歯止めが掛けられず――いや、掛けようとすることすら放棄して、早苗の胸に顔を埋めて泣いた。
寝間着が涙でぐしゃぐしゃになってしまっても、何も言わずに抱き締める力だけ強くしてくれる早苗の優しさが、今はとても嬉しかった。
早苗もきっと、霊夢や阿求と同じだ。
軽々しく“辛かったね”とか、“苦しかったね”とか、無価値な言葉を吐いたりしない。
分かってあげられないと知っているから、強く抱き締めるだけでいてくれる。
ああ、ああ、なんて優しい人なんだろう。
もし本当に姉がいたのなら、早苗のような人だと嬉しいな――なんて、吹羽は涙と想いに霞む思考でぼんやりと思う。
そうして一頻り泣いて、次第に涙が納まってくると、早苗は抱き締める力を少しだけ弱めて、覗き込むように吹羽を見つめてきた。
「ねぇ、吹羽ちゃん。恋人同士がなんでキスをするのかって、考えたことありますか?」
「え……キス、ですか?」
「だって、口と口を触れ合わせるだけなんですよ? わざわざ恋人じゃなくたってできる事じゃないですか。なんでそれを、まるで特別な事みたいに考えてるのかって。思ったことありませんか?」
なんでそんなことを? ――とは、尋ねる気にはなれなかった。何故かは分からない。それを考える前に、早苗は優しい口調のまま言葉を続けた。
「私はこう思ってるんです。きっと口と口のキスは、お互いを感じていたいからするんだって。特別な人を一番近くで、どこまでも深く、寂しくないように……って、そう感じていたいからするんじゃないかって、ね」
そう、吹羽の滑らかな唇を白い指で一撫でして、早苗は何処か愛おしそうな瞳で語る。
月明かりだけが差し込む中でそうして目を細めた彼女は、同性ですら鼓動の波打つ妖艶さを滲ませていた。
「人が最も安心する温度は三十六度程度……人肌くらいの温度だって言われてます。知ってますか? 身体の中で一番温度を感じやすいのって……唇、なんですよ」
――魅せられている。
その仕草に。その美しさに。なによりその優しさに。
月明かりの白い光と薄暗い部屋の中、揺らめくように光る早苗の瞳は幻想的なまでに美しく、まるで吸い込まれるような心地になる。
それは普段なら“ああ、綺麗な瞳だ”と思うだけでありながら、彼女に霊夢や阿求とよく似た安らぎを覚えてしまった吹羽には余計妖艶に映った。
まるで、誘っているようだ――なんて。
早苗は純粋な人だ。だからこそ、語った言葉が真実だと直感的に分かるし、その気持ちがこんなにも心に響く。そしてそれ故に、早苗が
もしも、あなたが寂しいと言うのなら――と。
「――っ。だめ、です……っ」
幾ら寂しくても、縋るようなことだけはしてはいけないと、吹羽は無理矢理視線を断ち切った。
もしそのまま甘えてしまったら、きっと自分は弱くなる。心配をかけてはいけないと言い聞かせてきた心が、瞬く間に罅割れてしまう。
ずっと前に決めたこと。
この心からの感謝を表すために、どんな時にも強くあろう。
支えてくれた霊夢と阿求にそうして伝える事だけが、今の吹羽にとってはとても大切な事なのだ。
――だから、早苗の優しさに溺れてはいけない。その温もりに甘えてはいけない。
きっと楽な道だろう。早苗に縋って、悲愴心のままに泣き散らし、寂しくなればその温もりを求める。何を考えることもなく堕落し切ることは、きっとそれはそれは甘美な快楽であることだろう。
――でも、それでは霊夢や阿求や、帰ってきた家族みんなに顔向けが出来ない。
確かに、みんながいなくなってしまったことは絶望するほどに悲しい。でもそこで立ち止まって、蹲って、泣き噦るだけで何もしない自分を見たら、霊夢はなんて言うだろう。阿求はなんて言うだろう。両親はどう思うだろう。兄はどんな目で見るだろう。
きっとそれは“理想に縋った虚構”にはならない。みんなが大好きな吹羽にとっては耐えられないくらいに辛い現実であるはず。
――そんなのは、絶対に嫌だ。
「ぐすっ……早苗、さん。ありがとうございます。でも、ボクは弱くなる訳にはいかないんです。早苗さんはすごくあったかいけれど……ボクにはちょっと、
「そう、ですか……」
何処か気落ちしたと言うか、僅かな諦観を感じさせる言葉が落ちてくる。
――いや、気落ちしたのは本当の事なのだろう。あのまま早苗の誘惑に乗っていたら、吹羽はきっとどこまでも依存してしまっていた。吹羽を求めて止まない早苗が、そうならなかった事を残念に思うのは仕方ない事なのかも知れない。
……まぁ、これからはもう少し相手をしてあげてもいいかなとは思っている。早苗が本当に想ってくれているという事は、今宵の語らいでよく理解出来たのだから。
「――うん。吹羽ちゃんの気持ち、尊重しますよ。私はただ、吹羽ちゃんに笑っていて欲しいだけなんですから。寂しくて凍えるようなら、私がどうにかできればと……そう思っていたんですけど……」
「充分です」
目の端に浮かんだままの涙を拭い、ふるふると緩く頭を振る。
改め、見上げて、
「早苗さんの気持ち、沁みちゃうくらいに伝わりましたから。……ふふ、ちょっと見直したんですよ?」
「えぇ……? 吹羽ちゃん、私のことどう思ってたんですか?」
「それはヒミツですっ」
不満げに唇を尖らせる早苗に、吹羽は屈託のない笑みで応える。
そう、吹羽は早苗を見直したのだ。
今まで、出会えばなんとなく気怠い気持ちが湧き上がってきていた彼女の姿に、今はこれっぽっちの悪感情だって生まれる事はなくて。
こうして腕の中に抱かれていることが、心地良いとすら思えてしまって。
「だからその代わりですけど……き、今日くらいは、その……ボクをもふもふしても……いいですよ?」
「ッ! ほ、ホントですかっ!? やったぁ吹羽ちゃんのデレ期遂に到来ですぅ!」
「で、デレ期ってなんですかっ! もうっ」
――“嫌よ嫌よも好きのうち”という諺がある。
本当はくすぐったくてあまりして欲しくはないのだが……まぁ、こうして早苗に遊ばれるのも、案外悪いことでもないのかも。
吹羽はその暖かさに身を任せながら、ふとそんな事に思い至るのだった。
◇
「――なるほどね、そういう事だったか」
襖を挟んで、その向こう。
壁に背を預けてポツリ呟くのは、瞑目ながら僅かに微笑む守矢の神、八坂 神奈子。
その脳裏では、先程
「両親も兄も、記憶すらあの歳で失くしているとは……」
全く、数奇な人生を送る少女だ。
ペンダントのことを聞き、彼女の家族にも興味を擽られた故にこうして襖の向こう側で会話を聞いていた訳だが、やはりあの時踏み込んで尋ねなかったのは正解だったという事だろう。
家族を失った悲しみなんてものは、勿論理解など出来ないが、人に話すのを躊躇う程度には辛い出来事なのは分かる。
早苗はその純粋さ故に、人の感情の機微というものに比較的聡い。ああして吹羽の心に踏み込んで行ったのは、それだけ彼女が吹羽のことを想っているという事の証明とも言える。……まぁ、それが
「――盗み聞きとは、感心しないねぇ」
「……諏訪子」
掛けられた言葉には、字面ほど叱責の意は感じ取れない。
横目で見下ろした先にいつの間にかいた諏訪子は、やはりいつもの飄々とした微笑みを浮かべていた。
「お前が言うことかい?
「んーん。
「……物は言いよう、だな」
にっこり笑って宣う諏訪子に、神奈子は小さく嘆息した。
相変わらず、ちゃっかりしたところのある神である。
神奈子は、二人の会話中に神力を宿した蛇が部屋に忍び込んだ事に気が付いていた。
それは神奈子のよく知る生物。諏訪子が操る、ミシャグジ様と呼ばれる祟り神の一部である。
きっと諏訪子も、神奈子と同じことを気にしたのだろう。でなければ、わざわざ二人が会話しているところに意識の一部を移したミシャグジ様を送ったりしない。
「わたしは何も責めてないんだから、神奈子も怒っちゃヤだよ?」
「……まぁ、そうだな。お互い様だ」
「えへへ、さっすがぁ」
二人して気になり、二人して盗み聞いていたのだから、今日のところはお互いに不問として。
そう言葉の裏で確かめ合って、二人は並んで壁に背を預ける。
口火を切ったのは、諏訪子の方だった。
「……それで、
「……さっすが、諏訪子だな」
諏訪子の言葉を借りてそう返し、神奈子はその返答とばかりに溜め息を吐く。
本当に、まさか気が付いていたなんて――と。
「……あの子の家族のことを聞けば、あの時感じた
勿論、違和感を感じた程度で、吹羽と神奈子に何か接点があるとは決め付けられない。完全に“感覚”の話なのだ。
だが、しかし――、
「確かに、あの子に何かを感じたんだがな……」
「それって、ペンダントの神力とはまた別に?」
「ああ。なんだか、他人のような気がしないんだ。どこかで会ってるわけもないだろうが……」
神奈子は外の世界から来た。そして吹羽は幻想郷で生まれ育った。出会ったことなどある訳がないし、接点だって存在しないはず。
しかし、初めて彼女を見たときに感じた感覚は、それだけで片付けてはいけないようなことのように感じて――。
訝しげに目を細める神奈子に、諏訪子はしかし、飄々とおちょくるように言うのだった。
「他人のような気がしないって……何から何まで違うじゃない。あんたは吹羽ほど可愛らしくもないしねっ。嫉妬は醜いよ?」
想像もしていなかった話題の転換に、神奈子は反射的に、
「なっ……そんなこと言ってないだろう!? 私はただ直感的にそう思っただけで――」
「まぁわたし達くらいの歳になると若い子の愛らしさを羨むのも分かるけどね? だからって無理矢理接点作ろうとしちゃダメでしょー」
やれやれ、と妙に苛つく仕草で揶揄ってくる諏訪子。
こちらは至極真面目な話をしていたというのに、こういう所が昔から苦手なのだと神奈子は心内で愚痴を放つ。
子供みたいな
本当は怒鳴り散らして訂正したい所なのだが、襖の向こうで二人が安らかに寝ているこの状況、それは絶対にできない。
その抑圧された怒りが、余計に神奈子の中で熱を滾らせた。
と、そんな思考に冷水を被せるように、
「――まっ、何事も考え詰めるなってことだよ、神奈子」
「……はぁ?」
「何でもかんでも気にしてたらその内焼き切れちゃうでしょ。違和感くらいでわざわざ盗み聞きなんて、長い目で見ればあんまりいい傾向じゃあないよ? んじゃ、おやすみー」
「………………」
そう言い残して去っていく諏訪子を前に、神奈子は何も言えずに立ち尽くす。
――そう、こういう所だ、と思った。
根が真面目で、それ故に無理してあれこれと考えを煮詰めやすい神奈子に対して、飄々とまるで遊んでいるかのように振る舞う諏訪子。
一見相性の悪そうな二人が、しかしこうして仲良く暮らしていられるのは、お互いの考え方を以ってお互いを支えているからだ。
真面目過ぎる神奈子に、諏訪子は手を抜く事の大切さを語る。
飄々とする諏訪子に、神奈子は思慮を深める大切さを語る。
正反対であるが故に、不足を補い合うのだ。
神奈子と諏訪子は、例えるならば光と影。相反しながら、しかしお互いがなければ存在し得ない事象。
ふと、神奈子は襖の向こうにいる二人を見透かした。
静かな寝息を立てる二人は、きっと抱き合って寝ているのだろう。
軋む心を必死で保つ吹羽は恐らく心の本当の拠り所を求めている。そして早苗は、今回のことでその拠り所となろうとしたのだろう。早苗もまた、吹羽への想いに嘘偽りはないはずだ。
――吹羽と早苗は、神奈子と諏訪子のような“相反する拠り所”にはなれなかったようだけど。
それでも、いつかどちらもそれを見つけられる日がくれば、それは願ってもないことだと、神奈子はぽつり、そう思うのだった。
◇
――あの日から、ずっと引っかかっていることだった。
何せそれは、自分が教え叩き込まれた掟からは考えられない言葉だったから。あり得ない、と強く強く思ったことだったから。
何より、そうなって欲しくはないと、半ば願うように考えていたのだ。
天狗の掟。その一項より抜粋する。
『妖怪の山への侵入者が発生した場合、哨戒天狗は直ちに急行し当侵入者へと辞去を促すべし。拒まれた場合は即時戦闘へと移行し、侵入者の排除を優先すべし。だだしその侵入者が――』
視線を滑らせながら、ぽつり、
「『“風成”と名乗り、確認が取れたならば、即刻当侵入者を客人として迎えいれること』……やはり、何度見たって同じですよね……」
ぱたん、と開いていた本を閉じ、椛は小さく溜め息を吐く。任務が終わってからずっとこうして本を読み漁っているのだが、“あの日言われた言葉”の意味は今だに分からないままだ。
戦闘を中止してまで客人として受け入れろと掟に記してあるのに、何故天狗が吹羽と戦うことを想定しなければならないのか。
それに、あの言葉――、
『これはお前が入っていい話じゃねぇ。……いや、俺もか』
「……あなたもどうせ入ってはいけない話なら、私に教えるくらいなんてことないでしょうに……」
“天狗が風成と争っても手を出すな”、“入っていい話ではない”。
一体何を危惧しているのかすら、椛には分からない。まず天狗が吹羽と争うに足る理由というものが見つからないのだから、分からないのも当然である。
だからそれを何とかして見つけるために、こうして書庫まで足を運んだのだが……その成果はもうお察しだ。
探しても探しても見えてこない話の核心。
いい加減にイライラしてきた椛は、無意識のうちに愚痴を零していた。
そも椛が入ってはいけないならば、逆に
「……そういえば、“あの時”がどうのとも言っていましたね」
あの時。
それがいつのことを指すのかは分からない。だがそれは、椛が再び本を手に取り始めるには十分な理由だった。
今まで探し読み漁っていたのは掟に関する本。それで見つからなかったのならば、視点を変えてみるのも良いことだろう。
あの時――いつの事かは分からずともそれは確実に過去であるはず。そして掟に反してまで考慮せねばならないような事態の核心ともなれば、記録されている可能性も高い。
椛はすぐさま、その千里眼を以って目的の本を探し出す。程無くして手に取った数冊の本は――歴史に関するもの。
「(……違う……違う、違う……どこかに……)」
パラパラと開き流しながら、それでも一字一句見逃さずに語句を探す。膨大な量である文字の森林も、彼女の千里眼の前では大した問題ではなかった。
だが、それでも探索は困難を極める。
歴史に関する本だけでも数十冊に及ぶのだ。天狗一族の歴史とは千年を優に超えるモノである為、これでも何百回と添削を繰り返してやっと落ち着いた冊数である。
その中から、ある特定の単語を探し出すのは並の労力では追い付かない。
椛がこうして探し続けられるのも、ある意味では千里眼という能力に助けられた故とも言えた。
そうして暫く、彼女の周囲に読み終わった歴史書の山が傷から始めた頃。
「……ふぅ、この本もダメですか。もう残りの冊数も少なく――ん?」
ふと、閉じようとした本の一説に目が止まる。
それは、天狗一族の歴史の中でも指折りの大事件を綴った、ある項の文章だった。
――
大昔、突如として侵攻してきた鬼達に、天狗一族が大敗を喫し傘下に降るその決定打となった戦。
数百年前、突如として現れた鬼達は妖怪の山に堂々と正面から侵入。天狗は総力を以って抵抗したが、最終的には当時の天魔を含めた多大な犠牲を出しながらも敢えなく敗北。
天魔を筆頭とした天狗社会から、鬼――ひいては“鬼子母神“と“鬼の四天王“を頂点に据えた、新たな妖怪の山社会がこの時形成されたのだ。
「その時に新しく着いた天魔が、今の鳳摩様でしたね。いや、そんな事より……」
天狗達の脳裏にその名を刻む、歴史的大事件。
その存在感の影に隠れて、“それ”はひっそりと綴られていた。
「当時の天狗が、
そこに記されていたのは、天狗の歴史に深く深く、しかし静かに食い込んだ、人間の――“風成”の小さな痕跡だった。
今話のことわざ
「
口先では嫌がっていても、実は好意がないわけではないということ。主には女性が男性から誘いをかけられた時に用いられる。